出来損ないの最高傑作ーNT   作:楓@ハガル

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伏せ字が多数ありますが、現時点では出せない内容です。また、あまりPSO2らしい内容ではありません。併せて、ご了承下さい。


幕間三 内なる誰か

* * *

 

 静かな、草原。太陽は姿を隠し、辺りを支配するのは、満月の光。虫の声さえ、聞こえない。

 

 人が、倒れている。若い男性。精悍な顔付きと、常人離れした、逞しい体。

 

 人が、立っている。若い女性。妖艶な顔付きと、人間離れした、艶かしい体。

 

 ――……おれを、**か?

 

男性に問われ、女性は静かに、首を横に振った。

 

 ――……そなたに**れるなら、本望だ。一思いに、**てくれ。

 

男性の胸には、刃物で貫かれたような傷があった。とめどなく噴き出す鮮血が、彼の命が、もう長くはない事を、物語る。

 

 ――……しかし、叶うならば、そなたの舞を、もう一度、見たかった。

 

男性は、そう言って、微笑んだ。

 

 風景が、乱れた。その乱れが収まると、女性の目の前には、青く揺れる、炎。

 

 ――共に、舞うか?

 

女性が問うと、風もないのに、炎が、一際大きく揺れた。

 

 ――ふふ、助平め。(たこ)うつくぞ?

 

潤んだ赤い瞳が、月明かりを受け、妖しく輝く。蠱惑的な笑みを浮かべ、女性は衣服を全て脱ぎ捨て、産まれたままの姿を晒した。広げられた扇子は、染み一つない、純白。

 

 くるり、くるり。女性は、舞う。静寂と、夜の帳の中で。真紅と黄金が、息を呑む程に、この世の物と思えぬ程に、美しく、尾を引く。

 

 くるり、くるり。青い炎も、舞う。女性の、白磁を思わせる肌を、青く照らしながら。戯れるように、愛撫するように。

 

 青い炎は、時が経つにつれ、薄く、小さくなる。ちら、と見やり、女性は、瞳を閉じた。それでも、舞は続く。所作は、翳る事なく。むしろ、より激しさを増して。青い炎も、それに付き従う。例え、薄く、小さくなろうとも。

 

 舞は、いよいよ佳境を迎えた。女性の顔は上気し、悩ましい吐息が、幾度も口から漏れ出る。朱色に染まった肌を伝う汗が、ぽたり、ぽたりと、足元を濡らす。金色が、鋭い弧を描く。

 共にある青い炎は、目に見えて、動きが鈍くなった。それでも、懸命に追い縋る。時に、女性の、振り抜かれた指先に灯り。時に、女性の肌を、滑るように這い。

 

 ぱちん。小気味良い音と共に、舞が、終わる。天上へ向けられた、閉じた扇子の先に、炎は、あった。その姿は、霞と見紛う程に、希薄。小指の爪程に、矮小。しかし、確かに、そこにあった。

 小さな炎が、小さく、小さく揺れた。それを見届けた女性は、刹那、悲しげな顔をして、

 

 ――……名前など、ない。有象無象は、**だの、**だのと、呼んでおったがの。

 

と、つまらなそうに答えた。

 

 ――……そのうつくしき****と、もえるようなひとみ……。

 

炎が、大きく燃え上がり、人の形をとった。その姿は、先程倒れていた屈強な男性と、瓜二つ。男性を象った炎は、はにかんだように笑い、

 

 ――……そなたのなは、***。おれからの、おくりものだ。

 

と言い遺して、満天の星空へと、吸い込まれた。

 

 さぁ、と風が吹き、草花を揺らした。そのざわめきの中、残された女性の目尻には、一粒の涙が、頭上の星々のごとく、輝く。

 

 ――逢瀬の代価が、名前、か。全く。勘定が、合わぬではないか。

 

いつの間にやら、女性は、衣をまとっていた。そっと、扇子を広げると、純白の扇面は、すっかり様変わりし、秋の彩――色鮮やかな紅葉になっていた。女性は、嬉しそうに一つ笑い、ぱちん、と閉じる。

 

 ――染められてしもうたのぅ。であるならば、この名と、扇子。最期の時まで、大切にしようぞ。それが対価で、構わぬか?

 

 一夜限りの舞台に背を向け、歩く。二人きりの宴は、これにてしまい。後に残るは、藍色の静寂(しじま)のみ。それで、良い。ここを知るは、己一人。それで、良いのだ。

 しかし。ふと、足を止め、振り返る。おもむろに正座し、地に三つ指をついて、一礼。そして、今度こそ、立ち止まる事なく、去った。

 

 不自然な程に静まり返っていた草原(舞台)は、にわかに、虫たちの合唱(次の演目)に包まれた。果たして、この舞台の主演は、誰だったのだろう。幻想的な舞を披露した、あの男女なのか。求愛の声を届けんとする、虫たちなのか。

 ただ一つ、確かなのは。この舞台に立った者は、いずれも、己の命を燃やしていた、と言う事だ。

 

* * *

 

 木々の間を、女性が、駆ける。結われた金色が、軌跡を描くように、靡く。夜の闇を裂く黄金の軌跡は、土埃にまみれ、くすんでもなお、言葉に出来ぬ程に美しく。だからこそ、

 

 ――いたぞ、矢を放て!

 

 ――回り込め! あの**め、思うた以上に、足が速い!

 

彼女を追う者たちの、格好の目印となっていた。

 

 女性の衣服は、襤褸と変わりない程に、傷つき、汚れていた。切り裂かれ、穴が空き、泥まみれ血まみれ。履物は、とうに鼻緒が切れ、用を成さなくなった。それでも、意に介さず、ただ、走る。否。意に介する余裕など、あるはずもない。

 

 女性の行く先は、暗い。新月の晩、深い森の中。先はおろか、足元さえも、ろくに見えない。

 だと言うのに、背後は、昼かと思う程に、明るい。追手の男たちが掲げる松明が、煌々と、周囲を照らしているのだ。振り向けば、多少離れていようと、彼らの表情が、はっきりと分かる。

 憤怒。恐怖。不安。彼らは、それらを綯い混ぜにした、さながら鬼のごとく、悍けの走る表情を、顔に貼り付けている。例え、己の肉親を殺した仇敵を前にしたとて、ああはならぬだろう。

 

 射掛けられた矢が、女性の頬を、掠めた。浅く裂けた頬から、つつ、と、血が流れる。それでも女性は、舌でもって血を一舐めし、袖で乱暴に傷を拭って、足を緩めずに、走り続ける。追手に捕まった先を思えば、頬の傷を意に介す必要など、あろうはずもない。

 

 獣道を、明かりもなく走った故の、必然か。女性は、窪みに足を取られ、転んだ。好機とばかりに、追手の一人が松明を捨て、腰の刀を抜き、飛び掛かった。大上段に振り上げられた刀身が、打ち捨てられた松明の炎を受け、妖しく輝く。

 

 ――**、討ち取ったりぃぃ!

 

勇ましい怒鳴り声が、耳朶を震わせる。狂気と狂喜を孕んだ視線が、女性の、紅玉を想起させる瞳と合わさり――

 

 ――警告は、したはずぞッ!

 

転んだはずの女性が、閃光もかくやという速さで、男の懐に入り、その胸目掛け、右腕を突き出していた。

 

 ――ごぼ……っ!?

 

胴鎧ごと、体を易々と貫かれた男は、盛大に吐血した。その背中から姿を見せたのは、血と臓器片にまみれた、****。腕を引き抜くと、男は、膝から崩れ落ち、ぴくぴくと痙攣して、息絶えた。

 *に付いた血と臓器片を振り払う間に、女性は、他の追手たちに、取り囲まれていた。いずれも、刀を片手で持ち、もう一方の手には、松明が握られている。

 

 ――……言うたはずよな。貴様らは、**に値せぬ。無益な殺生は好まぬゆえ、疾く失せよ、と。

 

目を細め、男たちを睨め付ける。女性と目が合うと、男たちは、一歩下がった。

 

 ――ふん。ここまで追っていながら、女子に睨まれて、引き下がるか、腰抜け共め。ほれ、疾く往ね。

 

揺れる松明の炎が、男たちの顔に、複雑な影を映す。その影の下で、彼らは、憎々しげな顔を見せ――そして、にやり、と笑った。

 

 女性の体が、大きく、びくん、と跳ねた。目を見開き、己の体を見ると、左の脇腹に、矢が突き刺さっている。

 

 ――ぐ……っ。ど、どこから……?

 

疑問が、口を衝いて出た。だが、この刺さり方なら、考えるまでもない。正面だ。

 刀を抜いておきながら、男たちは、松明を捨てなかった。その目的は、照明の確保に他ならない。ただし、自分たちではなく、後方の弓兵の為に。弓兵が、目標を狙撃出来るよう。女性の目を、明るさに慣れさせ、暗闇に潜む弓兵を、見付けられないよう。そして、一歩下がったのは、囲みを緩めて、射線を通す為に。

 追手たちの意図に気付き、女性は、一際大きな犬歯を剥き、歯軋りした。

 

 ――小賢しい真似を……ぐぅっ!?

 

悪態をつこうとしたが、その声は、呻きに変わった。二本目の矢が、左の太ももを貫いたのだ。その痛みに、女性は堪らず、膝を突いた。

 

 ――今じゃ、殺してしまえ!

 

 ――この**め、首を刎ねてくれようぞ!

 

 ――平穏を乱す**め、死ね! 死ねぇい!

 

松明を投げ捨て、刀を両手で握り、男たちが、女性へ殺到した。涎を撒き散らし、女性を罵る言葉は、憎悪にまみれ、表情は、溢れんばかりの殺意に、歪んでいる。

 

 そして、幾本もの刃が、女性に突き立てられた。

 

呆然とした様子で、刃を受けた女性。男たちの顔は、歓喜に染まり――すぐに、首を傾げた。

 

 ――何じゃ? 手応えが、ないぞ?

 

 ――お、おい! 見よ、**が!

 

一人の男が、異変に気付いた。全身を貫かれたと言うのに、今なお、女性は、顔色一つ変えず。血の一滴も、流れず。そして、男たちの目の前で、女性は、闇に溶け込むように、消え失せた。

 

 ――幻術か、いつの間に!?

 

 ――えぇい、面妖な! 各々方、灯りを持たれよ!

 

 ――血が、あちらへ伸びておるな。今度こそ、仕留めましょうぞ!

 

 刀を納めた男たちを先頭に、追手の一団が、点々と続く血痕を、追う。手負いの獲物に、舌なめずりしながら。首を持ち帰り、屋敷で飲む勝利の美酒に、想いを馳せながら。

 

 最後尾の者の背後で、血痕が、忽然と消えて行く事に、気付かぬまま。

 

 

 

 女性は、男たちに、二つの幻を見せていた。一つは、凶刃に晒される、己の姿。もう一つは、逃げ道を示す、血痕。彼らは、一つ目の幻で、女性の姿を見失い、二つ目の幻で、あらぬ方向へと進んだ。お陰で、追跡から開放され、女性の心には、いくらかの余裕が生まれていた。

 とは言え。脇腹と太ももに矢を受けたのは、事実であり。女性は、左足を引き摺り、木々に手を掛けながら、暗闇の中を歩いていた。下手に抜けば、鏃の返しで、余計に傷を負う。今は衣に滲む程度に収まっている出血も、酷くなる。故に、刺さった矢は、そのまま。

 疲労と、痛み。二つの苦痛が、彼女の呼吸を、荒くしていた。身体を支える右足は、ぶるぶると震え、今にも崩れ落ちそうで。木に掛けられる細腕も、やはり頼りなく。それでも、歩く。歯を食いしばり、片一方の手で、懐にある物を、握り締めながら。

 

 喉の乾きを、覚えたのだろう。女性は、その場に屈み込んだ。そこにあったのは、人の頭程の大きさの、水溜り。陽の光も差さぬ、鬱蒼とした森の中。小動物さえも、この辺りには、足を運ばないのだろうか。その水溜りは、それなりに長く、踏み付けられて濁る事もなく、ここにあったらしい。水溜りとは思えないくらいに、澄んでいた。

 顔を近付けようとして、女性は、躊躇いを見せた。追われる境遇にあっても、水溜りを舐めるなど、屈辱と感じたのだろうか。しかし、それも一瞬。髪を掻き上げ、舌を伸ばす。水面に映る、恥辱にまみれた姿を見たくない故か、その目は、固く閉ざされていた。

 五感の内、いずれか一つが失われると、それを補う為に、残った感覚が鋭くなる、と聞く。自ら視覚を閉じた彼女の耳が、ぴくり、と動いた。今まさに、水面に届こうとしていた舌が、止まる。

 

 ――この音は……。

 

瞼に込めた力を緩め、しかし視界を得ぬまま、顔を上げた。衣擦れの音さえも立てぬよう、ゆっくり、静かに、首を巡らせる。

 ある程度の方角が定まったのか、女性は、耳に手を当てた。そして、

 

 ――……やはり、水の音。ちと遠いが、川が流れておる……。

 

その音の源を、突き止めた。

 川ならば、綺麗な水が、いくらでも飲める。身体に付いた泥や血も、存分に洗い流せる。かような水溜りを前に、苦悩する必要など、屈辱に耐える必要など、ない。

 痛む脇腹と太ももに鞭を打ち、立ち上がる。もう一度、耳を澄ませて、方角を確認。一つ頷いて、また、歩き始めた。先程までよりも、心持ち、足取りが軽く見えた。

 

 少し歩いては、耳を(そばだ)てて、見当違いの方向に進んでいないか、確かめつつ。女性は、逸る気持ちを抑えながら、歩いた。時折、傷口の痛みに、顔を顰めながら。

 やがて、水の音は、耳を澄まさずとも、聞こえるようになった。相変わらず、その音は遠いが、それでも確実に、近付いている。

 

 ――水辺に着いたら、まずは、水をたらふく、飲みたいのぅ。そして、この忌々しい矢を、引っこ抜いて、水浴びと洒落込むか。傷は、衣を裂いて縛り上げれば、問題なかろうて。

 

楽しげに、女性が呟く。無理もない。ここまで、その身に矢を受けながらも、命懸けで逃げ延びたのだ。追手も、彼方へと行ってしまった。心に、希望が芽生えるのも、当然と言えよう。

 

 しかし。それでも彼女は、気を抜くべきではなかった。新月の下、星明かりさえ届かぬ、森の奥深く。警戒すべきは、追手だけではないのだ。

 踏み出した足は、地に着かなかった。先のような、窪みではない。地面その物が、そこになかった。

 

 ――しまっ……。

 

己の迂闊を呪う声が、女性の口から漏れた。だが、もう、遅い。

 単純明快。一寸先も見えぬ、暗闇の中。彼女は、川の音だけを頼りに、進んでいた。そして、追手からの開放で、彼女の心は、浮足立っていた。故に、注意を怠ってしまったのだ。

 

 女性は、崖面を、転がり落ちる。剥き出しの岩にぶつかり、擦りながら。何かに掴まる事も、出来ぬまま。そして、一際大きな岩にぶつかり、盛大に跳ねた。女性は、成す術もなく、宙に投げ出される。落ちた先は、彼女が求めた、川であった。否。川と言うには、語弊がある。

 それは、荒れ狂う急流だった。その勢いは相当なもので、女性の身体は、あっという間に、飲み込まれ、押し流されて行く。

 川岸に辿り着こうと、女性は、必死に藻掻いた。だが、自然とは、慈悲の心など、持ち合わせぬもの。押し寄せる大量の水に、女性は、体力を奪われ、そう長く時を経ぬ内に、意識を手放した。

 

 風景が、また、乱れた。

 

 

 

 こつん。頭頂部への軽い痛みで、女性は、意識を取り戻した。薄っすらと目を開けると、そこに広がっていたのは、満天の星空。(夜空の花形)が、姿を隠しているからだろう。星々は、存分に、その輝きを誇示していた。

 身を起こそうとして、女性は、思い切り、顔を歪めた。崖から転げ落ち、急流に放り出され、その中で、流れにもみくちゃにされたのだ。全身の痛みは、それ以前の比ではないだろう。

 それでも、どうにか上体を起こし、辺りを見渡す。流される間に、あの暗い森を抜けたらしい。川は、女性の膝程の深さで、穏やかに流れている。その流れに漂っていたところで、川底から突き出していた岩に、頭をぶつけたようだ。

 川岸の一方は、相変わらずの崖面。だが、横穴がある。自然に出来た物なのか、それとも、誰かが掘った物なのか。いずれにせよ、雨風を凌ぎ、身を隠すには、丁度良い。もう一方は、やや隙間の目立つ、木立。雑然と並ぶ木々は、身を隠しつつ歩くには、不向きに思える。

 

 一通り、身の周りを確認し終えると、次に女性は、己の身体に、目を落とした。痛むのは確かだが、骨折や、重傷は、負っていない。恐らく、崖を転がり落ちる際、上手く衝撃が、分散してくれたのだろう。不幸中の幸い、と言える。細かな傷は増えたが、さしたる問題ではない。

 刺さったままだった矢は、転落の最中にか、それとも流されている最中にか、鏃の辺りが、折れてしまっている。抜くには、都合が良い。手間が一つ、減ってくれた。

 そして、左手に持つ、細長い革袋。意識を失ってなお、女性は、ここまで手放さなかった。きつく縛った紐を解き、中身を取り出す。広げると、季節外れの紅葉が顔を見せ、彼女は、安堵の吐息を漏らした。

 

 苦痛に耐えながら矢を抜き、ぼろぼろの衣を手に、川辺に屈んだ。水を掬い、身体の泥や血を、洗い落とす。冷たい水が、傷口に容赦なく沁みたが、それが、目覚めたばかりの彼女の意識を、よりはっきりとさせた。

 よく洗った衣の裾を裂き、脇腹と太ももの矢傷を縛って、簡単な止血とした。『出血はほとんどない』が、用心に越した事は、ない。それに、血の匂いを嗅ぎ付けた獣に来られるのも、面倒な話だ。

 

 どうせ見る者もおらぬ、とばかりに、乳房も局部も隠さず、女性は、扇子を片手に、横穴に踏み入る。それ程深くない穴は、星明かりでも、おぼろげではあるが、中の様子が窺えた。割れた桶の中に積み重なった、欠けた茶碗と、不揃いの箸。その傍にある手桶は、底が抜けてしまっている。いずれも、すっかり朽ちていたが、微かながら、生活の匂いがした。

 そして、奥。敷かれた茣蓙(ござ)で、ここの主が、眠っていた。襤褸をまとった、骸骨。骨の風化具合からして、恐らく、相当な時間が、経っているだろう。

 

 ――済まぬが、間借りさせてもらうぞ。

 

これと言って、死者への敬意を感じない言葉。しかし、どこか、気が咎めたのか。女性は、茣蓙から離れた壁に、寄り掛かるように座った。

 所在なげに、骸を見やる。すると、不思議な事に、疑問が、次々と湧いた。この骸は、世捨て人なのだろうか。なぜ、ここに住んでいたのか。ここに来るまでに、どんな経緯があったのか。ここの暮らしで、何を考えたのか。親や伴侶は、どうしたのか。

 

 一人で、寂しくなかったのだろうか。

 

 最期の時も、孤独だったのだろうか。

 

 かちかち、かちかち。横穴に、歯の打ち合う音が、響いた。鳴らしているのは、無論、横たわる骸骨ではない。膝を抱えて座る、女性だ。まるで、冬場の寒空の下にいるように、肩を、口を震わせている。

 覚束ない手付きで、扇子を開いた。扇面を、愛おしそうに、穴が空くほど見つめる女性。

 

 ――……妾には、そなたからもらった、名前がある。そなたに染められた、これがある。妾には、そなたがおる。そなたは、妾と共にある。妾は、一人ではない。孤独では、ない……。

 

己に言い聞かせるように、呟く。繰り返し、繰り返し。そうしている内に、少しずつ、震えが、治まっていく。

 

 やがて、女性は、平静を取り戻した。扇子を閉じ、豊かな双丘の谷間へ、押し込むように抱いて、その場に横になる。金糸が、ばらりと、色気のない土の上に広がり、間を置かず、静かな寝息だけが、横穴の音となった。

 

 

 

 翌日。女性は、横穴の中で、割れた桶を前に、立っていた。その中に収まっているのは、茣蓙で眠っていた、横穴の主。風化が著しく、ほとんど原型を留めていない。

 

 ――妾には、ここまでしてやる義理はない。せいぜい、間借りした恩があるくらいじゃ。じゃが、そなたなら、きっと、こうしたであろうな……。

 

片手には、手頃な大きさの石。もう一方の手には、扇子。その扇子に、いかにも不満げな顔を作り、語り掛けた。

 

 ――……妾とて、寝床がないのは、我慢出来ぬゆえな。仕方なくじゃぞ、仕方なく。

 

口を尖らせながら、女性は、石でもって、土を掘る。ざくざく、ざくざく。どういうわけか、痛む素振りも見せず。時折、減らず口を叩きながら。

 汗の一つもかかず、息も上がらぬうちに、十分な大きさの穴が開いた。ふぅ、と一息つき、石を投げ捨てる。

 

 ――狭苦しいじゃろうが、構わぬな?

 

誰にともなく、女性は言い、桶を抱えた。これ以上、骸骨が崩れぬよう、ゆっくりと運び、穴の底に静置。仕上げに、掘り出した土を戻し、骸骨を、埋めた。

 こんもりと盛られた土を、片手で二度、軽く叩き、立ち上がる。一宿の恩は、返した、とでも言うのか。彼女の顔は、埋めた骸骨への興味を、失っていた。

 

 

 

 その晩。欠けた茶碗で水を啜りながら、女性は、月を眺めていた。ほんの僅か、輪郭が見える程度。それでも、彼女は満足げだった。

 

 ――……ふん。まだ、彷徨っておったのか。

 

女性の声に応えるように、青い炎が、隣に現れた。音もなく、ゆらゆらと揺れる炎に、しかし女性は、まるで動じず、茶碗で、川の水を掬った。

 

 ――自縛、か。そうさな、一人で、こんな僻地に暮らしておっては、気付かぬのも、道理かも知れぬな。

 

一口飲んでから、お主もどうだ、と、茶碗を置いた。炎は揺らめき、女性は、目を閉じる。

 

 ――妻を亡くし、放浪の果て、ここへ流れ着いた。なるほど、妾と、同じよの。かかか。

 

けらけらと笑う、女性。

 

 ――……妾は、愛する者を、**た。そして、色々とあって、都を追われたのよ。……ん? この扇子か? 妾の、自前じゃよ。染め上げたのは、あやつじゃがな。

 

この女性は、これ程、饒舌だったであろうか。炎への同情や憐憫か、似た境遇に親近感を覚えたか、はたまた、単なる気まぐれか。いずれにせよ、今宵の女性は、舌が、よく回った。

 

 時が過ぎ、炎は、徐々に小さく、薄くなっていった。それは、女性と炎の、語らいの時間が、終わりを迎える合図。

 

 ――……そうか、そろそろ、逝くか。まぁ、良い。これでこの横穴は、正真正銘、妾とあやつの、愛の巣になるでな。

 

茶碗の水を飲み干してから、女性は、意地の悪そうに笑った。

 

 ――おぉ、そうじゃ。お主、妾の裸体を、見たな? これは、彼岸へ逝く前に、見物料をもらわねば、のぅ?

 

女性自ら、肌を晒しておいて、謝礼も何も、あったものではない。実に、自分勝手で、無茶な話である。

 しかし。薄明かりの下故の、錯覚か。嫌らしげな顔に、一抹の寂寥が見えるのは、気のせいだろうか。

 炎は、静かに燃える。不思議な事に、その様子に、何かを考え込む人の姿が、重なって見えた。これこそ、錯覚であろう。だが、なぜだか妙に、そうと割り切れなかった。

 

 ――……壁の瓢箪、じゃと? ほぅ、それをくれる、とな。

 

しばし堪えよ、出来るな? と、これまた勝手を言い、足早に横穴へと入る、女性。茣蓙の辺りの壁を検めると、なるほど、ほんの少し突き出た岩に、紐を括り付けた瓢箪が、掛けられていた。栓の封は、成されたままだが、ぼろぼろになっていて、今にも千切れそうだ。

 川辺に戻り、炎に向けて、掲げて見せた。すると、炎は、人の顔程の大きさに燃え上がり、その中に、好々爺然とした翁の顔が、浮かんだ。

 

 ――おきにめされると、よいのですが。

 

優しい笑みの翁に、女性は、

 

 ――ふん。開けてみるまで、分からぬさ。

 

と、斜に構えたような笑いを返した。随分な態度だが、それでも、翁は、満ち足りたような笑顔のまま。そして、

 

 ――とむらってくれて、ありがとうございます。さみしがりやの、****さま。

 

そう言い遺し、すう、と、夜空に溶けた。

 

 一人、川辺に残された女性。

 

 ――……ふん。**じゃと? 妾は、***ぞ。見縊りおって。

 

瓢箪の封を、指の腹で雑に取り払い、栓を抜く。茶碗に傾けると、琥珀色の液体が、とぷとぷと注がれた。

 

 ――……じゃが、あの翁にだけは、**でいてやろうかの。

 

茶碗を掲げ、

 

 ――寂しがり屋の翁へ。……献杯。

 

しばしの、沈黙。

 微かな月明かりが、川面を照らす晩。短い誄歌(るいか)が、小さく響いた。

 

 

 

 それから、数日。女性は、川辺を発った。『綻び一つない衣と、光沢が眩しい履物』で、『無疵の身体』を包み。肩には、翁の瓢箪を掛け。

 横穴は、無人。女性を見送る者は、誰一人、いない。

 

 否。盛られた土に立つ、僅かに琥珀色に染まった、不格好で、真新しい卒塔婆だけが、彼女の旅立ちを、見送っていた。

 

 日差しが、強い。その眩さに、全てが、塗り潰される。白く、白く、白く――




※お読みになった文章は、出来損ないの最高傑作ーNTの幕間で、間違いございません。

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