朝、目が覚めると、頬が濡れていることが、よくある。胸のうちにある、靄がかかっているようで、そのくせ存在感は確かにある、ただの虚無。
その正体に、もう気がついているくせに、わざとわかってないような振りをして、必死に目を背けている。自分に対しての言い訳ばかり考えて、無理やり正当化しようとして、結局その行為に嫌気が差して、自己嫌悪して。けれど、状況を打開しようともがいているわけでもなく、ただただ、逃げる。決して、前進はせず、全てをなあなあにして、選択を嫌い、あーもーめんどくせーどーでもいーやで済ましてきた。
それは、自分の積み上げてきたモノを無かったことにした、そういう人間らしい生き方だ。
そんな僕も、ようやく決断らしきものを下したのは、ある意味、そのような日々に疲れたから、かもしれない。
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泣きはらした顔を無理やり締め直し、無造作に伸びた髭を剃り、まだ新品同然のスーツに袖を通す。外に出て、朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸う。
「…よし、行くか」
そう呟き、アパートの階段を降りる。ヘルメットを被り、社会人記念に奮発して買ったバイクにまたがった。
宮前司、18歳、社会人一年生。 俺は本日付けで、ゲーム会社に入社する。
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都内某所、ゲーム会社『株式会社イーグルジャンプ』。今のところはまだヒット商品は出ていないが、グラフィックやキャラクターデザイン、そして何よりも丁寧な仕事ぶりにで一定の評価を受けている中堅どころだ。俺がこの会社を選んだのは(こんなことは面接ではもちろん言わなかったけれど)、僕が今までやってきたことの全く真逆のものだったからだ。自らで全くのゼロから創り出す仕事は、今までの僕を否定するのにちょうど良かった。面接では、ちゃんと、しっかり、プラスなことを言ったつもりだ。事前練習を何百回もこなしてきた甲斐があったというものだ。…しかし、我ながらよくあの受け答えで入れたなと思う。もしかして深刻な人員不足なのだろうか。
そうやって思案しているうちに目的地に着いてしまった。駐輪場にバイクを停める。すると、見覚えのある金髪が目の前を横切った。
「おはよう。早いね」
そう言うと、彼女は不機嫌そうにこちらを見ると、
「…あんた誰?」
と聞き返してきた。
「おいおい、なんだよ。覚えてないのか?宮前だよ、隣の席だった。少し話をしただろう?」
そこまで言うと、30秒ほど悩んだあと、
「ああ」
と、どうでもよさそうに呟いた。
彼女の名前は八神コウ。俺と同期になった女の子、いわゆる同僚だ。面接の時、席が隣だったから少し話したことがある。その時は、話すどころか、口を開くのも面倒臭いといった感じだったので、大変印象に残っている。しかし、もし話をしていなかったとしても、席が遠くにあったとしても、彼女は強く印象に残っただろう。
確固たる自分を持ち、他人に迎合せず、自分の世界の中の自分の物差しで物事を測ることができる。
その姿は美しく、それと同時に眩し過ぎた。
面接の時から不機嫌そうな顔つきと態度だったため、もしかしなくても落ちるかもしれないと思っていたが、無事通ったらしい。
「別に。早く目が覚めたから」
「うんうん、そうだよな。今日は入社一年目だし、早く行っておかないと色々面倒だもんな」
「…あんた話聞いてた?」
「何が?」
「…はあ」
八神は大げさにため息を吐くと、すたすた先に行ってしまった。
その姿が、どうにも可愛い思えてしまい、どうしても笑みが零れてしまった。
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新入社員に対しての説明があるから待っているようにと、あらかじめ指定されていた会議室に行くと、典型的な会議室の長机のそばに、やけに美人な先着がいた。
「あら、おはようございます。早いんですね」
と話しかけられた時、ああ、隣のこの子よりなんていい子なんだ!と割と本気で思った。しかし、八神と違い、人の顔と名前を覚えることに割と定評のある僕が、全く覚えていないようなので、面接の時には会っていなかったようだ。
「おはようございます。俺、一番乗りだと思ったのに、八神さんと一緒に着いたし、先着さんがいるなんて思いもしなかったですよ」
そうおどけて言うと、彼女はくすりと笑って、
「そうなんですか。私、実は緊張してあまり眠れなかったんです。人付き合いは好きなんですけど、こういうのって、初めてだし」
「それは大丈夫ですよ。誰だって初めてだろうし。俺も安心しました。話し易そうな方で」
そこで、遅まきながら自己紹介していないことに気付く。
「どうも、宮前司です。年は18になります」
「遠山りんです。年は同じです。よろしくね」
宮前司と言われた時、一瞬顔が訝しんだが、すぐに戻った。これはよくある反応というか、一部の人間だと、熱狂的な反応をされるので若干困っているのだが、それくらいの有名人らしい。むしろ、八神さんの反応の方が珍しい。
すると、遠山さんは、1人だけが会話に入って来ないのに気付く。
「よろしくお願いしますね」
と魅力的な笑顔を向ける。しかし、八神さんは答えない。遠山さんはムッとした表情を浮かべ、
「おはようございます」
と、八神さんの目の前に移動した。
「あ…」
と、若干驚いたようだ。
「お、おはよう」
遠山さんは満足げな顔を浮かべた。
「遠山りんです。よろしくお願いします」
和やかに言い、手を差し出す。
「…どうも。八神コウです」
おずおずと手を握り返した。
「わ。綺麗な手。何かお手入れしてるんですか?」
「い、いや…」
「え、してないんですか?うそ、信じられない!髪だってこんなにサラサラで!」
「え、ええっと、ちょ、あの」
手をまじまじと見られ、髪を触られる彼女。くすぐったそうに身をよじるが、嫌がっているわけではなさそうだ。きっと、慣れていないだけだろう。
「かしましいねえ。いい、実にいい!」
そうやって半ば叫ぶように部屋に入ってきた、ウェーブのかかったロングヘア、ストールを身につけ、眼鏡を掛けた人物を見て、俺は目を剥いた。誰だって、自分の親類が仕事場にいたら驚くだろうけれど。
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「おばさ…」
瞬間、殺気を感じた。どうやら最後まで言わせてくれないらしい。
「言いたいことがあるならどうぞ?宮前くん」
「い、いやあ…どうしよっかな…?」
あんなもの向けられてどうしろと。死ねと言うのか。
「私は葉月しずく。ここではディレクターをやっている。君たちを採用したのも私だ。これから社内を案内するけど、何か質問あるかい?」
「じゃあ、あの…」
と、遠山さんが手をあげる。
「私たちの同期って、この三人だけなんですか?」
「うん、そうだよ」
「でも、それにしては人が少ないような…」
確かに。いくら中堅どころとはいっても、新人がたったの三人とは、幾ら何でも少ない気がする。
「それはね…」
葉月さんはもったいぶるように、
「君たち以外に可愛い子がいなかったから!」
「…」
絶句。
まあそんなところだろうと思ったが。葉月さんが職場に可愛い子を侍らせているのは親族の間でも有名な話だ。しかし、この答えにショックを受けたのか、呆然としているのか、質問した本人は固まってしまっている。
「ああ、もちろん、君たちのことは優秀だとは思っているよ?ただ、それより、自分の欲望がちょーっとだけ勝ってしまっただけなのさ!」
「良いのかよそんなので…」
「良いんだよ、人事ってようは自分勝手にできるってことでしょ?」
絶対間違ってる。口には出さんが。
「まあ、君たちの他にもいるっちゃいるけど、営業とかそこらに、はなちゃん全部がもってちゃったからなあ…。君たちしか私のストライクゾーンはなかったのさ。あ、宮前くんは除外ね。彼コネ入社だから。」
「まじで⁉︎」
「ああ。そんなことでもないと私が男なんて採用するもんか。男なんて」
そう言って、ずれた眼鏡を掛け直す。
「それにしても、君はどっちみち心配だったからさ。どうせなら、目の届くところに置いておくかと思って」
その答えに唖然とした。
そうか。葉月さんにまで迷惑を掛けていたなんて。俺は本当にとんでもないやつだ。そして、気づく。そう言った彼女の声が、優しさに溢れていたことに。
「ほんと、ありがとうございます…」
「何、良いってことさ…。さて、さっき社内を案内すると言ったが、あれはうそだ。実は昨日までエンドレスでデンジャラスな締め切り地獄で、まだだいぶグロッキーだから、片付けるまでもう少しかかるみたいなんだ。だから、片付けが終わるまで少し待っててくれたまえー」
そう言って、あくまで優雅そうに、去っていった。
「…」
残された俺たちに、沈黙が降りてくる。
「えっと、ごめんね?俺だけズルみたいで…」
「いや、それは全然良いんですけど…」
と、遠山さんが言う。八神さんは相変わらずどうでも良さそうだ。
「それより、だいぶ、その、何というか…」
「うん…」
遠山さんに八神さんが同意した。まあ、あの人が、さすがに少し『あれ』なのはわかる。
「すごく濃いよね...。うん、その気持ち、すごくわかるよ。あの人昔からそういう人だから。俺はもう慣れちゃってるけど」
「あの、どう言った関係でいらっしゃるの?」
「あの人がうちの母親の姉なんだ。つまり、俺の叔母なんだけど、俺がおばさんって言うと、ものすごく怒るんだよ。だから葉月さんって呼んでる」
「はい、お待たせー!」
びっくりした。もしかして『おばさん』に反応したのかと思った。
「準備ができたから、社内見学ツアーにご案内だよー!」
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社内見学ツアーの結果は、一言で言えないような有様だった。よくクリエイター系の人は、常に傍に栄養ドリンクを置き、締め切りに追われていると聞く。さすがに、いつもではないが、昨日までのはガチでヤバかったらしい。今まで会った人が、めちゃくちゃハイになっているか泥のように眠っているかのどちらかだったからだ。どれだけ壮絶だったかは、想像に難くない。
「うちはまだ出来て間もないから、どんな小さい仕事でも、今は、コツコツ積み上げていくのが大事なんだ。…だとしても、さすがにあの締め切りはきつかったなあ。どんなに予定を切り詰めても納期ギリギリになってしまって…。さすがに失敗だったなあ」
そう言う葉月さんの顔にも、化粧でうまく隠れてはいるが、疲労が色濃く残っていた。
「ああ、いや、別にブラックってわけじゃないから、安心してくれたまえよ?きちんと給料もあるし、有給もあるし、労災もあるから。極まれに会社に泊まることもあるけど、うちはいたってホワイトだからね?」
慌てたように修正する。
しかし誰もそんな疑いは持たなかったはずだ。なぜなら、ここにいる誰もが満足そうな表情をしていたから。
これが、自分の仕事だと。ここが、自分の居場所だと。それが、自分のやるべきことだと。
『イーグルジャンプ』に誇りと愛情を持っていた。
「ありがとうございました」
社内見学ツアー終え、俺たち3人は葉月さんに頭を下げた。
「いや、良いってことよ。さて、それでは明日からの君たちの仕事だが、君たちのやりたい役職をこの書類に書いて持ってきてくれ。それに応じて、それぞれの役職に就いて貰うから、自分の役割を1日でも早く覚えるように」
そして、「それで、これはビッグニュース何だけど…」と前置きをし、
「近々新しいオリジナル物の企画が通りそうなんだ。そうなったら、もちろん、君たち3人にもチームに参加して貰うから。これは決定事項だからね。じゃ、私はこれから打ち合わせがあるからこの辺で。
明日から頑張ってね」
そう言って、手を振り、去っていった。
「じゃあ、帰りますか」
「ええ、そうね」
「…うん」
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帰り道。たまたま帰る駅が同じだということで、3人で並んで帰ることにした。俺は今日はバイクなので、バイクを引く。
「しかし、ゲーム会社かあ…。 何だか大変そうね」
「そうだね、うまくできるか結構不安だよね。遠山さんは絵とかどう?うまい方?」
「んー、どうだろ。建物の絵とか書くのは割と好きだけど、人を書くのは苦手なの。八神さんは?」
「…キャラクターの絵とかはアニメのを真似して書いてたくらい。それ以外は…」
「そっかあ、俺は絵心、多少はあるつもりだけど、やっぱり厳しいかなあ…。どうせコネ入社だし。もう給料がもらえるなら何でも良いや」
俺がそう言うと、遠山さんは朗らかに、八神さんは呆れたように笑った。
「とすると、2人は美術系の学校?」
「全然。私は普通の共学だよ」
「私は女子校」
「へえ。じゃあ遠山さんモテたでしょ。美人だし。八神さんは…女子校でモテるってあるの?」
「何?口説いてるの?」
「いや、別に、そんな…つもりもなきにしもあらず、みたいな」
「…ふーん。まあどっちでも良いけど、女の子同士で付き合ってる子はいたよ」
「まじで?わかんないものだなあ」
話しているうちに、改札の前に来てしまった。俺はバイクで、二人は違う線なので、ここでお別れとなる。
「じゃあ、また明日」
「うん、じゃあね」
「…」
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また夢を見た。あの頃の夢だ。
何でも手に入った。何でも感じることが出来た。人間として、最高の幸福だった。
つまらなく感じた。冷たく感じた。世界がひどく小さく感じた。
全てを得たのは自分だった。全てを無くしたのも自分だった。
苦しい。辛い。苦しい。辛い。酷い吐き気がする。嫌だ。あの頃の自分に戻りたい。
ーーでも、それが"今"だ。
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目が覚めた。また、泣いていたらしい。
鏡を見る。目の前の俺は、卑しく笑っていた。
ーーまた、逃げるのか。まだ、逃げるのか。
ーー救われない奴め。かわいそうな奴め。
ーー惨めだなあ。
「ーーうるさい」
顔を洗おう。この惨めな顔を洗い流そう。シャワーを浴び、伸びた髭を剃り、少しでも自分をよく見せようと香水なんかも付けたりしよう。晴れた朝日を浴び、バイクで空気を切り、愛しき同期と、素晴らしい上司に会いに行こう。
また、見えない今日を行く。漕ぎ出す。踏み出す。前へ進む。生きる。
生き延びるのだ。