すみれ色の瞳の乙女─天馬の章─   作:つきしまさん

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【1話】目覚め

 コンソールのモニタの画面に浮かび上がるのは背の高い老人の姿だ。

 その毛髪はすべて禿げ上がっている。痩せた肉体を包むのは白衣だ。その強面の顔に、一度見たら忘れないであろう印象的な黒いグラスアイを両眼にはめている。

 その顔は無表情なままに画面を凝視している。

 グリーンの色彩を帯びたモニタが映しだすのは液体の中に横たわる裸身の少女。その顔が浮かび上がって別画面に映し出される。

 

 ファティマ──

 この世界に生み出される芸術品であり、最強の戦闘マシーン・モーターヘッド(MH)を駆ることができる電子の妖精。

 寿命を持たぬ女性型ファティマ・S型。特に若い少女の姿をしたソレは緑色の液体に浸かって、普通の人間がするように深い眠りの呼吸を繰り返す。

 

 水中呼吸可能なその液体は主に医療現場では馴染みのものだ。外界からのいかなるアレルギー物質からも肉体を守ることができる。

 その羊水はファティマの身にもっとも馴染むものだ。ファティマはその中で成長をし、または肉体の再生を行うことができた。

 免疫能力に欠陥があるファティマにとってなくてはならないものだといえる。

 

 その技術は人間への医療に応用できるものだ。どんな重傷でも治療を行うことができた。

 優れたファティマ・マイトはジョーカー星団における最高の医師でもあった。

 グラフ上に表記されたバイタル画面は正常。裸体を晒す少女の胸元が上下し幾つもの気泡が浮かび上がる。

 老人の骨ばった指がコンソールのキーを操作する。するとブシュンと音を立てベッドの固定保護システムが外れた。

 同時に排出された蒸気が室内に満ちて彼のグラスアイを曇らせる。

 

『スリープモード解除。ベッドタンクのロック解除を開始します。一〇、九、八……』 

 

 機械的なマシンボイスがカウント開始を告げる。

 中央のファティマ・ベッドがロックを外されて音を立てて盛り上がる。狭い工房内に起動音が響き渡り停止した。

 工房内にファティマ・ベッドは一つしかない。いくつもの管とチューブがむき出しになってベッドに繋がれている。

 その狭い空間の中にジョーカー技術の粋が詰め込まれていた。

 そして少女はその瞳を開く。

 

 永い夢を見ていたような気がする──

 浮かび上がる意識はそれまで見ていた儚い夢を破り周囲の様子を知覚させる。揺らぐ髪が液体の中で揺れる。

 緑色の海の中にいるようだ。

 どんな夢を見ていたのか思い出せない。手を伸ばせば届くような夢は覚醒と共に消え去っていく。

 コポリ、と音を立て気泡が浮かび上がる。緑色の液体がベッドから排出され裸身に繋がれた細く透明なケーブル達が露になっていく。

 ベッドから起きた彼女の意識は冷たく暗い世界に覚醒する。液体の中のあたたかな温もりと違ってここはえらく寒い。

 

(ここは……どこだろう?) 

 

 音を立ててベッドタンクの蓋が開いていく。室内の照明を受けてファティマの瞳が黒い輝きを放った。

 調整されたばかりなのでアイカバーを外されている。

 基本的にファティマは感情を人前に映すことを許されていない。

 その美しさを人間らしく表現することは禁じられていた。ジョーカーの星団法はファティマを縛るためにあったが同時にファティマを守るために存在する。

 薄い透明なアイカバーはファティマに義務付けられた制約であった。

 

 少女は眩しさに瞳を閉じる。肌に触れる空気をとても冷たく感じる。ベッドの中のぬくもりは永遠の揺りかごだ。

 起こそうとした身は起き上がれずにペタリと浴槽に腰を下ろしたまま周囲を見回した。

 久しぶりに目を覚まし肉体と精神の接続に不慣れであった。

 愛らしく優美な曲線を描く肢体。無防備なまでに煽情的な姿をさらすが、少女は脱力したまま首を傾げる。

 髪からこぼれる雫が体を伝い、腰から太ももへ。そして足元の液体の残滓と交じり合う。

 肉体に刻まれているのはマシン・ナンバーと呼ばれる個体マーカーだ。

 グラスアイ越しに老人が少女を覗き込む。

「あ……」声を出そうとしてその細さに驚く。まるで自由に声が出ない。まるで長いこと喋らずにいて今初めて言葉にしたかのようだった。

 

「オール・ディーツー。わしの声が聞こえるか?」

 

 老人の問いかけにベッドの中の少女は頷いて応える。それが自分の名であることの再確認。 

 私はAll D2(オール・ディーツー)。それが新しく与えられた名前だ。そう、前の名前? そんなの知らない……

 

「エディ。今後お前をそう呼ぶことにする」

 

 私はわたしが誰であったのかを忘れてしまった存在。All D2(エー・ディー)なのだ。

 

「さあ、答えてごらん。わしが誰か言うてみろ」

 

 エディはその名を知っている。記憶野に刷り込まれた情報が正しい答えを告げる。

 何度もその顔を見た。それは教育システムを施すときの顔であったり細かい調整をするときの顔でもあった。

 そして小さな声でその名を告げた。

 

「……グラン・コークス博士。お父様です」 

 

 黒のグラスアイが無表情にエディを見下ろす。

 老人の視線には感情がなく羞恥心は湧いてこない。いや、感情は浮いては沈み込んで薄い余韻を残すのみだ。

 今ここにいていないような不可思議な感覚。個体としての自らの感覚がいまだ不確定な精神を揺るがせる。

 

「お前は一度壊れたスクラップだ。新しいマスターを見つけるまでわしと共に生活することになる」

 

 

 All D2はスクラップという意味だ……

 新しいマスター? 前のマスターは……?

 わからない。思い出そうにも記憶屋は何の情報も残していなかった。

 倦怠にも似た喪失感が全身を包む。なぜかはわからなかった。

 濡れた肌が外気によって乾かされていく。

 

(どうしてこんな? どうしてここにいるの?──)

 

 不意にわからない感情が心を満たしてかき乱す。

 取り乱してもおかしくない精神状態。その激しい感情は抑え込まれて平静な感情に戻される。

 感情抑制。精神制御のシステム。ダムゲート・コントロールが働く。

 一瞬浮かび上がった強い感情と記憶のようなものはすぐに無意識下に仕舞い込まれて消えてしまった。

 思い出そうとして思い出せない。直前の感情の働きが何であったのかさえもよくわからなかった。

 

「記憶に問題はあるか、エディ」

「いえ……」

 

 覗き込むように一歩踏み出したグランの問いにエディはコクリと頷く。

 私はAD(エディ)。

 壊れたファティマ。

 お父様が直してくださった。

 以前のことは何も覚えていない。

 今のはきっとエラー。

 D2とはファティマの性能を測る基準の一つだ。それは数段階に分類され、パワーゲージという単位は純粋にファティマの能力を図る基準となっている。

 D2は一番下の下級ランクだ。All D2とは厳しい工場ファクトリーの基準からすれば廃棄対象であることを意味している。

 インダストリー製ファティマの不良品とは文字通り廃棄され処理されることだ。

 それを人道的な見地から捉えられる殺人と定義を同じにされる事はない。なぜならばファティマは人工生命体であり、人間としての人権を一切保有していないからだ。

 人ではないゆえにファティマは物として扱われる。それは星団法に基づいては合法であった。

 完成にまでぎつけたファティマの廃棄も滅多にあることではない。

 他の追随を許さない超高性能コンピューターであり、戦争の兵器の頂点であるMHを駆る彼女たちは非常に高価な財産でもあるからだ。

 精神崩壊から再生して復帰する者もいる。しかし、廃棄されたファティマの辿る運命は過酷なものだ。

 そのことをエディは知っていた。いや元からの記憶などあるのだろうか? さっきの記憶と感情は何であったのか?

 自分でも抑えきれぬものが込み上げて心を揺らしたのだ。そのざわめきも今は何も感じない。

 

「立て」

「はい」

 

 言われた通りにエディは立ち上がる。お父様の言葉に逆らうことはできない。そのように造られている。

 作製者であるマイトは親であると同時に、アークマスターとして、マスターと同等の制約をファティマに課すことができた。

 

「わしのことはダディと呼べ」

「はい、お父様(ダディ)……」

 

 寒さで震えるエディの剥き出しの肩に大きなバスタオルがかけられる。

 

「死にかけだったお前を助けたのはわしだ。覚えているか? 頭を吹き飛ばされ、脳波も死にかけていたお前のスイッチを入れたのだ。お前は以前の記憶を持っておらん」

「はい……いえ」

 

 エディは首を振った。何も覚えていなかった。老人の顔を見て思い出すものは何もなかった。

 焼けた大地と壊れた戦車。

 いくつもの戦場と。

 壊れたロボット──

 モーターヘッド──

 まただ……

 それは突然、フラッシュバックとなってエディを襲う。体を奮わせ自分の腕をタオル越しに強く掴んだ。

 今のは何だ?

 私の記憶なのか?

 それは初めて感じた恐怖だ。

 怖い?

 怖いという感情?

 グランは背を向けてベッドの後始末に取りかかる。その背をエディはぼんやりと見つめる。

 

「……久しぶりの表の空気だろう。上に部屋を整えててある。シャワーを浴びてゆっくり休め」

「はい……」

 

 訪れた動揺も一瞬の記憶が去って精神制御が効いたのかエディは冷静さを取り戻す。

 

「そこを出て、左へ行き階段を上がれ。そこがお前の部屋だ。服もある。好きなものを着ろ。ファティマ用のものだから気にしなくていい」

 

 扉を指差してグランが指示する。

 

「わかりました」

 

 その言葉に従ってエディは狭い工房を後にする。コークスの背中を見つめた後自動扉が閉まり通路の右手を眺める。

 工房から出ると廊下が左右にあった。左手にはグランが言ったように階段が見えた。

 右手を眺めるとそこは居間だ。奥がキッチン。その通路を真っ直ぐ見ればさらに下に下る階段があるのが見て取れる。

 よくある、ごく普通の一般家庭に見られるような構造だ。縦に長い構造であると推測できる。

 お父様に言われたとおり上に上がる階段を登る。

 途中の踊り場に窓があった。光がそこから差し込んで淡いグラディエーションの色彩を地味な石畳の床に投げかけている。

 そこで足を止めて窓際から外を眺めた。青い空に眩しい光が目を射した。

 

 眩しい──

 

 窓の遥か下に連なる赤い屋根が見えた。今いる場所が思ったより高台にあることに気がつく。

 窓を開け放つ。下を眺めれば、緑の蔦が淵にまで伸びて、円を描く塔の壁面を緑で埋め尽くしていた。

 鳥の鳴く声がすぐ近くで聞こえる。今いる位置と同じ目線で白塗りの高い塔が見えた。

 鼻先が少しむずがゆくなる。耐えられなくなって顔を押さえて軽くくしゃみをする。

 

 クシュン……

 

 まるで城のようだ。眼下にあるこの建物に属する建造物群と塔は古代の城を思わせる造りだ。

 遠くの曲がりくねった道路をディグが走って行くのが見えて谷あいの町に入っていく。その町から高台に道が伸びていくつかの見えない経路を伝ってこの城まで続いていた。

 断崖の谷のような場所にある城だ。こんな場所にそびえ立っている。

 ここはどこなのだろうかと見上げるも視界情報から読み取れるのは青い空を流れる雲の動きの予測くらいだ。

 日中の陽気に暖められた空気がまた鼻孔をくすぐる。

 

 クシュンっ!

 

 もう一度、今度派手にくしゃみをする。

 

「ん……」

 

 タオルをまとっただけの素足でここは冷い。素肌に感じる寒さはバスタオルでは防ぎようがない。

 窓を閉め桟と窓枠の作り出す影と交わる自分の影を踏む。

 天井を見上げれば上に扉が見えてそこ以外に該当する部屋がないのを確認する。階段を上がりきり塔の頂上に当たる部屋のドアノブを回す。

 そこは暖かさで包み込まれた小さな空間だ。部屋に満ちる日向と花の匂い。部屋を一定の温度に保つ微かな空調の音。

 レースのカーテンのある出窓に黄色い花が飾られているのが見て取れた。壁は花柄と草模様のベージュの壁紙が部屋一面を支配している。

 こじんまりとした部屋で調度品は木製の箪笥に小さなテーブルと椅子、そしてベッドがあった。本棚にある本は児童用の教育雑誌で女児向けのものだと見て取れる。

 それ以外のものはない。シンプルで居心地のよい部屋だ。部屋の雰囲気は元々この部屋が女性のものであるのだろうという印象を受ける。

 

 この部屋を使えということは空き部屋なのだろう。見覚えがあるものは何一つない。

 ひとしきり部屋を眺めた後、小さな洗面所のあるシャワールームの戸を開ける。壁に小さな丸い窓がついていて柄はないが部屋と同じベージュ色の壁だ。

 バスタオルを脱ぎ捨てて淡い光の中に裸身を晒す。無駄な肉一つない肉体は少女らしさを強調する。

 傷一つない白い素肌。その自分の体には何の感慨も湧かない。

 バスタブにその細い足を入れるとコックをひねる。水が出てそれが温かくなるのを待つ。

 すぐに湯が出て水しぶくシャワーに身を委ねる。そして熱い雫の洗礼を頭から受けていた。

 

 

 ──目覚めから二月後。

 小さな雲が風を受けてあっという間にぐんぐんと流れ去っていく。その空の下では試合が行われている。

 地を蹴った足のすぐ後に衝撃波が地をえぐる。そして刃が交差する瞬間にエディの手からスパッドが飛んでいた。

 

「あっ!?」

 

 止まろうとしたものの勢い余ってエディは尻餅をつく。ショートカットの黒髪が揺れて飛んだスパッドの行方を追って手が伸びる。

 そのスパッドを空中で掴んだのは黒衣の老人だ。

 次の瞬間にエディは投げ飛ばされた。お留守になった足元をさらわれる。そして腕を掴まれ芝生の地面に寝転がされていた。

 

「踏み込みが遅い。お前は今ので三回は死んでいるぞ? 流れを読め」

 

 グラン・コークスが真上から覗きこんで告げる。

 

「お父様は強いです……」

 

 抗議するようにエディはお父様であるグラン・コークスを見上げる。

 マイトでありながら騎士としての力を持つ者は希少だ。その力の差があるが、コークスは純粋な騎士としてよりマイトとしての力の方が強い。

 それでも一般基準のファティマより力は強かった。廃棄基準(ALLD2)のファティマがどうあがいても敵うようなものではない。

 騎士に敵うようなパワーゲージを持つファティマの方が希少ではあるが。

 

「不器用者め」

「はう……」

 

 手厳しいレッスンだった。お父様からスパッドを受け取る。

 戦うことは少し……いやかなり苦手です。

 お父様の教育は厳しいです。といっても、普通の子なら簡単にできることも私には少し大変です。

 壊れる前の自分のことは知らないけれど、きっと前の私もダメな子だったに違いありません。

 だって、失敗ばかりで合格点を全然もらえません。

 繰り返しやる演算計算すらも大変で自己流のプログラムを作れと言われたときも作ったものを見せたら変な顔をされました。

 だから、目下は家事整頓をきちんとやろうと考えています。館の人に掃除のコツを教えてもらいましょう。

 

「エディ、来週からわしの診断について来い」

「はい? 町にですか?」

 

 エディは首を傾げる。

 町というのはシュロの街だ。今二人がいる館の庭はル=フィヨンドという名で城の名前でもある。

 ここが二人が暮らす場所であった。生活空間はもっぱら塔の中で、館は公務を行う場所として使われている。

 エディの知識的、情操的な教育を行うのは主に館の中でだ。

 お父様が町に出ているのは知っていたが何をしているのかはよく知らなかった。週末になると必ず出かけるのだ。

 今まで城の外に連れて行ってもらったことはなかった。ファティマが出歩くことは基本的に許されないことだ。

 許しを得て外に出るのは初めてのこと。自分はうまく立ち振る舞えて良い点数をもらえるのか自信がない。

 少しだけドキドキする。

 人前に出て本当に大丈夫だろうか?

 粗相をしてしまわないだろうか?

 我ながら世間知らず過ぎて困ってしまう。

 

 エディはグランの後に続いて館の中へ入る。

 来ている服はファティマ用のスモックで動きやすいものだ。しかし素材は天然素材であるからその服だけでもとんでもない値段になる。

 それを容易く汚してしまうのでエディはとても申し訳なくなるのだ。洗濯は館にいる使用人の仕事だ。

 

「お嬢様、服が仕上がりましたので試着をお願い致します」

「はい」

 

 メイド服の女がエディを迎えて奥の部屋へ誘っていた。

 城に勤める使用人はエディのことをお嬢様と呼ぶ。

 ファティマに対する態度ではないのだが、マイトは貴族級として扱われるし、コークス本人も子爵位を持つ。

 自然、彼が扱うモノに対しても敬意が払われている。

 エディを見る目の多くは好奇心からであったが、グラン・コークスという存在に対する尊敬に寄るところが大きいのだろう。

 ファティマであるからといって粗末な扱いを受けたことはない。

 そのル=フィヨンドにおけるコークスのもう一つの顔がミッテラン子爵という呼び名であった。

 騎士の称号と正式な爵位を持つ貴族でもある。

 華美ではないもののエディもその格に合わせた格好をさせられる。館とその敷地内限定であるが肌を見せないファティマ・ドレスに身を包むのだ。

 普段着にしては贅沢なスモックを脱ぎ捨て用意された服を手に取る。

 

「この服は……?」

「表に外出するときはそれを着るようにと旦那様が」

「わかりました」

 

 下着姿になってエディは服の袖に腕を通していく。

 

「大変良くお似合いです」

 

 黒を基調としたスカートを揺らしてエディはくるりと鏡の前で一回転する。黒い髪と合った服装になった自分が自分を見つめている。

 色合いは地味ではあるものの色はお父様とお揃いであった。それが少し嬉しい。

 

「お父様は町で何をしているのでしょう?」

 

 ずっと疑問だったことを口にする。するとメイド嬢はニッコリと笑い返す。

 

「子爵様は町の恵まれない子や病人を無料で診察してくださります。壁の外にいる家庭にも気を使って診察に行かれるのです。大変有難いことです」

「そう……」

「いつもお一人でしたので、お嬢様が付いて行ってくださると助かります。子爵様は大事な方ですから。

 

 その次の日からエディのお父様の助手生活が始まっていた。エディがシュロで目覚めてから二か月少しのことだった。 


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