雪ノ下雪乃は窓際後方2番目の席に視線を向けていた。
(今日は居るのね)
机に突っ伏しながらも、その手は携帯を握っており、何やら打ち込んでいる姿が見えた。
彼に興味を持ったのは、一年の一番最初のテスト結果が張り出された時。自分の下に名前があったことから少し気になった。
一年の頃から同じクラスなのだが、今まで会話をしたことなど一度もない。
勉強ができるという程度なら、気にも留めないはずであるが、なぜか気になってしまった。
会話をしたことがない以上、観察したことでしか彼の為人が分からない。観察と言っても、凝視していればクラスメイトに勘違いされてしまうかもしれないので、読書の合間にチラチラ見るくらいだ。
雪乃が彼について分かることなど、多くはない。
学校を休む。それがサボっているのか、体調不良によるものなのかは分からないが、おそらく前者だと考えられる。
人とあまり交流をしない。他人のことを言えたものではないが、雪乃は彼が特定の誰かと楽しそうに話している姿を見たことがなかった。休み時間は寝ているか、携帯をいじっているか。昼休みになれば、そそくさと教室から消える。目的の場所は分かっている。生徒会室だ。なんどか彼がそこに行くのを目撃している。役職に名前がなかったことから、正式な生徒会役員ではないことは分かるが、学校をサボる人間が生徒会に顔を出す理由は分からなかった。
(いつも昼休みに持っていくケースは何なのかしら?)
雪乃は彼が昼休みには必ず持っていく黒いケースが気になっていた。
ただそれを尋ねるようなことはしなかった。自分と彼は関わるような人間ではないと思っているから。
二年に進級して、すぐの穏やかな春の日のことであった。
◆
「はい、どう~ぞ」
お茶がこんっと置かれた。
間延びした口調で。それだけで、人柄が分かってしまうようなそんな話し方だ。
ニコニコと笑い、席に戻るとテキパキと仕事を片付けていく。
生徒会室での日常的な風景だ。
「めぐり先輩、楽しそうですね」
めぐりと違い、パソコンを高速で打ち込んでいた男子生徒がそう尋ねた。
「そうなの! 今日、はるさんが遊びにくるんだって! 私も久しぶりに会うから楽しみだな~」
「…………」
まるで恋に焦がれる乙女のように、めぐりは本当に楽しそうに笑う。
その一方で「魔王様降臨……」と小さく呟く男の表情はめぐりとは全く逆のものになっていた。
「あ、めぐり先輩。俺、今日ちょっと用事が有りまして、生徒会の方には来れないです。すみません」
「え~~! せっかく、はるさんが来てくれるのにー。ぶーぶー」
頬を膨らませるめぐり。「この人、先輩だよね?」と子供っぽい彼女を見て男は苦笑する。
(そもそも、そのはるさんが来るから逃げるんだけど)
めぐりが文句を言っている傍で、男は気づかれないようにそっとため息を吐いた。
◆
雪ノ下陽乃は久しぶりに母校を訪れていた。
「めぐりはさ、進路決まってるの?」
「あ、はい。一応、はるさんと同じ大学で、推薦で受けようと思ってます」
「へぇ~、さすが生徒会長ー」
「えへへ」
褒められためぐりは素直に笑う。可愛いなと陽乃はめぐりを見て微笑んでいる。
「で、
「なんか用事があるみたいで、今日は早めに帰りました」
残念そうに言うめぐりに対して、陽乃の笑みは深まるばかりだ。ただ、それは楽しんでのことではない。
「ふーん、そう」
勘違いだろうか。めぐりは部屋の温度が急激に下がっていくのを感じた。春の陽ざしがその役目を果たしていない。
「あ、あのーはるさん?」
「なーに?」
めぐりが言っていいのか迷ってしまう。
陽乃が笑顔であるのは確実なのだが、形容しがたいなにか黒いオーラのようなものが、陽乃の背後からまるで噴き出すように、勢いよく飛び出しているのがめぐりには見えた。目をごしごしと拭ったが、その幻覚が消えることはなかった。
「怒ってません?」
「そんな訳ないでしょー。秋太が生徒会の仕事をサボってまで、私から逃げようとしたことくらいで、怒るわけないじゃん」
怒ってます、怒ってますよーと震えるめぐり。そんなめぐりを見ても、陽乃は笑うことをやめなかった。
「とりあえず、メールでもするか」
――ヤッホー。私だぞ♪ 秋太が生徒会室にいなくて寂しいな。
ニコニコしながら陽乃はその内容でメールを送信した。
きっと、ぶっきらぼうな答えが返ってくるだろうと、陽乃は期待したのだが、予想外の返信に笑顔が固まった。
「メッセージを送信できませんでした……ね?」
「は、はるさん?」
「そうか。そう来るか。まさかメール拒否じゃなくて、アドレスごと変えてるとはね」
昨今、メールの拒否設定の場合、サーバーにメールが送られ、そこで削除されるため、自分の元に返信されない。だから送信者は拒否設定をされているとは分からない。
わざと自分のメールを拒否していると伝えている秋太の嫌がらせに陽乃は――笑った。
めぐりがその笑顔を見てドン引きしているが。
「そ、そんなに強く握ると、携帯さんが……」
めぐりの忠告を聞き流して、今度は電話を掛ける。
――お掛けになった電話番号への通話は、お客様のご希望によりお繋ぎすることができません。
「…………」
ここに来て、陽乃の顔から完全に笑みが消える。能面のように全く感情を感じさせないその顔に、ひぃっと小さく悲鳴を上げためぐりは5歩ほど下がる。
「……私を拒否するとは、良い度胸じゃない」
「は、はるさん、きっと秋太くん携帯が壊れちゃったんですよ~。だから――」
「めぐり、秋太に電話してみなさい」
拒否は認めないと、陽乃の視線が脅しをかけていた。こくこくと頷くと、めぐりは履歴から秋太の番号を探す。先日掛けたこともあって、すぐに見つかった。
陽乃の強烈な視線に晒されながら、めぐりはスマホの画面を押した。
できるなら出ないで欲しいという願望と共に。
【めぐり先輩? 何か用ですか?】
めぐりの願いは叶えられなかった。日頃の行いは良いはずなのにと、心の中で神様に抗議を開始する。
めぐりが耳元に近づけずに電話を掛けたからだろう、電話先の声が生徒会室に響き渡る。それと同時に、部屋の温度が異様なまでに下がった。
【あれ? おーい、めぐり先輩? 電波悪いのかな?】
もうめぐりは笑うしかなかった。あははは、と尻つぼみに声が小さくなっていくが。
神様、助けてくださいとめぐりは切に願う。
この世に神など存在しないが。
「めぐり」
言わずとも分かった。めぐりは自分の携帯を陽乃に差し出すと、黙って距離をあけた。
【めぐり先輩? 聞こえてい――】
【聞こえてるぞ♪】
【げ!】
【げとは失礼ね、こんな美人を捕まえて。まあ、良いわ、とりあえず――】
ツーツーと電話が切れる音がする。
切ったのだ。電話をしている最中に、話している人間が誰なのかを理解して、ためらいなく切ったのだ。
すっとめぐりに陽乃は携帯を返した。
陽乃は美人だ。それは自他ともに認める覆らない事実だ。
陽乃は異性から嫌われるという経験がない。少し声を掛ければ、勘違いする男など腐るほどいる。
陽乃は異性に電話を切られるなど、屈辱的な経験はない。相手に急ぎの用事が有るときでさえ、陽乃と話すことを優先する男がたくさんいる。無言で、しかも会話中に切られることなど、彼女の人生において初めてのことだった。
「あんにゃろ~!」
「は、はるさんが燃えてる……」
外面だけは完璧と最愛の妹に称されたその仮面は一人の年下の男の子によって簡単に剥がされた。
美人であるというプライドを傷つけられたのだ、これは怒らずにはいられなかった。
「めぐり!」
「は、はい!」
「私、またここに来るからっ! あの小生意気なガキをぎゃふんと言わせないと気が済まないの」
それだけ言うと、陽乃は部屋を出て行った。
「うぅ~はるさん、私とのおしゃべりは~」
結局、ほとんど話すこともなく帰っていった陽乃にめぐりはがっくりと肩を落とし、怒らせる原因を作った秋太に、恨み言を言ってやろうと心に決めた。
◆
「もぅ! 酷いよっ」
怒ってますと頬を膨らませる生徒会長。
「濡れ衣です。用事の最中に、電話を掛けてきためぐり先輩が悪いじゃないですか。しかも無言だったし、いたずらだと思って切っちゃいましたよ」
「そっちじゃないよっ! 秋太くんが電話を切るからはるさんが見たこともないくらい怒って帰っちゃたんだから」
「いや、それこそ俺の所為じゃないです。きっとめぐり先輩のエンジェルボイスが魔王様にはダメージだったということですね。さすがです」
「い、意味がわからないよ、もぅ!」
ぽこぽこと擬音語にすればそれほどの威力ではない攻撃だが、めぐりは見かけによらず力持ちだ。そんな彼女の連続攻撃が痛くないはずがない。割と本気で、秋太はめぐりの両手を封じた。
「はぅ~」
「いや、そこで赤らめないでくださいよ。先輩の殺人パンチ、結構痛いから、止めただけです」
めぐりの両手を両手で封じているため、二人の距離は触れるほどに近い。めぐりより頭一つ分違う秋太から見下ろされているような状態だ。壁ドンに匹敵する気恥ずかしさである。
「暴れないでくださいよ」
秋太がそっと手を離すとめぐりは小さくなって俯く。「なに、この可愛い先輩」と秋太が、ときめいているとめぐりがぱっと顔を上げる。
「お、女の子は、ちょっと強引な方が、良い時も、あるんだ……よ?」
「ぐっ」
動悸が激しくなる。狙ってやっているのか、もじもじしながらそう答えためぐりに、秋太の理性という名のライフが大幅に削られた。
「……先輩、将来、絶対男を泣かせますよ」
「む~それは女の子には言っちゃいけないセリフだよっ! まるで私が男の人を誑かすみたいに聞こえるから」
そう言ってるんですと秋太は呟いたが、めぐりには聞こえなかった。
「そう言えば、あの人はいつ来るって言ってましたか? 俺、その時に急用ができる予定なんで事前に言っておきますね」
「逃げる気満々だね」
めぐりは苦笑するが、当然だと秋太は頷いた。
「あの人、ホント邪魔しかしないし。人が仕事をしてるところにちょっかい出すから鬱陶しいんです」
「あはは、はるさんは気に入った人を構いたがる性格だから。秋太くんがはるさんに気に入られてるって証拠だよ」
「全然嬉しくないです」
秋田秋太は苦学生である。別に実家が貧乏であるわけではないのだが、とある事情で自分の生活費等を自分で稼がなければならない。
ただ幸いだったのが、プログラミングという技術。その才能があったのか、今ではプロ顔負けの技術を誇っている。
そのおかげも有って仕事には困っていないのだが、時間がやはり厳しい。高校に通いながらでは時間の制限がかなりできてしまう。
「折角、こんなに良い仕事場なのに、なんであの人呼んじゃうんですか?」
秋太は学校で仕事をするために、生徒会庶務という雑用を引き受けている。ネット環境が整っているのが特別棟だけであり、特別棟は生徒会室を除けば文化系の部室しかない。すでに部室は埋まっており、新たにパソコン部を設立することも不可能なため、秋太は生徒会の簡単な雑用を引き受けることを条件に、この場所を借りているのだ。
ほかの部活に入ることも考えたが、一人だけ全く別の活動をしている者を快く受け入れるとは思えないため、仲の良い教師の仲介もあって、生徒会を手伝っている。
少し前までなら問題はなかった。優しく優秀な生徒会長がきびきび働くため、自分に回ってくる仕事が殆どない。精々、報告書等の作成をする程度だが、秋太にとってそれは苦でもなんでもなく、手早く終わらせられるものだ。
問題があったのは一人の女性が現れたことだ。
めぐりの二つ年上で、秋太の三つ上だ。めぐりが一年の時の三年生であり、秋太は全く関係のない女性だった。
そう、そのはずだった。
――へぇー、
秋太の持っていたノートを見て、女性はそう言った。一方、秋太は人の名前を間違える失礼な奴と認識した。
割とよく来る卒業生だとめぐりから紹介があり、流れで秋太も会釈程度には挨拶をした。その時は、特に何も問題はなかったのだが、彼女が総武高を訪れると、なぜか無駄に寄ってくるようになったのだ。
秋太が生徒会室で明らかに異質な行動をしているのが、彼女の何かを刺激したのかもしれない。
邪魔だ。
心の底から秋太は思った。直接的な妨害はたまにしか行ってこないが、秋太が仕事に集中していると、いつの間にか正面に座り、ずっと見ているのだ。これは完全に嫌がらせをしているのだと悟る。
そんな関係が二か月も続けば、秋太が女性を嫌うには十分だ。
「あはは、はるさんは大人びて見えるのに、子供っぽいところがあるからなー」
「……先輩はそのままで居てください」
「なんで!?」
子供っぽい先輩を相手しながら、秋太は陽乃対策を考える。
「先輩、生徒会長権限で、部外者の立ち入りを禁止してくれません? というかこの学校緩すぎでしょ」
「うーん、それは無理かな。ちなみに学校の名誉のために言うけど、校内に入る場合は事前に事務の人に連絡して、許可証をもらっているんだよ。まあ、はるさんの場合は顔パスかもしれないけどね」
仕事しろと叫びたい衝動に駆られた。少なくとも陽乃が来るときだけは、追い払ってくれないかと見知らぬ事務員さんに切実に願う。
「あ、そう言えば、はるさんには妹さんが居て、秋太くんと同じ、二年生なはずだよ」
「あの人の妹……小魔王か?」
「すごく綺麗な子だよ。同性の私が嫉妬しちゃうくらい」
「めぐり先輩も十分可愛いですよ」
「綺麗を可愛いに変えたのは減点かな。秋太くん、お姉さんポイントは上げられないぞ♪」
にっこりと笑うめぐりはやっぱり可愛かった。
「そう言えば、あの人の名前ってなんでしたっけ? めぐり先輩がはるさん、はるさん言うから、魔王としてしか認識してないんですよね」
「それ、はるさんとしても認識してないよね? 最初に自己紹介したでしょ。えっと、はるさんの苗字は雪ノ下。雪ノ下陽乃さんって言うんだよ」
「あ、妹の方、なんか知ってる人かも」
そう言えば同じクラスにそんな苗字が居たなと、いつも不機嫌そうな顔をする少女のことを秋太は思い出すのだった。
文化祭編くらいで終わると思います……たぶん。