IS-アンチテーゼ- 作:アンチテーゼ
◇
中国 河北省
生命を強く感じさせる色濃い木々。荒々しく露出した岩肌。夏の日差しに輝く、深緑と灰白で彩られた山々。
大陸ゆえの雄大な光景を間近に望む、とある
外観だけなら、道場と言うより屋敷や寺院と言ったほうがいいかもしれない。正面には
歴史を感じさせつつも美しく保たれた建物は、全体が朱に塗られている。特に正面大門は、染料が色あせた今もなお、周囲の緑と対比され強烈な存在感を放っている。
その大門の前に一台の黒い車が停まった。『ロールスロイスファントムⅨ』。言わずと知れた超高級車、ロールスロイスファントムの最新モデルである。
郊外の武術道場にはどう考えても似つかわしくないその高級車を、一人の男が
縁の太い眼鏡をかけた男の顔には、うっすらと笑いジワが刻まれている。黒々とした短髪や真直ぐな姿勢から若々しい印象を受けるが、実年齢は40代後半といったところだろうか。
ゆったりとした白い武術道衣をゆらしながら、男はにこにこと微笑んでいる。
と、いきなり後部座席のドアが、ロールスロイスにふさわしくない乱暴さでバァンと開いた。そしてその中から、男めがけて何かが弾丸のように飛び出した。
「しぃぃーーーふぅぅーーー!!」
背後の山々に反響するほどの大声を出しながら突っ込んできたそれを、男は両手で受け止めるとそのまま三回転して勢いを殺し、ふわりと着地させる。
「師父! いま帰ったでありますよ!」
こちらを見上げパァッと笑顔を咲かせるそれに、いや少女に、男はやさしく答えた。
「はい、お疲れさまでした。おかえりなさい
「ただいまであります!」
元気に答える少女は、まるでおもいきり尻尾をふる小型犬のようだ。
ダークグリーンの短パンに黒いタンクトップ、そこに薄いピンクのジャケットを重ねたラフな服装からも、少女の活発さがうかがえる。
少女の名は
若干14歳にして、
凄まじい肩書きを有する彼女だが、師との再会を喜ぶ姿は普通の子供と変わらない。むしろその無邪気さから実年齢よりも幼く見えるほどだ。
長い三つ編みをぴょんぴょんと揺らしながら男のまわりを跳ね回る
その様子はとても微笑ましく、誰もがおもわず頬をゆるめてしまうようなやさしい光景だった。
だが、その場にいるもう一人の人間には、そんななごやかな雰囲気はまったく無かった。
もう一人とは言うまでもなくロールスロイスを運転してきた人物である。
静かにドアを開け、運転席から出てきたのは、目つきの鋭いスーツ姿の女性。年齢は20代後半だろうか。エッジの鋭い眼鏡からのぞく切れ長の目は、男の柔らかいまなざしと見事に対称的だ。
「あなたもお疲れさまでした。ここまで運転してくるのは大変だったでしょう。わざわざありがとうございます、
男が女性――
「お気になさらずとも結構です。これも候補生管理官の仕事のうちですので」
ひどくぶっきらぼうな返答だったが、別に怒っているわけではない。生来こういう、なにかにイラついているように見えてしまう気質の持ち主なのだ。
「しかし初めてではないですか? あなた自ら
男が首をかしげる。
彼女はその言葉通り、中国の国家代表候補生管理官である。何人か存在する候補生たちと上層部をつなぐ重要ポジションであり、本来なら運転手のような雑務をしている暇などない多忙な人物なのである。
にもかかわらず、片道6時間を超える山道を運転してきたということは――
「なにかあったんですね。この子に関わることで」
「ええ、その通りです。詳しいことは中で話しますが、このことは国家機密レベルの話だとお考え下さい、
男の名は
◇
「おお、帰ったか
「ただいまであります、師兄! 手加減はしないでありますよ!」
「おかえりなさい、メイ姉! 震脚のコツを教えてもらう約束、忘れてませんよね!」
「ただいまであります、
道場の中に入ると、稽古の途中だった
現在、
それでは日が暮れてしまう、と
「しばらくこの部屋には誰も近づけないように。あなた達も中の会話を聞いてはいけません。いいですね」
「それで、話とはなんですか?
「いえ、
二人の横にちょこんと座った
「結論から申し上げますと、『アンチテーゼ』が中国に来ている可能性があります」
「アンチテーゼ……ですか。すみません、こんなへんぴなところで暮らしていますと、どうも世事に
「こちらこそ説明不足でした。六日前、ドイツで行われた新型ISの発表イベントを何者かが襲撃しました。自らを『アンチテーゼ』と呼称したそのテロリストは全世界のISを破壊すると宣言。実際にドイツの第二世代を一機破壊して行方をくらましました」
「ISの破壊、ということはアンチテーゼのほうもISを?」
「はい。それも第三世代と思われる、極めて高性能の機体です」
「ああー、それで機密扱いですか。なるほどなるほど」
うんうん、とうなずく
その横では
「その通りです。テロリストがISを所持しているなど、本来あってはならないことですから。すぐに報道管制がしかれましたが、いくつかの局のカメラがその様子を中継してしまい、ついこの間まで大騒ぎになっていました」
その言葉に
「ついこの間まで、と言いますと、もう下火になっているのですか? ことがことですし、もっと大事になっているのかと思いましたが」
「簡単なことです。『アンチテーゼは無事メンバー全員が拘束された』。すぐにそういう報道を行いました。
「おやおや。つまりこの事件は表向きはもう終わっているわけですか」
「はい。すでに終わった事件であれば、大衆の興味をそらすのはさほど難しいことではありませんので。しかし実際には、いまだにアンチテーゼの行方はわからないままです」
「それが今、中国に来ていると」
「あくまで可能性ですが」
その横では
「先日ドイツ政府から通達がありました。アンチテーゼが強奪した機器のひとつから偶然発信された信号をキャッチした、と。場所は我々の領海内だったそうです」
ふうむ、と
「ちょっと偶然ってのが引っ掛かりますね。上層部はその
「もちろんそんな都合のいい話を丸ごと信じたりはしません。ただ、現在中国とドイツはかなり深いところでの友好関係を築いています。日本で候補生同士の軽いいざこざはありましたが、その程度で国家間の関係性に大きな変化はありません。であれば、情報源が多少
「なるほど、それで私と
「その通りです」
「あのぅ、師父、
ここで会話にまったくついてこれていなかった
「自分、難しい話はあまり得意ではないのでありますが……ここにいなきゃダメでありますか?」
「うっ……」
普段のそれからさらに鋭さを増した視線に、
「
「で、ですが……」
「二度同じことを言わせないように」
「う……はい……」
虎どころか子猫のように縮こまってしまった
「ま、ま、そのくらいにしてあげて下さい。お話は十分理解しましたので、
「しかし、これは本人の――」
「実を言うと、ちょうど私にも内密にお話したいことがあったんです。
鋭いナイフのような視線と柔らかい水のような
結果は
「……わかりました。
「だそうですよ、
「は、はいっ! 感謝であります、師父!
ペコリと頭を下げたあと扉を開け嬉しそうに走っていく
「相変わらず
扉を閉めてテーブルに戻ってきた
「まったく、自分も同感ですよ。どうしてこう甘やかしてしまうんでしょうね」
だが、ふと、それまで微笑みを浮かべていた
「あれからもうすぐ8年になりますね。
8年前の夏、突然連れてこられた幼い少女。政府の人間は、この子に
少女の名前は熊 美煌《シォン・メイファン》であるということ、年齢は7歳だということ。彼らはそれしか教えてはくれなかった。
「あの子はもうすぐ15歳です。ほんとうにいい子に育ってくれました。血はつながってはいませんが、本物の娘のように思っています」
「……私から見ても、時々お二人が本当の親子のように見えるときがあります」
「はは、嬉しいですね。……でもね。そうやってだんだんと成長していくあの子を見ていると、考えずにはいられないんです」
「あの子が誰から、いや
吸い込まれそうな漆黒の瞳が、じっと
「あの子はまだ子供です。身体が完成するには早すぎる。それなのに、内功も外功も、大人の倍の強さで練れてしまいます。この道場にも
「あの子の強さは人間から離れすぎています」
「8年前のあの日、あなたはとても悲しそうな、そして何かに
目の前の男から、真っ黒な気配がゆっくりにじみ出す。
濁った水に引きずり込もうとするような暗い殺気――。
それにあてられて息も絶え絶えだというのに、それでも
「お答え……すること…は……で、できません」
このまま
そう考えた瞬間、
「っ……はぁ、はっ、はっ……」
荒い息遣いで、崩れ落ちるように椅子にもたれかかる
「すみません。感情にまかせて大人げないことをしてしまいました。私もまだまだ修業が足りませんね」
「あなたがそういう立場の人間であることは理解しています。
ゆっくりと棚の方へ歩き、その中から笑顔で写る
「あの子は今、自分の強さに疑問と不安を持ち始めています。なんのために力を使うべきなのか、あの子の中でまだ答えは出ていないんです。
ですから、私はあの子をIS操縦者にすることには反対でした。
私はあの子にそんな思いはさせたくない」
背を向けた
「ですからね、
「……もちろんです」
「
「私は持てる力のすべてを使ってあなたがたの敵になりますよ」
ポーーーン ポーーーン
突然鳴り響いた時計の音に、
「おや、もう昼食の時間ですか。どうです? あなたも皆と一緒に食べていきませんか?」
そう言って振り返った
◇
案内された食堂では、200人の門下生が全員で昼食の用意をしていた。
「ご飯はいつも全員で食べるんです。共に学び、共に暮らす家族のようなものですから。日本では『おなじ釜の飯を食う』と言うそうですね」
嬉しそうに話す
だが
――ただでさえアンチテーゼという危険因子が存在する今、この人まで敵にまわすのは絶対に避けたい
深刻な表情で考え込む
そんな少年を気づかうように、
「おお、今日は
「は、はい!」
「それはいい。小狼は武術の才能はともかく、料理の才能はすばらしいですからね」
「そんなぁ、師父ー!」
二人のやりとりにまわりから笑い声があがる。
笑いあう門下生たち。和やかな空気。まさに団らんの食卓であった。
だがやはり、
――私はこんなところでのんきに昼食を食べていていいのだろうか
アンチテーゼは今どこで何をしているのか。それを考えると彼女はどうしてものんきに食事をする気にはなれなかったのである。
けっきょく皆が食べ始めた後も、
次回「