親友だった『彼女』の唐突な性癖の曝露により、少年少女の日々は歪な性に爛れていきより一層の純粋さを浮かび上がらせる。

唾液滴り血垂れ汗濡れ恍惚極まる快楽の虜に互いに朦朧と誘われる。


一方で彼らの気付かぬうちにこの世界の寿命がすぐそこにまで迫っていた。

どちらにしても、十代の彼らが抗える物ではない。
過ぎた快楽と世界の終りに逆らえる人間なんていない。

時に徒花もまた美しからずや。
それでも、と言うのならばやってみればいい。



美しいものは世界の終焉と少年少女の手探りのエロス。

ひとりぼっちの長い夜にでもどうぞ。



1 / 1
銀河鉄道の夜 僕はもう空の向こう
飛び立ってしまいたい
あなたを想いながら

星めぐりの口笛を吹いて
裸のまま 一人ぼっち 涙も枯れた


銀河鉄道のターミナル

 ねぇ、月落。

 ジョバンニは降りてしまったけど私は降りないから。

 南十字星の向こう側まで一緒に行こう。銀河鉄道のターミナルを見に行こう。

 

 終点に近付くに連れて乗客が減っていくんだ。

 総理大臣、東京タワー、エベレスト、北風や月。

 みんなみんな幸福に包まれて降りていく。

 

 それでも。

 私がずっと君の為に在るなら、

 君がずっと私の為に在るなら、

 乗客はいつしか私達二人きりになる。

 

 そうしたら……伝わらなくても分かるよね。

 

 ほんの一瞬かもしれないけれど――――とても素敵なことだと思う。

 

 この世界全部が私達のものになるんだよ。

 

 

 

 

 

*****************************

 

 宇宙と脳細胞はよく似た形をしている。

 走馬灯が脳の見せる最後の奇跡なら、宇宙は何を見ると言うんだろう?

 

*****************************

 

 

 

 大学三年生の秋。

 付き合っていた子にあっさりとフラれた。

 

『いっつもつまらなそう、何を考えているのか分からない』

 

 そんなことを言われた。ああ、そう言えば昔も似たようなこと言われたっけ。

 

 

「いつもへの字口。表情一個しかないの? って。あー…………」

 畳んだ布団を枕にして畳の上で寝っ転がっていると季節外れの風鈴の音が聴こえた。

 外から帰ってこの六畳一間のボロ部屋の空気を入れ替えたくて窓を開けたからだ。季節を過ぎても風鈴を片付けるのは面倒くさかった。

 

「しかし俺自身が悲しんでいないのは……なんでなの」

 高校の頃から付き合っていたのに。密かに好きな子だったから付き合うことになってかなり喜んだのに。

 

(なんで好きになったんだっけ)

 昔から変な子を好きになる傾向にある。確か、顔が良かったのは大前提として、軽音楽部なのにトランペットをやっていたのが凄く自分の興味を引いたのだったか。

 元から好意とは行かないまでもプラスの感情はあったのか。

 いや、もっと大事なのはクラスのほとんどから避けられていた変人の自分に対し、席が隣だったからというそれだけの縁で、利き手を骨折していた時に毎回自分の分までノートをとってくれたことに本格的に好意を抱いたのだったか。

 寝がえりをうつと、直射日光を避ける場所にある本棚に視線が行って、その中の一冊に目が止まる。

 もぞもぞと重たい身体を動かして手に取った。

 

「……ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く……」

 昔から本はあまり読む方ではなかったのだが、自分が日本文学を読むようになったのはある理由からだ。

 いつの間にか外から差す茜色が紺色混じりになってきたような気がして、自分のような人間には全く似合わない『銀河鉄道の夜』を半ばほど開いたまま顔に被せる。

 うとうととページの間から宮沢賢治の世界、銀河、死生観が眼の隙間から入ってくる気がして銀河を走る鉄道がうたかたの夢の世界に自分を乗せていった。

 

 

 

 自分から切り捨てたんだ。

 捻くれた変人なりにこれまでも自分の心に対しては真面目に真っすぐ生きてきたから。

 続けていけば目も当てられない堕落になる今にケリをつけようとした。

 

『そっか。そうだよね。分かっている』

 

 終わりを告げた時の表情は覚えていない。というのも彼女は窓枠に肘をついて赤い校舎を眺めていたから。

 でもそのとき校庭で野球部が練習していたことは覚えている。どうしてこんなに覚えているのだろう。

 

『自分の世界は絶対に変えない。だからこそ、君が良かった。そう言われるとしても。……。じゃあね』

 

 鞄を持って足早に去るその背中、いつもみたいについて行きたかったけど。

 それじゃダメなんだと思って自分から断ち切ったんだ。

 

 

 

「……あいつ何してんのかなぁ」

 この本はその『あいつ』から貰ったものだから、きっと染み込んでいた匂いで思い出したんだろう。

 恐らくはもう夜なのだろうが、外はやけに明るい気がした。携帯を見ると既に6時を回っていた。そのまま写真アプリを開く。

 

「…………」

 携帯にロックをかけたことはない。不穏な通話も、怪しいサイトの巡回履歴もないからだ。

 だが、この写真アプリのこのフォルダだけは別で、しっかり鍵をかけていた。

 そこにあったのは自分の所持する携帯の中で唯一と言っていい異常な写真だった。

 

(…………)

 これと言って変哲のない、どこにでもある放課後の教室だ。

 その写真の真ん中に写っているのは椅子に座っている薄い金髪をした少女だった。その説明だけだとただの肖像画にしか聞こえないのかもしれない。

 異常なのは、夕日が透けて見えるほどに白い首筋の肌に赤い血が流れ、後ろ手で椅子に縛り付けられてタオルで目隠しされていることだった。

 最早習慣になっている。自分はほとんど一日一回はこの写真を見ている。付き合っている女の子がいたときも、受験生だったときも。

 

 

『私はマゾヒストなんだ』

 

 思い返せばたったその一言で一生のうちに辿るべき道がかなりずれた気がする。同時に人生で一番驚いた言葉でもある。

 言われなければ気が付かなかったことに気がつくようになって、なんとも思わなかったモノがまるで違うように見えた。

 あいつは今思うとまるで幻影のようだった。幻影というのは他の人には見えない自分だけの幻。言うなれば自分だけの世界。

 こちらの見える世界を少し広げてあいつはあっという間に思い出になってしまった。 

 昔のことを思い出していく内に郷愁があっという間に耐え難いものになった。

 

 

「地元に帰ろ。大学……ニ、三日さぼるか」

 あれから連絡は一切とっていない。なんでも話せる友達だったのに、自分たちの性別が違うってだけで色々とやっかいだったから。

 今はどこで何をしているのだろう。まだ地元にいるのか、それとも自分の国に帰ってしまったのか。

 がばっ、と起き上がって顔からずり落ちる文庫本をキャッチする。煙草に火をつけながら携帯を取り出して母親に電話をかけた。

 

「あ……お母さん。俺、明日そっちに帰る」

 

『何言っているの!?』

 

「え……? いや、明日帰る」

 

『そんなこと言っている場合じゃないでしょう!?』

 

「……?」

 二ヶ月ぶりに声を聞いた母親はこっちで変わりないかを聞くこともせず、ずっと怒鳴っていた。

 一体何に対してなのかすら分からない。

 

『空を見なさい!! 外に出てないの!?』

 

「なにを……」

 そういえば都会だということを差し引いてもやけに外が騒がしい気がする。

 アパートの二階の窓から顔を出すと、他のマンションからも同じく顔を出している人や、車から降りて空を見上げている人が目に入った。

 

「うはっ……すげぇ。なにこれ……」

 東京の夜空なんてペンキをぶち撒けたみたいに真っ黒で、思い出したかのように星が点々とあるくらいだったのに。

 何が起こっているのか。空に光が瞬いていた。燦々と輝く星々はどれもが温かな光を放って夜空に光あふれる川を作り出している。

 煙草を外に放ってもすぐに分からなくなるくらいの光の群がそこにはあった。

 

『テレビ見ていないの!? 宇宙の時間が――――』

 

「……」

 いきなり電話は切れた。眼下の人々も電話をしているから、混線かなにかが起こってしまったのだろう。

 一斉に星が爆発したのか、とも思ったがそれぞれの距離が違うのだから全てが同時に光を放つはずがない。

 何かが。多少身体が大きいだけの自分ではもう何も出来ない何かがこの世界に起きていることだけが確かだった。

 

「あっ……銀河鉄道の夜……」

 何度も何度も読んで手垢と皺で劣化した文庫本を開く。そこは第六章だった。

 あまりにも輝きすぎる星空に騒ぎ立てる人々の声も遠く、物語の二人は旅立っていく。

 

「お前も見ているんだろう?」

 地元の母も騒いでいたということは、きっと日本の――――いや、世界中でこの空が見えているのだろう。

 太陽の光の反射なんて説明ではあり得ないほどの月の光が身体を包んでくる。

 星の海が砕けた宝石のように輝いている。空に無限の灯篭を流したかのような光が辺りをも飲み込み人の作り出した脆弱な文明の光を消し飛ばしていく。

 どうしようもないことは分かっているから。銀河ステーション、銀河ステーション、と勝手に頭の中で声を作り出した。

 

「きっとジョバンニとカムパネルラが旅立ったのは――――」

 

 

 

 

       こんな夜だったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

*********************************

 

 

 死ぬ前に何故走馬灯を見るのか。

 様々な学説があるが、その中でも有力な説の一つが「今までの経験全ての中からこの状況を打破する解決策を探すために脳が回転するから」という説だ。

 この説の恐ろしいところは解決策が見つからなかったら死ぬ、という部分にあるのではない。

 

 死の直前の引き伸ばされた一瞬に今までの人生全てを振り返り、それが終わってまた目の前にあるのは避けられない死。

 そして再び今までの人生を振り返る。

 

 つまりどういうことか。他の人間からは一瞬で死んだように見えても、本人にとっては死ぬ前の時間がずっと続くということなのだ。

 今までの人生を何度も何度も振り返って。

 

 デジャヴュを感じたことは誰だってあるだろう。当然だ。経験していることなのだから。

 言い換えるのならば。あなたが感じている『今』は、本当のあなたが死の直前に振り返っている記憶なのかもしれない。

 死はずっと訪れない。

 

 ならばせめて最後の瞬間は――――

 

 

*********************************

 

 

 桜色の暗転幕が上がり、新たな舞台の幕開けだ。

 トンネルを抜けると心躍るような桜並木が広がっていて、つい今の今までスマホで見ていた記事から目を離して見とれてしまった。

 

(どこまで読んだっけ。……最後の瞬間がうんぬんかんぬん……)

 どちらにしろ次の駅で降りる。そもそもこんな科学ニュース読む人間でもないのに暇つぶしに読んでいるのは同じ中学出身の人間がいないからだ。必然的に同じ電車に乗る知り合いもいない。

 

(制服きっつ……サイズ間違えたな……)

 お前身体がうすらデカイから、なんて突っ込んでくれる友人もいない。そもそも自分は友人があまり多くはなかったが。

 これから毎日行き帰りは暇なのかな、とぼんやり立ちながら考えた時だった。

 

(外人だ……)

 目の前に金色の髪をした少女が座っていた。

 この電車に乗ってずっと吊革に手をかけて立ちながらスマホを見ていたから、いつからそこにいたかは分からない。

 今の時代、日本で外人を見るのは別に珍しいことではない――――のだが。

 

(外人が……宮沢賢治を読んでいる……)

 主に自分の目を引いたのは2つだった。その少女が自分がこれから三年間通うことになる高校の制服を来ていたこと。

 それと少女が人形のように青い目で日本の古い文豪が書いた童話を読んでいることだった。

 何故数ある本の中でこれを選んで読んでいるんだろう。日本語の勉強に読んでいるのだろうか。

 少なくとも先週の入学式でこんな子は見なかったのだが――――、と興味が尽きなかった。気が付けばそれ以上考える前に口を開いていた。

 

「日本語喋れる?」

 

「…………」

 声は聞こえていたようでこちらをソーダの中の宝石のような目で見てくるが何も言わない。

 実際自分も英語は多少読めても全く話せないし、本当に勉強の一貫だったのかもしれない。

 

「喋れない?」

 

「初対面で『日本語喋れる?』って初めて聞かれた」

 

「喋れてるじゃん」

 片言などではなく、普通に流暢な日本語だ。

 見れば見るほど西洋の顔なのに日本語を話しているのはなんだか不思議な光景だに感じる。

 

「変な人だね、クジラくん」

 

「クジラ…………俺、クジラって名字じゃないけど」

 

「馬鹿なの?」

 

(あ、そういうこと)

 中学から上がったばかりにしてはかなり不自然な自分の背丈のことを言ったのだろう。

 冗談も言えるとくれば、育ちもこちらなのだろうか。それよりもやはり、彼女が手にしている本のことが気になった。

 どこから見ても西洋人の少女が日本語で書かれた文庫を持っているのは似合わない――――のに、絵になっている。

 

「『銀河鉄道の夜』……」

 

「読んだことあるの?」

 

「ない」

 

「…………共通の話題見つけようとか思わないの?」

 

「だってもう着く」

 それに読んだこと無いものは無いのだ。

 気になったから聞いただけだし、ここで知ったかぶりをしてもどうせボロが出る。

 彼女が立ち上がると同時に電車のドアが開いてひらりと桜の花びらが入ってきた。

 

「じゃあほんとの名前は?」

 

「ツキオ」

 

「なにそれ。下の名前? 名字は?」

 

「いやだ」

 月落は自分の名字が嫌いだった。

 あまりいい意味ではない漢字が使われている上に、読み方も最悪だと思っている。

 親から受け継いでおいて悪いと思っているが、将来は絶対に婿入りなり何なりしてこの名前を変えるつもりだった。

 

「じゃあ、私も下の名前だけでいい? 名字長いんだ」

 

「いいよ」

 

「ヒノ」

 

「わかった」

 

 『やっぱり君、日本語少し変だよ』と笑った陽昇の名字が分かったのはすぐのことだった。

 なんと陽昇は同じクラスにいたのだ。入学式の時にいなかったのは単純な理由で、風邪で寝込んでいたのだという。

 日本語の名前に外国人の姓と見た目を持つ陽昇は珍しがられて、毎日のように囲まれてあっという間にクラスに溶け込んだ。

 だがその一方で、入学式からずっといたはずの月落は陽昇が言った通り変な人間で、そこに自覚があったのであまり多くの友人はできなかったし、作らなかった。

 月落の一番変わっている部分は、一人でいても、一日の間まったくの無言でも、気にせずに過ごせてしまうところだった。

 むしろ集団の中で周りに気を使い心にもない癖にへらへら笑っている方が耐えられないのでこちらの方が楽だったのだ。

 ほんの少しの友人以外で話しかけてくるのは陽昇だけだった。

 陽昇は文芸部に所属しており、図書室内の別室にある部室で金髪碧眼の少女が日本文学に囲まれている姿はいつ見ても違和感があり、その反面不思議に周囲と融和しているように見えた。

 初めて出会ったときも同じ感想を抱いた気がする。きっと文学を愛するということに国境はないのだろう。

 

「なんで運動部入らないの? 体大きくてがっちりしているのに」

 6月になり、テスト期間も終わってさぁ部活だと生徒が意気込んでいる放課後に陽昇は部活に行く前に素朴な疑問を月落にぶつけた。

 

「……。勉強が忙しいから」

 

「嘘だよ。そんなに真面目に勉強しているところ見たこと無いよ」

 

「しているんだなぁ」

 今日帰ってきたテストの結果の紙を陽昇に見せる。

 ほとんどの科目で満点を取っており、文句なく学年一位だった。

 

「うっそ……家で勉強しているの? でもメールもすぐに返ってくるのに」

 

「してるしてる」

 それは嘘だった。月落は幼い頃から発育がよく、周囲の子に比べてずっと大きな体をしていたが、それと同じくらい頭脳明晰だった。

 勉強は大して真面目にしてはいない。他の生徒よりも余っている時間に少ししている程度だ。高校の選択に不自由はなかったが、適度な距離でかつ適度な進学校を親が不満ないように選んだだけだ。

 それを全部言えば自分が嫌なやつだと思われることも知っていた。月落の一番ダメな部分は、幼い頃から何に対しても一生懸命になるということがなかったことだろう。なんでも出来るのはいいが、それにのめり込むことがないのだ。

 

「分かった。昔からなんでも出来る子なんでしょ。体育の時間もすごいし」

 

「女子と別だろ」

 

「他の子が話していた」

 

「…………」

 陽昇の言葉は正解だったので否定はしなかったが、驚いたのは親でも分かっていない月落の本質を出会って二ヶ月の陽昇が見抜いたことだった。

 人の相性は様々だ。なんの接点もなさそうなオタクっぽい少年と運動部のエースが趣味の話で盛り上がったりすることもある。釣りという趣味を通して万年平社員と彼の会社の社長が親友になる漫画などは特に有名だ。

 逆に似通った人間でもお互いに嫌っていることだってどこにでもある話だ。変人の自分と陽昇にどこか相性がいい部分でもあったのだろうか、と月落は心の中で考えていた。

 

「たまにいるから、君みたいな子。私の生まれた国では君みたいな子は飛び級していた」

 細い指をこちらに向けて、流暢な日本語でからかうようにそんなことを言ってくる。

 自分のようなタイプを何回か見たことがあるから分かったと、そんな単純な話なのだろうか。

 月落の頭には疑問がずっと浮かんでいたが、面倒なので聞くのはやめた。

 

「なんで俺によく話しかけてくる?」

 

「勘……かなぁ。まだ確信が持てないけど」

 直球の言葉を投げる月落も月落だが、陽昇の答えも相当に変わっていた――――というか答えになっていなかった。

 

「俺のことが好きなの?」

 

「やっぱり変な人。別にそういう訳じゃないよ」

 

「ふぅん」

 今までこんな自分に積極的に話しかけてくる異性は何に惹かれたのかは知らないが、全員『そう』だったのに。

 だが今の言葉に嘘は感じなかった。

 

「今日、部活どうしようかな……」

 文芸部は文化部特有の緩さらしく、参加も重要なイベントの前以外は自由らしい。

 と言っても部活に行っても基本的に本を読むだけらしいのだが。

 

「なぁ、コロッケ食いに行こう」

 陽昇は四年前に日本に来たらしい。それでも日本語が流暢に話せるのは、父親が向こうの国で日本の文学の教授として教鞭を執っていたからだという。

 だが、日本の食事の文化についてはまだまだ知らないことがあるはずだ。下校途中に食べる惣菜屋の揚げ物の悪魔的な美味さなど絶対に知らないはず。

 

「え? どこに?」

 

「何言ってんだお前。学校に来る途中に惣菜屋があっただろう」

 

「そうだっけ?」

 

(…………?)

 コロッケが40円で――――と言おうとして思考が停止した。

 月落は一度もその惣菜屋に行ったことはない。なのに何故かその場所はともかくとして、値段も味も知っている。

 何故だろうという疑問は荷物をまとめる陽昇の姿を見るうちに沼に浮かんだ泡のように消えてなくなった。

 

 

 そう言えば、異性と一緒に学校から帰るのは初めてだった。

 身体が大きく頭もよく、顔立ちも整っているからか、身も蓋もない言い方をすれば月落は異性によく好意を寄せられるタイプだった。

 しかし今までそういった経験が一度もないのは、月落の考えと壊滅的な人間性のせいだった。

 勝手なものである。見てくれやその才に勝手に惹かれて勝手に中身に幻滅し去っていくのである。

 自分があまりにも身勝手であり、人格破綻者であることを知る月落は相手の為を思ってこそ、自分をひた隠しにして異性と付き合うような真似はしなかった。

 自分を隠したっていつかはその中身も見抜かれる。大して好きでもない相手と付き合って、深く幻滅されるよりはずっとマシだと思っていた。

 

 

「晩御飯の前に食べていいの?」

 

「言ったことなかった? うち母親いなくて、父親から食費だけ貰っているんだ」

 惣菜屋に向かう途中で陽昇がこちらを見上げて質問してくる。今の答は質問に対する答になってないかも、と言ってから気がついた。

 

「え、なんで?」

 

「知らない」

 母親がいないことと、自分がこんな性格なのは多分関係ないだろう。

 それにしても普通はこんなことはそれ以上聞かないと思うのだが――――変に気を使われるよりはいいか、と月落は感じた。実際、気を悪くもしていない。

 

「で、駅だけど。どこにあるの?」

 

「あ……? …………」

 駅前商店街通りの100円ショップと薬局の間にあったはず。

 しかし、記憶と違いそこにあったのはCDショップだった。

 月落にしては非常に珍しく、焦って周囲を見回す。それでもやはり惣菜屋などどこにもなく、今年初めての蝉の声がジー、ジー、と耳に響くばかりだった。

 

 月落が最初に感じた世界への違和感はそれだった。

 ただの勘違いとしか言いようがない、その兆候。それ以上に月落が出来ることなんてなかった。

 

 

 

**********************************************

 

 

 じゃあカレーだ、と月落は考えて一週間ほどして陽昇を誘った。

 本格派のカレーなどと言うが、実はそんなものは無く、各国の特色が色濃く現れてその国独特の食べ物に変化しているのがカレーだ。

 親に作ってもらっているものと日本の物が違うと知ればきっと楽しかろう。幼い頃からたまに行っているカレー屋だから今度は勘違いだということもない。

 

 月落は時間に関して完璧主義なのだが、陽昇は割とルーズなようだ。

 待ち合わせ時間になっても来ないので月落はコンビニ前の灰皿の近くで煙草を吸いながら暇つぶしにスマホで適当な記事を見ていた。

 

『……実際には“標準的な時間の流れ”は存在せず、時間は減速していると教授らは見て……』

 

「…………」

 適当に開いたサイトに書いてあったことを要約すると、どうやら宇宙の時間とやらが減速しているらしい。

 だが、時間の流れがゆっくりになることに気がつくことはないのではないだろうか。

 電車に乗っている人がいて、電車がブレーキをかけたところで中にいる人の話す速度が遅くなるということはないように。

 とは言うものの宇宙は電車ではないし自分は学者ではないからなんとも言えない。

 

『……時間が完全に静止したら、写真のスナップショットのように全てが凍りつくという。そして、時間が再び動きだすことは永遠にないそうだ』

 

(そんなこと言われてもな)

 月落は鼻から大きく空気を出した。

 消費税が上がることや、北でミサイルが作られていることすらも自分にはどうしようもないというのに、たかが15,6の少年が『世界』というものに対して何が出来る?

 今を自分なりに生き続けるしかない。そうなったらそうなっただ。

 

『もし時間が出現したのだとすれば、消滅することもあるでしょう。つまり逆の効果がありうるということです』

 

(そういえば……)

 いつだかに暇つぶしで読んだ走馬灯の記事を思い出す。

 地球や銀河、果ては宇宙までも生き物とする説もしばしばある。例えばどこかから地球全体絶対破壊爆弾が降ってきて地球が粉々になっても宇宙にとってはなんてことはないだろう。そんなのは宇宙のどこかでいつだって起こっている。

 だが、時間が止まったら?

 それは宇宙にとっての死ではないか?

 

(宇宙は何を考えて生きて、どうやって死ぬんだろ)

 宇宙も一つの生き物なら、死ぬ前に走馬灯を見るのだろうか。

 だとしたら一体何を――――

 

「あ」

 高い音を出してスマホが地面に落ちた。

 薄暗い夜の中で見る液晶はひび割れており、今の衝撃で壊れたことは明白だ。

 別にスマホの液晶が割れるのはよくあることだから大げさに悲しんだりはしないが。

 

「携帯が落ちた」

 わざと聞こえるように普段は出さない大きな声を出すと、近くを歩いていた五人組が足を止めた。

 その内の一人がぶつかってスマホが落ちたのだ。狭い道を横に広がって歩くからそんなことになる。

 

「…………」

 五人が五人ともこちらを見て、どういう状況かを確認したのにまた前を見て歩き出そうとした。

 鋭角な頬骨の上の目は細く、浅黒い肌に茶髪。見てくれからも分かりやすい不良だが突っかかっては来なかった。本能的に喧嘩を売れる相手かどうかを見抜いているのだろう。

 中学の時の不良連中もそうだった。安全にいびれる相手だけを選んでやっているのだ。

 これで自分がヒョロヒョロのオタクっぽい見た目をしていたらもう既に殴られていただろう。

 しかしそんなことはどうでもよいことだ。

 

「携帯落ちた。拾って」

 言葉を発してそれは確かに届いている。

 もうこの場を無視してやり過ごすことなど出来なくなった。

 あちらを向いたままの五人組が短いやり取りをした後に全員がこっちに来た。

 ぶつかったのは左端の奴だけなのだからそいつが拾って謝って、それでいいのに。

 

「な」

 

「早く拾えよ」

 何かを言おうとしていたが聞きたくもないので被せるようにして言う。

 一人を五人で囲んでそんなことを言われるのが予想外だったのだろう。全員が全員面食らった表情をしていた。

 その時、アスファルトの上のスマホが震えた。陽昇からメールが来たのだ。

 

「あー……メールが……。いてっ」

 

「おい、もっかい言ってみろよ!」

 パタパタと雫が落ちる。五人の中で唯一体格的に月落と見合う男が月落の顔のど真ん中をいきなり殴ったのだ。

 表情が変わることも無いし、怖くもないが、鼻はじんじんと痛み呼吸が出来なかった。

 

「『なんで運動部入らないの? 体大きくてがっちりしているのに』だっけ」

 先日言われた陽昇の言葉を言いながら殴ってきた男の肩を掴む。

 馬鹿力によって肩が握られ男が表情を苦痛で歪めると同時に月落は足を振り上げた。

 

「はぐっ!!」

 ドゴッ――――ボウリングの玉が直撃したかのような音が響き男はそのまま5mほど後ろに吹き飛ぶ。

 月落が思い切り男の鳩尾めがけて前蹴りしたのだ。全力で人を蹴ったのは久しぶりだった。

 今の感触からするに骨にまで影響を与えたかもしれない。

 

「携帯拾って欲しいだけなんだ。……聞いちゃいないか」

 男は転げ回りながら吐瀉物を撒き散らすことで精一杯だった。

 五人の中で一番体格のいい男が一撃で戦闘不能。残った四人は月落にとって紙っぴらと大差ない。

 いつもこうだ。出る杭は――――、と諺があるが出る杭に、誰かが優秀であることに、優れていることに理由など無い。この世は不平等かつ歪に出来ている。

 幼い頃から身体が大きかった。筋肉の付き方がはじめから違った。なにをするにしたって――――

 

「だから退屈なんだ。……今日の晩飯……ラーメンだったのか? 俺はこれからカレー食いに行くんだ」

 吐瀉物をまじまじと見ながら意思疎通が出来るとは思えない言葉を発する月落から、四人組が三歩後ずさる。

 

「お前の晩飯は何だ?」

 既に負け戦の気配が濃厚に張り詰めている中で、月落が次の男を見ながらその言葉を放ったのが決壊となった。

 

「じ、冗談……悪かった、やめてくれ!」

 

「…………」

 無抵抗、降伏を示すかのように両の手のひらをこちらに向けながら男たちが後ずさる。

 月落はそれを目を細めながら見ていた。その男たちに対して何かを思っていたわけではない。

 思い出していたのだ。月落は幼稚園から中学校まで必ず自分の名字に関し、人をからかうことが好きなグループに理不尽に何かを言われた。

 そしてその度に思い切り蹴っ飛ばして、毎回こんな風に畏怖の視線を向けられて、一人ぼっちになった。

 もうちょっと器用に生きればいいのにとも思うが、自分の生まれ持った物に対して自分を曲げることがどうしても嫌だったのだ。

 優れているということは、より自分を世に対して通す力があるということだ。嫌なことを嫌と主張して何が悪いというのだ。

 ――――自分のそんな考えをする部分が人間として破綻していることは分かっていた。それでもやめられなかった。

 

「携帯……拾えよ……」

 そんなことを考えている間に男たちは去ってしまった。

 アスファルトの上に吐瀉物と液晶が割れたスマホを残して。

 

「はい。ハンカチ」

 後ろに陽昇が立っていた。制服じゃない姿は初めて見たが、かなり大人っぽい。やはり外国の血が混ざっているからか、スタイルがいいのもあるだろう。

 先程のメールはおそらく、もうすぐ着く旨でも伝えようとしていたのではないだろうか。

 

「ああ……ってスマホじゃねーかっ」

 陽昇から受け取ったもので鼻血を拭いたらやけにゴツゴツしていた。月落が落としたスマホだった。

 

「あはっ。あははっ。はい、ハンカチ」

 何がそんなにおかしいのか、『大丈夫?』の一言も言わずに街灯に透ける金髪を揺らしてからからと笑っている。

 

「…………新しいの買って返す」

 スマホを拭いて鼻血を拭いたら夜空のように青いハンカチが夕焼けに侵食されたかのように赤くなってしまった。

 

「いいよ別に。そのまま返して」

 

「……ふーん」

 

「血はちゃんと赤いんだね。でも、いつもへの字口。表情一個しかないの?」

 

「人のことを化け物みたいに言うな」

 

「…………」

 何を考えているのか、宝石のような目で血塗れのハンカチを見つめる陽昇の姿は後々までずっと記憶に残っていた。

 思えばこの時点で陽昇は自分を隠していなかったのかもしれない。だがその時にこの先に何が起こるかなど予測できるはずもなく、そのままハンカチをポケットにしまったことに対して『汚いんじゃないか』と思うだけだった。

 

 

 

 

**********************************************

 

 

 時計を見ると七時五十五分だった。

 もう家を出て学校に向かってもいい時間だが、いつももう五、六分待つのだ。

 なぜなら――――

 

「なんでだっけ?」

 牛乳パックを手にニュース番組の時計を見ながら考える。

 何か嫌なことが起こるから八時過ぎに家を出るということは間違いない。

 家族全員がその理由を知っていたはずなのだが、父親は既に会社に行ってしまいいない。

 まぁ、分からないなら行ってみれば、と自分を納得させて月落は外に出た。

 

「ああ、そうだった」

 二人しか住んでいない割には広い家を出た月落はすぐに気が付いた。

 視線の先には隣の家で鎖に繋がれてどこかしょぼくれている大型犬がいた。

 

「おい、元気か?」

 

「…………ブスッ……」

 声をかけるがこちらをちらりと見てまた目を背けてしまった。

 捻くれていてはいるが大人しい犬だ。だが犬でも猫でも、人と同じようになんだか無性に気が合わない人間というのがいる。

 この犬はこの一家の主とどうも相性が悪いらしく、毎日彼が出勤の時間になって玄関先から出てくると吠えまくるのだ。それがあまりにもうるさいので家を出る時間をずらしていたのだが。

 

「ある……じ?」

 デジャヴュと立ちくらみが同時に襲いかかったような目眩に襲われ塀に手をつく。

 誰のことだっけ、と考えていると玄関が開いた。

 

「あ、月落さんおはようございます」

 

「おう」

 出てきたのは今年中学二年生になった隣の家の長男だった。

 小学生の頃は自分に敬語など一切使わなかったのに、中学にあがって野球部に入ってから社会の仕組みを叩き込まれたのか礼儀正しくなった。

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、タロウの元気がねぇなって」

 

「そうすか? 昔からこんなもんすよ」

 

「そう、だっけ、か……」

 毎朝毎朝、それこそ同じ時間に家を出るのが嫌になるくらい吠えまくってなかったか?

 そう思ったが実際に目の前のタロウは寝起きのような目で中空を見つめている。

 

「月落さんなんでもっといい高校行かなかったんですか? ずっと一番だったのに、ヘンですよ。公立でも柚木高校とか……」

 

「あー、頑張ってここに入ったんだよ。別に変なこたない」

 

「そうなんすか? 俺、白泉高校受けようと思ってるんすよ」

 

「今から考えているのか。エライな。頑張んな」

 そんな会話を交わしながらも先程の違和感の心当たりを探っていたのだが、それも駅に入り、電車に乗る頃にはすっかり忘れてしまっていた。

 隣の犬が吠えることを忘れたなんて――――どうでもいいことだからだ。

 

 それに、学校についてからそれよりも脳みそのCPUを使う出来事が起きたのだ。

 

 

「……誰だろ」

 下駄箱の中に入っていた手紙を見て頭の中で検索を始める。

 聞かれれば普通にメアドくらいなら教えていたが、それでも普段からやり取りしているのは陽昇くらいしかいない。

 それにもっと言えば名前を覚えている女子が少ない。それにしても手紙を入れてくるなんて古風な。その意気は買ってやりたいが――――

 

「俺の性格なんて全く分かっちゃいないだろうに」

 心当たりがないということはそれだけ自分と関わっていない存在ということだ。

 だとするならば自分がどういう人間かというのは全く分かっておらずに『あの人と付き合えたらきっと幸せで周りに自慢できる』程度の考えで勝手に暴走してこんなことをしているということになる。

 自分でも何故かは分からないが、月落はそういった卵の殻だけ見て評価するような真似に非常にむかっ腹が立つのであった。

 

 

 

********************************************************

 

 

 放課後誰もいなくなるまで教室で待っていて。

 そう書いてあったから待っている。こっちの都合も少しは考えて欲しい。……と言っても所詮は暇な学生、何もないのだが。

 最近はよく一緒に帰っていた陽昇を先に帰して三階にある自分の教室から中庭を眺めていた。

 

 

(アシナガバチだ)

 月落の目線の先には飛び回る蜂の群があった。

 日本国内でスズメバチに次いで危険な蜂、アシナガバチ。

 月落は視力も非常によく、飛び回る蜂の中で一匹だけずっと追っていたがあることに気が付いた。

 

(巣に戻れないのか……?)

 ずっと同じ一匹だけを見ているが、まるで迷子にでもなったかのように同じ場所をうろうろと飛び回っている。

 まるで巣に戻る本能を『忘れて』しまったかのようだ。アシナガバチは蜂の中でもよく巣の場所を記憶していて、例え撤去された後でも働き蜂はその場所に戻ってくる。

 ――――だというのに、巣の存在を忘れてしまっているかのように彷徨しているのだ。よく見てみればどの蜂も。

 吠えることを忘れた犬。巣に戻れない蜂の群れ。彼らは何を――――

 

(…………?)

 月落は何を忘れてしまっているのだろう。

 記憶を一番呼び起こすと言われているのが嗅覚。校庭の土埃のにおいも、教室の制汗剤と弁当のにおいも、何も呼び起こしてくれなかった。

 ローディングエラーと違和感を吐き出し続ける脳に抵抗していると教室の扉が開く音が聞こえた。

 

「あ、あの……」

 

(……誰だっけ)

 やや茶色い髪を肩まで伸ばした眼の大きい、いかにも今風の女の子だ。

 だが特徴を確認して誰だっけなんて考えている時点で自分とそんなに接点はない。

 

「今付き合っている人いる?」

 

「いないけど」

 やめろ、そんな勇気を振り絞っていますとでも言いたげな雰囲気を醸し出さないでくれ。

 お前の独りよがりなんだ、こっちは今日お前のことを知ったんだ。――――そう言いたいがその少女は言葉を続ける。

 

「じゃあぶ――――」

 

「月落って呼べ。名字で呼ばないでくれ」

 月落とある程度親しい人間なら誰もが月落が名字で呼ばれることを嫌うことを知っている。

 この子は自分の何を知っていると言うのだろう。

 

「えっ」

 

「よく聞け。俺は人を見た目で選ぶ。俺『も』人を見た目で選ぶ。人は綺麗な物が好きだ」

 

「ちょっとまって、話聞いて」

 

「聞かない。例え超美人でも50年後にはクソババアになっている。ならせめて中身は綺麗であるべきだ。だけど俺はお前の中身なんてこれっぽっちも知らん。名前すら知らん。お前だってようやく今、俺がどんな性格か分かってきただろう。百歩譲ってお前の見た目も好みじゃない」

 

「…………」

 綺麗な顔立ちをしている月落の口から濁流のように吐き出された暴言に少女は絶句していた。きっと今までの人生でもここまで有無を言わさずに否定されたこと無いのだろう。

 夕陽が差し込んでほこりが宙でブラウン運動しているのがゆっくり見え、まるで少女の時間だけが止まったかのようだった。

 止まった時を再び動かすかのように、バンッ――――と月落の顔に何かが当たった。

 

「ってぇ……」

 

「あんた何!? その言い方っ、この子がどれだけ勇気を出して……」

 

「誰だよお前」

 スクールバックを顔に投げつけてきた体付きのがっちりした少女が詰め寄ってくる。恐らくは運動部所属の子なのだろう。

 耳が潰れていて鼻が平らなのを見るに柔道部とかだろう。

 

「あ――――」

 

「誰なんだよお前は。こいつと俺の話だったんだろ。消えてくれ。…………モテないからせめて人の恋愛事情に首突っ込んで青春を感じたいか? 哀れ過ぎる」

 ボンッ、と再び顔に何かが当たった。誰かが机の上に置いていた英語の教科書だった。

 

「もういいっ、行こう! この人なんかおかしい」

 今日何かを変えるのだ、という決心を支える根本を粉々にされた少女は、恐らくは影から応援してくれていたのであろう友人を連れて逃げるように去っていった。

 

「勝手なもんだ……俺は昔からこうなのに。なにも変わっていないのに勘違いして」

 『中身は綺麗であるべきだ』。そういった言葉に偽りはなく、自分だけが例外なんて事も思わない。

 ありのままの自分を隠さずにいることが一番綺麗なことだと思えるのだ。偽り続けた果ての破綻はいつかより深い傷になる。

 自分の中身を知って、それでも興味を持ってくれる人にだけ自分は興味を持つ。そんなんだから友達も少ないんだよな――――と考え、胸ポケットの煙草を確かめながら下駄箱に行くとその数少ない友人の一人が月落を待っていた。

 

「よっ」

 

「なんだ。待っていたの」

 文庫本を閉じると同時に軽快な挨拶をする陽昇の顔を見ると何故かほっとする。

 そんなに付き合いが長いわけではないのだが。読んでいたのは谷崎潤一郎の『痴人の愛』。相も変わらず日本文学ばかりだ。

 たまにはその見た目らしくシャーロック・ホームズでも読めばいいのに。そうしたら普通過ぎてつまらないかもしれないが。

 

「どうせ早く終わるだろうと思って。……酷い言い方をしたんでしょう」

 

「知ってたの?」

 今日は用事があるから帰っててくれ。それしか言っていないのに、陽昇の口振りときたら全部お見通しだと言わんばかりだ。

 

「私も女子だからね」

 答えになっていないようだが、そのままの意味だ。

 単純に女子の情報網はハンパないということだけ。きっと明日には月落がどんな言葉で以てフったのかもほとんどの女子に知れわたっているだろう。

 校舎を出て教室の方を少しだけ見る。今頃あの女子は友達に慰められているのだろうか。

 

「勝手に勘違いしたのは向こうだ。最初から何も分かっていなかったのに幻滅される俺の身にもなれ」

 

「別に彼女もいないならいいんじゃないの? 酷いこと言って突き放すメリットってある?」

 

「生きる上で自分を隠すことも必要だ。だけど、自分のパートナーになろうという人間に自分を騙して、相手を騙す方がよほど酷悪じゃないか? 俺はこういう風に生まれたんだ。このまま死ぬ」

 

「ふーん……。月落はなんで名字嫌いなの?」

 その問によって、陽昇が隠れてやり取りを見ていたことに気がついたが別に怒ってもいないし追求する気はなかった。

 なんとなく、見ていなくても陽昇には分かるだろうと感じたからだ。それにしても質問ばかりだ。きっと陽昇にとって自分のような変人は遭遇したことがないのだろう。

 帰り道にすれ違う人たちをちらりと見て、大体が無個性な見た目と同じくらい普通の中身をしているのだろう、と勝手に思ってしまう。

 

「幼稚園も……小学校も、中学校も……まず最初にそれでからかわれた。蹴り飛ばしたら吹っ飛んで、それで友達がいなかった。親には『人を本気で蹴っちゃダメ』って言われた……守れてないけど」

 

「蹴っ飛ばしてたね」

 

「蹴っ飛ばしたな」

 石ころをからんと蹴飛ばすと自販機の下に潜り込んでいった。

 夕陽に赤く侵食される陽昇の青い目が月落を見上げるが、月落が酷い言葉で恋心を打ち砕いたことを知っているというのにその青と赤に非難の色は混じっていないのが不思議だった。

 

 

 

 自分に想いを告げようとしたあの女の子の好感度がゼロどころかマイナスに振り切れたことは間違いない。

 本当の自分を偽ってずるずると関係を続ければいつかは大きく傷つけるだけ。月落はただただ自分らしく生きたいだけだった。

 つまり、適当にまぐわって頭を使わず煩雑に生きたくない、巻き込まれたくないだけなのに。

 だが、もっと言うと何故こんなに難儀な性格をして、退屈な日常に飽き飽きしている自分が嫌だった。

 一人でいても気にはならないが、嫌われれば多少は傷つく。そのあたりの感性は至って普通なのであった。

 

「愛情のない機械人間とか……言われてんのかな。俺、なんでも出来ちゃうんだもんな……」

 

「……ブスッ……」

 家に帰る前に隣の家の飼い犬であるタロウの頭を撫でる。

 幼いころからの付き合いの月落が敷地内にいても咎められず、タロウも仏頂面してはいるがこれでも月落には懐いている方なのだ。

 大型犬であるタロウよりも遥かに大きくなった身体を丸めて抱きつく。少し禿げた頭の天辺からはお日様の匂いがした。

 

「別に愛情がない人間なわけじゃない。家族だって愛している。お父さんもお母さんも……」

 

 子供の頃はまだ楽しかった。

 大人には力で敵わなかったし、彼らはたくさんの事を知っていた。

 ピクニックに行ったときは食べられる木の実なんかを教えてくれたっけ。

 

「お……か、……?」

 脳裏に浮かんだのは一人でレジャーシートを広げて一人で原っぱの上でサンドイッチを食べている自分だった。

 まだたかだか6歳だか7歳の自分だ。あまりにも異質すぎるのに確かに頭の中にある記憶。

 もう数年は無かった冷や汗というものをかいて月落は尻もちをついた。

 

「ワフッ」

 久々に軽く吠えたタロウは慰めるように月落の手を舐めてくる。

 誤作動を起こす脳が、唐突に『明日人生が変わるような出来事が起こる』と告げてきた。

 どういうことだ、と自問自答しても、もう何も起こらなかった。

 

 

****************************************************

 

 

 

 繊細とはまた違い、月落は敏感な人間だった。

 昨日と比べて僅かに女子と、いくらかの男子の視線が痛い。

 どのように伝えられたかは知らないが、きっと自分の予想を下回ることはない伝え方で自分の悪どさを伝えられたのだろう。

 これを幾度か繰り返すと自分の周りにはほとんど人がいなくなる。中学の頃もそうだった。おかげで中3の時は静かに勉強ができたものだ。

 

「――――でね、そのとき葉蔵は竹一に自分の本質を見抜かれたことに気が付いたんだ」

 

(でもこいつは変わんないな)

 『読んだことないよ』と先に告げたのに楽しそうに日本文学の話を語る陽昇は今までと何も変わっていない。

 知っていて何も変わらないのなら、この先長い付き合いになるかも、と思いながら菓子パンを齧る。昼休みまでたっぷりビニール袋の中で熱されたパンは、月落の味覚が煙草で破壊されていることを除いても絶妙な不味さだった。

 

「私達と違うのは私は月落の中身を知って、私も君に私の中身を知ってほしいと思った」

 

「陽昇? ……!!」

 神経を伝う電機信号が乱れて光鮮やかに脳を揺らすデジャヴュが月落に襲いかかってきた。

 この言葉を、この先に言われる言葉を知っている。

 

「私はマゾヒストなんだ」

 そう、この言葉だ。この言葉が自分の後の人生全てを変えて、――――より退屈な物にしてしまったんだ。

 しまったんだ、と頭に浮かぶ言葉は何故か過去形。今、目の前にいる陽昇が口にしている事なのに。

 自分は何を知っているというのだろう。……考えても無駄なことだ、月落はすぐに軽口を返した。

 

「……与党が全然守らないやつか」

 

「それはマニフェストだ」

 

「何故それを俺に?」

 大して美味くもない唐揚げを食べながらくそったれ合コンなんかで『私いじめられるのが好きなの』『俺ドSだからさ~』なんて自分語りするのとは絶対にレベルが違うと感じる。

 それにしてもさっきの予感は一体。

 

「君はサディストだよ」

 

「……俺? むかしっから、いじめとかに関わってこなかったよ」

 

「自分がこうだと思ったことは絶対に変えない。それで不利益を被っても、嫌われても」

 

「それがサドだマゾだとなんの関係がある」

 

「後は勘。君は物を拾う時に膝を曲げなかったりとか……色々あるけど、見ているとぞくぞくするんだ」

 

「ぞくぞくするんですか」

 

「君は絶対に自分の世界を変えない。思うままに流されないことに誇りを持っているから。残念なのは……」

 

「残念なのは?」

 

「適当に上々に生きても楽しいと思えないその難儀な性格。違う?」

 

「…………」

 驚いたことに陽昇は誰よりも月落の心の中身を上手く言語化している。

 かつての友人よりも、親よりも、下手したら月落自身よりも。

 

「それでなんで話したかなんだけど」

 

「うん」

 

「思うままに想像してみたら?」

 勝手なことを言いやがる、と思った。何を想像しろと。

 だが月落自身、今の告白にはかなり大きな衝撃を受けていた。

 この闊達な性格をした少女にそんな一面があったなんて。

 

(被虐性欲者か……。……?)

 

 例えば、肉体的精神的に苦痛を与えられ息も絶え絶えで許しを請うている時にも、身体は高揚しこの白い肌は赤く染まって陽昇は興奮するのだろうか。

 ――――そう考えた時、人生で感じたことのない感覚が震えと共に月落を襲った。身近な異性に対する軽い性欲とは確実に違う、異感覚。

 

「放課後、誰もいなくなるまで教室にいてね」

 

「い……分かった」

 有無を言わさずに了承させられ、陽昇はその答えを聞くか聞かないかのタイミングで教室の外に行ってしまった。

 なんてやつだ、と思ったが、普通の高校生にありふれている退屈極まりない付き合っただのヤッただのという話題から離れた全く知らない世界が見えるかもと考えた時、月落は自分がワクワクしていることに気が付いた。

 まるである晴れた夜に小高い丘でセットした望遠鏡を覗き込む直前のような気分だった。

 

 

 

 

******************************************

 

 

 とっくに自分ひとりだけになった教室でぼーっと陽昇を待っていてあることに気がつく。

 なんだかこの教室は普通よりも広い気がするのだ。少なくとも、小学校や中学校のクラスに比べると圧倒的と言っていいほどに。

 

「違う。教室が広いんじゃない」

 入学して3ヶ月以上も経って気がつくなんて間抜けにも程があるが、自分のいる5組の人数が少ないのだ。

 机の数を数えてみたら28個しかない。それを教室に均等に置いているのだからなんだかだだっ広く感じるはずだ。

 

(少なすぎないか……?)

 この高校にはクラスの人数が少なくなりがちな英語科や理数科なんてものはないし、間違いなくこのクラスは普通科のクラスだ。

 教室から出て隣の教室の机を数えると31個だった。それでも大分少ない気がするし、8つあるクラスの人数が均等になっていないのもなんだかおかしい。

 もちろんおかしいと感じたからと言って何かできるわけでもないし、どうしようとも思わないのだが。最近やたら変なことが多い気がする、と思いながら自分の教室に向かうともう陽昇がいた。

 

「私は美人だけど50年したらクシャクシャになっている」

 

(おや?)

 こういうことを平然と言い放つ子だからこそ、あんなカミングアウトをしたのだ。それに対して今更何かを思ったりはしない。

 それよりもいつの間にやら陽昇の机が奥に押しやられ、ぽつんとある椅子の上に陽昇が座っているという行動の素早さに驚いた。

 

「もういないかもしれない。いつ来るかわからないその人その時を待って、今しかない感覚を逃したら」

 

「もったいないって?」

 つまり、飾りでもなんでもなく本質的にサディストだと思える人間との出会いの事を言っているのだろう。

 それが気心の知れた友人なら尚更だ。

 

「月落はとてもワガママで、そのワガママを通すだけの力を持っている。頭も、身体も。だから世の中が退屈でしょうがない」

 

「ふん。知ったふうなことを言いやがって。その通りだよ」

 椅子に座っている陽昇を立って見下ろす形なのに、自分はどうしてか説教をされている気分だ。

 だが昨日と同じく青に赤の混じった目には非難の色はない。陽昇と深い話をするのはいつも放課後だから夜に呑まれそうな夕暮れの中だ。

 

「そして私は自分がマゾヒストだと早くに気が付けたことに感謝している。でも豊富な人生経験があったわけでもないから、程度がわからないんだ」

 

「…………」

 

「どちらにしろ、うまくいかないことに価値があるから」

 

「から?」

 

「手探りで私のことを楽しませてみて」

 

「楽しませてみてだって……?」

 しかし、その『奉仕しろ』とも聞こえる言葉は、大抵のことは苦もなく出来る月落をこの上なく高揚させていた。

 何が起きるのか、全く想像がつかないからだ。

 

「でも最初だからまず……縛られてみたい」

 

「誰の? これ」

 陽昇が差し出してきたのはいくつかの縄跳びだった。

 体育で使うからどの机にもかかってはいるが、ちゃんとどれをどの机から取ったか覚えているのだろうか。

 

「どうでもいいから」

 座っている奴に急かされるなんてなんだか変な気分だ。

 とりあえず縄跳びに付着している土埃を落とそうとしてやめる。きっと汚れている方が『綺麗になる』と感じたからだ。

 

(手首細いなぁ)

 北欧の血が混じっているからか、陽昇は女子にしては背が高いと思う。

 それでも部分部分が細い辺りに異性を感じる。膝をついて、半袖のブラウスから伸びた白い腕を取り、両腕と椅子の脚とを絡めていく。

 

「これじゃ動けるか。キツくするぞ」

 

「痛っ……」

 ぎちぎちに締め付けると手首に赤い跡が残り、土が僅かに汚す。

 やはり、こちらの方が綺麗なように思える。

 脚は自由なので動こうと思えば椅子を引きずって動ける。そんな可能性が残っていること自体興ざめだ。

 ソックスの上からでは痛みがないだろう。足首までソックスをずり下げて力を込めて縛っていると陽昇が口を開いた。

 

「倒錯的だね。君のほうが跪いている」

 役目で言えば、月落のほうが完全に上のはずなのに。

 確かに陽昇の言うとおりだった。だが月落はそこに面白さがあると感じていた。

 

「全然動けないけど、気分はどう?」

 

「……悪くないかも」

 

「これから処刑されるみたいだな」

 

「……。電気椅子処刑は目隠しをするんだ。強烈な電流で眼球が飛び出てしまうから」

 

「我儘なやつ。汚いけど文句言うなよ」

 体育の時間に使っていたタオルを取り出す。

 7月の太陽に熱されて止めどなく溢れ出る汗を拭いた物なので綺麗なはずがない。

 

「違う。今の私には文句を言う権利すらないってことを……」

 

「確かにな」

 嫌だと言った所で強制的に出来てしまう状況にいるのだ。

 それにしても我儘だ。そうしてくれ、と言っているのだ。

 白いタオルで目を隠し、わざと髪がくしゃくしゃになるくらいの力で縛ると陽昇は嬉しそうに震えた。

 

(絵画みたいだ)

 自分で美人だと言い切るだけあって、非の打ち所がない程に美しい。

 だがそれだけではない。この異常な状況に彼女の空気が馴染んでいるのだ。まるで現代風の断頭台への行進だ。

 しばらく黙って感心していると、音が無くなった教室に外の音が入り込んできた。

 まだ陽昇は恐怖を感じていない。退屈しているのか、野球部の掛け声を聞いている。この状況で退屈だなんて、何もわかっちゃいない。

 ぱちっ、と陽昇の頭の後ろで指を鳴らすとほんの少しだけ陽昇の身体が驚きで浮かび上がった。

 

「な、なに?」

 

「最初に柔軟体操して基礎練をする」

 

「なんの話?」

 

「そしてようやくバッティングやらなんやらの練習が始まるんだ」

 

「……それがどうしたの?」 

 

「気付いていたか? ロッカーの上にグローブが置いてあったこと。野球部の奴が忘れていったんだ」

 

「一体それが……。!!」

 気が付いたようだ。自分たちがここにいるように、放課後になっても教師も生徒も教室には当然自由に出入りできる。

 もしもグローブを忘れた部員がそのことに気が付いて取りに来たとしたら。

 

「俺はまぁ……もともと変なやつだからいいけど。お前は……」

 視覚が無い分、色んな神経が敏感になっているのだろう。

 グラウンドから聞こえる声が急に恐ろしいものに感じるようになったようで、爪の腹でうなじをなぞると小さく震えた。

 

「それは嘘でしょ? 私を驚かそうとしているんだ」

 

「でももう、本当かどうかも確かめられなくなったな。どちらにしろ廊下で足音が聞こえたところで、まともな状態には戻せない」

 

「は、……はは」

 月落の言ったことに嘘は何一つない。

 本当に、誰かが入ってきたとしたら下手すれば学校にいられなくなる状況なのは間違いないのだ。

 だと言うのに、陽昇はこんな状況で笑っていた。

 

(まだ足りない)

 恐怖に青ざめながらも引きつった笑顔を見せる顔を夕陽に染めている姿は文句なく美しいと言い切れる。

 だが、まだ今ひとつ異常との調和が取れていない。もう一つ何かが欲しい。

 まるで誘われるかのように月落は筆箱を取り出して机の上でひっくり返した。

 本を持たずに話す時は何かをいじる癖のある陽昇はよく月落の筆箱をいじっていた。

 だからこそ、今の音が月落の筆記用具をひっくり返した音だと分かるはずだ。

 何が入っているかも知っているはず。ボールペンに、ハサミ、カッターナイフ。

 

「っ!!」

 わざとカッターナイフの特徴的な音を鳴らすと見てて面白いくらいに陽昇は顔を音の出処に向けて固まっていた。

 音を鳴らし続けながらそっとシャープペンについている消しゴムを外す。そこには芯の詰まりを取るための針がついている。

 

「ま、待って」

 カッターナイフの冷えた刃を首筋に当てると流石に焦りと恐怖が勝ったのか、椅子を揺らしながら陽昇は悲鳴に近い声をあげた。

 

「待たない」

 月落自身も驚くほどの早業だった。

 カッターの刃を離すと同時に片手に持っていた針で深すぎない程度に首に針を刺したのだ。

 

「!!」

 鋭利な刃物による傷は痛いというより熱く、自分ではどの程度の傷なのか分からない。

 ほんの小さな穴が空いている程度だが、陽昇の頭の中ではカッターによる深い切り傷に思えているはず。

 流れた赤い血が普段よりも一層白い首を伝ってブラウスを濡らした。

 

「わは……ははは」

 月落も笑っていた。月落が苦笑や失笑ではなく心から笑うのは本当に久しぶりのことだった。

 血の流れの途中に指を押し付けると爪の上を通って更に下に下に向かおうとする。

 指についた血を舐めると生々しい鉄の味がした。

 

「……その血は私の心臓を通った物だよ」

 

「あんま喋んな。せっかく綺麗なんだから」

 

「……! !!」

 陽昇のポケットからハンカチを取り出し口の中に押し込む。

 月落の全く興味ない文化祭準備とやらで教壇の上に置いていかれているガムテープでそのまま口を塞いでしまった。

 

(さて……このまま何をされると一番『喜ぶ』?)

 陽昇の嗜好が既に大分掴めてきた気がする。

 きっと色々タイプがあるのだろう。単純にぶん殴られて踏んづけられるのが好きなタイプ。陰湿かつ暗澹とした状況に身を置かれるのが好きなタイプ。

 このタイプが、陽昇が一番喜ぶのは。

 

(……俺がこのまま出ていくこと)

 足音高く教室の出口に向かう。目隠しの下の陽昇の視線を背中に感じながら。

 そして大きな音を出しながら扉を開き、『そのまま閉めた』。

 

「!! !!」

 

(心の摩耗は……3分ってところかな)

 中学の頃。自分に言い寄ってきた異性を酷い言葉で拒絶し、目の前に立った喧嘩自慢を蹴り飛ばしていたら、三年生の頃には一日誰にも話しかけられないこともあった。それをクラスメイトの誰も気にも留めなかった。

 月落は巨漢でありながら、いてもいなくても同じレベルにまで空気になる事ができるのだ。入り口に立って、陽昇の様子を見ていると1分半経った時点で既に陽昇は大慌てでなんとか椅子から出ようとしていた。

 だが、馬鹿力の月落が本気で縛ったのだ。女の細腕でどうにか出来るものではない。

 

(…………本当に運がいい)

 煙草を吸ったらばれてしまうよな、と考えていたら廊下から何人かの生徒が中高生特有の大きな声で話しながら歩いている音が聞こえた。

 唯一固定されていない頭を揺らして髪を振りかざす陽昇の姿はこの上なくむき出しと言える。

 生みの親ですら知らない顔だろう。あくまで月落自身は無言のまま、廊下の連中が教室の前を通り過ぎるかどうかくらいのタイミングで粗雑に扉を開き――――陽昇の身体が跳ね上がった。

 

「…………」

 陽昇はもう暴れることをやめていた。

 諦めと投げやりの気だるげな空気を纏う陽昇の肌にはじっとりと大粒の汗が浮かんでいた。

 ここで気を使ってはいけない。あくまでただ忘れ物を取りに来た男のように、大雑把な足音で。教室の異様に気が付き一度立ち止まり。現代っ子らしく、非日常に遭遇したら携帯を取り出して――――

 

 

 パシャッ――――まるで水面を蛙の腹が叩いたかのように教室全体を覆っていた魔法が解けた。

 

 

 

 

 砕いたコンペイトウを散りばめた空に綿あめが浮いている。

 梅雨の影すらも消え去った気持ちのいい夏の夜だった。

 寂れた雑貨店で10円で売っていた大きめの飴玉を陽昇が口の中に放り込むのを皮切りに話し出した。

 

「全く見たことのない世界だった。ゲームでも映画でも小説でも、これには敵わない」

 

「…………そうか」

 生返事をしながら陽昇には見えない高さで先程の写真を見る。暴力性と静謐が同居した奇跡の一枚。

 絶望の中で途切れかけていた意識はこの写真に気が付いていたのだろうか。それとも知っていながらそれを許可しているのだろうか。

 あんなことをしておきながら平然と横を歩いていることも含めて、あの時とは同じ人物だとは思えない。

 

「信じられないくらい濡れた」

 

「え? はぁ」

 今日の小テスト一問間違えた、みたいなテンションで言われて一瞬聞き流してしまいそうになった。

 やはり同一人物なのだ。肉体的精神的に虐げられて悦ぶ陽昇と開けっぴろげでおしゃべりな陽昇は同じ魂の元にある。

 

「月落は?」

 

「…………。楽しかった」

 卑怯だと思った。最初に直球で、しかも女子の口からそこまで言っているのに自分だけ誤魔化すなんてことは出来ないからだ。

 そして楽しかった事は本当なのだ。石ころを蹴飛ばすと昨日と同じ自販機の下に入っていき、陽昇の目は嬉しげに真っ青だった。首元の絆創膏の下だけが赤かった。

 

「他の感想は?」

 

「ん……少なくとも、サディストの欲望を受け止める器っていうのは全く間違った解釈だった」

 

「結局あれこれ動いていたのは月落の方だからね」

 

「でも最初から縛られていちゃつまらない。抵抗するのを縛って暴れるのを見て、」

 

「ほら」

 

「えっ?」

 

「だんだん出てきたじゃないか。それが君の性的嗜好なんだ」

 にんまりと笑う下弦の月を見ながら思い出す。陽昇が要求したのは『縛ってくれ』それだけだった。

 後の目隠しも猿ぐつわも、このか弱い少女をあえて出血させたのも、全て月落自身が勝手に思いついたことだ。

 それは一言で言うのならば『夢中』、あるいは『没頭』だった。

 

「上手く行かないことに価値、か……ふふふ……手探りだな。はははっ」

 

「月落が笑っている顔、可愛いと思うよ」

 

「うるせえ。ははっ」

 こんなにもわくわくしているのは、まだサンタクロースの存在を信じていたクリスマス前の夜以来だった。

 明日も明後日も、退屈なんて感じない非日常を陽昇と手探りで探していけるのだと思うと心の躍動は止まらなかった。

 

 

 

 

**************************************************

 

 

 

 楽しんではいるが、月落の方はこれで性的な快感を得ているかと問われれば微妙なラインだった。

 だが陽昇ははっきりとああいった状況に身をおくことをに性的な快感を感じていると言っていた。

 ならば――――と考えた行為はここを皮切りにどんどん加速していった気がする。

 

「自称進学校特有の夏休みにも毎日ある補習授業……でも本当に真面目に勉強している奴は予備校に行くから参加者は教師のやる気と反比例するように少ない……」

 全教室にエアコンがあるとは言え、流石にトイレにまではない。

 異様なまでの湿気とアンモニア臭は小窓からは全く漏れてくれず、蝉の声が入り込んでくるだけだった。

 

「…………」

 

「少ない。だからいい」

 

「……。はい。女子の方より個室狭いんだね……」

 個室トイレから出てきた陽昇が手渡してきた物を陽昇の前でわざと広げると、個室で熱気に蒸されたという理由以上に陽昇は顔を赤らめた。

 

「意外と普通なんだな」

 

「今日誰かに見せると思ってなかったし……」

 手渡してきたのは陽昇が今の今まで穿いていたショーツだ。

 まだ暖かいショーツのクロッチの部分に触れると陽昇は珍しく機敏に動いて取り上げようとしてきたが腕を上げると届かなくなった。

 

「預かっておく」

 

「見つかったらど」

 

「さぁ。その時考えればいい。そんなに心配するんならスカートの裾折らなければいいのにさ」

 

「…………」

 もっと言えば拒否したって別にいいのに陽昇は受け入れている。喜んでいる。

 その証拠に顔は引きつりながらも笑っていた。

 

「まだ足りない。授業中なんて動きないからな……」

 

「もっと丈を短くしろってこと?」

 

「違う。ベストを脱げ」

 一応校則では夏服でも女子は半袖ブラウスの上からベストを着用しなければならないことになっている。

 だが暑いことは教師も百も承知なのでベストを着ず、ブラウスをスカートから出していても誰も叱らない。

 ベストを着ている生徒と着ていない生徒は半々くらいだ。

 

「……なんで……?」

 紺色のベストを脱ぐとショーツと同じく青いブラが僅かに透けて見えていた。

 脱ぐ予定がなかったからわざわざ見せブラを選ばなかったしキャミソールを着なかったのだろう。

 

「腕広げて。そうそう」

 陽昇の背中から手を突っ込み、汗で湿った背中に触れながらブラのホックを外す。

 そのまま肩紐を袖から出して腕からも外して引っ張り上げると首元から外れたブラが出てきた。

 

「よ、よく知っているね。そんなブラの外し方……」

 前かがみになって胸元を隠す陽昇を見て口角が上がる。

 ブラが透けるくらいには薄い安物の夏服ブラウスでは、乳首が透けて見えることを知っているのだろう。

 そうでなくとも、形がはっきりと浮かび上がってしまうし、この場合は幸なのか不幸なのか、少なくとも陽昇の胸は小さいとは言えないサイズだった。

 

「形を考えれば分かる。さて、行くか。俺が先に出る」

 

 

 

 学年一位の月落は言うまでもなく、英語圏生まれでバイリンガルの陽昇も英語の補習など出る必要などない。

 そもそもの話、一年生の英語担当の教師は『よく教員採用試験通ったな』と言いたくなるほど授業がつまらなく、席の3分の1も埋まっていない。

 物理の教師が英語も兼任していること自体おかしい。

 だからこそこの授業を一緒に受けようと決めたのだ。

 

『もっと開け。それじゃ見えない』

 

「……! ……」

 

『そのままでいろ』

 

「…………」

 不自然なほど前かがみの陽昇が少々やりすぎなほどに脚を開いたまま椅子に座っている。

 単語テストの最中だから他の生徒には見られないにしても、教室がすかすかだから歩き回っている教師には見えてしまうはずだ。

 今、冷房の効いた教室なのに汗だくの陽昇がどんな気分でいるのかを考えると笑みが止まらなかった。

 陽昇の高い鼻を汗が伝ってテスト用紙の上に落ちていく。そして高揚。

 

『見つかったらどうなるんだろう?』

 陽昇から来たメールは今の状況を否定するような物ではなかった。

 さて、どうなるのだろう。英語教師の角岡は見るからに脂ぎった四十路のエロ親父と言った風貌をしている。

 女子への視線が舐め回すようだ、呼び出しをくらうのは女子のほうが多い――――なんてことは友人のほとんどいない月落でも知っている。

 自分で美人だと言い切るだけはあって、陽昇は確かに綺麗だ。人懐っこい性格も相まって同級生の夜のおかずになっている数はきっと3桁はあるだろう。

 そんな陽昇が下着を全部外して授業中に露出狂紛いのことをしているとあの角岡にバレてみろ。まともに済むはずがない。

 そうなったら全部自分のせいだ。なんとしても庇ってやらねば――――

 

「何をしている!!」

 

 角岡に腕を掴まれた陽昇の手にはまだ画面が点灯しているスマホが握られている。

 陽昇の顔は白いを通り越して真っ青になっていた。

 

 

***********************************************

 

 

 奇跡としか言いようが無かった。

 その時が小テストの最中であったこと。

 『もっと開け。それじゃ見えない』

 『そのままでいろ』

 『見つかったらどうなるんだろう?』

 というメールのやり取り。陽昇が帰国子女であり、英語の授業であったこと。

 

 そう、カンニングの為のやり取りだと勘違いされたのだ。

 ただの小テストだったため厳重注意で済み、二人で頭を下げた後に下着を返すために便所に戻った。

 

 

「見て」

 陽昇がスカートを摘んで太腿の高さまで持ち上げた。

 そこには透明な液体がいくつもの線となって伝っていた。

 何事も無く終わった安堵の溜息の代わりに出てきているかのようだ。 

 

「人生で一番濡れた。神様に愛されているね」

 

「愛されていたら見つからないよ」

 

「愛されているから見つかったんだよ。君を選んでよかった」

 

「……」

 愛されていたらこんなに退屈なもんか、と言い返そうとしたが今は全く退屈じゃない。

 適当に生きてきた先にこんな出会いがあるなんて。駆け抜けて一番になり、誰もが羨む栄光を手に入れられる才に満ち溢れた自分。最初から一番であることのどこに楽しみがある?

 遠回りすることで手に入れる物もある。得難きは満ち満ちた心――――栄光はその為の道具でしかない。

 

「本当にもう終わったかと思った。今まであそこまで絶望に叩き込まれたことってないよ」

 

「そうか」

 濡れた太腿に触れると柔らかく指が沈み込んだ。異常続きで忘れていたが、女子の身体にこうして触れるのは初めての経験だ。

 これも続きだと思っているのか、陽昇も拒否していないし、嫌がってもいないが、今自分がとんでもないことをしていることに気が付いて指を離すとかなりの粘度で糸を引いて驚いた。

 

「恥ずかしい」

 

「顔真っ赤なのに目が青いって面白いな」

 恥ずかしいと言いながらもスカートを降ろさない。

 きっとこれもスパイスになってしまうのだろう。思った以上に陽昇の欲望は深く底が見えない。

 

「下着返して。そこで穿いてくる」

 

「……は?」

 

「下着! このまま帰るの?」

 

「ああ、下着ね。これね」

 夏でも学ランを着ている変人の月落は懐にしまっていた下着を出した。

 こんなものが見つかったら一発で変態の烙印を押される。先程のメールのやり取りにしろ、実際のところ危ない橋を渡る時には陽昇だけにリスクを背負わせないようにしている。

 

「早く」

 つい忘れてしまったのか、透ける胸元も隠さずに手を伸ばしてくる。

 まだ男子トイレにいるという時点で終わっていないというのに。

 やはり陽昇の見抜いた通り、月落には陽昇の欲望を叶える才能的な何かがあったのだろう。

 じんじんじくじくと蝉の声が耳に届く中で自然と口を開いていた。

 

「ここで穿け」

 

「こ……ここって?」

 

「俺の目の前」

 

「なんで?」

 

「理由なら俺のほうがずっとほしい」

 そう、まともな理由理屈倫理で帰結できるような行為を自分たちはしていない。

 ある種、内から湧き上がる欲求を感覚だけで吐き出さなければ意味のない行為なのだ。

 そして今はこうするべきだと感じている。見物人の蝉が嘲笑い太陽の熱が換気口から手を伸ばしていた。

 

「分かった……」

 摘まんでいたスカートを離した陽昇は個室のトイレットペーパーをからからと手に巻き取った。

 膝上まで隠れたスカートの中に手を伸ばしていく。月落の目の前で。恐らくはまだ誰も触れたことのない、自分だけが知る秘部の位置へ。

 口にする前に月落の意図を察したかのように、べっとりと分泌液がついたトイレットペーパーを見せてくる。拭き取ったばかりの愛液には夏の蒸し暑さ以上にまだそこに熱気が籠もっている気がした。

 

 真夏の男子トイレという悪劣な空間に得も言われぬ恍惚感が二人の間の空気にはあった。

 人によってはまだまだお子ちゃまだね、なんて感想を抱くような稚拙な性的倒錯行為なのかもしれないが、自分たちは本気だった。

 こんなことをしていながらも未だに童貞の月落だが、これだけは言い切れる。

 ただ見目麗しい女の子といちゃつき腐るよりもずっと素晴らしい充足なのだと。

 

 当然、二人揃って外に出ることは出来ない。

 一人なら異性のトイレに入っても落とし物が転がっていったなどと言い訳ができても、二人同時に出ては不純なことをしていたと丸わかりだからだ。『帰ってオナニーする』と言い放ち陽昇は帰っていった。

 うだるような熱気の中、個室トイレで月落は陽昇が残した芳香を感じながら時間が経つのを待ってからそこを後にした。

 

 雲ひとつ無い夜、部屋で一人扇風機の風にあたりながら煙草を吸っていると陽昇からメールが来た。

 教師に下着を穿いていないことがばれてそのことを脅迫されてされるがままに、という内容だった。

 そんなことを考えながら自慰をしているのかと考えると少しもやもやしたが、その30分後に月落にむりやり犯されることを想像してもう一度したとメールが来た。

 当然、男である月落は嬉しくなりはしたが、それを実際にしたらそれまでの関係だというのもどことなく分かっていた。

 

 

*********************************************************

 

 

 

 

 もう何回目になるだろう。もちろん毎日と言うわけではないが、あの告白から何度も何度も過激なことを繰り返している。

 何の意味があるかなんて考えない。刹那的に、一時の感情の狂乱に身を任せていた。

 

「痛かったか?」

 

「とても」

 縄跳びのような代用品ではなく、月落の家にあった10mで千円もしないようなガサついた縄を解いていく。

 陽昇は肉体的精神的に不自由を課され、それを誰かに知られている状況を好む。自ずとベーシックであろう緊縛をそれなりの回数こなすことになった。

 何度もしていくうちに月落も慣れてきていた。それはつまるとこといつしか高揚もなくなり最終的にはマンネリ化することを意味する。そうなれば続ける理由もない。

 考えなければならないのだ。毎回同じにならないように。違うことを考えるという、ただそれだけがかなりの苦痛なのだ。しかし、その点を見抜かれて陽昇は月落を選んだのだろう。

 月落は考えるということに苦痛どころか喜びを感じていた。

 

「陽昇、前から思ってたけど……いい匂いするな」

 豊穣な大地で育った麦のような髪をかき上げると、相当にキツく縛ったために首に蛇がのたうったかのような痕がある。

 

「鞄の中に入っている。フレグランスボディミストの香りだよ。いい匂いがする子は大抵そういうのを使っている」

 

「ふーん……」

 拘束を全て解いたからもう抵抗も出来る。自由は陽昇の手の中にある。

 つまり、嫌ならば拒絶できる権利を委ねた上で月落は髪を手に取って鼻へ持っていった。

 

「月落はにおいフェチ?」

 

「考えたこともない。そうなのかも」

 

「なら、いくらでもいいよ」

 

「分かった」

 軽い考えで言ったつもりなのだろう。

 においのケアだってちゃんとしているし、そのくらいならと。

 次の瞬間、月落は肉食獣のように陽昇に掴みかかっていた。

 

「! ちょ、っと……」

 あの青い目ン玉おっ広げて驚いてるんだろうな――――と思うとますます止まらなかった。

 肩を押さえて首元に鼻を押し付ける。髪の先から振りまかれていたのは爽やかな柑橘系の香りだったが、肌に近いほうがより陽昇そのものの匂いが濃厚に香る気がした。

 

「あっ……!」

 血管が透けて見えるほどに白い肌に歯を立てると、今まで聞いたことの無いような声をあげた。

 まるで二次曲線のように自分達の行為は急激に過激になっていく。とうとう直接的な刺激にまで手を出してしまった。

 歯を立てたまま吸い付くと、誰のものとも分からぬ机が蹴飛ばされ大きな音を立てた。

 どこかに掴まっていたいのか、月落の制服を掴んでくるが愛咬を繰り返す度に力が強まり、最終的には皺が残るほどに強く掴まれていた。

 

「いくらでもいいんだろ」

 

「…………」

 もっとやるんだぞ、と誰が聞いても分かる言葉に陽昇は涙目のまま赤い痕の残った首を押さえて頷いた。

 直接的な刺激の脳への灼け付きは、鋭利な感性をした敏感な10代にとって思考能力を失わせるには十分だった。

 ――――もっとも、端からまともな思考回路はしていたらこんな関係にはなっていないのだが。

 陽昇の腕を掴み、月落は何かを考える前に陽昇の手を口元に持っていっていた。

 

「痛っ、あっ!! ……うぁ……」

 僅かに血管の浮かぶ手首の腱に沿って歯を立てる。白い肌が唾液に濡れ、歯の痕がはっきり残るが陽昇はこちらを見ながら嬌声をあげるだけで止めようとはしない。

 知識など無く、感性で動いている月落だがその痛みの先に快感があることはもう分かっていた。

 そのまま陽昇の細い腕を持ち上げると、腋をじっと見ている月落の視線で何をするのか分かったようだが、それでもやめろとは言わなかった。

 

「あっ、うあっ、ああっ」

 顔を押し付けられるようにとしゃがんで、ブラウス越しの腋に鼻をつけて遠慮なく息を吸って思い切り吐く。たかがそれだけの刺激が誘爆するように弾けている。

 自分に求められていることを突き詰めると羞恥心の刺激がその中の一つだ。これはきっとこの上ない刺激となっているだろう。慣れればいつかは無くなっちまう物だとしても過激に、過激に。

 

(あ、やばい)

 汗濡れの腋に鼻を当ててにおいを嗅いでいるだけなのに月落は勃起していた。

 難儀な性格に圧迫されて性欲の薄い方だと思っていたのに。陽昇の言う通り、においフェチなのかもしれない。あるいは嗅覚で異性に敏感に反応しているだけなのか。

 未曾有の快感に陥った時に人は何かにしがみ付く本能でもあるのだろう。しかし腕を押さえられていてしがみつくことが出来ない今、陽昇は脚を月落の脚に絡めていた。

 もしかしなくても月落がはっきりと興奮していることが確かな感触として陽昇に伝わってしまったかもしれない。

 真夏の熱に煮立てられて出来上がったほんのり酸っぱいにおいと心地よい息苦しさで胸いっぱいになってようやく月落は湿った腋から鼻を離した。

 

「あ……はっ……ははっ……。直だね、今日は」

 

「いや、今のは……。したかっただけ」

 

「したかっただけ……。他には?」

 糸の切れた操り人形のように脱力して椅子に身体を投げ出しているのに、まだ構わないという。陽昇の青い目は月落の下半身を見ていた。

 気が付いていることは間違いない――――が薄膜の張ったようなつまらない日々を繰り返すだけでは味わえない法悦に陶酔しきっているのだ。

 それなら甘えさせてもらおう。バレてしまっているのなら見栄を張るのも今更すぎる。

 

「お腹見てみたい。俺は女子の身体のどこが好きかと言うと、お腹が好きなんだ」

 

「お……お腹? 別に……いいけど」

 

「手を使うな」

 

「……」

 ベストを脱がせた陽昇の腕を後ろに回して、胸の高さまで上げたブラウスの端を口に咥えさせる。

 

「意外と上まで穿くもんなんだな……下げて」

 

「ん……」

 結構な高さまで上げてあったスカートをあえて本人に下げるように言うと、ホックを外してファスナーを下げてようやくスカートが下がった。

 どうやらスカートとは腰骨より上で止めるものらしい。

 これで可愛らしい形をしたへそや、ブラに包まれた下乳も見えるようになった。

 多少の肉のついた腰回りも、その日の下着まで全部わかる。だからこそお腹が好きなのだ。

 

「結構食うのに……どこに行くんだろ」

 大きな手で腹部に触れると僅かに汗ばんでいる肌に手が沈み肉を超えてあっという間に腹筋に触れた。

 今までもっと恥ずかしいことをしているはずなのに、何故か陽昇の顔は今までで一番恥ずかしそうだった。

 ちらりと見えるショーツも、隠せないブラも、油断せずに選んできた物だと言うことが分かる。可愛らしい女心という奴なのだろう。

 

「産毛まで金色なんだな」

 

「…………」

 歯では無く、唇でブラウスを噛む陽昇が鼻の頭まで真っ赤にしてこちらを見てくる。

 やっぱりと言うか、そこには期待が混じっているような気がした。

 へその下に僅かに生えた産毛を指の腹でなぞってからスカートに指をかけると陽昇が口を開いた。

 

「待って!」

 

「なんで?」

 陽昇の口から解き放たれて手の上にかかったブラウスをどけながら問う。

 客観的に見れば自分のほうがおかしいのだろうが。

 

「わ……私、けっこう毛深いからそれ以上下げると多分、いろいろ……」

 

「じゃあ。全部剃れ」

 陽昇の頭に手を乗せてそんなことを平然と言い放つ月落は今、どんな顔をしているのか自分でも分からなかった。

 だが陽昇の反応を見るに、きっと陽昇が好むような表情をしているのだろう。

 

「自分が何を言っているか……分かっているの?」

 

「嫌なら別にやらなくていい」

 きっぱりと言い放ちながらも陽昇は絶対に断らないことを知っていた。

 理屈が通ることなんて、意味があることなんて最初からしていないから。

 

「君は本当に……分かっている……」

 二人の合意によってのみ続けられる無意味な行為に意味を求める不可解な世界を陽昇が終わらせるはずがなかった。

 ――――なんとなく、終わりにするのは変なところで真面目な自分の方からだろう、と月落は思っていた。

 

 

 

 翌日には陽昇は命令を実行していた。

 休み時間に自分の前で腰骨よりも下にスカートとショーツを下げさせたのだ。

 太ももの付け根が見える程まで下げても陰毛を剃った跡しかなく、確認には十分だった。

 慣れていないからか、ところどころ剃刀負けして湿疹が浮かび、小さく傷が出来ているのが初々しくも倒錯的だった。

 そこから先の行為に進まないのにこんなことをして何の意味があるなんて、考える意味もない。

 

「もったいなーい。なんで?」

 

「んー、気分」

 

「えー」

 

 クラスの女子と話す陽昇の髪は、元々かなりの長さだったのに首までばっさりと切られていた。

 それも自分が命じたものだ。首に吸い付かれた痕が隠れるか隠れないかのギリギリの位置だ。

 見られてしまえばそれが何なのか気付く人間はすぐに気付くだろう。

 

「でもそっちも似合っているよ」

 

 夏休みが終わって気分転換に、なんて言い訳している陽昇がなんて滑稽なことか。

 机の上で携帯を弄るフリをしながら聞き耳を立てる月落はほくそ笑んでいた。

 お前らは知らないだろう。俺の命令で髪を切ったということを。普通の顔をしていながら、下の毛は男に命令されて完全に剃毛しているということを。

 ここの他にどこに行けばこれだけの充足が得られるというのだろう。集団の中で和気あいあい、ヘラヘラと笑うくらいなら仲間はずれにされたほうがマシ――――相も変わらず月落のそんな部分は直っていなかったがそれでも月落は人生を十分に楽しんでいた。

 

 

 

******************************************

 

 

 

 そうか、もう10月も終わるのか。

 一年中学ランを着ている変わり者の月落は衣替えの時期に入って初めて気が付いた。

 

「月落はなんでも出来るね。苦手なものとかないの?」

 

「ない。……いや、ある」

 

「え? 何?」

 

「映画とか見て感動した親父が……泣きながらお前も見ろと言ってくる。いい年した父親の熱い涙は……本当に苦手だ」

 

「うわぁ……キツい、それ」

 そんな普通の話をしているのに、例えば陽昇の首にはいつだかに針を刺した痕がまだ残っている。目立つ程ではないが注視すれば分かる。だがその理由を知るものは自分達以外にはいない。

 この制服の下だって、あそこはああなって、ここはこうなって――――普通の目から見れば、自分たちが性交をしていないのがおかしい程だった。

 

「月落は本読まないの?」

 

「そんなには」

 

「貸してあげよっか。今度持ってくるよ」

 

「……じゃあ」

 

「うん」

 こう話していると見た目が自分たち黄色人種と違う以外は全てが普通の女の子に見える。

 だからこそ、つい聞いてしまう。

 

「俺にいつもあんなことされて、どんな気持ちなの?」

 

「……その時は頭の中が色んな感情でいっぱいになるけど」

 

「けど?」

 

「家に帰ってひとりで思い出しながらオナニーすると気持ちいい。……次は何をされるんだろうって……」

 

(正気か?)

 次の時間のテストの内容はなんだったっけ、みたいな軽い空気でそんな話を出来るのだから、やはり陽昇はどこか頭が灼け付いてジャンキーになってしまっているのだろう。

 

「だから月落……次を……」

 

「次を、か。じゃあ次は」

 

「?」

 

「そんなに好きなら、今すぐにでもしてもらおうか」

 

 

 

 刺激を求めてもっと過激に、直接的になっていく。鍋で火にかけた冷水で煮られる蛙のように。

 最早まともから少し逸脱した程度では月落も陽昇も何も感じなくなってしまっていた。

 

 

 クラスにいると時たま聞こえるのが名前を出してないにしても分かりやすい、月落を揶揄する声だった。

 下の存在ではないから馬鹿には出来ない。かと言って無視するにはあまりにも大きすぎ、月落はこっぴどく女性をフリ過ぎた。

 3,4回も同じことを繰り返したから月落の一年生の間での評判は最悪だった。女子の間で悪評は広まり、女子が交際している男子へ、更にその友人へ。

 勉強はできても、運動はできても、人と相容れない哀れな人格破綻者、社会不適合者、天邪鬼。

 

「そんでねっ、そんでねっ、この前話したデッキ構成を試したくて俺5000円も使って目当てのカードを引き入れて」

 

「ああ」

 残るのは、女子とまるで接点のないカースト最下位でかつ自分に恐れを抱かない、いわゆる変人のみ。とても楽だった。

 一番上とか下とか、そんなクラスカーストから離れた存在。月落はそれで充分だった。

 

「でさぁ、月落くんにこの前見せたカードと組み合わせるとこれが勝てる勝てる、大爆釣!」

 

「うん」

 トイレで用も足さずに必死に自分に話しかけている園田は自分の趣味以外に一切興味がない典型的なナードと言った人間だ。

 もちろん月落はカードゲームのことなど一切わからないし、自分に話すくらいなら壁に話したほうがマシだと園田にも伝えている。

 それでもいいからとずっとべらべらと話しているのだ。確かにこいつに友達がいないわけだ、とは思うがとても気が楽だった。

 トイレの個室ドアに寄りかかって園田の話を聞いてもう30分は経った気がする。口八丁の政治家でも興味を示さない相手にここまで話すのは難しいだろう。

 用を足しに腹を抱えて来る人間も、個室のドアに寄りかかる月落を見て逃げていった。園田の話し声に混じって僅かな水音が響いているのみである。

 

「そんでねっ、なんでそんなことが起こるかって言うとこれが確率の問題なんだけど、あっ?」

 

(まずった)

 園田の疑問の声も当然だった。

 月落が寄りかかっているドアが内側から開こうとしたのだ。

 

「あれ? そこのトイレって……元から開いているタイプだっけ? なんで内側から開こうとしたの?」

 

「さて、どうだったっけ」

 

「月落くんが寄りかかっているのにこっちに開くなんてヘンじゃない?」

 

「なら中を見てみるか?」

 軽い提案、軽い口調で放ったその言葉は悪魔的な発想だった。

 少なくとも――――鍵もかけずに狭い個室トイレで脚をドアにつっぱらせながら自慰に耽る陽昇にとっては。

 中の陽昇は全部聞いているはず。月落が開けようと提案するとまたドアが少し開きかけた。

 暗く狭い個室の中で向こう側の世界への集中を切らさずに自慰をするのはどんな気分なのだろう。しかも鍵もかけずに時々開きかける扉のすぐ後ろで。

 じゃあ見てみよっか、そう返されたらそれはその時に考えればいいことだ。いっそ開いてもいいかもしれない。めくるめく本物の快感は耽溺の恍惚極まる場所にこそあるのだと、感性のみが知っている。

 

「え、いや別に。それよりさ、さっきのデッキ構成の話なんだけど」

 

「…………」

 園田も園田で他人に全く興味がない社会不適合者なのはこの場合幸運なのかどうか。

 それは分からないが月落の口角は上がっていた。

 

「だからさ、オフェンスを増やしたいじゃん? でもデッキの枚数は決まっているからそしたら守備が薄くなって」

 

「なぁ、それよりもさ」

 

「え?」

 演説を止められた園田はやや不満げな顔だったが、話を引き伸ばすためにも珍しく月落から話を振った。

 

「俺らのクラスは28人。6組が31人」

 

「うん」

 

「1組は42人。なんかおかしくないか? なんでこんなにバランスが悪い? よくこれで体育祭や球技大会が平然と開催できるな」

 

「え……そうかな?」

 

(なんだこの反応は)

 どう考えたっておかしいだろう。誰かに言っても変わらないことだから言わなかっただけで。

 

「小学校も中学校もそんな感じだったけど」

 

「いや、おかしいだろ。それに物理教えてる角岡が英語を教えているのもおかしいぞ。この学校は少しおかしい。……っ?」

 今自分が何をしているのかも忘れて口を早めていたが、目の前の園田を見て言葉を止めてしまった。 

 あんなにおしゃべりでお調子者の園田が口を半開きにして止まっている。目は虚ろでどこを見ているとも分からない。

 一瞬ぞっとしながら目を擦るとまるで夢だったかのように園田は普通に話していた。

 

「それも普通だよ。小学校の頃だって全教科を担任が教えていただろ」

 

「あ、ああ……そうか。そうだな……」

 

「普通だよ、普通」

 普通、普通。何も変なことなんかない。

 まるで理不尽な現実に対して自分の心に言い聞かせる時のように繰り返す園田の言葉を聞き続けた月落は、予鈴が鳴るのをどこか遠くに感じながらふらついてトイレを出た。

 

「……。あっ」

 後ろで個室のドアが金切り声のような音を立てて開かなければ気が付かなかった。

 ついつい陽昇の存在を忘れて立ち去ってしまうところだった。

 

「……陽昇」

 もうすぐ秋も終わるというのにこのむわりとした熱気。

 何を思いながら月落から聞く必要もない命令を遂行していたのか。

 うつむき加減だから表情は分からないが、陽昇の利き手の指は暗がりの中でもはっきり分かるほどに濡れていた。

 ショーツがぶら下がる脚が扉の方にピンと伸ばされているのは、脚を伸ばしていた方が達しやすいと陽昇から聞いたからだ。それならば、扉を押さえておくから鍵をかけずにそこに脚をつっぱらせておけ、と。

 胸がはだけているのはそちらも刺激していたからなのか。

 陽昇がこちらに見せてきた右手の指を広げると、べっとりと付いた重たい液体が死にかけの蜘蛛の糸のように鈍く広がった。

 月落は何も言わずにトイレの床に跪いてその手を見ていた。外の光も届かない暗い個室トイレ、まるで行き止まりのような場所にいる陽昇だけがいつもと何一つ変わっていない。

 誰もが何かを忘れて、異常に気が付きかけたことすらもやがて忘れていく極まった異常。その中で、ただ快楽を貪る陽昇だけがいつもと変わらない異常・非日常であり心地よかった。

 

「あっ……月落、手が……」

 差し出してきた手を大きな手で包み込むと独特の粘ついた水音が鳴った。

 膝を上げながら腕を引くと一切の抵抗をせずに陽昇は月落の肩に顔を乗せてくる。

 まだ少しだけ荒い呼吸に耳を傾けるように、頬に頬を寄せて目を閉じるといつもと同じ柑橘系の香りが鼻を撫でた。

 

「何を考えてしてた?」

 薄く目を開いて視線を下にやると、はだけた胸元のずれたブラの奥まで見えそうになった。

 多分、もう隠そうともしないのだろうな、となんとなく思ったが一応手を離して陽昇から離れる。

 

「……もっかいハグして」

 

「ん」

 飴と鞭が基本なのは知っている。だが陽昇にとっての飴はその先にある快感だったはず。

 これは飴になっているのだろうか、と考えていると乾いてしまった右手を月落の背に回して陽昇は呟いた。

 

「月落にこうされることを……考えて……かもね」

 誘惑紛いの言葉が告げるのは、不可侵であるはずの境目が薄れてしまっていること。

 しかしいつだって欲しい刺激も快感もその縁に立つことで得られる。

 自分たちはどこに行こうとしているのだろう。自分はいつまで理性的でいられるのだろうか。

 だが止まらない変質の心地よさには抗えない。

 今日この日に至るまで月落は肉体的な快感を一切受けてはいない。それなのに、人生の幸福がここにあった。人間は精神と脳に支配された動物だった。

 

 

 

****************************************

 

 

 

 

 その日に何かイベントでもあったのだろう。

 詳しくは知らないがそうでなければこの混雑は説明できなかった。

 

「こっ、こんなわざとらしい混雑……」

 電車に乗ろうにも、どの車両も満員で月落の入る隙間は見つからない。

 唯一やや入れそうな車両を見つけるが。

 

「つめてつめて」

 

「もう入れないよ」

 

「入れるって」

 

「うすらデカイんだから次の乗れって!」

 

「お客様、申し訳ありませんが次の電車で」

 

「……分かったよ」

 駅員に引き止められて無理やり乗り込むのをやめる。

 どうせこれからニ、三本逃したところで遅刻にはならないし、なんなら今まで真面目に一日も休まずに通ってきたのだからサボったっていい。

 自販機から600mlの水を買ってベンチに乱暴に腰を降ろした。

 

(せっかくだし読んでやるか)

 そんなにいらないと言うのに、陽昇はおすすめの本を5冊も貸してくれた。

 どれから読もうか、と思ったがやっぱり最初に読むべきなのはきっかけとなったこの『銀河鉄道の夜』だろう。

 そう言えば自分は16年間も日本で生きてきて一度も日本文学など読んだこと無い。読んだら案外ハマるかもしれない。そう考えて月落はイヤホンを耳に入れて陽昇の匂いがする文庫本を開いた。

 

 

 

《ハロー 今君に素張らしい世界が見えますか》

《北風は吹雪くのを止め カシオピア輝いて》

《恋人達は寄り添って 静かに歌うのでした》

 

 

「…………」

 数十回はリピートされたGoing Steadyの『銀河鉄道の夜』を流していたイヤホンを外す。

 素晴らしい読後感だ、どれもこれも。名作と言われるだけはある。イヤホンをずっと入れていて少しおかしくなった耳を揉んでから最後の一冊に手を伸ばそうとした時。

 

 ――――おいあいつ朝からいるぞ

 

 ――――サボるにしても堂々としすぎだな

 

「ん? あらっ」

 月落は視力も聴力も非常にいい。その耳に微かに入ってきた駅員の会話は明らかに自分のことだった。

 時計を見ると既に放課後だったのだ。気付かずに読み続け、読みながらトイレに行き、新たに飲み物まで買っていたらしい。

 勉強時間をそんなに確保しているわけでも無いのに月落の成績がいい理由がそこにあった。集中力が普通の人間と桁違いなのだ。

 一度のめり込むと気付けば時間がスキップしている。そんなことは月落の日常だった。

 

(ほんとにサボっちゃった)

 じゃあもう今日は学校はいいや。

 そう考えて次の一冊を手に取る。アナウンスを聞くと次の電車はもうすぐに来るようだ。

 と、言っても学校とは逆方向の電車なのだが。なんて考えていたら電車が来た。用事もないから乗る理由もない。

 ちらりと電車を見てから本に視線を戻した時、何か見慣れた物が目に入った気がした。あの太陽の香りがよくしそうな金色は。

 

「なにぃーっ」

 陽昇が乗っていたのだ。恐らくは学校帰りだろう。

 自分が学校を無断で欠席していたことを疑問に思っていたに違いない。だがそんなことは問題ではない。

 まだ電車が動いていたせいでよくは見えなかったが、なんだか数人の男に絡まれていた気がする。

 よりによってなんで自分がいない時に、と思ったが邪魔者の自分がいないからこそだろう。

 一も二もなく鞄を持って一番近くの車両に乗り込んだ。

 

「あいたっ」

 勢い余り過ぎて盛大にずっこけて向かいの扉に激突する。まばらに乗っている人は全員こちらを見ており、閉まった扉の向こうで駆け込み乗車はお辞めください、とアナウンスが流れていた。

 反省している暇はない。陽昇のいた車両に向けて月落は駆け出した。

 

(そこにいたか)

 ここまで来ればもう見間違えようもない。端の座席に座っている陽昇が4人の男に絡まれており他の乗客は気付いているのに無視している。

 電車男なんていないってことだ。そう思いながら拳を振り上げる。

 ゴッ――――月落の大振りの拳は掠るだけで上手く命中せずに手すりの鉄棒に当たり、あろうことか鉄棒のほうが曲がってしまった。

 

「いって、いてててっ……」

 みしみしと骨に響く鈍痛に流石の月落も苦痛に顔を歪める。

 肘を強打した時のような痺れが右手全体に広がっていた。

 

「うわわっ、わっ……」

 突然大男が殴りかかってきたという現実に、一番近くにいた男は見てて可哀想なほどに驚いている。

 

「怖がるなって……少し注意しようとしただけだよ。鞄持ってろ」

 

「あ、うん……」

 男に囲まれてナンパされていた割に平気そうな顔している陽昇に鞄を投げ渡す。

 ちらりと周りの乗客を見たが事なかれ主義の日本人は目を合わせようともしなかった。

 

「……陽昇に触んな。あっちにいけ」

 

「なんだよお前、いきなり!」

 

「いきなりって……ん? あれ? お前」

 

「え? あ、ああ!!」

 後ずさったその金髪の男には見覚えがあった。

 そう、いつだかに月落に蹴り飛ばされた男だった。

 よく見ると陽昇に絡んでいた連中全員があの日の夜に見た顔だ。

 

「今日の昼飯はなんだ?」

 男は防御する時間もなく、日常では聞かないような暴力的な音を体の内側から鳴らして吹き飛んでいった。

 数回バウンドした後は血混じりの吐瀉物を撒き散らしている。月落の蹴りで何かしらの臓器が傷付いてしまったのかもしれない。

 

「わっ、ひぃ!!」

 逃げようとする男を一人捕まえて上に放り投げ、ボォン――――と分かりやすい音を立てて蛍光灯が砕け散り男は血塗れで床に倒れた。

 

「野郎!!」

 

「待った」

 残った二人は果敢にも逃げようとしなかった。

 別にここで残った二人をくしゃくしゃにしてもいいのだが、月落はあえて待ったをかけた。

 先程から手がじんじんしている。手すりを殴った時に折れてしまったのかもしれない。

 

「あ?」

 

「二人死んだから残りの二人で運んでやれ」

 

「し……死んでねー……」

 

「あららら。寝てたほうが楽なのに」

 

「えっ?」

 起き上がった男の肋骨から嫌な音が響いていた。

 寝ぼけ半分のような呑気なセリフを吐いていた月落から放たれたのはフックとアッパーの中間の技であるジョイント。

 このワザの最大の特徴はほとんどモーションが無いことであり、男はその攻撃を避けることが出来ずに見事に足元に沈んだ。

 ――――そんな状況下でも月落の聴力は落ちていなかった。男たちへと向けていた視線を変えた先には何の変哲もないスマホを握るサラリーマンがいた。

 

「電車の中で暴れる大男がいた、拡散希望! ……じゃねーぞつまらねえぞお前」

 顔面蒼白のサラリーマンからスマホを取り上げるが、画面の電源が消えている。

 電源を付けると暗証番号を打ち込む画面に切り替わった。

 

「小賢しいっ」

 

「あーっ!!」

 サラリーマンが叫ぶのも無理はなかった。

 月落はまるで癇癪を起こした三歳児のようにスマホを口に入れて齧っていたのだ。

 見る見るうちに液晶は砕け基盤がむき出しになり、それすらも噛み砕かれていく。

 ガンッ――――響いた音は月落の頭が何かしらの金属で殴られた音だった。

 

「いてぇなっ」

 頭から血を流しながら殴ってきた男の顔を蹴り飛ばすと、月落の出血の5倍位の量の血を吹きながら倒れた。

 今のはどう見ても鼻の骨が砕けていた。

 

「君っ、やめなさい!! やめなさい!!」

 

「え?」

 誰かにしがみつかれている。残った一人か。こいつも蹴り飛ばしてやる。だけど二人に組み付かれている気がするな。

 そう考えながら振り返るとそこにいたのは駅員だった。いつの間にか次の駅に着いており、数人の駅員に囲まれていた。

 

「駅員室に来てもらうからね、いいね!?」

 

「あ、ああ……あー。あの……あっちに荷物置いてきちゃったから、それ取ってからでもいいですか?」

 一人を除いて、客も駅員も男たちも月落の指差す方を見る。

 実のところその質問に答えてもらう必要なんて無かった。自分たちから目を離してもらうだけで良かったのだ。唯一陽昇だけが先程月落に渡された鞄を見て頭の上に『?』を浮かべていた。

 次の瞬間、月落は鞄ごと陽昇を抱えて電車から走り去っていた。

 

 

 

 

*************************************************

 

 陽昇の家はもう一駅先らしい。

 今更駅に戻るわけにもいかないし、せっかくなので月落はある程度まで送っていくことにした。

 

「悲鳴くらいあげろよ。助けがいのない女だな」

 

「慣れてるから」

 

「慣れてるだぁ?」

 

「制服着ているとよくナンパされるんだよね」

 

「あっそう」

 確かに制服を着ていると誰でもやや幼く見える。

 欧米人の風貌を持つ陽昇は日本の中では年齢がわかりにくいからますますそうなのだろう。

 

「何やってたの?」

 

「本読んでたら放課後になってた」

 

「寂しかったよ」

 

「あ……ああ」

 月落は困惑した。

 先程携帯を見た時に陽昇から何回か連絡が入っていた。だから学校に来ていない自分と連絡取りたがっていたことは知っている。

 不思議に思ったのは、自分と違って友人が沢山いるはずの陽昇がたかだか自分が無断で学校に来なかっただけでそんな事を言っているという点だった。

 

「…………面白かった?」

 

「うん」

 

「なら、それあげるよ。同じ奴何冊も持っているから」

 

「……そっか。ありがとう。……大切にする」

 多分この本はあの写真と同じく一生の宝になるな、と予感した。

 ただ本屋で買ったのではなく元々陽昇の物だったのを陽昇から貰ったということが重要なのだ。

 

「……。すごかったね、月落。仮面ライダーに出てきそう」

 

「そうか。昔から仮面ライダー……好きでな」

 

「悪役で」

 

「仮面ライダーなんか嫌いだ」

 

「……ははっ」

 陽昇が笑うとやや伸びた金髪が紺色のブレザーの上で揺れた。

 陽昇はよく笑うにしても、口を開けてまで笑う事は少ない。この薄い唇に八重歯が混じっていることを知っている人間は何人いるのだろう。

 青い瞳が街灯に照らされると瞳の中に幾つもの銀河が出てくることを何人の人間が知っているのだろう。自分はずいぶん沢山陽昇の事を知っている――――いや、教えられたのだ。

 

「……いつだってああしようこうしようと悩むのは俺ばかり。どっちが主人だかもわかりゃしないんだ」

 じんじんとする右手をさすると鋭い痛みが奔った。

 よく見ると青く膨れている。陽昇に見えないようにポケットの中に手を入れた。後で病院だ。

 

「お互いに尽くしていることに気がつかない? 上下関係なんて一切ない」

 

「そうだな」

 主導権を握っているのは月落のように思えても、どちらかがNoと言えばそれまでの関係なのだ。

 というよりも核心を突く知識の点だけで言えば確実に陽昇の方が上だ。

 

 そんなことよりも、と陽昇は口を開く。

 

「月落は。……女の子を好きになったことってないの?」

 

 一体いつからなのだろう。男にとって永遠の謎の一つが、女性の男性に対する意識が好意に変わる瞬間だ。

 見た目で最初から『無いな』と決めつけてほぼ永遠確実に無いだけの男と違って、女のそれは非常に微妙な意識の狭間にある。だからこそ面白いし、だからこそややこしいことになる。

 振り返ってみれば少なくとも、もうこの時点では確実に陽昇は『そう』だった。いつの間にか。

 何故この時になって言いだしたのか。それを考えるに陽昇はその鋭い勘でこの先に起こる何かを察していたから一歩踏みこんだのだろう。

 

 ただその時に気が付くことが出来なかったのが――――

 

 

 救いようのない間抜け野郎め。

 

 

「何故それを聞く?」

 

「教えたくないなら……」

 

「あるよ。何回もある」

 

「へぇ、意外」

 

「人を化け物みたいに言うな」

 

「でも誰とも付き合ったことないんでしょ。モテるのに、いやモテてたのに」

 

「好きでもない人間と一緒にいたって退屈なだけだ。……退屈。退屈なんだ」

 退屈であることに、感じることに、感性に、理由は付けられない。

 ゴキブリが気持ち悪いことを理屈で説明できない。蝶が美しいことを理由付けられない。

 その退屈に、感じてしまっていることにへらへら笑って媚び売ることが許せなかった。ただ月落はそう感じてしまっているのだ。

 モテるから、なんていう三流脚本家の書いたカス筋書きの様な理由でおべんちゃら好き放題やったら、自分がどこまでも最低野郎に成り下がる気がする。

 そんな完全食のような人生になったらいよいよ空っぽだ。退屈な人生を空虚にしない為のせめてもの矜持だった。

 

「どうやって好きになるの?」

 

「……。俺は結構……しょうもないことで好きになる。そして大体好きになる子は俺を好きにはならない。難しくて変な子の方が多いんだ。俺の性格が悪いのも分かっているけど――――」

 そう言いながら今までに好きになった子を思い返そうとして歩みを止めた。

 月明りに照らされてまるでスポットライトの下の独り舞台に立っているかのように。

 

(…………? 俺が好きになった子って誰だっけ)

 考えながら『そんなバカな』と思った。

 一週間前の晩飯でもあるまいし、何故その時に恋い焦がれた相手を忘れている?

 名前も、顔すらも思い出せないなんてことがあるか?

 今こうして好きになる子の特徴を述べていたと言うのに。

 

「月落、考えたことはある?」

 

「?」

 立ち止まって考えていた自分の前でこちらを振り返った陽昇の顔は暗い中でも分かる位に赤かった。気がする。

 気がする、と言ったのは瞬き三回ほどの時間で陽昇が俯いてしまったからだ。いつも言いたいことをすぐに口にするのに。

 

「なんでも好きなことが出来る身体が目の前にあるよ。私はきっと拒否しないよ」

 まるでプレゼントの包装を解くかのようにブレザーの赤いリボンを両手の指で摘まんで陽昇は月落の返答を待っていた。

 今更そんなことを言わなくたってもう散々に好き放題している。心にも身体にも、何よりも記憶に消えない証を残している。なのに今更―――ー

 そんな言葉を、アピールを聞いて月落は怒りを感じていた。そして、少しだけ……何故か悲しんでいた。

 

「俺はそういうことが嫌いだ」

 

「……だろうね。月落は退屈な中でも……せめて清廉に生きたいんだって」

 

「陽昇……」

 

「……」

 

「陽昇!!」

 

「!」

 大股で歩み寄り、右手がびりびりと痛むのも気にせずに月落には珍しい緊張感漂う大声を出しながら陽昇の肩を思い切り掴む。

 痛い、と陽昇の表情が言っていたがそれは月落も同じだった。中も外も。

 

「俺が何を好むかを察せたのなら……何を嫌うのかも分かるはずだ」

 

「う、あ」

 

「二度とそんなことを言うな、二度とだ」

 

「わ……分かった」

 そこまで言ってから気が付いた。

 月落は子どもの頃の癇癪を除いて怒ったことがない。怒ってまで欲しいものや変えたいことが無かったからだ。殴られたとしても嫌われたとしても、怒りを感じたことすら無い。

 この初めての怒りは、もちろん自分のプライドの為でもあるが、同時に他でもない陽昇の為でもあると気が付いたのだ。

 

「……。それと……他の誰にもそんなことを言うな」

 

「……はい」

 月落の怒りはただ痛みと恐怖を与えただけのはずなのに、陽昇は月落の腕ごと細い身体を歓喜の中で震えているかのように自らを抱きしめた。

 

(……何やってんだろ、俺)

 痛む右手を見ながら今の行動を思い返すが、不思議と後悔はしていなかった。

 

「月落のむき出しを受け取った人はきっと初めて」

 

「…………。送らないから。こっから先一人で帰れ」

 陽昇を突き離して踵を返した月落は、背中に今まで感じたことのない類の陽昇の視線を感じながら早足で歩いた。

 月落の右手は見事に骨折しており、指をちゃんと動かせるようになるまで一カ月もの時間を要した。

 

 

 

**************************************

 

 人は老いると徐々に現在の事を記憶できなくなり、昔の事ばかりを思い出すようになるという。

 どうしてそんな仕組みを神は設けたのだろう?

 一人で生きる事も出来ない生物ならばそこで死なせてやればよいのに。

 

 これが答えなのかはまさしく神のみぞ知るところではあるが――――

 

 どんな死に方をしたいか、問えば三者三様の答えが返って来るに違いない。

 しかし、若い時分にどれだけ金が有り余り異性に困らなかったとしても、死ぬ間際に一人で辛い思い出ばかりを抱えるのは誰だって辛いはず。

 

 そう。

 絶対に死ぬのならば。

 死ぬのならばせめて。

 幸せなことだけを思い出してかき集めて、幸福に包まれて安らかに逝きたいはずだ。誰だって。

 若く気力に満ち溢れ幸せだったあの頃の思い出だけを抱えて死に向かいたいのだ。

 

 人の幸福、犬の幸福、猿の幸福、鉄道の幸福、北風の幸福、オリオンの幸福…………――――宇宙の幸福。

 

 最後に、幸福に包まれて消滅したい。

 

***************************************

 

 

 結構派手な骨折であり、おまけに利き手の指が3本も砕けており、このままでは急な状況に月落が対応できないと言う事でしばらく『お休み』になった。

 それで陽昇との関係が途切れると言う事も別になく、月落は陽昇から借りた本を暇つぶしに何度も何度も読んでいた。特に読んだのはやはり『銀河鉄道の夜』だった。

 何故未完成の作品がこれほどまでに愛されているのだろう、とほんの少しの疑問を口にしたら、ありったけの知識と共に早口で宮沢賢治について語られた。

 

 退屈だったのは授業中だ。普段の自分の態度が悪いのは分かっているが誰も助けてはくれない。陽昇は運の悪い事に月落と一番遠い席だった。

 利き手が折れて動かせないままではノートをとるどころか教科書を捲る事も難儀し、隣の人間も助けてはくれなかった。というか助けを求めようにも、すかすかな教室では隣の席ですら遠かった。

 

 右手が治って陽昇に言われたのはリハビリがてらもう一度縛ってくれ、ということだった。

 せっかくリセットされたのだからまた始めからというのもいいかもしれないと月落は思った。

 

「日が暮れるのが早いな。もうすぐ冬休みだもんな……」

 

「外は……真っ暗……?」

 目隠しされた陽昇でも分かる位には外は暗く、静かだった。

 べっとりと小学生が塗ったみたいに黒い空にいっそ平面的に見える程に虚ろな月が貼りついて銀紙の星が揺れている。

 教室の天井は白と黒だけで表現できそうなモノクロ加減だ。こんなに色彩の無い夜があるとは。

 そんな中で陽昇の玲瓏たる白さの肌と蛍の光のような金髪だけがぼんやりと浮かび上がっている。

 

「うん」

 女の子って髪が伸びるの早いな、と思いながら陽昇の髪をそっとかき上げると椅子がぎしっ、と揺れた。

 前々から考えていた方法で縛ってみたのだ。一本の縄だけで両手両足を拘束でき、しかもある部分を引っ張るだけで簡単に解ける。この身体も合わさって一種の芸術だ。

 耳に鼻をつけると陽昇の口から声の入っていない息だけが漏れた。更に耳たぶを唇で噛むと声が出る――――とは確かに思ったが。

 

「好きな人が出来たら、行っちゃうの?」

 何故今それを聞くのだろう。そんなにいっぱいいっぱいの声で。

 そんな質問の答えがたとえなんであれ何一つ益にならないと分かっているはずなのに。

 

「……。行かないよ」

 

「やめなよ、優しい嘘なんて……らしくもないことを」

 

「……そうだな……嘘だ」

 どうしてだろう。行かない、と本気で言ったつもりなのにその反面『嘘』だと感じてしまっているのは。

 月落の性格は月落自身よりも陽昇の方が分かっている。数秒考えてから、ようやく確かに嘘だと確信できた。

 捻くれながらも自分の心に正直に、ある種潔白清潔に生きてきたはずの自分が、例えば誰かを好いたとしてこの後もこんな関係を続けるという腐った不純を許せるはずがなかった。

 いつだかに思った通り、終わりにするなら自分の方からなのだろう。

 

「……。泣くな……」

 今までどれだけ心や身体に苦痛を与えても悦んでいたと言うのに。

 一千年も風雨に晒されその場に在り続ける岩をも穿つような透明な涓滴が、陽昇の隠れた双眸から零れていた。

 快感なんか一切ない、ただの心の傷だった。何故か鎖で絞め付けられるように月落の心まで痛む。

 気が付けば月落は涙の通り道を遮るように陽昇の顔に触れていた。

 

「うっ……くっ……」

 せめてその傷を他の傷で上塗りして忘れられるようにと首に口を近づける。

 しかし首筋に強く歯を立てても嗚咽はより激しくなるだけだった。

 快も悦も心で感じる物ならば、今の陽昇には――――

 

「口に……」

 

「え?」 

 

「口には?」

 涙で濡れた薄桃色の唇が紡いだのはこれまで侵してこなかった不文律だった。

 

「それは……普通の恋人同士に……」

 

「なんでそれじゃダメなの?」

 

(そんな物を求めていた訳じゃなかっただろう……?)

 べっとりと心に貼り付くような声の求める物は、一番最初に互いに求めていた物と変質し過ぎている。

 だが、変質のどこに問題がある?

 好きな人が出来たら行ってしまうのか、と問われたが自分に好きな異性などいない。

 ただ今日も昨日も一昨日も捻くれた自分だけを抱えて椅子に座っていた。いつだってなんだって出来ちまう退屈な自分の心に空っ風ひとつも吹きやしない。

 

 なんで自分はあの時、陽昇に本気で怒ったのだろう。

 

 そう考えると。

 考えると。

 

 今ここで戸惑う理由なんて――――大きな手で儚い程に小さい陽昇の頬を包むと目隠しされているというのに正確に月落の顔の方を向いた。

 肌の感覚全てを総動員して月落の唇の位置を感じとっているかのようだった。

 

 今までも理由は何一つだってなかった。

 したかったから、しただけだった。

 

 世界があまりにも静かすぎて、耳に届くのは吐息と椅子の軋む音だけ。

 散々あんなことしておいて、たかが唇が触れあうだけで今まで一番の衝撃で色のない電気が迸る。

 甘い味がしそうな程に艶やかなのに、実際は涙に濡れて塩っ辛い味がした。

 ああもう、よく堪えられていたなと思う程に貪欲に唇で噛んできて、乞われたかのように縄を解くと自由になった腕で月落の首に腕を回してきた。

 

「立って」

 

「うん」

 立ち上がると今度は今までの分も全て取り返そうとしているかのように胸に顔を埋めてきた。

 この子の細さをこうやって感じたからには、死ぬまで忘れないようにしよう。

 

 いつかと言わずとももうすぐ消えてなくなるから――――どうしてかそんな言葉が浮かんで流れ星のように消えていった。

 

「唇……陽昇の身体はどこも柔らかい」

 

「月落の方はガサガサだ。ちゃんと手入れしないから。煙草くさいし」

 陽昇は自分から目隠しを取った。自分から取ったのだ。今は何を求めているのかがいっそ露骨なまでに。陽昇の濡れた青の色彩だけが豊かだった。全然足りない、と。

 立ち上がって陽昇が背伸びするだけでは足りなかったから、心臓の音が感じれる程までに引き寄せてもう一度。何度だって。

 

「いたっ」

 唇を離した陽昇の八重歯気味の白い犬歯に赤い血が付いていた。

 ぱたっ、と月落の口から床へと血が垂れた。

 

「それは私のいろんな気持ち」

 

「……そうか」

 月落が舌で傷を確かめるように舐めるのと陽昇が犬歯に付いた血を舐めるのは同時だった。

 どんな気持ちかを一言二言では表せないが、この痛みが全てのような気がした。

 

「帰ろ」

 

「……うん」

 陽昇が差し出してきた手を取るのに一瞬躊躇した。

 この子の身体の色んなところに触れて、あそこを噛むとどんな声をあげて、ここはどんな味がするかとか、全部知っているのにこの手を取るのは初めてだったから。

 

「もう境が無いから。もっと過激な事が出来るよ」

 

「……。そうだな」

 

「道具も色々あるんだって。ホテル行く?」

 

「行かない」

 冗談で言っているのは分かってはいた。

 もう陽昇は泣いておらず、軽い足取りで誰もいない教室を出た。

 

「知ってた」

 

「?」

 

「月落は私のことを大切にしているから」

 

「馬鹿言うな。あんなことして大切にだなんて……」

 

「…………」

 照れ隠しで嘘を吐かなくたっていい。分かっている癖に。

 陽昇の青い目は実際彼女の器官の中で一番饒舌な気がした。

 誤魔化しはきかない。

 

「……。うん」

 

 校舎の外に出るといつの間にか塗りたくられた黒の様な空には宇宙の色が浮かび上がり大量の星が瞬き始めていた。

 授業が終わってまだ一時間程度だと言うのに校庭では物音一つしていなかったが、今はその不自然に気付こうともしなかった。

 

 

 

**************************************************************

 

 

 

 部屋で灯りも点けずにただ横になっていた。

 煙草の火の揺蕩う様があの日の巣に戻れない蜂の群を想起させる。

 相変わらず隣家の犬は吠えない。唇を指で撫でると陽昇に噛まれた痕に触れた。

 

「…………」

 どんな漫画だって映画だって曲だって、恋人が出来たのならば、それが初めての経験ならば紐の取れた凧のように浮かれている。

 だというのに今の月落の心は何故か風一つない湖畔のように静かだった。

 

 たとえばこの先、陽昇を連れてどこかに出かけたり、遊んだり。

 時々喧嘩したり、仲直りしたり。

 そんな普通の状況にいる自分がどうしても想像できなかった。

 今まで変わり者として生きてきたから――――という理由よりももっと重大な何かがあるように思えるのに、何も分からないという矛盾。

 まるで悪寒のように携帯がぶるりと震えた。

 

「屋上に来い……だと、今から?」

 暗闇の中で浮かび上がるように光る携帯が無機質な文字を温度を感じないフォントで陽昇からのメッセージを伝えてくる。

 帰ってきたばかりなのに何を言ってやがる、と当然考えて電話をするが通じない。

 通じないという言い方では少し足りない。ツー、ツー、という不通音すらならない。スマホをタッチしても通話の画面に入れないのだ。

 屋上というのは当然学校のことだろう。

 

「…………」

 別に無視して明日の朝にでも学校で聞けばいい。

 そうは思ったものの、何故か行かなくてはならないという焦燥感が消えず、月落はジャンパーを着て部屋から出た。

 

「月落、どこに行くんだ」

 靴をはいて自転車の鍵をポケットに突っ込みながらもう一度電話をかけようとしていると父が玄関に顔を出して尋ねてきた。

 

「えと……ビデオ、返してくるから」

 

「そうか。気をつけろよ」

 

「ああ」

 父とは長いこと一緒に家で食事をしていない。

 稼ぎのいい仕事はやはり忙しいのか、毎日食事代に2000円を貰って終わりという淡白な関係だ。

 それでも一人でこの家を支えている父を尊敬はしている。

 知ったような口を聞く奴が自分の性格が捻れているのは親子関係がどうたらと口出してくるかもしれないがそれは関係ない。

 例えば優しい母がいて、毎日一緒に食事をしてくれていても自分はこうだっただろう、と思う。

 せめてもう少し自分が気遣いを出来る人間だったら父を労うことを出来るのに。そんな安っぽい後悔をしながら月落は家を――――

 

 まるで蛍光灯に通る電気が途切れたかのように月落の父は月落を見送って数秒後に消えた。完全に消えてなくなったのだ。

 自転車を漕いで前へ前へと進む月落の後ろで、月落が生まれて16年間育ってきた家も蜃気楼のように消滅した。

 

 

 

「おいおいおい……なんだこりゃ」

 自転車を漕ぎながら月落は空を見上げて声を漏らした。

 黒板にカラフルな絵の具を撒き散らしたかのように輝く星々、砕ける一瞬に明るく燃える流星痕が空一面に広がっている。

 今日は何かの流星群でも見える日だったか。そんなニュースは聞いていないが。

 

「…………?」

 ふと風景に違和感を感じて自転車を止める。

 暗い道路を照らす街灯、そして電信柱、道路標識。

 この道路はもう10年以上ほぼ毎日通っているが、ここの道路標識は前から『こう』だったか?

 車両進入禁止の下に指定方向外通行禁止。免許を持っていないからこれは絶対におかしい、とは言い切れないが――――そもそも道路標識とは電信柱にくくりつけられているものだったか。

 

「え……お、おい」

 会社帰りのサラリーマンだろうか。

 黒いコートを羽織って寒そうにスマホを触りながらのたのた歩いている。それはいい。いつもの風景だ。

 だが、空一面にこんな異様が広がっている中でもこんな風に普通に歩くものなのか?

 日本人の無関心主義はここまで来てしまったのか。――――そんな訳はない。

 

「わは……ははは」

 何かが起きている。たかが人間ではどうしようもないことが。

 全ての星々が輝き世界が歪み人すらもどこかしらおかしくなっている。最早物理法則では何一つ説明できない。

 

「世界の終わりか……ふふふ」

 うまくいかないことに価値がある、と陽昇は言った。

 なんでもうまくいってしまうから月落の人生は退屈に満ちていた。

 この何をしてもどうにもならない状況に、月落は何故か笑っていた。

 うまくいかないことに価値があるから。

 

 

 

 

 

 月落の住む地域の最寄り駅は東京や新宿などに比べて大きい駅ではないにしても、5分に一回は電車が来るそれなりに利用者の多い駅だ。

 朝や夕方はそれなりに混雑するし、座れないときもある。それにしてもこの混雑は異常だった。

 

「がやがや」

 

「おい、もう10分も待っている。何分待てばいいんだ」

 

「申し訳ありません、只今人身事故で」

 

「がやがや」

 

「電光掲示板に出てねえぞ。何分待てばいいんだ」

 がやがやとうるさい人々の頭の上から掲示板を見るが次の電車の時刻が表示されているだけだ。

 ただし、その予定時刻はとうに過ぎ去っているが。

 

「申し訳ありません、只今人身事故で――――」

 

「ちっ。もういいよ、一生やってろよ」

 何を聞いても同じ答えをする駅員を突き飛ばし駅から小走りで出る。

 

(がやがやって……ほんとに『がやがや』って言ってやがる)

 一人一人捕まえて『目を覚ませ!』なんてやる程熱血漢でもない。

 当事者として見るとただひたすらに気持ち悪く、一歩離れて見るとこれ以上ないほど美しい世界の終わりに思えた。

 

 

 

 そうだ、いつもどこかこの世界はおかしかったんだ。

 生きることに支障がなかっただけで、ぬるりとした気持ち悪さがあった。

 それでも陽昇は、陽昇だけはいつも変わらず異常な状況にあることを楽しんでいた。

 だからこそ、今すぐにでも会いたかった。おかしな世界で唯一いつもと同じ陽昇に。

 

「屋上……屋上ってどうすんだよ、どう行くんだよ」

 自転車をぎこぎこ漕いで学校に来たはいいが当然門は閉まっていた。

 それは乗り越えたからいいものの、下駄箱への入り口も鍵がかかっている。

 時間の指定は無かったが、陽昇からメールが来てもう1時間以上経っている。

 夜空に浮かぶ星たちの輝きはますます眩くなっている気がした。あまりにも完璧な美しさに、いっそ寒気がする――――そう思いながらジャンパーのボタンをしめるとまた携帯が震えた。

 

『左の扉、開いているよ』

 

「ふざけんなよ……」

 扉が開いていないということはまだここに来ていないということだ。そう考えた途端に来たメールに当たり前の感想を漏らしながら左の扉を引くと、初めから鍵などかかっていなかったかのように開いた。

 ついさっきガチャガチャと音を立てながら引いて確かめたと言うのに。――――お前もおかしい世界に行ってしまったのか。

 月落は靴も履き替えずに屋上へ続く階段へと駆け出した。

 

 果たして、漫画やアニメと違って普段は普通に施錠されているはずの屋上の扉も普通に開いていた。

 今日、自分と一緒に帰ったはずの陽昇が、自分よりも学校が遠いはずの陽昇が、電車も動いていないというのに既にそこにいた。

 

「陽昇?」

 陽昇は屋上の金網に手をかけて満天の星空の流れ星を眺めていた。

 ここから遥か遠く、人の営みが全くない自然の中でも見られないであろう空の輝きは、むしろ人工的に作り出したプラネタリウムのようにも思えた。誰かが――――何かが意思を以て作り出したかのように。

 扉の影にいる月落とは対照的に光芒の中にいる陽昇が空を見たまま口を開いた。

 

「見て……幸福があんなに輝いている。時が止まったところから順々に光って……」

 

「……? 星だろ。カシオペヤ、オリオン……眩しすぎるけど」

 幸福が輝いて。時が止まって。

 言葉の端々から陽昇が何かを知っているのだと感じる。

 だが今はとりあえず話の通じる人間に会えたことに安堵していた。

 

「絶対に死ぬなら……どんな死に方をしたい?」

 普段なら『何言ってんだ』と返すだけだが、誰がどう見たって異常な状況、十中八九世界の終りにある今なのだ。

 その質問に真面目に答える意味があった。

 

「……苦しまずにかなぁ」

 それぞれの星の地球からの距離を考えれば、今の光が一斉爆発の光なんかではないことは分かる。

 そうだとしても、この地球がそうなる時に苦しまずに逝きたい。陽昇といるなら別に何も怖くない。

 

「少しだけ違うと思う」

 

「?」

 

「体いっぱいに、幸せの記憶に満たされて死にたい」

 

「ふん?」

 

「絶対に死ぬっていうことは、永遠の幸せは絶対にないってこと」

 

「そうだな。いつかは必ず壊れて無くなる。俺たちも――――え?」

 脳にヒビが入るような鋭い痛みと共に浮かんできた映像。

 それは陽昇との歪んだ関係を終わりにする自分の姿だった。

 終わりになんかせず、今日の放課後に発展させたはずなのに。

 

「でも、思い出は消えない。あの時幸せだったことは忘れない。死ぬ前はそんな思い出に満たされて死にたい……老人は最近のことを忘れて若い頃のことを、幸せだった頃のことを思い出すように出来ている」

 

「…………」

 

「幸福で満たされるために!!」

 

「……。お前……誰だよ」

 こちらを向いた陽昇を見て月落はすぐに気が付いた。

 陽昇も多少おかしくなっている、どころではなかった。

 ここにいるナニカは確かに陽昇の姿をしているが、陽昇ではない。

 眉の角度や、話す時の口の動き、立ち方。微妙な動作の一つ一つが陽昇ではないと伝えてくる。

 

「すぐに見抜いたね。お互いを……運命の相手と知っていても結ばれなかったんだね」

 

「結ばれ、なかった……?」

 

「でもここには幸せしか無い」

 

「陽昇をどこへやった!!」

 ナニカの肩を掴むとその細さも感触も確かに陽昇の物だった。

 だがやはり目線が、表情が陽昇ではない。金網に押し付けるとそいつは愉快そうに唇を歪めた。

 

「どこへ? どこへ!! アハっ、ハハハハ」

 

「…………」

 陽昇はこんな笑い方をしない。

 今更になって、自分がどれだけ陽昇という少女のことを見てきて記憶に留めてきたのか思い知らされる。

 

(今更だって? これからだろう?)

 晴れて恋人同士になった自分たちだ。

 お互いのことを知るのはこれからのはずなのに、何故『今更』という言葉が頭に浮かぶ?

 

「突然私はそこに在った。理由なんか知らない。生まれてしまった」

 ナニカが中空に両手を使って四角い空間を作るとそこに光の玉と光の糸で繋がった何かが浮かび上がった。

 

(人間じゃない!!)

 分かりやすく手からエネルギー弾を発射したり、浮かび上がったりしている訳ではない。

 ただ淡々と、人には出来ないことを平然としているという事実の恐怖が月落の身体を強張らせた。

 

「生まれてしまったからには探しに行かなくちゃ」

 光の創造物をそのまま宙に固定し、更に両手で四角い空間を作り上げると今度は母の身体の中で眠っているかのような体勢の赤子が浮かび上がった。

 細い指で赤子の頭から魂を取り出すように手を動かすと、先程の光の玉と糸に似た物質が取り出される。

 

(…………!)

 現代人のほとんどが知っている奇妙な一致。

 人間の脳細胞と宇宙の形は似ているという、恐ろしい何かを示唆するような事実。

 

「いつかは死ぬにしても、それに足る何かを」

 赤ん坊は急激な速度で成長した。

 眉と目の位置は近く、唇は横一文字に引き結ばれて鼻は高く、髪は黒くやや短く――――毎朝の鏡で見慣れた月落の姿になっていた。

 

「お前は……宇宙……この宇宙そのものか。陽昇の身体を乗っ取っているのは」

 

「乗っ取っている、か。惜しいね。姿は借りているけど」

 

「何が惜しいんだ」

 

「めちゃくちゃだったろう? たかだか学校に来る間の世界でさえ。まるで夢の中のように整合性がとれていなかっただろう。だってこれは君が経験していないことを君の脳が勝手に作り出しているだけだからね」

 

「……!!」

 世界がおかしい、どこかおかしい。そう思ってきた。

 だがおかしいのは世界の方ではなく――――そこまで考えが至った時、月落はあまりの恐ろしさと絶対的な孤独の寂寞に打ちのめされ陽昇の形をした『宇宙』を突き放して後ずさっていた。

 

「最悪な人生だったとしても、悪いことばかりだったとしても、幸せなことが一つでもあれば十分。死ぬ前に必ず思い出せるんだから」

 

「さ……覚めない夢……!」

 この世界に自分はずっと独りぼっちだったことに気が付いた月落は自らの身体を慰めるように縮こまって口に手をやった。

 そして陽昇から受けたはずの傷が、受け取ったはずの気持ちが消えてなくなっていることに気が付く。

 頬を抓っても痛みがないなんてレベルではない。全てが夢幻、泡沫の夢。

 

(走馬灯……!!)

 死ぬ前に人生を振り返るという脳が見せる最後の奇跡。

 感じたデジャヴ、おかしいと感じることが出来てしまった自分。

 月落は今、本当の自分が死の直前にいて、最後の夢の中にいることに気付いてしまった。

 夢の中で夢だと気がついたらすぐに目が覚めてしまうのと同じように――――月落の身体が薄ぼんやりと光り輝きだしていた。夢の終わりがもうすぐそこに――――。

 

「…………」

 光芒の中で身体を発光させながら同じく消滅しようとしてる陽昇の形をした宇宙が諦念とも取れる表情でいたのを見て、月落は理屈を超えて理解を超えて、魂の底である事実に勘付いた。

 

(死ぬ前は幸せな思い出を抱いて死にたいだって……?)

 宇宙の形、脳細胞の形。

 宇宙の中で生きる全ての生命、存在する物質、名付けられた事象達。

 宇宙という『脳』の中で犇めく個を持った自分たちが生きて、自分なりの幸福を探しに行く。

 もしも、走馬灯が――――あるいは終わりを感じ取った脳がする最後の仕事が今までの人生、存在していた時間で経験した幸せをかき集めることだとしたら。

 宇宙という『脳』の中で生きる全てが、争いながらも醜くもここまで繁栄した理由は。生命が命を紡ぐ理由は。

 

「うぉおおおおおおおお!!」

 透ける手で金網を掴み校舎の向こう側を見渡すと、夜の中でのっぺりと立つばかりのはずの建物も光り輝いていた。

 例えば彼ら建築物にとっては誰かに長い間愛されて、綺麗に磨かれて、町の歴史の一部となることが幸福だったのだろうか。建物という存在の幸福に包まれて家々すらも輝いている。

 恐らくは全宇宙の、あらゆる存在がそれぞれの幸福だった時間を思い出しながら。――――避らぬ消滅を前にして。

 

 絶叫が月落に全てを思い出させた。

 いつだかに見た、二流芸人が不倫したというニュースと同じくらいの記事の大きさで書かれていた宇宙の時間が減速しているという記事。

 宇宙に心臓や血液が無かったとしても、命があるならばそれは全てを運ぶ『時間』に他ならない。

 兆候はあったのだ。世界中でミサイルが作られているように。地震の前に小動物が逃げ出すように。

 どちらにせよちっぽけな人間ではどうしようもないという点で同じなのだが。

 

 記憶の奔流の中にいる自分は……。

 陽昇との関係も終わらせて、上京して、また退屈な日々を過ごして。

 そして見上げた空にあの日、世界の終わりが輝いていた。

 終末を前にして月落の脳は21年間の人生の中での幸福を集める旅を始めたのだ。

 

 簡単なことだった。

 人の生きる理由が死ぬ前に思い出すためのそれぞれの幸福を探すことならば。

 同じく命のある宇宙が死ぬ前に幸福に包まれることを欲したのならば。

 宇宙の中で存在する全ては、脳の中の細胞と同等であるこの世界の全ては、宇宙が終わる前に幸福を集める為に存在したのだ。宇宙の幸福な消滅の為に!!

 

 

「幸せだったんだろ。私と一緒にいて」

 

「……お前じゃない。陽昇だ」

 金網に背を押し付けてずるずるとその場に座る。煙草を取り出して吸ってみるが、煙の味も希薄だった。

 自分の人生の幸福は陽昇といる時にこそあった。だからずっと思い出していたのだ。

 手の平で影を作り眩しい目をこらそうにも、光が透けてしまって逃れることすら出来ない。

 世界の王も、大企業の社長も、人殺しも、銀行強盗も逃れられない。いっそ慈悲深いほどに無慈悲な消滅の光が。

 

「……お母さんは……隣の家の親父は……? そもそも、『これ』はもっと後に起こることだろう?」

 

「ただの死とは違う。完全なる消滅なんだ」

 座り込んだ月落の前で陽昇の形をした宇宙が語りかけてくる。

 死んでも死体や思い出が残る死とは違う。その人を作り上げた両親、親族、血液、分子に至るまで完全に無くなる。故に記憶からも消滅する、ということなのだろう。

 

「でも俺は覚えている……消えかかっているとしても」

 

「だからこそ……なんだろう?」

 透けた手に優しく触れられる。ただそれだけで言いたいことが伝わってくる。

 消えたものがどうなるかなんて、死んだ後にどうなるかくらい分からない。

 そして自分はその消滅に片足突っ込んでいる。だからこそ、不完全ながらも消えたものたちの残滓を捉えてしまっていたのか。

 

「俺って寂しいやつ……自分の頭の中で陽昇にあんなことさせていたの? 実際には自分から関係を……終わらせたくせに」

 好きな子が出来て、真っ当に付き合うことになったから終わらせたのだ。しかしその彼女は自分の母親と同様に既に消えているらしい。そう把握してもなお顔すら思い出せない事実が背筋を凍らせる。

 不純の中の純粋。月落と陽昇はあんな関係でありながらも、接吻の一つもしなかった。そこを乗り越えることはしないようにしていた。今日、自分は頭の中で作り出した世界でその一線を越えてしまった。 

 脳の補完に限界が訪れて、独りきりの舞台は終幕となったのだ。

 

 味のしない煙草を半透明な手に押し付けて消す。

 じゅっ、という生々しい音がしたのに痛みもなく、傷すらつかない。

 世界の終わりがこんなに静かで優しくて、綺麗だなんて。

 

「もう終わりにしてくれ」

 ここから先は地獄だ。

 世界の仕組みに気付かぬ奴隷は幸せであるかもしれない。

 しかし自分はもう消滅を、消えた物を知っている。そこに違和感を感じることが出来てしまっている。

 次に消えるのはなんだろうか。父か、学校か、電車か。次々と消えていく物を見て、止めることも出来ない地獄にいながら幸福な記憶を繰り返すも何もない。

 終わりなんだ。気が付いたら、そこで幸福はなくなるから宇宙にとっても意味がない。

 

「…………」

 

(意味?)

 目の前に立っている宇宙が陽昇の形をしているのが切っ掛けだったのかもしれない。

 意味だけで言えば、消えようとしている自分に宇宙とやらが会いに来る意味がない。消えるのならば勝手に消えればいいはずだ。役目は終わりなのだから。

 

「お互いを?」

 うっかりなのか、あえてそういう言い方をしたのかはどちらでもいい。

 お互いに運命の相手だと思っていたと、確かに口にしていた。

 

「この子も君の夢を見ている」

 終わりにしてくれ、なんてとんでもない事だった。

 やっぱりという言葉が後悔と喜びと混ぜ合わさり浮かび上がってきたのだ。

 

「俺が消えたらどうなる……あいつはどうなる!?」

 たとえ記憶の中のことだとしても。

 脳の中の一瞬のことだとしても。

 現実の世界では一年にも満たないガラス張りのようなパートナーだったとしても。

 

「君のいない学生生活を送るんだろ」

 自分が消えてなくなれば、彼女の思い出からも自分は消えて無くなる。

 また、ほったらかしにしてしまう。また陽昇の目の前から消えてしまう。

 

「お……あ……俺は消えない!!」

 今も味わっている、周囲が消えていく中で自分だけが残っているという孤独。

 こんな思いを、もう会えないとしても陽昇にはさせたくなかった。

 

「無理。もうあと1,2回で限界じゃないかな」

 

「お前を残して消えるか!!」

 

「ここにあるのは自分の記憶だって分かっているはず。届かない」

 

「俺は絶対に消えない、お前より先に消えたりしない!」

 宇宙とやらが目の前に現れた理由がはっきりと分かった。

 発破をかけに来たのだ。宇宙はより幸福が欲しいから。

 月落の本当の幸福とは。

 

「俺は小さい頃から勉強もできたし、運動だって困ったことはなかった。お前なんかいなくたって、趣味もたくさんあったし他にやるべきこともたくさんあったさ! お前なんか……なんか……」

 欠片も思っていない強がりを口にしながら薄く透ける拳を握ると涙がぱたぱたと手の甲に落ちていた。

 強がりでもなんでも、まだ消えられない。自分が消えるのは陽昇が消えてからでいいと、真っ更な心が叫んでいる。

 

「あの時間を他のことに使っておけばよかったなんて思ったことは一度もねえ! 俺がいないとなんにもないくせに、なんでもないフリして思い出ばっかりに縋りやがって!!」

 自分の心にばかり突き刺さる言葉が後悔の念の涙を落とす。

 今になって、本当に今さらになって気が付いた。

 月落の本当の幸福は、児戯のようなサディズムに浸ることでも、陽昇と一緒に平凡に過ごすことでもなかった。

 陽昇に尽くすことにのみあったのだ。陽昇の願いを叶えること、我儘を聞くこと。その時だけが退屈な人生が意味に満ちる瞬間だった。

 いつかに言葉にして漏らしたように、これでは本当にどっちが主人なんだかも分からない。

 

「届かない」

 

「知るか! 俺のためだけに、俺だけを想って最後まで生きろ!!」

 言いたいことも沢山あっただろうに、陽昇は口を噤んで去っていった。

 たった一度のその我慢が、犠牲が、全てを引き裂いて終わりだというのならば。今度は自分の番だった。

 

「ジョバンニは降りてしまったけど……俺は降りないから」

 

 月落の宣言を聞いて『陽昇』は笑った。あの笑い方は記憶の中にある陽昇と全く同じものだ。

 宇宙とやらはどこかに行ってしまったのか、それすらももうどうでもいい。

 自分の頭の中で作り上げた世界だ。これからの自分は陽昇の世界で尽くすためだけにここに在り続ける。

 

 月落も笑っていた。避けられない消滅が目の前にあり、既に親でさえも消えているというのに。

 うまくいかないことに価値があるからこそ、めったに笑わない月落が笑ったのだ。

 涙で濡れた手はいつの間にか全く透けなくなっていた。人の想いは、どこまで絶対的な物に逆らえるのか。

 やがて月落は満ち満ちた心で光り輝く全てに飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 月落を包み込んだ青い光はやがて桜色の暗転幕をくぐり抜けて太陽に照らされる教室になった。

 この世界にはカシオペア座がない。天の川がない。北風がない。親もいなくなり空虚なアパートに一人で住んでいる。

 一つ一つは消えても大して変わらない、幾千兆ものピースを持ったパズル。だが、もう欠けたピースの数は……。

 だんだん、だんだんと世界は形を成さなくなっていた。

 

 それでもまだ陽昇は消えていない。

 ここにいるから、それだけが分かる。それだけで十分だった。

 そして記憶の中の陽昇が口を開いた。

 

「私はマゾヒストなんだ」

 

「……知ってる」

 

 ずっとここにいる。

 

 

 

 

 

**************************************

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笑わない君の笑顔を見てみたい。

 それが最初に思ったことだった。何がそんなに楽しくないのか、何がそんなに退屈なのか。

 いつもしかめっ面のへの字口をしているから。それだけだった。

 

「わ……私のあげた本を、何度も何度も……君は本をそんなに読まないのに、何度も何度も読んでくれたよね。仏頂面してあそこがよかった、ここがよかったって慣れない褒め言葉を……」

 

「ここにあるのは自分の記憶だって分かっているはず。届かない」

 目の前にいる月落がいつものように冷たい言葉を紡ぐ。

 だが違うと分かる。自分には分かる。月落の冷たい言葉はいつも半分以上傷付きやすい自分自身に向けていたものだったし、何よりも月落はあんなに冷たく感情のない目をしていない。

 しかめた眉は目と近くて、怒っていなくても他人を怖がらせるような顔をして。

 

「月落のお母さんもお父さんも消えていたんでしょう? 月落の彼女になる子も教室にいなかった! 今、月落はどんな世界にいるの? ひ……一人になんかさせられない……!」

 同じ夢を見ながらも決して会えない二人。

 分かるのは、まだこの世界にいるということだけ。

 個人差があるようで、自分の両親もまだ消えていないし、友人もいる。

 なのに月落の周りのピースはほとんど消えてしまっていた。

 自分と同じように、消滅しかかっていると分かって、この世界の終わりを知って。

 それでも何故月落は脳が作り出したただの空虚な世界にいようとする?

 

「だったらもっとワガママ言えばよかった……引き止めてもよかったなら……想いが同じなら……。大好きだった! その瞬間を切り取って何度も何度も繰り返すくらいに!」

 陽昇は月落よりも月落のことを知っている。決して避けられない消滅に対して抗うようなタイプではない。むしろ率先して無表情で受け入れるタイプだ。

 両親すらも消えた世界で歯を食いしばり足を踏ん張り生きる理由がどこにあるというのだ。――――考えるまでも無かった。

 

「柄にもなく頑張ろうなんて……私の為に……。だったらもう、二度と月落の側を離れない。絶対に消えない」

 きっとこれは月落の最初で最後の本気の戦いなのだろう。なんでも簡単にできてしまって、どんな栄光も手に届く位置にあった月落の人生。

 そんな月落が自己の魂、その全存在を賭けてしていることが消える命を僅かゼロコンマ数秒伸ばすことであり、それが他でもない自分の為であるという悲劇と喜び。

 その想いに応える方法は、ただ一つ。陽昇も消えないこと。そしてそこに陽昇も喜びがあった。

 

「届かない」

 

「いいや。月落の想いは、届いたよ……」

 陽昇の心からの笑顔と同時に月落の姿をしたソレも笑っていた。

 偽物の笑顔じゃない。陽昇が心から大好きだった、溢れ出る好奇心によって自然に浮かぶ月落の笑顔。

 本当はその笑顔が見てみたかったから、そうして何度でも笑ってほしかったから月落を選んだ。

 それが一番の理由だった。

 

「ねぇ、月落」

 

 記憶から作り出された全てが、月落すらも光となって淡く陽昇を飲み込もうとする。

 

「ジョバンニは降りてしまったけど私は降りないから」

 

 もう一度幸福だった時間を繰り返そうとしている。意識がどこか遠くへ行こうとしている。

 それでも構わず、陽昇は言葉を続けた。聞こえないのは知っていてもきっと伝わると信じているから。

 

「南十字星の向こう側まで一緒に行こう」

 

 二人は伝わると信じていたからこそ、

 

 

「銀河鉄道のターミナルを見に行こう」

 

 人の想いは――――。

 

 

 うまくいかないことに価値がある。

 届かないからこそ美しい。

 

 世界は美しい光に満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終わり。

 



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。