妖々蔓延る、丑三つ時。冬の澄んだ空気の中で綺麗に輝くお月様に敢えて背を向けて、下へ下へと降りていけばそこは封印された邪悪な妖怪達の楽園さ。…とは言っても、邪悪と言うよりは変わり種って言った方が正しいかもねぇ。何たって誰も彼もが他者に仇なす存在というわけじゃあないんだもの。いやまぁ、勿論会う奴全てに危害を加えていくような極悪妖怪もいることにはいるんだけど。
「お、何だ何だ。極悪妖怪だなんて随分と言ってくれるじゃない死神さん。重度のインフルエンザに感染させてあげようか?」
あんたのことじゃないよ。インフルエンザも、謹んでご遠慮しますってね。あたいは健康体なもんで罹ったことは無いが、体の節々が痛くなって咳も出るわ高熱も出るわで大変なことになるって聞いたことがあるもの。
「そりゃ残念。久しぶりに妖怪らしく誰かを困らせることができると思ったのに」
…極悪とまでは行かずとも、悪い妖怪ではあるのかねぇ。
「肺結核なんて、どうだい。嘘か誠か、罹れば春秋の花粉に悩まされることがなくなるっていうお得な病気だ。今なら大特価、何と無料でやったげるけど一回行っとく?」
いやぁ、冗談冗談。あんたは善良な妖怪だよ。天寿を全うしたら、きっと来世は天道へ進むことになるだろう。
「ま、いざ私が天道に進むってなったら落ち着けないだろうからね。できることなら、もう一回全く同じ
そいつは残念ながらできない相談だよ。
「分かってるさ、言われなくてもね。…そんなことより、どうしてあんたは遠路遥々地底まで来たのかな」
あたいにとっちゃあ、道なんてあってないようなもんだけどさ。簡単に言っちまうなら、暇潰しだね。意外と地底にお邪魔したことって、少ないもの。
「地底観光でもして楽しもうってことか。あんたも大概だね、こんな岩か土かケンカかしか無いような場所にふらっと来るなんて」
いやほら、地熱とやらのお陰で地底って冬でも暖かいだろう。地上は確かに目移りするものが多くて楽しいんだけど、まぁそれはそれは寒くてね。とてもじゃないけど出歩きたくないんだよ。
「夏はやや暑くて、冬は程良く暖かい。湿度に目を瞑れば、ここで過ごすのも悪くないものだよ」
一年中温暖な気候が保たれてるって、羨ましいなぁ。あたいもそんな理想の職場で働いてみたいよ。地獄は逆に年中気温が低いから、特に冬なんかは厚手の防寒具が不可欠だってのにさ。
「夏は地獄、冬は地底と季毎に職場を変えたら一番快適そうだよねぇ」
許されるのなら是非そうしたいよ。…はぁ、うちの職場は夜の闇も及ばない程真っ黒だから労働環境の改善は見込めないかなぁ。
「閻魔って、あのちっこい娘でしょ。威圧感ばりばりに出して威かしたら、多少くらい融通利かないのかい」
悔悟の棒で頬引っぱたかれて、痛みに蹲ったところを頭踏まれるのが関の山。逆にこっちが見下ろされる形になって、無様に許しを乞うハメになるのが分かりきってるんだよ。
あんた、閻魔様を見くびっちゃ駄目だよ。この世界で安全に生きていきたいなら、目上の者と閻魔様にだけは絶対逆らっちゃいけないんだ。さもなくば、何よりも恐ろしい罰が下ることになるもの。…この前も、背伸びしてあの方と張り合おうとしたせいで手酷くやられた愚か者がいてねぇ。
「へぇ。何処のどいつがそんなことを?」
あんたも名前くらいは聞いたことあるんじゃないかな。何せこの幻想郷じゃ知らない奴はいないってくらいに有名だからね、あいつ。
「えらく勿体ぶるじゃないか。ほら、ちゃちゃっと吐きなよ」
何であたいが尋問されてる
「そう来なくっちゃあ興醒めってね」
このほんわりした暖かさが絶妙な眠気を運んでくる前に、話を終えたいところだねぇ。ま、もし途中で寝ちまいそうだったら肩でも叩くなりして起こしておくれ。
こほん。…あれは暫く前、雪こそまだ無けれど、時折体を芯から凍えさせるような寒風が吹き荒ぶ昼間のことだったよ。
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まぁ愚か者とさっき言ったけど、実際愚鈍かって聞かれたらあたいは迷うことなく首を横に振るかな。そいつは未来が見えているかのような慧眼とここ一番を外さない判断力との両方を兼ね備えているんだ。羨ましいもんだよ、あんな頭の切れがあたいにもあったらって考えるとさ。
そいつのことは閻魔様も前々から目に留めてたらしくてね、暫く前になるがとある妖怪に協力を依頼して情報を集めていたんだ。あぁ、この妖怪についてはあんたは知らないと思うよ。初見じゃ絶対に読めないであろう花の名を冠した名字の烏天狗、って言われても分かんないだろう。
私は博識だから聞いてみろって?えぇ、何でわざわざ。ま、別によくよく考えてみたら大した手間でもないし良いけどさ。…はい、今足で地面に書いたのが件の烏天狗の名字だよ。
うん、花の名前。これで何と、
ちなみにだけど、名前の方ははたて。漢字を当てるなら、『極』くらいしかあたいには思いつかないかなぁ。名は体を表すって言うけど、あの子の場合は名前が名字の難読さを表してるよ。極めて読み辛いってね。
はは。ま、今ので気分を落とすことなく楽しく聞いておくれ。…話を戻すと、難読ちゃんもといはたてちゃんの協力によって事前に相手の情報を得た閻魔様が、この前腰を上げて動いたんだ。
もうそろそろきちんと名前を言った方が、失礼じゃなくて良いかねぇ。…閻魔様に標的とされたのは、八雲 紫。少し昔に幻想郷の創始にも関わったと言われている、妖怪の賢者の一人だね。あんた達地底の面々との関わりがどの程度あるのかは知らないけど、流石に著名な妖怪だし名前は分かるんじゃないかな。
閻魔様が地上に向かいなさるのならそれを見て見ぬふりするわけにはいかない。悲しいかな、守る必要なんて全くないはずの上司をお守りするっていう無益かつ非効率的な役目のせいで、あたいのゆっくりしたいっていう一途な願いは悔しくも踏み躙られることとなっちまったのさ。
心の中で滝のような涙を流しながら、顔ではにこにこと人当たりの良い笑みを浮かべられてたと思うよ。そんな甲斐甲斐しいあたいがまず何処へ向かいますかって聞いたら、閻魔様は一先ず博麗神社を指定なさった。八雲は先の明けない夜の異変で霊夢と組んで解決に乗り出したって経緯があるし、あの子と交流があっても不思議じゃなかったね。
「幻想郷に数多存在する妖怪の中でも、極めて異質かつ強大な存在。彼女の有する能力は、とても興味深いものがあります」
八雲の能力は、『境界を操る程度の能力』って言ってね。全てのものに存在している境界を自由に弄ってしまえるっていう、非常に強い能力なんだ。あらゆるものを白か黒かに二分してしまう閻魔様とは全く対象関係にある力だから、あの方も興味を持っておられるんだろう。
「長く生きたということは、裏返してみれば多くの過去を積み重ねてきたということ。それだけに、随分と弄り甲斐のある過去を幾つかお持ちのようです。ふふ、これはこれは楽しみですねぇ」
尤も、あの時の閻魔様にはそれ以上に気を惹かれることがあったんだけどね。あんな非の打ち所を見つける方が難しい妖怪の隠し事なんて、十中八九露見させるべきではないことだと思ったよ。魅力的に見える宝箱の全てに金銀財宝が入っているとは限らないからねぇ。時には悪夢のような怪物が、大口開けて待ち構えてることだってある。
大丈夫かなぁって心の中で憂いながら、あたい達は博麗神社の鳥居の前までひょいっと飛んだのさ。
「あ?閻魔に死神じゃない、素敵なお賽銭箱はそこよ」
そしたら、後ろから神社の住人が荷物持って丁度帰ってきたところでね。不遜にも出会い頭にお賽銭の奉納を要求されたんだ。
「博麗 霊夢。貴女は少し欲に忠実過ぎる」
「欲がなきゃ人間じゃないわよ。つーか買い物帰りの荷物持ちなんだからうだうだ長い説教はやめてよね」
「えぇ、その通りです。私は、その欲が強過ぎると言っているのです」
「私は自分の気持ちに嘘をつかないもの。それで、あんたら何しに来たのよ。私の寿命は多分まだだろうし、素敵なお賽銭箱はそこよ」
…博麗神社は金銭的には寧ろ裕福な類にあると思うんだけど、あの子はどうしてあそこまでしてお賽銭が欲しいんだろうねぇ?聞いてみなきゃ分かんないけど、だからってそれだけのためにわざわざ聞きに行くのも何か違うしなぁ。ま、事のついでくらいの感じで聞けたら聞いとくとするか。
「貴女に会いに来たと言うよりは、貴女の元に訪れる可能性のある妖怪に会いに来たと言うべきですね」
「ふぅん。それはあんたらの勝手だけど、うちで説教始めないでね。煩いし」
「土産ならありますよ。地獄名産の赤饅頭が」
「ま、少しくらいなら目を瞑ってあげなくもないわね」
いつ買ったのか、閻魔様が白い箱に入った五個入りの赤饅頭を霊夢に手渡しなさった。そしたらあの子、薄紙裏返すみたいにふわっと態度変えちゃって全く。普段年相応のあどけなさをあんまり見せない子だから、あぁやって饅頭に顔を綻ばせてるのを見れてちょいと安心できたから、まぁ良いんだけどさ。
「調子の良い巫女ですこと。…それはともかくとして、博麗 霊夢。八雲 紫は神社に来ていますか?」
「あら、紫に用があったのね。いるわよ、今多分縁側で日に当たってぽけーっとしながら緑茶啜ってるわ。ほんと、年季の入った植物かっての」
くくく、と声押し殺して笑ってたけど、それ聞いてたあたいはちょっとぐさりと来てたよ。あたいも日に当たってのんびりするのは好きだから、もしかしたら霊夢におばあちゃん的な死神だと思われてるのかも知れないって考えるとねぇ。そりゃあ性格的には否定できない部分もあるけど、これでもまだまだ盛りは過ぎちゃいないんだ。年寄り扱いは御免だよ。
いやまぁ、百年生きるのも稀な人間から見たらあたい達人外なんて皆爺婆みたいなもんだけどさ。ヤマメ、あんたは老いた者と見られても平気なのかい。…揶揄いで済むなら気にしないかぁ。あたいは例え冗談でも結構うっと来ちまう質だから、そこは価値観の違いってやつかね。
「縁側ですか。ありがとうございます、早速向かうとしましょうか」
すたすたと歩き出す閻魔様の後ろに、あたいも続いた。鳥居をくぐってお賽銭箱から自然に視線を逸らし、背中に突き刺さってくる霊夢の鋭い視線に気が付かないふりして奥へ進んでいくと、果たしてそこには一人の妖怪が目を閉じて座っていたんだ。
リボンを付けた帽子に紫を基調としたゆったりとしてる服、その上からでも分かるような膨らみの割に顔はまだ幼さを多分に残してる少女のものだ。こいつが幻想郷の中でも古参中の古参だなんて、知らない奴は絶対想像できやしないだろうね。
「……ん、これは珍しいお客さん」
日光に照らされて美しく輝く金髪が、風に吹かれてゆらりと揺れた。顔にかかった髪を手で払いながら、あいつはゆっくり目を開けてこちらに顔を向け、挨拶してくれたよ。
「ご機嫌よう、閻魔様」
「久しいですね、八雲 紫」
心安らぐ環境にいるからか、上機嫌な様子の八雲に閻魔様も挨拶を返しなさる。強大な妖怪が普段から発している圧も、あの時は鳴りをひそめてたね。
「最近あちこちに出かけてるって聞くわ。何をしてるのかしら」
「趣味と責務の両立とでも言えば間違っていないでしょう」
「へぇ。仕事一辺倒の貴女にも趣味と呼べるものがあったのね」
意外なことですわ。そう言ってくすくすと笑った八雲は、本当に機嫌が良かったねぇ。強い者ほど常に笑顔を絶やさないとは言うけれど、あの笑った顔から強者を連想するのはあたいには無理だったよ。おかしいだろ、あたいは八雲の強さと有する能力の恐ろしさをある程度とはいえ知ってるのにさ。ま、寝た虎をわざわざ突っつき起こす理由もないし、平時と違う八雲の様子に触れなかったのは正解だったんだろう。
「ここに来たのも、趣味に興じるためですよ」
でも残念、あたいが何もしなくたって喜び勇んで殴り起こしに行く方はいたんだよ。唯一の救いは、その殴り手が虎も怯み恐れる猛き獅子だってところかな。いや、これを救いと呼ぶにはあまりにも似つかわしくないからやめておこう。
「そうなの。私や霊夢に説教をしに来たんだとしたら、私は泣く泣くこの暖かい場所を捨てて家に帰らなきゃいけなくなるわね」
「閻魔を前にして逃げられると思わないことです」
「あらぁ。でも何だか今は良い気分だし、やっぱり少しだけなら付き合ってあげる」
冬の陽向の優しい暖かみに絆されて、八雲も警戒の心が薄れちまってたんだろうねぇ。長く生きた妖怪なら誰だって自分達の精神を容赦なく叩きに来る閻魔様を恐れ疎むってのに。
精神への依存が人よりもずっと大きい妖怪にとって、閻魔様は持てる力の全てを尽くしてでも遭遇を回避したい相手であるはずだ。ヤマメは会ったことあるかい?ふむ、まだ無いんだね。ならもし目をつけられちまった時には潔く覚悟を決めなよ、心の安寧を守るために逃げ出すってのはあの方の前で切れる札じゃあないからさ。
「素直に私の話を聞こうという姿勢は、評価に値するもの。やはり歳月はどのような人妖をも賢くするのですね」
「貴女ほど積み上げてきてもいないけれど。でもそうね、千年も生きれば嫌でも身の振り方は覚えられるわ。長いものには巻かれろってね」
違いない。
奴隷みたいなもんじゃない、まぁ確かにそう言われればそうだねぇ。だけど良く考えてみなよ、自分より立場が上ってことは、その相手は何かしらが自分より優れてるんだろ?仕事の能力とか、部下を的確に動かす采配力とか、上に媚び下に強く当たる二面性とかね。最後のが人一倍強い奴は心ん中で馬鹿にしてやれば良いだろうけども、それ以外なら自分よりできるんだなぁくらいに思って大人しく従っといた方が疲れないしお得じゃないかな。
…言わないでおくれ、従の心持ちがしっかりと染み込んできてるのは前々から自覚してるからさ。あたいだって我慢ならないくらいに理不尽なことがあれば、反対の声くらい出すよ。悲しいかな、どうせ無駄骨と分かっていながらの一声だけど。
「なるほど、それも一つの道理と言える。…では、貴女の論に沿って長いものとして貴女を巻きましょうか」
「束縛されるのは苦手だし、お手柔らかにねぇ」
滑らかな所作でお茶の入った陶器を口に運んだんだ。…あたいね、実はしばらく前に似た流れを見たことがあったんだよ。その時は思い出せなくて、あぁ何処で見たんだっけかともどかしがりながら記憶の海を探ってたのさ。
「昨夜はお楽しみでしたね」
「ごふぅっ」
奇襲攻撃を受けてお茶噴き出した八雲を見て、思い出せたんだけどね。間違いないよ、あの流れは幽々子ちゃんに通ずるものがあった。…あ、そうか。ヤマメは幽々子ちゃんを知らないんだね。えぇと、簡単に説明しちゃうと冥界の主だよ。うん、結構なお偉いさんだけどふわふわしてて掴みどころのない性格してるかな。
「おや、何時ぞやの亡霊姫と同じことを。流石旧知の親友、痛いところを突かれた時の反応までお揃いにするとは大層仲のよろしいことですね」
「ちょ、何でそれをっ」
またまた幽々子ちゃんと同じように、けほけほ噎せながら狼狽してたよ。先程までのほんわかした雰囲気は何処へやら、口の端からぽたぽたお茶垂らしながら目を右に左に大忙しだったさ。
あんまり縁側濡らすと後で霊夢が怖いから、せめて雫落とすなら土のところに落としておくれと思いながら八雲を見てたんだけど、残念ながらそこまで気を回す余裕はあの時のあいつにゃあなかったねぇ。
「さて、罪状の確認と参りましょうか。八雲 紫、貴女は昨晩に限らず過去に何度も従者である八雲 藍の眠る寝室に忍び込み、彼女の寝顔をこれでもかと堪能していましたね」
「……何のことかしら」
「それに留まらず、貴女はやはり眠る博麗 霊夢の元にもこっそりと出向き、普段滅多に見ることのできない安らかな顔を存分に見て楽しんでいますね」
どうにか一回白を切ったのは大したもんだけど、そこでまさかの追い打ちだ。小刻みに震えながらも何とか平静を装っていた八雲が、今度こそ石のようにびしりと固まっちまったよ。
「八雲 藍は、その端正な顔に幼さを残しながらも出るところの出た体付きです。そして、博麗 霊夢は年頃の少女らしくまだ熟していない青い果実。…八雲 紫、貴女は種類の異なる二人の少女を時折こっそりと観察しては発散し難い劣情を催していますね」
藍ちゃんはたまに人間の里で買い物してるのを見るんだけど、確かに美人というよりは可愛らしい女の子って言葉の方が似合いそうな顔ではあるね。体は間違いなく傾国傾城の美女のそれなんだけど、首から上だけが成長遅れちまってるというか。ま、その差にあまり違和感を抱けないのは
霊夢は……出不精治してご飯をきちんと一日三食摂りなさいとしか言えないねぇ。何か面白いことがあったらすぐそっちに気を惹かれて、没入する余り少しの食事も摂りやしないんだもの。そりゃあ体も成長していかないってもんだよ。栄養さえちゃんと取れば、もう少しくらい体の減り張りも付くだろうに、勿体ないというか何と言うか。
「一人は自らの分身とすべく手塩にかけて育て上げてきた才媛、もう一人は実の娘のように可愛がり時に叱ったりもしながら心血注いで成長させた稀代の天才。まぁ、貴女の気持ちも全くもって理解できないとまでは言いませんが。…それにしても、深過ぎる愛です。酒に溺れたフリをして二人に必要以上に近づいたりも……おっと、これは私が手に入れた情報ではありませんしこの口で語るべきではありませんね」
「な、何故。何処をどうすれば閻魔に知られるなんて最悪の事態に進展するって言うのよ」
「私の前で隠し事など、愚の骨頂と言わざるを得ませんよ」
例えその場にいなくとも、過去見の鏡が全てを暴く。過去をやり直すなんてことができない以上、道を誤った時点で閻魔様の餌食となることは確定なのさ。
狙われたくなければ、取るべき行動はたった一つだ。閻魔様が興味を抱かないよう、ひたすら誠実かつ平坦で無味乾燥な生き方をすれば、あの方の目に留まることもない。皮肉なことに、強大な人妖になればなるほどそれが難しくなっちまうんだけどねぇ。
「さて、罪は恙無く暴き終わりました。なら、次は何をするか。決まっていますね、被害者の元に出向き罪を告白し、謝罪することが貴女のせめてもの務めです」
うっ、と八雲がたじろいだ。今まで貴女達の寝顔見て幸せな気分に浸ってました、ごめんなさい。そんなに長い文書じゃないけど、いざ口に出して謝るとなると中々きついものがあるよ。藍ちゃんなんか特に、八雲の考えを三千世界の総意と見なしてるような節すらあるくらいにあいつを敬愛してるから、受ける衝撃は計り知れないだろうなって思ったね。尊敬する主が自分に対して邪な感情を抱いてたって言われるあの子の身を思うと、世は並べて事だらけなもんだと同情もした。
「そう、本来は」
だけど、閻魔様はあそこで譲歩を見せた。我が道を満身で邁進し続けるあの方には極めて珍しいことだったよ。
「貴女には何時ぞやの捕縛案件について協力頂いています。その徳に免じ、貴女に選択肢を差し上げましょう」
捕縛案件ってのには、まぁあれだよ。化膿した火傷跡とでも思って触れない方向で一つ宜しく頼む。…えぇい、煩いやい。色々あったんだよ、色々と。女の秘密を無闇に明るみに出そうとするんじゃあない、あんたは地底の閻魔様か。
「選択肢?」
「えぇ。まず第一に、素直に彼女達に謝罪をする。これも八雲 紫が取るべき行動の一つと言えるでしょう。そして第二として、何もせずこの件を時の流れに任せて風化させるということも認めます。但し、こちらを選ぶと言うのなら対価として私の代わりとなり働いて頂きますが」
掘り下げられたくないし、ちょいと強引にでも話を戻すよ。こんな感じに、閻魔様は譲歩なさったのさ。…ん?いや、譲歩してるんだよ。謝罪か服従か選べって言ってるように聞こえるのも分かるけど、あの方からすれば多分最大限に近いくらい妥協してらっしゃるんだ。
「あぁ、勿論永遠にということではありません。私が手を離せない時に厄介事が起きたとして、それの平和的な解決を貴女に一任したいということです。事が済めばそれ以上を求めることはしませんよ」
「む……」
幻想郷というものを外界と切り離すことで創り上げた、言っちまえばこの世界の母親の一人が八雲なわけだ。勿論そこらの雑多共とじゃ比較になんないし、何ならその危険度は風見の花妖怪すら上回りかねないほどだよ。歴史の伝承を一手に担う稗田一族……えっと、今は阿の九代目だったかな。あいつというかあいつらが書き記してきている縁起でも、唯一風見より後、即ち最後に記載されるくらいだしね。
この手の古参妖怪は、まぁ総じて誰の下にも回りたがらない。風見みたいに一匹狼ならぬ一体大妖怪を貫くか、天狗の長みたいに凄まじい規模の階級社会を築いていくかのどちらかに大別されると言って間違いはないだろうね。実力はどうであれ、妖怪ってのは自らの存在に誇りを持っている種族なんだ。実力確かな八雲なら、それはもう金剛石のように強固な自信を有しているんだよ。
「…分かったわ。一回だけ、貴女の意のままに動いてあげる」
だから、あいつの下した判断を聞いてあたいはちょっとびっくりしたんだ。てっきりちゃちゃっと藍ちゃん達に謝って、それからご飯でも奢ってなぁなぁの内に事を済ませちまうかなと想像してたもんだからねぇ。
「おや、随分と素直なことです。八雲 藍と博麗 霊夢に気味悪がられ疎遠にされてしまうのが余程怖いと見えます」
「何とでも言いなさいな」
あの二人に嫌われたら、生きていけない。そんな声なき叫びが聞こえてくるようだったよ。強い妖怪ほど何かにひどく依存すると言われるけど、八雲の場合は藍ちゃんと霊夢に生き甲斐のほぼ全てを見出してるんじゃないかねぇ。まさかあの八雲が、一時的にとはいえ誰かの下につくことを承諾するとは思わなかったよ。
犠牲は出ちまったが、何とか事を穏便に終わらせる目処が立って、八雲は安心してたよ。荒ぶりに荒ぶった心を落ち着かせたかったんだろう、もう随分と冷えちまってたはずのお茶を飲み出したんだ。
「おーい。閻魔土産の赤饅頭持ってきたわよ、有り難く食べなさい」
「ぶっ!?」
そこで一息つかせない。いやぁ、作り話かってくらいに鮮やかな流れだったよ。これは流石のあいつも想定できなかったみたいでね。あの日二度目の妖怪噴水で小さな虹を作ってた。根元にゃ目が眩むような宝物も何もあったもんじゃない、ただ濡れた土があるだけさ。
「ごほっ、げほっ、げほっ!?」
「…博麗神社で死なないでね。後処理が面倒だから」
霊夢の言い分も、相当に酷かったなぁ。仮にも半分育ての親みたいなもんだろうに。ま、軽口叩けるのは信頼の証とも言えるんだけどね。
「けほ、けほっ……。んんっ、ごめんなさいね霊夢。ちょっと驚いちゃったわ」
「それにしてはえらく盛大に噴き出したものね。全く、茶葉持ってきたのはあんただけど、淹れたのは私なんだから勿体ないことしないでよ」
「ごめんねぇ。…さ、落ち着けましたしお饅頭を頂きましょうか」
あれ以上お茶噴水について色々と問われるのは避けたかったんだろう。ちょっと無理矢理に会話の流れを切って、八雲は赤饅頭を手に取り食べ始めたよ。赤色してるが別段道化師ばりに火を噴くような辛さがあるわけじゃない、中身は至って普通の餡子さ。癖のない素朴な甘味に誘われて、あたい達地獄組も饅頭をぱくつきながら、皆で取り留めのない話に花を咲かせてたよ。
「そういや、紫」
「ぇいっ!?」
多分十分くらい話し込んだ頃だったかな。縁側に腰掛けて、空に浮かぶ丸い雲を何となしに眺めてた霊夢がふっと、本当にそういえばって感じで八雲に声をかけたんだ。あの時のあいつが何も口に含んでなかったのは、幸運だったねぇ。あの肩の跳ね上がり様を見ると、多分お茶飲んでたら三度目の噴水が噴き上がってただろうし。…ぷっ。やめてよヤマメ、なーにが八雲印の間欠泉だい。それ、八雲が管理してるんじゃなくてあいつ自身が間欠泉扱いされてるじゃないか!
「何で踏んづけられた魔理沙みたいな声出してんのよ」
「な、何でも。それより、どうかしたの?」
「ん、そろそろあんたって冬眠の時期よねって思っただけよ」
明確な理由は分かんないけど、あいつは何故か決まって冬頃になると活動を停止して引きこもっちまうんだ。冬眠とは言うけれど、実際に寝ているのかどうかすら不明でねぇ。一説には境界操作の能力があまりに複雑かつ強力である故に、八雲という大きな受け皿をもってしても一定期間の休養が必要になってくるってのがあって、他説には喪った何かを儚んでるって言われてるよ。ま、どれもこれも憶測の域を出ない推論だし、真実はまた別のところにあるかも知れない。
「あら。確かにそうね」
「こっちとしては面倒の種を撒くのが一人活動休止してくれるんだからありがたいわ。いっそのこと夏先くらいまでは寝てても良くってよ?」
「春はぽかぽかと暖かいし、寝過ごしたい気持ちはあるわねぇ。でも、幻想郷の管理者として春になれば暁を見ないといけなくなるわ。いつまでも藍に任せっぱなしというわけにもいかないもの」
親なき家が成り立たないように、八雲を欠いた幻想郷は決して上手く立ち行かないものなのさ。二年も三年も引きこもられたら、幻想郷の民としては堪ったもんじゃないよ。
「私程ではないにせよ、貴女も忙しいのですね。その割には、覗きを働く時間はきっちりと」
「わーっ!?」
契約を交わしたってのにあっさりと蒸し返す閻魔様の、何と質の悪いことか。不意打ち気味の口撃に一拍反応が遅れちまった八雲が、必死に声出して誤魔化そうとしたのがまた滑稽なもんだったよ。でも、大仰な身の振りをした甲斐あってか霊夢に話を聞かれずに済んだのは良かったんじゃあないかな。
「何よいきなり、大声出しちゃって」
「む、虫が背中に張り付いただけよ」
「女か。……女か」
バレるはずがないと思ってたことがよりにもよって閻魔様に露見したり、性別の認識が一瞬狂ったりと、八雲にとっては小さくない災難の続く昼下がりだったよ。冬眠中にもし意識を落としてしまうなら、悪い夢でも見て魘されないと良いんだけどねぇ。閻魔様が五、六人くらい夢枕に立って説教してくる夢なんか見ようもんなら、現実で命が危ぶまれちまうだろうさ。
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とまぁ、あたいの話はこんな所かな。どうだったよ、八雲にも想像つかないような一面があるんだなって思ってくれたら、話し手としては幸いなことだけど。
暇は潰せたから及第点とな。あいたた、こいつは手厳しい評価だこと。あたいの繊細な心に蜘蛛の巣みたいな罅が入っちまったし、これは早急に直さないとねぇ。心の安寧を保つことは、長く幸せに生きるために絶対必要な条件だもの。
というわけだ。ヤマメ、酒飲みに行こう酒。ついでに美味しいご飯も一緒に食べれるところが良いな。…ご名答。あたいは地底の飲み処事情にゃあ詳しくないもんでねぇ、是非ともヤマメのお勧めする店を教えておくれよ。
まぁそうぶーたれずに。酒の代金だけは、あたいが持ってあげるからさ。…何だい、調子の良い奴め。打って変わって、乗り気じゃあないか。はいはい、土蜘蛛様の御案内に従いましょう。蜘蛛だけに、きっと飲み屋についての情報網も広いんだろうしね。