どこまでも晴れ渡った空が広がる。その空を背景に男が崖に立ち、そこから望める景色を眺め渡す。
「ノウズの空だ」
冬のこんな空は珍しくはない。風が強く雲はあっという間に流れ去って行く。青い空に白い雲の残照が消えていく。
「辺境の風も慣れれば郷愁というものだ。北の風か──」
そう呟いた若者の顔は少年期をすでに脱していた。軍服の下で鍛えられた肉体は若々しさに満ちている。
男の眼差しを見る者があれば、その目に凍りつくような寒々しさを感じたことだろう。鋭利な刃物か獲物を狙う鷹を思わせるような鋭さを持った目だ。
コートが翻る。その身に冷たい風を受け止めてコートが風に吹かれるに任せる。
白いものに覆われた連なる山々が見える。そこはウモスの領域で、今いる中立線との境はわずか五キロほどでしかない。
直線距離からだと近いが、曲がりくねった渓谷や崖が絶壁となって道々を遮断している。
こちらに飛び領があるクバルカンとの折衝区域も近いことから絶好の監視ポイントとなっていた。
国境沿いは崖で隔てられているが、心得のある騎士の足ならば一足跳びで達するような狭隘の地だ。
ここを捨てても隠れる場所はいくらでもある。ミミバの者が手先となって近くの村落などから情報収集を行っている。感付かれたとしても連中が来た頃にはもぬけの殻だ。
巡察に出る騎士同士が鉢合うことを避けていることもあり、この付近は空白地帯ともなる。その空白地帯を狙っての布陣だ。
ウモスとクバルカンなど勝手に潰しあえばよい──
口元に酷薄な冷笑が浮かぶ。
普段から仲が良いわけでもない両者が辻斬討伐に共闘することもない。この土地の複雑な事情を知るからこそ絶好の狩場なのだ。
青年がコートの下にまとうのはフィルモア帝国の軍服だ。白地に赤い縦縞の入った制服といえば皇帝直属のノイエ・シルチスに他ならない。
北方に広大な領土を持つ帝国から遠く離れた南の地にフィルモア帝国の騎士がいる。
このフィルモア帝国はカラミティの超大国として知られている。
遥か昔に存在した超帝国時代より連綿と続く王家の血筋を誇り、その巨大な軍事力でもってしばし他国の紛争に介入していた。
他国の国境事情が複雑に絡み合う地にフィルモアの影。
最近の辺境の緊張状態にフィルモアが絡んでいる事実は、辻斬りというオブラートに包んで始末するのが彼の仕事だった。
青年は振り返って無骨な装甲に包まれたMHを見上げる。岸壁の窪地に収まるその機体の反射のないグレイのヘッドが騎士を見下ろしている。
そのMHには国籍、所属を表すマークは一切ついていない。一般的に知られている機体の特徴は有していなかった。
無個性なノーフェイスという仮面を付けた鋼鉄の騎士。どの国のどのマイトが関わったのかさえ定かでない機体だ。そのMHは装甲の表皮に地形対応色の磁気コートを施されている。
グレイの地肌と偏重仕様の装甲がこのMHの異様さを際立たせてもいた。いわゆる駆逐型と呼ばれる、汎用性を捨てた戦闘重視の装甲スタイルだ。
そのメイン武器は太刀だ。
他に余計なMH用の武装は身につけていない。一撃離脱を重視した装備は偏重だが、これは任務に合わせた特殊な例だ。
磁気コートはレーダーやソナー感知を阻害できる隠密用のものであるが、任務などに用いるには実用的ではなく行動するときは外さねばならない。
装甲の厚さは軽MHに近い装甲ラインだ。動きやすさを考慮されたデザインで、節々の間接に防塵対策されたシールがなされている。
外側からうかがい知れない鋼鉄の巨人は灰色の岩肌に溶けこむように鎮座している。
何度も人の血の味を吸った機体だ。ここ最近のMH狩りによる騎士の殺害を繰り返してきた殺人マシーンである。
我が無敵のサイレンであれば面倒なことはないのだがな──
それは叶わぬ。ここは普通の戦場ではない。熱くたぎる血潮を発散させるには、もっと陰惨な血の雨を降らさねばなるまい。
強い風が吹き抜ける。その中で若き騎士ラルゴ・ケンタウリは不敵に笑う。恐れを知らぬ若々しさに満ちた、野禽の如き、獰猛で冷徹な微笑で。
ここで彼を制止し得る者はいない。皇帝自身であろうともだ。
「ラルゴ様、本国より入電です」
軍服姿の士官がラルゴに遠慮がちに声をかけた。
本国から連れて来た任務に当たるための人員もそろそろ疲れが出始めている。このような地では仕方のないことだ。
とはいえ、私はすこぶる調子はよいのだがな。
「わかった。すぐに行く」
声をかけた士官に視線を向けた後、ラルゴはきびすを返す。敬礼する士官の前を横切ってテント内へと向かっていた。
◆
「ラルゴよ、久しいな。見ない間にずいぶんと羽目を外しておるようだな?」
「陛下」
親しく自らを呼ぶその声にラルゴは跪く。秘匿回線によりこの通信を傍受される可能性は低かったがそう長く話せるものでもない。
血の宮殿騎士団(ブラッドテンプルナイツ)とも呼ばれるノイエ・シルチスの銃士であり、赤の一番(テスタロッサ)と呼ばれる男が膝をつくのは、フィルモア帝国の皇帝であるレーダー八世その人であった。
お互いに若さに満ちた、将来のフィルモアを背負って立つ男たちである。
「お預かりしているブーレイの試運転と実戦テストは滞りなく……」
俯いたラルゴの額に冷や汗が浮かぶ。内心では叱責は覚悟していた。
ここ最近、やたらと周囲を嗅ぎ回る輩が増えた。そのおかげでいくつかの野営ポイントの変更を行っている。
つい先日も嗅ぎ回る犬を始末したばかりだ。太刀の錆び落しにもならぬつまらぬ相手であったが、近頃は辻斬り捜索に人手を割いているのか、ここら近辺も慌しくなってきていた。
キャラバンの結界網を利用しているが身動きは取りづらい。思うように動くには相手の裏をかかねばならない。
「アレの出来はどうだラルゴよ? ハスハの戯れと思うたが、存外、形にもなってみれば可愛いものではないか?」
MHを可愛いなどと言う。愛着を持って呼ぶのであれば、本国に置いてきたサイレンの名を呼ぶのが妥当だ。
「お戯れを……ブーレイとサイレンを同列にはできませぬ……」
レーダーの冗談であろう。ラルゴは緩んだ口元を引き締める。
あの機体はブーレイという。試作型ブーレイのベースはサイレンのものだが、すでにまったく違うMHと言っていい。
ラルゴが心を置くような機体ではなかった。戦場で敵を殺すためのただの兵器にすぎぬ。ファティマと同じである。
「わしのネプチューンも騒いでおる。のう、ハイランダー?」
「は……」
ハイランダーという呼びかけにラルゴはかしこまる。
正式にはラルゴはハイランダーではない。戦闘集団である国家騎士の頂点に立つハイランダーを冠するには、まだまだ己は未熟であると自覚していた。
「ハハハ、ブーレイの指揮権をお前にとコレットが言うたときはどういうつもりかと思ったが、やつめ、ブーレイの試し切りとデータ取りを我らに押し付けたのだ。もっとも、十分な見返りはあったがな」
「は……」
レーダー八世とハスハのコレット王との間にどのような約定が交わされたのかをラルゴは知らぬ。
ラルゴの忠誠はレーダーの下にあり、主君が是と言えば是として、否と言えば否と従うのみだった。
その彼も主君の目が届かぬ辺境にあれば、その内面に秘めた血の滾りにも似た野生を抑えることはできなかった。
忠実な犬の仮面をかぶった騎士は本性を現すのだ。
ここでは血への渇望を妨げる者はいない──
「引き続きこの地に留まり、収集を行います」
「いや、よい」
「は?」
レーダーの言葉に顔を上げる。
「そろそろ戻って来るといい。交代を向かわせた。お前の顔を見ながら辺境での武勇伝を聞きたいのだ。そろそろ引き時であろう。ウモスの総統めがかなり冠でな。不埒な辻斬りを退治してくれると言っておった。六年前のことと、お前の関連性に気がつく者がおるかもしれん。それにお前がいないと疋棟斎(ヒートサイ)めがうるさくてかなわん」
「師、がですか……」
師のアビエン・疋棟斎(ヒートサイ)はノイエ・シルチス黒グループの筆頭にしてラルゴに直に剣を教えた人物である。
強天位にしてフィルモア最強騎士である疋棟斎はラルゴが敬愛してやまない人物だ。もう一人は目の前のレーダー八世である。
しかし、師のアビエン・疋棟斎は気高い騎士だ。今のラルゴを見れば何と言うであろうか?
だが、ラルゴももう子どもではない。師の手を離れた今は汚れたことも厭うてはいられない。
むしろ、望んでここにいるのだと言えた。
「お前のサイレンも寂しがっているぞ」
「畏まりました。引き継ぎ次第帰還いたします」
「土産話を期待している」
「陛下には存分な成果を語りましょうぞ」
通信が切れラルゴは呟く。そして、テントの外に見えるブーレイにその酷薄な視線を向けるのだった。
◆
数刻後──辺境回廊。道を抜けのシャトルバスが谷の切れ間から姿を現す。
すれ違うディグもドーリーすらない。山道に入ってから同じ景色がずっと続いている。
文明社会とは切り離された絶壁の辺境世界が広がる。
「ほーんっと! 山ばかりのど田舎ね……イラつくわぁ……」
窓際の座席で若い女がため息をついた。天然の絶景ももう見飽きた。遠くでゴロゴロと空が鳴る。
気象の変動はあっという間だ。昼間はよく晴れていたのだが。
本来のコースを遠回りしての道のりで、本当ならとっくに着いているはずだった。
例の辻斬り騒ぎでコースが封鎖されて、おかげで予定より半日の遅れが出ている。
観光に訪れた若い娘といった出で立ちで、観光客であることに間違いなかったが、この地を訪れるには少しばかりセレブ過ぎる恰好だ。
長身にブランド物の白い服を着こなし、周囲にいる乗客達とは毛色そのものが異なる。
ピンヒールブーツを履いている者など他にはいない。
バスには鉱山に向かう男たちや行商の者たちが多く乗り合わせている。
このシャトルバスは観光用に整備されたものではなく、この周辺で働く者たちが使うように定期的に各町を巡回していた。
バスはこの辺境に外からの人を運ぶ唯一の交通手段ともなっている。観光の目玉といえば、この近場では中立都市のシュロだけだ。
車内には、顔の浅黒い労働者と、親子連れだったり、行商を生業としているであろう老婆の姿が見える。
観光客と思わしき人の姿はない。
「超場違いすぎ……」
少女のパスポートにはサンドラ・イルケという名前が記されている。サンドラは観光協会が発行しているパンフレットで顔を隠す。
その横顔は、まだどこか幼さを残してはいるものの、花咲く前の大輪を思わせる。
タレ目気味だが、デルタベルン系列の人種の特徴を有していて、大変な美人の相だ。
「……遠回りしすぎじゃない。いつ着くんだよ」
バスのコースに文句をつける。それというのも、一日違いでこうなってしまったからだ。
観光バスの正規コースのルートが封鎖されたなんて情報は聞いていなかった。直通バスに乗りそこなったおかげでご覧の有り様だ。
来たと思ったら、ついさっき封鎖ですだぁ。ふざけんな、バーロ~。
日焼けした地元民が好奇心旺盛にサンドラへ視線を投げかけるが、彼らが直接話しかけてくることはない。
「早く着かないかなぁ~~」
サンドラはパンフレットを放る。溜息の後の車内に目を向けると、無遠慮に視線を投げかけていた労働者たちが視線をそらした。
そのとき、小さな女の子と目が合う。あどけない顔の娘は小さく手を振ってくる。
「は~い」
愛嬌たっぷりにサンドラが手を振りながらウィンクして返すと、その娘はいったん頭を引っ込めてから、座席から伺うように見つめ返してくる。
その娘においで、と手招きすると、少女は自分を指してから、コクリと頷いてこちらに歩いて来る。
「ねえ、ポッキー上げよっか?」
何のことかわからずに幼い娘は愛想笑いを返す。サンドラのバッグから取り出されたお菓子の箱を興味深げに眺める。
「んー、チョコがいい? ストロベリー? どっちが好きよ」
少女は箱を手にするサンドラを見上げる。色彩豊かなパッケージの箱が珍しいのだろう。
「うー……?」
少女が振り返る。母親がいる座席から男の子の頭が現れてこちらを眺めている。少女より少し幼い感じの子だ。
「何だ、弟?」
「うん」
「じゃあ、これとこれもあげる。分けて食べるんだぞ?」
「あ、いい…の?」
派手なプリント柄のついたお菓子の箱を両手に少女は戸惑いながら返す。こんな辺境では都会のものはとても珍しい。
「うん、もちよもち」
その小さな頭をサンドラは撫でる。そして揺れる車内を戻っていく小さな背中を見守る。
すると、母親が立ち上がって娘とやり取りをすると、こちらに向かって強張った顔で頭を下げた。
「ノープロブレム~ ノンノン、平気平気。オケ~?」
申し訳無さそうな母親に愛想笑いを貼りつけたままサンドラは手を振る。お互いの意思疎通が終わった所で席につくと、今度は思い切り欠伸をする。
窓からの眺めは灰色の岩肌と、切り立った峡谷、そして黄色い砂塵が混じる風だ。
目的地であるシュロまではもう少しかかりそうだ。
「まったく、ソープ様ったら、こんな山奥でこそこそと……まさか、秘密の恋人でもいるのかしら……あたしというものがありながら悔しい! グギギギっ!!」
と、強くハンカチを噛み締める。その表情はおかしいほどにコロコロと変化する。
ひとしきり、そうしてから背もたれに落ち着くとぼんやりと天井を眺めていた。
「それにしても、こんな場所で何をやらかすつもりかしら? あたしに黙ってオイタするなんて、そうは問屋がおろさないんだからね。きっと、なんか面白いことするつもりなんだ! 整備班とバクスチュアル連れ出すなんて、ぜってー、モタヘ絡みに違いないわっ! マシンオタクのとんちきめっ! まったく、へーかがいないとつまんねーんですからねっ!」
窓の外はすでに暗く、過ぎ去る車道も山も暗いダークトーンの淵に沈みこんでいる。元より人里など皆無の場所だ。
この界隈にはいくつかの町と不法滞在する移民と犯罪者のキャラバンなどがある。その区別をするのは余所者には不可能といっていい。
何があるかわからない。まさに辺境である。
唯一明るい車内の窓ガラスに映った自らの顔を彼女はぼんやりと眺める。
ソープ様捕まえて、このまま愛の逃避行なんてのもいいわね……
ヒヒヒ、初夜はいただき。いや、捧げるんだよ! アホね私っ!
妄想にほくそ笑むサンドラ・イルケ。彼女はデルタベルンから訪れた「ただ」の観光客である。
「何だ……?」
そのとき、サンドラの直感が身の危険を告げる。耳に手を当てざわめく感覚に目を細めた。
不味い──この感覚は。次の瞬間、爆撃音がシャトルバスを震わせた。衝撃が車内全体を大きく揺らして傾く。
「襲撃っ!?」
誰が!
何者が?
考えてる時間など1秒もない。
逃げ場がないっ!
窓をかち割れとサンドラは瞬時に判断する。
次に放たれた高速の弾道が車体を貫通すると車体を爆発炎上させていた。コントロールを失ったシャトルバスが谷の底へと落ちていく。
それを崖の上から眺める幾つもの目がある。異様な風体の男たちだった。
崖の真下で炎上したバスがバラバラに崩壊して辺り一面に惨状をばらまいていた。
「行くぞ……」
リーダーに従って男たちが谷間を駆けて闇夜へと走り去る。
「ふっざけんな~~!」
女の白い細い手が伸びて岩肌の突起を掴む。
唯一の生還者は女騎士だ。襲撃者の目を逃れて地面に追突する瞬間に窓から脱出していた。
あの瞬間、サンドラに出来たのはただそこから逃れることだった。
彼女以外の生存者はいない。騎士の身体能力でも間一髪の脱出劇だ。
「あっちか……おいたが過ぎるね」
サンドラの格好はひどい有様だ。焼けた服とスカートはボロボロで、ブーツは片方脱げて、片方は履いているが踵が折れている。
生存者は自分だけ。誰かを助けている余裕はなかった。民間人が乗るバスに兵器を使うなど、いくら辺境とはいえ無法地帯すぎる。
ゲリラの仕業に見せかけたつもりだろうか?
「ごめんよぉ……」
真下で燃えるバスの残骸に向けて呟くと、サンドラは一足に飛んで襲撃者の足取りを追っていた。