宇治川沿いの土手の道にはもう、桜の花びらが積もっている。四月に入ってすっかり暖かくなった春の陽気を、久美子は鼻ですうっと吸い込んだ。
ふうーっ。
そのまま溜め息とも何ともつかぬような息を吐き、空を見る。花びらが舞い散る空の向こうには雲がたなびき、微かにまどろむように、その白い身をよじらせているようにも見えた。久美子はそれを、春の雰囲気にはまるで似つかわしくない気だるげな表情を浮かべながら眺める。
「三年生かあ……」
誰にでも無しにそう呟くと、久美子はその視線を足元へと落とした。二年前、新入生としてこの道を歩いていたあの日から時は過ぎ、気付けば今はもう最上級生としてこの道を歩いている。今日は北宇治高校の入学式。それはつまり、新しく入ってくるであろう新入生達が今まさに久美子と同じように、学校への道を歩いていることを意味していた。部長として、私ちゃんとうまくやれるかな。今年の吹部はどうなるだろう。漠然とした不安と期待を胸中にぐるぐると渦巻かせながら、久美子は昨秋の部長就任劇を思い返していた。
「え、えっ」
寝耳に水とばかりたじろぐ久美子に、優子と夏紀は畳み掛けた。
「これも昨年までは学年代表が部長に指名される事が半ば慣例でしたが、黄前さんはなんでか知らないけど他人のいろんな問題に首を突っ込んで解決する能力が高いらしいから、沢山の人がいる吹奏楽部の部長としてきっと良い仕事をしてくれると考え、選びました」
『なんでか』の部分にやや語気を強めながら、優子が推薦の理由を述べる。
「私も、久美子ちゃんならきっと部長として大活躍してくれると思ってます。この選出に賛同する人は、拍手をお願いします」
夏紀がそう言うと、部員達からはこれでもかとばかりに高らかな拍手が打ち鳴らされた。
どうしよう。反応に窮した久美子が麗奈を見やると、麗奈は拍手の手を止めニヤリと笑って、
「おめでとう『部長』。頑張ってね」
と、冷やかしとも激励ともつかぬ態度である。これでは麗奈からのヘルプなど期待できそうも無かった。
「あ、あああの、私、部長なんてとてもとても」
両手を肩の高さに上げ首を振る久美子を、夏紀は「ストップ!」と掌で制した。
「久美子ちゃんの不安な気持ちはとても良く分かるよ。私達も、一年前はホントそんな感じだったからね。けれど私達が久美子ちゃんが適任だ、久美子ちゃんならやれるって認めたんだから、自信持って」
まるで芝居がかった所作で夏紀に両肩をがっちり掴まれ、こちらの反論は完璧に封じられてしまった。
「一、二年の皆も、新しい部長をちゃんと支えてあげてね」
「ハイ!」
全員の元気な声が再び名古屋の空に響く。ちょっと待って下さいよ、お願いですから……という久美子の嘆きにも似た声を置き去りにして。
「それじゃ、次は副部長の発表です――」
完全に抜け殻と化した久美子の耳には、それ以上の言葉はもう何も入って来なかった。ただ一つだけ、傍に寄って来た
就任してから分かったことだが、部長の職務というものは実に多岐に渡る。
まずは日々の練習スケジュールの取りまとめ。毎日練習が始まる前に顧問のところへ行き、その日の練習メニューなどを聞いて部活開始前のミーティングで部員達に伝達する。次に、合奏のある日は全体チューニングを行うのも部長の仕事である。学校によってはチューニングは顧問や学生指揮者の仕事と定められている場合もあるが、北宇治では伝統的に部長が、部長不在の時は副部長がチューニングを行い、学生指揮者はこの両名が揃っていない場合に限りチューニングを受け持っていた。
次に、種々の事務作業。これはほぼ一手に部長の仕事として回される。コンクールを除く殆どのイベント、学内での催し物や合宿などがある場合には、参加の為の申込書や施設の使用許可申請など各種書類の提出が求められる。これら書類の作成は多くの場合は顧問および副顧問などが担当することもあるが、北宇治ではこれも部長の仕事として対応することとなる。
そして週一回のパートリーダー会議。部長は会議中、議長の立場も務めなければならない。パートごとに異なる要望や意見を取りまとめて採決を下すほか、時には部長提言で方針を打ち出さねばならないこともあるため、部員の自主性が重んじられている北宇治では責任重大と言える。
他にも出演用衣装の決定や予算繰り、備品補充のチェック、諸々の雑務など、挙げ始めればキリが無いほどに、北宇治吹奏楽部の部長というものは激務を極めていた。
『みんな、あすかが部長だったら良かったって思ってる』
二年前、部長を務めていた
果たして自分が部長となった今、久美子は晴香の心境が痛いほど理解できるようになってしまった。これほどの仕事量をこなしながら七十人を超える部員達をまとめていく、というのは並大抵の業ではない。ましてや『
「それじゃ、歓迎演奏のメンバーはこの後楽器を持って校門前に集合です。新入生は九時には登校して来ると思うので、その前後に合わせて演奏を開始します。いい?」
「はい」
吹奏楽部の活動拠点、つまり部室である音楽室の指揮台前には十数名のメンバー達が集まっていた。久美子の言葉にメンバーが凛々しく返事をすると、それ以外の朝練をしていた部員達はホームルーム出席のため楽器を片付けて部室を出ていく。
はぁー、と一息をつく久美子に、
「お疲れー久美子。まだ慣れないの?」
と声を掛けて来たのは、同級生であり同じ低音パートのメンバーでもある
「うん、まあ、元々人前に出るの得意じゃないからね」
「そんなこと無いですよ! 久美子ちゃんかなり部長らしくなって来てます。何と言うかこう、『板について来た』って感じです!」
そんな風に久美子のフォローを試みているのは、葉月と同じく同級生でコントラバス担当の
「きっと新入生の子たちも沢山入ってくれますよ」
目をらんらんと輝かせ、緑輝は鼻息を荒くしている。そう、今日の歓迎演奏は単に新入生の門出を祝福する為だけのものでは無い。北宇治に吹奏楽部があること、そして全国で金賞を狙う意思と実力があること、それを新入生にアピールして有望な新入部員を獲得すること、それが歓迎演奏の真の狙いなのだ。
「ホラ、そろそろ行かないと。私スーザ準備してから行くから、二人は先に行っててよ」
「分かった」
「早く来てくださいね、葉月ちゃん」
葉月に頷きを返したあと、久美子は自分のユーフォニアムを抱え、緑輝と共に玄関へと向かった。
玄関で外履きに履き替え表に出ると、そこには既に歓迎演奏のメンバーが何人か音出しやチューニングをして自分の楽器のチェックを行っていた。その中にはトランペットを構えた麗奈の姿もある。近付く久美子に気付いた麗奈がトランペットを下ろすと、黒く艶のある長い髪が春風に揺れ、さらさらと空中に優雅な波を描き出した。
「調子はどう?」
久美子が尋ねると、麗奈は軽くピストンを押下しながら返事をした。
「まずまず、かな。そっちは?」
「じゃあ、私もまずまず、かな」
悪戯っぽい笑みを浮かべながらそう返すと、麗奈は軽く呆れたように唇の端から息を漏らし、真っすぐに久美子の瞳を覗き込んだ。
「普段通りってことね。じゃあ、気合い入れていこう」
久美子は黙って頷いた。ユーフォニアムを構えて軽く息を吹き込みピストンを動かす。――うん、今日の感触も上々だ。次に唇を震わせ、B♭の音を長く豊かな音で吹き鳴らす。辺りに響き渡る柔らかく明るい音色。それを見て、麗奈は満足気に頷いた。
「今日も綺麗に音出てる」
「ありがと」
少しはにかんで、久美子は楽器の管内に溜まった水をウォーター=キイから地面に放った。ぽたりと落ちた滴は地面に黒い染みを作り、砂埃にまみれて消えてゆく。
「そろそろ新入生が来まーす!」
後輩の声にメンバー一同が向き直る。
「ありがとう」
久美子は後輩にねぎらいの言葉を掛けてから、
「それじゃ私達もそろそろ階段に整列します。昨日のリハ通りの立ち位置で並んで下さい。指揮者の副部長はちゃんと新入生に声掛けしてから指揮を始めてね。いい?」
と指揮棒を握る秀一を一瞥した。
「うっさいな。大丈夫だよ」
少しふてくされてみせた秀一は、けれどすぐに気を取り直し、てきぱきと段取りの確認を取り始めた。
「それじゃ昨日のリハと同じように二拍振ってから入りますんで、出だしはちゃんとこっち見てください。それとパーカスは走らないよう注意な。木管は屋外だけど音を響かせるよう意識して。後は練習通り行きましょう」
そんな彼の横顔に久美子はほんの少しだけ、誇らしいような安堵するような、そんな気持ちを抱いていた。
玄関広場に高らかな演奏の音が鳴り響く。新入生歓迎用に久美子達が選んだ曲は『ディキシー・オン・スーザ』。J・P・スーザが作曲した数点の行進曲を佐々木邦雄が一まとまりのメドレーとして編曲したこの曲は、最初から一貫して快活なマーチのテンポで進行してゆく、各曲それぞれの変化に富んだ表情が特徴的な楽曲である。ソロパートもそれなりにあるため、バンドの実力を見せやすいとの理由から採択された。果たしてその効果は狙い通りだったようで、道行く新入生たちが続々足を止め、久美子達の演奏に聴き入っている。
その中に一人、やや短髪の女子生徒が久美子達の演奏を、真摯な眼差しでずっと見つめ続けていた。その色は希望、畏れ、期待感、そのどれとも違う。まるで獲物を射止めようとする狩猟者のような、そんな鋭く強い色を帯びた眼。演奏に集中し続けていた久美子は最後まで、その眼差しが自分へと向けられていることに気付けるはずも無かった。
「お疲れ様でした!」
歓迎演奏を終えたメンバー達は互いに互いを労いながら、部室へと戻るべく玄関へと向かっていた。
演奏終了と同時に新入生達は一足早く校内に入っていったため、残念ながら直接勧誘の時間は無い。後は入学式を終えた新入生達が、これから正式入部までの二週間の間に一人でも多く入部してくれることを願うばかりだ。
「最低でも二十人は欲しいですよね」
「去年の勢いだったら三十は行けるんじゃないかなー。それに二年連続全国行ったからさ、今年は全国目当ての子も去年より増えてるかも知んないし」
緑輝と葉月がやいのやいの言っている背中を眺めながら、久美子はその一歩後ろについて廊下を歩いていた。
確かに部員が一人でも多く増えることは、今の北宇治吹部にとって最重要課題である。何より久美子自身、部長に就任したばかりの昨年秋にそれを痛感していた。三年生が抜けて減ったパートの音というのは、どうやっても残りのメンバーで賄えるものではない。もちろん新入生が加わったからといってすぐさま取り戻せるようなものでもないのだが、それでも人が増えれば増えただけ音の厚みはかなり補われる。優秀な奏者が入ることでレギュラー競争こそ熾烈にはなるものの、全体の音楽がレベルアップすることには確実に繋がるだろう。そしてそれは、部全体の悲願である『全国金賞』という目標への第一歩にして最大のステップなのである。
だからこそ、今日の歓迎演奏は絶対に手抜きできない。そういう思いで久美子を始めとした演奏メンバー達は全力で臨み、そしてベストな演奏をやり遂げた。新入生達はどうだったろう。どのくらいの人数が吹部に入りたいと思ってくれただろうか。経験者もそうでない子も「こんな風にうまくなりたい」と思ってもらえたらいいな。……そんなことを久美子はぐるぐると考えていた。
「ねえ、久美子聞いてる?」
突如浴びせられたその一言で、久美子はハッと我に返る。そこには呆れ返ったように肩をすくめる葉月の姿があった。
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「もー、何かさっきからずっとボーっとしっ放しだよ? しっかりしてよ部長」
「ごめんごめん。それで何?」
「今日さ、入学式とホームルーム終わったら午後から部活だから、その前に新入生達にチラシ配りするんでしょ? 私と緑は一年の教室回るから、久美子は玄関前でキャッチしてよ、って」
「キャッチってそんな、怪しいお店じゃないんだから」
苦笑いを浮かべる久美子に、葉月はいたずらっぽい微笑みを返してきた。
「いやいやー意外と間違ってないかもよ? 練習キツいし、遊ぶ時間無いしで、『最初の話と違うー!』ってなったり」
「それは、ちょっと嫌だなぁ」
その光景を想像して久美子は首を捻る。
「そうですよね。緑達は全国金を目指してますから、練習は大変ですけど頑張ってついて来てくれる子達に沢山入って欲しいです!」
「だね」
腕をぶんぶん振り回す緑輝に久美子も同意する。騙されて連れ込まれた、などというのは互いにとって不幸な話である。
「それじゃホームルーム終わったら一旦部室集合、んでチラシ持って移動ね。ノルマは一人、三名獲得で!」
葉月のその宣言に、久美子と緑輝は声を揃えて慄いた。
「ノルマはちょっと、きついですぅ」
かくして前言通り、ホームルーム終了後の久美子は『入部歓迎!』と大きく描かれたチラシの束を抱え玄関前に立っていた。もちろん久美子だけではなく、他数名の部員達も一緒だ。
「吹奏楽部でーす。よろしくお願いしまーす」
「初心者の方も歓迎でーす。興味のある人は体験入部に是非どうぞー」
めいめい声掛けをしながらチラシを配っていく部員達。通りすがる新入生のうち何名かは興味本位なのか積極的に手を伸ばしてくれるものの、後のほとんどは軽く会釈をする程度でその場を後にする状況が続いていた。そんなこんなで数十分経つが、全員分を合わせてもまだ十枚も掃けていない。その状況には流石の久美子もげんなりしてしまい、
「はー、なかなか捕まんないなー……」
とうっかり口から洩れてしまった。これではまるでさっきの怪しいお店みたいな話じゃないか。久美子は自分の思考が葉月の言葉に染まりそうになっていることに気付く。しっかりしなくちゃ。かぶりを振って背筋を伸ばした、その時。
「すいません、そのチラシ見せてもらってもいいですか?」
突然後ろから掛けられた声。「あ、はい!」と振り返りチラシを渡そうとして、久美子はその人物が良く見慣れたものであることに気付いた。
「あれ、さっちゃん?」
「やっぱりー、くみ姉だ! 久しぶり」
さっちゃん、と呼ばれたその女子はセミロングの髪を後ろでアップに留め、人懐っこそうな笑みを浮かべていた。身長は久美子よりはやや低く、麗奈と同じぐらいだろうか。北宇治の制服を着ているということは、当然ながら北宇治の生徒であることに疑いの余地は無い。その制服の胸にかかるリボンの色は、新一年生達の学年であることを示す紺色をしていた。
「さっちゃん北宇治に入ったの? 全然知らなかったよ」
「だって叔母さんに話して無かったもん。お父さんにもお母さんにも、私が言うまで絶対に喋らないでって口留めしてたからね。くみ姉が知らないのも無理ないよ」
「そうだったんだ。じゃあ改めて、ご入学おめでとうございます」
「ありがとうございます」
うやうやしく頭を下げてみせた久美子に、深々とお辞儀を返すさっちゃん。二人は同時に顔を上げてくすくすと笑い合う。その様子を見ていた部員の一人が、怪訝な表情を浮かべながら久美子に尋ねてきた。
「部長、この子、ご親戚……ですか?」
「あ、ごめんね」
こほんと咳払いをしてから、久美子は後輩達の質問に応えた。
「この子は『
「ああもう違うでしょ。正しくは、くみ姉のお母さんのお兄さんの奥さんの妹があたしのお母さん、でしょ」
「ああそうだった。本当ややこしいよね」
へらりと苦笑を浮かべた久美子に、全くもう、とぼやきながら幸恵が部員達へと向き直る。
「そんなわけで血の繋がりは無いですけど、くみ姉、あ、今は先輩か、久美子先輩の遠い親戚です。小さい頃から先輩とは何度か行き会ってるのでお互いに面識はあります。中学時代は三年間トランペットやってました」
幸恵の口から流暢に出てきた自己紹介の弁に久美子は少々面食らう。小さい頃はあんなに大人しい、というか少々引っ込み思案ですらあったあの幸恵が、しばらく会わぬ内にこんなにも高いコミュニケーション能力を獲得していようとは。積もる年月の恐ろしさを垣間見た思いがする。
「経験者ってことは、即戦力? じゃあ吹部に?」
「はい!」
幸恵が元気に返事すると、部員達は口々に「やったあ!」「入部おめでとう!」と祝辞を述べながら次々と幸恵の周りを囲い込んだ。
「ちょっと皆、正式入部はまだ二週間先だよ」
「えー、だって本人入る気満々じゃないですか。これもう確定ですよ部長」
「さあ部長、新入部員を音楽室までご案内して下さい! 残りのチラシは私達で配りますから」
そう言って後輩達は久美子の手からチラシを毟り取り、『いってらっしゃい』とばかりにひらひらと手を振ってみせた。何となくばつの悪い思いを感じつつも、久美子は気を取り直して幸恵の案内役に徹することにした。
「それじゃあ早速だけど部室行こっか、さっちゃん」
「うんっ」
幸恵は口の端に八重歯を覗かせながら、満面の笑みで頷いた。
東中幸恵は今しがたの説明にもあった通り、久美子の遠縁の親戚に当たる。直接の血縁こそ無いものの、母の兄、つまり伯父の家で行き会うことが時々あり、互いの母親同士が仲良くなったこともあって昔は良く遊んだりもしたものだった。とは言えそれほど頻繁というわけでもなく、久美子が中学に上がる頃には部活が忙しくなったこともあって年に一度会うかどうか、という程度になっていた。
「さっちゃんと最後に会ったのって、いつだっけ?」
「あたしが中学一年の時かな。くみ姉が中三になった春くらいの頃」
「そっか。じゃあもう三年くらい会ってなかったんだね。それにしても……」
「ん?」
「吹部やってるなんて知らなかったよ。それもトランペット」
「まあね。くみ姉もやってるって聞いたから、中学入った時に吹奏楽やってみようかなあって思って入ったの。入る前の想像とは全然違ったけどね」
「だろうね」
二人は顔を見合わせ互いに苦々しい表情を浮かべる。吹奏楽の活動は世間が思っている以上にハードスケジュールだ。平日は朝練から始まり居残り練習に終わり、休日も学校に出てきて朝から晩まで練習に励む。そして一年間を通じて何らかの大会や発表会があり、基本的にオフシーズンという概念が無い。テスト期間中の休みを除けば年間休日数が一桁という学校もあるぐらいだ。さらには先輩後輩の上下関係も厳しいし、部員同士の派閥争いや確執、軋轢もまま生じる。とりわけ大所帯な学校の吹部なら、これはもう避けては通れない道と言っても過言ではないだろう。
「でもなんで北宇治に? 家からちょっと遠いんじゃない?」
久美子はふと浮かんだ疑問を口にした。幸恵が乗るであろう電車の乗車駅は、北宇治高校を挟んでちょうど久美子の家の最寄り駅とは反対方向にある。それも久美子が通う距離よりずっと遠い。近場には他に高校なんて幾らでもあるし、わざわざこんな遠い学校まで来なくても。そう考えてから久美子は自分が人の事を言えない立場であることを今更ながらに思い出し、手で口を覆った。幸恵はそんな久美子の様子を見てクスリと吐息を零す。
「知り合いがいない学校に行きたかったから、かな」
「え」
「知り合いのいないところで、新しく始めたかったの。何もかも最初から」
久美子の背中にぞわりと冷たいものが滴り落ちる感触。それはまるで、二年前の自分の思惑を言い当てられたみたいな心地だった。
見られて、いや知られていたのか? 久美子はまず最初に母親の口の軽さを疑ってみたが、しかし久美子は母親にすら北宇治を選んだ理由を明確には告げていなかった。当然、このルートから幸恵が真実を知る由も無いだろう。知っているのは恐らく佐々木梓くらいのものだが、その梓にしたって幸恵とは中学校すら違うのだから接点などある筈も無い。では誰が? という久美子の混乱ぶりを見て幸恵がけらけらと笑い出した。
「――なんてね。そんな大人な理由じゃないよ」
大人。そう言われて久美子はなんだか頬のあたりがかあっと熱くなった。幸恵もまた照れ隠しするようにはにかんでいる。
「去年、地区の定期発表会でね、北宇治の演奏聴いたの」
「あー。そう言えばあったなあ、何年かに一回のやつ。サンフェスのすぐ後で準備大変だったんだよね」
「でね、その時トランペットソロの人の演奏聴いて、それが超上手くて。音もすごく綺麗で、もう何て言うか、今まであたしが思ってたトランペットの音と全然違う! って」
「あー……」
恐らくそれは麗奈のことだろう。間違いない。その時の発表会でトランペットソロを吹いたのは、麗奈ただ一人だったのだから。
「んで、あたしもこんな風に上手くなりたい! って思ってさ。それからはもう北宇治一本に絞って必死に勉強して、この度めでたく合格しましたという訳なのよ」
「北宇治ってそんなに勉強大変だった?」
久美子は首を傾げる。一応進学も目指せる普通高校であるとは言え、北宇治の偏差値は決して高くは無い筈なのだが。
「それは物の例えってもんだよ、くみ姉」
幸恵はチッチッと指を振ってみせる。
「ともかく、北宇治に来たらあのぐらい上手くなれるって思ったの。ねえ、あの時のトランペットの人、まだ卒業してない?」
これは幸恵と麗奈を会わせたら面白いことが始まりそうだ。久美子は自分の顔がにやけそうになるのを必死に堪えながら頷く。
「うん、居るよ」
「ほんとに!?」
「今部室にいると思う。チラシ配りとか得意じゃないタイプだから、部室で新入生の案内するって言ってたし」
「そうなんだ、じゃあ早く部室行こうよ。あたし一度あの人とお話してみたかったんだあ」
幸恵はあどけない少女のように瞳を輝かせながら、久美子の背中をぐいぐい押してきた。
「わかったわかった。ところでさっちゃん、入部は――」
「勿論、する!」
決然とした口調で、幸恵は入部を宣言したのだった。
「あの時の麗奈の顔、超面白かった」
帰宅途中の電車の中で、久美子は喉からくつくつと愉悦の音を漏らす。隣に座る麗奈は『やめてよ』とでも言いたげに、鬱陶しそうな表情を浮かべた。
「だってしょうがないじゃない。あんなの、慣れてなかったし」
「それはそうだろうけどさ」
今思い返して見ても笑いが込み上げてくる。部室に到着するなり幸恵はまず辺りを見渡して、麗奈の姿を見つけるや否やずかずかと近づいてからの開口一番、
『ずっと憧れてました! 私を弟子にして下さい、師匠!』
「――だもんねえ」
ついに堪えきれず、久美子は笑い声を上げてしまった。
「麗奈、鳩が豆鉄砲食らったような顔してたよ? 目を真ん丸にして」
あまりにも突然の出来事に、あの瞬間は麗奈はもちろん周囲の部員達もすっかり固まってしまっていた。状況を見かねた久美子が割って入って麗奈に事の次第を説明し部員達を落ち着かせ、いきり立つ幸恵をなだめて新入生用の見学席に座らせるまで、実に十分ばかりの時間を要したのだった。
「やっぱさ、麗奈の持ってるカリスマのせい?」
「もう。これ以上茶化さないでよ」
笑い種にされたことが流石に少し不愉快だったのか、口元をへの字に曲げた麗奈がゲンコツで久美子の額を小突いた。それはとても軽いもので、こつん、という乾いた音が車内に響く。
「へへ、ごめんごめん」
調子に乗り過ぎたか、と久美子は乱れた前髪を手で整える。
「でも、新入生、結構来てたね」
「うん」
久美子の言葉に麗奈も頷く。当初、入学式直後ということもあって、せいぜい十人も見学に来れば十分だろうと久美子達は考えていた。ところが一転、蓋を開いてみれば見学者は倍の二十人ほど。しかもその大半は経験者らしく、特定のパートの近くに移動しては先輩達に質問をしてみたり、合奏の様子を真剣な面持ちで眺めるなどしていた。恐らくこのまま入部してくれることは間違いないだろう。正式入部までの二週間の間にさらに決心する生徒が増えることを考えれば、目標の二十人はおろか理想の三十人、いやそれ以上も夢ではないかも知れない。
「歓迎演奏、上手くできたからかな?」
「かもね」
「経験者の上手い子も沢山入ってくれたら良いんだけど」
「それはわからないけど、でも上手い子が増えればそれだけ部のレベルアップになる。そしたら全国金賞もきっと近づく」
「うん」
返事をして、久美子は右の掌をぎゅっと握り締める。
「全国金賞、ずっと私達の目標だったもんね」
「私達にとっては今年が最後のチャンスだから、絶対に油断は出来ない」
麗奈は何かを決意するように顔を上げ、久美子の方を向く。
「獲ろう、今年こそ。全国金賞」
「うん。絶対、獲ろう」
そのまま少しの間、久美子と麗奈は互いの瞳を見つめ合った。互いの決意を今一度確認し合うように。
翌日、放課後。
新入生達は今日から二週間の間、部活の仮入部期間となる。彼らはこの間に色々な部活を見て回ったり、入部する部活を心の中で決めたり、あるいは放課後と同時に友達と街に繰り出して楽しい高校生ライフを満喫したり、入学おめでとうテストの結果を受け取ってひっそり勉学に励むことを誓ってみたり、と各々の時間を過ごすのだ。
もちろんやる気のある子達は早々に入部する部活を決め、入部届を出した後は一刻も早く部の雰囲気に馴染もうと努力をし、先輩達とコミュニケーションを図り、経験者の子なら自分の経歴と実力をアピールして担当楽器の選考で有利を得ようと動く。いわゆるロビー活動の時期、とも言えるわけである。
「しかしこれは、さすがに凄いねー」
葉月はその光景を見て他人事みたいな一言を漏らした。
「十、二十……三十人近いですねこれは。目標達成間違い無しです!」
更にその隣では緑輝が無邪気にカウントを取っている。彼女達の目前には読んで字の如く、長蛇の列が出来上がっていた。
「はいはい、入部届は順番に受け取るから。こっちから順に並んで一人ずつお願いします」
久美子はと言えば部長らしく、希望者が提出する入部届を受け取る役をやっていた。一人一人の顔と名前を確認しながら入部届を受理していき、後でそれを纏めてから顧問である
「――はい、皆さんの入部届は確かに受け取りました。じゃあ再来週の正式入部の日、十九日の放課後はここ音楽室で入部式となりますので、その日は必ず集まって下さい。入部式の後でそれぞれの担当楽器を決めることになりますので、希望する楽器がまだ決まっていないという人は仮入部のうちに色々な楽器を見て回っておいて下さい」
一年前、部長であった優子の立ち振る舞いを思い出しながら、久美子は必要事項を新入生達へと告げる。その中には昨日いきなり麗奈に面食らわせた、あの幸恵の姿もあった。
「今日はこれで一旦解散です。まだ仮入部期間ですからこの後は自由に見学していって下さい。それと、もしこの期間中に気持ちが変わった人がいたら、遠慮なく私のところに言いに来て下さい」
「はい!」
ぞろぞろと新入生達が散っていく。はー、と大きい溜め息をついたところで、麗奈が久美子の傍に歩み寄って来た。
「お疲れ様、久美子」
「ああー、大変だった」
どっと疲れが来て、肩の荷を下ろすように久美子は指揮台上の椅子へ座り込んだ。
仮入部の初日からあれだけの大勢が押し寄せてくる、というのは昨年にも無かった光景であり、ちょっとした珍事だった。部室内の部員達からも、期待と興奮の入り混じった声があちこちから洩れている。
「大漁だったねぇ」
ぐったりしている久美子をからかったのは葉月だ。
「こんなに一斉に来るなんて思わなかったよ。正式入部の時でも良かったのにねえ」
「それだけ今年の一年生はやる気なんですよ」
これぞ望み通りの展開、とでも言わんばかりに緑輝は目を輝かせた。久美子とて同意はできるがしかし、いかんせんそこに実務が関わってくれば無邪気に嬉しがるばかりではいられない、と青息吐息の心境だ。
「二年連続で全国行ってますし、今年も全国! っていう気持ちで入って来てくれてる人が沢山なんです、きっと」
尚も熱の籠る声を張り上げる緑輝を葉月がどうどう、と宥めにかかった。
「けど、やる気があるのはうちらにとっても嬉しいよね。遠慮なくビシバシ行けるし」
「そうだねえ」
久美子は目の前に溜まった入部届の束を眺めながら、もう一度「ふう」と疲労の籠った息を吐く。
そうなのだ。北宇治はもう二年前の春とは違う。楽しく部活が出来れば良い、という生温い環境ではなく、本気で全国を目指す人達の為の部活へと完璧に変貌を遂げている。その事自体は少なくとも久美子にとっては喜ばしい事に違いない。違いないのだがしかし、一方でそれを望まない者にとってはどうなのか、ふと考えてしまう事もある。
『三年なんて、あっという間だから』
かつて退部を宣言した
それにしても、と久美子は考える。あの時の葵の言葉通り、三年間のうち二年はあっという間に過ぎ去ってしまった。気付けばもう三年生であり、部活に完全燃焼できる時間も残すところあと半年ほどと差し迫ってしまっている。それが終わればとうとう自分も、将来の進路を決めなければいけない時期を迎えるのだ。
「それじゃあ緑、このことを低音パートの皆にも知らせてきますね」
嬉々として音楽室を出て行く緑輝を、久美子はひらひらと手を振って送り出す。進路と言えば、既に麗奈は海外の音大に志望を決めていると言っていた。それはきっと三年になった今でも変わることは無いだろう。何より麗奈の能力を思えば不可能などあろうはずも無い。それは外国で暮らすことも、音楽に関してもだ。
そう言えば、葉月と緑輝はもう進路を決めているのだろうか。久美子は未だはっきりと二人の口から進路について聞き出したことが無かった。今度、学校の帰りにでもそれとなく聞いてみることにしよう。
「あの」
不意打ちで浴びせられたその聞き慣れない女子の声色に、久美子の全身は雷を撃たれたように硬直した。
「は、はい!」
慌てて面を上げると、そこに広がるは一枚の紙。『入部届』と書かれた紙面には、それを差し出した人物のものと思しき名前などが記されていた。
「吹奏楽部に入部します。よろしくお願いします」
その声は透き通る氷のようにきんと冷たく尖っていた。久美子はそこでようやっと、言葉の主の姿を視認する。短く切り揃えられた艶やかな黒髪。整った顔立ち。どこか鋭さを帯びた切れ長の瞳。その眼光の奥に何か殺気めいたものを感じて久美子は総毛立つ。まるで女剣士。彼女への最初の印象がそれだった。いつまでも無言の久美子に居心地の悪さを覚えたのか、彼女は硬い表情を崩さぬまま口を開いた。
「
「あ」
そこで我に返った久美子は取り繕うように、
「はい、入部届、確かに預かりました。じゃあ十九日の正式入部までに希望する楽器を、」
と喋り出したのだが、それは雫の次の言葉によって遮られた。
「希望楽器はユーフォニアムです」
無表情の雫から放たれた矢のようなその一言に、久美子の胸は射貫かれる。
「よろしくお願いします。今日はこれで失礼します」
一礼した雫は踵を返し、するすると緩やかな足取りで音楽室を去っていった。
「やったじゃん久美子! ユーフォの後輩、ゲットだぜ!」
突然の後輩誕生を祝福してくれた葉月に、しかし久美子は困惑の表情を向ける。
「うん、でも……」
「どうしたの、嬉しくないの?」
「いや嬉しくないってわけじゃないんだけど、何て言うかその」
「何?」
先ほどの雫の視線を思い出し、久美子はぶるりと震える。
「まるで、狙われてるみたいっていうか、そんな感じだった」
久美子の言葉の意味が解らず、葉月と麗奈は顔を見合わせていた。久美子は目の前の入部届にもう一度目を落とし、書かれた名を読み上げる。先程の彼女の名乗りを反芻するように。
「芹沢、雫」
久美子の胸の内にスウッと黒い霧のようなものが立ちこめる。何となくだがこの先、何か良くないことが起こるのではないか。あるいは、自分がこれまで経験したことの無いような事態が起こってしまうのではないか。そんな漠然とした心のもやは、その日の活動を終えて家に帰ってからも掻き消えることは無かった。
かくて二週間後、入部式の日。
部室の中には多数の新入部員達がごった返している。不安そうな面持ちの者もいるが、ほとんどの生徒はそうではなく、むしろこの日を待ち望んでいたと言わんばかりのやる気に満ち溢れた笑顔を浮かべていた。
「それじゃそろそろ、入部式を始めたいと思います」
一つ咳ばらいをしてから、久美子は整列した新入部員達の前に立った。
「まず初めに、私は吹奏楽部部長の黄前久美子です。楽器はユーフォニアムを担当しています。皆さん、吹奏楽部にようこそ」
新入部員達と、彼らを囲むように立っている二、三年生達から拍手が上がる。
「既に知っている人も多いと思いますが、私たち北宇治吹奏楽部はここ二年、全国大会に出場しています。結果は残念ながら一昨年が銅賞、去年が銀賞という状況ですが、一昨年から私達の目標が全国大会出場、そして金賞であることは変わっていません」
新入部員達の顔付きに緊張の色が浮かぶのを確認しつつ、久美子は続きを述べる。
「私達の今年の目標は、今度こそ全国で金賞を獲ることです。当然、練習もとても厳しいものになります。まだ高校に入ったばかりで慣れない中、学校生活と部活を両立させるのは大変だと思いますが、私達上級生も出来る限り皆さんを引っ張っていきますので全力でついて来て欲しいと思っています」
と、ここまで一息に喋ってから、久美子はこほんと一度咳払いをした。
「では今日のこの後の日程ですが、まずは皆さんの担当楽器を決めることになります」
その言葉と同時に、各パートのリーダー達がそれぞれ自分の楽器を持って音楽室に入って来た。
「これから各パートリーダーに楽器紹介をしてもらいます。その後、希望する楽器が決まった人はパートリーダーまでその希望を伝えて下さい。ただし、希望する人が多いパートはオーディションで人数を絞ることもあります。全員が希望する楽器を選べるわけではないので、もしオーディションに落ちてしまった人はすぐ次の楽器に移って下さい」
楽器決め。それは新入部員にとっては最も緊張する瞬間の一つである。強豪校ともなると、中学校までやって来た楽器があっても必ずしも継続できるとは限らず、振るい落とされれば別の楽器に移らざるを得ない時もある。特に花形であるトランペットなどではそれが顕著なのだが、人数が集中すればどの楽器でも起こり得ることであり決して油断はできない。自分が希望する楽器を担当できるかどうか、その為には同じ新入生同士で蹴落とし合わなければならない場合すらもある。かくの如く、吹奏楽部とは常に競争し続ける部活なのだ。『体育会系文化部』とはよく言ったものである。
かくして楽器紹介も終わり、一年生達はそれぞれ希望楽器がある場所へと散っていった。ふとトランペットの方を見ると丁度オーディションをすることになったらしく、一年生が順番に楽器を吹いている姿が見える。その列の中には幸恵もいた。彼女の順番は、どうやら今吹いている子の次らしい。
「じゃあ、次は東中幸恵さん」
「はいっ!」
麗奈の前に幸恵が楽器を構えて立つ。やや緊張しているのか、その手が僅かに震えているのがこの距離でも分かった。さっちゃん頑張れ、と久美子は視線で幸恵にエールを送る。きゅっ、と息を吸い込み、幸恵は音を奏で始めた。久美子の耳で聞く限り、特別下手という事は無い。それどころか、久美子が想像していたより幸恵はずっと上手だった。彼女は麗奈を心の師匠と仰いでいたようだが、それが功を奏しているのか、それとも幸恵の中学三年間の努力の賜物なのか。
「はい。それじゃあ次――」
演奏を終えた幸恵に軽く頷くと、麗奈は次に待っていた子へと声を掛けた。あの様子なら他の子がよほど上手くない限り、幸恵はトランペットパートの一角に肩を並べられるだろう。本人的にも手応えがあったらしく、幸恵は満足気な笑みを浮かべてほっとしている。その笑顔に久美子も心が綻んだ。
そして我らが低音パートには、男子が一人に女子が二人。新入生は今のところこれだけだった。相変わらずの不人気っぷりに久美子はもう落胆する気力さえ起らない。代わりに、その中の一人へと視線が引き寄せられる。
「芹沢さん」
「……どうも」
先日、入部届を手渡して来た雫の姿がそこにはあった。希望楽器はユーフォニアム、という彼女の言に嘘は無かったのだろう。こちらを見て軽く会釈をしてきたものの、雫の表情は依然硬いままだ。というよりまるで憮然としているようですらある。それにしても不思議だったのは、その隣に緑輝の姿があり、その上とても嬉しそうにしている事だった。
「あ、久美子ちゃん」
緑輝は久美子を見つけると雫の袖をぐいっと引っ張り、興奮したようにまくし立てた。
「凄い戦力が来ましたよ! この子、私と同じ聖女出身なんです」
「へー、じゃあそれで緑はこの子の事知ってたんだ」
それを聞いて、隣に立っていた葉月もようやく事の次第を納得した、という顔をしている。
「それだけじゃないんですよ」
緑輝の興奮は未だ冷めやらない様子で、さらに語気を強めてくる。
「雫ちゃん、聖女で一年生の頃からユーフォでコンクールメンバーだったんです。しかも! 緑と同じで、三年間ずっと全国金賞だったんですよ」
この一言に、久美子は突如自分の心臓がぎゅうっと握り締められるような痛みを覚えた。
「それじゃあ激ウマってことじゃん。ね、早速ちょっと吹いてみせてよ!」
葉月は雫に、見本用に立てかけてあったユーフォニアムのマウスピースを手渡す。
「はい」
それを受け取ると、雫は見本のユーフォニアムをそっと抱き上げた。ごく自然な手つきでマウスパイプにマウスピースを差し込み、軽く息を吹き込みながらピストンを動かす。いったん口を離し、呼吸を整えるように息を吸い込んでから、雫はもう一度マウスピースへと唇を付けた。そして、音を奏で始める。
あまりにも綺麗だった。一切淀みの無い、研ぎ澄まされた美しい音色が部室中に響き渡る。出だしのゆったりしたフレーズを丁寧に吹きこなし、速いパッセージからは一転して小気味良いリズミカルな刻み、さらに高音低音が目まぐるしく入れ替わるフレーズも事も無げに吹きこなし、最後にハイトーンの長音まで豊かな響きを保ったまま、雫の独奏は静かに終わる。その曲は久美子も良く知っている、ユーフォがメインの四重奏のものだった。
気付くと部室の誰もが無言で低音パートを、いや雫を見つめていた。ふとしてから誰かが手を打ち鳴らし始め、それにつられる様に拍手の波は次第に広がり、部室中でいっぱいになった。その中で一人、久美子は雫に拍手を送ることが出来ずにいた。肺が潰れてしまったかと錯覚するほどの息苦しさを感じながら、何事も無かったかのように涼しい顔で楽器を下ろす雫をただじっと見つめていた。
「うっまー!」
他の者がそうであるように、葉月もまた力強い拍手を雫に送る。でしょう? と緑は両手を叩いた。
「雫ちゃん、緑が聖女にいた頃から部内でもトップクラスに上手かったんですよ。当時、緑と同じ三年生だった子を押しのけてソロに選ばれるくらいでしたから」
眩暈がする。足元がぐらぐらして、何かに掴まってないと膝から崩れ落ちて、そのまま立ち上がれなくなるかも知れない。ふと麗奈の方を見やると、麗奈もまた雫の方を見つめていた。麗奈は今の雫の演奏をどう感じただろう。麗奈ならあれをどう評価するだろう。麗奈は今、何を思っているのだろう。何故だか急にそんなことが気になった。
「――だから、もう雫ちゃんはユーフォで決まりです! いいですよね、久美子ちゃん?」
「えっ」
唐突に緑輝から話を振られて、久美子は無理やり口角を上げる。緑輝の方を向く首の動きが錆びついたようにぎこちなかった。
「雫ちゃん、ユーフォで良いですよね?」
「あ、うん。そりゃもう、大歓迎」
喉から絞り出すように、そう喋るのが精一杯だった。
雫のあまりにも上手すぎる演奏に大きな衝撃を受けてしまった久美子だったが、しかし入部式の最中に潰れているわけにもいかない。自分は部長なのだ。そう自分に言い聞かせ、ひとまず目の前のことに集中しようと気持ちを入れ替えた頃には、すっかり全てのパートでメンバーが決まったようだった。それを見計らったかのように、音楽室の引き戸がガラリと開けられる。
「各パートとも、新入生の担当楽器は決まりましたか?」
戸口から姿を現したのは顧問の
「はい、ひとまず全員決まりました。今年は三十六人で、経験者の子が沢山入ってくれました」
「それは何よりですね」
久美子の返答に滝は相変わらずの柔和な笑みを湛えながら頷き、そして黒板の前へと歩み出る。
「新入生の皆さん初めまして。顧問の滝昇です。二年前からこの北宇治高校に赴任して、吹奏楽部の顧問を務めています。担当教科は音楽です。どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げた滝に、新入部員達から拍手が送られる。
「さて、既に部長から聞いているかも知れませんが、私達のここ数年の目標は全国大会出場、そして全国金賞となっています。しかし一応の慣例として毎年新たに部員が入る度、皆さんにその意思確認をしています」
滝は黒板に白のチョークで、やはりいつもの整った字で大きく『全国大会金賞』と書いていく。
「上級生は既に分かっていると思いますが、全国を目指す為の練習は並大抵のものではありません。朝から晩まで厳しい練習漬けの毎日になってしまう為、学業や進路の事を考えて退部してしまう人も残念ながら居ます。個々に事情がありますのでやむを得ない場合もあるのですが、出来うる限りは皆さんにはっきりと目標を見定めて部活動に取り組んでほしいと私は考えています。ですから、ここで改めて全員の意思を確認するための多数決を採りたいと思います」
滝の言葉に、新入部員達の何人かがざわついた。
「もちろん同調圧力をかけるつもりは毛頭ありませんので、皆さんの正直な気持ちで答えて下さって結構です。全国大会金賞を目標とするか、しないか、どちらかに手を上げてください」
では部長、後はお願いします。そう言って滝は下がった。久美子は麗奈に頷き、麗奈も頷き返して二人は前へと出る。
「それでは多数決を採ります。全国大会金賞を目標にする人」
自分で言いながら久美子は真っ先に右手を高々と掲げた。隣にいる麗奈も上級生達も真っすぐ天に向かって手を挙げる。新入生はそんな彼らの姿を横目で確認してからおずおずと挙手したり、最初からきっぱり手を伸ばしていたり、どっちにしようか迷っているようだったりと、様々のようだ。
ふと雫の方へと目を向ける。雫は、やはり高々と手を挙げている。その強い視線は何故かこちらへと向けられているように感じられた。周囲を見渡すふりをして、久美子は無理矢理に雫から視線を外す。
「では、全国大会を目標にしたくない人」
そう尋ねて手を挙げるものは誰もいなかった。仮にいたとして、この状況で手を挙げるには相当な勇気の要ることだろう。全国を目標にする方に手を挙げたのは久美子の目から確認する限り、ほとんど全員だった。双方の挙手を数える役目だった麗奈も「間違いない」と頷く。
「決まりですね」
結果を受けて滝が再び前に出る。
「多数決という形なので異論もあるかも知れませんが、これは皆さんが決めた目標です。私はそれに全力を持って応えますが、目標を実現するのは皆さん自身であり、一重に皆さんの努力次第です。今決めた目標の為に部員一人一人が精一杯努力して下さい。いいですね?」
「はい!」
部員全員が力強く返事をする。
「では、本格的な練習は明日から開始ということになります。今日はもう遅いのでこれで解散としましょう。皆さん気をつけて帰ってください。それから、」
滝は一呼吸置いてから、次のように述べた。
「これも慣例ですが、今週末の土曜日に練習曲を使って合奏を行います。楽器初心者以外の一年生にも参加して貰いますので、各パートリーダーから練習曲を受け取って吹きこなしておいて下さい」
やっぱりか、と久美子は思った。例年通り、今年も春一発目の『試し合奏』をやるのだと。
「試し合奏って何ですか?」
帰り道、葉月達と並んで歩く久美子のところへ割って入った幸恵が尋ねてきた。
「毎年の恒例行事みたいなもんでさ。まず新一年も加わって各パートで曲練やって、それで合奏して感触を掴むの。最初から滝先生飛ばしてくるから、ちゃんと練習してないとズバズバ言われちゃうよ」
「はあ」
葉月に半ば脅されても、幸恵には今一つピンと来てないようだ。無理もない。あの柔和な滝の振る舞いを見ただけでは、ズバズバと言われてもその光景を正しくイメージできないことだろう。ちょうど二年前、滝との初めての合奏に臨んだ自分達がそうであったように。
「言っとくけど、トランペットはパート練からズバズバ行くからね」
「はい! 師匠、改めて明日からよろしくお願いします!」
釘を刺すような麗奈の宣言にも、言われた側の幸恵はむしろ嬉しそうにすらしていた。その無垢な反応に却って調子が狂ったのか、麗奈はなんとも複雑そうな表情を浮かべる。やっぱりこの二人は絡ませると面白い。久美子は腹の底から笑い転げたい衝動を懸命に抑え込む。
「でもあのユーフォの子、超うまかったですねえ」
幸恵の何気ない一言で、先ほどまで温まっていた久美子の腹にシンと冷たいものが降りてくる。それに気付きもしないであろう葉月が「だねー」と幸恵に同意を示した。
「さっき緑が言ってたけど、あの子って聖女出身らしいよ」
「へええ」
「そうなんです。しかも一年生の頃からずっとレギュラーで全国金賞なんですよ!」
幸恵も流石に聖女の事はよく解っているらしい。緑輝の説明に「凄いですね、」と驚き顔で応えた。
「あれだけ上手かったらもう、北宇治でもレギュラーになりそうですよね」
「あーそうかも。でもそうなったら、相楽はレギュラーどうなっちゃうんだろ」
顎に手を当て、葉月は何やら考え込むような仕草をする。『相楽』とはユーフォニアム担当の二年生、『
「ユーフォが三人入る可能性も無くは無いですし、分からないですよ」
「ん~、でも去年もそう言ってて相楽は結局落とされちゃったしなあ。滝先生って意外と低音多めに取ってくれるけどさ、それでもユーフォは二人までって感じもするし」
緑輝のフォローも虚しく、葉月的には望み薄といったところのようだ。実際、吹奏楽コンクールでの標準的な構成を考えると確かに、ユーフォ三本が同時に並ぶのはなかなか難しいものがあるかも知れない。
「まあ、まだレギュラー選抜は先の話だし、相楽君もこれからは今まで以上に練習頑張るんじゃないかな。どっちにしたって決めるのは滝先生だし、わかんないよ」
何となく場の空気が冷え込んだような気がして、久美子はどうにか場を取り繕ってみようとする。
「でも上手い人が選ばれるのは間違いないんですよね。私も頑張ってレギュラー取れるように練習しなくちゃ」
「その意気だよ東中さん! 冬に凍死するキリギリスのようにならない為にも、今からレギュラー取るつもりで頑張るのだ!」
ばたばたと大仰に手を振りながら、先輩風を吹かせた葉月が新人に檄を飛ばす。その言葉につい「それ、誰の受け売りなんだっけ」と、久美子はくすくすと笑ってしまった。
緑輝と幸恵は電車の方向が反対なので、学校の最寄り駅となる六地蔵駅の改札口で別れた。葉月もいつも通り途中の黄檗駅で下車し、今は久美子と麗奈の二人だけが電車のシートに座っている。隣で本を読んでいる麗奈の様子を横目に見ながら、久美子はどうしても尋ねてみたいと思っていたことを彼女に尋ねることにした。
「麗奈、芹沢さんの演奏聴いたよね」
本から目線を外した麗奈が、ゆっくりと久美子を向く。
「うん」
「どうだった?」
久美子の問いに、麗奈は微かに小首を傾げた。
「どう、って?」
「上手かったかどうかって事」
「ああ」
ここで合点がいったらしく、麗奈は読んでいた本を閉じて膝の上に置く。そしてきっぱりと言い切った。
「上手かった」
その言葉に久美子がショックを受けることは微塵もなく、むしろ安堵すら覚える。麗奈ならあの演奏は必ず『上手い』と評するに違いなかった。そしてそれを久美子にも隠さず言うだろう。麗奈は音楽に関してはいつだって厳正で、その判断には久美子が見る限り間違いが無い。だから次の問いにもきっと私情を挟まず正しい答えを返してくれる筈だ。そう、まるで鏡のように。
「私よりも?」
麗奈はすぐに答えを返さず、ただじっとこちらの瞳を覗き込んだ。いま自分の瞳には何が映っているだろう。不安。焦り。嫉妬。怯え。あるいはそのどれでもない何か。自分の中に渦巻く感情を麗奈に見透かされるような、そんな気分になってどこか落ち着かない。しばらく沈黙のまま凝視を続けた後、やがて麗奈は口を開いた。
「技術だけなら、今の久美子と同じぐらいだと思う」
それはこれ以上ない正当な答えだった。やはりそうか。心の中にあったもやもやの正体が何なのかを、久美子はようやく理解する。一言で言えばそれは不服の念だった。この二年間、必死に練習に明け暮れてきた久美子から見ても、雫の技量は明らかにその自分と同等かそれ以上だった。久美子はそれを耳で、肌で感じ取りながらも、しかしその現実を受け容れたくなくて、頭の中で雫の上手さを否定できる要因をずっと探し続けていた。一年生がこんなにうまい演奏ができるわけがない。きっと自分の聞き方に何か間違いがあって、見せかけのうまさに騙されているだけに違いない、と。けれど麗奈の評価を聞いたことで、いよいよ自分もその現実を受け容れざるを得なくなったのだ。
「そうだよね」
ぽつりと漏らした久美子の声色には、不思議なほど落胆の感情は無かった。
「私ももっと練習、頑張らなくちゃ」
それは自分でも不思議な感覚だった。昔の自分ならこういう時はすぐ落ち込んでいたのに。今は何故だろう、目の前のハードルが高いことを認識したその瞬間から、そのハードルを超える事を考え始めている。嫉妬というその感情はこの時、とても心地良い物だった。雫に勝ちたいと素直に思える至って前向きな感情だった。私も麗奈に似て来たのかな。久美子は少しくすぐったい気持ちになっていた。
「でも」
麗奈は何かを言いかけて、そのまま口をつぐんだ。「何?」と久美子が聞き返すも、麗奈はどうすべきか逡巡した様子を見せている。ひそめた眉は今日も細く綺麗に整っていた。
「私の感覚の話だから、久美子がどう思うかは分からないけれど」
「うん」
「芹沢さんの演奏、何かが欠けてるような、そんな気がした」
麗奈が良く分からないことを言っている。久美子は率直にそう思った。つい今さっき、雫のことを上手いと評したばかりではないか。
「何かって、何が?」
自分の耳で聴く限り、雫の演奏は完璧の一言だった。それこそ技術面では、久美子が『特別の中の特別』だと信じるあの人の演奏にも匹敵するかも知れない程に。表現性も豊かで様々な音色を曲調に応じて的確に使い分けていたし、それでいて十分な響きは常に保たれていた。そんな雫の演奏に一体何が欠けていたというのか? 雫の演奏上の欠点など、久美子には到底思い当たる節が無い。
「それは私にも分からないんだけど、何となくね」
麗奈も少し困ったような表情を浮かべている。きっとこれ以上掘り下げてもこの質問の解は出て来そうに無い。そう思った久美子はそれ以上の追及を止め、前へと向き直る。
「でも、上手な後輩が沢山入って来れば、コンクール金賞はもっと近づくよね」
「うん」
久美子の言葉に麗奈も同意する。
「負けたくないな」
それが何になのかは分からない。コンクールの強豪校に? 雫に? あるいは麗奈に?
自分が呟いたその対象が誰なのかを考えているうちに、電車はゆるゆると速度を落とし始めていた。
麗奈と別れ自宅に着くと、食卓には既に夕食が並んでいた。キッチンで洗い物をしていた母が声を掛けてくる。
「お帰りなさい。今日は早いのね」
「ただいまー」
だらりと間延びした声で母にそう告げ、久美子はソファの脇へと鞄を置いた。
「今日は新入生の楽器決めもあったし早めに終わったの。明日から本格的に練習始まるから、また遅くなると思う」
「そうなの」
目線を上げずに応えた母は、ややあって洗い物の手をいったん止め、冷蔵庫に引っかけてあるハンドタオルで手を拭いた。
「そう言えば来週、三年生になって最初の三者面談らしいじゃない」
げ、と久美子は心の中で声を上げてしまう。そう言えば先週担任から渡された案内のプリント、母に提出するのを今の今まですっかり忘れていた。忙しい日々にかまけて肝心なことを見落としていた自分自身がこの上なく忌々しい。母から見えない角度で、久美子は音を出さないように舌を打つ。
「秀一君のお母さんから聞いたわよ。あんたもう三年生なんだから、そういうところはしっかりしなくちゃ駄目じゃない」
「は~い、ごめんなさい」
足元に置いた鞄をもう一度引っ掴み、ごそごそと探って四つ折りにしたプリントを見つけ出す。それを久美子の手から受け取った母は文面をじっと見据え、それから冷蔵庫の脇に貼ってあるカレンダーと睨めっこを始めた。
「じゃあこの日の四時から五時までで書いとくから、ちゃんと先生にそれでいいか聞きなさいね」
ボールペンで丸を付け、母はプリントを久美子に返却した。わかった、とそれを受け取ってそのまま鞄にしまい込み、久美子は自室へと足を向ける。
「あ、ちょっと」
母親に呼び止められ、「何?」と久美子は振り向いた。
「久美子、あんた進路はもう決めたの?」
進路。その一言が頭の上にずんと圧し掛かる。三年生にもなればそろそろ担任から具体的な進路を訊かれる時期であり、それに向けての回答を用意しなければならない。これまでのところ久美子は『一応、進学』ということにしており、短大や専門学校も視野に入れた進学先を考えていることにしているが、それは全くの方便だった。
本当にやりたい、この道に進みたい、と思うものは他にちゃんとある。ただ、それを周囲に告げることには久美子なりの迷いがあった。何より自分自身、本当にその道へと進むのが良いかどうかを決めあぐねている。こんな事なら先週のうちに葉月達の進路を聞いておけば良かった。そうすれば多少はこの場を誤魔化せる文句の一つでも思いつけたかも知れないのに。
「そろそろ進路の事を考えてちゃんとしないと、どんな道に行くにせよ間に合わないわよ」
「ああもう分かったから。来週までにはちゃんと考えておくって」
答えが出ずにしどろもどろしている娘を見かねたか、母は呆れたように小言を言い始めた。とにかく先に着替えさせてよ、と久美子は逃げ腰の姿勢になる。
「もう」
溜め息をつき、母は洗い物の作業へと戻った。その姿勢のまま母がぽつりと漏らす。
「麻美子のこともあるから強くは言わないけど、あんたの人生なんだから、あんたが自分で良く考えなさいね」
それは母なりの、精一杯の気遣いの言葉だったのだろう。久美子は返事の出来ぬまま頷き、それからようやく自分の部屋へと向かった。
夕食を済ませ今日の分の宿題を終えた後、久美子はヘッドフォンを掛けて曲を聴きながら、その曲のフルスコアに目を通す。ここ最近の彼女の日課である。『音楽を理解するにはとにかく沢山の曲に触れて楽譜に目を通すのが一番良い』と麗奈に助言されたからなのだが、今以上に上達するには楽器の技術ばかり追っていては駄目だ、と久美子自身が痛感していたからでもあった。
こうして音楽辞典や楽典を手元に置きながら曲を聴いていると、今まで多くの情報を見落としがちであった事に気付かされる思いがする。特に自分以外の他の楽器の動きなど大まかには把握出来ていても、それが音楽的にどんな意味を持つものなのか、複数の楽器同士の連携がどのような音を生み出していくのか、その中で自分はどう立ち回るべきか等、分かっているようで分からなかったことがまだまだ山程ある。音楽の深みを知るにつれ、久美子はその深遠さをますます欲するようになっていた。
一連の作業がちょうど一区切りついた時、久美子の携帯が振動する。曲を止めて携帯の画面を開くと、一通のインスタントメッセージが届いていた。差出人は……秀一。『今、ちょっといいか?』とだけ書かれている。携帯の画面を操作し「何?」と返すと、少し間を置いて返事が来た。
『急ぎじゃないんだけどさ。メッセージでってのも何だし、今ちょっと会えるかなって』
秀一からこんな風に誘いが来るのも珍しい。「いいよ」と返して久美子はいそいそと外出の用意を始める。そのうちにまた返信が来て、『じゃあいつもの公園で』と書かれてあった。支度を終えて部屋を出た久美子に、洗面所から顔を覗かせた母が声を掛けてくる。
「久美子、こんな時間にどこ行くの」
「ちょっと散歩。すぐ戻る」
もう春だし靴でなくてもいいか。そう考え、久美子はサンダルを突っ掛けて玄関の扉を開けた。
秀一とは一年の冬に彼からの告白を受け、それからずっと恋人同士の関係である。この事は両家の家族や部内には絶対秘密……にするつもりだったのだが、目敏い緑輝と葉月の目を誤魔化すことは出来ず、とうとう二人には去年の定演前に秘密を暴露する形となってしまった。一応二人とも義理堅く他の者には喋らずに居てくれているようで、部内でこの事を知っているのは麗奈を含め三人だけ、ということになっている。特に葉月にはそれ以前の経緯などもあるので、もう色々と頭が上がらないというのが久美子の本音だった。ちなみに葉月達に二人の関係を知られている事は、秀一には伝えていない。何となく、秀一が気まずく思うだろうという、これは久美子なりの配慮でもあった。
それにしても、と脇を流れる宇治川の煌めきに目を取られながら、久美子は考える。
付き合っているはずの秀一とは、久美子が部長に就任した昨年秋以来、ほとんどまともに行動出来ていない。一応、恋人らしいことはそれなりにはしているのだけれど、それでも二人の関係は昨今の高校生にしては至って初心なものと言えるだろう。去年のクリスマスですら互いの家族に事が知れてはいけないということでどこにも出掛けられず、当日夜にこうしてこっそり会ってプレゼント交換をした程度だ。
後はたまに携帯の通話やインスタントメッセージでやり取りをしたり、夜に二人で散歩するぐらい。だったのだが、次第に久美子が部活の事で忙しくなるにつれその回数も激減していった。先月などは卒業式、学年末の進級テスト、
ひょっとして秀一はその事で、何か自分に言いたい事があるのではないのだろうか? 久美子の中に少しだけざわつきが生まれる。夜風はもうすっかり温かくなっているのに、今日に限ってはやけに肌寒い。何となく気持ちが落ち着かなくて、久美子は公園までの道のりを早足に進んでゆく。
かくして歩くこと十数分。『さわらびの道』と呼ばれる風情豊かな小道を抜けた先、公園の街灯の下に置かれたいつものベンチには、既に秀一の姿があった。
「ごめん、遅れた」
少し乱れた息を整えるように、久美子は大きく息を吐く。秀一は座ったままでゆっくりと顔を上げた。
「よう」
秀一の表情には切迫した色などは特になく普段通りに見える。そのことに久美子は心なしか安心して、ほう、ともう一度大きく息を吐いた。
「どうしたの、急に呼び出すなんて。珍しいじゃん」
「忙しかったか?」
「ううん。宿題も終わったし、部屋でゆっくりしてたとこ」
「そっか」
秀一は一瞬だけこちらに視線を向けすぐに戻すと、座れよ、と隣のスペースを手でぽんぽんと叩いた。そこには秀一が持ってきたらしいスポーツタオルが敷いてある。「ありがと」と一礼して、久美子はそこへ腰掛けた。
しばしの沈黙。生温い風がさわさわと辺りの木々を揺り鳴らし、その後の静寂を際立たせる。秀一が何か言ってくるのを待っていたのだが、沈黙に堪えかねて自分から何か喋ろうとした、その時。
「最近さ、部活とか色々忙しくて、こういう時間も作れなかったから」
秀一から切り出してきて、久美子は開きかけた口を閉じた。
「うん」
「入部式も終わって一応ちょっと落ち着いたし、今なら会えるかなってさ」
そんな秀一の言葉に、久美子は体の芯がじんと熱くなったのを感じた。
「そうだね。私の方もなかなか時間取れなくて、ごめん」
何故かそんな言葉もすらりと言えてしまう。普段なら絶対に言わないのに。
「いや仕方ないって、部長だもんな。練習以外にもやる事多いし、居残り練習もしてるし、その上勉強もしなきゃいけないんだから。そうそう時間なんて作れないだろ」
そんな風に、秀一は手を振って笑ってみせた。
「それにしても、今年は新入生も沢山入ったな」
「だね。経験者もいっぱいいるし。トロンボーンはどうなの?」
「それがさ、今年は南中出身のすげー上手い経験者が来てさ。二年のやつらなんてレギュラー獲られるかもって超びびっちゃって。ちゃんと練習してりゃ大丈夫なのにな」
肩をすくめる秀一の所作には自信というものを見て取ることが出来た。目の前の恋人に対して覚えた頼もしさの片鱗に、久美子は自分の胸がちょっぴりくすぐられるのを感じる。
「そっちは?」
「あー、うん」
久美子の表情が曇る。その様子を見て、秀一もすぐに何かを察したらしかった。
「もしかして、あの超上手い演奏した子? 何か問題でもあった?」
「いや、そういうことは無いよ」
久美子は手の平を振って否定する。
「でも本当に上手い子だよね。私も負けられないな、って思って」
「そんなに? 久美子だって今じゃ相当上手い方だろ」
秀一に面と向かって言われると、何だか気恥ずかしい。自分なりにそれ相応の努力は積み重ねてきたつもりだったけれど、それを秀一が認めてくれていることは、純粋に嬉しかった。
「まあ上手い子が増えてくれる分には、全国行ける確率上がるから素直に嬉しいけどね」
「だよな」
言葉を重ねるにつれ、二人の空気はすっかりいつもの調子に戻っていた。さっきまでの肌寒さも今はもう感じない。そうして他愛の無い話を続けているうちに、気付けば三十分近くが経っていた。このままもう少し話し込んでいたいけれど、あまり遅くなってしまうと双方の家族が心配してしまう。
「もうだいぶ遅いし、そろそろ帰るか」
「うん」
秀一に促され、久美子も腰を上げる。敷いていたタオルを丁寧に折り畳み、それを秀一へ返す。
「これ、ありがとね」
「おう」
少しはにかみながら、秀一はタオルを受け取った。
「またそのうち来ようね」
「ああ」
それじゃ、と久美子が先に歩き出そうとした時、あのさ久美子、と後ろから秀一が呼び止めてきた。
「何?」
振り返ると、秀一は少し離れた距離からこちらを見つめていた。街灯から少し離れたせいで、秀一の表情は暗闇に覆われ良く解らない。
「いや、やっぱ何でもない」
後から行くから、と言って秀一は久美子を見送った。変なの、と小首を傾げて、久美子の影は家路の暗がりへと溶け込んでゆく。
公園にぽつんと佇む秀一の影は、その後も暫くそこに残ったままだった。
翌日。
音楽室に集まった部員達の群れを前にして、久美子は教壇に立っていた。
「今日から一年生も加わって、吹奏楽部の本格始動です。まず初めに一年生にはそれぞれパート毎にまとまって貰って、自分の使う楽器を決めて貰います。四時からはパーカッションとコンバス以外の一年生は中庭に集まって腹式呼吸の練習です。その後また各パートに戻って個人練、パート練と進めていきます」
予め用意しておいたメモ用紙に時々目を配りながら、久美子は今日の活動の流れを説明する。
「――以上、こんな感じです。腹式呼吸の練習は今週いっぱいやりますが、来週から初心者の人は別に集まって貰って毎日一時間、合同基礎練です。明日には一度部員同士で合奏をして、土曜日の合奏では練習の成果を滝先生に見て貰います。毎日の練習終了時間は七時頃の予定ですが、六月に入る頃には八時まで延びます」
部室のどこかから「うげぇ」という声が聞こえる。恐らくは一年生のものだろう。
「ですので、塾などの予定があってその時間まで残れないという人は予めパートリーダーに伝えておいて下さい。お家の人にも説明をして、もし無理だという時は私や副部長の塚本まで相談に来て下さい」
吹奏楽部未経験者にとって、この練習時間の長さは結構なハードルとなることが時々ある。暇な放課後をそれなりに楽しく過ごそうというつもりで入った部員が、あまりに夜遅くまで練習することに驚き、やがて耐え切れなくなって辞めてしまう例も珍しくは無い。時には親からの同意が得られなくなり泣く泣く退部する者もいる。だからこそ、こういう話は一番最初にしておくに越したことは無いのである。
「それじゃ、この後は各パート毎にまとまってパートリーダーの指示通り動いて下さい。解散!」
一通りの説明を終えた久美子はメモ用紙を畳み教壇を降りた。自分の席に戻ると、低音パートの部員達がまとまって何やら話をしていた。
「これからみんなの使う楽器を決めるけど、その前に低音パートは練習場所が近いんで、先にそこでお互いの自己紹介をやっちゃいます。他のパートが大体決め終わった後で楽器選びをするから、まずは私の後について来てね」
一年生達に説明をしているのはパートリーダーの緑輝……ではなく葉月であった。別にこの場面、葉月がしゃしゃり出てきたという訳ではない。昨年秋に緑輝がパートリーダーに就任した直後から、表立ってパートをまとめる役は葉月が担っていた。元々運動部に所属していたこともあってか、葉月は進行役や牽引役に非常に向いていた為、緑輝自らの推薦によって葉月がこういった役回りを担う事になったのだ。
ならばパートリーダーとしての緑輝の役割はと言うと、パートリーダー会議で決まった事項をパートに持ち帰り伝達する、その日のパート練習の内容決めや練習中の指導をしたりする、といった部分に集中している。要はパートリーダーとしての役割のうち、人的な部分の取りまとめを葉月が、音楽面の指導を緑輝が担っているという格好だ。おかげで久美子は低音パートの中では一先輩、一奏者というポジションであり、部長職の激務に追われる中でパート練習の場だけが唯一心安らげる空間となっていた。
音楽的な知識と技術、そして経験が豊富な緑輝にとって指導はお手の物だが、ごちゃごちゃした調整役はあまり得手とは言えない。一方、二年前まで初心者だった葉月は音楽面での知見や指導力こそ不足しているが協調性が高く、周囲の空気を読み取って適切に振る舞う能力は緑輝や久美子よりも優れている。そして部長である久美子がパートリーダーの役割までもを全て負えば、その余りの多忙ぶりに疲れ果ててしまったことだろう。何よりパート単位で活動している時ぐらいは自分の技術向上に時間と余力を費やしたい、と久美子は常々考えていた。三人がそれぞれの持ち味を活かしつつ、それぞれの負担を減らす。言ってみればこれは適材適所というものである。
「この三年三組が、私ら低音パートの練習場所です。部室から割と近いんで迷ったりしないと思うけど、パート練をやる時は楽器持ってここに集合でよろしくね」
簡単に説明をした後、「んじゃーそろそろ始めますか、自己紹介」と葉月は拳を握った。
「まず、トップバッターは新入生の男子から行ってみよう!」
葉月に押されて前に躍り出た一年生の男子は、ややふくよかな体形をしていた。雰囲気から察するに穏やかな性格のようであったが、どうも経験者らしく場慣れしているような印象を受ける。
「一年四組の
ぺこりと頭を下げた星田に拍手を送りつつ、内心予想通りだなあ、と久美子は思う。男子、体格が良い、低音、と三拍子揃えば殆どの場合は経験の有無を問わずチューバ、という図式が何故か吹奏楽部にはある。たまにそうでないケースに遭遇すると逆にこっちが驚くほどだ。もっともチューバだと思って話しかけてみたら全然違う楽器だったという場合もあるので、この先入観はあまり当てにはならないのだが。
「さっぱりした挨拶で好感が持てるね! それじゃ次はその隣の女子、君だ!」
葉月に指差され、すらりと高身長の女子が緊張したように頬を紅潮させながら頭を下げた。目線を合わせた感じ、久美子よりもけっこう身長が高いのがわかる。後ろに纏めて縛った髪型からは清廉な印象を受けた。
「一年一組の
ぱちぱち、と周囲からの拍手を受けた真帆が慌てたように再び頭を下げる。どうやらこういう場にはあまり慣れていないらしい彼女の初心な振る舞いには、素直に好感を持つことが出来た。
「うちは初心者大歓迎だから問題無し! うちのコンバスは超上手いからガンガン教わってね。それじゃ最後の大トリ、どうぞ!」
そう言って、葉月が手で示したのは雫だ。
「一年六組、芹沢雫です。聖女でユーフォニアムをやっていました。よろしくお願いします」
いたって淡白に挨拶をし、会釈のようにカクンと一礼する雫。その表情は依然として綻び一つ無く、まるで鉄の仮面を被っているみたいだ、と久美子は思った。この子には果たして感情というものがあるのだろうか。みぞれの時とはまた別の意味で、彼女の人間性を読み取ることが出来ない。
「昨日の演奏は超上手かったね。もちろん経験者も大歓迎だからよろしく!」
一年生の自己紹介が一通り終わって、今度は二、三年生の紹介の番だ。
「えーっと、それじゃまずは三年の私から。三年一組、加藤葉月です。担当はチューバで、低音パートの仕切り役やってます。部活の事で分かんない事があれば何でも教えるから気軽に話しかけてね。これからよろしく!」
そつ無く喋り切って、葉月は手の平を額の前でかざす『敬礼』のポーズを取ってみせた。敬礼にしてはやけに手首が曲がっている気もするのだが、そんなものなのだろうか? 前から疑問に思っているのだが、何度尋ねてみても葉月からは今一つ納得できる答えが返ってこない。もしかしたらあれは葉月のオリジナルなのかも知れない、と久美子は考えることにしている。
「三年四組、低音パートリーダーの川島
続いて緑輝が挨拶をすると、すかさず「嘘つくな!」と葉月から突っ込みが入る。
「言わないで下さい! 言わなかったらバレなかったのに」
「いやいや、流石にいつかはバレるっしょ」
もぅ、と頬を膨らませて、緑輝はもう一度自己紹介をやり直した。
「川島
担当楽器はコントラバスです、と最後に付け加えて緑輝の自己紹介は終わった。じゃあ次は久美子! と葉月に促され、久美子は一歩進み出る。
「えっと、もう入部式の時にも言ったと思うけど」
前置きをして、久美子は自己紹介を始めた。
「三年三組、部長の黄前久美子です。楽器はユーフォニアムです。普段は部長の仕事もあるのでパートに顔を出せないこともあると思うけど、朝練や居残り練もしているので見かけたらいつでも気軽に声を掛けて下さい」
それから、と久美子はさらに続ける。
「私個人の目標は、全国大会で金賞を取る事。そして、演奏者として『特別』になることです」
一息に言い切った。全員が息を呑む。その只中で、雫はまっすぐ久美子を見つめた。
「全国金賞は、私ひとりの力では達成できない目標です。だからみんなの力を借りなくちゃいけません。練習は厳しくなると思うけど、どうかついて来て下さい」
そこまでを告げて、久美子はぺこりと頭を下げる。それは久美子なりの宣戦布告だった。全国で金賞を取るのもそうだが、演奏者として『特別』になるということ、それはつまり、雫にも負けないという事をこの場で宣言したに等しい。雫は依然黙ったままだが、他の部員達は温かい拍手をもって久美子の言葉に応えてくれた。
「ダラダラやるより大きな目標に向かって真剣にやった方が絶対楽しいからね。皆も一緒に頑張って行こう! それじゃ、次は二年生の番ね」
てきぱきと進行の音頭を取る葉月に従う形で、二年生がそれぞれ自己紹介をしていく。その合間、久美子はちらりと雫を見る。二年生たちの挨拶を眺める雫の表情は、一貫して全く変わらぬままだ。むしろ冷たささえ感じるほど、彼女の顔に感情の色は浮かんでいない。ひとまず久美子の言葉を敵対的と受け取った風ではなかったが、逆に意にも介してないという態度であるなら、それはそれで悔しい思いもある。負けたくない。改めて、久美子はそう思った。
自己紹介の後は楽器室に移動し、それぞれが自分の楽器を決めていった。
星田が選んだのは、去年まで在籍していた卒業生の
次に、コントラバス初心者の真帆は右も左もわからない状況のため、緑輝に選んでもらった楽器を使うことになった。
「真帆ちゃんは身長もありますし手も大きいですから、きっとすぐにコンバス上手くなりますよ」
緑輝の激励にも、真帆はきょとんとして、
「身長大きいと、コンバス上手くなるんですか?」
と、今一つぴんと来ない様子だ。
「まあ楽器が大きいからね。弦の上の方を押さえるのも、身長があった方が楽だと思うし」
「そうです! それに手が大きいと、指を大きく開いて弦を押さえられますよ」
久美子の解説に緑輝も補足を加える。実際のところ、コントラバスのように大きい楽器に関しては、奏者の手指が長かったり身体が大きい方が有利というのが定説である。緑輝のようなケースは例外中の例外であり、それには不利を覆すほど本人の弛まぬ努力があったであろうことは言うまでも無いのだが。
「そうなんですか……。私中学まで部活に入ってなかったし、身長大きいのちょっとコンプレックスだったので、意外です」
真帆はちょっとだけ、きらきらした瞳で目の前のコントラバスを眺めている。彼女にとってこの出会いは運命のそれとなり得るのだろうか。久美子はそんなことを思った。
「私は、これにします」
その一言と共に、ケースからユーフォを取り出したのは雫だ。銀メッキ仕上げの管体は鈍く輝き、四番ピストンを小指で操作するタイプのもので、昨年まで誰も使っていなかったので少々傷みも見える。その銀色のユーフォニアムを腕に抱く雫の姿に、久美子は一瞬あすかの姿を重ねてしまった。何より彼女から醸し出される雰囲気があすかのそれとあまりにも似ている。そう感じてしまった自分自身に、久美子は少なからずショックを受けていた。
「こうやって銀ユーフォ持ってると、あすか先輩みたいだねー」
葉月も自分と似た何かを感じ取ったのか、隣にいる緑輝にひそひそと耳打ちをする。それを聞き留めた雫が葉月に尋ねた。
「あすかせんぱい?」
「あ、いや、二年前に卒業したユーフォの先輩なんだけどさ。めちゃくちゃ上手かったんだよ」
慌てて葉月が説明すると、緑輝もそれに続く。
「技術だけじゃなくて知識もあって、おまけに勉強もすごい出来て、卒業式の答辞もしたんですよね」
へええ、と下級生達から感嘆の声が漏れる。
「さらに超美人でナイスバディっていう、ありゃもう完璧超人の域だったよね」
「はい。時々こわいこともありましたけど、緑はあすか先輩、好きでしたよ」
好き、という緑輝の言葉に、久美子の胸がとくんと跳ねた。あすかの詳しい事情を知っているのは吹奏楽部の中でも、ひょっとしたら先輩達を含めても自分だけかも知れない。詳しい事情を知らない他の部員達には不気味がられたり、近寄りがたい超越的な存在、と思われていた節さえもあった。本当はそんなこと無かったのに。だからこそ、緑輝があすかの事をストレートに『好き』と発言したことに、久美子はちょっとだけ嬉しさを感じたのだった。
「色々な意味で特別な人だったよね、あすか先輩」
噛み締めるように久美子がそう言うと、雫は少し俯き加減にぽつりと呟いた。
「特別……ですか」
特別。そう、久美子にとっては今でもあすかは特別な存在だ。卒業後はほぼ全く連絡も取っておらず、他の先輩達から噂話すらも聞こえてこないので、今あすかがどう過ごしているのか、楽器を続けているのかどうかも久美子には分からない。けれど自分もあんな風に上手くなりたいと思うし、あすかの奏でる音は耳の奥に鮮烈に焼き付いている。あすかから託されたあの曲を時々吹いていると、脳内で流れるあすかの音色との比較が始まり『自分はまだまだ追いついていない』と感じるばかりで、だからこそ一日も早くあの音に追いつき、追い越せるようにと日々の練習にも熱が入った。久美子の思い出の中にいるあすかは現在進行形で久美子の目標であり、そしてあすかの存在と思い出こそが久美子を『特別』へと、より強く向かわせている。
「さって、それじゃ全員の楽器も決まったとこで時間も大分押しちゃってるし、一年は中庭で腹式呼吸の練習だからそっちに行ってね。戻ってきたら経験者の二人にはさっそく合奏用の楽譜渡すから。それと初心者の里中ちゃんには緑ががっつり初心者レッスンしてくれるっていうから、楽しみにしてて」
ウヒヒ、と葉月が意地悪げな表情を浮かべる。真帆がすっかり恐縮した様子で「お手柔らかにお願いします」と緑輝に頭を下げ、一同に笑いが起こったところでその場は一時解散となった。
「やー、今年は将来有望な新人がたくさん入って、我が低音パートも安泰ですなあ」
学校の帰り道、葉月がしたり顔で唸りを上げる。
「星田はやっぱ経験者だから、基礎練は難なくこなしてたよね。ありゃ美佳もうかうかしてられないな」
くつくつと笑いながら葉月が名を挙げたのは、二年生のチューバ担当、
「そんな言い方したら、美佳子ちゃんかわいそうだよ」
久美子がたしなめると、平気平気、と葉月はあっけらかんとして答えた。
「美佳、この一年ですっごい上達してるし。それに『あの洗礼』を潜り抜けたんだから根性もあるもん」
「あー。あれねー……」
久美子は目線を脇に逸らして、去年の事を思い返す。
『私、トランペットとかサックスがやりたいんです』
という当時新入生の美佳子を『雰囲気的にぴったり』などと言いくるめ、無理矢理低音パートに連れ込んで来た葉月は、
『君の楽器はそのマウスピースが決めてくれる! さあ、運命のお相手を探したまえ』
などと半ば腕ずくでチューバ用マウスピースを美佳子に手渡したのだった。そりゃあ運命の相手がチューバになってしまうのも自明の論理というものだろう。かくして二年前に葉月自身がやられたのと全く同じ手法で、美佳子は葉月に転がされ、今はこうしてチューバを担当しているというわけだ。
「まあ、水泳部だったってことで肺活量が元々あったし、チューバ向きだったのはあったよね」
「そう! 私けっこう勘が鋭いからさー。一目見て『この子はチューバ!』って確信したんだよね」
「すごいです、さすが葉月ちゃん!」
自分としては美佳子をフォローするつもりだったのだが、それに葉月は何故か鼻高々といった表情を見せ、緑輝はそんな葉月を意味不明に持ち上げる。そうだったならわざわざ仕組む必要なんて無かったと思うんだけど、と久美子は独りごちた。
「ところで、里中ちゃんの方はどうなの?」
初心者である真帆はさぞかし苦労しているに違いない、と思ったのだろう。ほんの少し心配そうな表情を浮かべながら、葉月は緑輝に尋ねた。
「すっごく有望だと思います。今日教えたことはだいたい覚えちゃってましたし、今週の合奏は流石に無理だと思いますけど、コンクールのレギュラーも、もしかしたらあるかもです!」
ご満悦とばかり、緑輝は小さな鼻をふんふんと鳴らす。とは言うものの、である。緑輝が今日真帆に教えたことと言えば、本当に初歩的な楽器の扱い方、手入れの仕方、ボウイングの動きぐらいだ。音階練習にはちょっと触れた程度だし、本格的な演奏技術もまだまだこれからという状況では、まだレギュラーになれるかどうかというのはちょっと分からないのではないだろうか。こう見えて緑輝にはけっこう親バカの素質があるのかも知れない。
「あとは雫ちゃんか。あの子は本当、すごいよね」
葉月の言葉に、久美子は雫の練習風景を思い出す。基礎練が始まるや否や、雫は美しく乱れの無い音でロングトーンやスケール練習、リップスラーからタンギングまでを難なくこなしていった。ここまではしかし久美子の予測の範疇でもあった。問題はそこからである。
「まさか今日渡した楽譜をほぼ初見で、あんなに吹きこなせるなんてねえ」
感心する葉月の言った通り、雫は渡された練習曲に一通り目を通すとすぐにそれを軽々と吹きこなしていった。初見の楽譜を吹きこなす能力を音楽の世界では『初見力』と呼ぶのだが、その能力の養成には膨大な量の基礎練習と音楽的知識、様々な楽曲を演奏することで培われる経験が必要となる。それらが無ければ一瞥した程度の楽譜に書かれてあることを正確に読み取り、正確に音へと換えて演奏することは出来ない。その点、雫の初見力の高さは驚異の一言に尽きるものであった。同じパートを担当する久美子から見ても殆どミスや手落ちが見当たらない。一体この子は中学時代、どれだけの練習を積み重ねてきたのだろう。久美子にはまるで想像がつかなかった。当の雫は相も変わらず涼しい表情で、まるで『こんなの出来て当たり前』と言わんばかりだったのが、今も目に焼き付いている。
「雫ちゃん、中学校の時よりもっともっと上手くなってました」
部内トップクラスの実力を持つ緑輝ですら、雫の事を掛け値なしに褒め称えている。彼女の実力はこの二日の間で吹部の誰もが認めるところとなっていた。
「あんなとんでもない子が入って来るなんて、久美子も負けてられないね」
「そうだね」
炊き付けるようなことを言って来た葉月に、久美子は短めに、しかしはっきりとした口調で答えた。久美子の中で結論はもう出ている。雫のような化け物じみた奏者が相手でも、それを超えていかなければ自分の思う『特別』には届かない。ならば後はやるだけだ。昨日の麗奈との会話以来、久美子の心は妙に晴れ晴れとしていた。
「何にしても凄腕のメンバーも増えたし、私達も負けてられないしで、今年の吹部はマジで全国金賞行けるかもだね」
うん、と三人が揃って頷く。ちょうど会話が切れたところで、今がチャンス、とばかりに久美子は切り出した。
「ところでなんだけど、二人とも、もう進路のことって決めてるの?」
出来るだけ自然に、久美子は二人に尋ねる。先日の反省も踏まえ、皆が進路をどうするつもりなのか、なるべく聞いておきたいと思っていたところである。
「うん、決めてるよ」
最初に答えを寄越したのは葉月だった。
「私、勉強あんまり得意じゃないからさ。去年ぐらいから大学はもう諦めてて、保育系の専門学校に行こうかなって思ってるとこ」
「へー」
澄まし顔で相槌を打ちながら、久美子は密かに狼狽していた。まさか、というのも失礼だが、葉月が既に進路を決めていたとは。心のどこかで『葉月だけは自分と同じ』と思っていたさっきまでの自分を、猛烈に呪わしく感じる。
「けっこう、小っちゃい子の面倒見るの好きなんだよね。うち弟もいるし、割と慣れてるっていうか」
「それ分かります。緑も妹がいますから」
そう言えば緑輝の妹のことは話に聞くばかりで、まだ実際に会ったことが無かった。葉月とは以前に顔を合わせているらしいのだが、その詳細までは何故か語ってくれなかった。まるで緑輝の生き写しのような子だとのことで、前々から一度見てみたいものだと興味を持ってはいたものの、中々その機会は訪れなかった。今度緑輝にお願いしてみよう。久美子はそんなことを考える。
「じゃあ緑ちゃんは? 前は確か、服飾の学校に行きたいって言ってたよね」
「はい、緑お洋服好きなので。今はどこの学校に行こうかなって、あちこち探してます」
こちらも既に具体的な進路を定めつつあるようだ。こうして目標がブレないのは、ある意味とても緑輝らしい。
「久美子は?」
葉月に話を振られ、久美子は「ん、」と言葉を濁す。久美子にも思い描く進路が無いではない。ただ気軽に他人に語れる内容でも無いので、言うべきかどうかを未だ迷っていた。
「もしかして、まだ決まってないんです?」
緑輝の言葉に、いやそうじゃないんだけど、と久美子はうっかり返してしまう。
「じゃあどこ行くの?」
葉月にも突っ込まれ、いよいよ久美子は逃げ場を失ってしまった。緑輝もこちらに身を乗り出している。二人の姿勢はもはや、久美子の進路を聞き出すまでは収まらない、という体だ。運の悪いことに駅までの道のりにもまだ幾分か距離がある。これはもう、観念して打ち明けるしか無いだろう。
「じゃあ言うから、笑わないで聞いてね」
一応前置きしてから、久美子はすうっと深呼吸した。
「あ、進路のことはまだ誰にも言ってないんだけど、親にも」
「高坂さんにも、塚本にも?」
葉月の問いに「うん」と久美子は頷く。
「それに行けるかどうかもわかんないし、それこそ絵空事みたいなものかもだけど――」
「ああもう、早く教えてください!」
緑輝がたまりかねたように両手をじたばたさせる。ごめんごめん、と緑輝の拳を手の平で受け止めながら、久美子は切り出した。
「私ね、ユーフォのプロになりたいって思ってるんだ」
その告白に、葉月と緑輝は二人揃って目を丸くした。
「もっとユーフォ上手くなりたいし、ユーフォ好きだし、音楽も好きだから。だから、プロになってもっともっと音楽に関わっていたいって思ったら、じゃあ音大かなって考えてて」
思い切って喋ってから、久美子は急に顔がかあっと熱くなるのを感じた。自分の本当の希望進路を他人にはっきりと喋ったのはこれが初めてのことだ。二人にはどう思われただろう。それこそ馬鹿な絵空事と思われただろうか。葉月と緑輝はさっきのままの表情でしばし硬直していたが、やがて二人とも堰を切ったように口を開いた。
「すごーい!」
緑輝が感心の言葉を漏らすと、葉月も満面の笑顔で大きく頷いた。
「なんだ、もうしっかり進路決めてるんじゃん! 久美子ならきっと行けるよ」
「でも、音大の試験って難しいっていうし。みんな中学ぐらいの頃から専属の先生についてもらって教わってるっていうから、入れるかどうか本当にわかんないよ」
「大丈夫です、久美子ちゃんならきっと行けますよ!」
緑輝ほどの実力者がそう言ってくれるのは悪い気はしなかった。仮にそれが、音大入学の現実を何一つ知らない上での言葉であったとしても。
「でも、うちの親が何て言うかだなあ。お姉ちゃんの時も進路関係で相当に揉めたし、私が音大行きたいなんて言ったら、発狂して飛び掛かって来るかも」
「いやいや、流石にそれは無いっしょ」
葉月は苦笑しながら手を振ってみせたが、葉月ちゃんはうちの親を知らないんだよ、と久美子は唇を尖らせる。二年前、姉の麻美子の件で父親が見せた険しい表情、そして言動を、自分は今でも忘れていない。普段は温和で物静かな父があれほどまでに激昂したのを、あの時初めて目の当たりにした。母親もなんだかんだで安定志向の人間だし、音大への進学など二つ返事で許してくれるとは到底思えない。自分がプロを目指したい、音大に行きたいなどと親に面と向かって言えば、あの二人がどんなことを言ってくるか。容易に想像できるような、想像したくないような、と久美子は身震いした。
「でも親にはきちんと言っとかなくちゃね、どっちに行くにしても」
葉月は久美子から視線を外し、それにしても、とおもむろに空を見上げると、
「私達もとうとう、進路とか言い出す時期になっちゃったかー」
と一人ごちるように呟いた。
「こないだまで入学したばっかりだと思ってましたけど、三年生になるまであっという間でしたね」
時の流れの速さを感じているのは葉月だけではないらしい。緑輝もまた、過ぎ去った二年間を懐かしむようにしみじみと言う。
「頑張ろうね。部活も、進路も」
葉月がそう言うと、緑輝も「はい!」と拳を天に突き出す。
「久美子もね。私ら応援してるから」
葉月の微笑みに、久美子もまた顔を綻ばせ「ありがとう」と返す。この二人と友達になれて本当に良かった。久美子は心の底からそう思った。