人の感性とは不思議なもので、年を取るたびに様々な感情が渦巻く。
10代のうちは1つ年を重ねても成長したと喜ぶことが出来た。だが20を過ぎてからはどうだろう。近づく死、進む老い、窶れてくる肌、鈍くなる身体。
喜びの声は悲嘆へと変わり果てる。祝われても、複雑な気持ちでしか喜べない状態だ。
だからだろう。もともと頓着があまり無かった誕生日を、愛し人からプレゼントに何が欲しいかと問われても缶ビール1本としか答えなくなったのは自明の理なのだ。
「…欲しいもの、無いのか?」
雑誌を眺めながら顔を向けずに素っ気なく答える私に、彼は戸惑ったように聞く。
「強いて言うなら若返りの薬とか」
「青汁だな」
「ごめん冗談」
青汁は苦手だ。通販番組で散々のように美味しいくなったと言っているが、それほど美味しくなった気はしない。
「別に、欲しいものなんてない」
「そう言われてもな。渡さなかったら怒られる。主に巴とか、上原に」
「……」
なかなかどうして世話焼きのすぎる幼馴染たちだ。もっとも、そんな彼女たちだからこそこうして長く付き合えているのだが。
「そうだな…」
考え込む。しかし幾らイメージしても思い浮かばない。無欲の塊だと自分を嘲笑いたくなる。
ーーーと、テレビのニュース番組で花見の特集が放送されているのが目に入った。老若男女問わずに賑やかに桜の木の下で楽しんでいる。
「ーーー桜」
「は?」
間が生じる。
「桜?」
「うん、桜」
彼は鸚鵡返しで問い直す。
それに私は頷き返す。
「お花見。誕生日プレゼントはそれをお願いする」
困ったと言わんばかりに頭をかくが、やがて降参と手を挙げて「ハイハイ」と答えた。
いくつ歳を取っても、このやり取りは変わらなかったようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まさか結婚3年目の妻から所望された誕生日プレゼントがお花見だとは思わなかった。
惣菜屋で買った唐揚げにおにぎり。更に6本1セットの缶ビールを1つ。どう見たって違和感しかない。片手に持っているビニール袋をチケットにし、服をスキニージーンズに白のシャツではなくスーツにして演劇に行く先を変更したいぐらいだ。
「これで本当によかったのか?」
「これでいい。おばさんになると、欲しいものがなくなるものなの」
「おばさんって年齢でもないだろうに」
まだ27なのに。世の中の27歳以上の女性に謝った方がいいと反論したい。
「けど、私たちよりも1回りも年下の学生とかからしたら、私なんかの年齢はおばさんだと思う」
「ってなったら俺はおじさんか。悲しいな」
「そう。だから巴の子供からは数年後にはおじさんおばさんって呼ばれることになる」
「時は無常」
「だね」
お互いに歳を取ったことと時の無情さを改めて噛み締めたところで、今回の劇場となる場所は辿り着いた。
そこには年季を感じさせる色合いと荘厳さを漂わせた木に色を塗ったように咲き誇る桜が見事にーーー咲いていなかった。
いや、正確には咲いている。しかし、それは咲き誇っているわけではない。所々には緑の葉も見え隠れしており、完全にフィナーレを迎えている最中だった。
「やっぱり遅かったかな」
「かもな。まあ、咲いている分マシだと言い聞かせながら飲もう」
桜のメインステージは終わりを見せているためか、人はいなかった。たまに通る通行人ぐらいだ。
空いていたベンチに絨毯のように重なっていた桜の花びらを優しく落とし、そこに腰掛ける。
缶ビールのプルタブを開ける。空気の抜ける音と共に風が少し強めに吹く。
「それじゃあ、こんな景色だけど」
「こういう景色だから、でしょ」
「……お前の誕生日に乾杯」
「ありがと。乾杯」
まだ少し冷えた缶ビールの体同士をコツン、と打ち合う。
最初の1杯を口に含む。酒の肴としては課題の残る景色ではあるが、これはこれで良い。
「けれど、お前に言われた通り、本当に何も物は持ってきてないぞ」
この前日まで、俺は何か他にプレゼントを買うと彼女に何度も言った。しかし、蘭は一貫してその要求を拒否し続けた。根負けした俺は仕方なく諦めて何も買わなかったのだが、今更になって少しその諦めを後悔している。
「いいの。私が何度も言ったんだし、それでいいの」
割り箸で唐揚げを口に運び、穏やかな眼差しを足元の桜の花びらたちに向けながら答える。
「この歳になってくると、なんか悟ったっていうのかな。形あるものも嬉しいけどさ、こうやって語り合う場っていうか…記憶に残ることの方がもっと嬉しいし楽しいって思えてきたの」
「…なるほど」
もともと彼女は無欲で、素直ではないが相手の気持ちをしっかりと受け取る性格だとは思っていた。だが、歳を取ったことによって更にそういった面が強くなっている。
「それに、花見なんて大学の…3年の時に巴たちとやって以来だったし。久しぶりにしたいなって思っただけ」
「ああ、懐かしいな。当時の上原の彼氏が二股してるのがバレたのもその日だったな」
「ふふっ。思い出すだけであのひまりの絶望に染まった顔が…」
「性格悪くなったなお前…」
あと歳を取ったことによって少し腹黒くなった。多分これは青葉の影響だ。
「というか、ひまりはいつ結婚するんだろ」
「わからん。もう出来なさそうな感じもしてるけどな」
「いち幼馴染としては早く幸せになってほしいばかり」
「上原の男事情に幸あれ」
「乾杯」
本日2度目の乾杯は友人の幸せへの祈りとなった。
「結婚といえば、青葉はその辺どうなんだ?」
「私でもわからない。そもそも都心の方に出て行ったし、メールで聞いても上手くはぐらかされるし」
青葉は大学卒業と同時に街を出て行き、都心の大手の会社に就職したとだけ聞いている。それで成功もしているというのだから、彼女のポテンシャルの高さには驚かされる。
「まあ、結婚はしてないと思うけど…モカの彼氏…」
「あいつの彼氏…」
想像する。しかしイメージは全く湧かない。そもそも彼女の彼氏遍歴すら知らないからイメージの組み立てようがない。
「まあ、それなりに幸せであることを祈ろう」
「だな」
3度目の乾杯。
「けど、30まであと少し…というか四捨五入したら既にアラサーか…」
「20歳になった瞬間に酒を飲んで吐き出したお前の姿を昨日のように思い出せるよ」
「出来れば思い出してほしくなかったけど」
今でこそ暇あれば酒やビールを口にしている蘭ではあるが、ほんの数年前まで全く飲めなかったのだ。曰く、アルコールは嫌とのこと。
しかし度数の低いものから口にしていくに連れて徐々に耐性が付いてきたのか、今ではかなりの酒豪となっている。
「父さんからお酒はそんなに美味しいものではないって聞いてはいたけど、あの時はあれほど美味しくないとは思わなかった」
缶ビールを片手に語っていては説得力が全くない。
「あの時ずっと笑ってたアンタの顔、最高にムカついた」
「実際に面白かったからな」
「コッチは必死だった」
冷ややかな視線が突き刺さるが、そんなものは可愛らしいものだ。彼女の腿に乗せていたタッパーからからあげを1つ口に入れる。
「うま」
「…明日は朝昼晩でアンタの嫌いなもの詰め込んでやる」
「怖いこと言うな」
流石にその処置は困るので、食べかけではあるが唐揚げを彼女の口元に運ぶ。「許す」とだけ静かに呟き、箸の先端ごと咥えて食べた。
からあげ1つで鎮まる怒りとは、彼女も丸くなったものだ。
「つぐの子供はもう3歳だし。巴の子供も1歳になろうとしてるし」
「早いもんだ」
嘗ては青春を共に励んだ仲間たちが、気がつけばその青春を見守り、見送る立場となっていた。
「…私さ」
「うん?」
「こんなに早く、大人になるなんて思ってなかった」
先ほどとは正反対とも言える、細く硝子の様に繊細な声音。
「モカとか巴とかはどう思ってたんだろ。自分たちが大人になることと、子供でいれる短さを」
優しくそよ吹く風が桜の花弁に羽を与えて飛ばす。
「私は、正直言ってもっと子供でいたかった。大人に反抗みたいなのをしていたかった」
嘗て、あの校舎の屋上で蘭は自分の在り方を決めた。それを突き通して生きていくことを。
「大人になったら、変わらなきゃいけないのかな。…わかんないや」
俺の右手に彼女の細い手が触れる。
「さあな」
その手を、握り返すことをしなかった。
「変わることも必要だけど、変わらなくていいこともあるし、変わってほしくないこともある」
俺の言葉を、蘭は黙って聞いていた。
「所詮、人生は取捨選択。自分にとって必要なものは取っておいて、いらなくなったものは捨てるだけだ」
「…やっぱり、そうだよね」
そして蘭は、俺の右手を握りしめた。
その手は温かく、どこか心強くも感じれた。
「京介の答えを聞いて、ちょっと楽になった」
「そりゃよかったよ」
普段、俺と蘭はなんて事のない事を語り合う。それはとてもどうでもいい事で、けれどありふれた日常に必要な欠片。
そして偶に、らしくもなくセンチメンタルな事も語り合う。その場合、大抵は俺が答えを言って終わりとなる。
俺はその答えを言う役がとても好きだ。
それは多分、男として女である蘭を導いているーーーなどという、浅はかで単純な思考回路から来ている愛着なのだろうけど。
ーーー変わることがとても怖かった
そして蘭は歌った。曲名は″True color″。
アカペラだ。演奏は風の音と、微かに聞こえる生活音。
久しぶりに耳にする彼女の歌声は、やはり綺麗で、それでいて泥臭くも感じた。
その美しさは絢爛豪華なものではない。俺というフォーカスを通して見て、初めてわかる美しさなのだ。
「ーーー終わり」
気恥ずかしそうにそう言う彼女に、俺は素直に拍手を送った。
「今度弾き語りでもしてくれよ」
「そうだね。今度みんなで集まった時にでも、やってみようかな」
左手の指を細かく動かし、コードの進行を確認する。
「下手になってるんだろな、きっと」
「何年も弾いてなかったらそうなるだろうな」
「やっぱりそうだよね」
微笑いながらおにぎりを食べる。
俺も彼女に倣って黙々と口を動かす。
きっと、外から見たら可笑しなペアだと思われているのだろう。
散り際の桜を肴に、缶ビールを片手におにぎりを頬張るなど変にもほどがある。恐らく時が時なら当事者である俺たちもこんなことはしていないはずだ。
しかし、それが今はとても良いのだ。この空気感と風の音と、目の前で控えめに舞う桜の花弁たちが心地良いのだ。
おにぎりを食べ終えた俺たちは、暫くの間談笑をした後、ゴミをビニール袋に入れて帰路に着いた。
いつのまにか日も落ち、照明柱の灯りも仄かに足元のゴミ箱を照らしていた。
「不思議な時間だった」
「けれど悪くはなかったでしょ?」
「ああ、それもまた不思議とな」
ゴミ箱にビニール袋を捨てる。
「帰るか」
「うん」
そう言って振り返る。
ーーーその瞬間、目の前の蘭と目が合う。
息と息が触れ合うほどの距離。こんな近くで蘭の顔を見るのも久しぶりだ。やはり整っている顔立ちをしている。見れば見るほど、俺とは不釣り合いだの美しさだ。
「あの」
「ーーー」
俺は無意識に、蘭の頬に手を添えていた。
「ちょっと、何」
そう言って蘭は俺の手をはたき落とす。結構容赦はなかった。
「急にセクハラ?」
「夫婦だから良いだろ別に」
「だからって、場所を選んで」
時はいいのか。
などという無粋なツッコミは置いておいて。
「どうかしたの。似合ってもないことして」
蘭の問いかけに、俺はようやく先ほど、自分自身が取った行動の意味を理解した。
「ーーーああ、うん」
静かに、ポケットに手を突っ込んで、似合わぬ格好で答える。
「お前の瞳。綺麗だから変わってほしくないなって」
「ーーー」
一瞬、蘭は表情を固めた。けれど、やがて可愛らしく吹き出し。
「…だから、似合わないことしてるんじゃないの」
なんて俺の背中を軽く叩いて。
「ありがと」
風にかき消されてしまいそうなほどの静かな声でそう言った。
人生は取捨選択。
取っておくか捨てるかの二択だ。そしてそれは多分、捨てるものの方が多い気がする。
その分、取っておくものは慎重に選ばなきゃならないのだ。
変わるか変わらないかも、きっとそれと似たようなもの。
蘭の、緋色でガラス玉のように綺麗な瞳。
その色と輝きは、変わってほしくない。
たとえ蘭の在り方が変わったとしても、俺は蘭について行く。
けれど、その瞳の輝きは失わないでほしい。
その輝きこそが、変わってはならないものだから。
「蘭」
「なに」
2つの踏音をBGMに。
「誕生日おめでとう」
「…うん、ありがとう」
立ち止まることはなく、足とともに口を動かす。
「そして、これからもよろしく、旦那様」
「ああ、よろしく」
挑発的に少し歪むその瞳も、変わらずに美しかった。
遅れまくって各方面にごめんなさい。