IS-アンチテーゼ- 作:アンチテーゼ
◇
その男はかつて『
男は政府に雇われ、時に用心棒として、時に暗殺者として、長い間その拳をふるい続けていた。
だがある時、男は後ろを振り返り絶望した。求められるがままに歩いてきた修羅の道。そこに守りたいものは何もなかった。男の後ろにあったのは血塗られたどす黒い足跡だけだった。
男は後悔し、誓った。もう二度と誰かの血を流すことはしない、と。人を傷つける拳を封印し、人里離れた道場で師の後を継いだ。そして力を求めて門を叩く者たちに教え続けた。『傷つけるための力』ではなく『道を見失わないための強さ』を。それが自らの
十数年の月日が流れたある日、男の前にひとりの少女があらわれた。
男は悟った。この子の歩む先には、きっと過酷な運命が待っている。その小さな手を握った時、男はもうひとつの誓いをたてた。
守らなければならない。自分と同じ悲しみを味わうことが無いように、自分と同じ後悔をすることがないように。
それなのに――
そう誓ったはずなのに――
雨の中でこちらを見つめる少女の目は、
許してくれなどとは言わない。
戻ってきてくれなどとは言わない。
ただ、願うことだけでも許されるなら。
――だれか……だれでもいい……あの子を救ってくれ……
「師父」
どこからか、うつむく自分を呼ぶ誰かの声がした。
◇
「師父?」
その声に
一晩座りっぱなしだった椅子からなんとか立ち上がり、声のした方に振り返る。扉の前で師範代のひとりが心配そうにこちらを見ていた。
「師父、眠られていないのですか? 顔色が優れないように見えますが……」
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけですので」
きっとひどい顔をしていたにちがいない。寝ていたのか起きていたのかもわからなくなるほど、
弟子たちはまだ
「それで、どうかしたのですか?」
「師父を訪ねて、客人がお見えに」
「客……政府の、研究所の方ですか」
「身分を名乗りませんでしたので、政府関連の方ではないようです。もし体調が優れないようでしたら、また後日にとお伝えしますが」
正直、今は客と話をする気分ではない。だがなぜだろうか。自分はその客に会わないといけない。そう感じた。
「……いえ、大丈夫です。談話室にお通してください。私もすぐに向かいます」
「わかりました」
ピシリとお辞儀をして部屋から出ていく師範代。
再びひとりになった部屋で、
「……」
そのブローチにそっと触れ、
談話室で待っていたのは見覚えのない若い男だった。
軽く挨拶をする
「少し外に出ませんか。実は、あなたに会いたいという人が、すぐ近くで待っていましてね」
◇
道場裏の山道を歩きながら
着ているシャツはよれよれで、束ねた長髪はクセ毛でハネ散らかっているが、不思議とだらしなくは見えない。整った顔立ちと、知性的な細縁の眼鏡のせいだろうか。常に薄い笑顔の浮かんだその顔からは、男の感情を読み取ることは難しい。
「いやぁ、ハハッ、さすがですね、
汗ひとつかいていない
だが、
「そろそろ教えていただけませんか。あなたは何者なんです? 私に会いたいというのは、もしかして――」
「少し休憩しましょうか」
「教えてください! 私を待っているのは
思わず語気を強め、男に詰め寄る。本当はこの男が何者でもよかった。
そんな
「まったく、
「……どういう意味です」
「そのままの意味だよ。アンタあの子を特別視しすぎてる」
「当然でしょう! あの子は――」
「他の子と違うって?」
「っ……」
「言いたいことはわかるさ。でもアンタが
男の言葉が突き刺さる。
そうだ。自分はなにを勘違いしていたのだろう。どんな力をもっていようと、あの子は普通と何も変わらないただの明るい少女なのに。
あの子を勝手に昔の自分と重ねてしまっていた。ひとりで勝手に守っていた気になって、そして勝手に、守れなかったと後悔して。
体から一気に力が抜け、崩れるようにしゃがみこむ。そんな
「あの子が言っていたよ。自分は師匠を信じられなくなっていたって。でもそれはアンタも一緒だ」
あの子は他とは違うから。だから自分には
「アンタが
男の目が優しくなる。
「安心しなよ。あの子はちゃんと思い出した。絶望に呑まれることなく、自分で選べた。アンタが伝えたかったことは、ちゃんとあの子の中にある。
その言葉を聞いた瞬間、男の顔が突然ぼやけて見えなくなった。地面についた手に落ちる雫の感触でようやく、
絶望の中では涙を浮かべることすらできなかったというのに。
「あ……ああ……」
地面に突っ伏したまま両手で顔を覆い、
それを男は何も言わず優しく見つめていた。
どれくらい時が経っただろう。土で汚れたそでで顔をぬぐい、
「
まっすぐに男を見すえる力強い視線。それを見て、男も腰かけていた石から立ち上がった。
「じゃ、行きましょうか。やれやれ、ようやく父親らしい表情になったじゃないですか」
にやりと笑うその顔が、感情の読めなかった男の素顔のように、
◇
山道を抜けると視界が急に明るくなった。思わず目を細めた
さわやかな風に長い髪をなびかせながら、少女がふりかえる。
――ああ……彼らと共に行くのですね、
その目を見た瞬間にそう思った。
静かにこちらを見つめる
その思いを噛みしめながら、
転んでも泣かなかったと頭をなでたこと。
寒い朝に雪まみれで布団にもぐりこんできたこと。
一緒につまみ食いをして師範代にしかられたこと。
「師父……」
「
「はい、師父。自分はこの人たちと行くであります。世界を見て、I Sを知って、自分が持つ力の意味を知りたいんであります。自分みたいな人間がどうして生まれたのかは、それはたぶん、この人たちみたいに世界を裏側から見ないとわからないことでありますから」
「とても、辛い道を行くことになりますね」
「はい。それでも、これは知らなくちゃいけないことでありますから。もう二度と、同じ間違いをしないために」
と、まっすぐに
「自分は師父に謝らないと……! あの時、師父にひどいことを――」
口を開いた
「何も言わないでください。私たちはお互いに過ちを犯した。けれどその過ちを越えて、私は再びこうやってあなたを抱きしめることができたんです。だからまた、私たちは通じ合えた。偽りなく互いを信じあえた分、きっと、以前よりも強く……」
「師父……はい……はい……! 師父の気持ち、ちゃんと伝わってるでありますよ……」
「私もです。あなたの気持ちも、決意も、伝わっています。離れていてもきっと伝わります。だから
「はい……!」
暗い土砂降りの空へではなく、信じた明日に向かって飛びたとうとする少女を、
◇
感動的な光景だった。悲しいすれ違いを越え、再び互いを信じあうことができた二人。絆を取り戻し、きつく抱き合う二人。これ以上ないほどに感動的な光景だった。
だがそれゆえに、少し離れて二人をながめる砕次郎は悩んでいた。
――えっと……これは水を差しちゃダメなやつだよね……
さすがにこの雰囲気を壊してはいけないのはわかっている。だが、砕次郎には手遅れにならないうちに、ひとつだけ伝えなければならないことがあるのだ。
――これたぶん本人も忘れてるんだよなあ……マズいよなあ……
やはり放っておくのは危険、と判断した砕次郎はもう空気を読むのをやめた。抱き合う二人のもとへ、つかつかと歩いていき申し訳なさそうに声をかける。
「あーー、あの、水をさすようで悪いんですけどね、
「……へ? ……あ」
言われて
それを聞いた
「め、
「忘れてたんでありますぅ!」
「あー、やっぱり自分でも忘れてたか……」
「ああああ……これ気づいちゃったらぁ、すっごい痛いでありますよぉぉ……!」
再びぼろぼろと涙を流し始めた
「そりゃまあ、骨折ってレベルじゃないからねえ。骨とか筋とか、ボロボロだろうし……」
あきれ顔の砕次郎の言葉を聞き、
「あ、あの、そんなにひどいのですか? 完治は? まさか、日常生活に支障が出たり……」
「いや大丈夫じゃないかと思うんですけどね。もちろん、専門家じゃないんで断言はできませんけど。かろうじて絶対防御も発動したみたいですし、今はPICを限定稼働して腕を固定させてますしね。まあ、とは言ってもISの保護がなかったら、確実に右腕は再起不能のレベルだから……
「は、はいぃ」
涙目でこちらを見る
「キミは今から病院だ。どうしてもっていうから連れてきたけど、ほんとなら即、手術が必要なケガなんだからね。こっからは言うこと聞いてもらうよ」
「で、でも……」
いまいち歯切れの悪い返事をする
そんな
「
「師父……」
「教えたはずです。その時々で自分のやるべきことを常に考えなさい。今あなたがやるべきは、別れを惜しむことではありません」
「は、はい……」
師の言葉を受け、
――ああ、もしかして、そういうことか
ふと、砕次郎の頭にひとつの考えが浮かんだ。
――しょうがない。もうひとつくらい、わがままを聞いてあげようか
砕次郎は、くくっ、とイタズラっぽく笑って声をかける。
「そんな顔するなよ
「ほ、本当でありますか!?」
思った通りの食いつきを見せる
砕次郎は知っていた。そう、明日は
「大切な記念日なんだろう?」
「はい!!」
「そういうわけなんで
「ええ、もちろんです」
微笑みながらうなずく
「それじゃあ、キミはふもとの車で待機だ。僕もすぐに行く。ああ、エリスが後ろで寝てると思うけど、無理に起こしたら機嫌悪くなるからそのままにしといてくれ」
「了解であります!」
砕次郎にうながされ、
「師父、また明日であります!」
◇
「あなたには本当に感謝しています」
「あなたはあの子を救ったのは私だと言ってくれましたが、あなたがいなければ
「
「そんなに簡単に僕らを信用してもいいんですか? どうとりつくろっても、僕らは世界のおたずね者、道理を外れたテロリストなんですけどね」
砕次郎は遠くの山肌を眺めながら自嘲するように微笑む。
「もしかしたら、僕は自分たちの理想のためにあの子の力を利用しようとしているだけかもしれない。そうは考えないんですか?」
「おや、そうなのですか?」
「信じることにしましたから。
「なるほど。そう言われちゃあ、あまり道外れたことはできませんねえ」
ポリポリと頭をかく砕次郎を見て、
「それに、あの子はああ見えて、意外と
「ああ! それなんですよね、まったく!」
「え?」
突然、大きな声を出した砕次郎に
「いや最初は僕もね、そりゃちょっとは
「首を縦には振りませんでしたか?」
「ええ。自分の戦う意味がちゃんと見つかるまでは、I Sで戦うのはやめるそうです。どうにか言いくるめようとも思いましたが、あんまり澄んだ目で見てくるもんだから。なんだか、こちらも毒気を抜かれちゃいましてね」
わずかな沈黙の後、
「やはり、あなたは信用に値する人間のようだ。それを素直に打ち明け、断られてなお
砕次郎は首を振りその言葉を否定する。
「買いかぶりすぎですよ。また敵に回す可能性を残すよりは、手元に置いていた方がいいと考えただけ。あくまで理にのっとった、打算的な選択をしたまでです」
「ではそういうことにしておきましょう」
おかしそうにクスクスと笑う
「そういうこともなにも、それだけなんですけどねえ」
「フフッ。あなた、本心を隠すのは得意みたいだが、嘘で自分を偽るのは苦手なようだ」
「心外だな。僕はどっちに関してもエキスパートだと自負してたんですが」
「おや、それは失礼」
互いの軽口に微笑み合う
再び、
「あらためて、
「師としてのお願いなら、すでにしっかりと引き受けてますよ。
「いえ」
顔を上げた
「これは
砕次郎はその力強い視線に応えるように笑顔を向けると、差し出された手をしっかりと握り返したのだった。
次回「