正午過ぎになると、自治会の人間や営業マンがチラシなどをポストに入れる。家の中からでもその音は微かに聞こえて、私の生活音の1つとなっている。
今日も雑誌を読んでいる中、コトンという心地の良い音が微かに聞こえた。
雑誌をテーブルに置き、スリッパから簡素なサンダルへと履き替えた私はポストへと駆け寄る。
大概はあまり興味のない内容や宗教の勧誘だ。懲りずによく頑張っているな、と少し感心する。
3枚のチラシを重ねて家の中まで持っていく。
さあ、今日は何の記事だろうか。少しドキドキする。暇つぶし程度だが、私にとっては立派な習慣で、なんだかんだで楽しみにしてるんだなと痛感する。
1枚目。新しい保険への加入の是非についてだった。その話は困ってないのでスルー。
2枚目。近場に新たに建つスーパーの紹介だった。興味深いのでとっておこう。
3枚目。裏面が白紙だったので捲る。
「…え……」
内容が目に入ると同時に、私は声を漏らした。
その瞬間、私は膝から崩れ落ちたのだろうか。よくわからず、覚えてないが、少なからずとも負の感情が心の中を渦巻いていた気がする。
花咲川神社の取り壊しのお知らせ。
短く、氷のように冷たい文章は1文字も変わることなくそこに在り続けていた。
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3月26日。
よく晴れた、爽快感のある心地の良い晴れ空だった。
「春だな」
「うん、春だね」
舞い乱れる桜吹雪。
それはとても幻想的で端麗で、残酷なまでに春という季節をよく表していた。
桜色の絨毯となっている並木道を私と京介の2人で横に並んで歩く。
部活動の帰りなのだろう。羽丘の制服を着た女子中学生達が走って通り過ぎる。私たちよりも1回り歳下の後輩なのだろう。私も彼も歳をとったものだ。
途中で沙綾の弟が店長となって経営している山吹ベーカリーに立ち寄って昼ご飯を食べたり、はぐみの精肉店にコロッケを食べに行ったりした。
学校の帰りの立ち食いのようで少し懐かしい気持ちになった。
「久しぶりかも、こういうの」
「俺もだな。暫く山吹ベーカリーには行ってなかったし」
クロワッサンをこぼさないように手を添えながら黙々と食べる彼を見る。あの頃よりはだいぶ大人な顔つきになっただろうか。
「暖かい」
「ああ。冬も終わったからな。これから暑くなる一方だよ」
指についたカスを手を叩いて落とす。
「過ごしやすいのは春と秋だ。特にこの時期は尚更そう感じる」
「かもね。6月とかだと雨が降ってジメジメしてるし」
昔から私と彼の季節への価値観は、予め決定づけられていたかのように同じだった。
「でも、最近は冬も好きかも」
「それは何故?」
彼の問いに、私は口元に手をあてて少し考える。理由が思いつかなかったのだ。
「夜が長いから」
「長いから?」
「うん」
それは歳をとって、最近になって僅かに変わり始めた私の価値観や考え方からだ。
夜はいい。とても落ち着く。闇の中で輝いているモノは星の光と人々が作り上げた電灯など。それは光り方は違いながら、同じぐらいに綺麗なのだ。
「それに着れる服の幅が広がる」
「なるほど。それはわかるかもな」
「でしょ」
そんな、些細でどうでもいい何気のない会話。
それを続けながら、私たちは街を歩き回った。中学生の頃に遊んだところ、母校、ライブハウス、カフェテリア…行けるところは殆ど。
そして最後に、私たちはある所にたどり着いた。
夕方となり、スカーレットカラーの鮮やかな空が私達を見下ろしていた。
目の前にあるのは立ち入り禁止と記された看板。可愛らしくお辞儀をしているキャラクターも添えられていた。
奥には、何度も私たちの息を切らした恨めしくも、しかし愛らしくも感じる長い階段が見えていた。
羽丘神社の取り壊し。
唐突に私たちの元に入ってきた報せは、とても残酷で残念極まりなかった。
反対運動を起こそうかとも思ったが、彼に相談し冷静になってから気づいた。もう、あの神社は死んでいることに。
亡骸なのだ。1週間という短い生を終え、けたたましく元気に鳴いていた蝉が、ある日道端に落ち葉たちと変わらぬように落ちているのと同じように。
あの神社に通う人間は誰もいない。かくいう私も、気まぐれで行ったりするぐらいだ、毎日通っている人間が反対運動を起こすならまだしも、偶にしか出向かわない人間がその時になって反対運動を起こすのは滑稽極まりない。
「思い出の場所だったのに、それが数日経てば無くなるんだね」
「ああ」
私の言葉に、彼は簡素に相槌を打つ。
人も全く訪れず、心霊スポットとしての方が有名な神社でも、私たちにとっては思い出の場所だ。しかし、少数意見より多数意見が採用されるこの世界では、そんな個人的な事情などは聞き入れてくれない。
「ねぇ、覚えてる?10年ぐらい前にアンタが私に言ったこと」
「さあ。覚えてない」
だと思った。
予想通りの反応に私はクスクスと静かに笑う。
「3月は別れだけじゃない。後ろを振り向く、再認識の季節だーーー確かそう言った」
「言ったけっな、そんなキザなこと」
「言った。今思えば恥ずかしいことをね」
あくまでも惚ける彼の横顔を見る。
「どうするの。振り返るものも無くなっちゃったじゃん」
「ああ、そうだな」
自嘲のこもった笑みをこぼして言う私に、しかし彼はやはり簡素に答える。
いつもこうだ。こういう唐突な出来事が起こった時、彼は腹が立つぐらいに冷静なのだ。
彼はしゃがみ込み、落ちていた桜の花びらを手に取る。
どこか儚さを感じさせる目をそれに向けると、彼はポツリと呟く。
「もしかしたら、振り返るだけじゃなく、思い出せってことなのかもな」
「どうやって」
「自分の記憶の糸を手繰って。自力で」
「そう。意味わからない」
「俺もだ。言っててわけわからなくなった」
そんな、中身のない見当外れなことを語り合う程に私たちはダークブルーカラーの渦に巻き込まれていた。
彼は近くにあったベンチに指を指す。その方向に2人して歩いて、そして座った。
座ると、心を覆っていた膜が溶けていくのを感じた。
「肩、貸そうか?」
「…お願い」
彼は拳1つ分ほど距離を私との距離を詰める。近くなった彼の右肩に、私は糸が切れた操り人形のように頭を落とした。
「終わりなんだね」
「ああ、終わりだな」
終わりというのは、いつも唐突にやってくる。それは死でもあり、別離でもある。
そんな世界のルールで、当たり前のことすら残酷に思えてきた。
頬を伝う雫、街と私達を覆う夕焼け、朗らかな春の空気、隣から伝わる彼の体温。
私が感じている何もかも全てが、残酷なまでに温かった。
唐突の別れほど辛いものというのはありません。湧いてくるのは後悔だけで、何もかもが辛いものです。