翌日。国際科二年J組。普通科よりも少しばかり偏差値が高く、男女比が1:9の特殊選抜クラスである。
男子は肩身の狭さを感じ、ほそぼそと過ごすしかないのだが、今日はそんな弱者の立場にいる一人が、一人の女子に話しかけた。
男子は「何を早まっているんだっ」と制止の声を、女子は「は、何してんのあいつ?」をオブラートに包んだ表現で非難の声を上げた。
「ちょっと、良い?」
「何かしら?」
話しかけた男に対し、まるで威嚇するかのような鋭い目つき。本人は別にそんなつもりもないのだが、切れ長の目がそういう印象を相手に与えてしまう。それでも美人だと思わせるほど、彼女の容姿は整っていた。
「魔お――じゃなかった、雪ノ下陽乃さんって君のお姉さんだよね?」
陽乃の名前を聞いてから、女の子は警戒心を露わにした。
「なぜ、貴方が姉さんを知っているのかしら?
ただ問いかけられているだけなのに、脅されているような感覚。さすがは魔王の妹と心の中で秋太は拍手を送る。そして人の名前を間違えるところもそっくりだと。
「
不快感を露わにした秋太に女の子が慌てる。
「ご、ごめんなさい。漢字でしか見たことがなかったから」
「自己紹介で言ったような気がする」
「貴方、一年生の最初の日ですら欠席してたじゃない。だから誰も貴方の名前を聞いた人なんていないわ」
国際科は特別編成クラスであるため、クラスメイトはほとんど変わらない。入学式の日の自己紹介を逃せば、自分を紹介する機会など早々ない。
秋太がクラスに溶け込んでいるのであれば、会話の中で間違いに気づく訳だが、休み時間になれば仕事のために教室からいなくなる彼がクラスメイトと友好な関係を築いているわけがなかった。
年間の重要な行事も基本的に欠席しているため、秋太はクラスで浮いている。だから秋太と話そうという人間は皆無だった。
秋田と認識されていても、名前までは分からない。そんな存在だ。
「むむ、それはこちらの落ち度か。まあ、良いや。で、お姉さんのこと――」
秋太が話を戻したところで、授業のチャイムが鳴った。
「昼休み、時間もらえる?」
「ええ、分かったわ」
短く会話を切り上げ、秋太は席に戻った。自分の席に戻る途中で、なぜか女子生徒に厳しい目で見られたが、とりあえず気にしないことにした。
◆
雪ノ下雪乃は動揺していた。一体なぜ? 今の彼女にはそんな疑問でいっぱいだ。
(姉さんのことで話があるみたいだったけど)
雪乃の姉の陽乃は美人だ。それは身内びいきという点を差し引いても美人と言えるほどに。社交性も高く、誰とでも仲良くなれる姉を雪乃は尊敬すると同時に苦手にしていた。嫌っていると言ってもいいかもしれない。
(またいつもの事かしら?)
美人である姉は人気者だ。だから紹介して欲しいという同世代の男子は少なからずいる。雪乃からすれば、どうぞご勝手にと言いたいところなのだが、人気者に話しかける勇気のないものは二の足を踏んでしまう。
そんなことではどうせ相手にはされないだろうと、雪乃は思うが、自分には関係ないと適当に話を終えてしまう。
秋太も同じだったのかと、思うと少なからず落胆した気持ちになる。彼は他とは違う、そう思っていたことが裏切られたように感じだ。
ただ、それは自分の勝手な期待である。彼に罪はないと言い聞かせ、昼にどう断ろうかと考えだした。
(なんか私、姉さんのマネジャーみたい)
雪乃は小さくため息をもらした。
◆
「ここよ」
話が長くなるかもしれないからと秋太が言うと、少女は「じゃあ私の部活に来てちょうだい」と秋太を部室に誘う。そのことにクラスが一瞬、ざわついたが、二人が首を傾げると収束した。
「何の部活?」
「奉仕部」
なんだそれ、と言いたくなかったが特に興味もなかったので、秋太は自分の要件を優先した。
「で、君のお姉さんなんだけど」
椅子に座りながら、秋太が話を切り出す。
「鬱陶しいから何とかして欲しい」
「ふぇ?」
普段の少女からは絶対に出ないような、変な声が発せられた。
「まあいきなり言われても困るだろうけど、なんか目を付けられちゃったんだ。少し前までは我慢もできたんだけど、そろそろ本格的に鬱陶しくなってきた。だからお姉さんに言って、ちょっかいを掛けるの止めてもらえない?」
「姉さんの連絡先を知りたいわけじゃないの?」
「はあ?」
素っ頓狂な声を今度は秋太が上げる。
「私に近づく異性は大抵、私に好意を寄せるか、姉さんに取り次いで欲しいかの2択だったから」
少女は自然に自分がモテると宣言した。それを否定できないほどの容姿であるが、真っすぐに言われると呆れてしまう。
「……お姉さんに連絡を取りたいわけじゃない。むしろ断固拒否する。こちらの願いは、お姉さんと俺との関係性を断ちたいってこと」
「あ、貴方、姉さんとどういう関係なのかしら?」
「ざっくり言えば、先輩と後輩。具体的に言えば、魔王様と蹂躙される騎士B」
「意味が分からないのだけど……?」
「困った顔は似てないんだね。えっと雪ノ下雪乃さん?」
陽乃と妹である雪乃の顔立ちはよく見ればそっくりである。ただ陽乃がその名を体現するように、明るい表情する女性であるのに対し、雪乃は大人びた表情をする女性だった。
秋太もなんとなく似ているなと思ったが、困惑で見せた表情は自分の知る女性と少しばかり違う。やっぱり姉妹かと少しばかり納得した。そして何よりホッとした。同じ人間が二人もいたら発狂していただろう。
「姉さんと私は似てないわ」
「そう? 黙っていれば結構そっくり。まあ、あの人は笑い方が邪悪すぎるから、美人とか以前に怖いけど」
「姉さんが邪悪……ぷっ」
雪乃が小さく噴き出した。そして肩を小刻みに揺らしている。
「貴方は姉さんの本質に気づいているのね」
「人を苛めることが大好きってこと?」
「ふふ、そうね。でも珍しいわ。姉さんが外で取り繕わないのは。いつもニコニコと皆が求める雪ノ下陽乃を演じているのに」
「あ~あの笑顔ね。あれ凄いよね。で、一瞬で真顔になると超怖い」
「姉さんが本当に怖いのは笑っているときの方なのだけどね」
なぜか陽乃の悪口で意気投合する二人。お互い溜まっていたものが相当あるようで、口からするすると言葉が出てきた。
「ふぅ~、ちょっと気が晴れた」
「身内が迷惑をかけてごめんなさい」
「いや、君が悪いわけじゃないから。ただお姉さんの件はよろしく頼む。仕事を邪魔されるのは本気で困る」
「仕事? あ、そう言えば生徒会の――」
雪乃は秋太が生徒会室に行くのを何度か見たことがある。同じ特別棟に生徒会室と奉仕部の部室があるのだから当然だ。
「そっちじゃない。俺のバイト、と言えるかは分からないけど、そっちの方。一応プログラマーをやってます」
「もしかして、貴方が時々欠席するのは……」
「そ、仕事。期限間近だと時間が欲しくてね。去年は単位がギリギリ過ぎて危なかった」
留年して無駄に高校に通うなんてありえないと秋太は続ける。
「興味本位だから、言いたくなければ言わなくても良いのだけど、なぜと聞いても良いかしら?」
「お金だよ、お金。生活費を稼いでいるの」
「ご、ごめんなさい。気軽に聞いていいような内容ではなかったみたいね」
高校生が生活費を稼ぐと言っている。それは事情があると言っているようなものだ。それも決していい話ではない。
それが分かったからこそ、雪乃は謝った。
「別に、家が貧乏とかってわけじゃないから。ん、でも、俺の財布は暖かくないわけだし、貧乏と言えば貧乏かな?」
「……?」
雪乃は秋太の言っている意味が分からず、小さく首を傾げる。
ただ秋太本人が気にしてない様子から、雪乃はもう少しだけ踏み込んだ質問をする。
「ねえ、秋田君。貴方はなぜ学校で作業を?」
「学校に通ってるから」
「仕事をしているのだから、わざわざ学校に通う必要はあるのかしら?」
秋太は既に稼ぎを得ている。秋太の言葉から高校に行く意味をあまり感じていないようだと分かる。では、なぜ通っているのか、雪乃はそれを疑問に思った。
「親の面子」
「え?」
予想外の答えだった。もっとちゃんとした理由があると思っていたからだ。
「家の親って学歴にうるさいんだよね。なんかコンプレックスがあるみたいで。で、そんな親だから、勉強しろってうるさかったわけ。中学時代は本当に面倒だった」
苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「ただ、俺たちの年代は反抗期じゃん? まあ親の言いなりになるのが嫌なだけなんだけど」
「……それは分かる気がするわ」
雪乃は何かを考えて少しだけ表情を強張らせた。
「でも、親に養ってもらってる身だと文句を言っても聞いてもらえないし、自分の方が正しいみたいな言い方をしてくる。これはもう、あれだよ、自立しろっていう神様からのお告げだよね」
「……それはちょっと」
大人の階段を上っているとはいえ、中学生はまだ子供だ。経済力などない子供に自立しろというのは無理な話である。
「で、親の言いなりになりたくなかったから、手に職をつけたわけ。最初は大変だったけど、気合と根性とガッツを必要とするプログラマーの仕事は俺に向いてた」
「私のイメージするプログラマーとは違うようだけど」
「そんなイメージは捨ててしまえ。で、そっち方面の才能を持っていた俺は一人暮らしを宣言。ただ中学を出て働くって言ったら、今まで養ってきた分を返せとかキレる訳ですよ。親としてどう思う?」
そんな問いに答えられない雪乃は、ただ曖昧に苦笑するしかできなかった。
「で、一応県下でも名の通ったこの学校に進学することを条件に、返済期間を延期してもらってる訳。稼いだ分をコツコツと返済に回しているの」
「それは……」
家庭環境としては最悪と言っていいだろう。言うことが聞けないなら金を払えなどと言う親だ。普通で考えればありえない。
ただ、それで束縛から解放されるならと秋太は喜んでその条件を受け入れた。親戚に面子を保てるだけの有名進学校に通っていれば、とりあえず親からは文句を言われない。そして高校に通っている間に親の要求した金額を稼ぐ気なのだ。
「たぶん、今年中には返済できる。そしたら高校辞めて、自由に過ごすさ」
「……貴方は凄いのね。しっかりと自分で自分のやりたいことをやってる。私とは違う」
「そりゃあ、育ってきた環境が違えば、歩む人生も違うでしょ。俺は俺がやりたいことのために我を通して、それで発生した責任を自分で負ってるだけ。特別なことじゃない。進んで苦労を背負ったんだから、それに文句なんて言えないでしょ」
自分で負ったものなのだから、それに対してとやかく言うことはないのだとはっきりと雪乃に告げた。
「君だって、やりたいことがあってこの部を作ったんでしょ? 何の活動をするのか、よく分からないけど、とりあえず何かをしたかった。やると決めて、行動する。その点に関しては俺も君も変わらないよ」
言いたいことだけ言って、秋太は作業に戻った。
「やると決めて、行動する」
秋太の言葉を雪乃は小さく呟く。ただの言葉だ。だが、雪乃にはとても重要なことのように思えた。
「あ、貴――」
「ゆきのーん! やっはろ~!」
雪乃が何かを言いかけたとき、元気いっぱいの声が部屋に響いた。
ドアが無遠慮に開いていて、今どきの高校生と呼べる少女が手を振りながら入ってくる。
彼女の後ろには死んだ魚のような目をした少年が、面倒くさそうに付いてきていた。
「由比ヶ浜さん、ノックは教養ある人間の証よ」
雪乃は固くしていた表情を一瞬で朗らかなものに変える。入ってきた女の子を見て、どこかホッとしているようだった。
「あ、ごめんね、ゆきのん。それに――」
由比ヶ浜と呼ばれた少女は、ちらりと雪乃の正面に座っていた秋太に視線を送る。
「時々思うけど、この学校に居たらおかしい子っているよね。今、目の前にして、ホント不思議に思う」
「なんか遠まわしにバカって言われた気がするんですけどっ!」
「由比ヶ浜、それは勘違いだ。単純にバカって言ってるんだよ」
「そっちの方が酷いしっ! ヒッキーマジキモい!」
俺のキモさは関係ないだろと、少年がぼやく。
「なるほど。ここは奉仕部という名のお笑いクラブな訳か。文化祭では頑張って」
「秋田くん、変な勘違いは止めなさい。お笑い担当はそこの二人だけよ」
「ゆきのん!?」
「俺もかよ」
「比企谷くんは嘲笑されているだけなのだけど」
「うわぁー、雪ノ下さんのっけから飛ばしてきますね。何か良いことでもありましたか? それなら俺に優しさをくれても良いと思うんですけど」
比企谷と呼ばれた少年は、雪乃の先制パンチに小気味よいカウンターを返す。
「ねえ、ヒッキー。ちょうしょうって何?」
その場にいた全員がよくこの高校を受かったなと本気で思った。