黄前久美子、最後の夏   作:ろっくLWK

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二.かなでるカンタービレ

「いよいよ合奏の日になりました。皆さんの練習の成果を見せてもらいます」

 音楽室の壇上には滝が立っている。既に日付は土曜、入部式で滝が言った『試し合奏』の日となっていた。試し合奏では初心者を除く全員が楽器を持ち、簡単な練習用の曲を吹くことになる。

 今回選ばれた『ロマネスク』はゆったりしたテンポで進行するのが特徴の曲だが、それ故にハーモニーがきっちり合っていないと美しい響きが生まれない。さらにテンポが遅いからこそ音の出だしがばらけるとすぐに目立つ等、バンド全体の基礎技術が演奏に表れやすい曲でもある。久美子を始めとした低音パートは全員、滝の本性を一年生達に叩き込みつつ、簡単な曲でもしっかり演奏できるようにと油断なく練習を行っていた。それは他のパートも同じことだろう。二週間前はまだ朗らかな笑顔だった幸恵も、今はトランペットパートに混じって緊張と集中の色に包まれている。

「それではまずは全員で、一度通しましょう」

 滝が指揮の手を構えると、全員が楽器を構えて静止した。場の空気が整ったのを確認するように頷いてから滝はゆっくり二度手を振り、そして演奏が始まる。部員達の奏で出す音が部室全体に鳴り響き、曲は穏やかに進行し続ける。途中ハーモニーが怪しい箇所も幾つかあったが、大きな破綻は無く丁寧に演奏が続けられていった。終盤の音量が大きくなる区間も十分なダイナミクスを確保して、厳かに曲は終わる。

 指揮の手を降ろした滝はまず最初に、

「皆さん、よく練習してきました。個別に言いたいことは無数にありますが、ひとまずは合格です」

 と告げ、それと同時に部員達からは安堵の溜め息が漏れた。

「もうすぐサンフェスもありますし、時間があるとは言え油断はできません。コンクールに向けての練習も含め、一つ一つの課題を迅速確実にこなしていって下さい」

 はい、と部員達は大きな返事で応える。

「ですがその前に、今やった『ロマネスク』はきちんと仕上げておきます。この合奏が終わり次第サンフェス用の曲を配りますが、今はまずこちらに集中してください」

 そう言うと、滝は今しがたの合奏での問題点を次々と各パートに突き出していく。

「クラリネット、ここは大隅さんの音程が合っていません。きちんと周りの音を聞いていましたか?」

「は、はい……」

「でしたら、ちゃんと合わせて下さい。あなた一人がここのハーモニーを崩しています」

「はい」

「トランペット、ここは東中さんの音が上擦り気味でかすれています。もっと美しく通る音で」

「はいっ」

 こういった具合に、滝はただ一度の合奏から全員の音の乱れを聞き取り、手厳しい指示を飛ばしていった。それを受ける一年生達の空気からもどこか浮ついていたものが取り去られ、上級生達と同じ緊張感が次第に沸いてくる。中には泣き出しそうになるほど責められる子もいたが、それでも決壊はせず必死に涙を堪えながら滝に返事をしていた。既に全国二連続出場校となった北宇治にあえて入部してくるだけあって、今年の一年生は意外と根性の据わった子が多いのかも知れない。何にせよ、滝が決して柔和で優しいだけの教師ではないという事は、この試し合奏で存分に伝わったことだろう。

 その後も何度か曲を合わせ、滝が指示をし、生徒達はそれによって音をどんどん修正していく。こうして全体の音がだいぶ改善されたところで、滝は譜面台の楽譜をぱたりと閉じた。

「それでは今日はこのぐらいで終了します。この後サンフェス用の楽譜を配りますので、各パートリーダーは職員室まで取りに来てください。午後からは個人練、パート練を中心に進めてもらいます。いいですね?」

「はい!」

「明日からは副顧問の(まつ)(もと)先生も来て下さいますので、サンフェス用の行進練習も本格的に行っていきます。詳しいことは後ほど部長から説明してもらいますので、皆さんは練習と準備を怠りないように」

 そう言い残して滝が音楽室を去ると、部員達は一斉に「うへぇ」とへばったような息を漏らした。

「超きつかったぁ」

「あんなに厳しいとは思ってませんでした」

「何言ってんの、あれでもまだ優しい方だよ?」

「げ、まじですか」

「コンクール前なんかあの十倍は厳しいから。あたしも泣かされたことあるし」

 こんな声が部室のあちこちからどよどよと聞こえて来る。ここ二年の状況を知っている久美子達からすれば、今日の演奏は十分及第点と言えるだろう。どことなく機嫌が良さそうな滝の雰囲気がそれを雄弁に物語っていた。出来が悪ければ二年前のように合奏を放り出して中座してしまっていただろうし、去年の試し合奏では出来ていないパートだけが全員の前で延々と演奏し続ける、通称『公開処刑』を喰らい、最後には「時間の無駄」とバッサリ切り捨てられ泣き出してしまう部員もいた。そんなことが無かっただけ、今年はまだマシというものだ。

「はいはい、みんな静かにして」

 部長らしくを心掛けつつ、久美子は手を鳴らしながら前に出る。

「それじゃこの後はお昼を挟んでから、パートごとにまとまって練習時間にします。各パートのリーダーはお昼の前に楽譜を取りに職員室に集まってください。サンフェスまでは時間が無いですし、行進しながらの演奏中は楽譜を見ることもできないので、一日も早く曲を覚えてね」

「はい!」

 全員の返事に久美子が頷いたところで、部員達はひとまず解散となった。久美子が席に戻ると、真っ先に葉月が声を掛けてきた。

「久美子、お疲れ~」

「今日は滝先生、かなり優しかったですね」

 緑輝もそこへ合流してくる。と、それを聞いていた星田がげんなりした表情で会話に混ざって来た。

「あれでですか? 口調は丁寧ですけど、言ってることは超厳しかったですよ」

「相当手ぬるい方だったぞ」

 星田に答えたのは二年生のユーフォ担当、相楽だ。ピストンをカタカタと弄りながら、相楽は仰々しく溜め息を吐く。

「あたしらの時はもう、一日中合奏し通しだったんだから」

 楽器持たずにずっと座ってるのもしんどかったなあ、とチューバ担当の美佳子も遠い目をして答える。

「言い方は柔らかいんですけど棘があるっていうか、ズバズバ来る感じでしたね」

 こちらは今回合奏に参加しなかった真帆の言だ。少し怯えたような表情を見せる彼女はきっと、いつかあれが自分に浴びせられる日が来ることを想像しているに違いない。

「コンクール前はもっとキツくなるよ~、レギュラーになったからって喜んでられないぐらいにね」

 したり顔で後輩達を相手に語る葉月は、どことなく嬉しそうに見える。自分達が通って来た道を後輩達も順調に踏んでいるのが嬉しいのか、はたまたもっと険しい道が先にあることを知っているからこその愉快さなのか。いずれにしろ久美子には、乾いた笑いをこぼすより他には無かった。

「私達が一年生の頃は、一回合奏やめちゃって、それからもう大変だったんだよ」

「そんなことがあったんですか」

 久美子の言葉に星田が驚く。

「コンクールで全国行くような学校だから、そういうトラブルって無いのかと思ってました」

「全然! そりゃもう語り出したら止まらない、波乱万丈の時代があったわけよ」

 本来なら自慢話にもならない事なのだが、何故か葉月はそこで得意げに胸を張った。

「まあその話は今度ゆっくりするとして、まずはお昼だね」

 そう言って、久美子はふと雫の方に目を向ける。雫はいつも通りの無表情で楽譜を睨んでいた。合奏中一度も滝の指摘を受けなかったのが不満だったのだろうか? それとも雫には曲のレベルがあまりに低すぎて物足りなかったか。雫が何を考えているのかは未だに量りかねるところがある。まずは最初のキッカケを。そう思い、久美子は雫に声を掛けた。

「芹沢さん、よかったら私達と一緒に食べない?」

「すみません。お昼は一人で食べたいので」

 事前の想像よりも、雫の返答はずっと冷淡なものだった。彼女はするりと楽器を置き、久美子に一礼する。

「午後の練習時間までには戻ります。失礼します」

 そっけなく告げるや否や、雫は部室から出て行ってしまった。その一部始終を、低音パートの全員が唖然とした表情で見送る。

「せっかく黄前先輩が誘ってくれてるのに」

「まーまー、芹沢さんにも何か用事あるかも知れないからさ。あんまり無理に誘っても、かえって窮屈かも知れないし」

 美佳子が眉間に皺を寄せながらこぼしたのを、すかさず葉月がなだめにかかる。

「じゃあ緑、楽譜を貰いに職員室に行ってきますので、皆さんは先に教室に行っててください」

 緑輝も自分の楽器を置き、手を振りながら部室を出ていく。それを合図に一旦その話題は打ち切りとなった。頑なに距離を置こうとする雫の姿勢に得体の知れないもやもやを抱えながら、久美子は葉月達と一緒に部室を後にした。

 

「これがサンフェス用の曲かー……」

 お昼用のパンをかじりながら楽譜を眺めていた葉月が「うーん、」と唸る。今回、サンフェス用に滝が選んだ曲は『ミスディー・ファンタスティック・イリュージョン』。ミスディーとは大きなテーマパーク施設もある著名なエンターテインメント企業の名称なのであるが、この曲は同社が手掛ける数々のアニメーション作品などの楽曲が散りばめられており、誰もが一度は耳にしたことのあるものばかりが詰め込まれた愉快な行進曲だ。華やかなパレードを飾るにはこれ以上ない選曲と言えるがそれだけに難易度も高く、特に野外での演奏となるサンフェスでこの曲を響かせるには相当の技術が必要になるだろう。もっとも本番の行進に用いるためにはテンポの調整や繰り返しなど、多少の編曲は行われることになる筈だが。

「これ、残り日数でモノにできるんですかねぇ?」

 お弁当をつつく美佳子も訝しげな視線を楽譜に向けている。

「まだ時間もありますし、今から一生懸命練習したらきっと大丈夫ですよ!」

 緑輝は目をらんらんと輝かせ、鼻息を荒くしている。こんなにもテンションが高いところを見るに、もしかして緑輝はミスディー愛好家だったりするのだろうか? そう思い、久美子は緑輝に尋ねてみる。

「はい! 緑、ミスディー大好きです!」

 溢れる笑顔で緑輝はぴょんぴょん飛び跳ねた。恐らく全身でミスディーへの愛を表しているのだろう。

「でも今回もガードなので、演奏できないのが残念ですけど」

 やはり本心ではコンバスを演奏したかったらしい。ちょっとしょんぼりした様子の緑輝に、初心者の真帆が怪訝な表情を浮かべながら尋ねてきた。

「ガードって何です?」

 確かに、初心者にいきなりガードなんて言っても何のことか分からないか。そう思い、久美子は解説を試みる。

「ガードっていうのは、今回みたいにパレードする時に楽隊の中で旗とかを持ってパフォーマンスする役のことだよ。正式にはカラーガードって言うんだけど」

 それを聞いて、隣にいた星田がへえぇ、と納得の声を上げる。

「そんな役もあるんですね。俺、今まで座奏しかしたこと無かったんで、マーチングのことは全然分からなかったです」

 星田が言うように、一口に吹奏楽部と言ってもマーチングをする学校もあればしない学校もある。例えば北宇治の場合、マーチングはサンフェスや立華との合同演奏会が例外なくらいで、後はほとんど座奏が主体だ。逆に立華のようにマーチング主体で活動をしている学校もあり、それによって知識や経験の幅や量は随分と変わる。中学校や高校への進学を機に全く新しい分野を覚えるという事も、決して珍しくは無いのである。

「じゃあ、私もガードをやるんですか?」

 真帆は相変わらず不安そうな表情を浮かべている。吹奏楽未経験の彼女にとっては何もかもが新鮮であり、裏を返せば何もかもが未知なのだから、当然と言えば当然だろう。

「どうだろ、北宇治だと初心者はステップ係やることも多いから。私も一年の時はステップ係だったし」

「ステップ係、ですか?」

 また一つ知らない用語が増えたことで、真帆の混乱はますます深まってしまったようだ。葉月の一言で彼女の眉尻がぐにゃりと曲がったのを、久美子はしっかり見てしまった。

「ああ、ステップ係っていうのはね――」

 その後もひとしきり久美子が真帆達へ解説を加えているところへ、雫がいつも通りの無表情で教室へ戻ってきた。

「すみません、遅くなりました」

「あぁ芹沢さん、丁度良かった。はいこれ、サンフェス用の楽譜ね」

 葉月はくわえていたパンをもぐもぐと咀嚼し飲み込むと、雫にユーフォニアム用の楽譜を手渡した。雫は渡された楽譜をじっと眺め、それからのろりと動き出し、教室の端の方の席に陣取る。

「もう譜読み始めてるんだね」

 久美子が声を掛けると、雫はちらりと視線を向け、

「当然です。少しでも早く吹けるようになっておきたいので」

 とだけ言って、それからまた楽譜に視線を戻した。練習熱心、といえばそうなのだが、何だろう。久美子は雫の後ろ姿に鬼気迫るものを感じ取っていた。もっと上手くなりたい。いや違う。一瞬たりとも気を抜かない、まさに真剣を抜いた侍のような、そんな気迫だ。いったい何がこの子をそこまで貪欲にさせているのだろう。けれど、そんな事を問い質しているような余裕は久美子にも無かった。

「じゃあ私も個人練始めようかな。みんなは時間までゆっくりしてて」

 そう言い残し、休憩もそこそこに久美子は弁当のカラを片付け始める。

「え、もう?」

「うん。芹沢さんも頑張ってるんだし、三年の私だって負けてられないもん」

 呆気に取られる葉月に、久美子は少々おどけてみせた。無論それは孤立しがちな雫を気遣う意味もあったのだが、当の雫は目線すらくれず黙々と譜読みを続けている。そうだ、負けてられない。久美子は楽譜を掴み取り、「それじゃまた後で」と教室を出た。

 一旦部室に戻って楽器と譜面台を用意し、渡り廊下に出る。音楽室のある棟と本校舎を繋ぐこの露天の廊下は部員達にとって馴染みの深い光景の一つであり、久美子にとってはお気に入りの個人練の場所でもあった。ここからは通学路や駅など、校舎周辺の街並みがすっかり見渡せる。そこに立って自分の音を響かせると、まるでここから街の人たちに自分の音を届けているような、そんな愉快な気分になることが出来た。

 所定の位置に譜面台を下ろし、楽器に軽く息を吹き込む。昼休憩上がりの一発目なので、まずはロングトーンやリップスラーなどの基礎練習から。今の久美子が取り組んでいる基礎練習のメニューはそれだけでなく、各調ごとのスケール練習、曲の一部分を切り取ったフレーズ、様々な場面で出てくるパッセージ、など多岐に渡る。それらをすらすらとこなして、楽器がすっかり温かさを取り戻したところで、最後にはいつもあの曲を吹くことにしていた。

「行きますか」

 誰にともなく呟いて、出だしの音を鳴らす。一年とちょっと前、当時一年生だった久美子が、卒業していったあすかから手渡された一冊のノート。そこに書かれていた曲を久美子は今でも毎日一度は目を通し、こうして練習の度に吹いている。本当は既にすっかり頭の中に入っているので楽譜を確認する必要など無いのだけれど、何というかこのノートにはそれだけではない、この曲を書いた者とそれを大事に持ち続けていた者の思いが込められているような、そんな気がしていた。

 あすかが奏でていたその曲の音色は本当に美しくて、切なくて、温かくて、この世界に存在する全ての感情を音に替えて演奏しているような、そんな豊かな音色だった。初めてこの曲を自分で吹いた時には、そんな音色を奏でるのがいかに難しい事かを痛感させられたものだった。一見しておっとりと優雅に進行するかに見えるその曲は、実はハイトーンや低音への動きも多く、十分に響かせるには一つひとつの音をしっかり鳴らすことが求められる。

 久美子は最近になって、あすかがマウスピースで音階を奏でた時、何故あんな綺麗な音が出せたのかをようやく理解出来るようになりつつあった。そもそも楽器を付ける前のマウスピースだけの音がしっかり響いていなければ、楽器で吹いた時の音だって響くはずがない。それはひとえに基礎中の基礎であるバズィングの技術の確かさに由来する。加えて音の表情。微細に変化する音の揺れを自在にコントロールする技術。音量を緻密に調整する技術。一つずつの要素がことごとく極めて高いレベルを持っているからこそあの美しい音色が成立するのだ。

 そして、さらにもう一つ。最近になって久美子にも解って来たことがある。この曲を本当に美しく響かせるにはこうした技術の面だけではない、別の何かが必要なのだということを。それが何なのかはまだ久美子にも解っていない。だからこそ久美子はそれを求めて毎日ノートを眺め、毎日この曲を吹き続けている。

 一通りを吹き終えてふうっと楽器を離したところで、渡り廊下の入り口に立つ観客の存在に、久美子はふと気が付いた。

「今日もきれいに響いてるね」

 そこにいたのは麗奈だ。彼女もまた自分の楽器と譜面台を持っている。おそらく久美子と同じで、昼食後の個人練に来たのだろう。

「まだまだだけどね」

 久美子は謙遜しながら、自身の胸に抱かれたユーフォニアムをじっと見つめる。

「まだ理想の音には届いてないから。もっと上手くならなくちゃ」

 その緊迫感を感じ取ったのだろうか、麗奈は譜面台を置くと久美子の前髪に手を伸ばし、さわさわと掻き分けた。

「そんなに根を詰めると体に毒だよ。大丈夫、久美子すごく上手になってる」

「本当?」

「本当」

 麗奈はふふっと薄く笑い、それからトランペットを構えて基礎練習を開始した。その仕草に、久美子は二年前のことを思い出す。

 二年前、麗奈は『特別』になるために、当時の自由曲のソロパートを賭けて三年生だった(なか)()()()(おり)と対峙した。結果ソロパートは麗奈が務めることになった訳だが、あの時の経験を通じて麗奈は自分の為だけでない音楽があることを知ったように思う。

 それから更に二年の月日を経て、麗奈は本当に変わったと久美子は思っていた。進路の関係もあって部内の役職にこそ就いてはいないけれど、部長に就任した久美子を影から支えてくれたり、パートリーダー会議でも麗奈の視点から色々指摘をして改善を図ってくれる。久美子達以外の部員と話す機会もかなり増えた。『特別になる』という麗奈自身の目標、目線は変わっていないけれど、それでいて周りの人達との距離感はずっと縮まっている。こんな麗奈の現在も、二年前の彼女からはまるで想像がつかない事だ。

 二年。あっという間に過ぎ去ったようで、この上なく濃密だった二年間は、あの麗奈でさえも大きく変えるほどのものだった。自分はどうだろう。久美子は考える。人間関係がいろいろ変わったり部長になったりはしたけれど、あの頃憧れた『特別』に、自分は少しでも近付けているだろうか。

「そろそろ時間」

 そう呟いて、麗奈が手元の腕時計を見やった。

「じゃあ、パート練習に戻ろっか」

 貴重な練習の時間はひと時たりとも無駄に出来ない。久美子も楽器から口を離し、場の片付けに入った。

 

 翌日、日曜日。

 今日は校庭で、サンフェスに向けた行進の練習をすることになっていた。今日が最初ということもあって楽器は持たず、足踏みや歩行の動作だけをひたすら練習する。マーチングでは基礎中の基礎と言える動きだが、未経験者にとってはなかなか難易度が高い。歩幅やつま先の角度などを決められたものに保ちながら歩き続けるだけでも結構な負荷がかかる。とりわけ吹部の練習は普段から運動することなど滅多に無いので、体力的には余計にしんどいのである。

「はい、もっと横の動きを意識して。歩幅ずれてくるから、きっちり合わせる!」

 本日の練習、全体に指示を飛ばしているのは秀一だ。副部長と学生指揮者を兼任する秀一は、マーチングの際にはドラムメジャーという役割を担う。ドラムメジャーも平たく言えば指揮者なのだが、楽隊全体の挙動を統率あるいは管理する役という意味合いが強いらしく、ことマーチングの際には日頃の行進練習からも他の生徒達の指導を担当することが多い。このため部長である久美子もサンフェス用の練習では基本的に一演奏者として、他のメンバーに混じって行進練習をしている。

「八歩で五メートル、っていう感覚をもっと体に叩き込んで。一歩一歩の形が固まらないとすぐずれるから、全員意識しながら歩いて!」

 まだ五月にもなっていないというのに、澄み切った空からは夏場かと錯覚するほどの直射日光がぎりぎりと照り付けている。しかも練習中はなかなか休憩にならず、全員が完璧に揃うまでひたすら歩き続けなければならない。何度もこの練習をやってきた久美子でさえ、一時間も経つ頃にはすっかり息が上がってしまっていた。

「おっかしいなあ。私運動部だったし、体力には自信あるつもりだったんだけど、」

 隣にいた葉月も肩でぜいぜい息をしながら、絞るように愚痴をこぼす。

「なんっかマーチングって、全然疲れ方が違うっていうか、毎度しんどいんだよねえ」

「決まった動きでずっと歩き続けるからね。使う筋肉が違うのかも?」

 久美子も額に溜まった汗を袖で拭う。この晴天のせいで気温もだいぶ上がり、行進練習はかなりそのハードルを上げていた。他の部員達にも一様に疲れが見て取れ、中には中腰の姿勢でグロッキーになりつつある者もいるほどだ。

「お前ら、まだ一度もまともに合ってないぞ! 列を乱さず直立しろ!!」

 ここで雷のような一喝を飛ばしたのは、副顧問の松本()()()だ。彼女の大音声で怒鳴られれば、それまで疲労に折れ曲がりそうだった背筋もぴしりと元に戻ってしまう。マーチングの特性上こうした場面での指導は『軍曹先生』の渾名を持つ彼女の性に合っているようで、特に基本の動きの部分に関しては顧問の滝に代わって辣腕を振るう場面も多い。この通りとても厳しい教師なのだが、それが愛情の裏返しであることを知っている久美子たち上級生には、叱咤の言葉も力強い激励のように聞こえるのだから不思議なものである。

「ほら、そこ一年! 踏み出しの足はバタバタさせないでもっと早く出す!」

「意識が甘い! 列が乱れるのは集中を欠いているせいだ。やる気はあるのか!?」

 秀一の指示と美知恵の怒号が交互に飛び交う。それからさらに一時間ほどして、ようやく列がきちんと整い始めたところで、

「それでは十分間休憩とする。十分後に再びこの場所に整列するように。列が完璧に揃うまで何度でも繰り返し練習するからな。覚悟しろ!」

 美知恵からのお達しに全員が「はい!」と力の限り声を振り絞って返事をしたところで、一旦解散となった。

「うあ~~、もうダメ」

 久美子と葉月はフラフラと木陰に向かい、置いてあった水筒を二人同時に手に取ると、一気に半分ほどをぐいぐいと飲み干す。

「っぷはー! 生き返るぜぇ」

 口元に手を当てて大げさなリアクションをする葉月の姿に、まるでおっさんみたいだ、と久美子は密かに思った。見渡すと、他の生徒達も日陰のある校舎脇などでへたり込んでいる。その中には幸恵の姿もあった。校舎の壁にもたれかかり脱力しているところを見るに、きっと幸恵はマーチング未経験だったのだろう。弛緩しきった顔で天を仰ぐその姿からは、『こんなはずじゃなかった!』という彼女の心の声が聞こえて来そうだった。

「ありゃー。あの様子だと東中ちゃん、今夜は筋肉痛だね」

 葉月も久美子の視線に気付いたのか、幸恵の方を見やっている。

「だねぇ」

 とその時、木陰に向かってくる人の群れの中、雫の姿に気付いた久美子は咄嗟に「芹沢さん」と声を掛けた。雫もこちらに気付き、そのままスタスタと近付いてくる。その歩き姿にはまるで疲れらしきものが見当たらない。多少汗はかいているものの、表情はいつもと同じでいたって落ち着いたものである。

「お疲れぇ。なんか割と平気そうな感じだね」

 ジャージの裾をぱたぱたさせながら葉月も雫をねぎらう。

「はい。中学の時からマーチングをやっていたので」

 雫の返答に、確か聖女はマーチングの大会にも参加しているらしく、以前に緑輝が『ガードは久しぶり』と言ってたっけな、と久美子は過去の記憶を思い浮かべた。

「じゃあマーチング慣れてるんだ?」

「それなりです」

 久美子の尋ねに、雫が珍しくテンポよく答える。

「あと、毎日ランニングしてるので。朝五時から一時間ぐらい、ですけど」

 何気ない雫の言葉に、葉月と久美子は「えっ」と目を見開いた。

「すごいね、めっちゃ早起きじゃん!」

「私も朝は大体同じくらいに起きるけど、そんな朝早くからランニングなんてとても出来ないよ。芹沢さん、すごいね」

 久美子のその一言に、雫は、

「……大したことありません。楽器演奏にも基礎体力は必要ですから」

 と言い残して軽く会釈をすると、自分の水筒を置いてあるところへと行ってしまった。

「うーん、そっかー! やっぱ上手い子は人の見てないところでも頑張ってるんだね。私もこれからちょっと早起きして朝ランしようかな?」

 葉月は雫の言葉に純粋に感心したらしく、腕組みをしながら早起きを検討し始めている。久美子はこの時、言葉に出来ない違和感、というよりは不自然さを覚えていた。去り際の雫の姿に何か普段と違うものがあったような……。それが何なのかを掴みたくて必死に考えを巡らせるが、これといった回答には辿り着けない。

「そろそろ練習再開でーす。元の位置に戻って整列してくださーい」

 秀一の鷹揚な声で久美子は我に返る。考えても分からないものは分からない。今は気にしないことにしよう。そう思って久美子は水筒を置き、再び日なたへと戻っていった。今しがた感じ取ったものが何だったのか、このときの久美子には分からずじまいだった。

 

「うあー、もう足痛い……歩くの辛いよ~~」

 今日一日きっちりと酷使してしまった自分の足をさすりながら、幸恵が呻く。行進練習が終わる頃には日もとっぷりと暮れていた。夜灯に彩られた駅までの帰り道を、久美子は幸恵と二人並んで歩く。

「確かに今日は初日からキツかったね。天気良かったせいで暑かったし」

「キツいどころじゃないよ、今日一日で五十キロは歩いた気がする。足の裏じんじんするし、太ももまで血管全部切れてるんじゃないかってくらい痛いもん」

「でも今日はまだマシな方だよ? 明日からは楽器持って実際に音出しながら行進練習だし、滝先生も来れば曲練習も始まるから、そっちのダメ出しも凄いことになるよ」

 くたびれきっている幸恵に、久美子はさらなる追い打ちをかける。頑張れさっちゃん、私達も通って来た道なんだ、と心の中でほくそ笑みながら。

「えー、もう絶対無理ぃ。中学の時マーチングなんてしなかったもん」

 幸恵はすっかり青息吐息といった様子である。北宇治はマーチングの大会には出場しないので本格的な練習はサンフェスまでということになるが、そのわずかな期間でも練習の内容は濃密だ。とりわけ受験上がりのなまった体にこの運動量は、相当堪えていることだろう。

「そう言えばさっちゃん、中学の時の同級生ってほとんど北宇治に来てないんだよね」

 久美子はふと思い浮かんだ疑問を幸恵にぶつける。かつての自分自身がそうだったから、というのもあるが。

「高校で友達ってもう出来てる?」

「ん? あーうん、結構出来たかな」

 幸恵はスカートの裾から露出した太ももを手で揉みほぐしながらそう答えた。むにむにとした皮膚の動きになんだかいけないものを見てしまったような気がして、久美子は咄嗟に目を逸らす。

「クラスの子とは大体全員と一回ずつ以上は話したし、部活の一年生も顔と名前はもう一致したよ。トランペットパートの子達とは学校帰りにファスト寄ったりするし、他のパートの子とも時々一緒に帰るかな」

「え、もうそんなに? ずいぶん多くない?」

 あまりに多くの人数を挙げるもので、本当に友達なの? と久美子は訝しがる。

「失礼だなー、こう見えても中学の頃から友達作りは得意な方なんだよ」

 幸恵はぷうと頬を膨らませて不満げにしている。

「あ、でも」

「でも?」

「低音パートの芹沢さん。あの子とは、まだあんまり喋ってないかな」

 唐突に雫の名前を出され、久美子は足を止めてしまった。気配を察した幸恵がこちらへと振り返る。

「あ、別に嫌ってるとかそういうのは無いよ。こっちから話しかけてもリアクション薄いっていうか、あんまり長く話したこと無いっていうか」

 久美子の表情に何か不穏なものを感じ取ったのか、幸恵は早口でひとしきりまくし立てた後、切り口を変えてきた。

「芹沢さんって、低音パートでもあんな感じなの?」

「うん、まあ、人懐っこい感じではないかな……」

 久美子の脳裏に、ひとり教室の隅で譜読みを続ける雫の姿が一瞬よぎる。同じ低音パートの一年生同士でも雫が他の子と喋っているのは事務連絡的な短い会話程度で、その頻度も他の子達と比べてよっぽど少ない。雫本人はそれを気にしたり、逆に強がったりするでもなく、まるで他人と会話などしないのが当たり前という空気で過ごしていた。それは以前の麗奈とも違う種類の『孤高』だ。

「そうなんだ、やっぱりねぇ」

 得心したようにそう言って、幸恵が久美子のところまで戻ってくる。久美子は自分の足が止まっていることに気付き、再び幸恵と並んで歩き出した。今夜の空気は生温いを通り越していっそ半袖でも過ごせるのではというくらいに暖かい。そんな空気に浮かされているように、夜空の月はぼんやりと輪郭を滲ませている。

「芹沢さん、あたしなんか全然眼中に無いって感じだからね。でも他の子にも聞いたけど、芹沢さん教室でも一人でいること多いらしくて」

「そうなの?」

「うん。同じクラスの子も気を利かせて色々誘ってたみたいなんだけど、最近じゃもう来ないのわかってるからあんまり誘ってない、ってこないだ言ってた」

 クラス外の人間とも交流を深めているとは、幸恵のコミュニケーション能力はどれだけ凄いのか。久美子など、申し訳ないが既に一年次のクラスの顔ぶれすら半分以上はまともに思い出せなくなっている。こうして振り返ってみると案外自分は薄情かも知れない。久美子は自信を失いはじめた。

「ひょっとして友達っていう友達、いないんじゃないかなあ」

 そう言えば、と久美子は思い出した。雫が通っていた聖女は緑輝の母校でもあるが、北宇治からはそれなりに距離があるはずだ。今年の吹奏楽部には聖女から来た子も何人かはいるけれど、その中に雫と親しかった友達がいないとすれば、高校に入った雫にはまだ仲良く付き合える友達はいないという可能性だってあるだろう。

「くみ姉は高校入った時、どうだった?」

 幸恵も同じことを考えていたのか、唐突にそんな事を聞いてくる。距離で言えば久美子の家だって北宇治からは遠い方だからだ。

「私の時かあ……」

 呟いて、久美子は自身の記憶を探り直す。高校に入って間もない頃、最初に声を掛けてくれたのはたまたま同じクラスになった葉月だった。続けて緑輝とも親しくなり、以降は何かとこの三人で行動することが多かった。思えば自分の高校生活はこの二人と知り合えたからこそ、かなり順調に滑り出せたと言える。そんなことをぽつぽつと語ると、それに幸恵も大きく頷いた。

「うんうん、やっぱ高校入って最初の友達って大事だよねー」

 雫には今、そう言えるような友達はいるのだろうか。もし孤独を感じているなら、ちょっと気に掛けてあげた方が良いのかも知れない。そんなことを考えながら進めていった歩みは、間もなく駅に着こうとしていた。

 

 翌日。放課後から運動場の一角で、楽器を持っての行進練習が始まった。天気は相変わらずの快晴。今日も秀一と美知恵は声を涸らしながら指導をしている。

「ほらそこ、音がぶれてるぞ! 基本は座奏と同じ、腹筋で息を支える!」

「吹くことに意識を削がれ過ぎだ、姿勢が崩れている! 隊列も絶対に崩すんじゃない!」

 こうした注意の声を浴びる部員達は皆、基本的な練習曲を吹きながら必死に足を動かし続けていた。昨日までの行進練習に楽器演奏が加わっただけだと思われがちだが、実際にやってみると『歩きながら演奏をする』というのは並大抵の所業ではないことがすぐに解る。まず単純な話、歩けばその振動で音も乱れやすいし息も切れやすくなるのだ。さらに疲労で姿勢が崩れると楽器が下向きになり、端的に言って非常にかっこ悪い。現時点ではまだ本番用の曲を吹く段階でないとは言え、本番では一キロほどの距離を整然と歩きながら一つの曲を吹き続けなくてはならないことを考えると、姿勢、歩幅、周りの動き、自分の出す音、これらを完璧に合わせられなくては練習にならない。それには相当な集中力と体力を要するものである。

「はぁー、はぁー……」

 幸恵の表情は既に限界を通り越してすっかりヤバくなっている。目は上を向き、汗だくの顔はすっかり土気色で、その口から洩れるのは今にも途切れそうなか細い呼吸音だけだ。楽器を構える腕が少しでも下がると美知恵からの一喝が飛んでくるため、楽器を下ろして休むことすらままならない。もはや彼女をその場に留めているのは雀の涙ほどの気力だけなのだろう。それは他の部員達も同じで、特にマーチング経験が無いと見られる部員の多くは立っているのもやっとという有様だった。

 久美子も当然疲労を感じてはいるのだが、一年の時ほどガタガタという訳ではない。三年目の功ということもあるだろうが、この二年の間にマーチングの強豪・立華高校と遊園地でのパレードを始め、数々の合同演奏をこなしてきたことが一番大きな要因になっている。一つ一つの経験は、確実に自分達の全体的なレベルを押し上げているのだ。

「頑張っていますね」

 練習の区切りを見計らったかのように、いつの間にか後方からやって来た滝がねぎらいの声を掛ける。「姿勢を正せ!」という美知恵の発破に、一同はビシッと直立不動になった。

「構いませんよ。姿勢を崩して楽にして下さい」

 涼しい微笑を保ったままで、滝は持っていた分厚い紙の束を部員達へと配っていく。久美子の手に渡されたそれを見てみると、二つの長い直線の間に小さな丸がたくさん並んでいた。それは数ページに渡り、丸同士が固まって三角の形を取ったり大きな四角になったりしながら、最終的には二列になって『終了地点』と書かれた所へと矢印を向けられている。

「何ですか、これ」

 麗奈が紙から視線を上げ、滝に尋ねる。

「実は今年は行進の際に、フォーメーションを組もうと思いまして」

 思いがけないその発言に、部員達からざわっと驚きの声が上がる。

「ここ数年、北宇治は立華高校と合同で活動する機会が増えています。立華は皆さんもご存知の通り、聴衆をあっと言わせるパフォーマンスが得意です。そこで私達も演奏だけでなく動きのパフォーマンスで聴衆を驚かせることをしたいということで、私と松本先生で相談してコンテを組んだんですよ」

 コンテとはマーチングにおける各員の動きや振り付けを記した、言わば設計図のようなものだ。これに従って奏者達はフォーメーションを組んだり、一列になった状態から十字になり、さらにそこから十字を回転させたり交差したり、といったように統率的に動く。久美子達に手渡されたそれは、コンテとしては比較的難易度が低いようではあるが、それでもただ行進するよりもかなり複雑さが増すことになる。加えて本番までの練習の期間を考えれば、今後の練習がかなりの強行スケジュールになることは容易に想像できた。

「そんなに心配することはありませんよ」

 ぱんぱん、と滝が手を打ち鳴らす。

「明日と明後日は運動部がここを使うので、私達は学校内での曲練習になります。これを活用して演奏を明後日までに仕上げ、残った期間は動きの練習に宛がえばいいのです。皆さんの練習がきちんと機能していれば、これぐらいの曲を二日間で仕上げる事はそう難しくありません」

 そして滝はいつものようににっこりと笑う。『不可能だ』なんて言わせないとでも示すように。

「動きも含めて全体のパフォーマンスも、残された時間を最大限有効に使うことが出来れば本番までには十分間に合うでしょう。運動部の練習日程と調整して、連休中は体育館も使わせてもらえることになりましたので、これから一日一日を無駄の無いように活動に取り組んで下さい。いいですね?」

 はい! という全員の返事が春の空に響く。それはどう考えてもカラ元気で絞り出した声だった。

「それでは、これから十分は休憩の時間にしましょう。その間コンテに目を通しておいて下さい。マーチング未経験者の一年生は明後日までに上級生にコンテの見方を教わって下さい」

 一通りの伝達を終えると、失礼します、と滝はその場を去っていった。途端、半数以上の部員達がへなへなとその場に座り込む。

「くあー、この上コンテかぁ」

 ざらばん紙をパラパラとめくりながら葉月が唸る。正直なところ、この展開は久美子も想定していなかった。曲を二日で仕上げるのも相当の強行ぶりだが、今からサンフェスの本番までは十日も無い。間には連休もあるとは言え、果たして本当に振り付けまで交えた複雑な動きを、僅か数日で完成させられるのだろうか。流石に目も眩むような思いだ。

「先輩、すいません。これの読み方を教えて欲しいんですけど……」

 見上げると、すっかり汗だくになった星田が例の紙を手にこちらを伺っている。そう言えば星田はマーチングの経験が無いと言っていた。恐らくコンテに示された記号の意味すらもさっぱり分からず、彼の頭の中はハテナマークだらけになっていることだろう。

「いいよー」

 葉月は軽やかに立ち上がり、紙の上の丸を指でなぞっていく。

「この番号の丸が星田君のね。んでしばらく行進して、次のページは楽譜の……」

 葉月が星田に色々と説明を加えている間、久美子はぼうっと周りを見渡していた。幸恵はもはや紫色に染まろうかというほど顔色が悪くなっているが、それでも必死に練習に食らいつこうと麗奈にコンテの読み方を教わっているらしい。遥か向こうのステップ隊の輪の中では、真帆が謎ステップの踏み方をひとり懸命に復習している。その他の一年生達も、それぞれバテバテになりながらも動作を確認したり、コンテに目を通したりといった具合だった。

 その中で一人、雫は立ったままで疲れた様子も見せず、楽譜を読んでいた時のように黙々とコンテに目を通し、どんどんページをめくっている。ふと、久美子は自分でも知らぬうちに、群衆の中に佇む雫を目で追っている自分がいることに気が付いた。昨日幸恵とあんな話をしたせいだからだろうか。それとももしかして自分は、雫を通して過去のあすかの姿を見ようとしているのかも知れない。『特別』だったあのひとの面影を。そう、きっと雫は今の自分よりもずっと『特別』に近い。だからこそこうして意識してしまうのだろうか。久美子の中に様々な感情がぐるぐると渦を巻き、形になる前にどろりと溶けて臓腑の中に紛れ込んでいく。後にはずしんと重たい感触だけが残っていた。

 

 それから一週間が過ぎ。

「ふあぁ……」

 電車の中で久美子は大きな欠伸をする。ここのところ、彼女の一日の睡眠時間は平均五時間を切っていた。前にも思ったことだが、三年生は本当にあれもこれもとやらなければならなさ過ぎて、忙しいどころの話ではない。更に部長としての職責はその仕事量を倍以上にも増やしてくれる。かと言って、それが成績を落とす言い訳にも練習の手を抜く理由にもなりはしない。結果として久美子は、早朝の電車内では参考書や単語帳に目を通し、授業の合間に部活の書類を作り、練習の合間にサンフェスの打ち合わせをし、夜はと言えばこの春から倍増しになった宿題を片付け、それから音楽の勉強をする、といった具合の生活を送っていた。必然的に削るところと言えば睡眠時間、というわけである。

 そして今日はもうサンフェス当日、つまり本番の日となっていた。一年生を加えた新生北宇治が、初めて公の舞台で演奏を披露するのだ。ここでの出来不出来はコンクールには直結しないものの、ここ二年全国行きを決めている北宇治がどんなパフォーマンスをするのか、他の各校もきっと注目している。ましてサンフェスには立華も、つまり()()()(あずさ)も出場するのだ。無様な演技演奏は決して許されない。

「ずいぶん眠そう」

 隣で本を読んでいた麗奈が久美子の顔を覗き込む。腕に巻かれた時計の針は六時二十分を示していた。今日は大会なので集合時間は早いが、二人が普段登校している時間よりはずっと遅い。

「うん、昨日も宿題やってたら寝るの遅くなっちゃって……」

 久美子は欠伸を噛み殺し、目元を指で拭った。指先に涙が滲み、すうっと皮膚に吸い込まれ消えていく。

「そんなんで本番大丈夫なの?」

 尋ねる麗奈の声は労わりの色を帯びていた。麗奈がこういうきつめの言い方をするのは彼女なりの気遣いの裏返しなのだ、と久美子はすっかり把握していた。

「電車降りる頃には目も覚めると思う」

 まどろんだ瞳をぱちぱちと上下させ、久美子は対面の窓を見つめる。ついこの前に進級したばかりだと思っていたら、今はもう五月。三年生になってからどんどん時間の流れが速くなっているような気がする。サンフェスが終わるとすぐにテスト期間に入るし、それが明ければ五月はもう下旬。いよいよ夏が近づいてくるのだ。この窓の外を流れる景色みたいに、目の前の風景がどんどん移り変わってゆく。

「時間がもっとあったらいいのになあ」

 ついそんな言葉が久美子の口をついて出てしまう。麗奈はそれにスンと鼻を鳴らした。

「時間は無限じゃない。取りこぼしたらもう、取り戻せないよ」

 麗奈が黒く艶のある髪をかき上げると、久美子の鼻先をふわりと柔かい匂いがかすめていった。いつも思うことだが、どうして麗奈の匂いはこんなにいい匂いなのだろう、と久美子は首をひねる。自分だって女子なのに、こんな芳香を醸し出せるものに全くと断言できるほど心当たりがない。もしかして麗奈は自分とは基本的に違う物質で作られているのかも知れない、そんな風にさえ思ってしまう。

「それ、緑ちゃんも似たようなこと言ってたなあ。確か、音楽は一度奏でると消え、二度と取り戻せない。だっけ」

 微かな記憶を辿りながら緑輝の言葉を復唱してみると、ああそうか、と久美子は何かに気付いた。こう考えると、人生は音楽にも似たものがあるのかも知れない。生きている間中ずっと、私達の曲は続いている。次々と押し寄せてはあっという間に過ぎ去っていく日々という名の小節は、一度やり過ごしてしまうともう後戻りは出来なくて、それを後悔してももう取り戻すことは叶わない。だからこそ自分達にできるのは一瞬一瞬の音に集中して最大限の注意を払って、そうして一つの曲を限りなく充実させていくのみなんだ。……などと考えていると、なんだか自分が哲学者か何かにでもなったような気がしてくる。

「だからこそ、今できることは精一杯頑張らなくちゃね」

「うん」

 久美子が麗奈に頷いてみせると同時に、音を立てて電車の扉が開く。

「おいーす、おっはよー」

 意気揚々と乗り込んで来たのは葉月だ。こちらを見やるなり、葉月はお決まりの敬礼ポーズで挨拶をしてきた。

 

 久美子にとって、サンフェスへの参加は今回で三度目になる。さすがに勝手知ったるものとは言え、一年のうちにそう何度もあるわけではない本番の機会だ。多くの聴衆が自分達の演奏を聴いてくれると思うと緊張も生まれるし、現場の取り仕切りはうまくできるだろうか、フォーメーションにミスは起こらないか、などと色々な不安が頭を駆け巡る。それでも先頭に立つ自分が不安そうにしていれば、部員達にもそれが伝わってしまう。そんな迷いはおくびにも出さず、久美子は毅然とした表情で皆に指示を出していた。

「はい、それじゃあ会場に入ったら更衣スペースで着替えて、それから音出しの時間です。音出しが終わったら真ん中の運動場に集合して開会式、その後は一番の学校から順にスタートします。ここまではいい?」

「はい!」

「じゃあさっそく行動開始です。本番開始まであと一時間も無いので、素早く行動してね」

 トラックから下ろした楽器を持って、部員達がぞろぞろと会場へ向かう。さて自分も楽器を出そう、と久美子がケースをがちゃがちゃさせていると、

「ご苦労様、部長」

 後ろから懐かしい声が聞こえて、はっと久美子は振り返った。

「夏紀先輩!」

 そこに立っていたのは中川夏紀。彼女の隣には吉川優子。この春卒業した吹奏楽部の先輩であり、久美子を部長職に指名した当の本人達だ。

「来て下さったんですね。連絡も無かったですし、サンフェスは無理かなって思ってましたけど」

「ごめんごめん、直前までバイトのシフトが決まらなくってさ。ほら、私一応新人だし?」

 おどけてみせる夏紀の姿は、卒業からまだたったの一カ月しか経っていないはずなのに、随分と大人びて見えた。高校卒業後、府内の大学に進学した夏紀は以前は長い髪を後ろで結んでいたのが、今は肩にかかる程度のやや短めなセミロングヘアになっている。飾り気の少ない肩出しのチュニックとタイトなレギンス、という服装はいかにもさっぱりした性格の夏紀らしいと思いつつも、何だか全身から色気が匂い立つような感じもして、そのギャップに久美子は少々どぎまぎしてしまう。

「ホントこいつ、ギリギリまで私に声掛けなくてさ。ようやく連絡してきたのが昨日の夜、って信じらんないんですケド」

 愚痴をこぼす優子の方はと言えば、ほぼストレートだったロングヘアがゆるふわのウェーブになっている。おしゃれなカーディガンとカットソーを組み合わせ、フリルの付いたスカートにストラップサンダルというこちらは、まるでどこかのお嬢様のような雰囲気だ。ちなみに優子も府内進学組ではあるが、夏紀と同じ大学ではない。優子は憧れの香織を追って、彼女のいる大学を進学先に選んだのだった。

「しょうがないじゃん、バイトのお鉢が回されたら休日予定でも出なくちゃいけなくなるし。それにあたしが行けなくたってアンタは行くつもり満々だったでしょ?」

「そりゃあ私は『元』部長ですから。北宇治OBの筆頭として、出来る限り可愛い後輩達の応援には来るわよ。それなのに『元』副部長と来たらまあ、随分と薄情なことで」

「あーはいはい、アンタに理解してもらおうと一瞬でも思った私が馬鹿だったわ」

 卒業しても別々の学校に行ってもこの二人のやり取りは相変わらずで、その事に久美子は内心ホッとしていた。見た目や雰囲気が多少変わっていても、この二人はやっぱりこの二人のままなのだ。

「それでどう、今年は?」

 優子に訊かれ、久美子は「うーん」と唸ってみせてから、思ったままのことを素直に述べた。

「悪くない感じだと思います。今年はけっこう実力派の経験者もたくさん入部してくれましたし、今回の仕上がりも上々って感じです」

 正直、この一週間で演奏のクオリティはかなりのところまでまとめられたと思う。当初は苦戦するかと思われたフォーメーションの件も案外飲み込みが早く、マーチング初心者の星田ら一年生も三日目ぐらいにはおおよそ自分の立ち位置を理解して動けるようになっていた。もっとも、それには葉月をはじめ上級生達の手厚い指導によるところが大きい。

「悪くないわね」

 優子は満足気に鼻をふふんと鳴らす。

「部長の仕事も大丈夫?」

「はい、まぁ……毎日目も回るくらい忙しいですけど、部員のみんなも協力してくれてますし、何とかやれてます」

 夏紀の問い掛けに、久美子は少しだけ自信無さげに答える。実のところ、優子と夏紀の二人が部長・副部長を務めていたころの北宇治には問題らしい問題はほとんど起こらなかった。この二人自体はガミガミといがみ合っていることも多かったが、いざ部のこととなるときっちりと一つひとつのことを確実に処理していたし、(かさ)()(のぞ)()やみぞれといった友人達が二人を的確にサポートしていたお陰で部としてのまとまりはかなり高い水準にあったと言える。何より全国大会で銀賞という前年の実績が、それを如実に物語っている。その事実はそれだけで久美子にしてみれば十分尊敬に値するものだった。部長になった今だからこそ、それが良く分かる。

「そっか」

 言葉少なに返して、夏紀はにこりと微笑んでみせた。

「あと一年生ですけど、今年は上手い子が沢山入ってくれました。全体的にはかなりレベルアップしてると思います。それと――」

 夏紀と優子を前にすると、話したい事が次から次へと話したいことが出てきて止まらなくなってしまう。そのほとんどは至って普通の近況報告ではあるのだが、それ以上にこの二人は部長と副部長経験者であり、また久美子にとって夏紀は最も近しい先輩でもあった。昨年の夏紀の奮闘ぶりを常日頃見ていた久美子にとって、今や夏紀は心から尊敬し信頼できる存在となっているのだ。

「ところで、そろそろ行った方がいいんじゃない?」

 もう誰もいないよ、と夏紀に辺りを指差され、久美子はハッと我に返った。音出しの時間は限られているというのに、その事をうっかり忘れていた。他の部員達は恐らく今ごろ音出しスペースでチューニングや本番前最後の確認をしているところだろう。それなのに部長の自分が遅れるわけにはいかない。

「すいません先輩、私もう行きますんで。後でまた」

「うん。本番見てるから、がんばってね」

「はい!」

 笑顔で夏紀に返事をして、久美子は駆け出していった。夏紀は手を振り見送ってから、

「あの分だと、順調に部長やってるみたいだね」

 と、安心したようにほうっと息を吐いた。

「何よ。夏紀ってばまだ黄前を部長に選んだこと、気にしてんの?」

「別にそういうんじゃないよ。私だって、久美子ちゃんが一番部長に適任だって思ったから指名したんだから。ただ部長の仕事ってかなりキツいから、真面目な性格のあの子には大変だろうな、って思って」

「うげ。アンタが後輩の心配するなんて、明日雪でも降るんじゃない?」

 優子は自分の両腕を抱きしめ、不気味がってみせる。

「ホントうっざ」

 そう吐き捨てると、夏紀は踵を返してスタスタと歩き始めた。残された優子は久美子の走っていった方を見やると、

「しっかりやんなさいよ。アンタは私が、部長に相応しいって思った人間なんだから」

 と、誰にも聞こえぬように呟いた。

 

 音出しとチューニングを終えた北宇治の一同は、サンフェスの開会式の場でありスタート地点でもある陸上競技場に整列していた。新生北宇治にとって初の本番が、いよいよ始まる。

 久美子は目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくり吹き出した後、その目を開いて辺りを見渡した。他の参加校も一様に整列している中、水色の集団が少し奥の方に見える。今やすっかり見慣れたそれは立華高校のマーチング用コスチューム。その先陣に良く見慣れた顔があるのを見つけ、梓ちゃんだ、と久美子は心の中で呟いた。己をじっと見つめるこちらの視線に気付いたわけではないだろうが、向こうも久美子を見て小さく手を挙げた。

 梓は立華高校の吹奏楽部員で、久美子とは中学時代の吹部同期でもある。コンクール・マーチング共に全国級の強豪として名を知られる立華において、一年の頃から周りに認められる実力者であり、あの麗奈ですら今の梓の演奏技術には一目置いているほどだ。

 そして立華では今、部長となった梓を中心として部内改革が進められている。ここ数年のコンクールでは関西止まりに終わっていた立華は、前三年生の引退を機に座奏にも力を入れる方針に転換し、地元の演奏会などにも精力的に参加している。無論、本業のマーチングだってこれっぽっちも手を抜いてはいないだろう。立華にとっても今回のサンフェスは、今までとは一味違うところをアピールする場になるであろうことは間違いないのだ。

「それでは、ただ今より第二十五回、サンライズフェスティバルを開会致します」

 キーン、という耳障りなノイズ音がスピーカーから響き、開会のあいさつが告げられる。出場者を代表して宣誓を述べるのは今回一番目の出番となっている立華高校、その部長である梓だ。列から離れ白い壇上に立った梓がマイクの前で高々と右手を伸ばす。

「宣誓! 私達は音楽を愛する者として、演奏及び演技に全力を尽くし、最高のパフォーマンスを観客の方々にお見せすることを、誓います!」

 堂々たる梓の宣誓。会場中に響き渡る割れんばかりの拍手。そんな梓の姿を、久美子は下からじっと眺めていた。どうにもこの一年で、梓はさらに肉付きが良くなったような気がする。胸のあたりは言わずもがな、腰つきから太ももにかけての線はより丸みを帯びて女性らしくなっているけれど、かと言って太ったかと言えばそういう訳では決して無い。日ごろマーチングの練習に明け暮れているからなのか、適度に引き締まった腰回りからはある種の艶めかしささえ感じられる。とりわけ立華のコスチュームである水色のスカートから伸びる白い脚には、同性の久美子ですら思わず呻いてしまうような魅力があった。

 どうしてこうも皆スタイルが良いのだろう。楽器の上手さと外見には何か比例関係でもあるのだろうか。嘆息と共に視線を落とし、そこに映る自らの身体をじっと見つめて、久美子はさらに深い溜め息をつく。

「それでは立華高校さん、間もなくパレード開始の時間となりますので、準備をお願いします」

 アナウンスの声に従い列に戻った梓はトロンボーンを持ち、部員達に何やら最後の発破をかけている。おおー! と鬨の声が立華の一陣から上がり、いざ行進開始という直前、梓はもう一度こちらに顔を向けた。

『が・ん・ば・ろ・う・ね』

 口の動きでそう言っているのを、久美子は読み取る。

『も・ち・ろ・ん』

 久美子も口パクで梓に返答をする。梓はにっこりと笑顔を浮かべ、そして立華は意気揚々と行進を開始した。ほどなくして、場外の行進ルートから「わあっ」「おおー!」といった歓声が次々にこぼれて来る。

「さすが立華。今回もかなり派手にやってるみたいですね」

 後ろでスーザフォンを担ぐ美佳子が、ひそひそと葉月に話し掛ける。

「当ったり前だよ、立華だもん。マーチングじゃ特に、他の学校とは格が違うよ」

 葉月もひそひそ声で返す。

「私達も負けないくらい頑張らなくちゃね。ねえ久美子?」

「そうだね」

 後ろの葉月に身を寄せて、やはりひそひそ声で応じる。待ちに待った本番だ。この日のためにたくさん練習を重ねてきた。そして吹部のメンバー全員が一堂に会して演奏できる機会はそう多くない。今日は全力を出し切ろう。皆もどうか、全力を出し切って。久美子は胸の上で握りこぶしを作り、そっと祈っていた。

 

 

「みんな、とってもいいパフォーマンスだったよ!」

 部員達の前に立った優子が皆にねぎらいの言葉をかける。本番の演奏は大喝采のうちに無事終了し、北宇治の一同も既に部室へと戻っていた。楽器の搬入作業を終えたところで優子と夏紀も学校に到着し、解散前のミーティングの場でOBとしてのコメントを求められた優子がこうして喋っているところである。もっともこの場にいる卒業生は彼女たち二人だけなので、厳密にはOGと呼ぶべきなのだろうけれど。

「現部長から今年のメンバーは実力派揃いって聞いてたけど、本当にその通りでした。練習時間も少なかったと思うけど、その中で最高の演技演奏が出来ていたと思います」

 優子に続いて、今度は夏紀が口を開く。

「今年からはフォーメーションを取り入れたのにビックリしたよ。でも動きもきちんと揃ってて、ばっちり決まってた」

 それを聞いた部員達から安堵の声が漏れる。こうしてOB達から掛け値なしの誉め言葉を貰えるというのは、実際どうだったかはさて置くとしても嬉しく思うし、それ以上に及第点は超えることが出来たのだとホッとするものだ。

「これからは夏のコンクールに向けて、いよいよ練習も本格的にきつくなっていくはずです。一年生の部員達も大変だと思いますが、一生懸命食らいついて上達していって下さい。私達からは以上です」

 優子と夏紀が一歩下がり、二人に代わって久美子は前へ出る。

「それでは明日と明後日は通常通り、朝から練習になります。それ以降は登校日ですが中間テストの期間に入りますので部活は休止です。詳しいことは明後日に話しますが、休止期間中は校内での音出しも禁止になりますので、忘れないようにして下さい」

 はい、という部員達の力強い返事と共に本日は解散となった。途端、二・三年生のうち何人かがわっと優子達のところに詰めかけていく。

「優子先輩! 見に来て下さってとても嬉しかったです!」

「夏紀先輩もありがとうございます!」

「先輩、部長の仕事きつすぎですよ~」

 勢いに乗じて久美子も泣きついてみたが、わいわいと押しくらまんじゅう状態の中ではまともに声が届かなかったらしい。そんなこんなで久美子に目もくれぬ優子らが部員達へ応答をしているところに、

「優子先輩」

 とやって来たのは麗奈だった。周りの部員達は何かを察して麗奈の為に道を空け、優子もまた神妙な面持ちで麗奈を見やる。

「ありがとうございます」

 麗奈が優子に深々と頭を垂れた。予想だにしなかった彼女の言動に、久美子と優子は瞠目する。

「やだもう。別に大したことないじゃん」

 優子は軽くおどけてみせる。ありがとうございます。その言葉の意味するものを理解できるのは、現役生の中では恐らく久美子だけだっただろう。麗奈と優子の間にはかつて大きな確執があり、それを乗り越えて育まれた絆がある。互いの間にまたがる感情を第三者が言葉で説明し切ることはとても難しい。その二人が今こうして顔を合わせ、そしてあの麗奈が優子に感謝の意を述べている。ただそれだけの事なのに、久美子は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。

「それより、相変わらずいい音じゃない。今年こそ全国金賞、獲れそう?」

「はい」

 優子の問い掛けに麗奈は静かに、しかし強い意志の籠った声で返事をする。

「うん」

 優子はゆっくりと頷いてから、しっかりと麗奈に瞳を合わせた。

「頑張ってよね、私達の分まで」

 それはきっと、優子や夏紀だけを指したものではなく、あの香織のことも含んでいる発言なのだろう。今は卒業しここを離れて行った先輩達の多くが全国出場、そして金賞を夢見て、血の滲むような努力の毎日をここで過ごしていたのだ。そして今、その思いを果たせるのはここに居る北宇治のメンバー以外にあり得ない。優子は麗奈に自分の想いを託したのだ。

「任せてください」

 真剣な表情で麗奈が答える。

「相変わらず熱いねえ、高坂ちゃん」

 夏紀は肩をすくめてみせる。その表情には、後輩の頼もしさを感じ取ったらしい満足感が見て取れた。

「さって、それじゃそろそろ行こっか」

「行くって、どこへですか?」

 夏紀の言葉に、緑輝が怪訝そうな表情を浮かべる。

「大会が終わったんだもん。行くでしょ、打ち上げ? もちろん私たちのオゴリで」

 

「ん~~~っ、もうお腹いっぱい!」

 店を出た葉月がぽんぽんと自分のお腹を叩く。私も、と同意しつつ久美子は店の佇まいを振り返った。今回打ち上げの会場となったのは京阪宇治駅から少し歩いたところにあるお好み焼き屋。相楽たち下級生組が家の都合などで来られなかった事もあり、会は優子らの直属である低音パートとトランペットパートの三年生を中心とした気兼ねのないものとなった。

「すいません先輩、私達までご馳走になっちゃって」

 麗奈が申し訳無さそうに言うその隣で、幸恵は『食った食った』とばかりに爪楊枝を口にくわえ満足気にしている。これではどっちが先輩か分かったものではない。

「いいのよ。私達バイトもしてるし、可愛い後輩にOBらしいとこも見せとかなくちゃね」

 突然の増員だったにも関わらず、優子は頼もしげに親指を立ててみせる。ちなみに幸恵がついて来たのはこの機会に麗奈ともっと親密になりたいというのが大きかったらしい。初対面の夏紀や優子の前でも物怖じせず打ち上げに参加してまで麗奈に熱烈アタックを仕掛ける彼女の姿には、久美子も呆れを通り越して感心する気持ちすらあった。

「まあ毎回はちょっと無理だけど、頑張った大会のあとくらいは何かご褒美でもないとね」

 会計を済ませた夏紀が店から出てきて、会話の流れに加わる。

「うう、緑また必ずここに来ます」

 皆がほくほく笑顔の中、緑輝は一人浮かない顔をして「今度来るまでに練習しておきます」などとぶつくさ垂れ流していた。緑輝が言っているのは片面を焼いたお好み焼きをコテでくるりと裏返す、通称『返し』のことだ。他の人たちがクルクルと返しを成功させる中、緑輝だけは何故か返しが下手くそでことごとく失敗し、お好み焼きの玉をぐちゃぐちゃにしてしまっていた。あれは本人も相当に悔しかったらしい。終いには真剣な表情で葉月から返しのコツを教わったり、コテを両手に持ってくるんくるんと空中をかき混ぜイメージトレーニングに励んだりしていた。

「次こそはリベンジです! コンクールが終わったらまたここで打ち上げしましょう、久美子ちゃん!」

「そんな大げさなことかなあ」

 両手を上げて息巻く緑輝に久美子は困惑してしまう。とは言ってもこう見えて、彼女は人一倍の悔しがり屋で根性持ちだ。次にお好み焼きを焼く時にはきっと、きれいにくるりと玉を返す緑輝の姿を見ることが出来るに違いない。

「さて、大分遅くなってるし、今日はこのへんで解散しよっか」

 お釣りを優子と分け合った夏紀はそう言って、後輩達の顔を眺めた。

「これからはコンクールに向けてもっと頑張ってね、あたし達も期待してるから」

「はい!」

 久美子達の力強い返事が夜空に響く。

「もう遅いから、寄り道せずに気をつけて帰ること。次はコンクールの会場で会いましょう。以上!」

 最後は元部長らしく、優子の言葉で打ち上げ会は締め括られた。久美子達はせーの、と声を揃え、「ありがとうございました!」とOB二人にお礼をして一同は解散となった。久美子の家はここから歩いて帰れる距離にある。麗奈の家は逆方向にあるし、葉月達も優子達も駅に向かうため皆とはここで別れて帰ることになる。かくしてそれぞれがそれぞれの行き先へ歩き出し、

「じゃあね、久美子ちゃん」

 さばけた挨拶と共にひらひらと手を振る夏紀の後ろ姿。それを見た瞬間、久美子の感情は突然に弾けた。

「あの、夏紀先輩」

「ん?」

 呼び止められた夏紀が振り返る。彼女から放たれた微かな香水の匂いを、久美子の鼻は感じ取った。

「先輩は他の先輩達と連絡って、取ったりしてます?」

「え、うん。梨子とか後藤とは普通にメッセージで連絡したりしてるよ。今回のサンフェスは無理だったけど、コンクールの時は夏休みの時期だから来れるんじゃないか、って二人とも言ってたし」

「はあ」

「あと希美とも時々連絡してる。あの子、大阪の大学に進学してけっこう忙しいらしいけど、時間取れたら必ず応援に来るって。きっとみぞれも一緒に来るんじゃない?」

「なるほど」

 出てくる名前は皆懐かしいし、また会いたいと思う人ばかりだ。なのだがしかし、本当に聞きたかった名前はその中には無かった。

「後は――」

「あすか先輩とは連絡、してますか?」

 久美子は思い切って直球をぶつけてみた。虚を突かれた夏紀は言葉を止め、じっと久美子を見つめる。久美子の真意を図りかねたのか、あるいは久美子らしいと感じているのか。夏紀の顔には少し困ったような、申し訳なさそうな色が浮かんだ。

「全然、音沙汰は無いよ」

 そうですか。返す声のトーンが自然と落ちてしまう。直属の後輩であった夏紀でさえもあすかからの連絡が無かったであろう事は、なんとなく予想が出来ていた。それに夏紀からはあすかに連絡しにくかったであろうという事も。久美子と同様に夏紀にとってもあすかは偉大な先輩であり、尊敬できる『特別』な存在であったことを今の久美子は知っている。だがそれ故に、あすかの敷いた線の内側には夏紀とて容易に入り込めなかったのだろう。もしかしたらあすかと連絡できる一縷の望みがあるかも、と心の中で僅かに期待していただけに、久美子は落胆の色を隠しきれなかった。

「あすか先輩に連絡したいの?」

 表情の翳った久美子を見て、夏紀は穏やかに尋ねてくる。久美子は無言で頷き、

「でも、メッセージを送っても既読もつかないんです。アカウントは消えてないんで、携帯が壊れたとかじゃないと思うんですけど……」

 そこで口をつぐんだ。これ以上何かを喋ったところで、ただ夏紀を困らせてしまうばかりだと気づいたからだ。

「すみません先輩、急にこんなこと言い出しちゃって」

 いいよ、と夏紀は首を振る。

「私も時々、あすか先輩に連絡取りたいって思う事あるからね」

 夏紀は既に沈みかかっている夕陽を映す窓辺に、その細い背中をもたれかけた。

「でも、大学に入って改めて感じた。あすか先輩、私達が思ってたよりずうっと高いところに行っちゃったんだなあって」

 それは未だ高校を卒業していない久美子には分からない、夏紀なりの感想なのだろう。自分なんかでは手を伸ばしがたい、伸ばしてはいけないようなところにあすかが居る、という感覚。通信技術の発達した現代なら単純なデジタルデータで気軽にやり取りが出来るはずなのに、何故かそれをしてはいけない、とでもいうような敷居の高さを夏紀は感じている。まして今、それら現代文明の利器を使っても、あすかとはコンタクトを取ることが出来ていない状況なのである。

「ごめんね。今度来るときまでにあすか先輩に関する情報、何かあったら必ず久美子ちゃんに教えるから」

 夏紀の精一杯の気遣いも、久美子には空しい響きとなって溶け去ってゆくばかりだった。力なく『はい』と返事することしか出来ない自分が、何となく、情けなかった。

 

 家に帰った久美子はすっかり脱力し、着替えもせずにベッドに突っ伏していた。本番で疲れていたのは勿論あるのだが、それ以上に先程の事がずっしりと心に重石を載せていた。

「あすか先輩、今どうしてるんだろう……」

 久美子の携帯にはあすかの番号もちゃんと登録されている。こちらから電話を掛ければもしかして、あすかは出てくれるかも知れない。けれどいきなり生の声でやり取りをするのは正直怖かった。もしもあすかがこの二年間ですっかり別人のように変わってしまっていたら、その時自分はあの頃と変わりなくあすかと喋れるのだろうか? あるいは自分のことなど何も覚えていないとばかり、他人行儀なやり取りに終始してしまったら? そんな不安が頭の中をよぎるからだ。とは言えこんなに誰とも連絡が取れていないというのは、それはそれで気になる。麗奈情報によれば、あの親しかった香織ですら、卒業後はあすかとほぼまともに連絡を取り合えていないというのだから。

「どうするかなー……」

 思い切って電話を掛けてしまおうか。そう悩んで脇に置いてあった携帯を手に取ると、そこには『着信あり』の文字が表示されていた。もしかしてあすか先輩から? 驚いた久美子は慌てて着信元を確認する。

『梓ちゃん』

 電話を掛けて来たのは梓だった。ほっとするのと落胆するのとが半々。久美子は着信時刻を確認する。およそ三十分前、ということは、丁度夏紀と二人だけで話していた時だったらしい。久美子はベッドから身を起こし、梓に折り返し電話を掛ける。

『もしもし』

 携帯の向こう側から梓の声が聞こえてきた。

「もしもし、梓ちゃん? ごめんね、電話来てたの気づかなくって」

『別にいいよ。もしかして打ち上げとかだった?』

「うん。OBの先輩が奢ってくれるっていうから、さっきまでお好み焼き屋さんで打ち上げしてたんだ」

『それって府道沿いのあのお店? いいな~。あたしも行きたいと思ってたんだけど暇が無くて、まだ行けてないんだよね』

 電話口から聞こえる梓の口調は相変わらずだ。不思議なことに、中学校を卒業してからの方が梓とはずっと仲良くなったような気がする。合同演奏やイベントで顔を合わせる機会が多いせいでそうなったのもあるし、本当の意味で互いをライバルと認め合えているからかも知れない。何より、中学の時に比べて梓自身が何か変わったように久美子は感じていた。具体的に何がと言われても本人にも説明はつかないのだが、何と言うか以前は他人と関わるのに気を張っているように見えたのが、今はごく自然に他人と触れ合っているような、そんな雰囲気になった気がする。

「それでどうしたの? こんな時間に」

『ああそれそれ。今日ね、北宇治の演奏見てたよ。今回も凄かったじゃん』

 梓の声は幾分興奮の色を帯びている。今回、サンフェスでの立華の出番は北宇治よりかなり早かった。出番を終えた団体には時間的な余裕があったので、北宇治の演奏を見る暇もあったのだろう。

「ありがとう。さすがに立華には負けるけどね」

 久美子が謙遜するも、梓はなおも語気を強める。

『北宇治の振り付けもカッコよかったよ。こっちに北宇治の先生が何か相談に来てるって話聞いてたんだけど、そういうことだったんだね。こっちはもう、やられた! って感じ』

 あはは、と久美子は笑みをこぼす。梓にこれだけ手放しで褒められるなら、曲に行進練習にと努力を重ねたこの日々も無駄では無かったと言えるだろう。

『それにしてもサンフェスも終わったし、いよいよコンクールだね』

「そうだね」

『ねえ久美子』

「ん?」

 そこで梓は少しだけ間を置いた。

『今年のコンクールは立華も、本気で全国狙っていくからね』

 はっきりと梓は宣言した。それは本人の口から初めて聞いた決意であり、それと同時に、今年の出来に自信を覚えていることの証明でもあろう。立華はマーチングコンテスト、通称マーコンでは全国金の常連として名を馳せているのだが、こと吹奏楽コンクールにおいては去年一昨年と関西大会止まりで『コンクールでも全国級の強豪』としての存在感もすっかり薄れつつある。その事に梓は少なからず不満を抱いていた。マーチングだけの立華じゃない、座奏だって全国の強豪校に引けを取らない演奏ができるってところを見せたい、と梓は度々久美子に愚痴をこぼしていた。その梓からこういう言葉が出てくるという事は、梓も間違いなく本気でコンクール全国出場を目指している。それも今年は、立華の全員が一丸となって。

「北宇治だって、負けないよ。今年こそ全国金賞獲るつもり」

 負けじと久美子も宣戦布告をする。電話を介して張り詰める互いの緊張感が、心地良かった。

『じゃあ、まずは府大会だね。関西出場目指して、お互い頑張ろうね』

「うん」

 それじゃまた連絡するから。そう告げられたところで、梓との通話は終わった。温まった携帯をテーブルの上へ置き、久美子は再びベッドに仰向けの姿勢で寝そべる。サンフェスに向けての日々は今日で終わり、明日からはコンクールに向けての日々が始まる。その練習は今まで以上に熾烈を極めるだろう。久美子は本番中の雫を思い返す。雫は今日も完璧と評する以外ない演奏をやってのけ、ドリルパフォーマンスでも一糸乱れぬ正確さで動き続けていた。マーチングでもあれだけの実力者なら、それこそ立華を選んでいてもおかしくなかったはずだ。なのにどうして北宇治を選んだのか? それはともかく今の雫は同じ部内の仲間であり、コンクールにおいては強力な競争相手でもある。

「負けたくない」

 誰にともなく呟いて、自分の身体をぎゅうっと抱きしめる。妙に火照った自分の身体が微かに震えているのを、久美子は感じていた。

 

 

 翌日。

 まだ学校は連休中だが、既に吹部の一同は音楽室に集まっていた。

「まずは皆さん、昨日はサンフェス本番お疲れ様でした」

 壇上には滝の姿。彼の言葉はまず部員達へのねぎらいから始まった。

「昨日の皆さんの演奏演技には校外の方々からも沢山お褒めの言葉をいただきまして、特に立華の熊田先生からの評価は大変高いものでした。今回の皆さんの成果として、素直に受け取りましょう」

 それを聞いた部員達が、ほう、と胸を撫で下ろす。

「しかし演奏面ではまだまだ詰めるべき部分、課題が数多くあります。良い言葉を頂いたからと言って浮かれている暇は私達にはありません。今後の練習も油断なく、一つ一つを着実に身に付け実力向上を図っていって下さい。いいですね?」

「はい!」

 部員達が一斉に返事をする。滝の言う通り、今の自分達には油断しているような余裕などありはしない。これからは今まで以上に集中し演奏を磨き上げていかなければ、強豪の集う関西大会の突破、更には全国屈指の名門が揃い踏みする全国での金賞など夢のまた夢でしかない。そこに向かって費やせる時間はしかし、決して多くは無いのだ。

「それでは今日からは、コンクールに向けた練習を開始します。後ほど各パートリーダーを通じて課題曲と自由曲を配りますが、その前に皆さんに言っておかなければならないことがあります」

 指揮台から立ち上がり、黒板を前にしてチョークを手に持つと、滝は何かをそこに書き始める。

「私が北宇治に赴任してから毎年、コンクールに出場するメンバーはオーディションで決定しています。最初の年はA部門の出場メンバー五十五名、そして各パートでソロを務める人も同時に、個別オーディションで決定していました。ですが昨年からはソロパート奏者のオーディションは別に分け、レギュラーに決定した人の中からさらに希望者による選抜を皆さんの前で行うことにしています」

 口で説明したことを、滝は分かりやすく図として黒板に書き出す。

「このためコンクールメンバー選出のオーディションは六月の終わり、つまり期末テスト前に行い、ソロ奏者選出のオーディションはテスト終了後に行う予定のホール練習にて、全員の前で行います。オーディションの詳しい内容は後日改めて説明しますが、まずはこの日程を念頭に置き、毎日の練習に取り組んでいってください」

 やはり今年もこれが来た。コンクールのオーディション選抜。学年や楽器キャリアに関係なく実力のみで判断され、足りていないとなれば三年生ですら落ちることもあり得る。その決定に慈悲はない。コンクールで勝つ、そのために『必要』な人材だけが選ばれ残りは振り落とされてしまう。落ちたくなければ必死で練習し周りを押しのけて上達する以外、選択の余地など無いのだ。

「それでは各パートリーダーは後ほど職員室に、自分のパートの楽譜と参考演奏のCDを取りに来てください。一回目の合奏は中間テスト明けに行いますので、今日明日は個人とパートで楽譜を完璧にこなせるよう練習しておくこと。分かりましたか?」

「はい!」

 ミーティングを終えた部員達がそれぞれのパート練習場所へと移動していく。久美子達もまた、低音パートの練習場所である三年三組へと向かった。楽譜を取りに職員室へ行った緑輝の到着を待つ間、各自は音出しや基礎練習などをしていた。ふう、と一息ついて楽器から口を離した葉月が感慨深げに口を開く。

「今年もいよいよ来るねぇ、オーディション」

「オーディションって、低音からは毎年何人くらい選ばれるんですか?」

 星田は楽器を床に置き、上級生らに尋ねた。丁度ひとしきりの基礎連を終えた久美子も会話の輪に合流する。

「だいたい五、六人ってとこかなあ。他のパートの編成によっても変わるけど」

 場合によって低音の人数が多く取られることはあるが、コンクールではどこの学校でも平均してユーフォ・チューバ・コンバスから二人ずつが選ばれることが多い。このうちコンバスは一年の真帆が初心者で、楽器演奏もまだまだおぼつかない状況である。つまり今年も緑輝一人がコンバス奏者としてレギュラーになることはほぼ間違いない。

 チューバに関しては、きっと葉月は確定だ、と久美子は予想していた。それは何も身内びいきという事ではない。実際に葉月は日々の努力を積み上げ続けた結果、そう断言できるだけの確かな実力を備えている。ではもう一人は? ということになるが、二年の美佳子と一年の星田は現時点だとどちらが選ばれるか分からない程度の実力差だ。これからオーディションまでの練習期間が、ともすれば二人の明暗を分けることになるだろう。

 そしてユーフォは、正直言って雫の実力があまりにも圧倒的すぎて、もし久美子と相楽と雫の三人のうちから二人と言われれば相楽の選出は相当に難しい。それは相楽本人も薄々分かっているらしく、この頃は時折弱気な発言をする姿も目立ちつつあった。

「今年のレギュラー争奪は厳しそうですね。もう俺、最初からサポートに徹するつもりでハラ括ろうかな」

「駄目だそー相楽、ネガティブ発言は。来年があるなんて思わず、このチャンスを狙っていかないと!」

 葉月が眉を吊り上げながら相楽を叱咤する。一方の相楽は、いやいや誤解しないで下さいよ、と両手を振った。

「別にやる気失くしてるわけじゃないですよ。俺、音楽好きですしユーフォも気に入ってるんで。ただ今年はやっぱり一人ヤバいのがいますし、毎年の慣例から見ても、そう簡単にユーフォ三人体制にはならないだろうなって事です」

 相楽が教室の端をそっと見やる。釣られて久美子も視線を移すと、そこには雫の姿があった。ああして他人の輪に入らず黙々と自分の練習をこなす姿は、ますます往時のあすかを彷彿とさせるものがある。

「私、葉月先輩と絶対一緒にコンクール出たいです。超頑張ります!」

「その意気だよ美佳。星田君も負けずに頑張れ! みんなでコンクール金賞の栄冠を掴み取ろうね」

 美佳子と葉月は相も変わらぬテンションの高さである。メラメラと燃える炎を背に負う二人を盗み見た真帆が、そっと久美子に耳打ちして来た。

「凄いですね、加藤先輩と吉田先輩……」

「あの二人はもう、スポ根世界に生きてるから」

 そう返して久美子は肩をすくめる。二人とも運動部出身のためか、こういう時のノリは完璧にシンクロしてしまう。あまりにも熱血熱血した二人の世界には、久美子達がついていけなくなる事もしばしばなのである。

「お待たせしました」

 その時、がらりと教室の戸を開けて緑輝が入って来た。

「コンクール用の楽譜とCDです」

 緑輝は用意しておいたラジカセにCDを掛けながら、葉月達に課題曲と自由曲の楽譜を配っていく。

「はい、久美子ちゃん」

 手渡された数枚の楽譜のうち、課題曲は『マーチ・シャイニング・ロード』。木内涼によって作曲されたこの曲は、冒頭からラストまで快活なリズムで爽やかに奏でられるのが特徴的な行進曲だ。そして自由曲は『歌劇「剣闘士」』。こちらはオペラの劇伴を意識して作曲されており、都合四ページに渡る壮大なボリューム、そして音符で真っ黒に埋め尽くされた譜面であった。例年の滝の選曲と同様、これもまた曲としての難度は途方もなく高い。

「こりゃまたやり甲斐のある曲が来たねえ。特に自由曲なんか、去年のより難しいんじゃない?」

 楽譜としばらく睨めっこをしていた葉月も、この曲を前にして流石に呻きを漏らす。

「緑もそう思います。これは今年こそ、滝先生も本気ですよ」

 別に去年までが本気じゃなかったという訳でもないだろうが、今年の自由曲の選曲にはいよいよもって全国で金賞を取る、という滝の決意が滲み出ていた。単に難易度が高いというだけではない。その美しさや情感を十二分に表現し切ることが出来れば、全国金賞常連の超強豪校にも真正面から立ち向かえるだけの音楽に仕上げられるほど魅力的な曲ということである。

「あれ、」

 楽譜をなぞっていた久美子の指が止まる。それは自由曲の後半部分。そこに書かれてあるユーフォパートの小節の上には、確かに『Solo.』と記されていた。今年の自由曲にはユーフォのソロがある。ということは、オーディションでソロの担当者を選ぶことになる。これを吹くことが出来るのはユーフォのうち一人だけであり、久美子にとってはソロを吹けるか吹けないか、そのどちらかだ。

 その時、ラジカセから流れていた演奏が、丁度そのパートのところへ入って行った。反射的にラジカセへと視線を移す。と、視界の端で、雫も同じところを見ているのに久美子は気付いた。ソロ区間の数小節。ユーフォの温かく包み込むような音が鳴り響き、そこに続けて、トランペットのソロが美しく歌い上げていく。

「……っ」

 久美子は息を呑んだ。ここのユーフォソロはトランペットのソロへと繋がるように構成されている。トランペットソロを吹くのは間違いなく麗奈だろう。つまり、このソロは、麗奈と一緒に吹くことになる。それを認識したとき、不意に今まで丁寧に折り畳まれていた気持ちが解き放たれ、体の内側で猛然と暴れ始めた。

 唇がわなわなと震える。強張る全身は真っ赤に燃えるように熱い。ぐっと握り締めた拳の内側では爪が手の平に食い込み、今にも血を噴き出すのではと錯覚するほどだ。

 譲れない。これだけは絶対に他の誰にも、雫にだって、譲れない。負けたくない。負けるわけにはいかない! そう叫びたくなるのを堪えるのに必死だった。

 

 それは久美子が雫の事を、強く明確に『打ち倒すべき相手』として認識した、最初の瞬間だった。

 

 


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