言障少年と夢幻世界 作:レジ袋
僕の心を傷つけるのは、いつだって僕自身だった。
「おい、佐々木。最後の行、お前が朗読する番だぞ?」
蒸し暑い夏季の教室の中、国語教諭であり僕の所属するクラスの担任でもある"鷹木"は、蒸し蒸しとした熱気で気が緩んでいるのか、怠けた声のまま僕の名をそう呼んだ。
佐々木――とある調査によると、日本でこの名字を持つ者は約68万6000千人も存在するらしい。
特徴的でないところが逆に特徴的ではないのだろうか? と、僕は思う。
そんなある種の特徴的な名字を持つ男子高校生の一人―――それが、僕だった。
その名を言われたとき、僕は「あぁ、来てしまった」と、運悪く締めくくりの一文を読まなくていけなくなった絶望感に、夏だというのに肝が酷寒の冬の外に晒されたかのような感覚を覚えてしまった。
「――あぁ、そうか。そういえば、佐々木は……いや、すまん。失念していた」
鷹木は、無意識に引き攣っていたらしい僕の顔を見て"佐々木霊夜が持つ受難"について思い出したのか、怠けた声から元々の妙な緊迫感がある波ッキリとした声で、僕に軽く謝罪をした。
哀れみの目を、僕に向かせて――
「…………」
鷹木の配慮を無視して、僕は朗読をするため席を立った。
――心臓がバクバクとうるさい。
隣の席の坂下が、心配そうに僕を見ている。
もしかして、この喧しいほどの心臓の鼓動が聞こえちゃってるのかな?
そうだったら嫌だな。
『たかが教科書の朗読くらいで緊張してる』と思われたら、更に最悪だ――確かに緊張はしてるけど、それはクラスメイトに朗読を聞かせるという行為に対して緊張してるわけではない。
「……坂下。佐々木の代わりに"鼻"の最後の行、朗読してやれ」
「あぁ、はい。わかりました」
「……っ(いえ、いいです。僕がやります)」
「いや、お前がやる気ならそれでいいんだが……」
僕の目による訴えが効いたのか、先生は懸念しながらも僕の意思を尊重してくれた。
ここで逃げてはいけない。
逃げてしまっては、僕はいつまで経ってもこの『呪い』を解呪することができない。
――挑まなくては、成長はありえない。
「…………」
緊張で全身から出る脂汗でTシャツが身体に吸い付くのを感じながら、僕は大きく深呼吸をして覚悟を決めた。
なに、やることは簡単だ。
芥川龍之介の"鼻"の締めくくりの言葉――"長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら"と、早口でもいいから言えばいい。
たったの二十四文字だ。鷹木は国語の朗読を、"句読点のところまで読んだら後ろの席の人に交代"というルールでやっているから、大体は短い文をさらりと声に出して読んだらそれで交代だ。廊下側の席から窓側の席、という順でいつも読んでいるので、文章量の多い小説だと廊下側のやつは二回朗読することもある。
鷹木の小説読解の授業は、1ページを二時間かけてじっくりと勉強していくというスタイルなので、基本的に一周するかしないか程度で朗読は終わる。僕の席は一番後ろの窓側なので、朗読をする機会は少ないほうだった。
だから今日はきっと、運が悪かったのだろう――おのれ芥川龍之介め、もっと簡潔に纏めろよ。と、文句を言いたいところではあるが、恨んだところで朗読を回避できるわけでもない。もっとも、ここで回避してはいけないと、思っているわけだけど。
「…………」
教室が、シーンと静まる。
周りを見ると、クラスメイト達が揃って懸念に満ちた目をしていた。
僕はもう一度、大きく深呼吸をして――芥川龍之介の『鼻』の締めくくりの言葉、"長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら"を声に出す。
「な、なっ……あー長ぁァイはっ、はっ……」
――僕の心を傷つけるのは、いつだって僕自身だ。
"吃音症"だなんて言語障害を持って生まれてしまった――僕自身のせいに、他ならないのだから。