イロジカル・ゲーム-The girl of match merchant- 作:職員M
「それはそうとハル、先食べてて良かったのに」
「先食べちゃうともうお勘定できなくなると思って……」
「そうかそうか。ほら、とりあえず落ち着けろ」
そう言いながらリンゴが差し出したパンを受け取ると、ハルは小さく一齧りし――
「美味しい……」
安心からか意図せず流れる涙も気にせずに、次の一口を齧った。
それを見守るように口元に微笑を浮かべながらリンゴは、ハルの頭を優しく撫でた。ハンスもまた、微笑ましげにその様子を黙って見つめている。
「ふぅ……ん」
たっぷり時間をかけて一つのパンを食べ終え、嘆息するとその時に初めて自分を見守る四つの視線に気が付いたようで、ハルは赤面した。
「す、すいません! ……会話の邪魔を」
「いいや気にするな。……良い食べっぷりだったから思わず見とれてしまったよ。がっつくと胃がびっくりするだろうからゆっくり食べろ」
「はい……」
「実は俺もここまで豪華な食事は久しぶりなんだ。堪能させてもらう」
「おう皆じっくり味わってくれ。明日もあるんだから鋭気を養ってな」
「……明日?」
さらっと流すように言ったリンゴの言葉に、ハンスは疑問の声を上げる。一般的にデンマークでの元旦は家で過ごすことが多く、大晦日ほどの盛況は無い。
「そう明日だ。元旦は基本的に人が少ない。だから今日のようなやり方はしない。……一つ試したいことがあるからそれでいくつもりだがな」
「リンゴさんは……なんでそんなに売ることに詳しいんですか?」
ふと思い出したように、ハルが尋ねる。それはハンスも聞きたかったことの核のようで、黙って回答を促した。
「まぁ……大体は本の知識だな。幸か不幸か家には色んなジャンルの本が揃ってて、母親が熱心に色々教えてくれたからな」
「本の知識だけで……あそこまで?」
「無論アドリブは多い。が、さっきハンスにも説明したとおり基本的な売り方は理論に則ったままだ。私のオリジナルじゃない」
「それでも……」
ハルは言いよどむ。先ほどの一幕がとても一発本番の芸当とは思えない。特に……
「あぁ、もしかして町長が来た終盤のアレか?」
リンゴの返しに、二人は同時に頷く。
「始める前に言ったと思うがハンスには貨幣のすり替え、ハルには途中から投げ銭集めと両替商に走ってもらう役割をやってもらった」
「すり替え自体は日常茶飯事だから特に苦労も無かったけどな」
「私も、お金の数え方は分かるので大丈夫でした」
「それがちゃあんと功を奏した。地代が500クローネかかることも知っていたし、町長がいずれ来ることも分かってた」
「それで――」
「あとはタイミングだけ、君ら二人に合わせてもらいさえすれば完成してたんだ。だからこそ私は町長の件は実際来るまで黙っていた。変にポーカーフェイス決め込まれても困るしな。……それにしても町長が来た時の……ククッ……あのハンスの顔ときたら……!」
「おま、ちょ! 笑うなよ!」
「悪い悪い。でも正直笑うの抑えるのに必死だったぜ?」
「この女は……」
身体を折りながら声を抑えるように笑うリンゴを見やりつつ、ハンスはまた大きく一口ワインを飲んだのだった。
※デンマークにおいて飲酒に関する法律は存在しない。日本では禁じられている未成年飲酒もデンマークでは可能なのである。羨ましいことこの上ない。
一人当たり1万7700クローネ。端数は宿代とメインのパフォーマンスを行ったということで、ハンスが受け取ることで全員合意したところで、報酬の山分けは呆気なく終了した。
「そういえばハルはこうして金勘定もできるし言葉も不自由していないんだ。あそこまで追い込まれたのにはなんか理由でもあるのか? 無論無理に答えなくていいぞ」
そこからはしばらく思い思いに食事をし、軽く落ち着いたところでリンゴはハルに問うた。
ハルはそんなことはないと言わんばかりに首を横に振ると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私の実家、元はここの隣町で両替商をやってたんです。あんまり稼ぎは無かったけど、お家もちゃんとあって」
「それが数年前にいきなり現れた鼎商同盟という集団にぬ、濡れ衣を着せられて……。やってもいない両替詐欺の疑いをかけられたんです」
「……」
「それほど大きくなかったうちは鼎商同盟が広めた噂が原因で店を畳むことになってしまって……。お父さんとお母さんは今その鼎商同盟の中で働いています。そこからの仕送りとなけなしの貯金だけでこれまで生活していたんですけど……。つい3日前に底をついて、それで……」
「なるほどな」
短くそれだけ言い、リンゴは再びハルの頭を撫でた。
「大変だったな。よく生きる決意をしてくれた。……なぁハル」
俯いていたハルは顔を上げてリンゴの顔を見る。頬を一筋の涙が伝い、目も赤くなっていたがリンゴの声を無視することはできなかった。
「なんですか……?」
「取り戻しに行こうぜ、ご両親。鼎商同盟とか言ったか? どっかにそんな名前の胡散臭い集団がいるってのは聞いた事がある。ハルがいる以上私も用ありってわけだ、首突っ込ましてもらうからなァ」
さっきの商売といい今回の発言といい何の根拠も無いのにこの人は出来て当然と言わんばかりの顔をする。だが、この人がそう言うと不思議と実現してしまいそうな気がする。それが何故だかおかしくて、ハルは思わず笑みがこぼれた。
「……はいっ!」
「さて。ちょっと野暮用があるからこれから出掛けてくる」
外用の真っ赤な外套を羽織りながら、リンゴは告げた。
「今からか?」
まだワインを飲んでいたハンスは驚いて赤くなった顔をリンゴを向ける。
「まぁすぐ片付くさ。一時間もあれば帰ってくる」
「そうか……。俺はもうそろそろ限界だ」
「気にせず寝てて構わないさ。……ハルもな」
リンゴはそう言ったのだが、
「私、リンゴさんに付いて行きたいです」
「やめとけって。風邪引くぞ」
「それでも!」
なかなかどうして、強情なところがある娘だった。さっきの会話のせいか、それともその前からか、ハルはすっかりリンゴにご執心のようだった。
「……ハンス。何か羽織る物があったら貸してくれ」
「良いけど俺のサイズだからでかいぞ?」
「ハルが入ればそれで良い。頼む」
特に異論もなく、ハンスはクローゼットから男物の深緑色の外套を取り出し、ハルに手渡した。ハルは少し手間取りながらも身体を覆いしっかりと着込む。それを見届けてから、リンゴはアパートのドアを開けながら言った。
「そんじゃ行くか」
ハルを連れ添ってリンゴが目指す先は、ここまで歩いてきた道を真逆に進んだところにある。
「さっきは色々話してくれたな。ありがとう」
ずっと黙っていたリンゴが急に話し掛けてきたので、ハルは少々驚いた。
「い、いえ……」
「今度はこっちの番だ。情けねぇことこの上ないが、一部始終見ていてもらったら分かる」
ハルはまだ、リンゴが何を言いたいのか分からない。
「一体何を……?」
「今から私を放り出した父親にケリを付けに行くんだ。こんなケチなマッチでここまで働かせてきたツケを払ってもらおう」
そしたら今度は鼎商同盟とやらに喧嘩を吹っ掛けに行くんだ。と、リンゴは獰猛に笑った。
――――
しばらく歩いた先に、小さな家に併設された倉庫が現れた。周りに家はなく、そこだけが一つの世界を構築しているように、ぽつんと佇んでいる。
近寄って窓から中を覗くと、一人の男がテーブルに座って酒をあおっていた。蝋燭に照らされたその顔はひどくやつれ、黒い髪を逆立たせている。苛立たしげに虚空を見つめるその瞳は赤く、リンゴの血縁であることを嫌でも教えてくれた。
「あのクソ野郎……。また酒飲んでやがる」
リンゴは軽く毒づくと、自分の外套を脱ぎ、ハルに手渡した。
「一応ハンスのがあるから大丈夫だろうとは思うが、寒くなったらこいつも羽織っててくれ」
「はい……」
外套を手渡されたハルは、本当に大丈夫なのですかと声を掛ける間もなくリンゴがドアを開けて入ってしまうその背を不安げに見つめていた。あとは先ほどと同じように窓から中の様子を伺うことしかできない。
ニルスは今日も苛立っていた。苛立つのに大晦日だろうが平日だろうが変わりはない。今日もまた不景気で、金など降って湧いては来ない。下の娘を町に放り出してやったが、あいつじゃ大晦日の市場を利用しても所詮一箱も売れないだろう。奴隷の真似事をして5クローネでも調達してくれば上等な程だ。
昔から上の娘はよく出来たが、下はてんでダメだった。何をやるにしてもトロく、本ばかり読んで引きこもっているから実生活を送る上で大切な知識が何一つとして身に付いていない。ニルスは途中までこそ熱心に指導したつもりだったが、途中から完全に諦めた。特に妻と上の娘が家を出てからはほとんどまともな相手すらしなくなったのだ。
それにしても今日は一段と遅い。盛況ということは100%無いとしてもここまで粘るのは初めてか。
(まさか家出でもしたか……?)
一瞬ニルスの脳裏を過ぎった考えも、自分自身で笑い飛ばす。何故か。
(有り得ねぇ。んなことを企みでもしたら何されるか分からねぇもんな?)
恐怖政治。一言で言うならニルスの教育方針はそれだった。恐怖こそが最も手軽に人を従わせる有効な方法だ。それに奴には強烈な"ある"縛りを掛けてある……。
と、その時だった。ドアがぎぃ……という音を立てて開く。ニルスが目だけをそちらにやると、外套も羽織っていない銀髪の娘がそこに立っていた。凍えているのか、はたまたこれからの収支報告が怖いのか小刻みに震えている。
「遅ぇな今日は。で、どうだったんだ?」
低い声でニルスが声を掛けると、びくりと震える。その態度がまたニルスの癪に障る。またダメだったか。
「あ、あの……。これくらい、です……。いつもよりはちょっと」
銀髪の娘――リンゴは、真っ青な顔のまま握り締めていた手を開く。そこには1000クローネ紙幣と10クローネ硬貨があった。
「……まぁまぁだな。寄越せ」
そして娘の手から金をひったくる。意外だ、今日ほど稼いできたのは珍しい。外套も着ずほぼインナーだけのような姿をしているから、ここぞとばかりに外套を売りに出しにでもしたんだろう。相変わらず馬鹿だ。明日もまた寒い中売りに行かなければならないというのに。
(どうあれ、しばらくは食いつなげそうだな)
ぶっきらぼうな表情を崩そうとはせずに内心ほくそ笑む。そして軽く
「もう寝て良いぞ。明日もこれくらい稼いでこい」
とリンゴに言うと。小さく、蚊の鳴くような声で、返してくる。
「あの、お父さん……」
「なんだ?」
威圧的に言い放ち再び忌々しげに娘を睨みつける。自分もいい加減眠たいくらいの時間だ。いちいち話相手になる必要も無かったが、いつもより稼いできたから少しだけ聞いてやることにした。
それが仇であった。
「あの……"約束"、覚えてる……?」
不安げな色を浮かべた瞳で自分を見つめてくるリンゴに、ニルスは真顔で返す。
「あぁ、それがどうかしたか?」
約束ってのは何でもないただの"縛り"の事だろう。娘に掛けた鎖。
――――10万クローネ払えば、この家から出してやる。自由だ。
――――本当に?
――――約束だ。絶対守る。
――――分かった。
ちょうど一年前のあの日の会話、今でも昨日の事のように思い出せるくらいだ。
自分の返事を聞いたリンゴは何がそんなに嬉しいのか、ここ最近では滅多に見せない晴れやかな笑顔を自分に向けている。
「良かった……! 覚えててくれて」
「そんな事か、それじゃ俺は――」
「待たせたなァ首が引きちぎれるくらい長くなるまでよォ……」
――寝る、と言いかけてリンゴがこれまでにないような言葉をはっきりと紡いだことにニルスは閉口せざるを得なかった。思わずリンゴを再び見ると、先ほどと同じ笑みではない邪悪極まりない笑みを浮かべている。
「どうしたんだ? 喜べよお待たせっつってるのが聞こえなかったか?」
「お、おま……。な……!」
怒りという感情より先に困惑、恐怖、混乱がニルスを包む。これまで一言たりとも自分に反抗的な態度を取らなかった娘が、幾度となく恐怖で従わせ全部の雑用をやらせてきた娘が、今自分に楯突いている……?
次の瞬間青筋を立たせてニルスは傍にあった椅子を蹴り上げた。椅子はすぐにテーブルにぶつかり、転がる。まずは派手な音で怯ませ……
「おい話聞く気無ぇのか?」
びくともしない。否、その事実に気付きすらしていないような風に感じさせるほどに冷静に真っ直ぐに自分を見つめ続けている。
自分の娘は、寒さで正気を失ったのだろうか? いや、まさか――
(そんな事がある訳無いだろ……?)
「んだよさっきから黙ったかと思ったら急に椅子でサッカー始めやがって。正気でも失ったか?」
「お、お前こそ寒さで狂ったんじゃねぇのか!? 一体何言ってやがる! 約束だのお待たせだの……」
「悲しいなぁいきなり豹変されたらその程度のリアクションしか取れねぇの。まぁいいや……確かめてみな」
リンゴはそう言いながら、ポケットから一枚の紙切れを出し、ニルスに放り投げた。その紙切れはひらひらと宙を舞い、数秒してから床に落ちる。リンゴを殺す勢いで睨みつけながらそれを拾い上げ内容を見たニルスは、今度が自分が真っ青になる番だった。
その紙切れはただの紙切れではなく――
――支払地ダンスケ銀行 金額kr100,000と書いてある有価証券であった。
「これは……!」
「約束通り10万クローネ、その小切手だ。現金じゃかさばるからこっちの方が良いだろ?」
「お、おおおおおま、おまえ!! どうやってこれを!!」
「あァ!? 稼いできただろうが文句つけるつもりか?」
当然そんな事を言うつもりではないことは重々承知の上で、リンゴは弄ぶつもりで激昂する。
「違う! お前これなんで、どうやって……」
「だからその方法なんざどうだって良いだろうがよ? 『10万クローネ払えばこの家から出してやる。自由だ』……おめぇが言ったんだぜ?」
だからこそシンプルな回答を用意している。と、それ以上言わずにこの娘は伝えてきた。そのあまりの迫力に、ニルスは脱力しその場に座り込む。
「嘘だ……」
「嘘じゃない。明後日にでもダンスケ銀行に行って換金手続きしてもらって来い。……私はそこまで待てんがな」
そう言って立ち上がるリンゴに対し、ニルスは声を掛けることも出来なかった。ところに、逆にリンゴから声が掛かる。
「……これまでどうもありがとうな」
「……は?」
何のお礼だと疑問が浮かぶより先に
「おめぇが私を無能だと今の今まで信じてくれてなかったら、たった一年で10万稼ぐのなんか到底無理だったよこのド無能が!」
全ての怒りを吐き出すようにしてリンゴは怒鳴りつけると、一刻も時間が惜しいと言わんばかりに直ぐ様踵を返すと躊躇なくドアを蹴飛ばして開け、すたすたと歩き去っていった。
残されたニルスは酷い悪夢にうなされているかのように、ただ一人呻き続けていた。