黄前久美子、最後の夏   作:ろっくLWK

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四.みつけるフェリチータ

 一学期の期末テストが終わり、返却された答案用紙の点数を見て久美子はひとまず安堵する。いかに進路を音楽関係に絞ったとは言えど、推薦という選択肢にもまだ可能性がある以上、学校の成績を大きく落とすのはあまり喜ばしいものではない。ことによっては滝の助言にもあった通り、教育大学の音楽系学部や一般大に進学することも視野に入れつつあった。どんな進学先を選ぶにせよ、それらは全て通過点。本当の目標はそのさらに先にあり、目標に辿り着くためには手段を選んでいられないのが自分の実情である事を久美子は正しく理解していた。

 そしてテストが終わった今、夏休みはもう目前に迫っていた。多くの同級生たちは高校生活最後の夏休みに浮き立ったり、塾や予備校の夏期講習を前にうんざりしていたりと十人十色であるが、久美子たち吹奏楽部員にとっては来たるコンクールに向けて大詰めの時期となる。今年のコンクール府大会は八月四日、京都市内のコンサートホールで行われる。夏休み突入から府大会までの期日はおよそ二週間ほど。この間にどれだけ自分達の演奏を研ぎ澄ますことが出来るか、より質の高い音楽を奏でられるようになるかがコンクールの勝敗を分かつと言っても過言ではない。特に今年の府大会はマーチングの強豪として知られる立華高校のクオリティアップがあちこちで囁かれているだけに、北宇治にとっても決して安泰とは言い難い状況なのだ。

 吹奏楽コンクールは各都道府県の大会を皮切りに、関西・関東といったブロック毎の支部大会、そして全国大会という順にステップアップしていく。地域によっては都道府県大会の前に地区単位でのコンクールが行われる場合もあるが、いずれの場合でもその大会で金賞を取り、さらにその中から選ばれる代表枠に入れなければ上位の大会へ進出することは出来ない。同じ金賞でも代表枠に選ばれなかったものが『ダメ金』と呼ばれるのはそのためである。久美子たちの悲願である全国大会金賞を成し遂げるにはまず府大会で金賞を取り、さらに京都府代表として関西大会へ選出されること。これが最初の関門であり必須の条件だ。それだけに、府大会を前にして演奏の障害となりうる要因は、極力取り除かなければならなかった。

「どうしちゃったの、緑ぃ」

 緑輝のおでこを指でつつきながら、葉月が悩ましげに眉尻を下げる。すでに今日の練習も終わりの時間を迎え、部員達は各パートの練習場所となる教室に戻って居残り練習や片付けなどを始めていた。

「すみません」

 緑輝は椅子に座ったまましょんぼりとうなだれていた。本日、滝が合奏中に緑輝に注意をした回数は実に八回。普段の緑輝であれば考えられないような回数であり、その内容も演奏表現上の指示どころではなく厳しさを伴うものになりつつあった。テスト期間前から注意されていた箇所は相変わらず修正できておらず、それにつられるように他の箇所も音のずれやミスが目立ち始めていたからだ。

「初めて見ましたよ、緑先輩が滝先生にあんなに言われてるところ」

 美佳子も心配そうな表情で緑輝の顔を覗き込む。

「どこか具合悪かったりします?」

「ううん。身体の方は何もないです」

 首を振ってみせる緑輝だったが、その顔から憂いは全く晴れていなかった。

「自分でも良く分からないんです。上手く手が動かないっていうか、音に乗れない感じで」

 そうこぼし、緑輝は深々と溜め息を吐いた。いまいち要領を得ない答えだが、その理由は彼女自身にも不調の原因が掴めていないからなのだろう。

「こんなんじゃダメだって解ってるんですけど、どうしても体がついてこなくて、そうしたらどんどん演奏が乱れていってしまうんです」

 すみません、と緑輝はもう一度頭を下げた。別に葉月たちだって、緑輝を責めなじるつもりでは無かった筈だ。ただ彼女が北宇治に入学して以降、ここまでボロボロな演奏をするのはこれまでただの一度も無いことだった。演奏面に関しての緑輝の実力は部内でもトップクラスであり、こと奏者としては麗奈にすら決して引けを取らない。何しろその麗奈さえも一年の頃から緑輝の実力を認めているぐらいなのだ。そんな緑輝がこれほど壊滅的な不調をきたしているという事実が、他の者達には到底受け入れがたいことであったに違いない。

「緑ちゃん、前に私に『失敗しないようにって考えるからダメ、私の演奏を見よ! って思えばいい』って言ってたよね。そういう気持ちでやってみるのは?」

 久美子なりに言葉を選びながら助け舟を出してみるも、緑輝はやはり首を振る。

「心掛けてみてはいるんですけど、それもダメなんです。こんなこと初めてで」

 そうして力無く、緑輝は手元へ視線を落とした。その細く小さな指には最早この時期の風物詩とも言えるであろう白いテーピングががちがちに巻き付けられている。こんな小さな手があんな大きな楽器の長い弦を正確に押さえ切っているのだと思うと、久美子は何か今まで奇跡を見ていたのではないかという心地さえしてしまう。

「ジョージくん、もう緑と気持ちが通じ合わなくなっちゃったのでしょうか……」

 『ジョージくん』というのは緑輝が愛用するコントラバスに付けた名である。そのことからも分かる通り、緑輝は日々自分の楽器を己の一部が如く丁寧に、とても大切に扱っていた。日々の練習の前後には必ず丹念な手入れを施していたし、弓に塗る松脂の量もいつも誤りは無く、そのメンテナンスぶりは完璧とさえ言えた。今日だってそのジョージくんはいつも通り、ピカピカに整えられている。

「そんなこと無いって! きっとあれだよ。一時的な不調、そう、スランプってやつ」

「スランプ……」 

 葉月の言葉を反芻するように緑輝が呟く。

「緑、今までスランプになったことが無かったから、良く分からなかったです」

 それはそれですごいものだ、と久美子は思う。自分なんか、スランプに陥るのはしょっちゅうなのに。周りに気付かれないよう上手に体裁を保ってはいるけれど、一旦こうなるとどんなに練習を重ねても全く上達しないどころか逆に落ちていくような気分にさえなってしまう、そんな時もある。しかしそんな久美子だけに、スランプから脱出するための特効薬なんてものは存在しないことも過去の経験からよくよく理解していた。結局のところスランプに陥った際の打開策などというものは、もがき苦しみながらでも基礎に立ち返って正しい練習を積み重ねる、それ以外に無いのである。

「とりあえず、今日のところはもう帰ろっか。明後日は終業式だし、時間もあるからそこでみっちり練習して確認していこうよ。いま落ち込んでても仕方ないって。ね?」

 葉月は緑輝にとびきりの明るい笑顔を向ける。こういう時底抜けに明るく振る舞う葉月には、久美子も何度か救われたことがあった。御多分に漏れず、この件も葉月に任せておいた方が無難かも知れない。何より久美子自身、緑輝のことを気に掛けていられるような余裕は、正直言って殆ど無かった。

「お話し中すみません。個人練に行ってきますので、ここで失礼します」

 そんな先輩たちのことなど自分には関係ない、とでも言うように雫は席を立ち、楽器と譜面台を持って教室を出て行く。オーディション後の雫は基本ずっとこうだった。教室で黙々と楽譜読みをしていた彼女の姿はもはや無く、少しでも時間が空けば個人練のために外へと消える。何をしているのか、久美子はとうに気付いていた。周囲に気兼ね無くソロオーディションの練習を行うためだ。

 ソロオーディションは夏休み三日目、つまりこの日曜日にホール練習の場にて行われることになっている。それまでもうあまり時間は無い。久美子にしたって、他の部員のことより今は自分の練習に集中したいのが本音だ。しかし相手が緑輝ともなれば流石にそうもいかない。彼女は三年間苦楽を共にしてきた仲間であり親友なのだ。その緑輝がスランプに苦しむ姿をあっさりかなぐり捨てて自分の練習に向かえるほど、久美子の協調性は破綻している訳ではなかった。

 それに久美子には緑輝のスランプについて、一つだけ思い当たる節もあった。先日の秀一との会話。そこには葉月と緑輝がいた。秀一の話に一応の納得をしていた葉月に対して、緑輝は何か最後まで腑に落ちない様子だった。もしかするとそれが彼女の心にしこりとなって残っていて、演奏の調子を狂わせているのかも知れない。久美子は一年生だった当時、緑輝が似たような理由で落ち込んでいたのを覚えている。緑輝は自分自身に降りかかる問題に関しては全くと言っていいほど揺るぎない精神と技術を持っている。しかし他者が絡んだ場合は話が別で、時として演奏面に支障をきたすことさえあるのだ。だとしたら今回の緑輝の不調は自分のせいでもあるのかも知れない――そう考えた瞬間、久美子の胃にぐねりと鈍い痛みが捻じ込まれる。

「悪いけど、私達は先帰るから。皆はじっくり個人練しててね」

 久美子達にそう告げて、葉月と緑輝は楽器を片付け教室を去っていった。パートメンバーの半数が居なくなった三年三組は、なんだか酷くガランとしていた。

「じゃあ俺も個人練行ってきます。お疲れ様です」

 丁寧に頭を下げ、星田は楽器を持って教室を出て行った。彼もまた、ここのところの合奏では滝に集中的にダメ出しを食らっていた。

『どうしても出来ないのであれば、ここは星田君無しで行くしかありません』

 先日の合奏中に滝から放たれた一言は、星田の胸に槍となって突き立ったことだろう。そういう時の心情は久美子も他人事とは思えぬほど理解できる。しかしその悔しさを、上手くなりたいという思いを昇華させるには、彼もまた必死で練習して克服する以外に無い。二年前の久美子がそうであったように。だからこそ、悲壮感を負いつつ立ち去らんとする星田の背中に掛けるべき言葉を、久美子は見出す事が出来なかった。

「それじゃ、私も外で練習してくるね。美佳子ちゃんはここ使ってていいから」

「あ、はい。お疲れ様です」

 一人残される格好となった美佳子に若干の申し訳なさを抱きつつ、久美子も楽器を携え個人練に向かう。他の者に後れを取っている場合ではない。ソロオーディションで雫に勝たなければ、本番の舞台で麗奈と一緒にソロを吹くことは出来ない。そして久美子の目指す『特別』にもいつまで経っても辿り着けやしないのだ。そのためにはこれからソロオーディションまでの五日間、ひと時たりとも油断は許されない。少しでも集中できる場所を。そう思って久美子はいつもの露天廊下ではない方角に足を運ぶ。

 校舎裏の一角に椅子と譜面台を置き、そこに座ってユーフォを構える。一人集中して個人練をしたい時、久美子はいつもここで練習を行っていた。そしてその角を曲がった先、ピロティーの手前にある中庭の付近では雫が個人練の場所として一角を陣取っている。久美子がソロ部分を吹き終えて一息つくと、向こうの方角から山彦のように雫のソロの音が聞こえてきた。美しく、そして豊かに響く音。雫の演奏は日を追うごとにぐんぐん磨き上げられている。合奏で滝に指示を受けた箇所も柔軟に取り込み、雫は自身の音をより高みへと導いていた。

 それに正比例するかのように、久美子の心の暗雲は日が経つに連れ厚みを増しつつあった。この演奏に、この音に勝てなければ、麗奈とソロを吹くことは出来ない。絶対に、雫に負けるわけにはいかない。けれどその気持ちも、麗奈と一緒に吹きたいという思いをも、雫の生み出す美しい音色は暴力的なまでに掻き消してゆく。『このままでは雫に負けるかも知れない』という真っ暗でとても鮮烈な予感だけが、じわじわと自分を飲み込みつつあった。その予感を振り払うように、あるいは焦燥感に追われるように、久美子はユーフォにしがみつき黙々と練習を続ける。

「おーっす、くみ姉」

 そのとき校舎の角からひょっこりと、トランペットを手にした幸恵が姿を現した。一息つこうと楽器から口を離したのとほぼ同時だったところからして、恐らくは話し掛けるタイミングをずっと窺っていたのだろう。ハンカチで口元を拭うと、真鍮特有のくすんだ香りがツンと久美子の鼻腔を突いた。

「さっちゃんも個人練?」

「うん、ソロオーディションももうすぐ近づいて来てるから。高坂先輩も頑張ってるし」

 幸恵は眩しそうな目つきで校舎を見上げた。つられて久美子も視線を上へと送る。そこには麗奈がトランペットを構え、高らかに音を奏でる姿があった。金色に輝くトランペットに反射した太陽光が久美子の目に飛び込む。その眩しさに思わず顔をしかめながら、久美子は幸恵に尋ねた。

「ねえ、さっちゃん。前から思ってたんだけど、どうして麗奈がいるのにソロオーディションを希望したの?」

 顔を下ろした幸恵が、今度は怪訝そうな顔で久美子を覗き込む。

「それって、『どうせ高坂先輩に勝てるわけないのに』ってこと?」

「いや、そうじゃなくてその。まあ何というか」

 核心を突かれ、久美子はしどろもどろになってしまう。実際問題、麗奈の演奏技術は誰が見ても部内随一であり、他のトランペット奏者が追いつける領域に無い。今さらオーディションをするまでもなく、麗奈がソロの座を射止める事は間違いないと断言出来るだろう。

 それだけに、幸恵がソロオーディションに名乗りを上げたことは久美子のみならず他の部員にとっても理解しがたい行動であり、時折それが話題になることもあった。どうせ勝てるわけが無い。なんでわざわざ先輩に喧嘩を売るような真似をするのか。高坂も内心鬱陶しいと思っているに違いない。人の口に戸は立てられず、各々が好き勝手を述べているのを、久美子も幾度となく耳目にしていた。当の麗奈は大して気にするでもなく『向かってくるなら返り討ちにするまで』とばかり堂々としていたのだが、対する幸恵が何を思っているのか、ここまで明白な実力差を前にして何故それでも麗奈に食らいつこうとするのか、その心理には純粋に興味があった。

「わかってないなー、くみ姉は」

 ちっちっち、と幸恵は指を左右に振る。

「高坂先輩はあたしにとっての憧れなんだもん。少しでも追いつきたいって思ったら、必死で手を伸ばさなきゃ届かないでしょ?」

「そりゃまあ、そうだけど」

 久美子にだって、その気持ちは分からなくもない。憧れをいつまでも憧れのままにしていては、いつまで経ってもそこへ達しはしないのだ。現に久美子自身、そうやって必死に手を伸ばし続けた結果、自分の実力をここまで磨き上げてきたのである。届くか否かはともかくとしても、空に弧を描く月にだって手を伸ばさなければ、今日の自分を大きく超える飛躍は望めない。ただしかし、それにしたって何も麗奈との直接対決という道を選ぶ必要までは無かったんじゃないだろうか。心の底でひっそりと、久美子はそう思ってもいる。

「それに私だってトランペット吹きだし。もっと上手くなりたい、誰にも負けたくない、って気持ちはあるよ。例え今は全然ダメでもそういうつもりでやらなくちゃ、いつまでも高坂先輩に追いつけないまんまだから」

 そんなのは嫌、と幸恵は自身のトランペットをじっと見つめた。久美子はほんの少しだけ、幸恵のこの火の玉のような向上心に感心していた。春に入部した頃の幸恵にはここまで貪欲な姿勢は無かったように思うのだが、これも麗奈の下で厳しい練習に耐え抜いてきた成果なのだろうか。

「私も負けないように頑張らなくちゃね。今はまず、オーディションで芹沢さんに勝たないと」

 久美子も拳を握り締める。幸恵のそれは憧れへの挑戦であり、言ってみれば必ずしも勝つ必要は無い戦いだ。幸恵には来年もあるのだし、何より彼女の実力では麗奈に到底及ばないことぐらい、幸恵自身が一番良く理解できているだろう。対するこっちは現実問題、是が非でも勝たなければならない勝負である。言わば雫は『敵』。あれだけの力量を持っている雫を相手に、もはや先輩後輩といった序列など関係ない。例えどれほど勝ち目が薄かろうとも、自分がソロを吹くには雫よりも上手い演奏をする以外に無いのだ。

「勝たないと、か」

 幸恵は呟き、こちらから視線を逸らした。

「くみ姉、もしかして雫のこと、敵みたいに思ってたりする?」

 久美子は思わず息を呑む。その反応から、自分の見当が図星を突いたと察知したらしい幸恵が不満げに鼻を鳴らした。

「雫もあたしやくみ姉と同じで、ただ誰よりも上手くなりたいだけなんじゃないかな」

「どういう事?」

 聞き返す久美子の声は、自分でもそれと分かるくらい剣呑な色を孕んでいた。幸恵の真意が測りかねる。いつの間にか雫のことを呼び捨てにしているのも少しだけ気になったが、それ以上に幸恵が何を言いたがっているのかがこれっぽっちも理解できなかった。幸恵はただ黙って久美子を睨み続けていたが、結局久美子の問いには答えないことにしたようで、やがて目を瞑り大きく息を吐き出した。

「あたしはそろそろ練習戻るから。くみ姉もソロ練習、がんばってね」

 じゃ、とだけ告げて、幸恵は足早に去ってしまった。その場に残された久美子はもやもやとした感情を抱え込んだままになってしまう。雫が誰よりも上手くなりたいと考えている。それはいいとして、その雫が今や久美子にとって最大の障壁となっているのは疑いようのない真実だ。負けたくないし負けるわけには絶対にいかない。なのにその事で、どうして幸恵がへそを曲げる必要があるのだろう。そもそもユーフォソロのことなど幸恵には全然関係の無い話じゃないか。それとも幸恵はいつの間にか雫とも仲良くなっていて、それで雫の肩を持ってあんなことを言ったのだろうか?

「もう、わけ分かんないよ」

 久美子は空を仰ぎ見る。校舎の影に一人取り残され、こうして他人のことをぐちぐち思い悩んで戸惑っている自分自身がとてもみじめに思えた。何にも憚らず天高くその音を響かせる麗奈の姿は眩しすぎて、今は直視できそうも無かった。

 

 

 コンサートホールの舞台に立って、久美子は精一杯の演奏をしていた。目の前の観客席には部員達の姿。ミスなく演奏を終えた自分に、部員達からは拍手が送られる。そんな自分と入れ替わるようにして舞台の中央に雫が立った。きゅっと吸い込んだ息を銀色のユーフォニアムに吹き込んだ瞬間、そこから広がる音に部員達の空気が圧倒されていくのを久美子は感じ取る。誰もがその音に魅了されていた。息をするのも忘れ、その演奏に聴き入っていた。雫の演奏が終わり、それを聞いていた部員達の手がさっきよりも大きく、ばちばちと不快な音を立てる。そして採決の時が来た。

「ユーフォソロに芹沢さんが相応しいと思う人」

 滝の問いに、部員達は一斉に手を挙げた。幸恵は言うに及ばず、美佳子や相楽、葉月や緑輝、そして秀一や麗奈までもが手を挙げている。その光景は久美子には到底受け入れがたいものだった。どうして。どうしてみんな雫を選んだのか。そこまで雫の演奏は自分より上手かったのか。コンクールで勝つためには自分ではなく雫の音であるべきだというのか。胃の腑から全てを振り絞って叫びたいというのに、何故か声がうまく出てこない。苦しさにもがく久美子を尻目に、滝は部員達を一度見回し、遂に久美子に向かって残酷な結論を言い放った。

「それではユーフォのソロは、芹沢さんで決定です」

 

 

「……ぅぁぁぁああああ!」

 叫び声が喉から飛び出す。と同時に、いつの間にか自分がベッドの上に横たわっていることに気が付いた。体は寝間着姿のまま、おびただしい汗でぐっしょり濡れてしまっている。目頭がじんわりと熱く、喉がからからになっている。そこでようやく、久美子はさっきまでの光景が自分の見ていた夢であったことを知った。

 枕元の目覚まし時計は三時半過ぎを示している。ベッドに入ってからまだ二時間弱しか経っていないことになるが、夢の感触があまりにもリアルだったせいで、今まで眠っていたなんてにわかには信じられない。こんなに気が立った状況ではとても再度寝付けそうにはなかった。ベッドからずるずると這い出して、久美子は机の上の楽譜ファイルに手を伸ばす。自由曲、ソロの部分。そこには濃いピンク色の自分の字で、こう綴られていた。

『絶対に麗奈と吹く!』

 自由曲が渡されたその日に、決意の表れとして書いた文字。それは日々の練習を経るうちにすっかり色褪せつつあった。月明かりの中で見ると今にも消え行ってしまいそうですらある。久美子は衝動的に楽譜ファイルを畳み、それを強く強く抱きしめた。

「いやだ、ソロ吹けなきゃ、絶対にいやだ」

 どうしても声の震えを押さえることが出来なかった。そのぐらい、今しがたの悪夢は久美子の心に強烈な爪痕を刻み付けてしまっていた。

 

 終業式も終わり、ついに夏休みが始まった。梅雨雲はすっかり晴れ、木々の至るところからジリジリとかしましい蝉の鳴き声が聞こえて来る。これが聞こえなくなる頃には既に、北宇治が全国への出場権を得ているか、そうでないかの命運は決しているのだ。そう思うと蝉の声が何だか自分を急き立てているように、今の久美子には感じられた。

「久美子、顔色悪いよ。大丈夫?」

 葉月が心配そうに久美子を覗き込む。

「うん、ちょっと今日は寝不足なだけ。何でもないよ」

 葉月に心配をかけまいと、久美子は無理矢理に口角を吊り上げる。が、何でもない筈が無かった。七月に入ってからというもの、睡眠時間は今まで以上に削れてしまっている。五時起床からの朝練に始まり、休憩時間は部活関係の書類処理や日程調整に追われ、下校時間ぎりぎりまで居残り練習をこなし、家に帰ってからは学校の宿題と音楽の勉強を済ませ、残った時間で進路調査をする。こんな日々の就寝時刻は大体深夜となり、平均睡眠時間はおおむね四時間程度、酷いときには三時間を切ることすらあった。

 そこに加えてゆうべのような悪夢を見てしまったら、貴重な睡眠時間はさらに削れてしまう。その上色々と思い悩むことが日増しに増えてきて、就寝前後ですら気の休まる暇が無い。ここのところは恒常的な胃の痛みのせいでまともに食事を摂ることすら出来なくなり、家に帰ってからはお粥ばかりすすっている。それが影響してあんな夢を見てしまったのだろうか。朦朧とした久美子の頭では、そんなことを考える余裕すら無くなっていた。

「今日はリーダー会議もあるんだから、しっかりしなくちゃダメだよ」

 そう言えばそうだった。今日のリーダー会議では三日後のホール練習に向けての段取り、そして夏休み中の練習日程を確認する予定だった。そしてそれは終業式後の午後一番目、つまりもうすぐ行われることになっている。

「ごめんごめん。それじゃちょっと行ってくるね」

 鞄の中から書類を取り出し、椅子から立ち上がろうとする。体にうまく力が入らない。机の端に腕がぶつかった拍子に、久美子はフラリとよろけてしまった。

「危ないっ」

 慌てて伸ばされた葉月の腕に、久美子の身体はがっちりと支えられる。目の前にはくっきりとした木目。本当に危なかった。あと少しで自分の顔面はしたたかに、硬い机の板面に打ち付けられるところだった。

「本当に大丈夫? 具合悪いなら保健室行った方がいいんじゃ、」

「ごめんね心配かけちゃって、全然平気だから」

 二つの足に力を込め、なんとかその場に直立する。精一杯元気な体を装い、久美子は葉月から逃れるようにばたばたと教室を出た。

 正直に言えば、全然大丈夫なんかじゃなかった。堪えがたいほどの疲労感と眠気に襲われている筈なのに神経が昂っているせいで、思考と感情は恐ろしく不安定になっている。ソロオーディションのことや雫のことを考えて憂鬱になったり、急にあれこれ悲観したり、良く分からない切迫感に苛々し出したりと落ち着かないことこの上ない。葉月の言う通り保健室に行くべきなのかも知れないが、いま休んだら悪夢が本当に現実のものになってしまいそうで、とにかく練習しなくてはという強烈な危機感に身体を突き動かされる。これでは保健室に行ったところで満足に休めそうも無い。今日のところは居残り練習まで耐え切ったらすぐ家に帰って、勉強や進路調査も投げ出して早めに寝てしまおう。そんな風に久美子は考えていた。

「それでは次に、ソロオーディションについてですが」

 その声で久美子はハッとなる。今の声は他の誰のものでもなく、自分自身の口が発したものだった。ついさっきまで話し合っていたはずの内容ですらもほとんど記憶に無い。かと言って寝ていたわけでもなく、つまり自分はほぼ無意識のうちに司会進行役を務めていたということになる。

「どうしたの、黄前さん?」

 司会役の発言が急にぶつりと途切れたのを不審に思ったのだろう。サックスパートのリーダーが、久美子の様子を訝しむ。

「ごめん、何でもない」

 一言謝罪を入れ、久美子は軽く息を吸う。駄目だ。気を抜いたらすぐ意識が飛びそうになる。

「ソロオーディションについてですが、当日の朝九時にホール入りをして、一時間の準備の後に行います。各パートリーダーは十時になったらパートの人達を取りまとめて、第一ホールの観客席に座らせて下さい」

 手元の書類の文字が霞んでいる。思っている事と喋っている事とが全く同期していない。両肩には重い鉄の塊を背負わされているようで、もはや息をするのも苦しかった。早く、一刻も早く、この時間が終わって欲しい。

「それでは次に、夏休みの練習日程を――」

「その前に、ちょっといい?」

 そう切り出したのはフルートパートのリーダー、()()だった。どうぞ、と久美子は発言を促す。

「あのさ、この機会だしハッキリ言わなくちゃって思うんだけど」

 小田は少し言いにくそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「最近の合奏でさ、低音パート、注意されること多いよね」

 その発言に久美子はぎくりと背中を震わせる。隣に座っていた低音パートリーダー、緑輝もまた息を呑んだ。

「もう夏休みだし、練習大丈夫? 私としてはコンクールに向けての合奏も大事だとは思うんだけど、それよりもまずパートとしての完成度を上げた方がいいんじゃないかな」

 小田のその言葉に、他のパートリーダーからも賛同の声が上がり始める。

「確かにここんとこの低音、ちょっとやばいよね」

「リズム乗り切れてないことも多いもん」

「うちんとこもパート内でまだ上手く行ってないとこあるし、パート練習の時間を増やせるんだったらありがたいんだけど」

 秀一と麗奈はその流れには乗らなかったが、二人の視線はどちらも緑輝に向けられていた。槍玉に挙げられた当の本人である緑輝にそのやり取りが刃となって襲い掛かり、彼女の全身を切り刻む。

 低音パート問題は緑輝自身の不調によるところもあるが、パートリーダーである彼女には低音パート全体の練習指導、その出来に関する責任も圧し掛かっている。ところがなまじ自身が不調なせいでか、ここのところ緑輝の指導がやや甘めになっていたのは久美子も薄々気にかかっていた点だった。それが災いして星田の苦闘は言うに及ばず、低音パート内での課題ももう一つ取り残されている状況にある。その事を誰よりも承知しているのは他ならぬ緑輝本人だろう。ただでさえ小さい緑輝の肩はますます縮こまり、リーダー一同の言い分に何も返せぬままじっと耐えるように俯くばかりだ。

「パート練の時間を追加して欲しいんだったら、それは私から滝先生に言ってみるよ。けど低音パートのことばっかり言わなくてもいいんじゃ、」

 ひとまず場を収めるつもりでそう言ったのだが、それが一人の女子の癇に障ってしまったらしい。彼女はカッと眉を吊り上げ早口気味にまくし立ててきた。

「そもそも低音パートは黄前さんもいるんだから、他人事みたいに言ってられないでしょ。川島さんが調子悪いなら、そのへん黄前さんが何とかしないと」

「そんな」

 久美子は大いに狼狽する。これだけ自分のことで精一杯だというのに。今まで全部緑輝と葉月に任せてきたのに。こんな状況になったからと言っていきなり自分に何とかしろなどと言われたって、どうにか出来るわけ無いじゃないか。

「今そんなこと言い出しても仕方ないでしょ。他所のことをどうこう言ってないで、自分のパートをどうするか、そっちを先に考えないといけないんじゃない?」

 流石に状況を見かねてか、麗奈が窘めるように口を開いた。言われた側の女子は一瞬顔を強張らせたが、相手が相手だけに麗奈を打ち負かす理論など捻り出せそうに無いと判断したのだろう。女子はそのまま口をつぐんでしまった。

「でも、今年の自由曲って低音が一番重要でしょ。ホントどうするの?」

 このまま落ち着きそうかと思われた火種に、別の者がさらなる油を注いでくる。もうやめてくれ。久美子は心の奥でひたすらに念じていた。既に議場は各々が好き勝手に喋り散らす場となってしまい、およそ会議の体を為していない。早く会議を終わらせたいのに。じっくり自分の楽器と、自分の音楽と向き合いたいのに。いくらそう願ったところで誰に伝わるでもなく、貴重な時間は無意義に流れ去ってゆき、その間にも場の状況はどんどん悪化の一途を辿ってしまっている。

「それでなくたって今年の自由曲は難しいし、低音崩れてたら私達も乗れないしさ」

「もっとクオリティ上げていかないと、全国出場どころか関西だって危なくない?」

「立華もかなり完成度上げてるらしいじゃん。本気でやばいって」

 目の前の視界がぐにゃぐにゃと渦を巻いていく。ぎんぎんと強まる耳鳴りがうるさくて、他の音が何も聞こえない。このままじゃいけない。なにか、この場を収める、何かを、言わないと。そう思ってはいるのに頭の回路は一向に働かず、ぱくぱくと唇を動かすことしか出来なかった。ただただ、今のこの場の空気が、ひどく不快だった。いっそ一秒でも早くこの場から飛び出してしまいたい。そんな思考が恐ろしい速度で全身を支配し始める。

「みんな、いい加減に――」

 秀一が何かを言いかけたところに、ぼそりと誰かの声がした。

「すみません」

 それは緑輝の発したものだった。固まり切った自分の脳にも、彼女のいたいけな声が奇妙に響く。

「緑のせいで皆さんにご迷惑をお掛けしてしまって、もう、どうしていいのか……」

 今にも消え入りそうなその一言が、最後の最後で辛うじて保っていた久美子の理性を、ぶつりと切り落とした。

「……にしてよ」

 さっきまで鈍色に濁っていた意識が真っ赤に染まっていく。まずい。それ以上言ったらいけない。なんて考えすら、全身から湧き上がる獰猛な感情によってあっという間にかき消されてしまった。

「いい加減にしてよ! みんな勝手なことばっかり言って! 一番苦しいのは緑ちゃんだよ。普段からあんなに練習頑張って、いつも完璧な演奏で、それなのにスランプで思い通りの演奏が出来なくなって、本人が一番何とかしなきゃって思ってるはずじゃん。みんな言いたい放題で、緑ちゃんがどんな気持ちでいるか、考えたことあるの!?」

 久美子の口は止まらなかった。久美子ちゃんいいですから、と緑輝に制服の裾を掴まれても、それにすら構わない。溢れる激情に突き動かされ、久美子は椅子を蹴って立ち上がる。

「そんな状況で低音パートの調子も悪くて、みんなも不安なのはわかるよ。わかるけど、そこまで言わなくてもいいじゃない! 誰にだって上手くいかない時はあるでしょ。緑ちゃんはたまたまそれがコンクール前だっただけで、どうしてそこまでボロクソに言われなきゃいけないの。緑ちゃんが今までどれだけ頑張ってたか、みんなだって見てきたでしょ!」

「久美子」

 今度は秀一が久美子の肩を掴んだ。邪魔しないで、と久美子はその手を振り払う。

「正直、私だって不安だし、緑ちゃんがこういう時だからこそ支えなくちゃって思ってるよ。でも皆それぞれ自分の役割をこなすので一生懸命だし、必死だし、何でもかんでも上手くなんていかないよ。なのにどうしてそれを求めるの。どうして皆、それが当然みたいなことを言うの。コンクールで金賞を取れさえすれば、人の気持ちなんてどうだっていいって言うの!?」

「もうやめろ久美子!」

 身体が大きく仰け反って、息が一瞬詰まる。見るに見かねた秀一がどうにか久美子を制しようと、背後からその両肩を掴んで思いっ切り引っ張ったのだ。はっ、と久美子が息を吐き出したとき、そこには自分の服の裾を掴んだままで俯き、ぶるぶる震える緑輝の姿があった。

「緑、ちゃん」

 呼吸が苦しい。息を吐いて吸う度に、徐々に冷静な自分が戻ってくる。と同時に、己の口から飛び出した発言がとんでもないものであった事を久美子は認識し始めていた。おもむろに周りを見渡すと、誰もがぽかんと口を開けたまま呆気に取られている。皆、久美子のあまりの剣幕にすっかり肝を抜かれてしまっていた。

「わ、私……」

 舌がもつれる。言葉がうまく紡げない。胸がむかむかする。なのに、心はずんと重たく冷え込んでいた。久美子の身体から強張りが抜けたのを感じてか、肩を押さえ込んでいた秀一の手の力が次第に緩んでいく。秀一の手による戒めが解かれた久美子はへなへなとその場にへたり込んだ。体に力が全然入らない。さっきまでは自分の体じゃないみたいに、勝手に動いていたはずなのに。

「久美子、お前今日はもう帰れ」

 秀一は久美子の顔を覗き込んでそう言った。久美子は、秀一の目を見ることが出来なかった。秀一は今の自分を見て何を思っているのだろう。自分は今どんな顔をしているのだろう。麗奈に、皆に、どう思われただろう。何もかも知りたくない。

「皆も悪い。久美子、ちょっと興奮してるから、今日はこのまま部活休ませる。会議の続きと今日の練習は俺がまとめるから、それでいいな?」

 秀一の提案に、全員が揃って神妙に頷いた。麗奈は動揺と心配が入り混じった顔で口を開きかけたが、何かを迷うような素振りをし、やがてその口を静かに閉じた。

「緑ちゃん、ごめん……」

 がくがくと震える顎を手で押さえつけながら、久美子がやっと言えたのはそれだけだった。緑輝は俯いたままぶるぶると首を振り、その顔を上げる。

「久美子ちゃん、緑は大丈夫ですから。大丈夫ですから」

 その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。緑輝を泣かせてしまったのは、自分だ。久美子はそう直感した。言ってはいけない、言うべきではないことを、自分は言ってしまったのだ。この場であんなことを言うのが緑輝のためになるわけが無かったのに。緑輝が余計辛い思いをするだけの筈だったのに。何で言ってしまったのだろう。寝不足で頭が回らなかったから? 追い詰められていて気持ちの余裕が無かったから? 緑輝の泣き顔を見ていると、これまで自分がやってきたことの全てがこの結果を招いてしまったというその事実を、否応なしに突き付けられている気がした。

「皆も、ごめん」

 やっとの思いで立ち上がり、そのままふらふらと教室の戸に向かう。合わせる顔が無い、というのはまさにこんな時に使う言葉なのだろう。久美子は誰にも、麗奈にですら、目を合わせられそうに無かった。

「あれ、会議もう終わったの? ……久美子、どうしたの?」

 教室に戻って来た久美子を見るなり、葉月は何か異変に気付いたようだった。久美子は葉月にも顔向けが出来そうになかった。今日は具合悪いから帰る、とだけ言い残し、自分の鞄を持ってずるずると教室を出る。

「久美子? 久美子ってば!」

 まるで悪い夢を見ているみたいだった。激しい罪悪感と後悔。出来るなら時間を巻き戻して、さっきの自分を平手で打ってでも止めてやりたい。けれど過ぎ去った時間はもう取り戻すことは叶わず、ただ己の犯した過ちが逃れようのない現実なのだという分厚い幕のような感触だけが、久美子の全身を包むばかりだった。

 虚ろな意識で廊下を歩いていたその時、どこかからユーフォの音が聞こえて来た。それは雫の奏でるユーフォソロの旋律。こんな時でも雫の音色はいつもと変わらずキラキラと眩い光を放っていた。何の濁りもない澄んだ音。今の自分の心境とはあまりにも大違いだ。その落差に、久美子の目眩と嘔気は頂点に達する。

 堪らず近くのトイレに飛び込み、そのまま何もかもを体の外へと吐き出した。ぞわぞわと悪寒がするのに、体はじっとりと脂汗をかいている。干上がり切った目からポタポタと何かがこぼれ落ちている。その何もかもが気持ち悪くて堪らなかった。何より耐え難いほど不愉快なのは、何一つとして思い通りにならない、いまの自分そのものだった。

 ようやく家に帰り着いたのは、学校を出てから二時間近くも後のことだった。どこをどう歩いてきたのか、その景色もほとんど覚えてはいない。母親はまだ仕事から帰ってきていないようで、薄暗い室内はむんと熱気に包まれていた。久美子は玄関に靴を脱ぎ捨て、そのまま自室へと入る。机の上には母親が置いたらしい自分宛ての郵便物が幾つかあったが、そんなものはどうでもよかった。鞄を投げ出した久美子は一直線にベッドへと倒れ込む。頭がガンガンする。ぶつけたわけでもないのに足が痺れて苦しい。空っぽになった胃袋は、細糸で締め上げられているみたいにキリキリと軋んでいた。

 ベッドの上で仰向けになり、久美子は大きな嘆息を漏らす。うまくまとまらない意識が、ついさっきの部員達の表情を、緑輝の涙を、秀一の声を、全て鮮明に描き出す。皆の前であんな振る舞いをしてしまうなんて。それこそ部長失格だ。なんて愚かなことをしてしまったのか。それを振り払いたくて、久美子は布団に無理矢理顔をうずめた。もう何も考えたくない。何もかも忘れてしまいたい。どうしてこんな苦しい思いをしているのだろう。もういっそ、全てから解放されて楽になってしまいたい。

 その時ふと、久美子の脳裏にあがた祭りの光景がよぎった。『特別』になると宣言した麗奈。そんな麗奈と同じ『特別』になりたいと宣言した自分。ソロを一緒に吹こうと誓い合った二人。そうだ、ソロはどうする? このままでは雫に負けてしまう。練習しなくてもいいのか? 『特別』になりたくないのか? 自問の声が、久美子の心を追い詰めようとする。

「もう、いいや」

 呟いた己の声はあまりに力無く、乾き切ってしまっていた。そうだ。自分がこうしている間にもきっと雫は黙々と練習を続けていることだろう。あの子の実力ならばこの僅かな時間の差を決定的なものにしてしまう。そうしてユーフォのソロはあの悪夢の通り、満場一致で雫が選ばれる事となる。そうだ、所詮はそういうことなのだ。

 自分は『特別』なんかにはなれなかった。憧れた麗奈とのソロも思い描いた将来も、この手からするりと零れ落ちていってしまう。自分が望んだものを何一つ叶えられぬまま夏が終わり、そして向かう先は希望などひと欠片も見つからない、現実という名の険しい未来。夢を叶えられるのは選ばれたほんの一握りの人だけで、その人達には夢を叶えるだけの実力と環境と権利が、予め与えられている。そこに自分などが入る余地は、初めから一つとしてありはしなかったのだ。

 久美子は明らかに絶望していた。ここまで死に物狂いで自分を奮い立たせて来た気力は完全に底を尽き、指一本ですらまともに動かせない。もはや何かを考える事すら億劫だった。このまま消えてしまおう。何もかもを手放して、溶け去ってしまおう。久美子の意識はずぶずぶと、黒い沼の底に沈んでいく。窓の外から聞こえていた蝉の鳴き声も車の音も、一切がそこでフッと消え失せた。

 

 

 夢を見ていたのかどうかも良く覚えていない。粘ついた意識が最初に捉えたのは、携帯電話が奏でる着信音だった。真っ暗な部屋の中で、スカートのポケットから鳴り響くその音が、久美子を昏い眠りの淵から引き戻したのだ。

 電話を掛けてきたのは誰だろう。麗奈? 葉月? 緑輝? それとも秀一? 誰だっていい。もうどうだっていいのだ。どのみち電話に出るつもりなど毛頭無かった。いま誰かと会話なんてする気になれない。しばらく黙って無視していればやがて着信音も鳴り止むだろう。そう思って目を瞑ったものの、着信の音はしつこく鳴り続ける。

「ああ、もう」

 のろのろとポケットに手を伸ばし、そこから携帯電話を取り出す。着信を切ったら電源を落としてさっさと放り出そう。そしてもう一度眠ろう。眠っている間だけは全てを忘れられる。だからその電話が誰からのものであっても意味なんて無い。そう思い、久美子は液晶の画面に焦点を合わせた。

 

『田中 あすか』

 

 眩い光を放つ画面の中央、薄暈けた視界の中で、久美子は確かにその名がそこに表示されているのを見た。  

 瞬間、それまで鎖で縛られたかのように鈍っていた頭が急速に回転を始める。あっという間に意識が晴れ渡り、それまで死に絶えていた全身の皮膚が室内の温度を感知し始める。画面にその名があることの意味を久美子が把握するまで、ほんの数秒もかからなかった。

 嘘だ。

 何で今、どうして今更。あの人から、電話が掛かってくることなんて、ある筈がない。これは夢? ううん、間違いなく今自分は起きている。でもだったらどうして、今ここにあの人の名前がある? 何のつもりで?

 ぐるぐると螺旋を描き続ける脳がまとまった解を見いだすことは出来なかった。それより何より、久美子は聞きたかった。あの声を。自分をからかうあの調子を。ずっと追いかけ続けていたあの音の持ち主の、たった一言を。バネ仕掛けのおもちゃみたいにガバリと身を起こし、改めて手元の液晶画面を凝視する。着信の音はまだ耳障りなほどに鳴り響いている。震える指で着信のスライドロックを解除し、久美子は携帯電話を耳にあてがった。

「……もしもし」

 緊張のせいか、はたまた昼から水一滴さえ口にしていなかったからか、自分の喉はがらがらと掠れた音を鳴らした。向こうからの返事は無い。ひょっとして見間違いだったのだろうか。そう思った久美子が電話をいったん耳から離そうとした、その瞬間。

『黄前ちゃん? やっほー、元気してるぅ?』

 記憶の中にある彼女のそれと変わらない不敵な声が、受話口から飛び出した。

「あすか先輩」

 噛み締めるように、久美子は彼女の名を呼ぶ。

「ホントにあすか先輩なんですか?」

『そうだよん』

 電話口のあすかはあっけらかんと答えた。

『ていうかさー、酷くない? 何度も何度も電話掛けてるのに全っ然出ないんだもん。練習もそろそろ終わった頃かなーって思ったのに。もうこれで出なかったら、諦めて寝るつもりだったよ』

「す、すいません」

 反射的に久美子は謝ってしまう。そう言えば今は一体何時なのだろう。ずっと寝ていたせいで、久美子はすっかり時間の感覚を失ってしまっていた。置き時計で確認しようにも、部屋の中は真っ暗で時計の位置すら把握できない。携帯電話を耳から離せば時刻を見ることも出来るだろうが、今はそんなことをする気には到底なれなかった。

『まあ、ちゃんと出たからいいけどね』

 あすかの声がくつくつと揺れる。心なしか、あすかの声は以前と比べて丸みを帯びているというか、ほんの少しだけ当たりが柔らかくなっているような気がした。それよりも何よりも、ずっと聴きたかったあの声が、今こうして自分の耳に響いている。たったそれだけの事実が、久美子には何よりも嬉しかった。

「でもどうしたんですか、こんな急に電話してきて。今まで何度かメッセージ送ったのに、いつも既読も付かなかったじゃないですか」

 ずっと連絡したいと思ってたんですよ、とは流石に言えなかった。けれど少しだけ腹立たしい気持ちも湧いてきていた。この人はいつもそうなのだ。こちらのことなんてお構いなしに、ぽんと飛び越えてやって来てはひょいと去っていく。久美子はいつもそれに翻弄されてばかりで、あすかに対してこちらから何かを仕掛け、それがうまくいった試しなど一度として無かったのだ。あすかを部に引き戻そうとしたあの時ですら。

『あーそりゃごめん。めっちゃくちゃ忙しくってねー。でもその感じだと、まだ読んでなさそうかな』

「何をですか」

『昨日さ、黄前ちゃん宛に手紙送ったんだけど』

 手紙。それを聞いて久美子は机のある辺りへと目を遣る。そう言われれば家に帰って来た時、机の上に郵便物が何枚か置かれてあった気がする。それどころじゃなかったので確認もせず寝てしまったのだけれど、もしかしてその中にはあすかからの手紙が紛れていたのだろうか。

『今日ぐらいに着いてるはずだけど、もしかして届いてない? あ、引っ越したりして住所変わってた?』

「あ、いえ、そんなことないです」

 立ち上がって部屋の明かりを点ければ、すぐに確認はできるだろう。けれど久美子の体は動かなかった。あすかとの通話に集中するあまり、体の動かし方をすっかり忘れてしまっていたのだ。

「ちょっと今日は具合悪くて、家に帰ってすぐ寝ちゃってて。まだ確認してなかったです」

 久美子はそこだけ正直に言った。事情を詳しく話し出せば今日の一件やこれまでのことを全部あすかにぶち撒けてしまいそうだったし、それはしたくなかった。あすかに気を遣わせたくないという気持ちもあったが、何より今のみじめな自分の姿を、あすかには見せたくなかったから。

『ありゃりゃ、大丈夫? もうコンクールも近いんでしょ。練習に影響しちゃわない?』

「平気です。今日一日寝てたら大分良くなったんで」

『そっか』

 そこで一旦会話が途切れる。何かを話さなければこのまま通話が終わってしまいそうな気がして、久美子は頭の中から必死に言葉を探り出そうと努める。

「それでその、手紙の中身って」

『それはまあ、見てからのお楽しみってことで』

 何だろう。すごく気になる。もしかするとこの電話を掛けなければいけなかったほどに、その手紙には重要なことが書かれていたりするのだろうか。

『一応手紙がちゃんと届いたか確認するつもりで電話したんだけど、黄前ちゃん体調崩してるんならあんまり長話も不味いか。じゃ、あとで手紙読んどいてね』

「待ってください」

 思わず大きな声で、久美子はあすかを引き留めていた。せっかくあすかの声が聴けたのに、せっかくあすかと繋がっているのに、ここで通話を終わらせたくない。もっとあすかと話していたい。その思いだけで、頭の中はいっぱいだった。

「あすか先輩はいま、どうしてるんですか」

『ん?』

 久美子の問いに、あすかはどう答えたものか、と少し逡巡したらしい。う~ん、と唸るような声を上げて、

『そうだね。今はようやく、自分のやりたい事ができるようになったトコ』

 と、意味深なことを口にした。

「やりたい事、ですか」

 それは一体何ですか。そう掘り下げたい衝動に駆られるが、文言が口から出てこない。あすかがこういう曖昧な、掴みどころのない物言いをする時というのは、その真意を明らかにしたくないと思っている時なのだ。少なくとも、今はまだ。あすかの気質をよく理解している久美子だからこそ、あえてそこに土足で踏み込むような真似はしない。

『それで折角のメッセージも見る暇ないくらい、もー忙しくてさ。まあその話は、またそのうちね』

「はい」

『それじゃあね。しっかりやんなよベイビー』

「あの、先輩」

『何?』

「今度、私の方から電話してもいいですか」

 たったそれだけを言うのに、久美子は精一杯の勇気を振り絞った。舐めた唇の端がカサカサに乾いている。あすかの返事があるまでの数秒にも満たないその時間を、久美子は気が遠くなるほど緊張して待っていた。

『もちろん、いいに決まってるじゃん』

 じゃあしっかり休んで体調整えること。いいね。おやすみ。その言葉を結びにして、あすかは通話を切った。通話時間が刻まれた携帯の画面を、久美子はしばし夢見心地で眺める。あすかの声が耳の中にほわほわとした残滓となって残っている。最後のその声は少しだけ嬉しがっていたように、久美子には感じられた。あすかとの繋がりは失われてなどいなかった。ずっと遠くに行ってしまったと思っていたけれど、決してそんなことは無かった。自分から繋がろうと思えば、あすかはちゃんとそこに居てくれる。その確信は少なからず久美子を安堵させた。

 少しずつ、体に生気が戻ってくるのを感じる。ベッドから立ち上がり部屋の明かりを点けると、机の上に数枚置かれた郵便物の一番上には『黄前久美子様』と秀麗な字で書かれた飾り気のない封筒があった。シンプルな金色のシールをめくり、中の便箋を取り出す。白色の便箋を広げてみると、そこにはやはりと言うべきか、整った美しい手書きの黒文字だけがびっしりと敷き詰められていた。自分達の年代にありがちな花柄も可愛らしいマスコットも、紙の上には一切描かれていない。そのサッパリした手紙の内容がいかにもあすからしい。苦笑しつつ、久美子はさっそく文面に目を走らせる。

『前略 黄前ちゃんへ 気付けば黄前ちゃんももう三年生なんだね。香織や晴香から黄前ちゃんが部長やってるって聞いてたけど、部長の仕事はどう? 思ってたより大変なんじゃない?』

 大変どころじゃ無いですよ、と久美子は呟く。まさに今日、とんでもない失態を演じてしまったばかりだ。

『北宇治は今年も全国金賞を目指してると思うけど、毎日練習し通しで部活のことも自分の進路もあれこれ考えなくちゃいけなくて、ホントご苦労さんって感じだね。私はそんなの全部放り出して、自分の事だけ考えてたけどさ』

 その一文に、久美子は当時のあすかの姿を思い出す。自分の練習時間が削られることを本気で嫌がっていたあすか。麗奈と香織のソロオーディションを心の底からどうでもいいと言い切ったあすか。希美の部活復帰を頑なに認めなかったあすか。当時は不可解だと思っていた彼女の一つ一つの言動も、今ならば理解することが出来る。あすかもあすかなりに自分の置かれた状況と、自分自身の本当の気持ちと戦い続けていたのだ。そして賢明なあすかはその中で、自分が取りうる選択肢を冷静に見極め判断していた。時に周りを切り捨てて。己の感情すらも切り捨てて。そうまでしなければあすかは、自分のしたい事を自由にする権利すら得られなかったのだから。

『だけどさ、最近思うワケよ。もっとこうした方が良かったなとか、あの時ああしてれば良かったなとか、今さら高校時代を振り返っちゃってさ。だからあの時黄前ちゃんが本気で言ってくれなかったら、多分私はもっとずっと、今でも後悔することになってたと思う』

 そんな大層な事なんて言ったっけか、と久美子はかつての記憶を振り返る。あの時期は確かちょうど、姉の麻美子の事があったのだった。自分が本当にやりたいと望むその気持ちを押し殺し続けてきた事を、姉はずっと後悔していた。久美子はあすかにはそんな風になって欲しくないと思って、その思いをそのまま本人にぶつけた。つまるところ、自分はそれ以前からずっと、あすかに姉の姿を重ねて見ていたのだろう。だからこそ冷徹に振る舞うあすかの事が何だかんだで心のどこかに引っかかっていたし、あすかの本当の思いを、ありのままの姿を知ったことで、あすかの事がもっと好きになれたのだ。懐かしくも鮮烈な感情が蘇ってきて、胸がジンと熱くなる。

『あの時お礼を言い損ねてたこと、今ごろになって思い出して、でも直接言うのもなんか照れるからさ。それでこの手紙を書くことにしたんだ。ありがとうね、黄前ちゃん』

 改めて告げられた感謝の言葉に、久美子は何だか体がくすぐったくなってしまう。お礼を言われるようなことじゃない。そもそもあすかを引き戻そうとしたのは半分は部のためだったけれど、もう半分は自分自身のためでもあったのだから。

『そんなわけで黄前ちゃんも、大変なことは多いと思うけど、まだ高校生なんだからさ。変に大人っぽく考えたりしないで、自分がやりたいと思ったことは後悔の無いように思いっきりやり切ること! 黄前ちゃんならきっと周りにいる人たちがサポートしてくれるから。このあすか先輩が言うんだから間違いない! 悩んだ時はいつでも相談に乗ってあげるから、気楽に連絡ちょうだいね。あなたの田中あすかより』

 最後は少し茶化したようなことを書くあたり、やっぱりあすかはあすかだな、と妙に得心してしまう。しかしあすかは一体全体、どういうつもりでこの手紙を送って来たのだろう? よもや自分の荒れっぷりを誰か人づてに聞いたのでは……と考えかけたが、それは有り得ない事だとすぐに気が付いた。そもそもいかに天才のあすかと言えども、今日起こる出来事を予め昨日のうちに察知して手紙を送る、なんて超能力じみた芸当など出来よう筈も無い。今日電話を掛けてきたことと含めて、まったくの偶然と考えた方が理に適っている。そう、全ては偶然の産物。幾つかの物事がたまたま折り重なってこうなったという、ただそれだけの事なのだろう。

 それにしても、だ。久美子はもう一度あすかからの手紙を読み返す。まだ高校生なんだから。それはかつて姉が自身の半生を省みて述べた言葉であり、自分があすかに放った言葉でもあった。それがまさか今になってこんな形で自分に返ってくるだなんて、思いもしなかった。

 そうだ。自分はまだ高校生なんだ。

 世の中の物事と上手に折り合いなんかつけられないし、自分の願望をあれもこれもなんでも叶えられるわけじゃない。苦悩することもあれば失敗することだってある。部長だから、『特別』になりたいから、という気持ちがいつの間にか自分自身を雁字搦めに縛っていたのかも知れない。『高校生なんだから』というその言葉は、久美子の心に巻き付いていたその義務感に近い戒めを、不思議なほど呆気なくするすると解いていった。そこに在ったものは、恐ろしく純粋で、けれど強く赤く煌々と燃え盛る、自分の想いだけだった。

「後悔だけは、したくない」

 久美子は大きく息を吸う。肺に空気が満ちるのを感じると、いつの間にか迷いはすっかり姿を消していた。こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは一体いつぶりだろう。もう逆戻りなんてしたくない。今はとにかく目の前のことに全身全霊で打ち込もう。時間はもうそんなに残されてはいないのだから。例えこの命を、この魂を賭けてでも、心から自分のやりたいと思える事に、己の本心に、忠実に生きよう。いつか、今の自分を後悔しないために。

 

 

「おはよう」

 久美子が部室の扉を開けると、部員達が一斉にこちらを向く。

「久美子、大丈夫?」

 いの一番に血相を変えて近づいてきたのは葉月だった。続けて昨日の会議に同席していたパートリーダー達がぞろぞろと集まり、輪となって久美子を取り囲む。一応昨日は体調不良という名目で練習を休んだことになっている手前、今朝の朝練も休むことにしたため、久美子にしてはかなり遅めの登校となっていた。

「うん。一日ぐっすり寝たら、もうすっかり」

 少しだけ恥ずかしいような、いたたまれないような気分になって、久美子は無意識のうちに肩をすくめてしまう。後ろ手につまんだスカートの裾がどうにも収まりが悪いような心地だ。

「黄前さん、あの……昨日はごめん」

「私たち、つい言いすぎちゃって」

 パートリーダー達は口々に謝罪の言葉を述べだしたが、それを久美子は「待って、」手で制した。

「私の方こそ、ついカッとなっちゃって」

 本当にごめん。潔く、久美子は深々と頭を下げる。こんなものでは到底足りないと重々承知していたが、これがいまの自分に出来る精一杯の償いだった。

「それで、昨日は?」

「会議と合奏の段取りは、全部塚本がやってくれたよ」

 葉月はそう言って秀一を指さす。そこにいた秀一は少しばつが悪そうに、鼻の頭を指でぽりぽりと掻いていた。

「ありがとう、秀一」

 久美子の謝辞に、ああ、と秀一はぶっきらぼうに返事をした。

「なあ、この後ちょっと話せるか。加藤と川島にも来て欲しいんだけど」

 努めて平静を装った口調の秀一。他の部員達は低音パートの練習方針か何か、部に関することを話し合うつもりだと思ったかも知れない。しかし秀一の表情には明らかに普段のそれと違う緊張の色が浮かんでいた。きっと秀一は何か自分に話があるのだ。それも葉月や緑輝を同席させてまでするべき重要な話が。

「いいよ」

 軽く頷いて、久美子は自分の席に鞄を置く。とその時、トランペットの列に座っている麗奈と目が合った。麗奈は微かに首を傾げて『大丈夫?』と目線で無言のメッセージを送ってくる。久美子もまた無言で『心配しないで』と柔らかく微笑み、

「それじゃ行こう」

 秀一と葉月、そして緑輝を引き連れ部室を出る。この時、緑輝はまだ暗い表情で視線を落としたままだった。

 

「それで、話っていうのは?」

 四人会議の場所に秀一が選んだのは、先日彼らが密談をしていた家庭科室だった。教卓を横から挟むようにして久美子と秀一が向かい合い、その秀一の後ろには葉月と緑輝が並び立っている。傍目から見れば一対三の対立図だが、果たして本当にそうなるかどうかはこの話の内容次第となるだろう。

「あのさ、別に隠し事するつもりじゃなかったんだけど」

「うん」

「実はこの二人には前から話してたんだ、俺が久美子と付き合ってるってこと」

 そう言われて一度、久美子は葉月達を見やった。二人とも叱られた仔犬のようにシュンとうな垂れている。久美子に隠れて秀一と密談していた事実がこうして明かされるというのは、彼女たちにとって決して居心地の良いものでは無かったことだろう。

「それで久美子の好きなものとか、悩んだ時とか、時々相談に乗ってもらったりしてたんだけど。こないだの、あがた祭りの件も」

 そこまで言って、秀一は唐突に頭を下げた。

「悪い。そのせいで俺が、川島の調子を狂わせちまったんだ」

 久美子は少しばかり意表を突かれる。秀一が二人に日頃から相談をしていたのは、先日の盗み聞きから推測はついていた。けれど緑輝の不調について秀一も自分のせいだと思い込んでいたなどとは、まるで予想していなかった。

「秀一くん、そんな事ないです。緑の不調は緑のせいですから」

「いや、俺のせいだ」

 緑輝が必死に弁解するも、秀一は頭を上げようとしない。

「俺が久美子とこじれてる話を二人にしたから、それで多分色々悩んじまったんだと思う。そのせいで結局川島にも低音パートにも、部全体に迷惑掛けることになっちまった。全部俺が悪いんだ」

 頭を下げ続ける秀一に、それを言ったら私のせいだよ、と久美子は心の中で呟く。あの時あの場で自分にもう少し余裕があったなら、あんな暴挙に出る事など無かった筈だ。緑輝を含む低音パートの問題にだってもう少しうまく落としどころをつけられただろう。それが出来なかったのは、自分の力不足に他ならない。

「それで二人には事情を説明して、この際久美子に何もかも打ち明けることにした。久美子が追い詰められることになったのは、つまり、俺のせいなんだ」

 ごめん、と秀一はもう一度頭を下げる。そうじゃないんだよ秀一。久美子はかぶりを振った。自分を追い詰めていたのは自分自身だ。秀一は何も悪くない。もちろん葉月も緑輝も悪くない。それを伝えるために、そろそろ自分も秀一にずっと黙っていたことを一つ白状しなければならないだろう。

「実は私も、葉月ちゃん達には私達が付き合ってる事、話してたんだ。秀一には言ってなかったけど」

 えっ、と驚きの顔をして秀一が身を起こす。この感じだと、どうやら秀一は今の今までその事を知らなかったらしい。

「ホントなのか?」

「うん。でも二人とも義理堅いから、私が喋ったことも秀一から聞かされたことも、どっちにも言わないでいてくれてたみたい」

 だよね? と久美子は葉月に視線を送る。彼女は複雑そうな表情で後頭部の辺りを掻いた。

「いや、俺はてっきり、久美子は加藤や川島には俺らが付き合ってんのを隠したがってるのかなって思ってたんだけど。知られたら気まずいのかな、とかって」

 秀一の弁に、思わず久美子はくすっと吐息をこぼしてしまった。何だろう。何と言うか、似た者同士っていうのはきっとこういうことなんだろうな、と思う。呆気に取られた秀一の顔がなんだか間抜けに見えて、可笑しさを堪えきれない。

「それ、私もおんなじだよ。私も葉月ちゃんや緑ちゃんに私達が付き合ってるって知られたら、秀一的には気まずいかなって思ってた」

「いや、俺はそんな……」

 そこまで言い掛けて、秀一はハアっと大きく溜め息をする。その顔は真っ赤に紅潮していた。

「じゃあ何だ。二人とも、俺らが付き合ってるってこと、俺と久美子の両方から聞いてたのかよ……」

「ごめんね」

 葉月は申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせる。

「あたし達も両方から別々に聞いたから、あーじゃあこれは二人に言っちゃいけないな、って思って。もうこれ、緑と二人してお墓まで持っていくつもりだったよ」

 秘密が明かされて肩の荷が下りた、とばかりに笑みを浮かべる葉月に対し、緑輝は未だに暗い表情のままだった。

「それはともかくとして」

 秀一は咳払いをして、それから改めて久美子と正面から向き合った。

「こんな形でみんなに迷惑掛けて、久美子もあんなことになって、やっぱり思ったんだ。これ以上久美子に負担は負わせられない、俺が重荷になるわけにはいかないって。だから――」

「秀一」

 切迫する秀一が何らかの結論を出してしまう前に、久美子はそれを遮った。秀一が何を言い出すのかは、先日の三人での密談と今のこの状況からすれば容易に想像できる、けれどそれは久美子の望む未来では無かった。確かに今は忙しすぎて他のことを考える余裕なんて無い。秀一とじっくり向き合えるだけの時間は取れないかも知れない。そのせいで秀一に辛い思いをさせてしまう事は、自分にとっても辛いし耐えられないだろう。だけど、それでも。

「もう少しだけ、待っててもらっていい?」

「待つ?」

 秀一が眉を寄せる。久美子は続きの言葉を柔らかに述べた。

「私も今は正直、あれもこれもって全部考える余裕ないから、だから今すぐ結論を出すなんて出来ない。だけど秀一を苦しめたくもないし、離れたくもないよ。だからもう少しだけ私のわがままに付き合って、待っててくれないかな」

 久美子は一度、葉月と緑輝を見やる。次に言おうとしているセリフは、正直ここで言うにはかなり恥ずかしい代物だ。けれどこれを言わなければ、きっと秀一にも自分の気持ちは伝わらない。それに葉月も緑輝も、自分と秀一の為にここまで気を遣ってくれたのだ。彼女達にはこの場に立ち会うだけの権利と資格がある。そう考え、久美子は意を決した。

「私も、秀一の事が好きだって気持ちには、変わりないから」

 久美子のその一言で、秀一の頬はぽうっと桜色に染まった。

「だから、今はとにかく府大会が終わるまでは待ってて欲しい。府大会までの間は部活に集中して、それからちゃんと二人で話し合って、ちゃんと答えを出す。それが今の私にできる精一杯だから」

 そう告げて、久美子は秀一の反応を窺った。顔を赤らめた秀一はとても複雑そうな表情をしている。嬉しそうな、何かを考えていそうな、ちょっと困っているような。やがて決心がついたのか、秀一はゆっくりと息を吐いた。

「分かったよ」

 その顔には『しょうがねえな』という苦笑にも似た色が浮かんでいた。二人きりの時、久美子が我儘を言ったりつっけんどんに振る舞う時、秀一はいつもこういう顔をしていた。

「どうせここまであれこれ悩みながら過ごして来たんだ。府大会が終わるまでは、しっかり待つさ」

 色々と吹っ切れたらしい秀一がそこで一度、うん、と頷く。

「けどただ待ってるだけってのもしんどいからさ、部長の仕事で回せる事があるんなら俺にも回せよ。俺だって少しはやれるんだから。昨日見ただろ、加藤も川島も?」

「うん。慣れない仕事ですっかりテンパって、あたふたしてる塚本の姿をね」

「おまっ、それ今言う事じゃないだろ!」

 あっけらかんと葉月に暴露され、秀一は思い切り顔をしかめる。そのやり取りがまた可笑しくて、久美子はあはは、と笑い声を上げてしまった。

「とにかく三人とも、本当にありがとね。私のために色々気遣ってくれて」

「そんな、」

 弾かれたように緑輝が口を開く。

「緑、ずっと悩んでました。久美子ちゃんと秀一君、二人の関係がこんな事になってしまって、これでいいのかなって。でももしかして、緑達が間に入ってるせいで余計にこじれてしまってる部分もあったのかもって思ってました。でも二人とも緑の大切なお友達ですから、出来たらずっと仲良しでいて欲しくて。だから、緑達が何か出来るならした方がいいんじゃないかって、ずっとぐるぐる考えてたんです」

 緑輝が哀願するような眼をこちらに向けてくる。くりくりとしたその円らな瞳には、また少しだけ涙が滲んでいた。

「でも、今の二人を見てて思いました。二人は強い絆で結ばれているんだって。だからやっぱり、緑があれこれ悩んでしまった事で、二人にも吹部のみんなにも迷惑を掛けてしまいました」

 本当にすみません、と頭を下げそうになる緑輝の肩を久美子は両手で押さえる。

「そんなことないよ」

 誰かが自分の事をこんなにも思ってくれている。その温かさに、久美子は心の底から救われる思いがした。

「ありがとう。緑ちゃん」

「久美子ちゃん」

「私と秀一はもう大丈夫だから。緑ちゃんもこれからは、自分のことに集中して」

「そうだよ緑っ」

 そこに葉月が飛び込んできて、久美子と緑輝の肩を両腕でがばりと抱きかかえる。

「私らにとっては今年が最後のチャンスなんだからさ。もち行くでしょ? 全国」

「全国……」

 葉月の腕に締め付けられ、緑輝が少し苦しそうに呟きを漏らす。そう、久美子達にとって全国金賞の栄誉をこの手にできるチャンスはもはやこの夏一度きり。それも必ず行けるなんて保証はどこにも無い。持てる力を全て尽くしたとしても、他校がそれより良い演奏をして代表権を獲得したらそれまで。これを逃したら、次のチャンスが訪れる事はもう永遠に無いのだ。

「約束したじゃん私達。必ず全国行って金取ろうね、って」

「そうだよ。だからもう何も迷わないで、コンクールまで全力で頑張ろう。そうしたらきっと結果もついてくる。ね?」

 なだめるように、久美子は緑輝の髪を優しく撫でる。明るい栗色の髪は猫っ毛で、手のひらにくしゃくしゃと絡まり甘い芳香を漂わせた。まるで幼い少女のようなその髪の柔らかさに、久美子はいつまでも触れていたい気分だった。

「……はい!」

 緑輝にようやく笑顔が戻ってきた。秀一はそんな久美子達の様子を腕組みしながら満足げに眺めていた。

「さて、無事に一件落着したところで、久美子はいよいよ大勝負だな」

「うん」

 久美子は頷く。今日は夏休み初日。そして明後日はホール練習、つまりソロオーディションの日である。残りたったの二日間で昨日休んでしまった分の遅れを取り戻しながら、ソロを勝ち取るために最後の大詰めをしなければならない。残された時間はあまりにも少ないけれど、それを理由に諦めるような真似は、もうしたくなかった。恋人に、親友達に報いる為にも、麗奈の為にも、何より自分自身の為にも、今の自分が為すべきは目前の勝負に全力で挑む事だけだ。

「やれるだけはやってみせるよ」

 それは秀一への返答なのか、はたまた自分へ向けたものだったのか。発言こそ謙虚なものだったが、久美子の中には不思議と強い自信が泉のごとく湧き上がっていた。今の自分になら何でも出来るという、確固たる自信が。

 

 

 二日間の練習時間はあっという間に過ぎ去った。丸一日の休養は久美子の演奏面にほとんど影響が無かったばかりか、休む前よりも明らかに調子を伸ばしていた。それは秀一との事や緑輝の悩みが解決したことで久美子自身の気持ちも晴れたからなのか、単純にぐっすり寝たことで体調が良くなったからなのか、それともあすかのお陰なのか、それは分からない。緑輝もまたあの日を境にスランプから脱出できたようで、瞬く間に演奏の腕は元通りとなった。低音パートの練習はいつも通りの光景を取り戻し、久美子も雫も各々の音を万全に仕上げたところで、ついにその時はやって来た。

「それではこれより、ソロ奏者のオーディションを始めます」

 二日間借り切ったホール練習。その場所で、薄暗い観客席の中央に立った滝が声を張る。

「なおフルート・オーボエは複数の希望者がいませんでしたので、事前の告知通りフルートは小田さん、オーボエは桧山さんにそれぞれ担当してもらいます」

「はい」

「既に音出しも終えていると思いますので、サックスソロから順に行っていきましょう。それではよろしくお願いします」

 ホール内の静謐な空気が、久美子の緊張を否応なしに増幅する。観客席には大勢の部員達が中段から後方の座席にまとまって座り、久美子を含めたオーディションに参加する数名の部員達は前方の席に、楽器持参で着座していた。壇上にはこれから演奏をすることになるサックスパートの二名の他、副顧問の美知恵が立っている。希望者の演奏後にはどちらがソロに相応しいかを全員の挙手によって決定することになるのだが、その挙手を壇上から数える役目を美知恵は担っていた。

 もしも挙手が同数あるいは僅差だった場合には、これもまた滝の判断に委ねられることとなる。そういう場合に選ばれるのは、昨年の例で言えばその年で引退となる三年生が大半だったのだが、だからと言ってそれも絶対という訳では無い。あくまでも滝が適格と判断した人が選ばれるのであり、そうでなければ挙手数で上回っていても合格できないという可能性も、その実例もある。久美子がここでソロの座を確実なものとするためにはつまり、誰もが良いと認める演奏を披露し部員全員の挙手数で雫に圧勝する、それ以外に無いのである。

「――以上、サックスパートのソロは(ひろ)()さんで決定です。では次に、トランペットパート」

「はい」

 麗奈と幸恵が揃って返事をする。楽器を携え壇上へと登る麗奈の姿はきらきらと輝いていた。彼女瞳は至って真剣そのもので、集中はしているけれども決して余裕を失ってはいない。その根底にあるのは絶対の自信。麗奈のこういう姿を見る時、久美子はいつも『特別』とはかくあるべし、というビジョンを麗奈に重ねていた。その瞬間が、たまらなく好きだった。

 対する幸恵はと言えば、こちらはかなり緊張の色合いが濃かった。元があがり性ということもあるのだろうが、目の前にいるのは滝を含めた北宇治の部員全員、隣に立つ勝負の相手は憧れの存在である麗奈、自分はまだひよっこ同然の一年生。これで緊張するなという方が無理だろう。それでも深呼吸の後に決然と前を見据える幸恵の姿は、これまた久美子の眼に凛々しく映って見えた。

「それではまず、高坂さんからお願いします」

「はい」

 麗奈が楽器を構える。少しだけ足を開き、上体をリラックスさせて音も無く息を吸い、そして麗奈は手に持った金色のトランペットを十全に震わせる。その響きは一瞬でホール全体を圧倒した。出だしから聴衆を貫く真っすぐで伸びやかな音。甲高く放たれるファンファーレ。仄かに寂寥感を抱かせるビブラート。全てを完璧に吹きこなし、麗奈は楽器を下ろす。

「ありがとうございました」

 堂々と一礼する麗奈の所作は完璧に整っていた。まるで全てが予定調和で出来ているみたいだ、と久美子は思った。

「それでは次に、東中さん。お願いします」

「はいっ」

 滝に返事をして一歩前に出る幸恵の足は、明らかに竦んでいた。これほどの演奏の後に自分が吹かされる、そのプレッシャーは計り知れない。幸恵はゆっくりと長く息を吐き出し、それからゆっくりと楽器を構えた。微かに呼吸を整える音がベルから漏れ聞こえる。一度目を閉じ、次に開いてから、幸恵は自分の音を奏で始めた。

 久美子は彼女の音に神経を集中させる。決して幸恵の演奏は下手ではない、どころか、この数週間で格段の上達ぶりを見せていた。高い目標を見据えて練習を重ねてきたからだろうか。その音は実に研ぎ澄まされていたし、音程もきちんと担保されている。音の鳴りも充分で、一般に言うところの『上手い』と評される水準には達していた。比較対象が麗奈でさえ無ければ。

「ありがとうございました」

 演奏を終えた幸恵が、ぎこちなく頭を下げる。

「それでは、採決を行います。高坂さんがソロに相応しいと思った人」

 滝に問われ、多くの生徒が一斉に手を挙げた。前方に座っている久美子にはその全容は把握できないが、恐らくは自分を含めたほぼ全員が手を挙げていることだろう。と思って隣を見ると、雫は手を挙げていなかった。結果の分かり切っている勝負にいちいち挙手をするのも面倒だったのかも知れない。それとも他に何か理由が、例えば友の勝利に一票を投じる肚積もりでもあったのか。

「はい、もう下ろして結構です」

 美知恵の数え上げを待たず、滝は部員達の手を下げさせる。そもそもこれだけ圧倒的多数が手を挙げているなら、既に結果は見えたも同然だ。

「皆さんの判断と同様、私も高坂さんの演奏は際立って優れていると感じました。一つひとつの音の精度が高く、微細な表現の違いがきちんと出来ています。東中さんの演奏も素晴らしかったですが、この点で高坂さんと大きな差が開いています。今後の練習を通じて高坂さんから多くを学んで下さい」

「はい」

 壇上の麗奈は少し頬を赤らめている。敬愛する滝に褒められたことを純粋に嬉しがっているのだろう。一方の幸恵はと言えば、勝負から解放され清々しい顔つきになっていた。ほんの少しだけ、麗奈に勝てなかったという悔しさを滲ませつつも、何かに納得したような面持ちで幸恵はホールの天井を見上げている。

 それはともかくとして、挙手の後にはこうして滝の寸評が入る。これもソロオーディションが現在の方式になってからは恒例の事であり、オーディション後も部員のモチベーションを保てるようにという滝の配慮によるものであった。逆に挙手に不審な点、例えば組織票のようなものが働いていると滝が判断した場合はこの時点で異を唱えられてしまう。勝敗を分かつものは純粋に『より良い音』。それだけなのだ。

「以上、トランペットパートのソロは高坂さんで決定です。それでは最後、ユーフォ」

「はい」

 返事をして、久美子と雫が同時に席を立った。背筋をざわざわと熱い滾りが駆け上ってゆく。心臓がどくどくと跳ね馬のように脈動している。全身に緊張の波が満ち満ちて、そのまま自分の体を破って飛び出していきそうだ。けれど頭の中は、不思議なほどに落ち着いている。いよいよだ。泣いても笑ってもここで勝負が決まる。

 壇上から降りて来る麗奈と、久美子はすれ違いざまに目が合う。その瞬間、麗奈は小声で一言だけを告げた。

「待ってるから」

 それは一体どういうことなのだろう。麗奈が待っているのは、コンクールで一緒にソロを吹く瞬間? それとも麗奈と同じ高みへ来ること? その真意は分からない。けれど今言えるのは、麗奈は自分の実力を認めてくれている。期待してくれている。それに応えるには、今というこの瞬間、自分に出来る最高の演奏をすることしかない。

『任せて』

 そう答えるつもりで久美子は頷く。麗奈はそれを見て、くしゃりと顔を綻ばせた、ように見えた。

 照明を注がれた壇上の真ん中に立つと、客席にいる部員達の顔はほとんど分からなかった。最前列付近の席に座っている麗奈や幸恵の顔だけは、なんとなく認識することが出来る。それをゆっくりと眺めている余裕までは流石に無かったけれど、その時の久美子には目の前の視界がやけに広く感じられた。緊張している筈なのにリラックスもしている。それでいて、気持ちは目の前の演奏に向けてしっかり集中している。その感覚は実に奇妙で、久美子がこれまでに体験したことの無いものだった。

「では、黄前さんからお願いします」

「はい」

 滝に返事をして、久美子はユーフォを構える。三年間ずっと一緒に過ごして来た相棒。毎日丁寧に手入れをして、磨き上げて、今日もその調子は万全だった。このオーディション中も久美子はずっとユーフォを懐に抱き、温もりを失わぬよう注意を払っていた。そのお陰か、ふっと息を通したユーフォの感触はいつも以上に自分自身と溶け合っているように思える。

 ゆっくり深く息を吸い込み、唇を震わせ、最初の音を出す。出だしのハイトーンを音を崩さぬよう、それでいて弱い音にならないよう、絶妙な加減で吹き鳴らす。ビブラートを豊かに利かせ、ベルから放たれる自分の音が会場中を包み込むことを意識しながら、久美子は自分の音を響かせる。脳内に浮かんだのは、いつか大吉山で一緒に吹いた時の麗奈の姿。二人で練習を重ねた日々。そして、コンクールの舞台で二人の音が絡み合い響き合うイメージ。それらを大事に、そっと音で包み込むように、久美子は旋律を紡ぎ上げていった。だってこのソロを吹きたいと思った一番の理由、それは、

『そこに麗奈がいてくれるから』

 最後の音を吹き切り、マウスピースから唇を離す。ホール中に残響が溶け込み、やがて静けさを取り戻したのを見届けてから、久美子は思いを込めて一礼した。

「ありがとうございました」

 演奏の手応えは十二分だった。それどころか、今までで最も良い音を奏でられたと思う。あとは雫の演奏がどうであるか。正直ミスを期待できる相手ではない。雫の演奏はいつだってパーフェクトで、それはこの大一番でも決して揺らぐことはないだろう。大丈夫、自分の持てる全てはもはや出し尽くした。後は結果を待つだけだ。自分を信じて。久美子は胸に抱いたユーフォの管を、ぎゅうっと握り締める。

「それでは芹沢さん、お願いします」

「はい」

 雫が一歩前へと進み出る。幸恵と違い、その動きに緊張や委縮の気配は無い。まるでいつも通りとでも言うようにゆっくりと楽器を構え、深く息を吸い込んだ雫は出だしのハイトーンを鳴らした。久美子の全身がビリビリと震える。何度も聴いた雫の音。優しく、時に力強く、変幻自在のその音は目まぐるしく色を変え、美しいメロディをホール中に響き渡らせていった。

 久美子は部員達の様子をそっと窺う。明るいステージからでは、暗い観客席の様子はハッキリとは判らない。それに距離もあるのでおぼろげではあるのだがしかし、部員達もまた雫のその音に圧倒されているらしいことは何となくわかった。ついさっきまで己のベストを尽くせた達成感でいっぱいだったのに、胸中は瞬く間に不安の荒波に翻弄されてしまう。大丈夫。大丈夫だ。何の根拠もないけれど、きっと大丈夫。雫の演奏が終わるまでの間、久美子は何度も何度も自分自身に、そう必死に言い聞かせ続けていた。

「ありがとうございました」

 演奏を終えた雫が淡々と頭を下げる。二人の演奏は終わった。後は部員達による裁定が下るのを待つのみだ。ばくばくと全身を駆けずり回る血流の音が、はっきり耳に届くような気さえする。プレッシャーに耐えかねて、己の視線が少しずつ下に落ちていくのを久美子は感じた。ダメだ、逃げちゃいけない。『特別』になるなら、麗奈と並びたいのなら、ちゃんと前を向くんだ。自分の演奏の、その結果を、受け止めるために。

「それでは、採決を行います」

 ぎゅうと唇を噛み締め、久美子は無理矢理に顔を上げた。

「黄前さんがソロに相応しいと思った人」

 滝のその一声で、座席に座る部員達が続々と手を挙げていく。思ったよりも多くの人が手を挙げたことに、久美子は胸をじりじりと焦がされるような気分だった。正確な数は判らないが、おおよそ半数ぐらいの部員が手を挙げているだろうか。久美子の横に立った美知恵がそれを指差しで数えていく。

「では次に、芹沢さんがソロに相応しいと思った人」

 先ほど手を挙げなかった部員達が手を挙げていく。誰が手を挙げたのか、などといちいち確認をするだけの余裕などまるで無かった。どっちだ。どっちが多い。自分か、それとも雫か。頭の中はそれだけで一杯だった。

「松本先生、お願いします」

 美知恵が滝に頷きを返し、カツカツと靴音を響かせながら舞台の前面に歩み出る。久美子は息を呑んだ。どうか、どうか勝てますように。久美子はただ無心に祈る。それが何に対してなのかは分からなかった。いつかの時と同じような、何度も味わったようなその感覚は、恐らくこれまでの人生の中で最も大きく、最も重いものだった。

「それでは結果を発表する」 

 美知恵が次に口を開くその瞬間、その口の一つ一つの動きがポラロイド写真のように、久美子の脳内へくっきりと焼き付けられていった。

「ユーフォのソロオーディション、黄前久美子、四十五票。芹沢雫、三十八票」

 久美子は我が耳を疑う。勝った? 自分が、雫に、勝ったのか? 今にも腹の底から込み上げようとする高揚感は、しかし同時に、別の正体不明な感覚によって抑制されていた。そうだ、まだ勝敗が本当に決まったわけじゃ無い。煮え切らない感情の裏で、あるいはそのお陰か、種々の情報が頭の中で整理されていく。こういうケースの場合、裁定を下すのは得票数でも学年の序列でも無い。

 弾かれたように、久美子はホール中央の滝を見た。結果を受けた滝がゆっくりと舞台へ向かって歩いてくる。

「票数では黄前さんが、七票リードですね」

 滝は喋りながら階段を上り、舞台へと登壇した。この状況での決定権をいま握っているのは、そう、顧問である滝その人だ。滝はどちらがソロに相応しいと感じているのか。最後に微笑むのは一体どちらだ? 久美子の口の中は、限界まで張り詰めた緊張のせいでカラカラに干上がっていた。

「普段ならここで私の意見と判断を話すところですが、今回は皆さんに尋ねます。先ほど黄前さんがソロに相応しいと手を挙げた皆さん、すみませんがもう一度挙手をお願いします」

 滝の眼鏡が光る。再度挙手を求める、その意図するところは何なのだろう。足の裏から立った怖気が髪の毛の先までぴりぴりと駆け抜けてゆく。雫を支持した部員らは滝の行動を訝しんでいるのか、ひそひそと小声で何かを話している。この時間があまりにも狂おしい。手を挙げた部員達の中からめぼしい人物を見つけたらしく、滝は一人の部員に向かって手を差し伸べた。

「フルート小田さん。あなたは何故、黄前さんの方がソロに相応しいと感じましたか?」

 指名を受けた小田がその場に立ち上がる。そして滝の方をまっすぐ向いて、こう述べた。

「正直、黄前さんと芹沢さん、どっちの演奏もすごく上手で迷いました。それでも黄前さんに手を挙げたのは、黄前さんの音がトランペットの高坂さんの音にぴったり合ってるって、そう感じたからです」

 え。久美子は呆気に取られた。今回ソロパートの練習を始めてからこれまで、自分の音が麗奈の音に合う、そんな感覚を久美子は一度も持ったことが無かった。考えてみれば自由曲が決まってから今日までずっと、二人だけでこのソロを合わせたことも無い。これまで自分は目の前にいた雫のことばかり考え練習に明け暮れていたが、するとつまり自分は自分でも知らぬうちに麗奈の音を意識しながら吹いていたのだろうか。そしてそれが観客である部員に、少なくとも小田には伝わったと、そういうことなのか?

「わかりました」

 滝は小田を着席させる。そして振り返り、久美子と雫の二人をそれぞれ一瞥した。

「芹沢さんの演奏は技術的に、非常に高いレベルを持っていました。多くの部員達が挙手したことからも分かる通り、黄前さんと拮抗していたと思います。この点だけを見ればどちらがソロに選ばれても不思議はなかったでしょう」

 照明の光の下、滝は一瞬だけ優しい瞳を見せた。

「ですが黄前さんの演奏はそれに加えて、後に続く高坂さんの演奏へと繋がる音の表現が出来ていました。私が聴く限り、黄前さんと芹沢さん、二人の演奏で最も大きな差異となっていたのはこの部分です。それを感じ取った人も黄前さんに手を挙げたのだと、私は思います」

 そして滝が振り返り、今度は部員達に向かって頷く。

「私は黄前さんがソロに相応しいと判断します。この判断に異論のある人は、この場で挙手をお願いします」

 そこで手を挙げる部員は、誰一人としていなかった。この瞬間、ソロオーディションの勝敗は決した。

「それでは、ユーフォのソロは黄前さんで決定です」

 瞬間、心の中にあった抑制が次第に薄まり、それと同時に今度こそ、強烈な高揚感がじわじわと頭の中に沁み出してくるのがわかった。やった。やった。私、ソロに選ばれたんだ。コンクールの舞台で、ソロを、吹けるんだ。麗奈と、麗奈と一緒に! 会心の思いに久美子は拳を握り締める。一刻も早くこの喜びを、下で待つ麗奈と、仲間達と分かち合いたい。そう思いながら隣に立つ雫の顔を覗き見た途端、それまでの喜びなど一瞬で吹き飛ばされてしまうほどの衝撃に、久美子は胸をぐさりと貫かれた。

 いつも冷静沈着な雫。何を言われても表情一つ変えない雫。ついさっきだって素晴らしい演奏をやり遂げたにも関わらず、何事も無かったような振る舞いを見せていた雫。そんな雫が、あの雫が、その整った顔を思い切り歪めていた。小さく細い肩は小刻みに震え、目から溢れ出したものが彼女の足元にぽたぽたと落ち、檜の床に黒い染みをいくつも作り出す。自分の内なる感情を必死に押し殺すように、雫はそこに立ち尽くしたまま、声も無く嗚咽していた。

 初めて感情を露わにした雫の姿を目の当たりにして、久美子は言葉を失った。いま雫に話し掛けるべきではない。慰めだろうが労いだろうが、話し掛ければとんでもないことになってしまう。己の本能がそんなふうに、警告を発していた。

 

 その後、雫は幸恵によってホールの外へと連れ出され、しばらくしてから二人で戻って来た。ホールでの合奏練習は滞りなく進められ、その時にはもう雫はいつも通りの雫に戻っていて、奏でる音もいつも通り美しく乱れの無い音だった。それでも結局その日の練習が終わるまで、久美子は雫と会話をすることは無かった。

「びっくりしたよねー。あの芹沢さんが、まさか泣くなんてさ」

 ホール練習の帰り道、葉月が大きく唸りを上げる。

「オーディションで負けちゃったのが、よっぽど悔しかったのかな」

「かも知れません。雫ちゃん、中学時代はオーディションで負け無しでしたから」

 傍らを一緒に歩く緑輝もまた葉月に同調している。久美子は麗奈と共に少し後ろをとぼとぼと歩きながら、雫の涙の理由を考えていた。悔しい? 確かにそれはあっただろう。仮にあの状況で自分が負けていたとしたなら、やっぱり恐ろしく悔しいと感じただろうし、涙を流していたと思う。あるいは自分が負けた理由を受け入れられなかった? それもあり得る。客観的な評価としても、自分と雫との間にほとんど明確な実力差など無かったことに疑いの余地は無い。それは雫だって解っていたと思う。それ故に、僅かな表現力の差で負けたということに、雫は納得し切れていないのかも知れない。

 かく言う自分だって、本当にあの演奏で雫を制することが出来たかと問われれば、正直その実感は乏しかった。オーディションでの演奏が今の自分に出来うる限りなくベストな演奏であったことは間違いないし、決定の瞬間は勝てた喜びが大きかったのでそんなことを考える余裕も無かった。けれど雫の涙を見て驚き、沸騰していた思考もその後の合奏を経て冷却された今となっては、少し違う。いくら麗奈の音に合わせた演奏が出来ていたとは言え、それが勝利の大きな要因であったとは言えないのではないか? それからずっと、何だか雲の上にでも立っているかのようなふわふわとした心境で、久美子はひどく落ち着かなかった。

「いいんじゃないの。久美子の音の方が芹沢さんより優れてるって滝先生が判断した、それが事実なんだし」

 久美子の隣を歩いていた麗奈が、前方でやいのやいのと交わされていた葉月達の問答に割って入る。

「それよりも、これからはコンクールに向けて全体の音を高めていかなくちゃいけない。私達はそれに集中しなくちゃ。違う?」

 麗奈の口調にはほんの少しだけ、その話題を早く終わらせるべき、という意図が滲んでいるように感じられた。それを葉月達も察したのか、「あ、」と口に手を当てた。

「そうだね。明日もホール練習だし、これからは集中してやってかないとね」

 葉月の言う通り、明日の練習もホールを借り切って朝から夜まで行われることになっている。府大会前のホール練習はこれが最後。ここで音の響きや感覚を十分に掴んでおかなくてはならない。貴重な時間を雑念で疎かにしてしまうような余裕は、今の北宇治には無い筈だ。久美子の個人的感情はさておくとして、気持ちの切り替えが大事という趣旨の麗奈の弁に嘘偽りは無い筈だ。

「じゃ、私達ここで。二人ともまた明日ね」

「明日も頑張りましょう、久美子ちゃん麗奈ちゃん。ではー」

 別れの挨拶と共にJR宇治駅の改札をくぐった葉月と緑輝を、久美子と麗奈は手を振って見送った。本来久美子達は途中で別れて各々の家に向かう方が早く帰り着けたのだが、電車に乗る葉月達を見送るために少しだけ遠回りした格好である。久美子達の楽器はホールに置いたままだが、麗奈だけは自宅で練習をするために、今日もトランペットケースをその手に提げていた。

「私達も帰ろうか」

 麗奈が先に駅舎の階段を降りてゆき、久美子もその後を追う。茶つぼ型のポストを横目に駅前広場を抜け、二人はそのまま真っすぐ宇治橋の方角へと歩みを進める。言葉少なに通りを歩いていくと、前方に宇治橋西詰の交差点が見えてきた。麗奈の家は宇治川を挟んで久美子の家とは対岸側にあり、今日はいつもの京阪宇治駅ではなくJR宇治駅側から来ているため、この橋のたもとで二人は別れることになる。

「それじゃ、また明日ね」

 麗奈と別れ、久美子は自宅方向への横断歩道を渡ろうとした……のだが、何故か麗奈がそれについてくる。

「あれ?」

「今日はちょっと、遠回りして帰りたい気分だから」

 どういう風の吹き回しか、と尋ねる暇も無いままに、結局二人して交差点を渡り切ってしまった。ここから久美子の家までは『あじろぎの道』と呼ばれる川沿いの散策道を抜けていくのが一番近い。普段は一人か、ごくたまに秀一と歩くこともあるこの道だが、考えてみれば麗奈と歩く機会はあまり無かった気がする。いや、ひょっとして初めてかも。この三年間、麗奈と二人で色々な景色を見たり色々なところに行ったように思っていたけれど、実は自分の家のすぐ傍に麗奈のいない光景がまだあったかも知れない、と久美子は少しばかり虚を突かれる思いがした。

「落ち着くね」

 麗奈がぽつりと漏らす。微かに昼間のお茶の匂いが残り香となって漂っているからなのか、あるいは家の近くだという安心感からなのか、確かに久美子の心も凪いでいた。木々のトンネルに覆われた細い道を抜け宇治川を左手に見ながら進んでいくと、やがて川面の光に照らされた石造りの塔が見えてくる。あの塔がある島は文字通り『塔の島』と呼ばれていて、島へ渡る朱塗りの橋まで来ると、流石に麗奈とは完全に逆方向へ歩き出すことになる。何となく、静謐な空気にも後押しされて、麗奈に訊くなら今だと久美子は直感した。

「ねえ麗奈」

「ん?」

 歩みを止めずに麗奈が応える。

「私、本当に芹沢さんの演奏に、勝てたのかな」

 尋ねながら、久美子は麗奈の挙動を窺う。ついさっき『コンクールに集中するべき』という麗奈の発言があった手前、もしこの質問に麗奈が不快感を示すようだったらすぐに撤回するつもりでいた。麗奈は質問には答えぬまま、少し先を歩いていく。件の朱塗りの橋まで来て、やはり聞かなければ良かったかと久美子が後悔し始めたところで、麗奈は唐突に立ち止まった。

「私は、久美子の演奏の方が良かったって思ってる」

 麗奈から出たのは、ただその一言。けれど久美子にとって、その一言には他のどんな言葉よりも、胸を打たれる思いだった。麗奈は音楽に関してはいつだって厳正で、その判断には久美子が見る限り間違いが無い。その麗奈が、自分を評価してくれた。それは久美子にとってこれ以上ない回答であり、何にも代えがたい勲章だった。

「ありがとう」

 ようやく本当の意味で、久美子の表情が和らぐ。麗奈もまた安堵したように笑顔を浮かべた。さらさらと淑やかな宇治川のせせらぎが、二人の間に流れる時間を満たしていく。

「全国で響かせよう。私達の音」

 そう告げる麗奈の挑戦的な瞳にあてられて、久美子は今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。私はこの高坂麗奈と一緒にソロを吹くことが出来る。その実感がひたひたと、久美子の体に注がれていく。その味はとても甘美で豊潤で、勝利の美酒を飲んだ時の気分とはこういうものなのか、と思わずにはおれなかった。もっともお酒なんて一滴も飲んだことが無いので、本当の味など想像しようもなかったのだけれど。

「うん、響かせよう。全国で」

 久美子は麗奈に歩み寄り、その右手をそっと掴む。そしてゆるりと持ち上げ、指を絡ませるようにきゅっと握った。握られた麗奈の指にも力が込められる。互いの決意を確認し合うように。ソロに選ばれたその喜びを、互いにそっと噛み締め合うように。

 そのまましばらくの間、二人は言葉もなく手を握り合っていた。夜闇に浮かぶ月からこぼれる光だけが、二人の姿をふわりと蒼く包んでいた。

 

 

「サックス、フォルティシモの音が粗いです。ただ大きな音を出すのでなく、もっと音を引き締めて下さい」

「はい」

「それからフルート、音の形がぼやけています。以前から何度も注意している点です。縦の線とアーティキュレーションを揃えて、集中を切らさないように」

「はい」

 翌日のホール練習においても、滝の指導は相変わらず厳しい。ソロオーディションが終わったからと言って浮かれている余裕は全く無く、昨日の麗奈の言葉通り、いよいよコンクール本番に向けて最大限に集中する時が来ていた。

「チューバ星田君。この箇所はいつまでに出来ますか? 今の演奏のままでは、コンクールの本番にはとても出せるものではありません」

「はい……」

「返事ではなく返答を下さい。いつまでですか?」

 強い口調で滝に責められる星田の表情は、この上ない苦悶に歪んでいた。緑輝の復調後、低音パート全体の完成度も飛躍的に伸びてきてはいるのだが、星田が引っかかっている例の部分だけは未だに解消されないままだ。星田としても個人練で必死に取り組んでいる部分ではあったし、葉月や美佳子も星田のために特別レッスンやアドバイスを行ってはいる。少しずつではあるが上達もしていた。だがどうしても滝の要求を超えるところまでは届いておらず、星田にとっては苦しい時間が続いている。しばらく待っても答えを出せない星田に見切りをつけたのか、滝は星田にこう言い放った。

「今週一杯までに吹けるようになって下さい。出来なければ、府大会ではここを吹かずにやり過ごす他はありません。星田君、いいですか?」

「……っ、はい」

 やや迷っていたものの、最終的に星田は決然と首肯した。半ばやけくそなのかも知れないが、星田にだって意地はあるだろう。是が非でも吹いてやる、という彼の思いは久美子にも良く理解できる。そしてその思いが無ければ、今までの自分という名の殻は決して打ち破れやしないのだ、ということも。

「それでは次に移ります。第三部の中間から、全員で」

 はい、と返事をして久美子はすかさず楽器を構えた。この一刻一刻が自分達の音を磨く大事な時間だ。一つずつの指示は微々たる変化しかもたらさなくても、それが積み重なっていけば音のクオリティは大きく変わる。だからこそ、一つ一つの指示にしっかりと対応してものにして行かなければならない。それを繰り返していった先に出来上がったものがコンクールでの結果に繋がるのだ。ほんのひと時だって無駄には出来ない。流れゆく音符と示される滝の要求を確実にこなしながら、久美子は自分の音に集中していった。

 

 

 かくて二週間後。早朝の部室にまだ人影はなく、しんと静まり返った空気は仄かに熱を帯び始めていた。窓から差し込む朝日が宙に舞う埃を映し出し、それを少しだけぼうっと眺めてから、久美子は楽器ケースに収まった自分のユーフォをつつっと指で撫でる。昨日、久美子の手でぴかぴかに磨き上げられたばかりの金メッキ、正しくはクリアラッカー仕上げの管体。それは今日も歪みなく、真正面にいる久美子の顔をぎらりと映し出している。ピストンオイルも注したし、チューニング管用のスライドグリスもきちんと塗った。何一つとして問題はない。全ての手入れが万全であることを確認して、久美子はケースの蓋をぱたんと閉じた。と同時に、昨日の滝との会話を思い出す。

 

 

「ちょうど良かった。実は進路の件で、黄前さんにお話ししたいことがあったんです」

 昨日の早朝、いつものように部室の鍵を取りに行った久美子に、滝は開口一番それを告げてきた。

「私、外で待ってようか?」

 話題が進路のことだったからか、麗奈が遠慮して席を外そうとするのを「いいよ」と久美子は留めた。

「黄前さん。志望先の大学ですが、もう目星はついていますか?」

「それは……」

 滝の質問に久美子は言い淀む。実はここのところ、毎日の練習と自宅での勉強を優先していて、志望先の調査についてはやや遅れ気味になっていた。本来であれば調査の時間も大切にするべきではあるのだが、コンクール直前のこの時期はさすがに練習を優先したかったし、かと言って以前のように睡眠時間を犠牲にするのは避けるべきだと久美子は結論していた。それでも一応、今の自分の条件に適う志望先を既に幾つかリストアップしてはいる。だがそこから自分の目指すプロの道へと進む事が遥か険しい道のりであると容易に予想できたが故に、本当にそこを第一志望とすべきか今ひとつ判断に悩んでいた、というのが本音であった。

 そんな久美子の様子を見て、滝も状況を把握したとばかりに喉を鳴らした。

「でしたら、まずはこの資料に目を通してみてください」

 滝は机の本立てから大判の封筒を抜き出し、久美子へと渡した。中の資料を取り出してみると、そこには大きく『千束大学 Senzoku University』と書かれたパンフレットなどがある。裏面にある所在地などの情報を見るに、どうやら関東にある私立大学のようだ。

「あれから音楽関係の教育をしている知人などに色々と話を伺いましてね。私ではどうにも進路関係の情報には疎いところがありましたから、主に黄前さんの条件に見合いそうな大学が無いかどうか、調べてもらっていたのですが」

 久美子はパンフレットの一枚目をめくってみた。そこに『教育学部総合芸術学科 音楽表現専修』という文字を見つける。

「それです」

 滝もそのパンフレットに書かれた文字を指した。

「これって、音楽の先生になるコースじゃないんですか?」

 久美子は訝しんだ。自分の希望進路は音楽教師ではなく、あくまで演奏者としての道だ。一見すれば音楽の課程であることに変わりはないものの、先頭に書かれた教育学部という一文にはどうしても引っかかる部分もある。もっとも先日の滝の話にもあったように、教育学部からでも音楽の勉強をしてプロになるという道も、必ずしも無いわけではないのだろうが。

「概ねはそうなのですが、こちらの大学が今少し面白い事になっているそうでして」

 続きをどうぞ、と滝に促されるまま、久美子はさらにパンフレットのページをめくっていく。

「こちらの音楽表現専修コースは元々は、音楽表現を研修して現場での教育に活かす、つまり私のように音楽の教師や音楽系クラブの顧問になる人材を養成する、という方向性でした。ですので当然プロを嘱望する人達の為の進路ではありません。が、しかし、このコースで学んでいた学生が昨年開かれた国内の新人音楽コンクールで上位入賞したのだそうです」

 ええっ、と久美子は驚く。これには麗奈も目を見開いていた。

「勿論そのコンクールも、入賞者はプロとしての活動に道が開ける大きなものです。大学側もこれを受けて、今年度からはさらに器楽専攻の志望者を広く募り、教育以外の様々な場面で活躍できる人材を養成する方針になったそうで。次のページを見てください」

 さらに一枚ページをめくると、そこには件の専修コースを受け持つ教授陣の写真と名前、経歴などがずらずらと記されている。その一番最後、『客員教授』の項目に目を移したとき、久美子は思わず声を上げた。

「滝先生、これって」

 驚きと興奮を隠しきれない久美子に、滝は大きく頷いてみせた。

「いかがでしょう。この方なら黄前さんの志望を叶えるにあたり、この上ない指導者たりえると私は思います。現役のユーフォ奏者であり、プロへの道にも多くの知見があるはずです」

 滝の言わんとするところがようやく久美子にも飲み込めた。確かにこの人ならば、自分の憧れに限りなく近い位置にあることは間違いない。ユーフォを始めて間もない時からずっと、それは自分にとって指標とも言うべき音だった。この人が書いた本も、出したCDも、今でも自室の本棚にいくつも並んでいる。それにその音は自分にとって『特別』の体現者と言える、あの人とも繋がる音なのだ。

「詳細な入試要綱もそちらに同封してあります。後で詳しく読んでいただきたいのですが、基本的には総合大学の教育学部ですので、音楽面でも本格的な音大ほどハードルの高い試験内容ではありません。今年から大学の方針が変わりますので志願倍率などは分かりかねますが、黄前さんの努力次第では届きうる条件が揃っているかと思います」

 信じられない。ほとんど奇跡だ。パンフレットを持つ久美子の手がわなわなと震え出した。こんなこと、願ったってそうそうあることじゃない。それに、ほとんど絶望しかなかった進路の問題にいま、一条の光が差し込んでいる。一気に大きく展望が開けようとしている。そのことだけでもう、充分過ぎるほどの僥倖である。もちろん入ってからだって学ばなければいけないことは山ほどあるだろうし、艱難辛苦の連続には違いない。それでも、夢を賭けるにはここしか無いと断言できるだけの材料が今、久美子の目の前には存在していた。

「ありがとうございます、滝先生。家に帰ってからじっくり読んで、検討してみます」

 久美子の顔はすっかり晴れやかなものになっていた。それを見た滝もまたふわりと微笑みを浮かべる。

「いえ。このくらいのことしか出来ず、申し訳ありません」

「そんなこと無いです。滝先生のおかげで何とかなるかも知れません」

「そうだといいのですが。ああそれと、もし受験に際して専門家の指導を仰ぐ必要がある場合には、いつでも私に相談して下さい。地元在住で非常に優秀な先生に何人か心当たりがありますので、紹介できるよう尽力します」

 滝の懐の深さ、そして人脈の広さには本当に頭が上がらない。久美子はもう、彼に足を向けて寝られそうに無かった。

「良かったね、久美子」

 隣に立つ麗奈もまた笑顔で久美子を祝福してくれた。ありがとう麗奈。言葉にならない感謝の気持ちを精一杯込めて、久美子は麗奈の手を両手で包むように握り締める。麗奈がすぐ傍に居てくれたからこそ、久美子は夢を諦めずにここまで来ることが出来た。麗奈という目標が居てくれたからこそ、久美子もまた『特別』を目指して走り続けられたのだ。その存在の貴さは到底、他の何かに替えて語れるものでは無い。

「不思議ですね」

 何が、と久美子は振り返る。呟いた滝は少しだけ遠い目をしていた。

「夢に向かって一生懸命に全力で挑み続ける黄前さんの姿は、妻に少し似ている気がします。……おっと、これは失言でした」

 ついうっかり洩れてしまった、とばかりに滝は慌てて口を手でふさぐ。久美子の胸はどきどきしていた。それは滝の言葉に心を動かされたから、では無い。後ろに立っていた麗奈の全身からこちらに向けて、恐ろしく真っ黒なオーラが急速に漏れ出てくるのを感じたからだ。

「クミコォ……」

「あっ、もう朝練行かなきゃ。それじゃ滝先生、またよろしくお願いしまーす」

 今の麗奈を相手にするのは得策ではない。そう悟った久美子は滝から素早く鍵を引ったくると、麗奈のオーラから逃れるようにそそくさと職員室から抜け出した。その日の練習が終わるまでずっと、久美子はくれぐれも麗奈と目を合わせることの無いよう、注意深く振る舞わなければいけなかった。

 

 

 あの後家に帰ってから、久美子は件の資料を穴が開くまで眺め回し、そして講師陣の名前も一人ずつインターネットで調べていった。その一つ一つの要素は大学側の本意気が見て取れる内容であったし、自分の条件と目的にも合致している。副科にピアノまたは声楽が課されるのは他の音大と変わらなかったが、特別推薦の条件として『全日本吹奏楽コンクールなどで過去優秀な成績を収めたことがある者』という項目があることも久美子は確認していた。そしてこの特別推薦枠では、試験の一部に免除があるということも。これを当てにしてはいけないが、現状の久美子にとって夢を実現するための手段の一つとしては極めて無視しがたい要素だ。

「後は、やるだけだよね」

 久美子の意志は一つにまとまった。今は府大会のことに集中する。他のことは全て、それが終わってから考えればいい。将来のことも、秀一とのことも、後で考える時間は幾らでもある。今やるべきことはコンクールで最高の演奏をすること。それだけだ。少し前まであんなにも悩み苦しんでいたのが嘘のように、久美子の心境はすっきりと澄み渡っていた。

 ゆっくりと立ち上がり、楽器ケースの把手を掴む。ついにこの日が来た。三年間の努力も、自分達の目標も、まずはこの最初の関門を越えられなければ話にならない。勝負の時は迫っていた。久美子は深呼吸をし、それから手元の楽譜ファイルを開く。しわくちゃになった透明のファイルに入れられた、課題曲と自由曲の楽譜。

『絶対に全国金賞!』

 何度も書き足したその字が、久美子の感情を一層昂らせた。

 

 楽器の積み込みを終え、バスに乗り込む前の最終点呼が行われる。ここからA部門出場者、すなわちコンクールメンバーはバスに乗り、サポートメンバーの面々は忘れ物がないかをチェックしてから電車で会場に向かうことになっている。サポートメンバーは本番の舞台への打楽器や譜面台の搬入作業もあるから、出番は無いけどその割には慌ただしいんだよね……と、これはサポート経験者の葉月の弁である。

「バチ全部積んだー?」

「こっちOKです。楽譜カバー大丈夫ですか?」

「さっきトラックに載せました。数も確認済みです」

 サポート組の慌ただしい声がそこかしこから漏れ聞こえる。コンクール出演者は長袖の冬服に服装を揃えているので一見して区別をつけられるが、気持ちの上ではレギュラーもサポートも皆一丸となって目指す結果に向かっていくことに変わりはない。何にせよ今は夏の真っ盛りであり、例え早朝と言えども既に高まりつつある気温のお陰で、コンクールメンバーは噴き出る汗を拭いながら点呼に応じていた。来年ぐらいからはいい加減コンクール用の衣装を作る予算でも下ろして欲しいものだ、と久美子は切に思っていた。

「すみません、お待たせしました」

 遅れて滝がやって来ると、女子部員達の間から「きゃあっ」と黄色い声が上がる。普段あれだけの毒舌に晒されて半ばうんざりしている吹部の部員でさえ、年に数度も拝むことの出来ない滝のタキシード姿には耐性が無いらしい。久美子の脇に立つ麗奈もまた、滝のその姿には何度見ても胸をきゅうっと締め付けられているようだった。

「それでは出発の前に、サポートメンバーから皆さんへ、渡したいものがあります」

 そう言うとサポートの面々は、紙袋から小さな巾着袋のようなものを取り出した。お守りらしきその表面には刺繍で『金賞祈願』としたためられている。それを見たレギュラーの一同から、わあっと歓声が上がった。

「これでもう金賞は間違いありません! 各パートごとに配っていきますので、本番はこれをポケットに入れて私達の想いも込めて演奏してくれると嬉しいです」

 早速お守りがコンクールメンバーへと配られていく。久美子達には低音パートの相楽と真帆から、直接お守りが手渡された。

「俺達の分まで頑張って来てください」

「ありがとう」

 葉月は受け取ったお守りを手で吊るし、まじまじと眺める。くるりと裏返ったその面には『葉月先輩ファイト!』という文字が記されていた。

「これ、相楽と里中ちゃんが手縫いで刺繍したの? 頑張ったねー」

「いえ。私達サポートは、これぐらいしか出来る事ないですから」

 謙遜する真帆と相楽の指にはいくつか絆創膏が貼られていた。こうしてサポートメンバーがお守りを渡すのももはや毎年の恒例行事となりつつある。受け取る側としては何度受け取ってもありがたいと思うものだし、同時に彼らの分まで最高の演奏が出来るよう努めなければ、と身の引き締まる思いだ。ここまでしてくれた彼らに無様な演奏や残念な結果を見せるわけにはいかない。

「毎日練習もしながらお守りまで作ってくれて本当にありがとう。みんな、拍手!」

 久美子が手を鳴らすと、それに合わせて他の部員達も一斉に拍手でサポートメンバーを讃えた。

「では、出発の前に」

 滝はこほんと喉を鳴らした。

「部長から皆さんへ一言、お願いします」

 滝に促され、久美子は皆の前へと立つ。コンクールの朝、出発前に部長の挨拶が入るのも北宇治の伝統的な光景の一つだ。久美子は小さく息を吐き、それから部員一同を見渡す。部長の職に就いて早九ヵ月あまり。この間いろいろな事があった。あまりの激務ぶりに辟易とすることもあったし、部員同士の衝突の仲裁に走り回りもしたし、なかなかまとまらない案を無理矢理にでもまとめなければいけない局面もあったし、部員達に激昂してしまう場面もあった。思い返せば本当に不甲斐ない部長だったな、などという思いが胸の内に去来する。

「まず、みんな今日までたくさんたくさん練習を重ねてきました。大変な事も多かったと思うけど、今日はいよいよ本番です。今までやって来た事を全部演奏に換えて思いっ切り楽しみましょう。そして関西大会への代表権を、必ず勝ち取りましょう」

「はい!」

「それと、今日までこんな私に皆ついて来てくれて本当にありがとう。今日で終わりにするつもりじゃないけど、ここまで支えてくれた事、感謝しています」

 久美子は深々と頭を下げた。ありがとう、という気持ちと共に、この素晴らしい仲間たちと最高の結果を手にしたいという願いを込めて。

「それではご唱和下さい。北宇治、ファイトぉ―!」

「おー!」

 部員全員の、やや控えめな鬨の声が響く。まだ早朝なので大声を出せば近隣の住民に迷惑が掛かってしまうためだ。こういう呼吸を体得しているのも、ある意味北宇治が場数を踏んで来た証拠と言えるだろうか。

「それじゃバスに乗って移動しましょう。会場に着いたらすぐ楽器をトラックから降ろして、音出しスペースに移動するので、はぐれないよう行動して下さい。サポートメンバーは最後のチェックをしてから、ホールで合流になります。その後の楽器の搬入作業、よろしくお願いします」

「はい!」

 久美子の号令で部員全員がそれぞれ動き始める。興奮、緊張、英気。各々が見せる十人十色の表情。彼らの脳裏には今、これから迎える本番の光景が描き出されているに違いない。どんな舞台になるのだろう。どんな演奏が出来るのだろう。久美子はこの時、コンクール本番を前に、初めてこう思った。

『本番が来るのが待ち遠しい』

 演奏が出来ることの喜び。ただ純粋にそれだけが、久美子を埋め尽くしていた。

 

 北宇治高校を出発したバスは三十分近くをかけてゆっくりと京都市内に入り、そして遂にコンクール府大会の会場であるコンサートホールへとやって来た。サポートの部員達がそこへ合流すると、早速トラックから楽器を積み下ろす作業が始まる。久美子もまた、トラックの荷台に立って陣頭指揮を振るう秀一から自分の楽器ケースを手渡された。

「ほら」

「うん」

 久美子の腕にずしりと重みが加えられる。いよいよ本番だ。早く、早く吹きたい。多くの聴衆の前で演奏がしたい。バスに乗っている間中もずっと、久美子の心を占めていたのはその思いだった。その時ちょうど、コンバスのソフトケースを抱える緑輝と目が合う。

「緑ちゃん」

 久美子は緑輝に駆け寄り声を掛けた。

「調子はどう?」

「はい、お陰様でばっちりです! ジョージくんもきっといい音を奏でてくれると思います」

 緑輝は溌剌とした笑顔を浮かべ、抱え込んでいたソフトケースの表面を指でなぞった。この分なら緑輝はもう心配ないだろう。現にこの二週間、緑輝の演奏は以前と変わらず完璧の一言に尽きるものであった。

「ね、緑ちゃん」

「はい?」

「今は『私の演奏を見よ!』って気持ちになれてる?」

 そう問い掛けると、緑輝はさも当然と言うがごとく拳をぐっと握り締めてみせる。

「はい! 新生・緑の演奏を、今日はホール中のお客さんにばっちり聴かせます!」

 この強気。めらめらと燃える瞳。やっぱりこれだ。緑輝はこうでなくてはならない。

「久美子ちゃんはどうです?」

「ん、」

 逆に問われた久美子もまた、緑輝に熱い視線で返す。

「実は私も、今日はちょっと思ってる。『私達の演奏を見よ!』って」

 そうして二人顔を見合わせ、ふふっと笑みをこぼした。

「あっ、先輩!」

 その時、部員の一人が大きな声を上げた。何事かと思って声の方を振り返ってみると、声の出どころはトランペットパートの三年生・吉沢のようだ。そして彼女の視線の、その先には。

「みんな、久しぶり。調子はどう?」

「元気だった?」

 その姿をちらと見るなり、久美子は思わず駆け出していた。麗奈も同じことを思ったらしく、丁度二人が鉢合わせしたところで声の主達の元へ辿り着く。

「晴香先輩、香織先輩、来て下さったんですか」

 そこに居たのは、久美子達も良く知る北宇治のOB達。二年前の元部長・小笠原晴香。そしてもう一人、かつて麗奈とトランペットソロの座を賭けて争った相手、中世古香織だ。ありがとうございます、と久美子が言うと、二人は照れくさそうに互いに顔を見合わせた。

「香織がどうしても行きたいって言うからさ。まあ私も元部長として、皆を応援したかったし」

 晴香は謙遜するように肩をすくめる。彼女は髪型も佇まいも、二年前のそれとほとんど変わっていなかった。どこか朴訥とした雰囲気を感じさせるところがまた晴香らしいとも言える。

 一方の香織は、高校の頃より少し髪を伸ばしていて、ぎりぎり肩には届かない程度のセミロングヘアとなっていた。在学中から既にマドンナと呼ばれていた彼女の容姿は、それから二年経ってさらに妖艶さを増しているようにも見える。聞くまでもなく大学でもきっと、彼女のマドンナ的な立ち位置は変わっていないことだろう。

「黄前さんの様子を見ようと思ってね」

「私の、ですか?」

 あすかや夏紀ならばともかく、直属の先輩でも無かった香織がどうして自分のことを気に掛けるというのだろう? 香織の意外な発言に、久美子は思わず眉を寄せてしまった。

「ごめん久美子、香織先輩に話したの、私」

「ああ、」

 申し訳無さそうに謝る麗奈を見て久美子も察する。終業式の日、久美子が激昂し早退してしまった例の事件。きっとあの日に麗奈は香織に連絡を取ったに違いない。あの時の久美子の状況は、二年前に香織が置かれていた状況とも通じるものがあった。麗奈は自分では答えの出せない何かを求めて香織に相談し、そして香織は久美子のことを気に掛けこうして本番当日に様子を見に来てくれたと、そういう事なのだろう。

「ありがとうございます香織先輩。それとすみません、心配かけてしまって」

「気にしないで。それに、もう大丈夫そうでホッとした」

 香織はにっこりと微笑む。やっぱりこの人には敵わない。自分など勝敗が決する前でさえ、あれほどまでに打ちのめされたというのに。香織は熱望したソロが吹けないという残酷な結果も潔く受け入れて、卒業のその日までいつでも優しく後輩達に振る舞っていたのだ。彼女からソロの座を奪い取った麗奈にさえも。その度量、いや心境を思うと、今すぐ香織の前にひれ伏したい気持ちにすらなってしまう。

「北宇治の部長やるのって本当しんどいもんね。私の時はあすかっていう化け物がいたから、もう本当泣きたくなるくらいしんどかったけど」

 昔のことを思い出したのか、晴香が頬杖をついて吐息を漏らした。

「本当ですよね。なってみて解りましたけど、部長ってホントにしんどいです」

 久美子も包み隠さず本音を吐露する。きっとこんな事が言えるのは、そしてそれを理解してもらえるのは、後にも先にも晴香だけだろう。晴香もまた苦笑に唇の端を歪めたが、すぐに表情を元に戻した。

「それで、今年はどう?」

「はい、もう全員ばっちり仕上がってます。あとは本番で最高の演奏をするだけです」

 自信たっぷりに久美子は宣言した。この二週間、それこそ血の滲むような追い込みをした甲斐もあって、演奏の完成度は飛躍的に高まっている。自分自身、去年と比較しても決して引けを取っていないと認識していた。後はそれを十全に、本番の舞台で発揮するだけだ。

「かおりせんぱ~~~~い」

 その時、向こうの通りから黄色い歓声が聞こえてきた。こんな場違いな声でその名を呼ぶ人物は、久美子の知る限り一人しかいない。

「ヤバいヤバいヤバいヤバい。今日の香織先輩もマジエンジェル!」

 群衆を掻き分け猪のように突撃してきたのは、やっぱりというか何というか、平常運転の吉川優子だ。

「優子ちゃんも来たんだ」

 晴香が気圧されたように体を仰け反らせる。当の優子はというと、他の人になんて構ってられないとばかりに香織へぴったり張り付いていた。確か彼女は香織の後を追って同じ大学に入ったはずなのだが、ひょっとして大学でも毎日この調子なのだろうか? だとすれば何となく、ほんの少しだけ香織が哀れなような、そんな気持ちが久美子の中に沸き上がる。

「ちょっと、勝手に先走るな!」

 人いきれの隙間から這い出るように、今度は中川夏紀が姿を現した。突っ走る優子を全速力で追い掛けてきたのか、夏紀はぜいぜいと荒く息を切らしていた。

「夏紀先輩」

 久美子が近寄ると、夏紀は息をつきながら手を挙げてそれに応える。そして一瞬、何かを思い出したように動きを止めた。

「ごめん久美子ちゃん、あの後、あすか先輩に連絡しようと思ったんだけど、私――」

 夏紀が何を言おうとしたのかは、彼女が喋り出す前に判っていた。だからその言葉を遮って、久美子は彼女に報告をする。

「私、あすか先輩とお話、できました」

 それを聞いた夏紀の目と口は大きく開かれた。ぱくぱくと上下する唇は言葉をうまく紡ぐことが出来ず、一度大きな嘆息を漏らしてから、夏紀が改めて問うてくる。

「本当?」

「はい、電話でですけど。あすか先輩、元気そうでした」

 久美子の報告に、夏紀はまだ息を荒く吐きながらもゆっくりと天を仰いだ。そしてひと度、大きく息を吸ってからその息をたっぷりと吐き出す。全身の筋肉が弛緩したように少しの間俯いた彼女は、

「そっか、良かった」

 と、安堵の笑顔を向けた。その笑顔の隙間に見える、ほんの少しの寂寥感。きっと夏紀もあすかと話したかったに違いない。もしかしたら久美子に対して一抹の嫉妬心みたいなものもあるかも知れない。けれど夏紀はそんなことはおくびにも出さなかった。やっぱり夏紀先輩は強い人だ、と改めて久美子は思う。彼女や香織のみならず、今目の前にいる先輩達の一人ひとりがあまりにも偉大な存在のように映った。果たして自分は後輩達に、そのような目で見てもらえるほどの先輩となれるものなのだろうか。

「夏紀ぃ、いたー?」

「こっちだよ希美、みぞれ」

 夏紀が手を挙げて応えた先を久美子も見やる。そこから手を振りながらこちらへ近づいて来たのは傘木希美、それと鎧塚みぞれだった。この二人は吹奏楽のために大阪の大学へ進学していたのだが、母校の、いや久美子達の本番を応援しにわざわざ京都まで来てくれたのだろう。「久しぶり」と朗らかな笑顔を覗かせる希美に対し、みぞれはほとんど表情を変えずにいた。

「もう、先月あたりから優子がうるさくってさー。『コンクールは皆で応援しに行くよ』って張り切っちゃって。ホントは向こうでサークルの練習もあったんだけど、無理言って休み貰ってきちゃった」

「ありがとうございます、希美先輩」

「いいよいいよ。こんなこと言ってるけど実際、私もみんなの演奏楽しみにしてたし。今日の本番がんばってね」

 希美は白い歯を覗かせ、ゆるく結んだ拳を突き出す。久美子もそれに応え、握り拳でコツンと返した。

「頑張って」

 隣にいたみぞれも同じように小さな手を握りちょこんと構える。拳というよりもそれは、猫の手の真似をしているようでもあった。

「来てくれてありがとうございます、鎧塚先輩。嬉しいです」

 みぞれの拳にもコツンと返すと、みぞれは少しだけ気恥ずかしそうに俯いた。この二人もまた相変わらずのようだったが、さてしかし、と久美子は思う。

 今は希美と同じ大学にいるし、少なくとも高校の時のようなトラブルは起こっていなさそうだ。いざとなれば優子とも連絡を取り合えるだろうし、その点で今のみぞれはとても安定していると言える。もしかしたら大学で新しい友達も出来ているかも知れない。この二年あまりでみぞれが精神的にもだいぶ成長したのは久美子も認めるところではある。それでも未だこれだけ希美を心の支えにしている彼女が大学を卒業する時、つまり希美と離れざるを得ない時、みぞれは一体どうなってしまうのだろうか。その事を思うと胸にちくりと棘が刺さった。

「ところで後藤先輩と梨子先輩からは、連絡ありました?」

「ああ、あの二人ね」

 葉月の質問に、夏紀はやや気の毒そうな視線を返す。

「それなんだけど、後藤がどうしてもバイトの休み取れなくって、府大会は来れないってさ。梨子もおんなじみたい。その代わり関西大会の時なら行けるから『絶対に金賞取って関西まで行って欲しい』だって」

 そうなんですか、葉月と美佳子がしばしの間しょげ返る。でも、と、すぐさま葉月は顔を上げた。

「逆に考えたらさ、是が非でも関西進出して、次こそ二人に演奏聴いて貰わなくちゃって、そういうことだよね」

「ですね」

「おっし美佳! 今日からもう後藤先輩達に聴かせるつもりで、チューバは百二十パーセント全力で吹くよ!」

「はい! 任せて下さい、葉月先輩!」

 またしてもこの二人はスポ根世界に突入してしまった。真夏の熱気のせいもあるが、厚手の長袖を着込んだ今この状況下だと、二人には申し訳ないが暑苦しいことこの上ない。頬をだらりと滑っていく汗を久美子は制服の袖でぐいと拭う。

「みぞれ先輩~~」

 その時みぞれの元へと飛び込んできたのは、みぞれの直属の後輩であった依琉だ。みぞれが三年生の時に一年生として入部した依琉はみぞれの薫陶を受けてめきめきと頭角を現し、今や北宇治に無くてはならない敏腕オーボエ奏者となっている。そんな依琉にとってみぞれは偉大な師匠であり、今でも頼れる先輩として心の中で大きなウェイトを占めている事だろう。息を弾ませながら、依琉はみぞれと向かい合う。

「先輩、私今日がんばりますから、最後まで見守っててください」

 不安と緊張を無理矢理押し殺したような迫真ぶりの依琉に、みぞれはごく僅かに口角を持ち上げて頷いた。あの表情の変化を読み取れるのは、おそらく現役生の中では久美子と依琉だけであろう。他の者にはみぞれの所作は、いつもの無表情で機械のように首を動かしたとしか思えなかったに違いない。みぞれにとっても依琉は直属の後輩であり、己が持つオーボエ奏者としての技術と知見を惜しみなく注いだ存在でもある。彼女が多少ながら心を開くことの出来る数少ない存在の中に、依琉も加わっていることは間違いないみたいだった。

 こうして部員達とOB達は、ほんの僅かなひと時を談笑や激励のやり取りで過ごした。だが今は本番前、あまりゆっくりもしていられない。久美子はポケットに仕舞ってあった腕時計をちらりと確認する。

「そろそろ時間です。皆、移動して下さい」

「はい」

 もう間もなく音出しスペースに移動をして最後の音出し、その後はチューニング室に入って最終確認となる。音出しスペースから先は出演者以外立ち入り禁止となっているので、一般入場である香織らOBとはここで一旦別れることとなる。

「それじゃ夏紀先輩、行ってきます」

「うん。いい演奏、期待してるよ」

 夏紀から差し出された拳に、久美子は自らの拳を重ねることで応えた。希美達とも交わしたそれは、夏紀から自分に受け継がれ皆へと広まった激励と宣誓の儀式。せっかくこうして先輩達が自分達のために応援に来てくれたからには最高の演奏を聴いてもらいたい。そして努力の成果を見届けて欲しい。そんな思いを込めてコツンと拳同士を鳴らし合ったあと、夏紀達に見送られた久美子は部員達を引き連れて会場内を移動する。

 音出しスペースでは北宇治以外にも、これから出番を迎えるいくつかの団体が音出しを開始していた。久美子はまず楽器を構えロングトーンを開始する。今日最初の音はいつもと変わらず伸びやかで、タンギングやスケールの調子も特に問題は無い。これならいい演奏が出来そうだ。

 その後も音出しを続けながら、久美子は隣でユーフォを吹いている雫をちらりと見やる。ソロオーディションのあの日から一貫して、雫はあの日の涙が嘘だったかのようにまた鉄の仮面を被って振る舞っていた。演奏に関しても全く申し分無く、盤石と呼ぶに相応しいほどの安定ぶりだった。

 ただほんの少しの相違点として、あるいは久美子がそう感じているだけかも知れないが、雫が時折自分に向けていたあの獲物を狙うような気配はこのところ無くなったような気がする。加えて日頃の練習でもどこか覇気がなく所在無さげにしているように、久美子の目には映っていた。正面切って先輩にソロ対決を申し込んだ挙句敗れてしまった、その事に肩身の狭さでも感じているのだろうか。とは言っても別に、久美子や他の低音パートの面々も雫の事を邪険に扱ったりなどはしていない。相楽や美佳子もその他の一年組も、むしろ雫が居心地の悪さを覚えないようにと気を回して彼女に接していたぐらいだ。

 それに、同じ立場であるところの幸恵はそんな素振りなど全く無いどころか、むしろ前にも増して麗奈に懐いている様子ですらある。いやいや、デリカシーに乏しそうな幸恵と違って雫はとっても繊細なのだろう。例え周りの誰かがそんな風に言わないとしても、雫自身が肩身の狭いをしているという事もあり得るに違いない。だから遠慮がちになっている、という訳でも無い感じはするのだが。それともひょっとして他に何か、彼女なりの懸念や心痛でもあるのだろうか?

『もしかして雫のこと、敵みたいに思ってたりする?』

 いつかの幸恵の言葉が久美子の胸に引っ掛かる。少なくともソロオーディションのその時まで、久美子にとっての雫とは打ち倒すべき敵であり、目の前に立ちはだかる最大の障壁だった。この子を、この演奏を越えなければ、自分の夢を叶えることは出来ない。そういう存在だった。しかして今、ソロオーディションの勝敗も決し、改めて同じ目標に突き進む仲間として雫を見た今、久美子の内にそういった敵愾心のようなものはすっかり無くなっていた。その曇りなき視線で改めて雫を見た時、果たして雫とは一体どんな人物なのだろう、普段どんなことを考えているのだろう、といった疑問がふつふつと湧き上がりつつある。敵じゃないとすれば、そうなのであれば、雫は自分にとってどんな存在なのだろうか。反対に、雫にとって自分はどんな存在として思われているのだろうか。そこがほんの少しだけ気掛かりだった。

「はっはっは、北宇治の諸君お久しぶり。息災だったかね?」

 音出しの時間もあと少しというところで、突然に響く妙に馴れ馴れしい、しかし聞き覚えのある声。一同は声の持ち主へと視線を注ぐ。そこに居たのは水色の制服を着た女子。立華高校のフルート担当、西(さい)(じょう)()(のん)だった。

「ちょっと花音、さっさと先行かないでよ」

 遅れてやって来たのはその双子の妹、オーボエ担当の西(さい)(じょう)()(おん)。もはや立華高校の名物姉妹として有名なこの二人とは様々な演奏会で交流を持っていたために、北宇治の面々とも浅からぬ面識があった。

「だって北宇治がいるのが見えたんだもん」

「あ、ホントだ。皆久しぶりー。ってそうじゃないでしょ」

「えー。何がー?」

「コンクール本番前なんだから、もうちょい落ち着けって言ってるの」

「べっつに、今更って感じじゃなーい? バタバタしたって結果が変わるわけでもなし」

「あのね、私達もう三年生なんだよ? 後輩も居るんだし締めるとこ締めてかないとじゃん」

「あーはいはい分かった分かった分かりました~。ねー聞いてよ黄前ちゃん、最近美音が小姑みたいにうるさ~い」

「何よ小姑って。聞いてよ黄前ちゃん、最近花音が私の言う事聞かな~い」

 こうして二人揃うと始終かしましいのもいつもの事だ。と言っても、この二人が有名なのはお喋りだからというだけでは決して無い。演奏やマーチングでのパフォーマンス、それらの技術が二人揃って並外れた腕前だからこそである。現に姉の花音は一年の時から、妹の美音も昨年から、競争の激しい立華で他を押しのけコンクールメンバーに選ばれるほどの実力者だ。日頃は賑やかに馴れ合う間柄でも、コンクールのような大舞台では強力なライバルへと変貌する。その最たる例がこの西条姉妹なのである。

「立華も音出しに来たんだ」

「うん。出番も近いからねー」

「もうすぐ梓達も来ると思うよ。っと、噂をすればなんとやら」

 花音と美音が振り返ると、そこには名瀬(なせ)あみかの姿があった。彼女のその手にはトロンボーンが握られている。昨年まではコンクールメンバーには参加していなかったが、どうやら今年はその座を射止めることに成功したらしい。ふわふわと長い癖毛は相変わらずで、その体格とも相まって彼女の愛くるしさをより一層際立たせている。

「緑ちゃん、皆も、お久しぶり」

 あみかは大きく円らな瞳をぱちんと閉じて、砕けた笑顔を作ってみせた。この人懐こい笑顔は彼女の最大の魅力であり、恐らくは持って生まれたその愛くるしさを、久美子はほんの少し羨ましくも思っていた。

「今年は私、約束通りコンクールのレギュラーになれたよ」

「わあ、凄いですあみかちゃん。きっと沢山頑張ったんですね」

 緑輝もまたふわりと笑顔を浮かべてあみかを祝福した。あみかと緑輝は以前から仲が良い。お互いマーチングではカラーガードを担当しているため触れ合う機会が多いとか、学年も同じで身長体格も近いとか、色々理由はあるのだろう。けれど何より、二人の持っている雰囲気が極めて似通っているからだ、と久美子は密かに思っていた。実際こうして二人並んできゃいきゃい言ってるのを傍から見ていると、まるで仲良しの姉妹みたいですらある。

「梓ちゃん、北宇治の皆も揃ってるよー」

 声を張ったあみかが手を振る。その先には整然と列を成して歩いてくる立華の本陣があった。先頭を切って歩くは立華の部長、梓だ。少し後ろには()(がわ)()()(まと)()()(いち)といった、お馴染みの面々も揃っている。

「梓ちゃん」

「久美子」

 久美子は自分から梓の元へと駆け寄る。梓もまたこちらに気付くと、列から離れ久美子に近づいてきた。

「どう、立華の調子は?」

「超ばっちり。今年は去年より完成度高いと思うよ。北宇治は?」

「こっちも万全。みんな今年の立華は油断出来ないってかなりライバル視してたから、そのお陰もあるかな」

「そうなんだ。全国二年連続出場の北宇治にもコンクールでマークされるって、何だか畏れ多いね」

 にんまりと、梓が白い歯を覗かせる。謙遜。その笑顔の意味を久美子はそう受け取った。現実に梓だけではなく、背後に控える立華のメンバーからもこれまでに無いほどの覇気が漲っている。『立華と言えばマーチング』という今までの定評を覆し、コンクールでも立華の名を全国に轟かせる。かつて久美子に豪語した梓の目標が決して口ばかりのものではなかったと言えるだけの手応えが、きっと今の彼らにはあるに違いない。

「今年は北宇治の諸君にガツンとかましてやる予定だから、覚悟しといてね」

「あ、ずるい花音。それ私が先に言おうと思ってたのにー」

 花音の挑発めいた発言に美音も乗っかる。

「こういうのは先に言ったもの勝ちなんですー」

「いつ誰がそんなの決めたのよ。私だって北宇治には負けたくないんですけどー」

「はいはい。それじゃあここは立華部長として、私が皆の声を代表するってことで」

 双子のやり取りに梓までもが加わって来た。半分はおふざけだろうが、もう半分は本気の宣戦布告だろう。何より彼女達の全身から放たれる鋭気がそれを雄弁に物語っていた。刃物の切っ先を向けられた時のような危なさを感知した久美子の首筋が、さっきからびりびりとざわついている。

「あ、太一。ネクタイ曲がってる。直すから動かないで」

「おお、悪い」

 そんな梓達の後ろでは場の空気もお構いなしに、志保が太一のネクタイをせっせと直してあげていた。彼女の世話焼き女房ぶりも、果たして相変わらずのようだ。

「お二人さん、やっぱ仲良いねえ」

 葉月がニヤニヤしながら声を掛けると、途端に志保は耳まで真っ赤になって俯いてしまう。「変な事言うなよ!」などと太一は慌てふためいているが、実のところこの二人はどういう関係になっているのだろう。

「もうさ、この二人ったらいっつもこんな調子なんだもん。いい加減やきもきするよねえ」

 梓がじれったそうな目線を太一たちに向ける。もし付き合ってるのならいっそ堂々と交際宣言でもしてしまえばいいのに。と思い掛けたがしかし、そんな事を今の自分が言えた義理ではないことに久美子は気が付く。下手に蜂の巣をつつけばこっちが刺される結果となりかねない。そう考えた久美子は曖昧に愛想笑いを浮かべ、これ以上この話題に立ち入らないことにした。

「じゃあ私達も、そろそろ音出し始めるから。北宇治はもうすぐ本番でしょ?」

「だね」

「頑張ろうね本番。そんで一緒に関西に、全国に行こう」

「うん。行こう」

 梓の瞳がぎらぎらと、溢れんばかりの闘志に揺れている。彼女の瞳を正面に捉え、久美子は大きく頷いた。北宇治と立華、どちらにとっても全国出場を目標とするならば、府大会や関西大会は是が非でも勝ち上がらなければならない。例え全国出場の切符を手に出来るのがどちらか一校だけであったとしても。その結果、もう片方を蹴落とすことになるとしても。久美子は既に心の中で誓っていた。

 私達は行く。全国に、必ず。

 

 最後のチューニングを終え、北宇治の一同は舞台裏へと移動をする。前の出番の団体が演奏しているのを真っ暗な舞台袖で聞いているこの時間は、いつだって緊張のピークだ。破裂しそうになる胸を押さえ、久美子は目を閉じて大きく息を吸い込み、そしてゆるゆると限界まで吐き切った。本番前に集中を高める久美子独自のルーティーン。これを行うことでざわついた思考が一瞬で止み、凝り固まった全身が程良く弛緩してゆく。

 落ち着きを取り戻した久美子は周囲の様子を伺う。待機している部員達の何人かは不安そうな表情を浮かべ、あるいは良い演奏が出来ますようにと天を仰いで祈っている。大丈夫。私達ならきっと、最高の演奏が出来る。久美子は心の中で、一人一人に励ましの声を掛けていった。誰にも聞こえなくてもいい。いざ本番の舞台に上がれば、自分達に出来ることはたったの一つだけ。今まで練習して来た事の全てを音に替えて聴衆へ届ける、それ以外には無いのだから。

「いよいよだね」

 ふと小声がして隣を見やると、そこには麗奈がいた。凛と張り詰めた空気を身に纏う麗奈の姿はいつ見ても勇ましく、美しい。戦の女神というものがこの世に体現したら、それはきっとこんな姿をしているのではないか、と久美子は思う。

 『特別』の具現。概念を顕在化するもの。自分もこうなりたい、と久美子はずっと麗奈の背中を追い掛け続けてきた。その麗奈と今日、この大舞台で、初めて肩を並べ共に音を奏でる。今までのように多くの音に混じって合奏をする、という意味ではない。このコンサートホールに自分と麗奈の音だけが響くその瞬間、二人は確かに、たった二人きりの対等な存在として音を鳴らし合うのだ。改めてそう考えると、頭の中にびりびりと痺れる何かが溢れ出るのを感じる。

「緊張してる?」

 麗奈が少し腰を傾け、上目遣いにこちらの顔を覗き見る。うん、と久美子は素直に頷いてから、

「でも大丈夫。麗奈がいるから」

 と微笑んでみせた。この緊張も、不安も、『高坂麗奈』という存在が傍に居てくれるだけで、全ては喜びに塗り替えることが出来る。麗奈と一緒に吹きたいと、二人の音を奏でたいと願った思いを、最高の場所で、最高の形で実現できるのだ。これに勝る喜びなどあろう筈も無く、そしてそれを塗り潰せる恐怖もまた、ある筈が無かった。

「それなら良かった」

 麗奈もまた久美子にはにかみを返す。なんて綺麗な時間なんだろう。いま舞台の上で演奏をしている団体の音も、周囲に居るはずの部員達の存在も、もはや久美子の意識には入り込んでは来なかった。目の前にいるのは麗奈。聞こえるのは麗奈の声。ただそれだけ。このまま時を止めてしまいたい。そして何度も何度も繰り返しこの時を再生して、いつまででも儚く優雅なこのひと時に耽溺していたい。突如としてそんな衝動が体の奥底から沸き起こる。

 けれど、それじゃダメだ。私達の求めるものはこの尊い時間よりも先にある。たった十二分間の舞台の上に立って。私達の音を奏でて。全国に勝ち進んで、金賞を取る。今年こそ必ず。そのために今、私達はここにいるんだ。

「ねえ麗奈」

 久美子は握り拳を作り、胸の前に構える。

「最高の演奏、しようね」

 その拳を見つめて麗奈は一瞬動きを止めたが、やがて視線を久美子の瞳へと移し、

「当然でしょ」

 コツン、と自らの拳を重ね合わせた。ひんやりとした舞台袖の空気の中で、麗奈の熱が自分の手に宿るのを、久美子はそのとき確かに感じ取っていた。

 

「続きまして、プログラム二十六番。京都府立北宇治高等学校。課題曲、Ⅱ。自由曲、F・D・ヴァッリアーレ作曲、『歌劇「剣闘士」』。指揮は滝昇です」

 アナウンスの声と共に、舞台の照明が一斉に久美子達を照らす。会場中からもたらされた拍手の波。その熱気。いつもより僅かに固い椅子。檜の舞台が醸す独特のにおい。微かに中空を舞う埃。拍手の後に音を潜める聴衆の動き。何度も見て来たこの光景。何度見ようとも決して飽きる事の無い光景。それは自分が高校三年生になった今、より特別なものであるように思えた。

 指揮台に立つ滝はいつもと同じように柔和な笑みを湛えていた。大丈夫だ。自分達ならやれる。きっとこの舞台で最高の演奏が出来る。滝の笑みが自分達に、そんな自信を与えてくれているような気がした。部員達をぐるりと一望した滝が滑らかに両手を構える。それを合図に全員が楽器を構え、時が来るのを待った。ふた呼吸の後、滝の手が空中に弧を描くのに合わせて、部員達は一斉に息を吸い込む。

 滝の手が真下に振り下ろされると同時に、トランペットが快活なファンファーレの音を吐き出した。それに寄り添うようにしてトロンボーンやユーフォが重なり、厚みのある音がホールを揺らす。行進曲において最も重要、と何度も滝に指摘されていた出だしのセクションは完璧に決まり、やがて木管の華やかなメロディが舞い始める。その裏でチューバは行進のリズムを刻むように、その低い音を唸らせていった。木管のメロディがもう一巡し、その裏をユーフォが副旋律で駆け巡る。久美子は自らが捉えるべき音を確かに放っていることを確認しながら、自分の担当箇所であるフレーズを優雅に軽やかに吹き切った。久美子と雫、二人の副旋律は全体の音に艶やかな華を添えてゆき、やがて場面は金管によるユニゾンへと転化していく。

 トロンボーンを主体とする力強く迫力ある音。それらは幾つものベルから同時に飛び出し反対側の壁を射抜いてゆく。高音中音ばかりが浮つくことの無いよう、三人体制のチューバも重厚な音で金管の動きを補助する。そして盛り上がりから一転、満ち潮が引くように曲調は穏やかなものとなり、今度は木管が主体となるセクションへ移行する。ここはテンポ感を間延びさせないように、と滝に何度も注意された箇所だ。ここでのユーフォの担当区分はメインのメロディだが、決して主役を張らず音量を控え、木管の柔らかい音色にそっと寄り添うよう慎重に一つ一つの音を奏でる。隣にいる雫の音も合わせて、少しの乱れも無い伸びやかなユーフォの音がメロディに溶け込んでいく。

 自分のすぐ後ろでは、秀一のトロンボーンがメロディを保持するように音を刻んでいる。フルートとグロッケンの音がひらりひらりと宙を舞う蝶のように飛び交い、そこにトランペットやシロフォン等が混ざり、穏やかな進行から少しずつ動きのある曲調へと切り替わってゆく。打楽器奏者が打ち鳴らすクラベスの音は規律的な響きをもたらし、チューバの大きな音を合図に曲は更に盛り上がった。一つ一つの箇所の細やかな音の形、ダイナミクス調整に気を付けながら、どこまでもテンポを崩さぬよう意識を集中させながら。全員が軽やかに美しく駆け抜けたところで滝の手が止まり、課題曲の演奏は終了した。

 コンクールの演奏は課題曲と自由曲に分かれるが、その合間に聴衆の拍手は無い。打楽器の奏者が素早く位置取りと準備を終え、全員の体勢が整ったのを確認して、滝は再びその腕を高く掲げた。何度も何度も練習した自由曲の入り。部員全員、そのタイミングをもう体が覚えている。

 滝が腕を振り下ろすその一拍で、低音パートを中心とした分厚い音が一斉に解き放たれホール中を席巻した。バスドラムや大銅鑼が雷鳴のように轟き、折り重なる変拍子の波に乗って木管が妖しげに音を揺らめかせていく。課題曲の爽快なマーチから一転、自由曲冒頭のおどろおどろしい曲調は、あたかも地獄の景観を思わせるかのようだ。下から這いずる重低音が聴衆の心と体を存分に揺さぶったところで曲は序章から次の場面へと移り、一転して疾走感と緊張感に包まれたものとなる。

 木管・金管ともに素早い音が連続するこの区間は『音の速度感を意識するように』と、かねてから滝に注意されてきた。短く切り詰めた音をただ荒く吹くのでなく美しい鋭さで吹くことには部員全員苦心していたが、それもここ二週間の追い込みで既にモノに出来ている。トロンボーンの奏でる大袈裟なグリッサンドから曲調はさらに緊迫感を増し、種々の音が混じり合って、舞台の上はさながら大洪水の様相を呈していた。もしほんの僅かでも瑕疵があったならがらがらと崩れ破綻してしまいそうな音の一つ一つは、奏者達が限りなく精密にコントロールし在るべき場所へと収められていた。曲の進行に合わせてダイナミクスはどんどん大きくなり、第一部の終幕と共に最大級の音量がこれでもかとホールを揺らした。

 第二部はその流れのまま、フルートとオーボエのソロから始まる。他の楽器の音が止み、小さく抑えられたフルートのか細げな音色が、暗闇に舞う小さな灯火の如くゆらゆらと漂う。そこにチューブラーベル、いわゆるチャイムの音が重なり、主旋律がオーボエのソロへと継承された。甘やかな音色が舞台上の隅々にまで広がってゆく。依琉の奏でるオーボエの音は流石と言うべきか、みぞれの薫陶を受けただけあって、極限まで磨き上げられた彫像のような美しさと情熱を完璧に表現し切っていた。

 次第に増えていく木管の音。第二部のアピールポイントである静寂と安らぎが情感豊かに広がっていく。曲の主題をホルンが滔々と吹き上げると、木管が麗しいトリルを伴ってさらに主題を盛り上げ、それに伴い曲は徐々にテンポを速めていった。第二部のピーク、金管全体によるファンファーレが鳴り響き、最後は木管の柔らかなハーモニーとウインドチャイムの流れ星を思わせる煌めきに飾られて第二部が締め括られる。

 続く第三部は激しい戦闘の幕開けを想起させる、ティンパニーの低く微かな入りから始まった。打楽器が一つずつ増えていく度に音は段々と大きくなり、再び金管の重低音が唸りを上げると同時に木管は奇怪に蠢く音を鳴らしていった。場を断ち切るようなトランペットの一閃で場面は一気に転換し、二つの軍勢がぶつかり合うように、激しい音が方々から奏でられる。

 その先に待ち構えるは金管全員による連続連符のセクション、雫がトリプルタンギングを提案した箇所だ。パート内でも何度も何度も練習し、今では葉月も美佳子もこの連符を吹きこなせるようになっている。星田は結局期限までに間に合わせることが出来ず、この箇所では楽器を構えたままで音を出さないよう命じられてしまった。彼にいつか挽回の時は来るだろうか。などと考える暇もなく、金管全員で繰り出す連符は全てジャストのタイミングで合わせられ、機械の駆動のような精密さで織り成された。

 難所を抜けても休むことなく曲は次の場面へと転じる。再び変拍子の連続で移ろう不安定なリズム。その上を木管が鮮やかに走り抜け、サックスのソロが不気味なまでに上下する難解な演奏をこなしていった。怪しい曲調を経てチューバからユーフォ、トロンボーン、ホルン、トランペット、そして木管の各パートへと、次々に引き渡されていくベルトーンのバトン。いよいよ第三部も終盤。全員でのベルトーンが完璧に重なって計算通りのディソナンスを描き、それがすうっと掻き消えたところで、ついにその時はやって来た。久美子は音を立てずに息を吸い込み、そしてユーフォニアムを力強く抱きしめる。行くんだ、出すんだ、私の音を、私達の音を!

 久美子のユーフォから暖かく美しいハイトーンが零れ出した。その音は辺りにじわりと広がり、観客席へと溶け込んでいく。一音一音に久美子は己の持つ全てを注ぎ込む。視界には、指揮をする滝の姿。その後ろで舞台の明かりに照らされる観客の顔。それらはもはや意識の外側にあった。それでも滝が刻む指揮の通りに、音は正確なテンポでもって奏でられる。豊かに響き渡ったユーフォの音色は、今まで奏でてきた音の中で最も美しく、最も自分の理想に近い音だった。

 響け。響け私の音。この音が、このホール中の人達に、それすらも飛び越えて、あすか先輩にも届くように。もっと響け! 言語にならない久美子の願いは全て音へと換えられて、ベルから解き放たれてゆく。やがて久美子の演奏を継ぐようにして麗奈のソロが始まった。長い曲の中でほんのひと時、二人の音は重なり合い混じり合い、一つの音となる。席は離れているはずなのに、まるで麗奈がすぐ隣にいてくれるみたいな、そんな錯覚。ホール全体に遍く響き渡る二人きりの音色に、久美子は存分に酔いしれた。

 ユーフォのソロパートはここで終わり、次のパートに移るまでしばし休符が続く。自分のソロは考えうる限り、最高の出来だった。けれどその喜びを噛み締めるのはまだ早い。曲はまだ終わっていないのだから。復活した伴奏と共に、麗奈のトランペットの音色が天使の羽毛のようにホールを包み込んでいく。リタルダンドを経て麗奈の音に力が籠ると共に伴奏のクレッシェンドが始まった。いよいよこの曲のクライマックス、祝典のパート。激しく忙しない音の形を、久美子は正確な形と音量で吹いていく。ああ、もうすぐ曲が終わってしまう。もっと吹いていたい。何度だってこの曲を吹きたい。麗奈と、北宇治の皆と、何度だって! そんな思いを込め総員で響かせ鳴らす大音声のフェルマータ。最後に滝が振り下ろした一拍で自由曲は鮮やかに締められ、北宇治の演奏は終了した。

 滝が手のひらを持ち上げるのに合わせ、久美子は自然と椅子から立ち上がっていた。会場の隅から隅まで溢れんばかりの大きな拍手が久美子達を囲む。はあはあ、と荒い息を吐きながら、久美子は思った。やっぱりこの舞台は最高だ。ここで終わりになんてしたくない。チャンスがある限り、何度だってこの舞台に立ちたい。その思いが胸の中で、ぐんぐん膨らんでいた。

 

 演奏を終えた団体は舞台の上手にある通路から、再び演奏者用の控室へと戻っていくことになる。暗く細い通路を歩くうち、久美子は胸に渦巻く己の感情を次第に抑えきれなくなっていた。まずい。こんなところで泣いちゃだめだ。今は堪えなくちゃ。そう思っていても、目から零れだした大粒の涙がぼろぼろ溢れ出るのを止められない。嗚咽を堪えるぐずぐずという鼻音は、とうとう目の前の葉月を振り返らせてしまった。

「わっ、久美子どうしたの」

「何でもない」

 精一杯強がってみせたものの、如何せんぐしゃぐしゃの泣き顔では説得力などまるで無い。葉月は慌てたように自分のポケットを探り始めた。ハンカチか何かを探していたのかも知れないが、中々見つからないようでしどろもどろになっている。

「どうしたんですか? 演奏、何かおかしなところありましたか?」

 緑輝も心配そうな顔で覗き込んできた。先頭を歩いていた低音パートが立ち止まったことで以後のメンバーがどん詰まり状態になってしまい、突然の大渋滞に見舞われた後方の一団からは「どうしたの」「何かあったの」と困惑の声が上がり始める。

「ごめん、ほんと、何でもないから」

 涙声を必死に抑え込みながら、久美子はまだ慌てている葉月に「とにかく行こう」と促した。まだ泣くには早かったのに、どうしても今までのことが次から次へと頭の中に浮かんできて、それを切り離すことが出来なくなってしまった。 

 今日このステージで最高の演奏が出来たのは何のお陰だったのか。重ね続けてきた努力。滝の指導。仲間達のに恵まれたこと。雫にオーディションで勝てたこと。絶望に暮れた日々。秀一の存在。どれもこれも思い入れがあり過ぎて、言葉にすることなんて出来ない。その全てが胸の中で急速に化学反応を起こし、そしてとうとう爆発してしまったのだ。

 涙に濡れる目頭を一生懸命ごしごし拭いながら、久美子は葉月達の後ろ姿に引っ張られるようにして通路を歩く。そうだ、まだ結果は出ていない。例え自分達がどんなに素晴らしい演奏をしたとしても、他校がそれよりも優れた演奏をすれば北宇治が落ち、次の大会には進めないかも知れない。それがコンクールだ。全てをやり切った後は、結果を見届けなければいけない。私達が関西大会に行く、その結果を。

 ようやく涙を拭き終えた久美子はそこで、雫がこちらを見ていることに気が付いた。相変わらずの無表情ながら、その瞳は自分に何かを訴えたがっているようにも見えた。しかし雫が言葉を発することは無く、久美子もまたその事を特に疑問に思わぬまま、北宇治の部員達は控室へと戻って行った。

 

 楽器をケースに収め、それらをトラックへと積み込んだ後、久美子は真っ先にホールへと向かった。立華の演奏順は自分達より三つ後。北宇治の出番終了から控室への移動、楽器積み込みまでに要した時間を考えれば、そろそろ出番の時を迎える頃合いである。本来なら部長として部員達に連絡事項などを伝える役目も久美子にはあったのだが、今回は秀一がその代役を引き受けてくれた。

『ここは俺がやっておくから、お前は立華の演奏を聴きに行って来いよ』

 そう言ってくれた秀一の横顔はいつにも増して精悍で、自分の胸のときめきを抑えるのにはだいぶ苦労させられた。

 コンクールでは演奏中、聴衆がホールへの出入りをすることは原則として禁止されている。次にホールの扉が開けられた時、ちょうど立華の一つ前の団体が演奏を終えたところだった。どこか座れる席は空いてないか、と久美子がきょろきょろしながら通路を歩いていくうち、

「久美子、こっちこっち!」

 と小声で自分を呼ぶ声が聞こえて来る。誰だと思って声の出どころを見やると、なんと葉月、緑輝、麗奈が既にそこへ座っていた。座席一つ分の空きを確保して。

「どうしてここにいるの?」

 そっと近づいて、久美子は小声で葉月に尋ねる。

「だって立華だもん、やっぱ演奏聴きたいっしょ。今年どうなってるかってね」

「連絡はどうしたの? 秀一は?」

「塚本の連絡なら三十秒ぐらいで終わった」

 久美子の疑問に麗奈があっけらかんと答える。

「ひとまず立華の演奏がもうすぐだから、皆は結果発表までホールの傍に居ろって。勝手な外出は禁止。以上、だって」

 なんともざっくりとした、清々しいまでの短さだ。さっき秀一に感じたときめきから一転、久美子は呆れ返ってしまう。とは言っても、だ。これが自分だったら律義に長々と連絡事項を語っていたかも知れず、そうなると自分のみならず北宇治の全員が立華の演奏を聞き逃してしまう可能性さえあった。ここはとりあえず秀一の粗忽さ、もとい気遣いに感謝しておくべきだろう。

「ほら、久美子ちゃんも早くこっちへ。もうすぐ始まりますよ!」

 緑輝に催促され、久美子は確保してもらった席へと滑り込む。直後、会場が再び暗転し、ホール中にアナウンスの声が響いた。

「続きまして、プログラム二十九番。私立立華高等学校。課題曲、Ⅰ。自由曲、ベルト・アッペルモント作曲、『トロンボーンのためのカラーズ』。指揮は熊田祥江です」

 

 

「凄かったね」

「うん」

 ホールから出てきた四人は一様に呆けたような顔をしていた。空調の効いたホールから解放され、むわっとした熱気が籠るロビーから覗く空には、びっくりするほど大きな入道雲が浮かんでいる。

 立華の演奏は、自分達の演奏こそ今大会最高の出来だと確信していた久美子の考えを一瞬で吹き飛ばす、爆弾低気圧みたいな素晴らしさだった。特に自由曲に関しては題名にも『トロンボーンのための』とある通り、まさに梓のためにあるような曲だ。ほぼ全編を通じてトロンボーンの高難度なソロが編み込まれたこの曲を、梓は全て完璧な演奏でやり切ってのけた。けれどそれ以上に特筆すべきは、立華の他のメンバーの演奏が恐ろしく洗練されていたことである。

 昨年までの立華の座奏を元気一杯で突き進むマーチングさながらのものだとすれば、今年の立華は冷静さや計算高さが加味され、全体としての音楽表現は数段も深みを増していた。その中でも際立って優れていたのはやはり、梓率いるトロンボーン部隊の演奏だろう。梓の水準に負けず劣らず、理想的な音色やダイナミクス、ハーモニーをあみかや志保らが難なくこなしていたのは、久美子達にとって十分に驚嘆すべき事態だ。

 なお余談ながら、『カラーズ』は本来コンクール自由曲の枠には到底収まらないほどの長尺な曲なのだが、立華のベテラン顧問である熊田先生のカットの賜物か、その構成は全く不自然さを感じさせないものとなっていた。これもまた、音楽としての完成度をさらに高める一因であった事は言うまでもない。

「この勢いで立華が関西大会に来たら、超強力なライバルになること間違いなしだね」

 そう呟く葉月の声には張りが無く、まるでどこか遠い国で起こった出来事の話をしているみたいな口ぶりだ。久美子も実のところ、立華の面々がこれほどまでに腕を上げているとは思っていなかった。噂には伝え聞いていたものの、格段に上達したという立華の演奏を実際に聴いたわけでは無かったので、多少心にゆとりを抱えていた部分が無かったと言えば嘘になる。それ故に、本番の舞台で存分に鳴らされた立華の音にはすっかり度肝を抜かれてしまった。そのあまりの凄さに、あれが立華の演奏であることも、その立華とこの府大会での代表権を争っているという事実さえも、にわかには信じがたいくらいに。

「これで北宇治と立華、二校とも関西大会に進出できたら今年こそ決戦ですね! 緑、わくわくしてきました!」

 そんな中で一人、緑輝はごうごうと気炎を吐いていた。そう言えば緑輝は元々こういうメンタリティの持ち主だった。音楽に関しての緑輝は戦闘民族か何かのように闘争本能の塊と化してしまう。それは彼女が完全に元の調子を取り戻した証とも言えるのだが、あんな演奏を聴いた後でもやる気をますます漲らせられる緑輝の胆力が、ちょっとだけ羨ましい。

「相手が立華だって勝たなくちゃ。私達は、全国で金賞を取るんだから」

 麗奈もまた決意を新たにするかのように、その瞳を静かに燃やしている。ああ、やっぱり麗奈はすごい。麗奈の中ではもう既に全国に行った後のビジョンしか描かれていないんだ。麗奈の横顔を眺めながら久美子はそう思った。府大会を勝ち上がることも、関西で立華と戦うことも、もしかしたら全国で金賞を取ることすらも、麗奈にとっては全て予想の範疇であり通過点でしかない。私もそうありたい。今はまだ全然届かないけれど、いつかじゃなくて必ず、追いつくんだ。麗奈に。この領域に。そして、もう一つの憧れに。

 眼前に広げた手を、ぎゅっと強く握り締める。そしてその手で自分の胸をどんと叩いた。じんじんと響くその衝撃の余韻は、自分の中に残っていた不安や迷いを覚悟へと変えた、気がした。

 

 

 出場校の演奏が全て終わり、審査員による数十分間の協議の時間を経て、ついに結果発表の時が訪れた。北宇治の一同も既にホール内に入り、その時に備えて待機中である。自分達の居るホール左側の対極、右側には、青い制服の一団が陣取っていた。北宇治と立華、どちらの陣営も両手を組み顔を伏せ、発表の瞬間に備えて一心に祈り続けている。

「来たっ」

 誰かの声がして、久美子はホール上段へと目を向けた。三人ほどの係員達が抱える大きなロール紙。そこには今さっきまで行われていた自分達の演奏、その結果が記されている。彼らがロール紙を階下に向けて解き放てば、否が応にも全ての結果が突き付けられるのだ。ここで金賞を取れなければ、その後に発表される関西大会への代表権もまた有り得ない。そうだ、金賞の欄に北宇治の名が無かったらおかしい。私達は全国に行くのだから。呟く久美子の手の甲に、己の爪がぎりりと食い込む。

「わあ、」

 紙が大きく広げられ、そこに書かれた文字を全員が目で追った。銅賞。銀賞。そして、金賞。他のいくつかの学校に紛れて金賞の欄に書かれていたのは『北宇治高校』と『立華高校』、両校の名前だ。

「やったあ!」

 ホールのあちこちから歓喜の声が溢れ出す。その狭間で久美子はほうと一つ息を吐いた。そう、ここは抜けて当たり前。問題はその次、関西への代表権。もしここで北宇治の名を読み上げられなければ、自分達の夏はその瞬間に終わってしまう。正念場はここからだ。

 ふと隣を見やると、麗奈も同じことを考えていたのか、こちらをじっと見据えていた。二人で頷き、そして互いに手を取り合う。行くんだ、必ず、全国に。心臓は次第にどくどくと早く大きく鼓動を打っていく。ひんやりと冷えたホールの中に居るはずなのに、全身からはねっとりとした汗が瀑布のように溢れ出ている。繋がれた二人の手は固く、指先一つだってぴくりとも動かない。ただその瞬間を、久美子は固唾を呑んで待った。

「この中より、関西大会に出場する高校は――」

 係員の声に、その場の全員が押し黙る。久美子と麗奈は同時に顔を伏せ目を瞑った。祈れ。祈るんだ。こうして祈るのももう何度目になるのか、今は計算する気にもなれやしない。何に祈っているのかさえ解らなかった。だけど、祈るんだ。関西に行ける事を。そして、全国金賞を懸けた戦いが、まだ続く事を。

「神様っ」

 小さく呟いたのはきっと葉月だろう。久美子の心臓は今にも張り裂けそうなほどぎゅうぎゅうと締め付けられていた。もうすぐ結果が出る。出てしまう。どうか、北宇治を。北宇治の名を。

 久美子の、いや北宇治吹奏楽部全員のその願いは、

「二十六番、北宇治高等学校」

 そのたった一言で大きく弾けた。

「うわあああああ!」

 周囲から一斉に上がった歓喜の声。喜ぶ者。感極まって泣く者。周囲と抱き合う者。様々な声色がそこには入り混じっていた。久美子は反射的に麗奈を見る。麗奈は汗だくの顔でこちらを見るなり、にかりと会心の笑みを浮かべた。さすがの麗奈と言えど、やはり発表の瞬間は緊張で胸が張り裂けんばかりだったのだろう。

「やったね、久美子」

「やったよ、麗奈」

 久美子と麗奈は結んでいた手を一度解き、そして二人で互いの手をぱんと打ち鳴らした。麗奈と、仲間達と勝ち取った、京都府代表の栄冠。今年で三度目の筈なのに『もう慣れた』なんてことは無かった。何度味わってもこの瞬間はやっぱり堪らない。最高に気持ち良い。強烈な快感と、舞い上がる高揚感。びりびりと痺れる頭を手で押さえる久美子の目にはもう一度、光る涙の粒が溢れ始めていた。

 

 


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