イロジカル・ゲーム-The girl of match merchant- 作:職員M
その日のデンマークは、全土で大荒れの天候だった。決して雨や雪は珍しくないデンマークであっても、これほどの雨交じりの吹雪はごくたまにしか訪れない。当然漁業は中止になり、人々はこういう時に備えた備蓄品で一日を過ごす為に市場は活況から遠ざかる。開店休業というやつである。
「あーあ、これは今日ダメだな」
窓から外を伺う赤頭巾がトレードマークのマッチ商人は自身の聖域であるロフト部分で独りごちる。舌打ちしながら本日の商売は原則中止とする。ニュボーでも同様であったが、このリンゴ商団の面々は基本的に屋外で活動を行っていることが多く、こうした天候の影響は諸に受けるのだ。
「機会損失がいくらだ? これは」
商売を中止とした為、つまり休みだ。
リンゴはまだ午前中であるにも関わらずエミルから借りたジョッキになみなみと注ぎ込んだビールをグイっと呷った。休みだから別に良いのだ。などと自分に言い訳をつきつつ、リンゴは紙に書きながら計算する。と、その計算途中にロフトに上がってきた人物がいた。最早リンゴの右腕と言っても過言ではないハルだ。
「おはようござ……リンゴさん!? お酒飲むの早くないですか!?」
「おはよー。いや、今日は飲んで終わり」
「まぁ……この天気ですしねぇ……。モーテンさんも今日は休むと仰ってましたし」
「モーテンと話したのか?」
荒天の中いつの間に来ていたのか、とリンゴはぎょっとする。
「さっきここに訪れていて、リンゴさんに今日は休むと伝えてくれと言付けられていましたので。ついでに色々と」
「何を話していたのか聞いても良いんだが、ここは楽しみにしておくとするか」
最近のハルの成長から考えて、敢えて内容は聞かずにおいておく。それすらも面白いという風にリンゴは嗤う。
「楽しみにされるほどのものでしょうか?」
おずおずと、眉を八の字にしながらハルは尋ねる。そこにどこか愛らしさを感じながら、リンゴは答える。
「そりゃそうだろう。私がモーテンと話すのとでは立場も話す内容も当然違ってくる。今私がハルの立場だったらどんな話をするのか、想像もつかねぇ」
「そうなんですか?」
「だからこそ面白い。似てきているとはいえハルは"私"じゃない。ハルならどんな話をするのかなァ」
「そんなに面白い話はしていないですよ! ……まぁ、笑って帰ってもらえましたけど」
「接客もできるとなっちゃ、こりゃハルにも最前線に立ってもらった方が良いかもなァ!」
「えっ、ええぇぇぇ……」
「もちろんハルもリンゴ商団の一員だし、今からでも"ハル"のファンを作っておいてもらいたい。当然サポートはするしアイデアも共有するが、やってみる気はないか?」
万感の思いを込めて、リンゴはハルに誘いをかけた。
――――――――――
私に、任せてもらえる……?
リンゴさんの言葉が信じられなくて、私は目を白黒させる。あくまでリンゴさんの思考に合わせようと四苦八苦していただけなのにいたく気に入られてしまって正直心苦しいと思っていたところに、これだ。
「いや、でも、私は……しがない両替商の娘で……」
でもやっぱり駄目だ。私なんかが、という思いが頭を過ぎる。冷静になれ、私。思い上がっちゃいけないの。
「私はその
「そんな、些細なことを……?」
覚えているのですか?という言葉は出てこなかった。思わず頭がいっぱいになる。ハンスがマジックを披露している間に手早くかき集めた小銭やお札を無我夢中でオーデンセの両替商に持って行ったあの日、確か手間取っていた両替商に替わって自分が正しい金銭取引をしていたっけ。……年が明けてから数ヶ月経つ今にしてはかなり昔のことのように思えながら、私は問うた。
「あたりめぇじゃん。私だってあの時はギリギリの綱渡りをしてたんだから」
「だったら私は……両替商がやりたいです……」
リンゴさんの言葉に知らず知らずのうちに涙を浮かべながら、私は自己否定を上回る期待に、希望に従い、そう言い切った。
――――――――――
やはり、私の見込みは間違っていなかった。目の前で涙を流すハルを見ながら、私は心の中で確信する。
両親が奪われた両替商を、それでも引き継ぎたいと願った彼女の思いを一心に引き受けつつ、私は全力でそれに答える。
「なら適任はハルしかいねぇな。今のところ商団の中に両替商はいないが、一応その志望は一人いるみたいだ。そいつと協業しながらやってみてくれ」
「はい!」
かつては物乞いをしていた目の前の少女は、今や立派な商人として立っている。そのことに私は安堵を覚える一方で、どこか少し寂しさを覚えるのであった。
「そうと決まったらハルにも一所懸命働いてもらおう。……明日からな!」
「頑張りますよ!!」
期待以上の言葉をハルが発した……その直後だった。
凶報というものはいつだって突然やってくる。それこそ、この嵐のように。
バンッと扉が開くと同時に真っ直ぐロフトに向かってくる足音に、私は本能で何かが起こったと察する。
「団長!!」
やって来たのは、元の組織を締めるエミルだった。
「……何かあったな?」
「たった今聞いた情報だが……。鼎商同盟はコペンハーゲンの民間金融機関を掌握したようだ」
私は一瞬フリーズし、そしてビールを一口飲むと、無理やり貼り付けた下卑た笑みをエミルに向ける。
「私が鼎商同盟のトップだったとしても同じことをやっただろうなァ!」
「リンゴ……。これを見越していたのか?」
「いくら鼎商同盟だとしてもダンスケ銀行はデンマーク全土の公的機関だから抱え込むのはそう簡単じゃない。でもこれが民間なら話は別だ。小資本で活動している彼らの手綱を握るのは難しい話じゃない。自分たちに十分な資本があるなら、な」
口ではそう言いながら私は流れる汗を誤魔化すことだけはできなかった。
金融機関を掌握しただと? この短期間で私は他組織どころか自分たちの組織すら掌握できていない。その差は明確。一体何がどうなっていやがる? どうやって成し遂げやがった。
「それなら、何かしらいい手立ては思いついてるのか?」
縋るような表情を見せるエミルに、私は不本意ながら今の天候のように曇った表情を見せることしかできない。
「想定はできていてもそれに対する有効な手立てを思いつくまではまだ時間がかかるものさ。……悪いな」
「いや、俺こそいきなり頼りすぎていた。……こっちでも何かできないか考えてみる」
「頼む」
私がそう言った時だった。
「……金融……。確かに商売において大きな要素ですが、私たちの中でそれを生業にしている人はいましたか?」
「いや、いないぞ。さっき言った通り両替商志望が一人いるだけだ」
私がそう返すと、ハルは意味ありげな笑みを浮かべる。それはまるで自分の写鏡のようで、ゾクリと背筋を震わせる威力を持っていた。
「だったら……競合が増えたわけじゃありませんよね?」
その時の感情は言い表せない。
まずはハルの言葉で閃いた一案がある。この状況を、コペンハーゲンの金融流通を抑えられてしまった状態を覆すための一手を。
次にハルがもしかしたらその思考を先回りしたのではないかという疑問と感動。だったら私が言うべきはただ一つだ。
「ああ、そうだな……いつも通りやるしかない。私たちはいつだって戦い方は変わっていない」
今や私に、迷いはなかった。
――――――――――
醜悪なる鼎商同盟が金融の根幹を抑えたというニュースは瞬く間にリンゴ商団中に広まり、メンバーが荒天にも関わらずリンゴ達がいる本部に集結し始める。
「今度こそヤバいんじゃないか?」
「店を畳む覚悟はできた。……だが俺はあんたと靴と心中するつもりだぜ」
「……なんで陶器屋なんて始めちまったんだろ? そりゃ好きだからさ!!」
思い思いの感想と独白を交え混沌としてきたところに、我が商団のトップが降りてくる。
「ピーピーうるせぇなァ……おめぇらそんなに不安かァ?」
一歩一歩が圧として伸し掛ってくるように、商人たちには思えた。気迫に鬼気迫るものがある。
「不安ってのは自信の無さの裏返しだ。……それじゃあ勝てるもんも勝てんよ」
「で、でも俺たちの中に鼎商同盟が吸い上げちまった金貸しに借りてる奴もいる。そいつはどうしたらいい?」
「法律まではねじ曲げられん。即時全額返済を強制されることは無いはずだ」
血眼になって問うてくる高身長の男に、リンゴはそう答える。
「じゃ、じゃあこれから金を借りる予定だった奴は……どうすりゃいいんだ?」
しばらく黙ったリンゴに失望を表したのか、幾人かが頭を垂れる。
「カール、いるか?」
その集団に呼びかけると、隅の方で大人しくしていたカールがリンゴの方を見る。
「お、俺だ!」
「ちょっと来てくれ。みんなはまだ知らないはずだ」
「カールがどうした?」
誰ということもなく発されたそれは集まった人間に広まっていく。エミルの一団の中でも最も利益率が悪く、無駄なサービスばかりしているという認識が商人たちには根付いていた。
「昨日の売上、みんなに教えてやって」
まるでプレゼントを開ける直前の子供のような表情でリンゴは言う。年相応か少し幼いように皆には映った。
「え、えと……20万3510クローネ60オーレです」
それは正に驚天動地の様相だった。
「嘘だろ……?」
近くにいた靴屋がそう問いかけるが、カールは困惑気味に否定するばかりだ。
「トップが仕組んでくれたんだよ。俺とモーテン運送をくっ付ける作戦をな」
「「「なっ……?」」」
誰もが息を呑む瞬間だった。"あの"モーテンが誰かと組むなど、自発的にはまず有り得ない。そこには必ず儲けの話が必要だった。それが……カール?
「カールが漁村向けに売っていた鮮魚に目を向けた。新鮮なうちに運ぶことができればモーテンの新規顧客にもつながる」
話を受け継いだリンゴは、カールモーテンの協業に心を躍らせる。
「それが……金を借りずに済む理由になるのか?」
「その通り。何故なら私は……全 員 得 す る方法だけを探しているからだよ」
そこまで恐怖に駆られていた商人は圧倒的なリンゴの態度に落ち着けられるのだ。
「ここにいる俺たちも……カールみたいになれるのか?」
「みんな、相談が遅くなって悪かった。本当なら一晩でやるべきだったんだろうがなかなか難しくてな」
そしてひと呼吸置いて、リンゴは大声を張り上げた。
「皆安心しやがれ!! ここに大きな証人がいるだろ!! おめぇらもここに続かなきゃ許さねぇぞ!!!!」
その言葉に、エミルの工場は再び歓声で包まれたのだった。
――――――――――
その日はその場にいた全員と一対一で話し、情報を集めるだけ集めた後、解散となった。通常業務があってはいちいちリンゴが彼らを訪ねなければならず、一日の終わりに皆を集めるのも双方負担がかかる行為であった為、こうした機会はありがたかった。
「さてと、これで全員かな?」
「はい、僕で最後ですね」
「おめぇは両替商志望……。その道、突き進む覚悟はあるか?」
「もちろん!」
「そうか。……じゃ、ハルに教えてもらいな。私は商売しか分からん。両替手数料の相場と金の動きは私より専門だ」
「分かりました!」
元気よく返事を返すのはまだ幼さを残している男で、名前をユリウスといった。
「後でハルには話を通しておくから、場所を教えてくれ」
「いや、僕特に場所を定めてないんです」
「移動式か?」
「市場を歩きながらそこで両替の需要を聞きまわってます」
「……ふむ。それもありだろう。でもいざ両替したい時にどこにいるか分からないんじゃちょっと不便だな」
「そこは話を通してもらったり、たくさんの知り合いに目撃情報を渡してもらったりしていますよ」
「顔が広いのか! それなら大丈夫だ。頑張れ」
リンゴの激励の言葉に嬉しそうに頷くと、ユリウスは去っていった。
「ビール温くなっちまったなァ……」
二、三口しかつけていないジョッキを持って、リンゴは外に置く。加減が難しいが、少しばかり置くと丁度いい温度になるのだ。作業中にこれをやると完全に凍ることになる。
しばらくジョッキを揺すったり表面を気にしているところに、二日ぶりにゲオルグが現れた。
「姉御!! ご無沙汰してます!!」
「誰かと思えばゲオルグじゃねぇか。奥さんと子供はちゃんと預けられたか?」
「もちろん! 快適な宿を準備しましたよ! ……ところで、一度話そうと思ったことがあるんですが、今いいですか?」
やけに深刻な顔をするゲオルグに、リンゴは二つ返事で了承する。
「このビールが凍るのと、ゲオルグの話。どっちが早い?」
「たぶん……凍る方が」
「上に来てくれ」
リンゴは直ぐ様ジョッキを持つとゲオルグを中に入れた。また熱気で温くならないうちにとジョッキに口を付けつつ、元の場所へと戻る。
「人払いは?」
「できれば……お願いします」
そう言ったゲオルグに素早く頷くと、リンゴはまだ宿舎に残っているメンバーに大声で告げた。
「みんなーー!! 私今から口説かれるからちょっとの間外出ててくれない?」
「ええっ!!?」
「無理っすよすぐ凍っちまう!」
悲鳴を上げるハルに混じって抗議の声を上げるメンバーに、リンゴは確かにと手を打つ。
「それじゃ、恥ずかしいからみんなちゃんと耳を塞いどいてね!」
「あの、私行っちゃダメですか!?」
「ちょっとだけ待っててくれハル。すぐ済むから!」
不満げなハルを残してはーい、うーいと色とりどりの返事をしながら商人達は応答する。そもそも他人の話に興味がなく、大きなイベントでもない限り自分の商売のことを考えるタイプが大半である為、人払いはある種のパフォーマンスとも言えた。
「姉御……。俺妻帯者なんですけど」
「理由なんかなんでもいいじゃん。……それで、話したいことって?」
「俺たち宝石商は扱っているブツがブツなだけに厄介な客に絡まれることも多い。……そこで商人達の間で流行ったのが、信頼できる人との暗号です」
「ほう」
「俺たちも何かしら作るべきではないですか? 簡単かつ意思疎通ができる為の何かが!」
「……ゲオルグ。何か企んでるね?」
「まさか。俺はただ"何かあった時に"仲間かどうかを見分ける術があった方が都合が良いと思ったわけで」
「何かがある前提の時点で、今ゲオルグは何かを仕掛けてんだよ」
「……」
「甘く見てもらっちゃあ困るぜ? 私相手にハッタリ仕掛けようってのは」
「……流石です、姉御」
降参と言わんばかりに両手を挙げるゲオルグに、リンゴは僅かに鋭い視線を投げかける。
「多分言わねぇだろうが……何を考えてる?」
「そこまでは言わさないでくださいよ。……ただ俺も覚悟を決めてる。その為には手段を選ばないつもりだ」
無言で続きを促すリンゴに、ゲオルグは真っ直ぐに瞳を向け、言う。
「だが俺は姉御を裏切らない。瞼を一度閉じたらイエス。素早く二度閉じたらノー。これを暗号に」
「それだけか?」
「それだけです。言葉に出来ないときにでも使えるし何より簡単です」
「了解だ。使う時が来ないことを祈るよ」
屈託ない笑みを浮かべるリンゴに、緊張が解けた様子のゲオルグは、一礼するとそこから去ったのだった。
「どうだったんです?」
ロフトから降りるリンゴに、商人は尋ねる。
「私にはハルがいるからって断ったよ」
おどけながら言うリンゴにその場にいた全員が笑う。
「良かったです! まさかゲオルグさんがリンゴさんを狙ってるだなんて!」
「大丈夫だってハル。私はどこにもいかねぇから」
くしゃくしゃとハルの髪を撫でてから、リンゴは言った。
「明日からまた再始動だ。皆今日言ったことを忘れずに頑張ってくれ! 必ず鼎商同盟をぶちのめすぞ!!」
次々に拳を突き上げる商人たちを見て、同じ商人のリンゴは満足そうに笑った。
――――――――――
「あの、レーネ様……」
自室に入ってきた久しく見ていなかった商人を一瞥すると、レーネは冷ややかに告げる。
「何の用ですか? ラーセンさん」
「私に。……私たちに、もう一度チャンスをいただけないでしょうか?」
「ひと時の安寧を得たらすぐこれですか。……屋号を剥奪しましょうか?」
「そ、それは……!!」
軽く脅しをかけるだけで目に見えて狼狽するラーセンを、軽蔑しきった様子でレーネは見つめる。
「あなたの娘さん、今どうしていることでしょうね?」
「……っくぅ」
世話の周辺を整える暇すら与えられず、見捨てる形しか取ることができなかったラーセン・フェレナは崩折れそうになるのを何とか耐える。
「今日のような荒天で凍えていなければ良いのですが……」
「お願いです!! 娘を探させてください! 何が何でもあの子を……!」
大声で詰め寄るフェレナに、レーネは静かに告げる。
「だったら、今回に賭けることね」
「え……?」
「今回の選挙で専売権を得られれば、それはデンマークを支配したのも同じ。小娘の一人や二人探すのも、造作もない情報が入ってくるでしょう」
「……貴女が私たちの商売を、娘を奪ったんじゃないですか」
「あの時たまたまあそこで商売していなければこんなことにはならなかったのですがねぇ。
「止めてください! もう聞きたくない!!」
叫ぶと、フェレナはすぐに部屋を飛び出した。
――――――――――
彼らはまだ知らない。
その娘は、さるマッチ売りに命を助けられたことを。
両替商としての魂を売らずにいたことを。
マッチ売りとの旅で多くのことを学び、そして実践していることを。
今もこうして、両親を探し続けていることを。
「……絶対に取り戻す」
疲れて眠ってしまったリンゴさんの横で、改めて決意する。
私はリンゴさんに全て助けられた。物理的な命も、精神的な命も。だからこそ、ここで確実な一手を自分も打ちたいと、強く願う。
「目にもの見せてやります。……