三人が帰ってからという物、空気はお世辞にも良いとは言えない状態だった。それはシャーレイとミラには全くの原因はなく、ひなたの纏う雰囲気からだった。
ひなたが帰ってからという物、彼女は何処か思いつめた雰囲気を出してただ無言でウロウロとし、つい数分前に自分の私物置き場と化した私室へと入って何かゴソゴソとしている。いつものひなたらしくない、落ち着きもなければ異常しかない行動を繰り返していた。
それに対してシャーレイもミラも声をかけたが、その度にひなたは取り繕って無理をした笑顔を浮かべるだけ。力で問いただす事も気が憚られ、二人がどうしようかと迷っている内に彼女は私室へと入った。
それからシャーレイは夕食作りに入り、ミラはひなたが来ないしシャーレイは台所に立つしで一人になり、私室に入ってベッドに腰かけていた。
シャーレイはいきなりひなたがあんな風になり困惑している様子だったが、ミラはひなたとの少しだけ会話した事で何か彼女の身に予期せぬことが起ころうとしているという事を何となくだが察した。これはその会話だけから得たものではなく、もう十年以上戦ってきた彼女の戦う者としての直感とも言えるものから得たものであり、それが外れた事というのはそこまで多くない。
ルナの時もミラは何となくの嫌な予感を感じて彼女と母親の様子を見に行った。それには間に合わなかったが、それでも同じような予感がしている分、ひなたが手遅れな状態になる前に助けたいと思う。だが、今のひなたが口を開いてくれない以上、こちらからは推測するしか出来ない――といっても、大体何が関わったのかは推測することは可能だが。
「…………ヴァルコラキ」
ヴラド・ヴァルコラキ。ミラの母親の敵にして、真祖の一体。ひなたの口ぶりからこの吸血鬼が……いや、真祖が今のひなたの態度に関わっているのだと大いに予想できる。でなければ、今のひなたの様子と先ほどの会話に納得が出来ない。
だが、そうだとしたら妙でもある。何故ヴァルコラキがこんな街に出没しているのか。いや、ヴァルコラキじゃなかったとしても吸血鬼がこんな街中でのうのうと生きている筈がない。ヴァルコラキは真祖の中ではまだ下から数えた方が早い程度の力しか持っておらず、真祖の中でも最強とも言えるブラッドフォードよりも遥かに弱い。だが、それでもミラレベルの人間を圧倒できる程だ。そんな存在、すれ違えばミラだって長年の感覚でこいつは可笑しいと気が付ける。
そうすると懸念されるのが。
「……この街には、私レベルすらいない」
つまり、ヴァルコラキ、もしくは吸血鬼とすれ違っても気が付けない程度のレベルしかない人間しかいない、という事だ。
ミラは気が付いていないが、ミラレベルが居る街、というのは多くはない。数十の街を回ってようやく一人発見できるかという程であり、この街にはミラと同レベルの人間はいない。
故に、気が付けない。この街に入ってきた異物、吸血鬼の一種に。そして、ミラはそんな相手とは一度もすれ違っていない。だから気が付けない。この街にヴァルコラキがいるのか、奴が作った眷属でも存在しているのかが。
「……パパを呼ばないと」
だが、相手はどちらにしろ吸血鬼になる可能性が高い。もうここまで来ると手遅れな気もするが、それでも手を打たないよりは遥かにマシ。ひなたを狙った吸血鬼がシャーレイにも手を出さないとは限らない。何故ひなたを襲ったのかを一瞬疑問に思ったが、ひなたが他の吸血鬼から狙われる理由は一つだけだが心当たりがある。
ひなたがブラッドフォードの眷属だからだ。彼女はブラッドフォードを敵として見て敵視しているが、しかし彼女の中にはブラッドフォードの力がある。ひなたの力を封印するブラッドフォードの力が。それ故にひなたは他の吸血鬼から狙われる可能性が高い。ブラッドフォードに取り入るか、ひなたを人質にしてブラッドフォードを殺すため。つまりは駒として。
これは完全な予想でしかないが、それでも幾ばくかは合っているだろう。そうなると、父を呼ばないときっとどうしようも出来ない。
不死殺しであり、ヴァルコラキを憎む強者を呼ばなければ。
ミラはすぐに手紙を書いた。内容は単純。ヴァルコラキの痕跡を見つけたから来てほしい。それだけだ。これだけで父は来てくれる。
ミラは杖を手にして立ち上がり、手紙に記入漏れがないかをしっかりと確認してから部屋を出てシャーレイに一言だけ告げてから家の外へ出て手紙をポストに出した。早馬で出してもらえるようにそれ用の切手やら印を付けたため、父の元に届くのは大体十日。それから父がここに来るまでは十日。計二十日の待機になってしまう。
これが気のせいであってほしいと、ただひなたが興味本位でそんな事を聞いてきただけだという事を期待している自分がいる。いや、そうであってほしいと先ほどからずっと思っている。ポストに手紙を入れ、父をこの街に迎え入れたとして、ごめん気のせいだったと笑い飛ばせる程度であってほしい。
不安がどうしようも無く募り、思わずポストを右手で殴る。脳のリミッターを外さずに放った拳はポストを破壊することなく、己の拳に赤い跡と火照るような痛みを伴うだけ。
「……お願い、神様」
最後のお願いでいいから。親しい人を、奪わないで。記憶にない母と、その母に未だ取り付かれている父。死んでしまったルナ。そして、新たに出来た親しい二人。
片割れたりとも、失いたくない。だから、願う。これ以上理不尽を自分の周りに振りかけないでくれ、と。
杖を壊れそうな程握り家への帰路につく。何とも言えない気持ちを胸にして帰宅すれば、既にシャーレイがいそいそとカレーをよそった食器を並べていた。どうやら、手紙を書くだけ、そしてそれをポストに届けるだけで予想以上に時間を使っていたらしい。シャーレイはミラが帰ってきた事に気が付くと、少しだけ無理をしたような笑顔を浮かべた。
「あ、ミラちゃん。もうすぐだからひなたちゃんを呼んできてくれないかな」
「う、うん……」
言葉はすぐに出てきてくれた。だが、それはシャーレイの様子に少しだけ気圧されたから。彼女もひなたが何か思い詰めているのを察しており、そのせいでこんな風に無理をしたような笑い方をしているのだろう。隠すのが下手なのか、それとも感化されやすいのかは分からないがあんなにも優しい彼女をこんな表情にさせている元凶はいったいなんなのか。ひなたの気のせいだったり生理で意気消沈しているだけだったりならいいのだが、もしも本当に吸血鬼が関わっているとしたら、この問題にシャーレイを巻き込むことなんてできない。
シャーレイの様子に自分も気が滅入ってくるのを自覚しながら階段を杖を置いて壁の手すりに手をかけて一段一段上っていく。そしてひなたの部屋の前に着くと、そのまま部屋をノックした。勝手に入るには少し度胸が足りなかった。
ひなたはノック後すぐに部屋から出てきた。彼女の表情は今まで見てきた中でトップクラスで暗い。ルナの時程ではないが、十分に何かを思い詰めている様子だった。
「……あぁ、ミラ。なにかな」
「ご、ごはん……」
「……そっか、わかった。先に行っててくれないかな」
淡泊。ひなたの言葉を言い表すのならその一言だった。
暗く、暗く。それ故にいつもは明るく謝罪の一言でも入れて共に来る筈なのに、彼女は端的にミラの言葉を理解した事だけを告げて部屋の中に戻った。
チラッと見えたひなたの私室は、やけに片付いていた。元々ひなたは私物が少ないほうだったとは聞く。彼女もミラと同じように昔は各地を転々としてきたが故に私物はバッグ一つに収まる程度でしかない。服もだ。
今のひなたの私室は、そのバッグに私物を全て詰めたかのように何も無かった。
が、ミラはひなたの私室に入ったことはない。だから、あれが普通なのだろうと割り切って壁に手を当ててバランスを取りながら歩き、階段を降りて杖を回収すると居間へと戻った。
居間では、もう後は飲み物を中心に置けば配膳は完了する、という所まで来ていた。シャーレイはミラに気が付くと、ひなたが居ない事を一瞬疑問に思ったようだが、何も言わなかった。その様子に何か気の利いた事でも話せばよかったと思うが、そんな言葉は頭の中に出てこない。口下手という物はこんな所でまで災いしてしまう。唇を噛んでその場で俯くしか今のミラには出来なかった。
数分経ち、シャーレイが完全に配膳を終えた。
「座っておこ?」
「……そう、だね」
シャーレイの取り繕った言葉に頷く。そして湯気を立てる食事を前にして待つこと数分。ひなたが階段を降りてくる音が聞こえた。そしてひなたがようやく居間に姿を現す。
「あ、ひなたちゃ……ん……?」
その様子を見てシャーレイが言葉を詰まらせる。ミラもその声に反応してひなたの姿を見て、息を飲んだ。
今のひなたは、何時もの部屋着ではなかった。戦闘服でもなく、ローブを羽織っていた。最近は羽織る事の方が少なかった、己の体を隠すローブ。そして手には恐らく鞄か何かを持っており、顔は俯かせて表情を伺えない。それだけで今のひなたが異常だという事がハッキリと分かった。
「――ごめん。ボク、今日でここ、出てくから」
ひなたは小さな声でそう告げ、居間に入ることなく玄関へと足を向けた。
ここを出ていく。その言葉に呆然とするシャーレイとミラ。だが、居間への入り口から姿を消した所でシャーレイの方が先に意識を取り戻し、立ち上がりひなたを追う。ミラも杖を片方だけ持って最低限のバランスを取ってシャーレイの後を追う。
「ま、待ってよ! 出ていくって……一体なんで!?」
シャーレイが今まで見たこともない表情で叫ぶ。必死さと辛さと驚きと悲しみと。様々な感情を胸の内に秘めた表情だと言うのはすぐに分かった。ひなたはシャーレイに対して振り向くことはしなかった。
代わりに、顔を見せずに小さく、小さく呟いた。
「…………結婚、するんだよ」
「……へ?」
ひなたの言葉にシャーレイが声を漏らした。ミラもその言葉に驚いた。
意味が分からない。まさか交際していた男性がいたなんてのは考えられない。一日二十四時間を確実にシャーレイかミラの二人と暮らしてきたひなたに男の影なんて見えなかった。それに、ひなたがシャーレイに対して特別な想いを抱いているのはミラから見て明らかだった。
だと言うのに、結婚。何がどうしてこうなったのか、意味が分からなかった。だが、何かが脳裏を過る。
「…………ど、ういう事?」
「そのままの意味だよ」
「あ、相手は!?」
「この間会ったでしょ。ワラキアって男」
「なんで!! ひなたちゃん……あんな男に近寄るなって!!」
「……」
「答えてよ!!」
その言葉にひなたは答えなかった。だが、代わりの答えが出てきた。
魔弾。振り向きざまに放たれた魔弾がシャーレイの顔の真横を通って後ろの壁に当たり傷を付ける。それにシャーレイは一歩、二歩と退いていき、そのまま尻餅を付く。
信じられない、という顔だ。ミラも同じような顔をしている。ひなたの表情は見ることは叶わず、シャーレイは酷く傷ついたような表情をしている。
「……初対面の時言ったよね。君に付き合う道理は無いって」
「そ、そんな……」
「だから、もう付き合わない。この家はあげる。お金もあげる。だから――」
そして、振り返る。その時、初めてひなたの表情を伺う事が出来た。
――泣いていた。顔を歪めて、悲しそうに。これが、一生の別れだと言わんばかりに、泣いていた。起爆銃をその場に捨て、魔弾と煙草を入れたポーチすらその場に置いて、そして最後にシャーレイに見えるように魔弾を一つだけ砕く。
レジストの魔弾。それを砕き、ひなたはドアノブに手をかける。
「――さようなら。大好きだよ、シャーレイ」
そして、外へと飛び出した。
シャーレイは追わなかった。追えなかった。茫然自失と玄関を見つめるだけ。
だから、代わりにミラが動いた。ひなたを追うために。
杖をつきながら全力で移動し、そしてドアノブを下げて力任せにドアを開く。
「ヒナタ!!」
叫ぶ。だが、既にひなたの後姿は米粒程度の大きさになっており、曲がり角を曲がったことによって完全に消えた。
もう、追うことは出来ないだろう。機動力を無くしたミラでは、地の利を得ているひなたを追い捕まえるなんて出来ない。
「…………くそっ!!」
行き場のない怒りを杖を地面に叩きつける事でぶつける。
きっと、結婚というのは嘘ではない――だが、手段だ。
恐らく、ひなたは吸血鬼か真祖にとっくに目をつけられていた。先ほどひなたが口に出したワラキア、という男の事だろう。その名前に聞き覚えはないが、恐らくそうだ。
ミラはそれに気づけず、何かしらのリミットを、今日迎えた。そして、ひなたは出て行った。相手の作戦にまんまとひっかけられて。
もう、ひなたを探す手立てはない。相手は吸血鬼、もしくは真祖。隠れるのだけは上手い。
「…………どうして、いつもっ!!」
気付くのが、こんなに遅い。
歯を食いしばり、前髪を握りつぶす。
ひなたの起こしたたった数十秒の出来事は、二人の精神を傷つけるには、事足りていた。ミラを照らす月明かりが、何かの笑い声を届けているような気がして、ミラに無力感を叩きつける。それを払うことなんて、出来なかった。
ひなた、離脱
この話はひなたの物語です。それは、ひなたが主人公として活躍するのではなく、彼女が物語の中心となる、という事
そして、残された二人は……