黄前久美子、最後の夏   作:ろっくLWK

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三.もがくよアッファンナート

「自由曲の『歌劇「剣闘士」』はイタリア系アメリカ人の作曲家、F・D・ヴァッリアーレが作曲したオペラ用の楽曲を本人が編曲し、一種の交響詩として纏めたものです。その主題は紀元前二世紀から紀元五世紀頃までを中心に古代ローマで行われていた戦う奴隷・剣闘士達の悲惨な日々と、その境遇を変えるため反乱を起こして国と戦い自由を勝ち取ろうとする果敢な姿を描いています。曲は全三部で構成されていて、第一部ではどろどろと重厚な曲調が辛く苦しい剣闘士達の生活とそこからの逃亡を、第二部のゆるやかな部分では脱出後の安息と救いの夜を。そして第三部では剣闘士達の自由を勝ち取るための戦いと勝利を喜ぶ剣闘士達の盛大な祝典を、それぞれ表現しています。中でも最大の見どころとなるのは、第三部の戦いのシーンから祝典のシーンへと至る間のところにある、ユーフォとトランペットのソロによる掛け合いですね。まるで戦友を互いに労り、明日の勝利と栄光を共に誓い合うかのような協奏は感動のクライマックスです。ちなみに近年『剣闘士』は映画化もされ、DVDも出ているみたいなので、一度観てみるともっと理解が深まると思います」

 時々メモに目を遣りながらも緑輝が流暢に曲の解説を終えると、席に着いていた葉月がぱちぱちと手を叩いた。それに続いて他の部員達も壇上の緑輝へと拍手を送る。

「ご苦労様、サファイアちゃん! 大分こなれてきたね」

「えへへ。みどりですぅ」

 照れながらも名前の訂正はしっかり忘れない緑輝が壇上から降りてきた。こうして緑輝が楽曲の解説を担当するようになってもう一年以上になるが、葉月の言うように最初の頃よりは滑らかに解説が出来るようになった。しかし『初代』であるあすかのそれと比べれば、詳細なあらすじや歴史的背景、さらに作曲者自身の生い立ちや思想観にまで踏み込むかのような解説にはもう一つ及ばない。そもそもあすかがあれだけ語り尽くせたのも、貪欲な探求心とそれによって培われた膨大な知識量の賜物であり、いかに音楽の造詣が深い緑輝と言えどもそう簡単に追従出来るものでは無いということなのだろう。

「というわけで、今日からはいよいよ本格的にコンクール向けの練習をしていくことになります」

 緑輝のパートリーダーらしい言葉に、その場にいた全員が頷く。ただし雫だけは緑輝に目もくれず、いつものように手元の楽譜をじっと見つめながらという態度だった。早速各々が楽器を構えて音出しや基本練習を開始しても、雫はただ黙って楽譜を眺め続けている。

 久美子は雫の初見力の秘密が、この綿密な譜読みにあると考えていた。あくまで当て推量ではあるのだが、雫はああして楽譜を見ながら頭の中でそのテンポ、音の形、響きを正確に再現している。まるでイメージ上のもう一人の自分に演奏させるように。楽譜内の指示一つひとつを見落とさず丹念に拾い上げ、それを頭の中で鳴らすことで、彼女は奏でるべき音を自分自身にインプットする。そうしてから初めて実際に楽器を手に取り音として出すのだろう。

 ともかく、雫の事ばかりに気を取られているわけにはいかない。雫は雫、自分は自分。各々のやり方というものがあるし、雫の振る舞いをおいそれと真似出来るわけでもない。自分に出来るのは自分なりのやり方を貫き通すことだけだ。そう考え、久美子はいつも通りの基礎練習を開始した。ロングトーン、タンギング、スケール、リップスラー……一つずつ音を確認し、いつも通りの調整をしながら自分のコンディションを探り調整を進めてゆく。それが済んだらいよいよ曲練習。楽譜を譜面台にセットして、まずはメトロノームを既定のテンポより遅めに合わせる。

 『剣闘士』の出だしは四分の三拍子、八分の五拍子、四分の二拍子、八分の五拍子……というふうに変拍子が連続していてなかなかリズムが掴みにくい。誤った演奏をしないよう、一拍ごとの音の形をしっかり確認しながら楽譜に合わせて音を出していく。こうして第一部を一通り吹き切れたかという時、教室の端からガタンと大きな音がした。それは雫が椅子から立ち上がった音だ。そのまま楽器を手に取り、いつものようにスムーズな所作で構えると、雫のユーフォからはさらさらと整った音が流れ始める。

「え? もう?」

 横で聞いていた美佳子が驚きの声を上げる。久美子もすぐに気づいた。さっきまでたどたどしく自分が吹いていた『剣闘士』の第一部、重厚な出だしから始まるところを雫も吹いている。しかも自分のそれと比べてブレもなく、確信に満ちた音でだ。彼女の演奏は途切れることなく第二部へ移り、柔らかく周りを包むようなユーフォの音色が教室中に響き渡った。

「すっげえ……」

 相楽も手を止め、雫の演奏に聴き入っている。気付けば雫以外の全員が彼女の演奏に注目していた。第二部が終わり、続けざまに第三部へ。先ほどまでの優しい調べから一転、戦を想起させる猛々しい音色へと変わり、兵士の行軍を思わせる刻みを鋭く響かせていく。その音が放つ鋭い殺気はまるで本当に戦場の只中にあるかのようで、聞く者の背筋をぞくりと震わせるほどだった。

 そして例のソロパート。ハイトーンから始まり場を支配するように広がるその音は、一粒一粒が燦然と輝く宝石のように美しい。繊細なビブラートが生み出す音の波はどこまでも雑味なく、却って澄み切った音をより強調するかのようにたゆたっている。自分だったらこんな美しい響きが出せるだろうか。久美子は自分の顔が強張るのを感じ取った。喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。想像の遥か上を行く雫の演奏技術を前に、これまで積み上げてきた自信ががらがらと崩れ去っていくような気さえする。そんな久美子の心境を置き去りにするかのように、雫の演奏は怒涛の勢いでもって終盤の祝典へと向かい、華麗にフィニッシュした。

 全員が大きな拍手を雫に送った。しかし、誰からも雫を褒め称える言葉は出なかった。あまりにも雫の演奏が完璧過ぎて、何をどう言ったらいいのかわからないという困惑の表情が、そこに幾つも浮かんでいた。

「上手だったね」

 久美子も雫に、こんな上辺ばかりの言葉を掛けることしかできなかった。

「ありがとうございます」

 雫はいつものように淡々とした振る舞いでお辞儀をし、また自分の席へと座った。

「さあ、私達も負けてられないね。がんがん練習しなくっちゃ!」

 葉月が固まりきった場を解きほぐすように号令を掛け、我に返った部員達は再び楽器を構えて演奏を開始する。久美子は誰にも気づかれないよう、唇の内側をぎゅっと噛み締めながら、また譜読みに戻った雫を凝視し続けていた。

 

 ばしゃばしゃ。

 教室近くの手洗い場で、久美子はいつものようにマウスピースを洗う。鈍く銀色に光るマウスピースは、年季のせいもあって少しだけ黒ずみを帯び始めているが、それでも毎日手を掛けているだけあって未だギラギラと輝いていた。すっかり綺麗になったマウスピースをハンカチで拭き上げ、それをぎゅっと握り締める。水の温度に均されたマウスピースはひんやりとしていて、自分の手が孕んでいた熱を吸い上げてゆくみたいだった。

 頭の内側ではずっと、先ほどの雫の音が響いている。その演奏がいかに完璧だったかは今更語るまでもない。雫の本当に凄いところは常にブレることの無い絶対的な安定感にある。演奏中の細やかなフレーズの動きや微妙な強弱の変化を、雫は確信的に吹き分けている。それらは決して音楽としての美しさに背いていない。全体の音楽の中で自分の音がどうあるべきか、それを既に雫は見切っている。そしてそこにぴったり当てはまる理想的な音を何度でも正確に奏でるだけの圧倒的な技術が、雫にはあるのだ。

「はあ……」

 息苦しさを吐き出すと、どうしても溜め息のような音になってしまう。誰かが言っていた『溜め息をついた分だけ幸せは逃げていく』という言葉がふと頭に浮かんだ。確かに今の久美子の心境は幸せとは程遠い。雫に負けるわけにはいかない、と決心したばかりのところでその威勢をばっさりと斬り捨てられたせいか、重苦しい敗北感が自分の胃の腑から滲み出て頭の中を染め上げていく。

『あの子には、雫には、勝てないかも知れない』

 そんな後ろ向きな思いが、己の心を支配しつつあった。

「ダメだ、こんなんじゃ」

 久美子は勢いよく蛇口を捻った。流れ落ちる水を両手で掬い、ばしゃりと自分の顔に掛ける。水の冷たさで身も心も引き締めようと思ったのだが、さて顔を拭こうとしてからタオルを持ってくるのをうっかり忘れてしまったことに気が付く。今の自分はどうにも冷静さを欠いてしまっている。こんなんじゃいけない。

「黄前先輩、顔ずぶ濡れですよ。どうしたんですか?」

 途方に暮れつつあった久美子の視界に飛び込んできたのは、見慣れた後輩の顔だった。

「あ、()()ちゃん」

 依琉と呼ばれたその女子生徒、()(やま)()()は、その手にオーボエと譜面台を持っていた。吹部二年の彼女はオーボエ・ファゴットパートのパートリーダーを務めている。久美子の世代にはオーボエやファゴットなどダブルリード楽器を担当する生徒がいなかったため、昨年みぞれが引退した後は中学からの経験者であった依琉がパートリーダーに就任したのである。

「ちょっと顔を洗いに来たんだけど、タオル持ってくるの忘れちゃって」

「それなら、これどうぞ」

 依琉は譜面台を床に置くと、肩に提げていたトートバッグの中から一枚のタオルを取り出した。生地の表面には人気キャラである『サックスくん』の柄がプリントされている。オーボエのキャラクターでないのは、彼女が単純にサックスくんを愛好しているだけなのか、それともオーボエキャラがいないので仕方なくなのか、一体どっちだろう。

「ありがとう」

 素直にタオルを受け取り、それで顔を拭く。水に濡れてべたべたと気持ち悪かった感触はすっかり消え失せた。

「あとで洗って返すね」

「あ、いえ、大丈夫です。もともと毎日洗ってますし」

 でも申し訳ないし。いえほんとに大丈夫ですから。そんな押し問答をした結果、久美子は依琉の好意に甘えることにした。返されたタオルを丁寧に畳んでバッグにしまいながら、依琉が尋ねてくる。

「でも先輩がうっかりするなんて珍しいですね。何かあったんですか?」

 何気ない気遣いの言葉に久美子の喉はぐぐっと鳴った。ここで正直なことを言えば、依琉にとってはかえって迷惑かも知れない。万に一つもそうならぬよう、無理やり口角を吊り上げ言葉を紡ぐ。

「ううん、本当に何でもないよ。タオルありがとね、今度何かで埋め合わせするから」

 至って軽い口調を保つよう努めつつ、久美子はひらりと依琉の後ろをすり抜ける。

「そろそろパート練に戻らなくちゃいけないから、行くね。それじゃあ」

 ほんの少し早口でまくし立て、久美子はその場を後にした。これ以上何かを喋ったらボロが出てしまいそうだった。自分は部長だ。吹奏楽部を牽引する立場として、弱ったところを後輩に見せるわけにはいかない。そう己に言い聞かせつつ練習場所に戻ると、他の部員達は椅子を並べてすっかりパート練の体勢を整えていた。

「もう、久美子戻ってくるの遅いよ」

「ごめんごめん。ちょっと顔洗ってた」

 片手を立て、謝罪のポーズを作りながら自分の席に着く。抱え上げたユーフォにマウスピースをセットしフッと息を吹き込むと、管の中の空気が押し出されてくぐもった音が鳴った。

「それでは、今日のパート練を開始しましょう」

 緑輝の号令によりパート練が始まる。まずは課題曲からだ。メトロノームが刻むテンポに合わせ、全員で一斉に音を鳴らす。特定の区間まで吹いたところで緑輝は演奏を止め、手元のフルスコアを確認しながらパートメンバーに指示を飛ばしていった。

「チューバ、最初の音の入りが弱いです。行進曲ですから最初から狙って吹いて下さい」

「はい」

「ユーフォは音の粒がバラバラです。特に二十五小節目からのユニゾンでの乱れはまとまりが無い印象を受けるので、各自音を揃えるよう気をつけてください」

「はい」

「それじゃあ今のところをもう一度、やってみましょう」

 一つ一つの問題点を、緑輝は的確に指摘していく。これもパートリーダー就任当初はなかなか踏み込み切れなかったようで遠慮がちに指摘することが多かったのだが、それではパート練習にならないと久美子や葉月に諭されたこともあり、今では随分改善されている。

 もちろん、緑輝がパートリーダーだからと言って久美子達は何も言わない、という訳ではない。何か気付いたことがあれば葉月も久美子もお互いに指摘し合うし、時には後輩達から声が上がることもある。そうして互いに注意し合い、曲の完成度を高め合っていくのが今の低音パートの練習体制だ。去年までとは相違点もあるが、この風通しの良さは久美子自身にとっても居心地が良かったし、実際にその方針で日々練習して来た低音パート全体のクオリティは他パートと比較しても中々に高いと自負している。もっとも麗奈の率いるトランペットパートだけは、別格ではあるのだけれど。

「一年生も気になるところがあったら、どんどん意見言っていいからね」

 そう告げて葉月がにんまりと顔を崩す。これに経験者の星田は素直に頷き、初心者の真帆はどうしたらいいか分からない、という風に困ったような表情を浮かべた。雫は特に何か反応を示すでもなく、楽器を構えたままで次の演奏開始を待っている。これだけ実力があったら、少しは周りの不出来に不満を抱いたりしないのだろうか。久美子は少しだけ疑問に思う。

 一年生の頃の麗奈がまったく練習しない上級生に苛立っていたり、梓が座奏に力を入れない周囲の面々のことを愚痴ったりしていたところを見るに、極めて高い実力を持つ人からすれば己より実力の低い存在というのはどうにも腹立たしいものがあるらしい。それに久美子自身も正直言って、練習をさぼったり手を抜いたりしている人に怒りを覚えた経験も無くはない。流石に表立って言葉にするのは勇気の要ることだけれど。せめて表情に何か、見て取れるようなものでも無いものか。けれど雫は一貫して表情を崩さず、自分の練習に集中し続けている。他人なんてどうでも良くて、自分さえ上手に吹けたらそれでいいのだろうか? と、そんな邪推すらしてしまう。

「それでは次は自由曲をやりましょう。まずは出だしから――」

 こんな調子で、コンクール曲の練習一日目は過ぎて行った。

 

 連休が終わり、学校が始まると同時に一学期の中間テスト期間に入ってしまったため、一週間ほど部活は休止となる。校内でうっかり音出しでもしようものなら生徒指導の教師が飛んできて大目玉を喰らうことになるため、学校で練習をすることは出来ない。このため久美子は自分のユーフォを家に持ち帰り、テスト勉強の合間に宇治川沿いのベンチまで出掛けては毎日欠かさず練習をしていた。無論、楽器を持ち出すところを親に見られると後が面倒なので、こうして練習が出来るのは日が暮れる前の小一時間だけのことである。

 風に飛ばされないよう楽譜ファイルを布団干し用の洗濯ばさみで固定し、音符の形を一つ一つ確認しながら曲の練習をする。楽譜を渡された直後に比べて随分スムーズに吹けるようにはなってきたが、苦手なフレーズのところではどうしても誤魔化すようにテンポが走りがちになってしまうため、意識して発音をクリアにしなければならない。それにはまず遅いテンポから確実に綺麗な音を出し、徐々にテンポ自体を上げていくのが効果的な練習法だ。

 一音ごとに耳を澄ませながら吹いていると、少しずつ自分の音が整っていくのを感じる。そうして次第に美しく吹き上げられるようになる感覚はとても楽しい。だが今の久美子にはその楽しさを十分に堪能している余裕は無かった。そろそろ家に戻らないと、こうして楽器を持ち出して外で吹いているのが仕事帰りの母親に見つかってしまうかも知れない。

「ただいま」

 家の鍵を開け中に入る。当然ながら誰もいない。母親はこの時間帯は仕事に行っているため、久美子は気兼ねなく楽器を外に持ち出すことが出来るというわけだ。

 まず部屋に楽器を置き、それから洗面所へ。ハンドソープを付けて手で揉むと、大小様々の泡が手の中でぷくぷくと形作られていく。泡は全体でぷっくりと白い塊を形成するも、蛇口から注がれる流水に手を浸すと、それらは水と一緒にひとつ残らず排水溝へと流れ落ちていった。手を拭き、それから鏡に映る自分の顔を見て、久美子はふとあることに気が付く。

「最近ヘアピン付けてないなあ」

 それは一昨年の全国大会前日に秀一から贈られた、白いひまわりをあしらったヘアピンの事だ。彼と付き合いだしてからしばらくの間、そのヘアピンは久美子の額を定位置にしていた。しかし最近はうっかり失くしてしまうのが怖くて、普段の学校や部活に付けて行くことはせず、自室の机の引き出しにしまったままにしてある。最後に付けたのはいつだっただろう。去年のクリスマスか、いや二月のバレンタインデーの時には付けていたような、どうだったっけ? などと首を捻ってみても答えは出て来そうに無い。久美子が記憶の発掘を放棄して部屋に戻ろうとしたところで、ちょうど玄関の扉が開き、母親が帰って来た。

「ただいま」

「おかえり」

 いつもと同じ気だるい声で、久美子は母を迎える。

「ごめんね遅くなって。これからお夕飯作るから」

 スリッパを突っかけ、母はパタパタと台所へ向かった。ついさっきまで娘がテスト勉強もせず楽器を吹いていたのを、当然ながら母は気付いていない。その事に対して抱く罪悪感と仄かな愉悦。これからきちんと勉強するから勘弁して。そんな思いを久美子はこっそり胸の内に抱く。

「ゆっくりでいいよー」

 母親の背中にそう声を掛け、久美子は自室へと入った。机の上には依然として大量の教科書や参考書がうず高く積まれている。テスト勉強の進捗は現状、おおむね六割といったところだろうか。テスト初日の教科は数学B、現代文、それと日本史だ。テストまでの残り日数を考えれば、ある程度は他の教科も手を付けつつ初日の対策を絞り始めた方がいいかも知れない。

「さて、晩ご飯までの間に少しでも進めますか」

 気乗りはしないが勉強は学生の本分とも言うし、やるべき事はしっかりやらなければならない。テストの成績が悪ければ、両親には久美子の夢もただの現実逃避だと、そう捉えられても文句は言えなくなる。それに万が一補講を受けるとなれば部活へも影響が出てしまう。さすがに部長として、部員に先駆けて補講のために部活を休む、なんて事態は避けたいところである。久美子は渋々と椅子に座り、数学Bの教科書を開いた。

 

 翌週の月曜日から中間テストが始まり、これまでのところ久美子の手ごたえはまずまず、といった状況である。特別良い感触でもないけれど。ともあれこの調子ならば補講は避けられることだろう。テストも残すところ明日の英文法と生物を残すのみ。このうち生物は日頃から平均点以上を確保できているので、家に帰ってからは最終確認程度で十分なはずだ。今日のところは英文法に集中して、成績を少しでも伸ばすことに努めよう。そう考えていたところに、くみ姉、と誰かが背後から声を掛けてきた。自分をこの呼び方で呼ぶのは一人しかいない。声の持ち主を頭の中に描き出しながら、久美子は振り返る。

「さっちゃん。テストお疲れ様」

「全くもー、ホントにお疲れだよー」

 駆け寄って来た幸恵は久美子の隣に並び、両腕を風車みたいに大きく回した。凝り固まった彼女の肩がぼきぼき、と鈍い音を鳴らす。

「なんかさー、高校入ったらいきなり勉強難しくなってさあ」

 あはは、と久美子は笑いをこぼした。

「それわかる。私も一年の時、同じこと思ったよ」

「でしょ? 特に数学。一次不等式とか集合とか、もう何のことやらさっぱり理解できない」

 そう言って幸恵は空中にくるくると指で何かを描き始めた。恐らく何かの数式だろう。

「くみ姉はテスト、どうだった?」

「うーん。まあまあじゃないかな? 一応それなりにテスト勉強はしてたし」

 その回答がどうも期待外れだったらしく、幸恵は顔をしかめて肩を落とした。

「ええー、やっぱり三年生になると勉強ちゃんとやってるのかあ。成績悪いとお母さんにめちゃくちゃ怒られるんだよなぁ」

「怒られるだけならまだマシかも知れないけどね」

「え、怒られるだけじゃないの」

「うちの学校、赤点が三教科以上あると、補講受けなくちゃいけないから」

 その残酷な現実を、どうやら幸恵は知らなかったようだ。途端に顔からさっと血の気が引いていくのがわかる。

「補講は放課後に二時間ずつやるから、その間は部活に出られなくなるし。その後の追試で合格点取れなかったらまた補講と追試ってなって、部活やる暇なくなっちゃうよ」

「それは嫌だ。あたし部活出たい!」

 幸恵がすがるような瞳で久美子の腕に巻き付いてきた。それに合わせ、頭の上でアップに留めた髪の毛がポンと跳ねる。こうして見ていると、まるで飼い主に捨てられそうな仔犬みたいだ。

「だったら普段からちゃんと勉強しないとね」

 久美子は幸恵を引きはがし、彼女の肩を叩いた。

「まあ、中間はまだ範囲も狭いから何とかなるっしょ。期末は悲惨だよ、範囲も一気に広くなるし、補講になったら夏休みまで潰されちゃうから」

 それにコンクール前だし、練習にも支障出るかもだし、と畳み掛けたことで、幸恵もとうとう意を決したようだった。おもむろに深く頷くと、

「あたし、期末から本気出す……」

「それじゃ遅いって」

 からからと笑いながら、二人は駅までの道を歩く。春に幸恵が入学して以来、こうして一緒に下校するのは果たして何度目だろうか。既に気温はすっかり夏の入り口を思わせるものになり、時折吹き抜ける薫風が爽やかに髪を揺らしてゆく。その時ふと何かを思い出したのか、あ、と幸恵は振り向いた。

「そう言えばさ、くみ姉」

「ん?」

「あたしこないだ、芹沢さんと一緒に帰ったよ」

 芹沢さんと、一緒に、帰ったよ。言葉の意味が理解できず、久美子は一瞬硬直する。あの雫と、幸恵が?

「ええっ!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。その声の大きさに驚いてか、幸恵がぐいと仰け反る。

「ちょっとくみ姉。声でかいって」

「あ、ごめん」

「一緒って言っても、電車の中で少し喋ったくらいだったけどね。いつも芹沢さん見たこと無かったからてっきり電車使ってないのかなって思ってたけど、帰る時間が違ってただけみたい」

 それを聴いた久美子の頭に浮かぶ疑問符。サンフェスまでの練習は遅くとも午後七時までには終わっていたし、全体練習なので終了の時刻はどのパートもおおむね同じだったはずだ。にも関わらず、久美子がこれまで雫の下校姿を見たことは一度として無かった。それは本当に電車に乗る時間帯が違っていただけなのだろうか? あるいは日頃は親に車で送り迎えして貰っていて、その日はたまたま電車を利用しただけなのか?

「それっていつのこと?」

「んと、テスト期間前の最後の練習日。その時芹沢さん、楽器ケース持ってたよ」

 なるほど、と久美子は納得する。あれだけの技術を持つ雫の事だ。自分と同じく勘を鈍らせないようにと楽器を持ち帰って自主的に練習しているのだろう。まだ一年生ということも考えれば、もしかして久美子よりも多くの練習時間を確保できているかも知れない。それにあれだけ上手ければ、麗奈のように親がプロの音楽家という可能性だってある。その上自宅に防音設備があれば夜遅くまでだって練習し放題だ。もし雫がそうだったら……想像するだけで、久美子は激しい焦燥感に全身を揺さぶられてしまう。

「あー、それは無いと思うよ。芹沢さん、普通にマンション住まいだって言ってたし」

「え、そんなことまで聞き出したの?」

 予想外の話に久美子は目を丸くする。

「その言い方、なんか失礼だよ?」

 気分を害したのか、ぷう、と幸恵は頬を膨らませた。まるまると膨らんだ桃色の肌は、触ったらとても滑らかそうだった。

「電車で同級生と乗り合わせたら、色々喋ったりするじゃん。まあ、あたしの降りるトコまでの、十分かそこらだったけど」

 果たしてそんなものだろうか。過去の記憶を掘り下げてみても、自分は同級生相手に最初からそんな突っ込んだ話をした記憶は無い。以前にも幸恵のコミュニケーション能力が高いと感じたことはあったが、まさかあの雫に対してもここまで接することが出来るとは。幼馴染みの成長ぶりに改めて感心する久美子をよそに、幸恵の発言が続く。

「それでね。他の人から聞いた話じゃ無口で素っ気ない子かと思ってたんだけど、ちゃんと話してみたら芹沢さんって意外と普通に色々喋るんだね。家の事もそうだし、学校とか部活のこととか色々話したんだよ」

「へえ」

 こうして幸恵から雫の一面を聞かされると、なんだかおへその辺りが妙にむず痒くなってくる。幸恵から聞かされる雫像はどれも、部活で目にする雫の振る舞いからは髪の毛一本分も匂わせぬものばかりだ。日頃近くに居る相手の事を、それより離れた立場であるはずの幸恵の方がよく知っているというのは、どうにも居心地が悪い。

「それで、学校とか部活についてはどんな話だったの?」

「んー。特に何もないかな。勉強大変だねとか、練習きついねとか、そんな感じ」

 それは主に幸恵から振った話だろうな、と久美子は直感で察した。なんとなくだが、雫は学業の方もたいへん優秀そうな気がしたからだ。

「あ、でも一つだけ、芹沢さんから聞かれたことあったよ」

 幸恵は人差し指をぴんと立て、唇の端に寄せた。

「黄前先輩の事、どう思う、って」

「え、私の事?」

 虚を突かれ、久美子はびくりと震えた。まさかこの流れで自分の名前が、しかも雫の方から出てくるとは思わなかった。

「うん。でも、くみ姉ってあたしの遠い親戚なんだよーとか、小学校からユーフォやってたらしいよとか、そんな話ぐらいしかしなかったなあ。丁度あたしの降りる駅に着いちゃったし」

 などと喋っているうちに、気付けば駅の改札前まで来てしまっていた。ここから幸恵は久美子と逆方向の電車に乗ることになる。もう少し話を聞きたい気持ちもあるが、無理に引き留めることは出来ないだろう。何より幸恵には明日のテストに向けて少しでも勉強しておいて欲しい。赤点三つで補講、などという事態にならないために。

「また今度芹沢さんと帰れたら、くみ姉にも教えてあげるね」

 それじゃバイバイ、と手を振って、幸恵は改札の奥へと姿を消した。一人残された久美子は探るように辺りを見回す。どうやら今日は雫と帰宅時間がかぶってはいないらしく、彼女の姿を見つけることは出来なかった。

『黄前先輩のこと、どう思う?』

 先ほどの幸恵の言葉が雫の声で再生される。それは一体どういう事なんだろう。逆に雫が自分の事をどう思っているのか、久美子は少し気になりだした。あれだけ上手い雫の事だ。ひょっとして自分の事をふがいない先輩だと感じ始めているのかも知れない。それともそれは部長として奏者として頼りない、という意味なのか。心に広がる暗がりをそこで振り払うかのように、久美子は改札を通り抜けた。

 

 テスト期間が終わり、練習の日々は瞬く間に過ぎていく。六月に入るとそれまで長袖だった制服から半袖に衣替えとなる。梅雨の時期も相まって少しだけ肌寒く感じる日もあるけれど、それはほんの少しの間だけの事だ。

 ここのところの部員達はオーディションに向けて個々の課題に取り組む日々を送っていた。月末に行われるオーディションでは吹く箇所が予め割り振られてはいるが、一昨年に久美子が経験したように抜き打ちで別の個所を吹かされることもある。決して油断せず、課題曲と自由曲の両方をきちんと吹きこなせるようになっていなければならない。ましてソロを志願するならばレギュラー合格はあくまで大前提、そこからいかに細やかな技術を身に付けられるか、表現力を高められるかが合否の鍵を握ることになるのだ。少なくともそれを正しく理解している者にとって、練習の時間はいくらあっても足りるものではない。

「星田、そこ指回り切ってないよ。リズムちゃんと合わせて」

「はい」

「それと美佳はEのとこ、二拍三連の時に音程が崩れやすいから注意して」

「はい」

 葉月が後輩達のミスした箇所を次々と指摘してゆく。言われた後輩達はすぐさま返事をして、楽譜に注意点を書き込んでいった。一方で緑輝は初心者の真帆に、楽譜の読み方と演奏方法を根気よく教えている真っ最中だった。

「ここの『ALLEGRO MARCIALE』っていうのは『速い行進曲風』っていう意味の指示です。なので大体のテンポとしては、このぐらいですね」

 たん、たん、たん、と緑輝が机の端を手で叩く。真帆はその拍を首を縦に振る動きで感じ取りつつ、自らの体へと刻んでいく。

「ここでのボウイングはもたつくと音が暴れちゃうので、早めにやるといいです。それから――」

 楽譜に書かれた指示用語は大抵の場合外国語であり、初心者が楽譜を読みこなす上では大きな壁になることが多い。そんな複雑怪奇な用語の意味や演奏上のコツを一つ一つ、緑輝は丁寧に真帆に説明していく。

 彼女がここまで真帆の教育に時間を割くのは、なにも自分がコンクールメンバー当確なので余裕があるからというわけではない。コンクールが終わって三年生が引退すると、北宇治のコンバスの奏者は真帆一人になってしまう。そして、コンバスをここまで密に指導できる人間は、顧問である滝も含めて北宇治には存在しないのだ。それに緑輝の持つ音楽技術と知識を余すところなく真帆に伝授することが出来れば、それは来年や再来年の北宇治のためにもなる。だからこそ緑輝は自分の練習と並行して真帆の教育を怠りなく進めているのである。

「中盤のここ、キッツいですよねー。六連符からの四、三、四連とか、もう金管殺しに来てる」

 楽譜を眺めながら相楽が青白い息を吐く。第三部冒頭の戦争のパートでは、金管を主体とした連符の刻みが大量に用いられている。同調して動くトランペットやトロンボーンパートからも泣きの声が上がっているこの箇所だが、しかし連符の刻みを全員で綺麗に揃えて吹くことが出来れば、聴衆には大きなインパクトを与えられるだろう。

「タンギングで乗り切るしかないね。それと相楽君、ダブルタンギングの『トゥクトゥク』の時、『ク』の音が少し引っ込み気味になってるから、発音気をつけて」

「はい」

 久美子の指摘を受けた相楽の表情には、自分なりにはやってるんだけどな、という色が滲み出ている。実際、彼が奏でるその音は、決して大きな破綻をもたらすほど壊滅的という訳ではない。相楽にもそれぐらいの技量はあるのだが、他に参加する者が多いここの部分では僅かな音の乱れが淀みとなって、全体をボヤけさせてしまう可能性があった。オーディションの指定範囲ということもあり、この部分の吹き方にはパート全員かなり注意を払って取り組んでいる。

「あ、そこ葉月ちゃんもです。というかチューバ全体、五連六連の音の形を正確にするよう意識して下さい」

 横から緑輝の指摘が飛び、葉月も「はい」と返事をする。その表情は至って真剣だった。

「じゃ、ちょっと注意しながらやってみるから」

 気合いを入れ直した葉月が楽器を構える。葉月の連符もかなり研ぎ澄まされてはいるが、流石に六連符ともなると若干なり舌がもつれるらしい。音はぶさぶさになり、砕けたパンのように教室中に散らばる。

「難しいなあ」

 葉月が頭をボリボリ掻きながらどうすべきか考えあぐねていると、教室の隅から機械で切り分けたかのように正確な形の音が飛び出した。音の出どころは雫の持つ銀色に光るユーフォだ。それを聴いた葉月が早速とばかり、雫の席へと近寄っていく。

「凄い、そこどうやってるの?」

 音楽経験の浅い葉月は自分より遥かに高い技術を持つ雫にも素直に教えを乞う。彼女のこういう上下に拘らない柔軟な姿勢は、全くの初心者だった葉月が僅か二年で急成長した一因でもある。

「トリプルタンギングです」

 雫はそう言って楽器を降ろし、口だけでトゥクトゥトゥクトゥ、と素早く三連刻みを二度唱える。

「なるほど。じゃあちょっとそれやってみよう」

 ありがとね、と手を立てて雫に礼を言い、葉月は自分の席へ戻った。自分でも一回『トゥクトゥトゥクトゥ』と唱えてから葉月は再び楽器を構え、息を吹き込む。まだまだ不格好だが、先ほどよりは遥かに滑らかな六連符の音がチューバのベルから奏でられた。

「おお、効果抜群」

 それを隣で聴いていた美佳子が感嘆の声を漏らす。

「よし、それじゃウチらはここトリプルタンギングで行ってみよう」

「はい」

 チューバが一致団結したところに、

「あの」

 と、珍しく雫の方から声が掛かった。急にどうした? とばかり全員が雫を見やる。

「他の楽器と連携する時、ダブルとトリプルが混ざってしまうと音の形が崩れることがあるので、気をつけた方がいいと思います」

 雫の表情はやはりいつも通りの平坦さを保っていた。上級生に意見するにはそれなりに勇気を必要とするものだし緊張や高揚もあるものだが、そういった気配を雫からは全く感じ取れない。

「わかった、気をつけてみるね」

 言われた側の葉月も特に気にする素振りもなく、にっこりと笑顔を返す。それを見ていた相楽も真似をしてトリプルタンギングで六連符を吹き始めた。

「なるほど、こりゃ確かに吹きやすい」

 難問がようやく解けた、といった様子の相楽を見て久美子の喉がぐっと塞がる。何故だろう、雫のたった一言に、パート全体がぐるりと向きを変えて動き出していくこの光景が、率直に不愉快だと感じてしまっていた。別にこんなところで張り合うことなんて無い、あくまでも雫との競争は演奏技術だけなんだから、と必死に自分へ言い聞かせる。何より直属の後輩に対してこんな感情を抱いてしまう自分自身の醜さが、たまらなく嫌だった。

「じゃあ時間ですので、今日のパート練習はここまでです。このあとは個人練で、最後に部室でミーティングになります」

 一時間ほどのパート練をこなした後、緑輝のこの言葉を合図に場は解散となり、部員達はそれぞれ教室を出ていく。久美子もそろそろユーフォに溜まった水滴を抜こうと、楽器を抱えて教室を出た。

 教室から最寄り、廊下の端にある手洗い場でウォーター=キイを開放したその時、

「そこ、全然出来てない。もう一回」

 棘のある声がどこかの教室から聞こえる。久美子の耳はその声が、間違いなく麗奈のものであることを察知した。そっと手洗い場を離れ、久美子は声の出どころと思しき戸窓から教室内の様子をこっそりと覗き見る。

「全然だめ。音の形が崩れてばらばらになってる。ちゃんと集中してる?」

 予想通り、そこにはトランペットの列の前に立って指導をする麗奈の後ろ姿があった。この位置からでは窺えなかったが、きっと麗奈は険しい表情をしているだろう。彼女の声に孕んだ怒気から久美子はそれを察する。元々が容姿端麗な分、不機嫌そうにしている時の麗奈は本当に怖い。そして麗奈はこと音楽に関して、自分にも他人にも一切の妥協を許さないのだ。

「はい」

 返事をしているのは主に一年生の面々。その中に幸恵の姿もあった。どうやら音が合わずに一年だけで麗奈の指導を受けているようだ。その箇所は、今しがた低音パートが練習していた連符のパートだった。

「テンポを緩めても吹けてない。それじゃあ本来のテンポで吹いたらバラバラになるのは当たり前でしょ。ちゃんとスローから綺麗な音で吹けるように練習してる?」

「はい」

 返事をする女子部員の声は既にぐじゃぐじゃの鼻声だ。よく見ると、目元も真っ赤に腫れ上がっている。彼女は今、麗奈のスパルタぶりにこの上ない悔しさを味わっているに違いない。普段はあれだけ陽気な幸恵もまた今は唇をキッと真横に結び、麗奈の射かける言葉の矢に耐え忍んでいた。

「出来るまで何度でも繰り返すよ。次の合奏まで吹けてない人は合奏で吹かなくてもいい。わかった?」

「はい!」

 麗奈の剣幕を見守る他の二・三年生は一貫して黙ったまま、真剣な面持ちで一年生達を見やっている。麗奈の指導は確かに滝並みに厳しいが、それは彼女のレベルから見ても全国で金賞を取るのがどれほど難しいか、ということの表れでもある。自分達の掲げた目標を叶えるにはこの厳しい指導に必死で食らいつく以外に無い。それを十全に理解出来ているからこそ、上級生達も一年生には死に物狂いで這い上がって来て欲しい、と願っているのだろう。

 実際、昨秋以降の北宇治吹部で最も高い水準にあるパートはいつだってトランペットだった。麗奈の要求をクリアできれば滝の要求をクリアしたも同然であり、それは一重に自分達の技術向上に繋がる。経験則でそれを分かっているからこそ、上級生達は麗奈の辛辣な指導姿勢に関して余計な口を挟んだりはしないのである。

 トランペットのパート練習はまだまだ終わりそうにない。麗奈の意見が欲しい気もしたけれど、今日のところは一人で練習しよう。そう思い、久美子は静かにその場から離れた。

 渡り廊下の定位置へいつものように椅子と譜面台を置き、呼吸を整えて楽器を構える。今の久美子の技術的に、曲を曲として吹くことはもう問題なくこなせる段階まで来ている。後はいかにそれを煮詰めるか、表現性を高められるかだ。勿論これは個人レベルの話であって、今後の合奏を通じて周囲とのバランスを取ったり、吹き方を調整する等の必要が出てくることはある。滝による合奏練習が本格化してくるのは来週以降の事だろう。その先にあるオーディションも見据えれば、一刻も早く自分の演奏力を押し上げていかなければならない。パートの事は緑輝や葉月に任せて、自分は自分の練習にもっと集中しよう。決意と共にピストンを押し込む指が、次に出すべき音に向けて正確に上下していった。

 

 

 毎年六月五日、地元では『あがた祭り』が行われる。その日は祭りの交通規制に巻き込まれないよういつもより早く部活が終わるため、部員達は皆で遊びに行こう、射的やろう、たこ焼き食べたい、などと各々の予定を話し合ったりしていた。それは低音パートの面々もまた例外ではなく、星田はクラスの友人達と、真帆は中学時代の親友と、それぞれ祭りを見に行く約束をしているらしい。

「芹沢さんはあがた祭り、誰かと行くの?」

 楽器をケースに仕舞いながら尋ねた葉月に、雫は無言で首を振る。その答えをおおよそ予測できていたのだろう。葉月は特に話を膨らませるでもなく、そっか、と一言だけで雫との会話を終えた。

「先輩達はどうするんです?」

 真帆からの質問に、葉月が真っ先にふふんと鼻を鳴らす。

「あたし、一緒に行く相手がいるんだよね」

「うわっ、マジですか先輩。それって男子ですか」

 葉月のしたり顔に驚きの声を上げたのは、意外にもこの手の話題に一番興味が無さそうな星田だった。

「ごめん、それ私ぃ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら美佳子が手を挙げる。なあんだ、と星田は起こしかけた身を元に戻し、そのやり取りを傍で見ていた相楽がにやにやしながら星田をつつく。

「お前、加藤先輩が誰と行くのか気になるのか?」

「気になるっていうか、あんまり先輩達の浮いた話聞かないじゃないですか。彼氏いるとしたら初耳だなあって思って」

 星田はどぎまぎするでもなくおっとりとした笑顔で答える。その如才のない振る舞いに「なんだよつまんねえ」と相楽は舌打ちした。この分だと星田と葉月の急転直下ラブロマンスは無さそうである。

「葉月先輩のことは、私がばっちりエスコートしますから」

「よろしくお願いいたしますわ、美佳さま」

 美佳子が宝塚の男役のような声色で気取ると、葉月もそれに合わせてうやうやしく返す。もはやこの二人はカップル認定ということで良いかも知れない。とは言え正直期待外れなその組み合わせに、やれやれ、という空気が彼女達の周囲にじんわりと広がった。

「緑はいつも通り、妹と一緒に行きますよ。琥珀もお祭り楽しみにしていましたから」

 まだ幼いからというのもあるのだろうが、緑輝は祭りなどのイベントは大抵妹と行動するらしい。緑輝は相当に妹想いである。自分がまだ幼かった時の事を思い出し、久美子はくすりと笑みをこぼした。

「黄前先輩は誰かと行くんですか?」

 真帆は久美子にも話を振って来た。

「うん、ちょっとだけね」

「ええっ、マジですか先輩。それって男子ですか」

「そこで天丼かよ」

 さっきと同じリアクションの星田にすかさず相楽がツッコミを入れる。その相楽が、今度はこちらにぐるりと顔を向けた。

「で、どうなんです先輩。やっぱデートなんですか」

 日頃はこういったことに無頓着そうに振る舞っている相楽も一応、恋愛沙汰の気配は気になるらしい。指で頬を掻きながら、久美子は質問に答える。

「残念だけどハズレ。お祭りには麗奈と一緒に行くことにしてるんだ」

 それは嘘ではなかった。一年のあの夜以来、あがた祭りには毎年麗奈と行く約束をしている。ただし自分達が繰り出す先は祭りの中心ではなく、大吉山の登山道を登った先にある展望台だ。初めて行ったときは他に誰もいなかったけれど、その後テレビドラマか何かに展望台の夜景シーンが登場したのがキッカケで一気に人気スポットと化してしまったらしい。そのせいもあって、去年登った際には結構な人だかりが出来ていたのが少しだけ残念ではあった。それでも二人にとって、あそこが特別な場所であることには変わりない。

「麗奈、って、トランペットの高坂先輩ですか」

 相楽の問いに頷くと、相楽はふーむ、と息を吐いた。

「前から思ってましたけど黄前先輩って、高坂先輩と仲良いですよね。あの先輩、あんま色んな人とつるむイメージ無いですけど」

「私も思ってました。お二人ってどういう関係なんです?」

 好奇心を刺激されてか、美佳子も身を乗り出してきた。

「どういうっていうか、同じ中学出身っていうか」

「じゃあ、中学から仲良かったんです?」

「そういうわけじゃなかったけど」

「それなら高校入ってからですか? きっかけは?」

「もう、私と麗奈のことはいいじゃん」

 久美子は苦笑いを浮かべつつ二人からの追及をかわす。まるでスキャンダルを暴こうとするリポーターと、そこから逃れようとする芸能人みたいだ。誰かに身辺を探られることの鬱陶しさとこそばゆさ。それが同時に胸から溢れ出てくるような、そんな気味の悪い感触に思わず身悶えしてしまう。

「お先に失礼します」

 そうした周囲のやり取りにはまるで興味無さげに、がたりと椅子を引いて雫が立ち上がる。どうやら彼女はすっかり帰り支度を済ませていたらしく、畳んだ譜面台と楽器ケースを手にさっさと教室を出ていった。

「私達もそろそろ解散しましょうか」

 緑輝の言葉を合図に、全員が教室の後片づけを開始する。その折にふと、久美子は窓の外から大吉山の方角を眺めた。祭りの夜。皆が浮き立つ夜。今年はどんな夜になるだろう。憂いと期待の入り混じった複雑な思いに、久美子は胸を膨らませていた。

 

「ごめん、待った?」

「今来たとこ」

 祭りの灯りに照らされる人々と街をすり抜けやって来た宇治上神社。先に来ていた麗奈は例年通り、白のワンピースに包まれた姿で門の下に立っていた。一方の久美子はと言うと、これも例年通りインナーと夏用チュニックを合わせたものとハーフカットのジーンズ、そしてどこにでもあるようなスニーカーと、いたってラフな格好だ。二年前はあまりの装いの差に気後れしてしまったが、今となってはこっちの方が却って私達らしい。久美子はそう思うようになっていた。

「じゃ、行こう」

 二人は連れ立って神社の脇を通り抜け、大吉山の登山道へと歩を進める。あの時は楽器を担いでいたため登山の道のりも大変苦労したものだが、今は二人とも手ぶらなので足取りも随分軽い。それに何度か夜登山をしたおかげで、この登山道も既に勝手知ったる道となりつつある。とは言え真っ暗闇の中を進むのはさすがに危ないので、二人とも携帯の懐中電灯アプリで足元を照らしながらの登山になった。

 つづら折れの坂を登ること数十分、やがて東屋の屋根が見えてくる。去年より少し時間をずらした為か、はたまたドラマの旬が過ぎ去ったからか、展望台の人影はまばらで何人かが街を撮影している程度だった。

「とりあえず、座ろっか」

「うん」

 久美子は東屋のベンチに腰掛け、麗奈を隣に招く。誘われるままに麗奈がそこへ腰を下ろす。二人並んで山の上から一望する祭りの光景。それを見るのもこれで三度目だ。遠くで囃子の音が鳴っているような気もするし、風と木々の音以外何も聞こえないような気もする。けれど、こうして祭りの喧騒から抜け出して煌々と光る灯りを眺めていると、それ以外の何もかもを剥がし取ってしまったような気分だった。

「きれい」

 久美子はちらと麗奈を見る。麗奈は少しだけ顔を赤くして、

「うん」

 と俯いた。一時の静寂。気付けば周囲には誰もいなくなっていた。撮影を終えて帰ってしまったのだろう。暗闇の中で麗奈の息遣いだけが、微かに久美子の耳に届いていた。

「もう六月だね」

「うん」

 噛み締めるように、久美子は視線を下げる。新入生を迎え入れたのも、サンフェスで会心の演奏を行ったのも、自分の感覚ではつい昨日の出来事のようだ。それでも暦は進み、あがた祭りの夜が過ぎ行こうとしている。時間の流れはどんどん速まっている。ふと気づけば今日という日を遥か遠くに置き去りにしてしまうくらいに。小さかった頃は全く感じなかったこの速度感。それは今というこの時が充実しているからなのだろうか。それとも人間という生き物は、年齢を重ねると時の流れを早く感じるものなのか。この問いの正解が何であれ、十年後の自分は時の流れをどんな風に感じるようになっているのだろう? それを思ってみたとき、久美子の身はひとりでにぞわりと震えた。

「寒い?」

 麗奈が上目遣いに久美子の様子を伺う。大丈夫、と久美子が首を振ってみせると、

「私は、ちょっと肌寒いかも」

 と、腕一本分ほどあった距離をさらに詰めてきた。久美子の左肩にのしかかる麗奈の重量は、じんわりと穏やかな熱を放って久美子へと移ってくる。それだけで、夜風の冷たさも忘れてしまいそうだった。

「もうすぐオーディションだね」

「うん」

「トランペットパートはどう?」

「今年は一年の子もやる気があるから、どうなるかわからない。二年からもサポートに回る子が出るかも」

 呟く麗奈の顔には僅かに苦渋の色が浮かんでいた。同じパートで共に練習に励んで来た後輩達だ。いかに実力主義を掲げる麗奈と言えど、大事に思う気持ちはあるだろう。けれどコンクールメンバーとして得られる座席の数は限られている。そして実力の無い者は、容赦なく蹴落とされてしまう。それは厳然たる事実であり、だからこそ、昨日まで肩を並べていた仲間が落伍することへの辛さもある筈だ。その気持ちは、久美子の中にも当然あった。

「さっちゃんはどうなりそう?」

「東中さん?」

 その名を聞いた麗奈は一瞬眉をひそめたが、

「実力だけなら二年の平均レベルかな。オーディションで選ばれるかは、これからの努力次第だと思う」

 と、徹して冷静な評価を下した。音楽に関する麗奈の見立てに間違いは無い。幸恵が憧れの麗奈と同じ壇上に立てるかどうかは現状で五分五分、といったところだろう。

「低音パートは?」

「こっちはチューバが競争になるかどうか、かな。葉月ちゃんはともかく二年の美佳子ちゃんと一年の星田君がトントンな感じだから、これからオーディションまででどっちが上に来るかだと思う」

「低音は、実力差が割とはっきりしてるよね」

「うん。コンバスの里中さんは初心者だし、芹沢さんはあの通りの実力だし」

 久美子の脳裏を雫の姿がかすめる。雫は既に久美子とほぼ同等の段階、つまり楽譜練習をほとんど終えており、細やかな表現の段階へと踏み込み始めていた。あれだけ色彩豊かな演奏が出来るならば滝の注文にも柔軟に応えることが可能だろう。そんな雫は間違いなくレギュラーに選ばれる、と久美子は見ていた。

「久美子は自由曲のソロ、もう知ってる?」

 密着した姿勢からさらに距離を埋めるように、麗奈が小首をこちらに傾げた。

「うん。第三部の途中のとこ、トランペットと一緒だったね」

 麗奈も勿論フルスコアや参考演奏は確認しているはずだ。あの箇所がユーフォとの掛け合いになっていることも、とうに知っているだろう。

「ソロ、吹けそう?」

 そう尋ねる麗奈に、久美子は即答できなかった。何か答えねばと思って口を開いてみても、その先の言葉を発することが出来ない。大丈夫がんばるよ。相手が相手だけに難しいかも。絶対に吹いてみせる。どれも、言えなかった。どれを選んでも嘘になってしまいそうだったから。

「私は、久美子と吹きたい」

 視線を彷徨わせる久美子を見かねてか、麗奈が少しだけ語気を強める。暗闇の中で、その声はやけに響いて聞こえた。

「私も」

 久美子はじっと麗奈の瞳を覗き込んだ。

「私も、麗奈と一緒に吹きたい」

 その言葉だけは一切嘘のない、久美子の心からの言葉だった。あのソロを、麗奈と吹きたい。コンクールの舞台で、全国の会場で、自分と麗奈の音を思いっきり響かせたい。それだけは、痛いくらいに真剣な気持ちで断言することが出来た。

「久美子」

 やにわに立ち上がった麗奈が、展望台の手すりへと歩いていく。つられるように久美子も立ち上がり、おずおずと麗奈の後へと続き、二人で手すりの前へと立つ。

「一緒に吹こう、ソロ」

 振り返った麗奈の眼差しには、炎のようにゆらめき立つ意志が宿っていた。その炎に、久美子の全身は一気にぼうっと灼かれてしまう。体中を駆け巡った熱はそのまま胸の奥に留まり、脈打つ血潮の流れる音がずきずきと、鼓膜を強くノックした。

「うん」

 久美子は麗奈の手を取り、ぎゅっと握り締める。その温かさに久美子もまた意志を強く固める。吹きたい、じゃない。吹くんだ。あのソロを、麗奈と一緒に。

「久美子、ちょっと痛い」

「あ、ごめん」

 ついつい感情がこもり過ぎて、気付けば麗奈の手を握る力が強まっていたようだ。慌てて手を離すと、麗奈は握られた手をさすり少しだけ頬を膨らませたが、やがてくつくつと愉快そうに笑いを洩らし始めた。何だか気恥ずかしくなって、久美子はどうにか話題を変えようとする。

「えっと、そう言えば麗奈の進路って、確か海外の音大だって言ってたよね」

「えっ?」

「いつ向こうに行くの?」

 急に進路の話を振られたからか、麗奈は少しだけ怪訝そうに眉間に皺を寄せたが、気を取り直すように質問に答えてくれた。

「入学が来年秋の予定だけど、現地の環境に早く慣れたいから、高校卒業したら向こうに行くつもり」

「そっか」

 少し湿った夜の空気に、久美子は思わずむせそうになる。卒業したら麗奈は海外に行ってしまう。こうして二人並んで過ごせる時間はもうそれほど多くないのかも知れない。そのことを思うだけで、全身をびりびりと引き千切られるみたいだった。まだ麗奈がいるうちですらこうなのに、もし麗奈が本当に向こうへ行ってしまったら、その時自分はどうなってしまうのだろう。やがてその日が来ることを想像するだけで、怖かった。

「久美子は、進路はどうするの?」

 麗奈が長い黒髪を手で掬い、さらりと横に払った。風がほとんど吹かないからだろうか、微かに蒸し暑さを覚える。首筋に汗が垂れているような感触がして、久美子はそれを手で押さえつけた。

「あのね麗奈」

 息を一つ、ゆっくりと吸い込む。そしてそのまま、言葉と共に吐き出した。

「私、麗奈と同じ場所に立ちたい」

 麗奈の眼は大きく見開かれた。その全身はぴたりと止まり、微動だにしない。

「麗奈と比べたら音楽の知識も技術も、経験も全然無いけど、それでも私は本物の『特別』になりたい。麗奈と同じように」

 一息に言って、それから久美子は、自分の肺が全ての息を吐き切ったことに気が付いた。失ったものを取り戻すようにもう一度大きく息を吸い込む。言ってしまった。とうとう麗奈に、自分の本当の望みを。

 言われた側の麗奈はまだ硬直しきっている。こちらの言葉が理解できなかったのか、それともあまりに突飛な話で度肝を抜かれてしまったのか。ハッと我に返った麗奈はおもむろに久美子の瞳を覗き返して来た。そこに、同じ道を歩むと久美子が宣言したことへの喜びの色は、無い。代わりに困惑と、ほんの少しだけの不安が混じっていた。

「久美子、それって、音大に行きたいってこと?」

 麗奈がおずおずと聞いてくる。その顔色を見て久美子も麗奈の言いたいことを察した。麗奈は多分、自分と同じことを考えている。そしてそれを、どう伝えるべきか迷っているのだ。

「いいよ、正直に言ってくれて」

 出来る限り、声色を柔らかくする。麗奈なら、麗奈になら、何を言われても全部受け止められる。だって麗奈だから。音楽に関しては、麗奈は自分よりずっと正しい。間違いはない。いつか葉月達に話したときとは違う。夢を叶えられるだけの実力と環境を手にしている麗奈だからこそわかっていることがある。久美子もまたそれをわかった上で、麗奈に自分の望みを告げたのだった。だって、それはどうあっても他の何かに取り替えることの出来ない、心からの望みなのだから。

 麗奈の視線が辺りを彷徨っている。しかし久美子がじっと答えを待ち続けていることにとうとう観念して、麗奈は口を開いた。

「じゃあ正直に言う。……相当厳しいと思う」

「だよね」

 振り絞るような麗奈の声に、久美子はあっさりと答えた。音大という進路を考えるにあたり、入学の条件や学費のことなども色々調べてはいた。そしてそれらは今の久美子にとって最大の障壁と呼べるほどのものだった。進路を確定させる期限が刻々と近づいている今、その障壁は文字通り現実味を帯びて、久美子の夢をべったりと黒色に塗り潰しつつある。

 二人の間に言葉が無くなった。静かな森のざわめきだけが、二人の間をたゆたっている。沈黙に耐えられなくて久美子は顔を伏せようとした。その途端、今度は麗奈が久美子の手をぎゅっと握り締めてきた。

「もし、久美子が本気なら、」

 顔を上げた久美子の目に映ったのは、まっすぐにこちらを見据える麗奈の顔だった。痛いくらいに真剣な、麗奈の形相。それが本気で自分の事を考えてくれている証なのだと、久美子は感じ取る。 

「本気でプロになりたいって思うなら、滝先生に相談してみるのが良いと思う」

 滝に相談をする。そうだ、滝は音大の出身だ。彼の知人にはプロの奏者もいればレッスンの専門家もいるだろう。プロへの道を志す上でアドバイスを受けるにはこれ以上ない存在と言える。どうして今までそのことを考えなかったのか? と言えば、決してそうでは無かった。考えはしたけれども、限りなくプロに近かった人から自分の夢を頭ごなしに否定されてしまうのが怖くて、無意識のうちにその選択肢に封をしてしまっていた。

 けれどこうして麗奈に自分の志望を告げ、そして麗奈の精一杯のアドバイスを受けた今、迷うことなど何も無かった。夢は口にしなければ叶わない。そして、夢を叶えるためにはそれに向けて行動しなくてはならない。行動が伴わなければ夢はいつまで経っても夢のまま、現実にはならないのだ。

「わかった、相談してみる」

 久美子は麗奈の手に指を絡ませ、いま一度強くその手を握った。それを弱く握り返した麗奈が申し訳無さそうに俯く。

「ごめん。こんなことぐらいしか言えなくて」

「そんなこと無いよ。ありがとう、麗奈」

 辺りの空気がさわさわと動き出した。夜の帳はすっかり落ち、さっきまで遥か遠くだった祭りの華やぎが、何故か今は鮮やかに色を取り戻しているように見えた。

 

 

 麗奈と別れ一旦自宅に戻った久美子にはその夜、もう一つだけ用事があった。シャワーを浴びて寝るふりをした後、両親が寝静まったのを見計らってそうっと寝床を抜け出す。さっきとは別の服に着替え、机の引き出しを開ける。ひまわりの花をあしらったヘアピン。秀一からプレゼントされたこのヘアピンは、ここしばらくの間はこの引き出しの中で眠ったままになっていた。それを前髪に付け、久美子は物音を立てぬよう開けた玄関の戸口から外へと滑り出る。

 祭りは今頃『梵天渡御』と呼ばれる行事が行われている頃だろう。この梵天というのはいわゆる神輿のことで、これが移動する際には周辺の家々などは灯りを消し、真っ暗な夜闇の中で神輿を迎える。あがた祭りが暗夜の奇祭などと呼ばれる所以である。表に出た久美子の耳にも「よいよい、よいよい」という梵天の担ぎ手達によるであろう掛け声と思しきものが、どこからか聞こえてきていた。

 その声から遠ざかるように、久美子はまっすぐ宇治川のほとりへと歩いていく。見物客の波をすり抜け、塔の島へと至る朱塗りの橋の手前まで行くと、そこに待ち合わせの人物は立っていた。

「秀一」

 久美子が声を掛けると、秀一はゆっくりと首を動かしこちらを見た。

「おう」

 いつものように軽く返事をする秀一。夜影のせいでよく見えないが、その表情はいつになく柔らかかった。

「お待たせ。それじゃ、行こっか」

 二人は肩を並べ歩き出す。祭りの中心地である県神社やその周辺道路は、他の部員や教師と鉢合わせする可能性もある。特に生徒指導の教師に見つかるのは、時刻が時刻だけになるべく避けたい。そう考えた二人はあえて祭りの喧騒とは逆方向へと歩き出す。大勢の人ごみに巻き込まれて離れ離れにならないよう互いの手を握り合いながら、二人とも言葉は無く、ただ暗闇の街に漂う祭りの余韻だけを嗅ぎ取るようにゆっくりと歩き続けた。

 宇治川の上流方面へ向かってしばらく歩くと人の波は徐々に減り、やがて家々の灯りからも遠ざかってゆく。この上り坂の先はダムへと至る道だ。明日は平日という事もあり、学内の関係者もそろそろ撤収した頃合いだろう。ここまで来ればもう声を潜める必要も無いかも知れない。だのに秀一は未だ一言も喋ろうとしなかった。こっちから部活や学校のことなど次々に話題を振っても「うん」とか「ああ」とか、気の無い返事ばかりが続く。やがて会話のタネも無くなり、ひたすら続く上り坂の勾配がもう一段きつくなった辺りでようやく、

「そろそろ引き返すか」

 と、そこで初めて秀一から久美子に喋りかけてきた。

 おかしい。久美子も流石に何かに気付き始める。あがた祭りの夜、少しでいいから出歩こう、と誘いをかけてきたのは秀一の方からだった。久美子的にもせっかくの祭りの夜を秀一と過ごしたい、という気持ちがあったため誘いに応じたわけなのだが、その秀一はここまで日常会話程度のことすら一切口にしていない。夜闇のせいで表情こそよくわからないものの、繋いでいた秀一の手は力無く、ただ久美子をその場へ繋ぎ留めるためだけにやむを得ず掴んでいるようですらあった。その態度は恋人同士のそれとは程遠い。かと言って、他の何かに気を取られているという風でもない。ただ一つだけ言える事は、彼は二人きりで過ごすこの密やかな時間を、明らかに楽しんではいないみたいだった。

「どうしたの。秀一、さっきから何かヘン」

 家々の明かりが届くようになってきたところで立ち止まり、久美子は秀一を下から覗き込む。自分を見下ろす彼の顔は、全くの無表情だった。久美子の肌がぞわぞわと粟立つ。幼少期から今まで一緒に過ごしてきた中で、秀一がこんなにも冷たい表情を向けてきたのは、これが初めての事だった。

「別に、何も」

 ばつが悪かったのか、それとも表情から何かを読み取られたくなかったのか、秀一はそっぽを向く。

「嘘」

 久美子は未だ秀一と握り合ったままの手に少しだけ力を込める。ちゃんとこっちを見て、という気持ちをそこへ込めながら。

「もしかして、一緒に屋台とか行けないの不満だった?」

 初めの問いに、秀一は黙って首を振った。

「最近あんまり一緒に過ごせないの、嫌だった?」

 次の問いには答えず目線を逸らしたままの秀一に、久美子は堪らず痺れを切らした。唇の裏で歯噛みしていたその隙間から、思い切って抉るような一言を放つ。

「じゃあ逆に、私と一緒に過ごしたくなかった?」

 秀一の肩がぴくんと跳ねる。久美子にとってその反応は、頭を横からハンマーでガンと殴られるよりも遥かに大きな衝撃をもたらすものだった。

「どうして」

 二の句が継げず、久美子も顔を伏せる。その顔を鏡に映せばきっと醜くひしゃげていたことだろう。

 久美子にとって秀一と過ごす時間はいつだって、何物にも代えがたい宝物のようなひと時だった。すごく陳腐な言い回しではあるけれど、そうとしか表現することが出来ないくらい、きらきらと輝く幸せな時間だった。だから今夜だって祭りの屋台なんか巡らなくたって、神輿なんか見られなくたって、二人で一緒に過ごせたらそれだけで楽しいし幸せだった。それはきっと秀一もそうなのだろう、と。ところが彼はそうではないと言う。それが何故なのか。どうしてそんなことを言うのか。久美子には一つも理解できなかった。

「最近さ」

 しばしの沈黙のあと、秀一が口を開いた。

「思うんだ。俺達、このままでいいのかなって」

 いいも何も、悪いわけない。私は十分満足だったし幸せだった。それの何がいけないのか。そう問い詰めたくなる衝動を、久美子は必死に堪え続ける。

「ごめん、上手くまとまらない」

 目元を手で覆った秀一が小さく呻く。その仕草はまるで泣いているみたいだった。久美子はただ唇を噛み締めじっと沈黙に耐える。いま口を開けば、その言葉がとどめになって何もかもを粉々に打ち砕いてしまいそうで、それがたまらなく怖かった。一度壊れてしまえば、それを修復することは二度と出来なさそうな気がしたから。

「帰ろう」

 やがて秀一に再び手を引かれ、久美子は家の方角へと歩き出す。待ち合わせの時にはあんなにうきうきしていた気持ちが、今はどんよりと暗く重い砂の中に埋もれてしまったみたいに深く沈み切っていた。頭の中には様々な自問の言葉が浮かぶ。何がいけなかったのか、どうしてこうなったのか、誰が悪かったのか、どうすれば良かったのか――それらは何一つとして答えを紡ぐことが出来ず、気持ちと一緒に砂の中へとめり込み、そしてずぶりと消えていった。

 とうとう久美子達の住まうマンションの付近まで来たところで、何の予告も無く秀一は繋いでいた手を離した。あんなに暖かかった秀一の温度が消え失せ、瞬く間に夜の気温に曝された手のひらが、今はもう凍えてしまいそうなほどに冷たい。それをどうにかやり過ごそうと、もう片方の手で指先をさすってみる。神経がまるで機能していないみたいな感触の無さ。ぎょっとした久美子はその手を強く押さえつけた。

「ごめん」

 秀一はもう一度、さっきと同じ台詞を口にした。

「今日は俺が空気ぶち壊した。せっかくの祭りだったのに」

 ううん、と久美子は首を振る。それは己の本音とはまるで裏腹な行動だった。

「これからは、どうする?」

 絞り出した久美子の声は、ひどく乾いていた。明日から二人の関係はどうなるのか? なんて事、いっそ聞かない方が良かったのかも知れない。だけど聞かずにはおれなかった。こんな雰囲気のまま何もできずに二人の関係が終わってしまうなんて。そんなのは一番嫌だった。

「これだけは、誤解しないで欲しいんだけどさ」

 秀一は久美子の問いに答えぬ代わりに、その両肩をぐっと掴む。

「俺がお前の事を好きだって気持ちには、変わりないから」

 え、と久美子は顔を上げる。その時には既に秀一は久美子の肩から手を離し、数歩ほど後ずさっていた。

「それじゃ、おやすみ」

 言い捨てるようにしてその場を去る秀一に、最後まで笑顔は無かった。何が何だか訳が分からず、久美子はしばらくその場に立ち尽くしてしまう。もう何を信じていいのか分からない。そんな心境を脱し切れぬまま重い足取りで真っ暗な自室へと戻り、そのままベッドへと倒れ込む。

 久美子にとっていちばん信じ難かったのは、一連の出来事に翻弄された結果、完全に情緒不安定になってしまっている自分自身を認識させられた事だった。動揺し、狼狽し、『好き』だなんて言葉に簡単に浮かされる自分が、一緒くたにそこに居る。ふわふわするような、ぐらぐらするようなその気持ちに、自分で落としどころを見つけることが出来ない。そうしてすっかりこの状況に打ちのめされてしまっている。

「私、こんなに弱い女だったっけ」

 目の前のシーツにはいつの間にか小さな滲みが出来てしまっていた。前髪にぶら下がったままのひまわりのヘアピンが何故だか、その時は無性に邪魔だった。

 

 

 昨晩は結局あのまま一睡も出来ず、いつもの時間に合わせて惰性で家を出てしまった。ほぼ徹夜となってしまったため体はうまく力が入らないし、頭の中もどろりと濁っていて、意識が壊れたテレビみたいにノイズで搔き乱されている。最初は思い切って学校を休んでしまおうかとも思ったのだが、そうなると必然的に部活も休まなければならなくなる。一日休めば勘を取り戻すのに三日かかる、と言われるのが音楽の世界だ。この時期にたった一日でも練習をしないというのは、今の久美子にとっては大きな痛手だった。

 駅に着き改札を抜け、いつもの電車に乗る。がら空きの車内。その定位置に麗奈の姿は見当たらなかった。いつもならとっくにシートに座って本を読んだり単語帳をめくったりしているのだが。訝しむ久美子はおもむろに、ポケットから携帯を取り出してみる。

『今日は遅れるから、先に学校行ってて』

 インスタントメッセージには、麗奈から送信された短い文面。麗奈にしては珍しい、などとは考えなかった。あの麗奈が遅刻如きで滝と過ごせる貴重な時間を自ら手放す筈が無い。であれば昨日話した進路の件について、きっと麗奈なりに気を遣ってくれたのだ、と久美子は解釈した。

 実のところ、久美子も朝の時間を利用して滝と話をするつもりでいた。授業の合間ではとてもじっくり話してなどいられないし、部活中となると自分の練習も出来なければ滝の時間も拘束してしまう。そして部活が終わる頃には学校の閉まる門限となってしまい、生徒は速やかに下校しなければならない。このような事情から、滝と込み入った話が出来そうなのは朝一番をおいて他に無さそうだ、と久美子は結論していた。

 京阪宇治駅から六地蔵駅まで、電車に乗っている時間は十分と無い。今にも閉じそうな瞼を必死に上へと持ち上げながら、久美子は昨夜の事を考えていた。秀一の態度。言葉の意味。今日からは普段通りに接することが出来るだろうか。思いは次第にぐるぐると渦を巻いていく。やめよう。ここであれこれ悩んでみても何も解決しない。少なくとも睡眠不足で凍り付いた脳みそでは、いい答えなんて出るわけがない。秀一の事は後回しだ。今はまず、自分のこと。そしてコンクールの事。そうしてるうちにほとぼりが冷めて、秀一とも落ち着いて話ができるようになるかも知れない。そしたら二人でどこかへ出掛けるのもいいだろう。ひとまず前向きに考えて、今はこの事はよそに置いておくべきだ。

 そう思いついた頃にはいつの間にか、自分の足は自然と学校まで辿り着いていた。玄関で上履きに履き替えた久美子はまっすぐ職員室へと向かう。みぞれの引退後、早朝練習のために部室の鍵を開けるのは、いつも一番乗りしている久美子と麗奈の役目となっていた。

「おはようございます」

 あいさつと共に職員室の戸を開ける。今日初めての一声だったが、思いのほか声は掠れてしまっていた。ひと気の無い早朝の職員室はいつも通り、滝が机に座ってノートパソコンを操作している姿があるだけだ。ヘッドホンを付けているところを見るに、他の強豪校の演奏を聴いてその音を分析しているのだろう。がらんとした職員室には微かにコーヒーの香ばしい匂いが漂っていて、それがまた滝が大人であることを感じさせた。

「黄前さん、おはようございます」

 こちらに気付いた滝がヘッドホンを外し、鍵ですね、と机の引き出しに手をかけようとする。その前に、と久美子はそれを手で制した。

「あの、先生に相談したい事があるんですけど。いいでしょうか?」

 手を止めた滝は少しだけ怪訝そうにしたが、ほどなく、

「構いませんよ。どのような事でしょうか」

 と柔らかい笑みを浮かべて久美子に尋ね返した。

「あの、」

 久美子はごくりと唾を飲む。こうしていざ滝を目の前にすると、腰が引けて今にも逃げ出したくなる気分だ。体調もいまいちな状況だし、いっそ適当にはぐらかして後日に改めてもいいのではないか。と、その時一瞬、頭の中に昨晩の麗奈が思い浮かんだ。本気で自分のことを考えてくれていた麗奈。一緒に吹きたいと言ってくれた麗奈。それに応えたい。麗奈と同じ場所に立ちたい。その思いが心の翳りをふうっと吹き飛ばしていく。

「実は私、音大に行きたいって思ってるんです」

 えっ、と滝は虚を突かれたように口を開けた。あるいは予想していたものとは違う言葉だったからだろうか。けれどそれには構わず、久美子は続きを述べる。

「でも自分で色々調べているうちに、考えがまとまらなくなってしまって。それでその、滝先生は音大出身って聞いてたので、話を聞いてもらえたらと思いまして」

 喋るうちに声の勢いが落ちてきて、最後の方はほとんど呟きみたいになってしまった。それは不安のせいもあるが、寝不足で息を継ぎ切れなかったのもある。滝は押し黙ったまま、久美子の次の発言を待っていた。

「私、それでも音大に行きたいんです」

 滝がじっとこちらを見据える。その真摯な瞳には久美子の意図を十全に推し量ろうという気配があった。

「黄前さんは、どうして音大に行きたいのですか?」

 いたって落ち着いた、しかし鋭さのある声。久美子は自分でも知らぬうちに拳を固く握り締めていた。その内側ではじっとりと汗が滲み、それとは対照的に、口の中がカラカラに乾いてゆく。

「私、ユーフォニアムが好きです。ずっとユーフォを、音楽を続けていきたいんです。だからプロの演奏家になるために、音大に行きたいんです」

 昨夜と全く同じ熱量でもって久美子は言い切る。滝は僅かに目を伏せ何かを思案し、それから再び顔を上げた。

「音楽を続ける手段は、何もプロだけとは限りません。他の仕事をしながら一般の音楽団体に所属する道も、個人の趣味として割り切る道もあります。私のように教職という形で音楽に携わる事も出来ます。何故、プロなんですか?」

 ストレートな滝の問いに、久美子は少しだけ言葉を迷う。取り繕うようなことなら幾らでも言える。けれどここだけは他の言葉に任せるわけにはいかない。自分の想いを言葉にしなくちゃ、きっと滝には伝わらない。意を決し、久美子は口を開いた。

「演奏者として『特別』になりたいからです」

 それがどれだけ本気か。どれほどの覚悟を秘めているのか。久美子は久美子なりに、その想いのたけを言葉へ乗せる。ふう、と短く息を吐いた滝が自分の眼鏡を指で直すと、反射したレンズが鈍く光った。

「黄前さんの気持ちはわかりました。ですが恐らく黄前さんも既に調べている通り、音大への道はそう簡単なものではありません」

 そこで滝はいったん言葉を切った。

「まず音楽学部の入試には一般的に、専攻楽器の実技の他に副専攻楽器の実技、楽典や聴音などの試験が課されることになります。副専攻はほとんどの場合、ピアノの実技試験です。程度としては比較的簡単ですが、それでも相応の訓練をしていなければ合格出来るものではありません。黄前さんはこれまでそのような、本格的なピアノのレッスンを受けたことはありますか?」

 滝の一言に久美子の臓腑は抉られる。それは半ば予想通りの質問を投げ掛けられたせいだった。ピアノの経験なんてせいぜい、小学生のころ教室に置いてあったオルガンを遊びで弾いたことがある程度だ。まともな運指も奏法も分からなければ、何か曲を弾ける自信なんてこれっぽっちもありはしない。無言のままの久美子を見て滝はそれを答えと受け取ったのか、言葉を続ける。

「それと学費です。音大は私学が多いですが、一般的な私学より更に倍以上の学費がかかります。加えて自分が使うことになる楽器の購入やメンテナンス費用、レッスンをして下さる講師の先生に支払う謝礼、練習場所の利用料、これらを合わせれば年間にかかる費用はさらにかさみます。受験料まで含めれば親御さんの負担もかなりのものですし、練習時間の確保を考えればアルバイトで学費を賄うのも難しいでしょう。奨学金を受けたとしても微々たる額です。その点について、親御さんと話はしていますか?」

 久美子は何も言えぬまま、首を横に振るしかなかった。そもそも両親には音大に行きたいという話すらした事が無い。もし調べた通りに学費の話をすれば、恐らく二人揃って目玉をひっくり返すことだろう。

「それでは相当に厳しい、と言わざるを得ません」

 そう告げる滝の声はひどく落ち着いていた。もちろん久美子にしたって、それで引き下がるわけにはいかない。滝に相談をした真の理由は、その相当に厳しい状況の中で少しでも可能性の高い選択肢がどこかに無いかを模索するためなのだ。自分一人では、あるいは素人では見つけられない思いもつかぬ道を、もしかして滝ならば知っているかも知れないと思ったから。

「吹奏楽の成績が優秀な学校を対象に、その卒部生を受け入れる指定校推薦というのがあるって聞いたんですけど、それはどうでしょうか」

「指定校推薦ですか」

 滝は拳を口元に当て、少し考え込む。

「確かにそういう条件で入学者を取る学部もあるにはあります。ですが少なくとも、私が北宇治に赴任したこの二年間は指定校推薦の話はありませんでしたし、進路担当の先生からもそういった話は伺っていません。今年度の募集はまだ分かりませんが、一般大ならともかく器楽専門の音楽学部となると、指定校推薦に期待をするのは正直難しいでしょうね」

「そうですか」

「それに万が一そのような方法で音大に入学できたとしても、音楽に関する基礎的な知識や技術が足りなければ早晩のうちにレッスンについていけなくなり、やがて振り落とされてしまうでしょう。そういう意味でも、このような手段に過剰な期待をするのはあまりお勧め出来ません」

 はい、と久美子は力無く頷く。確かに滝の言う通り、音大に入る事はあくまで通過点に過ぎず、目的ではない。入れただけでは意味が無いし、入ってもその後がプロの道に繋がらないのであれば結局のところどうしようもないのだ。実のところ最も可能性があるのではないかと久美子が思っていたのは、コンクールで結果を出し推薦枠に選ばれる、この指定校推薦という手段だった。副専攻や学費の問題は残るが、もし仮に副専攻の条件だけでもかわすことが出来れば、それは音大進学への望みをつなぐ大きな手掛かりとなる。それだけに、滝の極めて冷静で現実的な回答は久美子にとって大きな落胆と失望をもたらすものだった。

「それとこれも既にご存知でしょうが、黄前さんの考えるようなプロになる為には、ただ音大を卒業すれば良いというわけにもいきません。殆どのプロ奏者はプロになる前に大きなコンクールなどで良い成績を収めています。そうして初めて世に実力を認められ、音大卒業生の中でもほんの一握りだけが楽器で食べていけるようになるのです。それ以外の人は私のように他の職に転ずるか、夢を追い続けるか、どちらにしても一筋縄ではいきません」

 それは久美子も様々な調査をする中で驚かされた真実の一つだった。音大を卒業しさえすれば何かしら音楽に携わって生きていけるだろう、などという考えは恐ろしく甘いものだったのだ。例えば滝のように学校の音楽教師を目指すとすれば教職のための課程、カリキュラムを組む必要がある。しかし全ての音大が教職課程を取れる体制になっている訳では無い。極端な話、教職課程を取れない音大へ進学してしまうと、その後の選択肢はぐっと狭まってしまうこととなる。

 それに音楽という分野は明らかに、他の仕事への潰しが利かないものだ。器楽専攻の演奏者ともなればさらに先鋭化され、プロの演奏家になれなければ他に道は拓けない、とまで断言することができる。この点においても久美子はとても両親を説得出来そうな気がしなかった。下手をすれば血の滲む思いで必死に全てを注ぎ込んだ数年間を、丸ごと棒に振って終わることにもなりかねない。これを親に話せは当たり前のように猛反対されるだろうし、それより何より、自分の人生がそうなるかもしれないという事実はただ純粋に、久美子を怯えさせた。

「ただ中には音大出身でなくとも、プロの演奏家として第一線で活躍されている方がいらっしゃる、というのも事実です」

「え、」

「もし黄前さんがどうしても音楽の道を志すのであれば、音大ではなく教育大学の音楽学部や芸術大学など、条件として入れそうなところを選んで音楽の基礎から勉強をし直す手もあると思います。こういった学部は試験内容が音大に比べて緩かったり、筆記だけで入学できる場合もあります。少なくとも、今からピアノや聴音のレッスンを始めて合格圏に入ろうとするよりよほど現実的です。入った後のことは黄前さんの努力次第ですし、この場合も当然ながら茨の道になることは間違いありませんが、そういう選択肢は考えていましたか?」

「あ……と、いえ」

 どうとも答えられず、久美子は滝に曖昧な返事をした。実のところそれは思いもかけない選択肢だった。そもそも久美子は麗奈のような特別な存在を目標にしていたから、プロになるには音大しかない、と頭から思い込んでいる節があった。それ以外の道からもプロを目指せるなどとは夢にも思わなかったし、そんな方法を調べてみようとすら考えつかなかったのである。

「知りませんでした、そういう例については、後で調べてみます」

「わかりました。正直なところ、私も各音大の入学事情に関してはそれほど詳しくないので、今はあまり良い答えが出て来ません。黄前さんにとって最適な選択が無いか私自身調べてみますし、詳しい知人にも聞いておきます」

 にっこりと笑みを浮かべた滝に、久美子は自分の心が少しだけ緩むのを感じる。一貫して厳しい現実を語りつつも、滝は久美子の夢を頭ごなしに否定することはしなかったし、その夢が叶う方向を一緒に探ろうとしてくれていた。単に音大に入れるかどうかではなく、そのさらに先に本当の目標があるという事を滝はきちんと理解してくれている。今はそれで十分だった。

「ありがとうございます。それじゃ私、朝練に行ってきます」

「ご苦労様です。他にも何か進路について懸念があるようでしたら、いつでも相談して下さいね」

 はい、と鍵を受け取って職員室を出た久美子の全身に、どっと疲労が押し寄せる。何だかんだで進路のことを話すのには緊張も不安もあったし、それに加えて体調のせいもあるだろう。本音を言えばもう家に帰って寝てしまいたいぐらいだったが、授業中うっかり居眠りしないように、と久美子は心の中で己に喝を入れる。それもプロへの道に繋がるかも知れない。今の自分に出来る事は何でも、とにかく精一杯やろう。

 

「黄前さん、もうお昼休憩終わっちゃうよー」

 誰かに肩を揺すられ、ゆっくりと目を開ける。寝ぼけ眼をこするとそこには同級生の顔。四時間目の授業が終わった後、お昼を食べる気力も体力も無く、限界を迎えた久美子はそのまま机に突っ伏していたのだった。

 時計の示す時刻は既に午後一時過ぎ。次の授業が始まるまでもう数分も無い。おなかが悲鳴のような音を鳴らしているが、流石にこれでは弁当箱を開ける余裕も無さそうだ。次の休み時間に食べることにしよう。そう結論し、久美子は未だ眠気を湛える顔を洗おうと手洗い場に向かった。

 

 

 練習漬けの毎日はどんどん過ぎ去ってゆく。次第に楽譜と向き合う時間が増え、部員同士は周りに負けないよう必死にしのぎを削る。合奏での滝の指導は厳しさを増し、そこで見つかった新たな課題にそれぞれが取り組んでいく。時には練習のキツさに涙する者もいれば、後れを取り返そうと必死になって個人練習に没頭し続ける者もいる。毎年この時期にこんな光景が広がるのはもはや恒例となりつつあった。それでも時間は残酷なまでに進み、六月のカレンダーはもう下旬を示していた。

「それでは、これよりコンクールメンバー選出のオーディションを始める」

 副顧問である美知恵の号令に全員が背筋を正す。普段は部長である久美子が部員達に指示を出す役目を負っているが、オーディションの時だけは美知恵が一貫して部員への連絡指示、そして合格者の発表を行う。ちなみに今年の北宇治は部員数が八十名を超えているため、オーディションは二日に分けて行うこととなった。一日目が金管と打楽器、二日目が人数の多い木管だ。

「それでは初めにトランペットからオーディションを行う。他のパートの者達はそれぞれ練習場所で待機していろ。オーディションの終わったパートから次のパートへ連絡をしてもらうので、呼ばれたパートは速やかに音楽室へ来ること。なおオーディション中、他のパートの音出しは一切禁止だ。わかったな?」

「はい!」

 部員達は一斉に返事をする。美知恵は再確認を促すように頷き、続けてトランペットパートの面々に廊下脇へ並べた待機用椅子へ座るよう指示をした。他の部員達がぞろぞろと退室する中、久美子はその波に紛れて麗奈と幸恵の様子をちらりと窺う。麗奈はいつも通り落ち着いた表情で、緊張や高揚は一切見られない。一方の幸恵はがちがちに緊張しているのか、顔を青くして手元のトランペットを強く握り締めている。その手は微かに震え、ふうふうと小さく呼吸を漏らしていた。こうして見ていると幸恵は案外緊張に弱いタイプなのかも知れない。二人とも頑張れ、と久美子は心の中で念を飛ばす。

「ああ~緊張する」

 教室に移ってから小一時間。三年三組では低音パートの一同が楽器を置き、その時が来るまで待機していた。あまりの緊張に堪えかねたらしい美佳子が上を向き「ぐへえ」と溜まりに溜まり切った息を吐く。

「普段通りにやれば大丈夫だって。落ち着いていこう」

 今年は絶対葉月と一緒に吹きたい、と日頃から口にしていた美佳子にとって、今日のオーディションはまさしく天王山といったところだろう。そんな彼女をなだめる葉月は一年目の頃の面影など微塵もなく、いたって平静を保っていた。数々の大舞台を経験してきた葉月にとって、もはや学内のオーディションぐらいで落ちるつもりなど毛頭無い、という自信がある事がその態度からは見て取れる。とは言え誰であっても油断は禁物。オーディションの場でミスが目立つようなことがあれば、まさかの転落だって無いとは言い切れない。けれど久美子から見て今の葉月には、そんな心配などまるで無用だった。

 さて雫は、と久美子は彼女の様子をそっと窺った。現在の雫はユーフォを抱えたままぴくりとも動かず椅子に座っている。緊張をしているという感じではなく、いつもの楽譜読みもしていない。ただ純粋に集中を高めているらしく、時折ピストンを動かしながらブレスの感覚を確かめているみたいだった。その所作には少しの迷いもなく、まるでこれから戦に臨む武士のごとく、静かに刃を研ぎ澄ませているような気配すら感じられる。

 果たして久美子はと言えば、もちろんそれなりに自信はある。テスト期間中も楽器の練習は欠かさなかったし、楽譜を楽譜の通りに吹ける段階はとっくにパス出来ている。ソロ云々の話はひとまず置いておくとしてもレギュラー落ちはまず無いだろう。それでも流石にいざ滝の前で演奏を披露するとなると、まったく緊張しないという訳にはいかない。もしミスったらどうしようとか、比較的自信の無いところを指定されたら、という不安だってある。そんな気配をおくびにも出さない雫や緑輝はこういう状況に慣れ切ってしまっているのか、それとも常人のそれとは全く異なる精神構造をしているのか、一体どっちだろう。

 他人の事なんて考えたって仕方ない。自分は自分。今はまず目の前の演奏に最大限集中することだ。久美子は深く息を吸い込み、そこで息を止めて目を閉じ、ゆっくり少しずつ息を吐き出す。本番前に緊張を殺し集中するためのルーティーン。息を押し出すにつれて高揚していた気持ちが収まり、周囲の雑音を感じなくなる。息を全て吐き切ったところですうっと瞳を開くと、腹の底から再び自信の炎が揺らめき出したのを感じる。

「お待たせしました、次は低音パートです」

 丁度その時、オーディションを終えたトランペットパートの幸恵が久美子達を呼びに来た。

「じゃあ、行こうか」

 楽器と楽譜を持ち、一同は連れ立って教室を出る。久美子が廊下に出ようとしたところで、幸恵はこちらに向かってウインクをしてきた。くみ姉頑張って。そのウインクにはそういうメッセージが込められているような、そんな気がした。

 

 オーディションの二日間はあっという間に終わり、あとは結果発表を待つのみとなった。すっかり長くなった夕暮れの日差しは少しだけ強く、じわじわと夏の気配を醸し出し始めている。いよいよ夏が来る。あの熱い胸の焼けるような夏が。恐らくこの先の人生で二度と巡ってくることの無いであろう、己の青春と情熱の全てを賭けて挑むあの瞬間が、来てしまうのだ。自宅近くの宇治川沿いを歩きながら、久美子は夜の帳が掛かり始めた空を眺める。薄く引いた雲が沈みゆく陽に焼かれ、昼と夜の境界線は急激なグラデーションに彩られている。その明暗の差はなんとなく、今の自分の心境と似通っているような気がした。

 滝によるオーディションでは自由曲と課題曲の指定箇所以外に、自由曲のソロの部分も吹くよう指示された。もちろん、久美子は自分に出来る限りの最高の演奏をした。しかし一番手だった久美子には後の順番である雫の演奏がどうだったかは分からず、それだけが気掛かりだった。雫は久美子のいる前ではソロの箇所をほとんど吹くことが無かったからだ。もしかすると雫も自分と同じように、滝からソロの箇所を指示されたのかも知れない。だとしたら一体どんな演奏をしたのだろう。滝はそれを、どう判断したのだろう。

 来月にはソロオーディションが待っている。雫は、ソロ希望者として手を挙げるだろうか。もしそうなったら雫と真っ向から激突することになる。先輩と後輩のポジション争い。強豪校なら当たり前のことだし強豪校でなければ尚更のこと、コンクールで勝つためには例え後輩でも上手い人が吹くべきだ、と久美子は常々考えてきた。それはかつて麗奈と香織とで色々揉めた際に、当時一年生だった麗奈を実力主義で支持したのと同じ理屈だ。けれどそれ以上に、ソロが曲全体を構成する大事な一要素である以上、ホールに響くべきは最も美しい音色でなければならないという持論ゆえでもある。

「上手い人が吹くべき、か」

 そうだ。何だかんだ言っても結局は単純な話、自分が雫よりも上手く演奏出来ればいいのだ。そうすれば結果は自ずとついてくる。残り一カ月弱、ひたすら自分の演奏を磨き上げ続けよう。今の自分に出来ることはそれ以外に無い。

 そう思ったところで丁度、久美子の足は自宅のあるマンション前まで辿り着いていた。そこはあがた祭りの夜、秀一とひと悶着あった例の場所。あれ以来、秀一とは何となく気まずい関係が続いている。インスタントメッセージでやり取りをすることも無ければ、学校や部活内での接触も必要最低限しかしていない。二人きりになるとあの夜の事を蒸し返しそうで、それが亀裂を決定的なものにしてしまいかねないのが、怖かった。結果、無意識のうちに秀一を避けて通る自分がいる事に久美子は気が付いていた。そうせざるを得ない自分の至らなさが、この上なく歯痒かった。

 

「それではオーディションの合格者を発表する」

 壇上にはクリップボードを手にした美知恵の姿があった。音楽室には既に部員全員が集合している。オーディションから数日後、いよいよ結果発表の時だ。自信はあっても緊張することは間違いない。忙しなく跳ねる心臓のある辺りを、久美子はきゅっと握り締める。

「呼ばれた者は返事をするように。呼ばれなかった者はコンクールのサポートメンバーとなる。サポートメンバーは発表終了後、ただちに第二視聴覚室に集合すること」

「はい」

 部員達が一斉に返答する。それを合図に、美知恵は合格者の名前を読み上げ始めた。

「まずクラリネットから。三年、植田日和子」

「はい!」

「三年、高野久恵」

「はい」

 順々に合格者の名前が呼ばれ、その度に歓喜と悲痛の声が交々と混じる。そこで名前を呼ばれなかった人は即ちレギュラーの選抜に落ちてしまったことを意味する。木管の合格者発表が一通り終わり、金管はホルンから順に名前を呼ばれていった。ちらりと横を見ると、葉月と美佳子は互いに両手を組んで一心に祈っている。葉月の性格を考えればもしかして、自分の事より隣にいる美佳子の合格を祈ってあげているのかも知れない。

「次、低音パートはユーフォニアムから」

 いよいよその時が来た。久美子の心臓がひときわ高く跳ね上がる。

「三年、黄前久美子」

「はいっ」

 名前を呼ばれ、久美子はしっかりと返事をした。同時にじわじわと込み上げてくる喜び。達成感と安堵感。越えるべき最初のハードルは順調に越えることができた。後は、他の皆はどうだろうか。

「一年、芹沢雫」

「はい」

 透き通った声が鼓膜を揺らす。雫はいつも通りの無感情さで返事をしていた。彼女もまた自分とは別の意味で合格を確信していたのだろうか。涼しげな雫の態度に、久美子はある種の不敵さにも似たものを見出してしまう。

「以上、合格者は二名。次にチューバ。三年、加藤葉月」

「はいっ!」

 美知恵の声が途切れることなくチューバの発表へと移ろう。ユーフォの合格者は二名。そこで名前を呼ばれなかった相楽は落ちてしまったということを意味していた。やはり以前に葉月達と話していた通り、ユーフォから三人とも選ばれるなんてことは無かった。

「二年、吉田美佳子」

「は、はい!」

「一年、星田計喜」

「はい」

 こちらは予想に反してチューバ三名全員が合格という結果だ。葉月と同じコンクールの舞台で一緒に吹きたい、と常々言っていた美佳子の念願はひとまず叶ったと言える。

「チューバは以上三名。次にコントラバス、川島緑輝」

「はい」

「コントラバスは以上一名だ」

 コンバスはやはり今年も緑輝一人だけが合格者だった。当初に比べれば真帆も緑輝とのマンツーマン特訓を通じてかなり上達して来てはいたのだが、こればかりは仕方がない。緑輝が抜ける来年以降の活躍とそれまでにより多くの成長とを、これからの真帆には期待したいところだ。こうして低音パートのレギュラーメンバーは全て決したのだった。

 その後も発表は滞りなく進み、トランペットパートは三年の麗奈と吉沢、二年から二人、そしてなんと一年の幸恵も指名された。もともと入部当初から一年生の中では上手い方とは思っていたし、つい先日も麗奈は幸恵の腕前を二年生の平均ほどと評してはいたが、ここ一番でレギュラーの座を掴むまでに至ろうとは。そんな思いと共に幸恵に視線を送ると、彼女はこっちと目が合うなり満面の笑顔でこっそりピースサインを送ってきた。久美子も指を二本立て、細めのピースサインを送り返す。

「以上の五十五名がコンクールのレギュラーメンバーだ。それではさっき言った通り、サポートメンバーはこれから第二視聴覚室に集合し、滝先生の話を聞くように」

 美知恵の一声に流されるようにして、サポートメンバーとなった人たちがぞろぞろと部室を出ていく。久美子はその流れに混じる相楽の姿を目で追った。憮然としたその表情には悔しさもあれば、こうなることを予め分かっていたとでもいうような諦観の念も入り混じっているように見える。相楽だって何だかんだ言いながらもここのところは真剣に練習に取り組んでいたし、徐々に上達を見せてもいた。けれど滝によるオーディションの結果はとても厳正で、その采配に選ばれなかった相楽が今年のコンクールに出ることは適わない。それは雫という完璧超人がいたせいなのか? それとも相楽の実力が滝の基準にいま一歩届かなかっただけか? 浮かぶ疑問に答えを出すことは、久美子には出来なかった。

「では次に、今ここに残ったレギュラーメンバーを対象に、ソロオーディションの希望者を募る」

 そう、ここからが最も重要だ。久美子は歯を食いしばる。今の北宇治はソロパートの担当者をレギュラーメンバーの中から募り、およそ一か月後の部内オーディション、つまり部員全員の前で独奏を行い全員の採択によって選ぶ方式を採っている。望んでいた麗奈との協奏を実現させるためには、このソロオーディションを制さなければならない。

「なお、ソロを希望する者がいなかった場合は滝先生の指名によりソロ担当者が決定される。後日異議を唱えることは出来ないため、ソロを希望するならば必ずこの場で手を挙げること。いいな?」

「はい!」

「それではまずフルートパート、ソロを希望する者は手を挙げろ」

 久美子の心臓がどくどくと、刻むペースを速めていく。もし、もしも万一ここで、雫がソロオーディションの希望者に手を挙げなければ。そうすれば久美子は自動的にユーフォソロを担当することが決定する。トランペットパートは誰が手を挙げようと、麗奈の演奏力に及ぶことはないだろう。そうなれば念願の麗奈との掛け合いを、コンクールという晴れの大舞台で奏でることが出来る。そうあって欲しい、と久美子は思っていた。

 雫の演奏技術を恐れる気持ちも勿論あったが、それを通じて雫との間にギスギスした空気を作ってしまうのも嫌だった。かつて中学時代の自分と当時の先輩とがそうであったように。もしここで雫が手を挙げてしまえば、その時はどうなるか――。中学時代の先輩や二年前の香織と同じような立場に置かれた時、果たして自分がどういう行動を取るかは分からなかった。それを思うと、後ろ向きな発想であるとは重々承知しながらも、そんな未来が現実のものにならないようにとただ一心に念じる他は無かった。

「次、トランペットパート。ソロを希望する者は」

 ここで真っ先に手を挙げたのは、やはり麗奈だった。他のトランペットパートの面々は誰一人として手を挙げない。……と思いきやただ一人、幸恵が高々と手を挙げている。彼女の予想外な行動に、部室のそこかしこからにわかにざわめきが起こった。

「静かにしろ! ――ではトランペットのソロ希望者は高坂と東中、以上二名だな」

 美知恵はいたって事務的に、麗奈と幸恵の名前をそれぞれボードに書き込んでいく。敬愛する先輩に真っ向勝負を挑むだなんて一体何を考えているのだろう。幸恵の意図がもう一つ掴み切れない。そう思っていたのは久美子だけでは無かった筈だ。

「では次、ユーフォニアムパート。ソロを希望する者は手を挙げろ」

 来た。麗奈がそうしたように、久美子は真っ先に右手を上に掲げる。その意識は挙げた手にも、こちらを見る美知恵にも無い。隣に立っている雫が手を挙げるかどうか、ただそれだけを視界の端で監視し続けていた。お願い。やめて。手を挙げないで。祈るような久美子の思いはしかし、雫に届くことは無かった。雫はゆるりと、しかし高々と真っすぐに、その右手を天に向かって伸ばした。

「ユーフォは二名ともだな」

 誰にも気づかれぬよう、久美子はそうっと吐息を漏らす。やっぱりこうなってしまった。薄々はわかっていたし覚悟も出来ていた。自分がソロを吹くためには、この目の前の強敵を打ち倒さなければならない。嫌が応にも、一ヶ月後のオーディションでどちらが上手いか雌雄を決することになる。恐れていた一騎打ちの構図は今ここに、不可避の現実となって久美子の前へと立ちはだかった。

 ふと雫を見やると、顔だけをこちらに向ける雫が久美子をじっと見据えていた。その表情はいつに無く血気に満ちているようにも取れる。宣戦布告。久美子はそう直感した。

『どちらがソロに相応しいか、ここで決着を付けましょう』

 雫の瞳がそう告げているかのように、久美子の目には映っていた。

 

 

 

「音楽が好きだっていう久美子の気持ちは分かったわ。でもだからって、音大なんて」

 自宅の居間に母の声が響く。目の前にはただ困惑する母の顔。そして腕を組み目を瞑ったまま、一言も発することの無い父の姿だった。

「ごめん」

 久美子が言えたのはそれだけだった。正直なところ、言うのが遅すぎたと後悔していた。もっと早くに志望を打ち明け、それに向けて準備を進めていたら、今頃はもっと将来に希望が持てる状況を作れていたかも知れない。楽しい夢を夢のままにして現実の対策をせずにここまで来てしまったことは、他の誰のせいでもないし何の言い訳もできなかった。全ては自分の考えが甘かったせい。芳しくない反応を見せる両親を目の前にして、久美子はそれをただただ痛感するしかなかった。

「でも私、どうしてもプロの演奏家になりたい。今からじゃ遅いかも知れないけど、この気持ちだけは諦められない」

「そう言われても……。ねえお父さん」

 返答に窮した母が言葉を求めるも、父は依然険しい表情で黙ったまま。だがそれも至極当然というものだった。いきなり音大とかプロとか言われて「ハイそうですか」と言えるほど黄前家は裕福な家庭環境ではない。ましてや音楽の専門的な訓練を受けてきた訳でもない娘がいきなり音楽の世界へ飛び込もうとするのを、この両親があっさりと受け容れられるわけも無い。姉の一件を間近に見ていた久美子にとって、こうなるのはとっくに見当のついていたことだった。

「とにかく私は、もう少し考えた方がいいと思うわ」

「だから、もう遅いくらいなの。今からだって動き出さなきゃ間に合わない」

「でも焦って答えを出したって、」

 その時、突然椅子を引いて父が立ち上がった。大きな音と共に噴き上がる威圧感。久美子と母は同時に口をつぐみ、ぴりぴりとした空気が瞬く間に居間を支配する。父はそのままずかずかと寝室へ向かった。いつかの時と同じように、勘当同然のことを自分も言い渡されるのだろうか。がたがた震えそうになる自分の腕を鷲掴みにして、久美子はなんとか堪えようとする。

 と、そうこうしているうちに父はすぐに部屋から出てきた。その手にはしわしわになった茶封筒が握られている。そのまま席に戻った父は茶封筒に手を入れ、中身を久美子に差し出した。

「これって……」

「お前の名前で作ってあった預金の通帳だ」

 開けてみなさい、と言われて久美子は通帳を開く。そこには久美子が今までの人生で見たこともないような桁の金額が記されていた。通帳を強く掴み、久美子はその額面を二度見する。

「麻美子が家を出て行ったときにな、言われたんだ。自分のことは自分で何とかする。だがもしも久美子が自分の行きたい道を私達に告げる時が来たら、その時はなるべく力になってやって欲しい、と」

 その額は久美子が予め調べてあった音大の学資に、十分とは言えないまでもかなりの当てに出来るほどであった。久美子は息を呑む。姉が家を出て行ってから一年半。その間、両親はこれほどの額を自分のために蓄えていてくれたのだろうか。

「もちろん母さんとも相談して、かなり無理はしたが少しずつ貯めておいた。麻美子からも毎月足しにするよう送られてきていた。もう一度言うがこれはお前の名義で作った預金通帳だ、お前が自分のために使え」

 鼻の奥がツンとする。目の前の通帳の文字がぐにゃりと歪んで、何かを喋ろうにもうまく言葉が出てこない。

「だがな、私達に出来るのはこのぐらいだ。その預金も、お前が自分のやりたいことをするために、よく考えて使いなさい。これ以上のことは期待せず、足りない分は自分でなんとかする事だ。いいな」

 言葉を発せぬまま、久美子は何度も頷いた。目から止めどなく溢れ出るものを拭ううち、気付けばその両手を顔から離すことが出来なくなっていた。

「それと言っておくが、もし夢が叶いそうにないと思った時は、きちんと見切りをつけろ。麻美子も自分の夢のために、自分で自分の人生に責任を負う道を選んだ。お前も自分の人生と選択には、自分で責任を持て。好き勝手に生きるためではなく、自分の人生を成り立たせるために、そのお金があると思うことだ。それが、その通帳をお前に渡す条件だ」

 父の表情は険しいままだったけれど、その言葉は久美子の胸の奥深くまで響き渡った。気付けば母も堪えきれず目を潤ませていた。何もない、ごく普通の一般家庭だと思っていたけれど、久美子はそれまで過ごして来たこの家を、一緒に暮らして来た家族のことを、そしてその中にいられた自分の事を、本当に幸せだと思った。

 

 

 マウスピースから唇を離し、辺りをぐるりと見回す。窓の外ではしとしとと雨が降っている。梅雨ということもあってここ数日は雨が続き、練習場所である教室の中もしっとりと湿った空気になりつつあった。六月も既に過ぎ去り、来週にはもう期末テスト期間。それが過ぎれば夏休み突入とほぼ同時にソロオーディション。そしてその二週間後にはいよいよコンクール京都府大会だ。あまりの時の速さに久美子は目眩すら覚える心地だった。

 進路に関して親の承諾を得られたのはちょうど一カ月前、あがた祭りの翌朝に滝に相談をした日の夜だった。それから久美子はずっと、空いた時間を見つけては自分の可能性を賭けられる進学先を模索し続けていた。けれど未だに条件の見合う良い大学は見つからず、そうこうしているうちにもう七月だ。

 他の三年生の殆どはそろそろ志望の進路に向けた動きを本格的に開始している。麗奈は言うに及ばず、葉月や緑輝だって既に自分の進路を決め、学校と部活の合間に色々と動いているのだ。それに引き換え自分など、試験対策はおろかどこに行きたいかすらまるで定まっていない。こんなことで本当に大丈夫なのだろうか。未だまっさらな白紙状態の将来を思うと、流石に暗澹たる心境にならざるを得ない。

 ダメだ。一人で楽器を吹いていてもどうも今一つ集中できない。そう決めた久美子は立ち上がり、今日の練習を終えることにした。下校する前にトイレに向かい、お手洗いを済ませてトイレを出たその時、

「……そんな……ダメ……」

 久美子の耳に誰かの声が飛び込んで来る。低く抑えられてはいるが、それは女子の声だった。何をしゃべっているかまでは聞き取れず、久美子は足を止めて声の出どころを探る。

「……いいだろ……だって……」

 今度は男子の声。その声には聞き覚えがある。というか、他の人と間違えようはずも無い。それは秀一の声だった。久美子の足は無意識のうちにそろりそろりと声の方向へ向かっていく。普段であれば秀一はとっくに練習を切り上げ家に帰っている時間の筈だ。なのにどうして、秀一が学校に残っているのだろう。そして恐らくは秀一と喋っているらしき女子、彼女は一体誰なのだろう。久美子の胸の内にもやもやしたものが浮かび始めた時、再び女子の声が聞こえた。

「それじゃ、久美子の事はどうするの?」

 今度はハッキリ聞き取ることが出来た。あの声は、葉月のものだ。それが分かった途端、久美子の心臓はぐしゃりと握り潰されたように委縮する。反射的に両手で口を押さえ必死に呼吸を殺し、近くの柱の陰に身を潜める。そうしなければ動揺と混乱に押し出された息の音が、自分の存在を葉月と秀一に教えてしまいそうだった。

「どうって、別にそういう話じゃ」

 声の出どころは家庭科室。久美子が隠れた柱の傍にある扉の、その向こうに二人はいるみたいだった。

「じゃあ、どういう事なわけ?」

 問いかける葉月の声には幾分剣呑な空気が混じっている。もしかしたら先ほどまでの会話は、葉月が秀一を咎めていたのかも知れなかった。しかして今の久美子にそのことを深く考えている余裕などまるで無い。秀一と葉月が二人で夜の学校に残っている理由は、こうして二人で話し込んでいる事情は、一体何なんだ。かつての葉月の秀一への想いを知っているだけに、そして何より今現在自分が秀一とうまくいっていないだけに、久美子の脳内は今までにないほどぐるぐると高速回転し、その答えを見出そうとする。

「本当に言ったまんまだって。久美子としばらく、距離を置いた方がいいかもって」

 そう語る秀一の声。一瞬、目の前が暗転したような錯覚に久美子はぐらりと揺れた。距離を置く? 秀一が? 私と? どうして? パニックに陥りそうになる中で、久美子はあがた祭りの夜に秀一が言っていたことを反芻する。

『俺達、このままでいいのかなって』

 何故秀一がそんなことを言いだしたのかを、久美子はあの夜からこれまでずっと忘れていた。いや、正確にはうっかり考えないよう丁寧に、意識の奥底へとしまっておいたのだった。考えれば考えるほど悲観的な答えしか出てこない。けれど秀一は自分を好きと言ってくれている。だったら自分はどうしたらいい? そこで思考はループし、どこまで行っても答えが出てこなくなる。部内オーディションや進路のことを優先的に考えなくてはいけない中、秀一のことにまで気を回す余裕を久美子はすっかり失っていた。それに対する秀一の答えが、これなのだろうか。

「塚本は久美子のこと、嫌いになっちゃったの?」

「そうじゃない。そうじゃなくてさ」

「だったらどうしてなんですか」

 ここで唐突に別の女子の声が混じって来た。これは緑輝の声。それに気づいた途端、久美子の全身から緊張が一気に抜け脱力した。そうか、二人きりではなく緑輝もそこに居るのか。たったそれだけの事で思い切り安堵している自分がいる。我ながら単純なものだ。と同時にさっきまでの暗い想像はすっかり姿を消し、今は秀一がなぜ自分と距離を置こうとしているのか、そのことだけが気掛かりになってきた。ひとまず冷静さを取り戻さないと。久美子は音を出さぬよう注意を払いつつ、指の隙間からするすると息を吐く。

「なんて言うか、本人にも話したんだけど。うまくまとまらないんだよ」

 葉月と緑輝は秀一の次の言葉を待っているらしく一言も発しない。しばしの沈黙のあと、秀一が再び口を開いたようだった。

「最近さ、久美子めちゃくちゃ忙しそうにしてるだろ」

「そりゃあ久美子は部長だもん。滝先生のとこ行ったり書類作ったり、忙しいに決まってるよ」

「楽器の方も、雫ちゃんがいますから。ソロオーディションのこととかもありますし」

 葉月たちの言い分はまさに図星だった。久美子は学校に居る間、授業時間を除けばその殆どを、吹奏楽のために費やし続けている。早朝からの練習も休み時間も、昼練も放課後も門限までの居残りも、ほとんどは楽器か部活関係の書類を抱えて過ごす日々だ。休み時間に同級生と楽しくお喋りしたり吹部の人間以外で仲の良い友達と寄り道したり、なんてことは部長になってからずっとしていなかった。

「そう。しかも進路のこともあるじゃん。久美子がどうするかは俺、まだ聞いてないけど」

「ああ、進路ね……」

 葉月はそこで言葉を濁した。恐らくは久美子が言っていないことを自分の口から秀一に告げるのは良くない、と考えたのだろう。

「俺はもうずいぶん前から大学に行くつもりだけど、あいつはもしかしたら違うかもって思ってさ。そうなったら卒業した後は離れ離れになるかも知れないし」

「つまり、秀一君は久美子ちゃんと一緒にいたいんです?」

 緑輝の直球極まりない質問に、秀一は言いにくそうに、

「……ああ」

 とだけ、短く答えた。

「じゃあなんで距離置くなんて言い出すのさ。もしそうだったとして、卒業したらそれこそ一緒にいられなくなるんだよ?」

 葉月が秀一を諭し始める。こうやって自分の居ないところで自分の話をされるのは何か変な気分だった。別に卒業したからと言って自分と秀一との関係が何か変わるわけでもない、と思っていたけれど、そうか。もし自分が音大に行くとして秀一の進学先と違う地域だったら、その時は秀一とも離れ離れになってしまうんだ。そんな当たり前のことを、こうして他人事のように聞くことで、久美子はようやく咀嚼し始めていた。

「久美子が忙しいのが不満なら、久美子に直接言ったらいいじゃん。もっと一緒に居たいって。久美子ならきっと応えてくれるよ」

「言えるわけないだろ。あんなに頑張ってる久美子に、俺のことも見ろなんて」

 そう言って秀一はふっと吐息を零す。その笑いには幾分、自嘲めいた苦々しさがこもっているような気がした。

「二人はさ、中学の時の久美子のこと知らないと思うけど」

 そう前置きをしてから、秀一は言葉を紡ぐ。

「あいつ昔はホント周りに流されまくってたんだよな。誰に対してもそこそこ愛想いいし、でも深入りはしないし、適当に合わせて何となく過ごしてる感じで」

「それは……ちょっと分かるかも。久美子、高校入ったばっかの頃もそんな感じだった」

「だろ」

 確かに、以前はそうだった。高校に入って何か変わりたいとは思っても、吹部を選んだ理由は葉月達に誘われたからだし、部活の中でいろいろ事件や問題が起こっても、そのほとんどで久美子はただ事態の成り行きを見守ることぐらいしかしなかった。中学の時はそれがもっとひどかった。周囲との軋轢を避けて。何となく居心地の良い場所を作れるように努めて。面倒な出来事は深入りせずにへらへら笑って流して。誰かがこうしようと言い出せば何となく賛同して。けれど本当に自分がどうしたいか、どうありたいか、なんてことはおくびにも出さずに過ごしていた。それはレギュラー争いで先輩とこじれてしまった過去の教訓から身に付けた、久美子なりの処世術でもあった。

「でも最近の久美子は部活の事とかでバタバタしてるけど、すっげえ楽しそうでさ。何て言うか、自分が本気でやりたかったことがやっと見つかった、みたいな感じで」

 秀一はきっと今、少し嬉しそうにしている。久美子はそれを秀一の声の雰囲気から感じ取った。

「しかも放課後は毎日居残りで練習して、家に帰ったら帰ったで宿題やったりとかもあるだろ。日曜も祝日も部活漬けだし。いくら付き合ってるっていっても俺との時間に割ける余裕なんてそんなにあるわけない、それぐらいはわかってるんだ」

 その秀一の語りは久美子の背骨にずしんと響くようだった。自分で思っていたよりも、秀一は遥かに自分の事を見てくれている。考えてくれている。そのことが痛いぐらいに伝わってくる声色だった。

「もしここで俺が俺の気持ちを言い出したら、きっと久美子は俺の事も気遣ってくれる。たぶん二人きりで会う時間も沢山作ってくれる。ただでさえ忙しいのにそんな事になったら、あいつ潰れちまう」

「でも、それで秀一君は良いんですか?」

 今度は緑輝が秀一に問い詰めるような言葉を投げ掛ける。

「良いとか悪いとか、簡単には言えない」

 それは緑輝への返答というよりは、まるで自らに言い聞かせるような、ひたりと辺りに染み込むかぼそい声だった。中の三人はいまどんな表情をしているのだろう。柱の陰に身を潜める久美子には、それを知る術は無い。

「いまの久美子はすごく生き生きしてるし、それは俺もいいことだって思ってる。応援してやりたい。だけどそうなると二人の時間は全然取れない。正直キツいよ。でも今のあいつにキツいって言いたくない。もし俺がそう言ったら、きっとあいつの時間を奪うことになる。あんな楽しそうな久美子の時間を。そうやってずっとあれこれ考えてるとどうしたらいいか、どうするのが俺達にとって良い事なのか、解らなくなるんだ」

「それで距離を置く、ってことなんだ」

 得心した、という空気を帯びる葉月の声が微かにくぐもる。

「確かに久美子、いま部活も進路もどっちも大事な時期だもんね。私達だってそうだけどさ。ここんとこの久美子見てたら、コンクールまでほんとに気の抜けるとこ無いなって感じするもん」

「葉月ちゃん、緑は、」

 緑輝は何か言いたげだったが、うまく言葉を紡げず、そのまま黙りこくってしまった。

「別にさ、塚本だって久美子と別れたいとか思ってるワケじゃないんでしょ」

「ああ」

「だったら今はそれでいいじゃん。塚本が色々悩んだまんまで久美子と向き合おうってしちゃう方が、かえって無理が出て苦しいでしょ。それよりだったら少し間を空けた方がいいって私は思う」

 葉月の声は普段通りの明るいものだったが、どこか柔らかく包み込むような色合いが浮かんでいる、ような気がした。それは単に久美子の気のせいだったのか。それとも塚本を、緑輝を支えようと、葉月なりに精一杯明るく喋ろうとしていたからなのだろうか。

「それより、もうこんな時間。久美子のユーフォの音も聞こえなくなってるし、そろそろ私達も帰らないとやばいよ」

「そうだな」

 ガタガタ、と複数の椅子を動かす音。久美子は万に一つも見つからぬようにとその場で身をかがめた。

「悪い二人とも。いっつも相談に乗ってくれてるのに、今日はこんな話で」

「別にいいよ。言ったっしょ? チューバは影で支えるのが仕事なのだよ、塚本君」

 そこで秀一がふふっと苦笑を洩らしたのを、久美子は確かに聞き取った。

「それじゃ、私と緑は少し片付けてから帰るから」

「ああ。じゃあまた明日」

 こつこつ、と廊下に秀一のものと思しき靴音が響く。音が次第に減衰していくところからして、どうやら秀一は久美子の居る位置の反対側へと歩いていったらしい。

「ほーら緑、私達も帰るよ。そんな暗い顔してたら帰り道でつまづいちゃうぞ」

 教室から再び葉月の声。どうやら一連のやり取りを経て、緑輝はすっかり落ち込んでしまっているらしかった。

「あの、葉月ちゃん」

 うん? という返事と共にきゅうっと甲高い音が鳴る。その場で振り返ったか何か、葉月の靴が床を擦った音のようだ。

「ううん……やっぱり何でもないです」

「何ー、そう言われたら却って気になるじゃん」

 言いたい事あったら言っちゃいなよ、と軽い調子で葉月に促され、緑輝はしぶしぶといった様子で喋り出した。

「本当にこれでいいんでしょうか。緑は何だかスッキリしません」

 だって、とか、なのに、とか、緑輝はしばらくもごもごと何かを訴えているようだ。だがその声があまりに小さくて、何を言っているかまではここからだともう一つ聞き取れない。

「いいに決まってるよ」

 葉月はそんな緑輝に、あっけらかんとした様子で応える。

「これはさ、罪滅ぼしみたいなもんだから」

 罪滅ぼし? 葉月が誰に何の罪を償う必要があるのだろう。久美子は眉間を指で押さえた。もしかすると、葉月の発言の真意は緑輝のもごもごの部分に埋もれているのかも知れない。話の点と点がまったく繋がらず、これでは推理のしようもない。

「さ、帰るよ」

 教室からこつこつと響く二つ分の靴音、それが今度はこちらへと近付いて来た。久美子は咄嗟に体を最大限縮こまらせ頭を壁際へと押し込む。ややあって自分の背後を二人が躊躇もなく通り過ぎていき、やがて足音は階段の方へと遠のいていった。危なかった。すっかり陽が落ちて廊下が暗くなっていたおかげで、どうやら気付かれることなくやり過ごせたようだ。辺りから人の気配が完全に無くなった事を確認して久美子は立ち上がり、窮屈な姿勢のままでいたせいですっかり凝り固まった全身を大きく伸ばす。

 それにしても、と思い返したのは今しがた秀一たちが繰り広げていた会話である。あの様子から察するに、恐らく秀一は日頃から何かと葉月や緑輝に相談をしていたのだろう。それはそれで色々と気になる点ではあるのだが、この際それはいい。久美子にとって一番重要だったのは秀一の本音。そして、それに対して自分がどうするかだ。

 秀一の言いたいことは良く分かった。実際久美子にしたって、恋人であるはずの秀一と一緒に過ごす時間を満足に確保できなかった事については気に病む事もあったし、自分自身寂しさを感じるときもあった。けれど秀一は秀一で、現状の久美子があまりに沢山の問題に追われていてそれどころでは無いことを理解してくれている。ここでもし久美子が変に気を遣って秀一のために時間を取ったとしても、彼はそれを良しとしないだろう。その点において、現状の久美子には打てる手がほとんど無いという事になる。

 それに自分がこの件に関して余計なことを喋れば、秀一はおろか葉月と緑輝にまで気まずい思いをさせてしまう。コンクール前の大事な時期に、自分のせいで部内の人間関係に波風を立ててしまうようなことは極力避けなければいけない。となればこの話は一切聞かなかったことにすべきだ。けれどだとしたらいよいよ自分はどうしたらいい? という話である。

 結局のところ、今回ここで秀一達の密談を聞いたところで、久美子はますますもって自分には何も出来ないという現状を再認識したに過ぎなかった。誰もいない廊下にぽつんと佇む久美子は一人唇を噛み締める。何かを得るには何かを失わなければならない。そんな言葉が脳裏をよぎる。出来ればそんな事はしたくない。そうやってユーフォも部活も進路も恋愛もと遮二無二取り組んでいるうちに、気が付けば自分は恐ろしいほど欲張りになってしまっていた。

 けれど、ここが限界なのだろうか。拾いたいと思っていた物が指の隙間からボロボロと零れ落ち始めているような感触がする。もはや何かを諦めなければならない段階に、自分は来てしまっているというのか。闇が迫る校舎の中で、久美子はどっちに向かって進めばいいのか分からぬまま、ひたすら途方に暮れていた。

 

 

「では、今のところをもう一度頭から合わせます」

 音楽室に滝の声が響く。レギュラーが決定してからの練習はいよいよ熱を帯び、次第に全体合奏の回数も増えていった。明日からは期末テスト期間に入り部活も休みとなる。テスト前最後の合奏という事もあり、部員達はみな気合いを入れて今日の練習に臨んでいた。

「チューバ星田君、ここのアクセントスタッカートが綺麗に切れていません。これではただ乱暴に息を吐いているだけです」

「はい」

 今日の合奏では低音が集中的に注意を受けていた。というのも『剣闘士』は第三部の戦のシーンで、重厚に鳴り響く低音の音が最大限に主張をする必要があるからだ。ここで低音の音が足りないと全体の音が浮ついてしまい、大軍勢がぶつかり合う緊迫感を表現し切ることが出来ない。かと言って、ただ単に音を大きく鳴らせばいいというものでも無い。ばらばらに放たれるだけの大きな音はただの雑音に過ぎず、それは聴衆にとっては耳障りな音でしかないのだ。

「何度も言っているでしょう。ここは低音を充分に聴かせる必要があります。今のように粒立ちが粗くバラバラとした音では全員で合わせた時に輪郭がぼやけてしまい、意図した印象を生み出せません。星田君、一つ一つの音の長さや強弱をきちんと意識して使い分けてください」

「はいっ」

「ここは後日に回します。次、金管の連符」

 その声に、該当するパートがそれぞれ楽器を構えた。星田の表情には溢れんばかりの悔しさが滲み出ている。ここ数日の合奏で星田は滝から度重なる注意を受けていた。もちろん星田自身、個人練の時間に課題をこなせるよう必死に練習しているのは久美子も見て知っている。だがそれでも滝の要求するレベルには依然として届いていない。吹奏楽経験者とは言え強豪校出身でもない星田にとって、全国を意識する水準に一年目から食らいつくのは容易ではなく、ただ己の実力不足と向き合うだけの厳しい状況が続いていた。

 そして、それとは別に今、大きな問題が北宇治には発生しつつあった。合奏を止めた滝はスコアをめくりながらその眼鏡を光らせる。

「今のところ、音が乱れています。昨日も注意した点ですがまだ出来ていません。いつまでに出来ますか?」

 そして滝はある人物の方を向いた。

「川島さん」

 滝の瞳が映していたのは、苦渋に満ちた顔付きで立ちすくむ緑輝の姿だった。

 

 


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