IS-アンチテーゼ- 作:アンチテーゼ
◇
ここ最近、フランツィスカの抱えるストレスは
が、すべての発端は彼女が新型ISのテストパイロットに選ばれたことだった。
「フランならだいじょうぶよ。おねえちゃんが保証します」
ぽわんぽわん、というオノマトペが聞こえてきそうな笑顔で言う上官に、最初のフラストレーションを感じたのを思い出す。
フランツィスカはどうにも彼女が苦手だった。
「そんなこと言わないでフラン。おねえちゃん悲しくなっちゃいます……」
――そういうところです、中佐っ!
頭の中で勝手に嘆く上官に、フランツィスカは脳内で反論する。ここまで会話のシミュレーションが簡単な人物をフランツィスカは他に知らない。
上官の名前はエレオノーレ・フックス。階級は中佐。ドイツ軍特別情報統制機関『
フランツィスカがエレオノーレと初めて出会ったのは二ヶ月前のこと。エレオノーレによる突然の
はじめ、フランツィスカは自分を部隊へと引き抜いてくれた、『フックス中佐』という人物にほのかな憧れを抱いていた。軍大学を飛び級で卒業し、わずか三年後、若干二十歳にして中佐となった驚異的な経歴。軍人として優秀なのはもちろんのこと、士官としても抜きんでた才覚の持ち主に違いない。
そんな人に選ばれたのだ。己の全身全霊をもって、期待に応えねばならない、と。この時のフランツィスカは燃えていた。
だが実際に彼女に会った時、その幻想はもののみごとにぶち壊されることとなった。
「はじめましてフランツィスカちゃん! ようこそ、おねえちゃんの部隊へ。おねえちゃんが隊長のエレオノーレ・フックスです。隊のみんなにはおねえちゃんのこと、おねえちゃんって呼んでもらってるから、フランツィスカちゃんもおねえちゃんを本当のおねえちゃんだと思ってえんりょせずにおねえちゃんって呼んでね。あ、かわいいからフランちゃんって呼んでもいいかしら? これからよろしくねフランちゃん」
まぶしい笑顔で自分を迎える女性を前に、フランツィスカは意識がもっていかれそうになるのを超人的な精神力で耐えていた。三十秒足らずでゲシュタルト崩壊した「おねえちゃん」という単語が頭の中を飛び回り、「理想の中佐」のイメージ像を爆撃していく。
――この人が……? この人が『フックス中佐』なのか?
目の前の女性はゆるやかなウェーブのかかった銀髪を腰まで垂らし、笑顔で握手を求めていた。中佐どころかおよそ軍人には見えない。軍服を着ているだけのおっとり美人のお嬢様だ。
そうしてはじめてフランツィスカは理解した。この中佐がただの
ちなみに十分後、ほんとうに部下全員がエレオノーレを「おねえちゃん」と呼んでいることを知り、そのあまりの緊張感の無さにフランツィスカの意識は再び飛びかけることになる。
悪夢のような出会いから数日、フランツィスカはただ無為に日々を送っていた。
毎日の訓練にもまったく身が入らない。まともに成し遂げたことと言えば、渋るエレオノーレを説得し、なんとか「ちゃん」付けをやめてもらったことくらいだ(なお未だに「中佐」と呼ぶと「おねえちゃんです」と怒られる)。
そんな時、これまたとつぜん新型ISのテストパイロットに選ばれたのだった。もちろんフランツィスカ自身は自分のIS適正については知っていた。適性試験の結果は「C」であり、IS操縦者としては支障ない値であった。だが彼女自身思うところがあり、IS操縦者としてではなく一般兵として軍に入ったのだ。
――それをなぜ今更になって。
そもそもIS関連は
聞くところによると、フランツィスカを推したのはエレオノーレだという。
いったいどんなコネを持っているのか、新型機はテスト後は
自分には無理だ。もっと適任がいるだろうから辞退させてほしい。そう告げてもエレオノーレはまともに取り合ってくれなかった。その時に言われたのが、あのなんの中身もない激励の言葉である。
「フランならだいじょうぶよ。おねえちゃんが保証します」
「しかし中佐!」
「おねえちゃんです」
「っ……真面目な話をしているのです! そもそもなぜ私なのですか! 他に優秀な人間はいくらでもいるではないですか!」
「そうはいっても
「そんなバカな……」
「とにかくもう決まったことなの。あんまりわがまま言っておねえちゃんをこまらせないでね」
なにを言ってもこの調子。とりつく島もない。
結局、エレオノーレとこのまま無意味な議論を続けるよりはまだマシ、と自分の中で無理に納得し、フランツィスカは流される形で新型の操縦者におさまった。
が、結果としてフランツィスカのストレスはここから指数関数的に増加していくこととなる。
なにしろ過程が過程である。「実力からして次のISは私が」、そう訓練に励んでいた者からすれば、ぽっとでの新人が上司のコネで新型を勝ち取った、という状況は不愉快以外なにものでもない。さすがにおおっぴらな嫌がらせにはならなかったが、明らかな敵意と
加えてフランツィスカはISの訓練などやったこともなかったのだ。真面目一徹の性格も今回ばかりは災いして、その日々は
日中は勝手のわからない訓練でへとへとになり、夜になれば電話帳を重ねたようなマニュアルを眠さと闘いながら必死に読み込んだ。食堂では刺さる視線やひそひそ声をなんとか意識の外に押し出し、味もわからないまま食べ物を胃に押し込んだ。
だがしかし、それでも彼女は投げ出さなかった。なし崩し的にとはいえ自分で決めたこと。疲労を怒りに変え、他人の白い目を闘志に変え、負けてなるものかとがむしゃらにISと向き合い続けた。他の人間ならばここまでは耐えられなかっただろう。皮肉なことに、「フランならだいじょうぶ」というエレオノーレの言葉は正しかったのである。
そして二ヶ月、フランツィスカはみごと新型機「シュヴァルツェア・メーヴェ」の正式な操縦者としてドルトムントにてお披露目となったのだ。
だが――
よりにもよってその日に起こってしまった。アンチテーゼと名乗る者達による、前代未聞のテロ事件が。競技場をまるごと乗っ取り世界に宣戦布告するという大事件が。
このストレス満載の日々がようやくひと段落つく、そんな矢先のこと。フランツィスカにとっては不運と言うほかないだろう。
――ふざけるな! なにがアンチテーゼだ!
首謀者のものと思われる声がアリーナで演説を始めた時、フランツィスカの怒りは爆発した。だがその怒りは自分のための怒りではなかった。フランツィスカにとっては二ヶ月の苦労も、めちゃくちゃになった晴れ舞台も、もはやどうでもよかった。ただ彼女は純粋に、己の信じる正義のために怒ったのである。
ISがはじめて現れた白騎士事件から10年。ようやく世界は安定してきた。あわや第三次世界大戦の幕開けかと思われたほどの大混乱も、数多の人間の働きによってなんとか収束していった。
たしかに露骨な女尊男卑の風潮や、軍事とISのあいまいな線引きなど問題は多々ある。だがそれでも、今さらになって世界を引っ掻き回そうとするアンチテーゼの身勝手さを、フランツィスカは許せなかった。
――自分達の思想のためだけに、どれだけの人間を危険にさらすつもりだ!
そしてフランツィスカは声をあげ、アンチテーゼのISと戦った。
初めての実戦。それも試合などではなく、本気の殺し合い。未知の相手とそれでも互角に渡り合っていたフランツィスカだったが、結局アンチテーゼを取り逃し、新型の機体をボロボロにするという実質的な大敗を
「気にしなくていいですよ。おねえちゃんはフランががんばったの知ってますから」
エレオノーレの優しい言葉がかえって刺さる。
事件が終わって二日、フランツィスカは軍上層部から責任を追求されていた。
非常時とはいえ許可を得ない戦闘を行ったことや、結果として敵を逃がしたこと、そして新型の性能をほぼ全て暴露した上でボロボロにしてしまったこと。なかには仕方がない事案もあるのだが、それでも誰かが非難を受けなければならない状況。であれば、今回のしわ寄せがフランツィスカに行くのは当然といえば当然だった。
エレオノーレの口添えもあり、なんとか大きな処分は免れたものの、フランツィスカは二週間の謹慎となってしまった。
◇
「謹慎中でもお腹はすくんだ? いいご身分よね」
食堂で昼食をとっていたフランツィスカの前にガシャン、とトレーが置かれる。顔を上げると、一人の女性がフランツィスカを見下ろしていた。
フランツィスカは彼女を知っている。第三中隊所属、モニカ・フォン・シュレンドルフ少尉だ。階級は同じだが、別に同期というわけでも仲が良いわけでもない。
モニカは第三中隊に在籍しているが、本人の希望は
「よく平気な顔してランチタイムなんてできるわよね。テロリストにボコボコにやられといて、なんにも感じないわけ?」
「……」
「今からでも遅くないから新型の操縦者辞退したら? アンタには荷が勝ちすぎてるってわかったでしょ。」
フランツィスカは何も言わない。いい加減に相手をするのも疲れていたし、こういった手合いは何を言っても攻撃をやめないのを知っているからだ。
とはいえ、何も答えないでいても相手のボルテージは上がっていくのだが。
「ちょっと無視決め込んでんじゃないわよ!」
バカにされていると感じたのか、モニカの語気が荒くなる。そしてモニカはイラつきにまかせて自分のトレーの器をつかんだ。
バシャッ
かけられたのは器に入っていたスープだった。フランツィスカの前髪からポタポタとしずくが落ちる。
「……」
フランツィスカは声も出さずただうつむいていた。食堂はざわつきはじめ、さすがにモニカもやりすぎたと思ったのか焦りを見せる。
そこへ――
「フラン!? どうしたんですか!? なにがあったの!?」
現れたのはエレオノーレだった。おそらく誰かが知らせに行ったのだろう。エレオノーレはパタパタとフランツィスカに駆け寄ると、その肩を抱いて立ち上がらせる。
「と、とにかく急いでシャワーを浴びましょう。ちょうど今は誰も使ってないだろうし、あ、で、でも着替え持ってこないと。服までビショビショだわ」
あわてふためくエレオノーレ。その様子は部下の心配をする上官というより、本当に妹を心配する姉に近い。
「あ、あの中佐……わ、わたしは、その……」
モニカが言い訳をしようとエレオノーレに話しかける。だが――
「どいて。あなたが誰か知らないけど、謝罪も反省もいらないわ。 いいからそこどいてください」
「っ……」
邪険にあしらわれ、モニカは黙り込む。その間にエレオノーレは無言のフランツィスカを連れてさっさと食堂を出ていってしまった。
と、入れ違うようにクラリッサが食堂に入ってきた。クラリッサは食堂にいた
「話は聞いたが、あまりに身勝手な行動だなシュレンドルフ少尉」
「た、大尉……」
「リッター少尉は命をかけてテロリストと戦った。他の人間に示しがつかないがゆえにいちおう処分は受けたが、本来ならば褒められこそすれ罵倒されるような人間ではないはずだ」
「……」
何も言えないモニカに、クラリッサは厳しい言葉を続ける。
「それに私も今は謹慎中の身だ。私にもなにかぶちまけるか?」
「そ、そんな…! わたしは……」
「少し自分の行動を見つめなおせ。少なくとも今の君のような人間を、私は
「っ……! し、失礼します」
厳しい
「はぁ……さて、今回の騒動はやっかいだぞ。少尉が心配だな」
「リッター少尉なら大丈夫では?」
後ろにいた
「あの方は芯が強い人ですし、中佐もいますから。さっきの中佐なんてホントにお姉ちゃんみたいでしたよ。きっとうまくフォローなされます」
だがクラリッサは首を振ると、違うんだと返した。
「誤解させてすまない。が、私が心配しているのは
「え?」
「お前はまだ日が浅いから知らないんだろうが、いいか――」
クラリッサは真剣な顔で新人隊員に告げる。
「あの人だけは、
◇
シャワー室に着くなり、エレオノーレはテキパキとフランツィスカの服をとっぱらい、個室に押し込んだ。
「着替えは後で隊の子が持ってきてくれるわ」
「……ありがとうございます」
フランツィスカは弱々しく礼を言うと、シャワーのコックをひねる。無数の水滴がフランツィスカのスラリとした身体をつたっていく。肌に伝わる温かな感触が、彼女の中で冷たく凝り固まっていたなにかを溶かしていくような気がした。
「フラン、シャワーの音ってけっこううるさいでしょ?」
「……」
「だからたぶん、おねえちゃんにはなにも聞こえないと思うの」
エレオノーレの言葉の意味を理解するのとほぼ同時に、フランツィスカの両目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「……っく……う」
抑えきれない感情が溢れ出し、なにが悲しいのかもわからないままに、フランツィスカは泣いていた。眠れなかった日々も、仲間の白い目も、アンチテーゼへの怒りも、自分の不甲斐なさも。何もかもが一緒くたになってフランツィスカから溢れ、
エレオノーレは何も言わず、ただ背を向けてフランツィスカの泣くにまかせていた。
数分の後、
「……私は間違っていたのでしょうか」
フランツィスカがポツリとつぶやいた。
「あの時、私が声を上げたのは自分の中の正義を貫こうと思ったからです。しかし、私は負け、奴らは野放しになってしまいました。私は――」
「ねぇ、フラン」
エレオノーレがフランツィスカの言葉をさえぎる。
「フランにとっての正義ってどんなもの? 人は弱いわ。あなたに嫉妬したあの子も、弱さゆえに自分の正義に背を向けた。フランはなぜ、自分の正義をまっすぐ信じていられるの?」
突然投げられた普段のエレオノーレからは想像出来ない重い問いに、フランツィスカは少し驚いた。
それでも彼女は自分の心を探り、その問いに
「『力は弱者のためにあるべきだ』、これは私の父の口癖でした」
フランツィスカは静かに話し始める。
彼女の父も軍人だったこと。白騎士事件の後、世界情勢の混乱から紛争が激化した地域で命を落としたこと。
「私がまだ幼い頃から、父はよくこう言っていました。『リッターというのは騎士という意味だ。騎士は正義のために、弱い人たちのためにその力をふるう。だから自分も、弱い人たちのために力を使う。それがリッターの正義だ』、と」
「フランと同じで真面目な人だったのね」
「私など足下にも及ばない堅物でしたよ。……父が死んだ時、私は決めたんです。これからは私が父の正義を貫くんだ、と」
フランツィスカは思い返す。
そう、だから自分はあの時黙っていられなかったのだ。力を持ちながら
「私はどうすればいいのですか。自分の正義のために、どうすればもっと強くなれますか?」
フランツィスカはフェアリーと交わした再戦の誓いを心に刻んでいた。きっと奴らには奴らの正義があるのだろう。だが相容れない正義がぶつかる時、自らの信じる正義を貫くにはより強くあるしかないのだ。
「フラン。おねえちゃん、フランのそういうまっすぐなところ大好きですよ」
エレオノーレが優しく言う。
「でもね、ただ強く、まっすぐあるだけで自分の正義を貫けるほど、今の世界は優しくない」
「……はい」
それは柔らかくも、とてもとても重い言葉。
「フランツィスカ・リッター少尉。あなたは自分の正義のためにどこまで出来ますか?」
「……どこまで、とは?」
今までとは気色の違うその問いに、フランツィスカは少し困惑する。
「泥をすすって、卑怯者と罵られ、侮辱にまみれ、暗闇に魂を墜としても、あなたは自分の正義のために戦える?」
――なんだ? 何の話をしている?
「もしその覚悟があるのなら、三時間後にわたしの部屋に来なさい」
「……中佐?」
いつもなら「おねえちゃんです」と訂正をしてくるエレオノーレ。
だがすでにその姿は無く、シャワーがタイルを打つ音だけが響いていた。
「……」
フランツィスカは考える。
――覚悟なら出来ている。ISという力を手にした時から、私は私の信じる道のためにただひたすら歩いてきたのだから。
シャワーを止め、顔を上げるフランツィスカ。その目にはもう迷いはなかった。
◇
「……中佐を敵に回すな、とはどういう意味ですか?」
豆のスープをスプーンですくいながら、新人隊員がクラリッサにたずねる。
「どういう意味もなにも、そのままの意味だ。フックス中佐と
「でも……正直よく分からないです。中佐の部隊がなにか成果をあげたって話も聞きませんし。それにあんなに優しそうな人なかなか見ませんよ」
クラリッサは
「まず、
ただならぬ雰囲気のクラリッサに新人隊員はゴクリと、息を呑む。
「我々
「最恐……ですか」
「たとえば我々が
「はい」
「では逆に
「えっ……さあ……」
「その場合、まず間違いなく、そのスープは毒入りだ」
スープを飲もうとしていた新人隊員の手がピタリととまった。
「もし毒に気づいても攻撃は終わらない。たまたま乗ったタクシーが事故を起こすかもしれないし、なぜか誤った情報を与えられた特殊部隊に狙撃されるかもしれないし、抱き合った母親が致死性の高いウィルスに感染しているかもしれない。
クラリッサはパイにグサリとフォークを突き立てる。
「ちなみに今の例えはすべて、軍が敵とみなした人物が迎えた
パイを口に運び、モグモグと味わうクラリッサ。対して、新人隊員の食事の手は完全に止まっていた。
「なんでも上層部には中佐は
「……」
嫌な事実を知り、食欲を完全に失った新人。
その様子にすこし罪悪感を覚えたクラリッサは、彼女なりにフォローをいれる。
「まあ安心しろ。よほどの喧嘩を売らない限りは中佐も優しいおねえさんでいてくれるさ。それに――」
クラリッサが微笑む。
「何があろうとも私の部下に手は出させない」
「お姉様……」
凛々しくパイをほお張るクラリッサを新人隊員はうっとりと見つめる。こころなしか、テーブルに飾られた花のつぼみが少し開いたように見えた。
◇
それから少し経ったころ。
エレオノーレの執務室では3人の人間がピリピリとした緊張感の中で会話をしていた。エレオノーレとその部下のリーゼ。そしてソファに腰かけた初老の男。
「それで、うまく処理できたのかね」
口を開いたのは初老の男だった。
「ええ、もちろんです。すべては闇に葬られ、中将とVTシステムとはなんの関わりもなかったことになりましたよ」
フランツィスカは初老の男――ドイツ空軍中将にそう答えた。
「さすがだなフックス中佐。高い代償を払っただけの仕事はしてくれたようだ」
「新型ISの件、お力添えには感謝しています。VTシステムの件はわたしとリーゼしか関わっていませんので、外部に漏れる可能性はほとんどありません」
エレオノーレに目配せされ、リーゼはドヤ顔で胸をはった。動きにあわせて細いツインテールがぴょん、と揺れた。その笑顔を見て中将はなんとなくネコを思い浮かべる。
リーゼは
「
中将の言葉に、エレオノーレは人差し指を口に当てて困った表情をつくる。
「確実な方法が、無いこともないんですけどねぇ」
思わせぶりな態度に中将はイラついた様子で声を荒らげた。
「あるならば実行したまえ! 言ったはずだぞ、手段は問わんと!」
「仕方ありません。わかりました」
そう言うと、エレオノーレは自分の机の引き出しをゴソゴソと探り始める。
「ええっと、どこにいったのかしら。あ、リーゼちゃんはもういってもいいわよ」
「はぁい、おねえちゃん。それでは中将殿、失礼しますね」
部屋を出ようとリーゼが背を向けたその時――
パシュ パシュ
乾いた音が二回鳴り、リーゼの背中から鮮血が噴き出した。
振り返ったその口から赤黒いあぶくがごぼごぼと流れ出る。
「……お……ねえ……?」
「ごめんね、リーゼちゃん」
そう言って微笑むエレオノーレの右手には、サイレンサーつきの拳銃が握られていた。
リーゼの身体はぐしゃりと崩れ落ち、床に赤い染みがゆっくりと広がっていく。
「フ、フックス中佐ァ!? な、何をしているんだ貴様ァ!!」
目の前で起きた惨劇に
「落ち着いてください中将。今は誰もいないはずですけど、あんまり大声で騒ぐと誰か来てしまうかも知れませんよ」
「そ、そんなこと言っとる場合か!? どうするのだ! なぜ殺した!?」
「これで今回のことを知っているのはわたしと中将の2人だけになりました。そして今、わたしは中将を絶対に裏切れなくなったんですよ。なにせ目の前で人を殺してしまったんですから」
こともなげに言い放つエレオノーレ。表情はいつもと変わらず穏やかなままだ。だがその頬は返り血で汚れ、微笑む彼女はまるで獲物を前に舌なめずりをする怪物に見えた。
狂気すら超えた冷徹さ。
中将は背骨を冷たい手でわしづかみにされたような悪寒を感じていた。
「もちろん中将がこの事でわたしを脅すこともできませんよ。そのためにはこうなった経緯を説明しなければなりませんし、そうすれば先ほどご自身で仰ったように、中将の破滅にも繋がりますからね。お互いがお互いを縛り合う、これ以上ない安心の関係です。まさか、『どんな手を使っても』と仰った中将殿が、
もはやそれはただの脅しに近い。
「だ、だがしかし、これをどうごまかす気だ……?」
「ご心配なく。そのへんは抜かりありませんから。もともと彼女は軍を辞めて国外で暮らすことが決まってました。おととい部隊でお別れ会をしたばかりです。肉親もいませんし、どうとでもなりますよ」
「う……むぅ……」
中将はうなずくことしかできなかった。
彼も権力のためにいくつもの罪を犯してきた。その中には殺人
そんな人間など彼の周りにはいなかった。いや、本来ならばそんな化け物はいてはいけないのだ。
――この女は危険すぎる……!
だが今の彼はエレオノーレへの抑制力を何ひとつ持ってはいない。
「ささ、早いとこ退散しちゃってくださいね。誰かに見られても困りますし、ここはわたしが片付けておきますから」
エレオノーレにうながされるがまま、中将はふらふらと部屋の扉に手をかける。
一瞬、リーゼの死体と目が逢いそうになったが、その顔を再び見る勇気は彼にはなかった。あのネコのような笑顔が脳裏にこびりついている。
扉を開ける時、自分も背後から撃たれるのではないかと不安がよぎった。が、中将の後ろからはエレオノーレの明るい声が聞こえてきただけだった。
「これからもどうぞ仲良くしてくださいね。グスタフ・フォン・
◇
シュレンドルフ中将が部屋を出て数分後。
エレオノーレはふぅっと息をついた。
「もういいわよ、リーゼちゃん」
するとリーゼの死体がぴょこっと軽快に起き上がった。そして思いっきり伸びをしながらエレオノーレの方へと歩き出す。
「んんー、予定と違いましたよー。弾は1発のはずだったのに。結構痛いんですからね、おねえちゃん」
「だからちゃんと謝ったじゃないですか。ごめんね、リーゼちゃんって」
リーゼは血糊のベットリとついた服をつまみ、ネコのように笑う。
「あーあ、ベットベトだ」
「ほんとにごめんね。最後の最後にこんなことやらせちゃって。でもちゃんと希望の引越し先を確保しておきましたから。別人としてだけど楽しんできてください」
「おお、ありがとうございます! にゃっはは、いざゆかん娯楽の魔都ラスベガス! いっちょ豪遊してきますよ」
上機嫌なリーゼを見ながらエレオノーレはまたため息をつく。
「ふぅ、それはそれとしても、はやいとこ部屋を片付けないと。中将ったら時間にルーズなんだから。もうすぐフランが来ちゃうわ」
「フランにはまだこういうのは隠しておくんですか?」
「ええ、あの子はまだ受け入れられないだろうから。まっすぐなだけじゃダメとは言ったけど、やっぱりもうしばらくフランにはそのままでいて欲しいの。……変わるべき日が来るまでね」
エレオノーレはコロコロと微笑んだ。
「だからまだフランに見せるのは
「まっすぐな鉄は徐々に曲げていかないと折れちゃうってことですかねぇ。怖いなぁ」
「もう。またそんないじわるな言い方して」
楽しそうに頬をふくらませるエレオノーレ。リーゼはそんなエレオノーレにふと思い出したように言う。
「中将は大丈夫ですかね? 今さら正義感に駆られることもないとは思いますけど」
「だいじょうぶよ。こういう時、我が身よりも正義を優先させる人は、残念だけど高い地位にはつけないものです。そういうの、おねえちゃんあんまり好きじゃないんですけどね」
「……同感ですね」
しばしの沈黙。
そして唐突に、リーゼは隊長に敬礼をした。エレオノーレも敬礼を返し、リーゼに言葉をかける。
「リーゼ・アッカーマン大尉。これまでご苦労でした」
「はっ。中佐、こちらこそ今までありがとうございました!」
「前にも言ったけど、もし自分が危なくなった時はこちらのことは気にせずに持っている情報を使いなさい。こっちはおねえちゃんでなんとか出来るから」
「ええ、なんとか出来てしまうのが私達のおねえちゃんですもんね」
微笑みあう二人。
そして二人は、どちらともなくロッカーからモップを取り出し掃除を始めるのだった。
15分後。フランツィスカはその部屋を訪れる。
彼女は知らない。つい先程まで、ここでドロドロとした陰謀が渦巻いていたことを。だが彼女は決意を固めていた。なにがあろうとも、なにをしようとも、自らの正義と勝利のためにその身を捧げようと。
ドアを開けたフランツィスカを迎え入れ、エレオノーレは静かに言った。
「待ってたわ、フランツィスカ・リッター少尉。ようこそ、
次回「おまけ ドイツ編のあれこれ」