四季映姫・サカノボルゥ   作:海のあざらし

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被暴露之伍之弐 茨木 華扇

 ーー 気()れては風新柳の髪を(けづ)る。春の昼日中は靡く麗人の髪、日が落ちればはらりと舞う夜桜。なんと風流なことであろうか。

 

 ーー 水消えては波旧苔の髪を洗う。無骨そうなのに、えらく雅が似合うわね。波に揉まれて水を滴らせれば、もっと良い男に見えるでしょうに。

 

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「山の高く深いところに居を構え、修行を欠かさない。なるほど、世を捨て高みを目指す仙人らしくはありますが」

 

 ちらほらと粒ほどの雪舞う季節、とある山を雪踏み分けてさくさくと登る小さな人影が二つ。

 

 頭の大きさにやや合っていない被り物、鮮やかな緑の長髪は辺りの銀世界によく映えておられる。里の幼子程度しかないような身長してるその女性は、地獄を司り泣く子も黙るというより黙らせちまう閻魔大王様さ。

 

「…通うものの面倒さを考慮してはいないようですね」

 

 そりゃあ、仙人は他人が来訪してくることを織り込んでないだろう。というか、寧ろ来訪されないようにこんな山の中に家を設けてるんじゃないのかね。

 

()()()暫く待ちましたが、伊吹 萃香は動きませんでした。だから多忙の身である私がわざわざ出向いていかなければならなくなったのです。私の仕事を妨げるとは許せません、いつか魂を裁く時になれば詰ってやります」

 

 多忙の身、ねぇ。…いや、合ってるよ?確かに閻魔様は日夜幾千もの魂をきちんと輪廻に還しておられるんだ、忙しくないなんてことはない。ただ、する必要があるのか限りなく怪しい外遊も多いから、何となくそれを認めるのに抵抗があってね。間違ってないのに、無性に正しいと言いたくない時って偶にあるだろう?この時のあたいがまさにそう思ってたよ。

 

 あぁ、あの時ってのは数ヶ月前の話だね。夏もまだまだ勢いを保ってた頃に、閻魔様はあたいを連れて博麗神社を訪れたんだ。その目的は、そこに入り浸っている不羈奔放の鬼・伊吹 萃香に一つの忠告を加えることだったみたいだね。とは言っても伊吹自身が何か目に余る悪事を働いたとかいうことじゃあない。閻魔様は伊吹に、言ってしまえばとあるものへの言伝を頼みたかったみたいなんだよ。でもあの時は本当に閻魔様が容赦なく本分を発揮なされてね。それで怒った伊吹に阻まれて、結果として閻魔様の目論見は失敗に終わってしまったんだけど。

 

 ありゃあ相当に強烈な拒絶だったよ。傍観者に近い立ち位置だったあたいが聞いてて暗い気分になるくらいだったもん。これは流石に鋼鉄の精神を持つ閻魔様でも堪えただろうなぁと思って、地獄に帰ってから大丈夫ですかって聞いてみたよ。そうしたら帰ってきた答えはなんだと思う?…『今日は頑張ったので、らぁめんを食べに行きましょう。お代はこちらで持ちますから貴女も来なさい、食事の席に話す相手がいないというのは些か風情に欠けます』だってさ。あの瞬間、あたいの中で閻魔様のお心は鋼どころか金剛石にまで格上げされたよ。二度と顔を見たくないって言われたすぐ後に部下誘って意気揚々と夜ご飯食べに行くなんて、あたいにゃ絶対できないね。

 

「仙人なら私が今こうして接近してきていることくらい分かっているはず。今この時くらい結界を解除して私の歩く手間を減らしてくれたって、罰は当てないというのに」

 

 いつもあちこちへ出かけては誰かの隠したいことを暴いて、その反応を愉悦の笑みと共に楽しんでいるような閻魔様だけど、それでもあの方は力ありと認められて座につく閻魔大王だ。当然、その職に見合った仕事というものが存在するわけだよ。地獄という組織の責任者を務める以上、やらなければいけない職務をほったらかしにしてしまっては他の者達に示しがつかない。それを正しく把握なさっているからこそ、極力上げたくなかったであろう重い重い腰をついに上げて今回忠告をかけるべき相手の元へあたいと一緒に向かわれたのさ。

 

 あたいがその相手と何か話すってことはあまり無いだろうなって分かってはいたんだけど、それでもいつもより数段気分は晴れなかったよ。この前の閻魔様のらしくない意味深長な言い方とそれに対する伊吹の反応を見れば、誰だって今回の訪問が楽しいものにはならないことくらい想像つくよねってこと。

 

「本来ならとっくに着いていて、暖かい緑茶でも片手に話し合いが始まっているはず。そう考えると、無性にみるくを沢山入れたここあが飲みたくなってきますね」

 

 あの方がそれを分かっていなかったのか、それとも分かっている上で瑣末事として気にも留めておられなかったのか。まぁ多分後者なんだろうね。云千年どころか云万年なんて長い長い年月を生きてきた閻魔様からすれば、たかだか千やそこらの未熟者の悩みなんざ無聊を慰めるネタでしかないってことかな。ただ、あの方も閻魔大王として成さねばならない義務に対しては真摯に取り組むお方だから口撃しこそすれ余計な茶化しを入れることはないだろうって思ったよ。

 

「あの柔らかな甘味に勝る幸福もそうは……おっと、ここを左に八歩ですか。しっかり私の真後ろないしは横を着いてきて下さいね、貴女の足五つ分()を外れればその瞬間貴女だけが山の入口あたりまで戻されてしまうでしょうから」

 

 あたいはその時閻魔様の斜め左後ろを歩いていたんだ。いきなり戻されるっていうのはちょっと怖かったし、どれだけあの方とズレてるか見たんだよ。そしたら四歩と半分ちょっとくらいズレてて冷や汗かいちゃった。

 

 二歩分くらいあたいが閻魔様の方に寄った後も、結界が示す不可視の手掛かりを元にして、閻魔様は迷うことなく歩き続けられた。右へさくさく、左へさくさく。時には木の幹を触り石を動かし、一つずつ着実に障壁を超えていく。あたいはあそこに行く時はいっつも手順とか無視してぽーんと移動しちゃうからね、あぁして1歩ずつ自分の足で着実に歩いていくのは新鮮だったよ。

 

 やがてちらほら程度だった雪が心なしか勢い付いてきた頃だったかな、閻魔様はぴたりと立ち止まられた。何も知らされてない人間がそこに行ったところで見えるのは落葉しきって枯れた木と積もる雪だけだが、一端以上の奴ならそこに結界の切れ目があるのが分かるだろうね。

 

「ようやくですか。雪の中をかれこれ半時も歩き回るハメになろうとは、流石に些か想定外でした」

 

 強まり吹き付けてくる雪から逃れるように、一歩踏み出した閻魔様とあたいが立ち入った世界は、完全に秒前とは別のものだったよ。

 

 ちゅんちゅんちちち、と鳥がまるで春を迎えたことを喜ぶかのように嬉しそうな声色で囀っていたよ。木は落葉してたけど、結界の外側と比べればその寒さはかなり軽減されてて春の初め頃と言われればあぁそうなのかと納得してしまうくらいだったね。後ろを振り返っても別段吹雪いているであろう山の光景が見えるわけでもなし、代わりに深い緑色の草の茂みからひょこりと頭を出した鼬があたいと目を突き合わせるときた。

 

 四季の変化に乏しくて、地理を除けば暮らすにはもってこいの好条件だと断言できちゃうあの場所こそが、閻魔様の今回の標的が暮らす場所。

 

「誰に教わるでもなく、独力でこの結界を越えられるなんて」

 

「あぁ、これは遅くなりまして申し訳ありません。今更ではありますが、お邪魔しております」

 

「見たら分かるわ。取り敢えずいらっしゃいと言っておこうかしら」

 

「歓迎頂きありがとうございます。ちなみに結界についてですが、もう二段階ほど複雑で疎ましい結界を用いる妖怪を私は知っていますので。これくらいならまだ現場対応でどうとでもなるのですよ」

 

「…正路(パスワード)の強化が必要みたいね」

 

 その名は、茨木(いばらき) 華扇(かせん)。いつからか幻想郷にやって来ていた、ちょいと曰く付きの行者だよ。

 

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「貴女、そんな短い丈のスカート履いて寒くなかったの?外はそれなりに雪も風もある時分だと思うのだけれど」

 

「気温セ氏二十度を白、実際の雪模様が私に及ぼす影響を黒とすれば何のことはありません」

 

「……寒くないなら良いわ」

 

 茨木には、閻魔様が何を言ってるのか分からなかっただろうね。仕方ないさ、あの方の能力の出鱈目さと言ったらありゃしないもの。白を受け入れ黒を弾く、しかも色の設定は自由自在でほぼ制限もないとくれば、ご自身の周りの温度を一定に保つくらいは訳ないよね。…さらにあたいにもその恩恵を分け与えて下さってたら、尚のこと良かったんだけどそれは流石に高望み過ぎるのかねぇ。あたいは山登ってる時、すっごい寒かったんだけど。

 

「それで、貴女ほどの御方が一体ウチに何の用かしら?四季 映姫・ヤマザナドゥ」

 

 冷えちまった手を熱いお茶の入った湯呑み触って温めてたら、そんな質問が茨木から投げかけられてね。閻魔様がちょっとおや、みたいな表情をしてたよ。

 

「私のことをご存知でしたか。確か初対面だと記憶しているのですが」

 

「何度か遠目から拝見させて頂いてたわ。随分と意地の悪い趣味を持ってるのね、乙女を泣かせて楽しむだなんて」

 

「私としては、自らの過去に心から怯え悔いてくれさえすれば泣かれようが泣かれまいがどちらでも良いのですが」

 

 平然とお茶を飲みながら言うようなほのぼのした台詞じゃ無いと思う。要するに、お前の隠したい過去一つバラすから私を満足させるような反応を返せってことだもんね。理不尽にも限度ってものがあるべきだろうに。

 

「閻魔大王としてその発言はどうなのかしら。ま、それは私の預かり知るところではないか」

 

「その通り。貴女が今すべきことは、私の説教を聞いた上で自ら判断し、正しい行いをすることです」

 

「正しい行い、ねぇ。してはいるつもりなのだけれど。…あら、そういえば私を地獄に連れていこうとはしないのね。死神どころかその首領様がいるっていうのに」

 

 ふと思い出したみたいな茨木の言葉に、閻魔様は湯呑みをことりと置いてどうして今回地獄からのお迎えが同伴していないかを説明なさった。

 

「所謂温情措置というものです。鬼という妖怪でありながら仙人の道へと進んだことは本来定まっている死期を遅らせる行為であり、それ自体は輪廻の流れに逆らう至大の悪行であるため到底見逃すことはできません。ですが、それなりの善行を積むと同時に生きるものを分け隔てなく救っている姿についても幾度か確認されています。だからこそ、特例中の特例として今回だけは貴女に彼らを差し向けることを控えました」

 

 閻魔は積み上げた悪行がどれだけ高かろうとも、その者の善行を決して軽んじませんので。茨木の目を真っ直ぐに見てそう言った閻魔様からは、数ヶ月前に伊吹の前に相対した時と同じ張り詰めた雰囲気を感じたよ。それで分かったんだ、ここからが本番なんだなって。

 

「どうやら死神さんを引き連れて私をからかいに来ただけってわけではなさそうね。以前貴女を見た時とは、醸し出している雰囲気が全く別物だわ」

 

「貴女に可及的速やかに言いたいことがあるのです。勿論、四季 映姫・ヤマザナドゥとして」

 

「聞きましょう。もし大事なら、身に余る前に手を打たないといけないから」

 

 たったひとりの小さな少女が、あの空間を支配していたんだ。修行を積んで使者を追い返し続けてきた仙人ですら、あの方の鋭く凛とした目線に押されていたように感じたなぁ。なるほど、地獄を司り四大鬼神長を従え、裁きの神として君臨するのも全く当然だよ。

 

 でもそれは、一方で閻魔様がいつものように相手の心を弄ぶことを意識していてはいけないと判断なさったってことと同じだよ。…あたいはこの茨木とは前々から何度か顔も合わせてるし、それなりに気心の知れた相手だと思ってる。情を移してちゃ地獄のものとして失格だってのは重々承知の上だけど、それでもやっぱり見知った奴が酷く苦しむのを見るのだけは慣れないよ。

 

 や、あたいは閻魔様のお仕事を否定しているわけじゃない。あの方の存在はこの世界において絶対に必要なんだ。あの方がいなければ、生者と死者とがうまく住み分けられなくなって、大変なことになる。閻魔様はいわば、こっちとあっちを繋ぐ道に蓋をしてくれている栓のようなお方なんだよ。

 

 絶対正義として君臨されているんだから、あの方のなされる行為は全て正当なのさ。そして事実、誰がどんな視点から見ようとその行為を悪とすることは不可能なこと。

 

「それでは。貴女と関わりの深かったとある男についてですが」

 

「……なっ」

 

 だからあたいには、黙ってその裁断の行方を見届ける以外のことは何もできやしないのさ。あたいの手心を加えてやってくれっていう気持ちなんざ、風の前の塵にも劣る無力なものでしかないんだからね。

 

「心当たりは?」

 

「…いえ。ちょっと思い出したくないことが頭によぎっちゃっただけだから、気にしないでちょうだい」

 

()()()()()()()()()

 

 今度こそ、茨木の呼吸が止まった。いや、あいつの周りの時間だけが流れることを嫌がったって言った方が正しいかも知れないね。でも、茨木に相対する閻魔様が時に止まり抗うことをお許しにならなかった。

 

「男の名は、都良香(みやこのよしか)。今より千年も昔、平安の世において名を広く知られた歌人にして、貴女に歌の手解きをした人物」

 

 ーー 主の返歌、中々どうして見所がある。荒削りとはいえ伸び代はあろうて。どうだ、私の元で歌の修行をしてみないか?

 

「都良香は歌を愛し、歌に生きた才ある歌詠み。同じく歌に情熱を傾けていた貴女のことを人ならざるもの、鬼であると分かっていてなお貴女を遠ざけようとはしませんでした」

 

 ーー 自分は鬼だから貴方とは共にいられない?阿呆め、大事な話があるというから身構えてみればそんなことか。主が鬼であることくらい初めにその頭からひょっこり出ておる角を見た時から分かっておったわ!良いから来い、歌を愛するものに悪いものはおらんのだからな。

 

「鬼をも恐れぬ豪胆さと詠まれる数々の風雅ある歌、そして何より愛しの我が子に教えるかのように丁寧なその所作振舞いに、いつしか貴女は心奪われていくことになる。他の誰も知らない、貴女達だけの師弟関係は向こう何十年と続く、そのはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 でも、貴女は強大でありすぎた」

 

 ーー 茨木童子、このままにしておいてはいつ都に襲いかかってくるか。そうなってしまう前に、何とか手を打たねばならん。

 

「人間は、害の有無を問わず己を超える存在に対してはどうしても寛容になれない生き物です。時の人間達の長は、貴女を討伐し人に仇なす脅威を一つ取り除こうとしました」

 

 ーー 茨木童子は、聞けば鬼というのに歌を好むそうな。誰か、歌に秀でた剛の者はおらんのか。

 

「そこで白羽の矢が立ったのが」

 

 ーー お主に()()を渡す。茨木童子の元へ行き酒を酌み交わす振りをしてこれを飲ませるのだ。中身は上物の酒だが、唐より伝来した強力な毒を混ぜ込んである。良いな、必ず酒が回ってきた頃合いを見計らって飲ませるのだぞ。じきに体が痺れて動けなくなるであろうから、そうなったと見るや刀で首を斬れ。

 

 ーー ……承知、致しました。

 

「他ならぬ都良香でした。彼は歌のみならず武勇にも優れたところを持つ人物でしたから、彼ならきっとやってくれるであろうと都の人々が大きな期待を抱いてもおかしな話ではないでしょう。……ですが、都良香からしてみれば歌を介して親交を深めてきた貴女を騙し、毒を盛って殺せと言われてもできるはずがありません。彼は悩みました。貴女と都の安寧とを天秤に掛け、どちらを取るべきか三日三晩悩み続けました」

 

 ーー 茨木。今日は上手い酒を持ってきた、この満天の星夜が明けるまで飲もうじゃないか。

 

「悩みに悩んだ結果、都良香は酒を飲ませることに決めました」

 

 ーー この酒は()()()()()()()。悪いがこれは、譲り受けた私が頂くぞ。……なぁに、また手に入ればその時はくれてやる。私が覚えていれば、だがな。

 

「そう、自分自身に。…鬼を動けなくさせるほどの毒を体内に取り込んで、人間が無事でいられる道理はありません。都良香は躊躇うことなく一息にそれを飲み干し、そしてほとんど間を置くことなく」

 

 

 

「もうやめてっ!!」

 

 声がひっくり返るのを厭わない、絹を裂くような声だった。

 

「そうよ!彼は私を庇ってその毒酒を飲んだのよ!そしてすぐに吐いたわ。最初は飲みすぎたのかって揶揄したわよ、でもすぐに違うことに気がついた。そりゃ誰でも気がつくでしょう、あんなに吐瀉物が真っ赤だったら!」

 

「……」

 

「気がついても咄嗟に何もできず、ただ状況を理解しようと愚かにも頭を動かした私の目の前で、彼は体を丸めて吐いて吐いて吐いて、それでも吐いて!その度にどんどん赤色が濃くなっていって、黒に近づいて、もうドス黒いまでになって!」

 

 冷静沈着な茨木は、影も見えなかったよ。記憶の底で眠っていた、いや意図的に眠らせていた一番嫌なことを思い出しちまったんなら、それも当然だとあたいは思う。慕っていた人の死なんて掘り返されちゃあ、あたいは耐えられない。

 

「…その時のことは、今でもよく覚えてるわ。慌てて抱き上げた彼の体、どんどん冷えていったのよ。筋肉質で汗っかきで、いつも暖かかった彼の体からどんどん熱が、生気が逃げていったわ」

 

 手を細かく震わせて、かちかちと歯の根が合わないでいた茨木の目は、いつしか潤み始めていたよ。あの強さの権化たる鬼が人目のあるところで目に涙を浮かべる、それって凄く悲しいことがあったっていう何よりの証拠になる。まして彼女はその上に仙人としての修行があるわけだ。精神を鍛えられた鬼が当時のことを思い出して冷静さを保てないでいるっていうのは、はっきり言っちまえば異常なことさ。

 

「吐いて冷えて、また吐いて冷えて。何回それを繰り返したかしら。彼は私の左手を包み込むように掴んだの。私に医術の心得なんて無かったから、とにかく医者に診せなきゃと思って彼を抱えて走ろうと思って、まさに立ち上がろうとしていた時よ。どうかしたのかって聞いたら、このまま聞けって前置きしてから二言三言を私にくれたわ」

 

 声も上ずり始めてた。もう震えは体全部にまで及んでいて、もうこれ以上話させたら深まり続ける悲しみに溺れて死んでしまうような、そんな気すらしたくらいだ。

 

「人間が毒を盛ったんだってことは、すぐに分かったわ。譲り受けたっていう酒を飲んで、彼は倒れたんだもの。憎かった、都に攻め入って人間を大人子供問わず根絶やしにしてやりたかった。目に付いた人間を片っ端から引き千切って捨てていってやりたかった。…でも、彼が言ったのよ。私が憎悪に囚われることを際に立たされてなおあの慧眼で見越して、彼はどうか人を恨まないでくれってお願いしてきたわ」

 

「しかし、憎悪という感情はそう簡単に消え去るものではありません。例え親しいものが最後に望んだことだとしても」

 

「えぇ。いつかこの内なる衝動を抑えられなくなると自分で分かっていたから、私は様々な手段を講じたわ。そして最終的に、山に籠り仙人となることで自らの中にある俗的な感情を排するよう努めることとした。彼の願いというなら、私にそれをはねつけて聞かないという選択肢は有り得なかったの」

 

「俗的な感情の排除ですか。失礼ですが、とてもその目標が達成されているとは思えません」

 

「そう。人間を根絶したいという昏い欲望は年月を経るうちに薄れ、いつしか消えていたわ。だけど、彼を惜しみ哀しむ気持ちだけは何年何十年何百年経っても欠片ほども希釈されることはなかった。この点においてだけは、仙人としての修行の効果は無かったみたいね。…どうして、私に飲ませなかったのかしら。あんな凄絶な死に方を見て、後々今に至るまでこんなに苦しくて胸が痛いくらいなら、私が飲んで私が死んだ方が何倍もましだったのに」

 

 止めようって思ったよ。涙をぽろぽろ、幾筋も幾筋も流しながら茨木の口の端は微かに吊り上がっていたんだ。口調も、最初に叫んだ時から比べて見れば落ち着いてはいたんだけど心を持ち直したようには見えなかったね。まるで感情が心の器から溢れ出ちまってて、どう振る舞えば良いのか分からなくなってるようだった。あたいも死神としてやってきてそこそこの年が経ってるけど、あれほどまでに過去に囚われ苦しめられ続けている奴を見たのはもしかしたら初めてだったかも知れないね。

 

「その発言は頂けませんね、茨木 華扇」

 

 でも、あたいがやるより早く彼女を止めた方がいた。場の人数を考えてもらえばお分かりの通りってね。そうさ、閻魔様だよ。

 

「死に仮定(たられば)は無用。生きる要因があるから生きて、死ぬ要因があるから死ぬのです。貴女のその台詞は、都良香が生きている間に培ってきた全ての徳や功績を真っ向から否定するものだ」

 

「……いきなり、何を」

 

「そんなことはない。そう思いますか?もしそうなら甘いにも程があるというものですよ、茨木 華扇。彼の死に際しての覚悟はどうなります。今まで何十年もかけて築き上げてきた歌詠みとしての富も名声もあったでしょう。貴女を殺せば、得られた名誉はどれほどのものだったか。そしてそれ以前に、彼にも心通わす友がいた。仕えるべき君主がいた。何にも替えられないほど大切な家族がいた。その全てをかなぐり捨てて、都良香は貴女を救うためだけにその身を賭したのです」

 

 畳み掛けるかのように喋り続ける閻魔様を前にして、茨木も二の句が継げないでいたよ。…あの方は職務柄、人の話を聞きそれについて考えるってことができなくてね。ただただ自らの本分に従って正義を語り相手を諭すのが癖になっちまってるのさ。普段人だの妖だのを揶揄ってる時はそうでもないんだけど、こうやって真面目になられるとこの癖が顕著に出なさる。

 

 でも、あの時はそれが好都合だったように思えるね。なんせ少しの間とはいえ茨木に喋ることをやめさせられたんだから。閻魔様が唐突に猛烈な勢いで話し始めたってことで混乱はしたかも知れないけど、それでもあのまま自分の心を抉り取るような話を続けるよりは絶対あいつの精神にとって良かったとあたいは信じてる。

 

「勿論、死ぬと分かっていてその道へ進むことは褒められたものではありません。どんなに綺麗な言葉で取り繕ったとしても、彼の死因は自殺でしかない。…ですが、例えそうだとしても、彼が生前に積み上げた数多の徳を貴女個人の感情で否定することはこの私が許しません。彼の死は、悪人が自ら命を絶つことで罪の意識を逃れようとするのとは違うのです」

 

 なんていうか、閻魔様らしいお言葉だったよ。情に訴えかけて懐柔しようとするんじゃなくて、どこまでも正しいのさ。余計な同情も遠慮も一切無いから、あの方の言葉はものすごく重くて素直に受け取るのに抵抗がある。だけど、その重みに負けずに受け止めきって逆に自分の力に変えちゃう強さを持つ奴が稀にいるんだ。人はそういう奴らのことを賢君とか聖人とか呼んだりしてるんだっけ。

 

 でもさ、それって裏を返すと受け止めきれなければ潰されちゃうってことになるよね。下手をすれば、閻魔様の説教のせいでこの記憶が忘れたくても片時も頭にこびりついて離れないものになってしまう可能性もある。そうなれば、記憶は過去の大切な宝物じゃなくて常に自分を苦しめる劇薬でしかなくなる。勿論閻魔様はそれを承知の上で言ってらっしゃったはずだ。

 

 …言い方はあれかも知れないが、説教の結果茨木がどんな道を辿ろうがあの方には何の関係も責任も無いんだ。閻魔様の役目はあくまで衆生を諭して世界が道理と認める方向へと導こうとすることであって、実際に諭された者達がどんな風に生きてどう死ぬかなんてあの人の管轄じゃない。閻魔様のお話を聞きたがらない奴が多いのも、ある意味当然といえば当然なんだよ。

 

「死は等しく死でしかありません。ですが、そこに込められているものは百者百様、千差万別なのです。…茨木 華扇、貴女は都良香の死に臨み何を感じたのです。どのような声なき言葉を受け取ったのです。確かに彼は幾つかを言葉にして言い遺しましたが、彼にはまだ言い足りないことがあったはずです。毒に喉を焼かれ、意識も沈み絶たれようとする中で貴女に声で伝えられなかったもう一つの切実な願いがあったはずです」

 

 それでも、ね。聞き入れられるかどうか確かでない忠告をわざわざ閻魔様が地獄から出てきてなされるってことがどういうことかくらいは、考慮に入れた方が良いだろう。例え情故の行動でないとしても、だからってそこにいかなる感情も無いなんてことはないんだからね。

 

「……願い」

 

「そうです。貴女が、他ならぬ茨木 華扇だけがその答えを出すべき存在であるのです」

 

「願いって、そんなの分かりきってるわ。私が人間を恨まずにいることでしょう」

 

 少しだけでも時間がおけたのが功を奏したんだろうね。茨木は若干の落ち着きを取り戻しているように見えたよ。まだまだ声も震えてるし涙も止まりきってはいなかったけど、前の泣き笑いを思えば全然マシだった。

 

 このまま茨木が完全に落ち着ききって、閻魔様の話に真摯に耳を傾けてくれれば良かったんだけどねぇ。そうありがたい方向にばかり事が運ばないのはこの世の定めなのかな。

 

「それも一つです。しかし、先程も言いましたように都良香には貴女に宛てたもう一つの願い事があります。彼はそれを、意味ある音の列として貴女に届けられなかった」

 

「つまり、彼の死に隠された真の意図を暴けと?」

 

「そういうことです」

 

「…嫌よ。何故そんなことをしなくちゃならないの」

 

 一度ある程度まで落ち着いた茨木は、自らの感情が向く先についても制御できるようになっていたんだ。そして、彼女にとって都良香という男の最期に関わる記憶は正しく大口開けて彼女を食わんとするほどの鬼門でしかない。

 

「私はあの時のことを忘れてしまいたいなんて言うつもりは無いわ。私がこの世に生きる限り、向き合っていかなければいけない問題だと思っている。でも、いきなり押しかけてきた赤の他人にあぁだこうだと言われるままに掘り返して何かしらの考察を加えるような記憶では断じてないの」

 

 一度口を開いちまえば、もう止まらなかった。その鬼門を無理矢理くぐらせようとした閻魔様に対して茨木は初めて明確な怒りを向けたのさ。

 

「わざわざお忙しい中、地獄から出向いてきてくれたところを悪いけれど」

 

 あの日は茨木が普段絶対外に見せないはずの、言うなら醜い部分が多く見られたね。閻魔様に噛み付いてるあの姿からは、雄大な自然とともに歩み全ての生き物を慈しみながら生きる仙人なんてとても想像がつかないよ。茨木と初対面の奴が見たら、彼女のこと腕に包帯巻いて怒ってる人間だって間違えちまうくらいだったさ。

 

「貴女が私の為を思ってやっているのであろうその説教は、当の私からしてみれば余計なお世話なの。…分かったら帰って。もうこれ以上貴女と話すようなことなんて、何も無いわ」

 

 或いは怖さ隠しか。向き合わなきゃいけない問題だと本当に心から思えてるなら、閻魔様の説教を余計なお世話だなんて言えないはずだしね。

 

 …でも、仮に思い出すことを恐れ拒んでたとしても、それをやれ臆病者だ意気地無しだと安易に責めるのはお門違いだと思う。人も妖も、誰もが閻魔様みたいにいついかなる時も道理に基づいた行動を取れるわけじゃあないんだ。どんな名君だって、どんな聖人だって、この世に生を受けてからそれを終えるまでに一つの悪行も犯さないでいるなんて不可能なことだよ。

 

「ふむ」

 

 閻魔様は、暫くの間何かを思案なさっていた。二、三十秒くらい経った頃かな。ふぅ、と一息ついてからあの方はもう1度喋り始めたんだ。

 

「貴女は少々……いえ」

 

 喋り始めたって言うとちょっと違うかな。もっと適切に閻魔様のなさったことを表すとどうなるかな。えぇと……。

 

 あ、丁度良い表現があった。

 

()()()()()()()()()()

 

 あの方は、大量に所狭しと積み上げられた火薬に迷いなく火をつけたのさ。

 

「これでは、都良香も報われないこと請け合いです」

 

 ちゃっかり隅々まで油を撒き散らすっていう要らないおまけ付きでね。

 

「……何ですって」

 

 油に付かない火はない。茨木の怒りの度合いはさっきより明らかに増してたよ。…臆病と罵られて、その上で慕っていた人が報われないなんて言われたんだ。気持ちは分かる。閻魔様に付き従ってきたあたいでさえも、一瞬何を言ってるんだこの方はって思っちゃったくらいだしね。

 

「もう一度言ってみなさい。思いっ切り殴り飛ばしてあげるから」

 

「鬼とは誰も彼も気性の荒い種族なのですね。知ってはいましたが」

 

 伊吹との一件を思い出したんだろう閻魔様は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めなさった。…あの時、伊吹は閻魔様の話の腰を折ることを目的としてた。だから、あの方やあたいに殴りかかるまではしてこなかったんだろう。でも今回は違った。下手なことを口走っちまえばあいつは躊躇なく飛びかかるだろうなって簡単に予想がついたさ。

 

「言って欲しいなら構いませんよ。茨木 華扇、貴女が過去へ遡る勇気のない相当な臆病者であるが為に都良香の賭した命は全くもって無駄なものに ーー 」

 

 本当に、ほんっとうにギリギリだった。思いっ切り踏み込まれた左腕の一撃からは、加減なんてものは微塵も感じられなかったよ。受け止めたあたいの左腕からぱぁんって音が弾けて屋内を走り回った時は、左腕が爆発四散したのかと錯覚したね。

 

「間に入らないでちょうだい。私はこいつを殴り殺す」

 

 左腕を見て、ちゃんとくっついてたからちょっとだけ安心したよ。…一拍遅れてずっきんずっきん痛みを訴えてくるせいで涙がちょちょ切れそうなのを何とかかんとか堪えて、あたいは茨木に言ったんだ。閻魔様に直接的な危害を加えちまったらそれはこの上ない大罪、永遠に許されることはないんだって。

 

「知らないわ。元々私は罪多き存在なんだから、今更一つ二つ増えたくらいで何でもないわよ」

 

 喋りながらも、ぐいぐい押し込まれてね。いや、流石に鬼の腕力に真っ向から張り合うのはあたいじゃちょっと無理があったみたいだ。多分茨木の体のどこかでも閻魔様に触れようものならあの方は躊躇なく反抗の意思ありとして茨木を地獄の責め苦に遭わせるだろうから、とにかくあたいは茨木を押し返そうと全力を出したよ。

 

「ねぇ、部下として閻魔を守る職務があるのは理解できないわけじゃないしその姿勢は褒められたものだと思うわ。でも、悪いけれど退いてくれないかしら。貴女まで手にかける気は無いの」

 

 出したんだけど、それでもじりじりと茨木の腕は閻魔様に向かって進んでいくんだ。あれは我が目を疑ったね。あたいだってこれでも人外の端くれで地獄育ちだ、力にゃそこそこ自信を持ってた。それが、自分より頭一つ小さな女の片手を両手使っても止めきれないだなんて。鬼って種族の出鱈目じみた力が改めてよーく分かったよ。

 

 そのうち左腕が軋むような感覚がしてね。何かこう、ぎしっ、ぎしっと腕が撓んでたんだ。これは近いうちにぴきぴき鳴り始めるなって分かったから、早いとこ何かしらの手段を取らなきゃいけない状況だったんだけどかと言って茨木を宥めてあたいの左腕を救う方法を思いつけるわけでもなし。…まったく万事休すだったよ。あたいはとにかく茨木の蛮行を遅らせる以外にできなかったもの。

 

「はてさて、あれはいつのことだったでしょう」

 

 閻魔様のやけに芝居じみた語りが聞こえてきたのは、あたいの筋力がいい加減限界に達しつつあった時くらいだったと思う。

 

「確か元慶の世であったと記憶しております。その日もきっと、私は次から次へとやってくる死者の魂を相手にやれ貴方は人間道行きだ、やれ貴方は修羅道行きだと忙しなく裁きを下していたはずです」

 

 その頃の閻魔様については聞いたこともないから、どんな風に過ごしておられたのかとかは知らないよ。まぁきっと、今と同じように面白そうな奴見つけては茶化しに行ってたんだろうけどさ。

 

 それはさて置いておくとして。いきなり滔々と語り出した閻魔様に意表をつかれたんだろうね、茨木も怪訝そうな顔をしてたよ。ただし、不思議そうにしながらも押し込む手は緩められなかったけどね。お陰であたいの左腕はいよいよ危険水域に突入しようかってところまで来ちゃったのさ。

 

「そんな私の元に、一つとても澄み切ったものがやってきました。魂の清濁は生前の徳を表しますが、あれはそうそうお目にかかることのできない聖人級のものでした」

 

 語るより先に、折れゆく部下の腕に気を回しては下さらないかなぁっていう願いはきっと無駄なんだろうね。あの方にとっちゃあそれくらい自力で何とかしろって感じなんだろう。できなかったわけじゃないけどさ、それやると茨木が体勢崩して勢い余って閻魔様に殴りかかる形になっちまうんだよ。だからあいつの進退を案じてるあたいとしてはその手は打てなかったってわけ。

 

「私は迷うことなく彼を天道に送ろうとしました。事実、彼にはその資格があった。…しかし、何故か彼はそれを断ったのです」

 

「一体何の話をしているのかしら。語りで自己陶酔でもしたいなら地獄でやってちょうだい。持て囃してくれる酔狂な奴らが何人かはいるでしょうし」

 

「今の発言は中々かちんときましたが、寛大な心を持つ私はそれを聞かなかったことにして差し上げましょう。…こほん、その男は私に自らを魂のままこの地獄に留めておいて欲しいと願い出てきました」

 

 それはまた、変わった魂だと思ったよ。天道に行けるってことは生きるものにとって何より名誉あることだから、皆その名誉を有り難く頂戴して来世へと向かっていくんだけどねぇ。

 

「勿論理由を聞きました。何せ私がこの界の閻魔を担当し始めて以来初めての事例でしたので。…すると、彼は探したい女がいるのだと言いました。元々畜生道に行くような者を天道に行かせることはできませんが、天道より身をやつすという形式については私もどうすれば良いのか全くもって存じていませんでしたので、大変に悩みました」

 

 女を探したい。その時点で、ちょいと引っかかるものはあったんだよ。でも肉体重視の押し問答に集中しなきゃいけなかったし、そのことについて深く考えてる余裕はなかったね。

 

「男は何度も何度も私に頼みました。結局、その熱意に押し切られた形にはなりましたが私も彼を魂のまま保って地獄に留めることとしました」

 

 異例の措置としか言いようがない。地獄で罪を償うために過ごすわけでもないってのにわざわざ留まることを(こいねが)うってのは、あたいも初耳だよ。

 

「彼は真面目でした。頼んでもいないのに自然と私の身の回りの世話に励んでくれました。さらに、歌についても幾度か教えて貰いました。雅は望めば遠ざかる、が彼の口癖でしたね」

 

「歌。それに……雅ですって?」

 

 茨木も何か感じることがあったみたいだった。余裕無いあたいにもその時点である程度の推察がついてたんだから、あいつが勘づけないってことはないよ。

 

「一度気になって尋ねてみたことがあります。貴方の探し求める女性とはどのような人であったのかと。…帰ってきた答えは私の予想を掠めてもいませんでしたよ。まずそもそも彼が探したい女性は人でなかったんです」

 

「……っ」

 

「聞けば、世に名高き高位の鬼だと言うのですから驚かされました。人と鬼とが親しい関係を結ぶなど、当時の見識が狭かった私には到底考えつかないことだったのですから。…ちなみにですがその女性は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であり、そして彼と同じく歌を詠むことを好んでいたそうです」

 

 そこまでの情報があれば、ほぼ断定できるよね。閻魔様の仰っている『彼』っていうのが誰のことかって。

 

「ある時、彼は言いました。とある仙人が降霊術を用いて自分との接触を求めてきていると。彼は、その仙人の呼びかけに応じて姿を見せたいと私に頼んだのです。私は彼について大変高く評価していましたし、元々の彼の目的を考えれば、特殊な術の使用が可能である者の元へ行くことは探し人もとい探し鬼を見つける上で有利に働きます。許可を出し、そこで些か急なことではありましたが数百年に及んだ彼と過ごす時間は終わったのです」

 

 でも、閻魔様はその名前を口に出されなかった。単純に語りの手法の一つとしてわざと隠してたんだろうね。臨場感を出して茨木をより効果的に諭そうっていうあの方の魂胆が見えるようだったよ。

 

「その際に、彼には降霊術の何たるかについても説明をしておきました。基本的に依り代に宿ることになりますが、持っていた記憶の殆どは失われることになるという最大級の特徴についても教えましたが、彼は問題ないと言って笑うのみでした。……『彼奴ほど印象深い者は心が覚えております故』。彼が赴く前に交わした最後の会話は、今でもよく覚えていますよ」

 

「それって、まさか」

 

「とは言っても、世は無常。心は思い出を留める媒体ではないのです。彼が宿されてから探し鬼のことを思い出すのは、客観的に考えれば殆ど雲を掴むような話でした。…ですから、私は第二の現し世での生活が少し良いものになるようにという意図の元に、彼にちょっとした加護を与えました。あぁ、予め断っておきますが、依怙贔屓をしたということはありません。これでも私は神の一柱に数えられる身、ならば忠節をもって尽くしてくれたものに対して相応の見返りを与えることは必然なのです」

 

 閻魔様の御加護が与えられていた。それはつまり、やんごとなき御霊に護られているってことになる。ちょいとこの場合は高貴さが過ぎてる気がしなくもないけどね。

 

 事あそこに至っては、もう茨木も答えが出ていたよ。今まで茨木邸で話されていた内容と閻魔様が先程から話されていることを引っ括めて考えれば、導き出される答えは一つしかないはずだ。

 

「彼が今、何処で何をしているかは定かではありません。とある仙人とやらの元にまだいるのかすら不明です。ですが、一つだけ確実に言えることがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 彼は、都良香はまだ同じ依り代に宿って桃色髪の鬼(貴女)を探しているのですよ。茨木 華扇」

 

 閻魔様のそのお言葉を聞いた瞬間、ふっと左腕にかかっていた重い力が抜けてね。見たら茨木の奴、地面にぺたりとへたりこんでたんだ。

 

「そんな、彼が」

 

「私がこうして話した、つまりこのことは事実です。…今の私の話を踏まえて、もう一度だけ言わせて貰いますよ。都良香が人間であった時、最期に貴女に伝えたかったこととは一体何であったのか。貴女はそれを、真摯に考えるべきなのです。見たくないものから目を逸らして俯いていてはいけません。顔を上げなさい、そして前にあるものと向き合いなさい」

 

 それを聞いて、場違いだったかも知れないけどあたいはちょっとクスッとしそうだった。だってね、さっきも言ったけど閻魔様に正しい世界へと皆を導く義務なんて無いんだよ?ましてや帰れとまで言われてるときた。その上であの方は帰るんじゃなくて説教を続けることを選んだんだ。

 

 茨木のこと、口に出さないだけで結構気にかけてたみたいだね。極希にだけどこういう感情に基づいたような行動を取りなさる辺り、閻魔様も冷酷無慈悲一辺倒ではないんだなぁって思えるよ。惜しむらくはそれがあたいに向かないんだな、これが。…多分あたいは一生閻魔様に優しくはしてもらえないんじゃないかと考えてる。付き合いも長いからね。

 

「願い。あの人から受け取った、願い」

 

 茨木は斜め下、あたいの爪先より少し前の方に視線を固定させて必死に考えてた。都良香の今際の際と向き合うのは、辛かったろうね。それでも、彼女は逃げたりする様子を見せなかった。千年以上の時を経てまだなお知らずのうちに微かながら繋がりがあった、そのことは茨木に過去の悪夢にも酷似した記憶と真正面から相対する勇気を与えたんだ。

 

 どれだけの時間が経ったかは分からない。けど、上げられた茨木の顔はさっきまでとは全く違ったんだよ。

 

「……あの頃と、同じように」

 

 憑き物が落ちたような、そんな晴れやかな表情だった。別段笑ってるわけでもなければ穏やかな顔つきをしてたわけでもなかったけど、あの時のあいつの顔は如何にもたった今幾星霜の呪縛から解き放たれましたと言わんばかりだったよ。

 

「ようやっと気が付いてくれましたか。重い肩の荷を下ろすことができた気分です」

 

 あぁー、って言いながら閻魔様は背伸びをされた。腰あたりからぱきぱきって小気味好い音が聞こえてきて、さしもの閻魔様もお疲れでいらっしゃることは明白だったよ。ここ最近はめっきり無かった長丁場の説教になったからね、仕方ない。

 

「それでは、貴女自身の力によって悟ることができたということで総括の方に入りましょうか。…茨木 華扇。貴女は素晴らしい師と共に過ごしていた時のように、人と友好的な関係を築き上げ、かつ今までと同様に生きるもの全てに分け隔てなく接することで徳を積みなさい。勿論、地獄とて貴女のことを指をくわえて黙って見ているだけではありません。今回が特例であったというだけで、次回以降は遠慮なく貴女の命を刈り取りに向かわせて頂きますのでそのつもりで」

 

 説教で救済した相手の命を狙うなんて宣言する方、何処の世界を探してもあの方以外にいないと思うんだ。空気が読めてない発言と言われればそれまでかも知れないけど、あれはあれで下手な同情はかけないっていう閻魔様なりの矜持の示し方なんだろうね。如何に劇的な救われ方をしたとはいえ、茨木は仙人っていう輪廻の輪に反旗を翻してる違法者なんだから見逃したりはしないぞー、っていう感じでね。

 

「肝に銘じておくわ」

 

 ちょっと苦味の入った笑みをちらりと見せてくれたよ。最初に寒くないのか閻魔様に聞いた時より、もっと自然な表情だった。ありきたりな表現だけど、良い顔してたよ。

 

「いつ襲われても良いように、準備しておかないと」

 

「良いことを聞きました。地獄へ戻り次第、すぐに水鬼鬼神長と風鬼鬼神長に動いてもらいましょう」

 

「…鬼神長二柱をたった一人相手にけしかけるつもりかしら」

 

「念には念を、ということです。精々生きて世を助けるために足掻いてみせなさい」

 

 閻魔様らしい激励のお言葉に、茨木は今度はもう少し大きい笑みを浮かべてた。

 

「えぇ。五千年でも一万年でも、十万年だって生きて生きて生きて、貴女の顔を見ないで済むよう全力を尽くすわ。それだけ生きていれば、きっと彼も見つかるでしょうし」

 

「ふむ。私の任期もあと数千年といったところでしょうし、それをきちんと満了した後にまだ貴女が生きていたとすれば、私自身が出向いて貴女の魂を地獄へ連行するというのも一考の価値がありますね」

 

「あら、嬉しい喧嘩のお誘いだこと。…私は彼と再び巡り会うまで絶対に死ぬつもりはないから」

 

「私に対して戦う前から勝利宣言ですか。貴女は少し、上位なるものへの粗相が過ぎる。叩き直して来世に放り込むのが今から楽しみでなりません」

 

 互いにふふふ、うふふと笑いを交わす2人は、少しだけ仲良くなれたみたいで良かったというか新たな摩擦が生まれつつあって不穏だったというか。

 

 ま、何にせよこれであたいの話はおしまい。大分長くなったねぇ。こりゃあ話好きのあたいでも疲れちまった。今日は操船の仕事も適当なところで切り上げて、早めに帰ってふかふかの布団で寝ることにしようかね。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「んー……」

 

「……疲れました。物凄く疲れました。隠形鬼鬼神長、いつもよりみるくを多めに入れたみるくここあを一杯お願いします」

 

「え?もうここあの要素が無いに等しくなってしまう、ですか。むぅ、(みるく)(ここあ)が合わさるからこそ生まれる美味しさというものがあるのです。閻魔として白と黒の織り成す絶妙な調和を無視するわけにはいきません」

 

「それではいつも通りのものを一つ。えぇ、お菓子の方はお大福で結構です」

 

「……ふぅ。これで懸案事項も八割は片付けられましたね。残るはまだ事の仔細を知らないであろう伊吹 萃香への説明ですか。これまた面倒なものになる予感しかしません、凄く行きたくないです」

 

「しかし徳ある行為を発案した以上実行しなければ閻魔の名が廃る。仕方ありません、今日はもう日も暮れたことですし明日の朝にでも神社へ向かうとしましょうか」

 

「今代博麗の巫女は、聞けば実力こそ一級品ですが巫女として行うべき最低限の修行すらろくにせず随分とぐーたらな生活を送っているとか。これは説教のしがいというものがありますね。ふふふ」

 

「おっと、本題を忘れてはいけませんね。あくまでついでです、ついで。まず第一にやるべきことは別にあるのですから」

 

「……今、凄く恐ろしいことに気がついてしまいました。伊吹 萃香もあの場に連れて行っていたらわざわざ私が神社まで出向く必要はなかったのではないでしょうか。くっ、この私が説教をしなければならないという気持ちに急かされて判断を誤るとは」

 

「そうです。元はと言えば伊吹がきちんと伝令の役をこなしてくれていればこんな面倒ごとには……あ、ありがとうございます。こちらに置いてください」

 

「ともかく今はこの至福の甘味に身も心も委ねてしまいましょう。甘味の席に頭痛の種は要りませんからね」

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 精々足掻いてみせろ、か。まったく、言ってくれたものだ。鬼だった頃の名残でつい挑戦的な言葉を返してしまったではないか。

 

 有言不実行は悪の致すところ、となれば私が今すべきことはこの幻想の世界の者達に徳を重ねさせること。…閻魔とやっていることが同じ気がするが、あまり気にしないでおくとしよう。狙ってやっているわけではないのだから。

 

 その思想の元に、私は今この世界の要と言われている神社へとやってきている。ここの巫女は生まれ持った天賦の才にかまけて修行を怠っているとよく風の噂で聞くから、それを正しきちんとした修行をする習慣を付けさせることで幻想郷の要石の一人を強化する手はずを整える。この世界の全ての善なるものにとって益ある素晴らしい行為ではないか。これこそ徳の極みというものだ。

 

 ふむ。神社の掃除は行き届いているようだ。そこは関心だが、だからと言って修行をしなくて良い理由にはならないのだ。故に、しっかりと諭してやらなければいけない。

 

 そういう意味では、先程私にぶつかってきた金髪の少女にも少し話をしてやる必要があるかも知れない。見たところ跳ねっ返りの強い子であるようだし、落ち着きというものを教えておいてやらないと何処で大きな下手を打つことか。見ているだけで危なっかしさがひしひしと伝わってくるような子は、久しぶりに見た。

 

 さっき鳥に聞いた話では、この神社で片腕のミイラが見つかったらしい。経った年月を考えれば九分九厘違うとは思うが、一応確認だけはしておきたい。それから巫女の説教だ。

 

 ……あの御神体のように飾ってある箱の中に、片腕のミイラとやらが入っているのだろうか。細長い箱であるし、その可能性が高い。すぐに中身を確認したいところではあるが、これが御神体として祀られているのであれば礼を失することは許されない。

 

 鈴緒を引き、本坪鈴を鳴らす。それから二礼二拍一礼し、この神社におわす神に敬意を表す。…さて、それではいざこの箱を開けて真偽の程を確認 ーー

 

 

 

 

 

「御神体に触れない!」

 

「…失礼。河童の腕が如何なる物か気になりまして…」

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「気霽れては」

 

 墓石並ぶ、何処かの墓地。その中心部分で、手足を真っ直ぐに投げ出して座り、歌を詠むものがいた。

 

「風新柳の髪を梳る」

 

 血の通っていないことが一目で分かる真っ白な肌、見るものが見ればすぐに分かる、生きていない気配。人ならざるものはただ月明かりの下に呆然とした表情をさらけ出し、繰り返す。まるで新しいことを覚えた子供が何も考えることなくそれを続けるかのように、しかしそんな二心無い無邪気さは微塵たりとも感じさせずに。

 

「気霽れては風新柳の髪を梳る」

 

 二度詠めば心が噛み合わず。

 

「気霽れては風新柳の髪を梳る」

 

 三度詠めば胸が張り裂けるような錯覚を覚え。

 

「…気霽れては風新柳の髪を梳る」

 

 四度詠めばとっくに失われたはずの感覚が体の奥深くから思い出されたかのように甦ってくるように思えて。

 

 それに身を委ねるべきか振り切るべきかも分からないままに、大きく開かぬ口をそれでも広げてただ詠じ続ける。

 

「気霽れては ーー 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひらり、何処からか見覚えのある桃色をした桜が目の前に舞いくる。風にふわりと靡くそれがどうしようもなく懐かしくて悲しくて、そして愛しくて涙が溢れた。

 

 

 

 


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