やはり俺達が地球を守るのはまちがっている。 作:サバンナ・ハイメイン
今日の川崎家の朝食は、沙希が作ることになっていた。
と言っても昨日の夕食の残りが主菜なので、今日の分の味噌汁を作るだけなのだが。
いつものようにネギを刻んでいると、おはよー、と間の抜けた弟の大志の声が聞こえた。
「姉ちゃん、エプロン、裏表逆」
洗面所から戻ってきた大志にそう言われて、初めて気が付く。布の繋ぎ目が表側になっている。
一瞬それに気を取られていたせいで、今度は包丁で人差し指を切ってしまった。
痛い、と小さく叫び、ため息を突いて蛇口で血を流す。
「ホント大丈夫? 最近そういうの多くない? 料理当番しばらく代わるよ?」
「大丈夫だから。大志、アンタはそんなこと気にしてないで、勉強しな」
「言われなくてもしてるって」
ここ最近、たびたび家族からそういった心配事をされては、なんとか誤魔化していた。
父と母、弟で小学生三年の海斗と妹の京華もぞろぞろと起きて、居間に入ってきた。川崎家はどんなに忙しくても朝食は皆で食べる。
父が点けたのだろう、朝のニュース番組では、例の怪獣による死者が百人を超えたことを伝えていた。
まさか言えるわけないよね、あたしがこの怪獣を動かすことになるなんて。
沙希はそのニュースをかき消すように声を張って、ご飯だよ! とみそ汁とおかずを持って居間へと向かった。
「すごいな、この怪獣は」
「お父さんご飯中は新聞を読まないで」
「カッコいいなー!」
「馬鹿言うな海斗、人が死んでるんだぞ」
「さーちゃん、おみそしるちょーだい」
こうやって家族が団らんとしているのを見ると、本当に自分が近々死ぬかもしれないということが、全然実感として湧かない。
けれど、実際に死んだ人がいる。雪ノ下の姉だ。
あのちょっとめんどくさそうだけど、妹同様すごく頭のよさそうな人。勝手な印象だけど、常に自分の有利を考えてそうなタイプだっただけに、ああなるとは予想してなかった。
もちろん他人なんて所詮は他人。何を考えていたかなんて、沙希の知ったところではなかったし、興味もなかったはずだった。
ところが雪ノ下陽乃の母殺し未遂は、沙希にとって衝撃的だった。
自分だって親に反抗したいと思うことはある。憎いとすら思うことも。それでも殺意を抱くなんてことはなかった。まして実行に移そうなどと誰が考えるだろうか。せいぜいそんな家庭もあるのだなあとニュースで取り上げられる程度でしか知らなかったのだ。
しかし違った。身近とまではいかなくても、顔見知りがそのような凶行に走った。目の前で見せつけられ、結局未遂に終わったけれど、それでもショックは大きかった。
だから最後に陽乃が母親に謝りに行ったとき、沙希は心の底から、ホッとした。あれほどのことがあっても許せるのはやはり母と娘という関係があったからこそだろう。色々あったけれど、二人は和解してこれから仲良くしていくだろう。そんな風に安堵した瞬間──
これ以上は思い出したくなかった。
ただ家族と一緒にいることだけが、沙希の願いだった。
国や自衛隊などに頼る話も出ていたが、わがままを言って断る程度には、沙希は家族に執着していた。
最近の奉仕部に通っているのは、実のところ沙希の救いになっていた。誘いがなければ学校をやめてずっと家にいて家族と過ごすという選択肢をとっていたかもしれない。今考えてみれば、それが如何に精神的に良くないことか分かる。
雪乃に誘われたときはどうなるかと思った。あの三人には近寄りがたい空気というかみだりに踏み込めない雰囲気というものがあった。仮にあの中に入っていける人間がいるとしたら人の心に無頓着か、よっぽど皮の面が厚いかのどちらかであろう。
結衣は気を使ってくれているが、個人的には雪乃のようにはっきりとした物言いをしてくれた方がすっきりした。ただ雪乃だけだとあの居心地の良さは無いだろうから、結衣の優しさは緩衝材となっているのは間違いない。
そして忘れてはいけないもう一人。
そこまで考えが及んだ時、沙希を呼ぶ声で思考の海から現実に引き戻された。
「沙希、今日は父さんも母さんも帰ってこれなさそうだから、いつも通り適当に作ってなさい」
最近の両親は、仕事がよっぽど忙しいのか、朝食以外ほとんど家で一緒に過ごせない。
どうやら今日も例に漏れず、帰って来られないらしい。
娘と過ごせる残り僅かな時間だというのに、と沙希は冗談交じりで思うものの、本当のことが話せるわけでもなく、いつも通り返事をするだけだった。
父親は朝食を食べて一服すらせずにせかせかと家を出て、母親が出勤ついでに保育園に京華を連れて行った。
京華は舌っ足らずにいってきますとあいさつして家出たので、あたしも急がなきゃいけないなと自分の弁当を詰める手を速めた。
川崎家からどんどん人が居なくなる朝。いつも通りだが、それが日が経つにつれて何だか寂しく感じられた。
「姉ちゃん、今日塾だから帰り遅くなるわ」
そう言って大志も台所を通り抜けようとする。
最近大志は放課後塾まで学校で勉強し、塾が終わった後も残って課題をやっているようだった。
なんでも塾の講師が学校の先生をやっていた方で、教え方がめちゃくちゃ上手だとか。名前は確か……。
「あんまり畑飼先生を困らせないようにね」
「わかっているよ」
そう畑飼という人だった。一度会う機会があって、見たことがあった。
顔立ちが整っていて、思慮深く落ち着きのある印象を受けた。でもどこか胡散臭さを感じた覚えがある。誰かに似ている気がしたが、一体誰だっただろう。
最後に家を出るのは小学生の海斗だった。
やんちゃ盛りで、うちのムードメーカー的存在。
「こら、海斗、今日雨なんだから、傘持ってきな」
「いらねーし! 走っていけば濡れないから!」
「そう言って前風邪ひいたでしょ、アンタ!」
「うるさいなー! 姉ちゃん母ちゃんに似てきたよ」
そんなやり取りをしつつ、無理やり海斗に傘を持たせて登校させた。
さてあとはあたしだけか。
沙希はいそいそと準備して、雨の中、学校へと足を運んだ。
それにしても、母ちゃんに似てきた、かあ。
授業の合間、不意にそんなことを思う。
沙希はこうやって下の兄弟の世話をしていく中で、自分が家庭を持つということをしばしば考えることがあった。
どんな家庭が良いだろう。少なくても四人姉弟は多すぎるな。子供は二人か三人が良い。あたしはアパート育ちだから、小さくても一軒家住んでみたい。両親の世話は大志が見るとして。
自分の子供が出来たら、どれほど可愛いだろうか。姉弟でこの可愛さだ。子供なんて言ったらそりゃもう言葉にできない。兄妹たちみたいにちゃんと躾できるだろうか。いやいやあたしはしっかり教育してやるんだ──
そんな妄想をしていると、どこからか視線を感じる。この、ちょっとおどおどしつつ、でも気にかけてくれているような優しさのこもった視線。そんなちょっとした気遣いさえ不器用なのは、沙希の知り合いではただ一人しかいなかった。
チラリと気配を追うと、その人物と視線がかち合う。
奉仕部で無視できないもう一人の存在、比企谷八幡。
あの男にはスカラシップで助けてもらって以来少しばかり気になるところはあったが、決定的だったのは、文化祭での「愛してるぜ」発言だ。
正直言って、恥ずかしかった。本人は全く覚えていないだろうし、たぶん何かしらの冗談だったのだろうが、沙希の心にきゅんと突き刺さってしまったのだ。
しかしこれを頑なに恋とは思わなかった。当然だ。あんな程度で人を好きになるなんて、どうかしてる。あたしはもっとガードの堅い女のはずだ。
また八幡と視線が合ったので、鼓動が高鳴り、顔が火照り、頭が真っ白になる。最近気にかけてもらっているのは気が付いていたが、申し訳ないと思いつつ視線を逸らすしかなかった。
それでまた、小さくため息をつく。
別に好きではない。好きじゃないのに、家族の妄想をしていると、どうして旦那役はいつも、彼なのだろうか。
***
「あ、大志君のお姉さん? ご招待いただきありがとうございます! でも私と大志君は遅くなるので、どうぞ先で食べててください!」
八幡の妹の小町、と言ったか、彼女が年の割にはしっかりした応対で、通話を切った。
その兄貴がどうしてこんななのかね。
くすりと笑みをこぼしながら、いつもの猫背姿の八幡を見る。
どうしてこんなことになったのだろう。
まさか自分の口から彼をご飯を誘うだなんて。
彼の妹を使うのは我ながら随分効果的だった。突発的にしては上手く行き過ぎである。
「けーちゃん、はーちゃんと一緒だ!」
一緒に京華の迎えに行くと、保育園の先生から、あらあら彼氏さんと一緒? なんて茶化される。
沙希はそんなんじゃないです、と不愛想に言うのが精いっぱいだった。八幡は居づらそうにしていたが、沙希は顔がにやけるのを抑えるので必死だった。
京華は何故か八幡に懐いており、はーちゃんはーちゃんと積極的に話しかける。八幡は八幡で、年下の相手は慣れている様子で、まるで親戚のように上手にあやしていた。
もしかしたら京華は将来男を誑し込むのが上手くなるかもしれない。そんなことを思うと、ちょっとだけ不安になる。
それで京華の手を取ると、ちょうど、京華の両手を八幡と沙希で握っている状態になった。道路側の右手が八幡。左手が沙希。真ん中に京華。
「こうやってると、おとうさんとおかあさんみたい」
京華は楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながら言った。
お父さんとお母さん。そんなことを言われてへどもどする猫背の八幡が妙に可愛らしく思えた。
まあ沙希も沙希で顔を真っ赤にして、ロクに八幡の顔を見れなかったのだが。
そんなこんなで川崎家に到着した。
すでに帰宅していた海斗が、早速八幡に一緒にゲームをしようとねだっていた。
八幡は京華を半ば引きずりながら一緒にテレビゲームに参加している。
自称コミュ障ぼっちは、沙希のウチでは人気者に早変わりだ。
沙希はいつもより気合を入れて、料理を作った。
里芋の煮っころがし、アジの開き、ほうれん草のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁とご飯。
沙希自身、地味だなと思いつつも、変に気を張って慣れないものを作るより、いつも通りの献立を作る方がよいという考えに至ったのだった。
食べ盛りの海斗は、エビフライがよかったーなどと文句を垂れているが、食の進み具合から見て、不満ではなさそうだ。
京華も箸の使い方を最近覚え、器用にご飯を食べている。京華は食べるときはとても静かで、もくもくと食べるのが可愛らしかった。
さて、肝心のお客さんの反応は?
沙希は恐る恐る八幡に尋ねる。
「口に合えばいいんだけど……」
八幡は目を丸くして、出された品々を食べていた。
どれを食べても優しい味がした。熟練された味付けの中に、沙希の家族への思いを感じ取れた
そして何よりも。
「美味い……。すげー美味い」
ほとんど独り言、呟きに近い言葉で八幡はなんとか感想を述べた。
それだけ沙希の料理は美味しかった。思わず出てくる感嘆のため息すら惜しい。口に含んだ瞬間幸せがじゅんと溢れる。
八幡は気づかない。頬が緩み、顔が綻んでいることに。沙希は気づいた、八幡が意図せず笑顔になっていることに。
それだけで、本当にそれだけで十分だった。無理をして彼を誘った甲斐があった、報われたとさえ思った。
小町と大志が帰ってくるまで、八幡は川崎家にいることになった。
その間は海斗と京華で八幡の取り合いになっていた。
それにしてもあの比企谷八幡がこれほど子供の相手が上手いとは。まるで沙希の妄想の中の、旦那となった八幡そのものだった。
食器を洗って、一息つく頃には、海斗と京華は遊び疲れて寝てしまっていた。
居間でくたびれている八幡に沙希はお茶を持っていた。
「お疲れさま。チビ達の面倒見てくれてありがとね」
「さんきゅ。てかお前んとこの子供たち変だぞ。俺の目を見ても全然ビビらない」
「あー。最近あたしの目が死んでからかも」
「……妙に納得したわ」
八幡はずずっとお茶を飲んで一息ついた。
沙希は寝てしまった弟たちに布団を掛けて、八幡の隣に腰かけた。
「材木座の件、悪かったな」
八幡がお茶の湯飲みに視線を落としつつ、口を開いた。
「いや、あれは急かしたあたしにも責任があるよ」
その言葉に首を振る八幡。
「あの時、責任を負うって言ってくれた時なんだが、もう知ってたんだ。材木座の死因が俺たちのせいじゃないってこと。お前の決意を無為にしちまうのも知ってて黙ってた」
八幡が沙希に向き直った。
「本当にごめんな」
それで沙希は、ああそんなこともあったなと思い出していた。
あの時はまだ自分が死ぬなんて思ってもなくて、ただ一人で思い詰める八幡を何とか楽にさせたかった。その一心から出た言葉だった。
「いいよ。別に。アンタには今こうして世話になっているし」
それで八幡がきょとんとした顔になった。
「いやいや、世話になってんのは俺の方だろ。メシめっちゃ美味かったぞ。御馳走様」
ああこの男、あたしがこんなに露骨なのに全く気付いてないのか。それとも気づかないふりをしているだけなのか。
しかし沙希にとってどちらにしても好都合だった。意識したらお互いまともに喋れないだろうし。
「アンタさ、意外とたくましいよね」
「なんだ急に」
「いやさ、あたしは家族であたしだけが死ぬから、まだマシなんだけどさ。アンタは妹もゲームに契約してるだろ? だからあたしの二倍しんどいんじゃないかって思ってさ」
日ごろから思っていたことをつい口に出してしまった沙希は、しまったと思った。
この話はきっとタブーのはずだ。彼だってきっと考えないようにしていることだろうに、わざわざ思い出させることを言ってしまうなんて。
自分のコミュニケーション能力の低さを呪った。
「あ、いや、その、変なこと言ってごめん」
慌てて謝る沙希に、再び八幡が首を振った。
「いや、大丈夫だ。小町はきっと助ける。俺が何とかする。絶対にパイロットなんかにはさせない」
強い口調で八幡は言い切った。
「何かあてでもあるのかい?」
「いや別に何もないんだがな」
「なにそれ」
「ただ……そういった気持ちだけは常に持っとかなきゃなってな。いつチャンスがあるか分からないし」
八幡は諦めてなかった。あの人生諦めが肝心と言ってはばからない男である。全くどうしようもないシスコンだ。
「そりゃあ、国への保護を蹴ったあたしへの当てつけ?」
意地悪っぽく沙希が言った。
「ちげーよ! お前はお前で覚悟があるんだろう?」
沙希は目の前で寝ている海斗と京華を見た。
「チビ達の未来のためなら、あたしは死ぬことだって厭わないさ」
でも少しだけ未練はあるけれど、と続けて出てきそうなのをぐっと堪えた。
それを聞いた八幡ははえーと間抜けな顔をして、すごいな、と呟いた。
「妹思いなのは良いけれど、あたしはアンタにも諦めてほしくないよ」
その言葉はあまりにも自然に先の口から出てきた。
「そりゃまた、なんで」
「なんでって。そりゃ──」
誰も死なない方がいい、と続くはずだった言葉は、突然詰まった。
誰も死なない方がいいのは確かに間違いではない。
けれど、今の沙希の心には的確ではなかった。
別に他の人間が死んで良いと思ってるわけではない。でも八幡だけは違った。死んでほしくない。例え自分が死んでも、兄妹達同様に生き残っていて欲しい。
その感情にようやく気がついた。
気が付けば、家族と同じくらいには死んでほしくないと思っている。
ああそうか、あたしは、この男に恋してしまっていたんだ。
「なんでだろうね」
くすっと誤魔化す様に笑顔がこぼれた。
その無防備な表情に、八幡の鼓動がどくんと波打った。
「ただいま」
「お邪魔しまーす」
玄関の開く音と、大志と小町の声が居間まで響いた。
沙希は足早に二人を迎えに行ったが、その表情はきっと八幡と同じ。
暗がりでよく見えないが、朱色に染まっていた。
ついに書き溜めが尽きました。
これ以降は不定期になることをご容赦ください。
なお川崎編までは早めに投稿します。