やはり俺達が地球を守るのはまちがっている。 作:サバンナ・ハイメイン
私は誰かに操られている。
陽乃がそう意識するようになったのはいつからだったろうか。
『貴方は雪ノ下家の長女なのよ』
一番古い記憶は、母のその言葉だった。 声音は穏やかなだけれど、威厳のある言葉。不思議な強制力を持つ、魔法の鎖。
陽乃は母の教育によく応えた。否、応えられてしまった。
周りは期待に違わぬ陽乃を持て囃した。けれど陽乃は母の言う通りしてきただけだった。だから褒められているのは“私”ではなく、雪ノ下陽乃を教育した母なのだ。
雪ノ下家の長女という、ただの名誉職。
そこに実質的な権限は無い。結局のところ、それは母の意思であり、他人の願望をかたどった偶像に過ぎないのだ。
本当の意味での“私”はどこにも存在していなかった。
幾多の仮面を剥ぎ取っても雪ノ下陽乃の中に“私”は居ない。ホンモノなど何処にも在りはしないのだ。だって陽乃が本物ではないから。
母に反抗したこともあった。
ある時期、母在りきの陽乃を、雪ノ下陽乃を演じるのが嫌になったからだ。
まさか中学生の陽乃が海外に逃げるなんて、母には想像もつかないだろう。当時はそんなことを思いながらほくそ笑んだものだった。
数日後、妹が海外に飛ばされると聞くまでは。
表向きは雪乃の意思による海外留学、となっていたが、陽乃にはそれは母がそうなるように仕向けたとしか思えなかった。
なんてことはない、要するに人質である。
帰ってこなければこのままお前のように雪乃を教育するぞ、という母からの警告だった。
陽乃は、観念した。同じ境遇で育った可愛い妹を、自分のような操り人形に、なって欲しくなかった。
以降、陽乃はひたすら母に従う日々を送った。
合気道をやれと言われれば、大会優勝で応えた。
ピアノをやれと言われれば、金賞を取って応えた。
県内一の高校に入れと言われれば、主席で総武校に入学して応えた。
積み上げた実績の分、胸に刻まれた穴はどんどん深くなっていく。代わりに『私は信頼されている』とか、そんな欺瞞を詰め込んで。
周りが『文化祭を盛り上げたい』と願えば、委員長に立候補して叶えて応える。
周りが『誰かがあなたの悪口を言ってるよ』と密告すれば、二度と歯向かわない程度に叩き潰し応える。
周りが『君なら難関大学にだって受かる』と期待すれば、全科目満点で合格して応える。
母が言えば、雪ノ下陽乃は結果を残して応える。
周りが言えば、雪ノ下陽乃は願望を叶えて応える。
みんなのアイドル雪ノ下陽乃は、誰の願いでも叶えてしまう。
けれど。
けれど"私”が何を言っても、雪ノ下陽乃は応えてくれない。 “私”の意思に応えることと、雪ノ下陽乃の存在は互いに背反して相容れない性質だから。
こうして自己矛盾に陥った陽乃は、次第に考えることを辞めていった。
奥へ奥へ、深層心理のそのまた奥へ。誰にも見えないところまで。
ずるずると“私”の意思を、奥に運んでいけ。心の奈落へずるずると。陽の当たらない深淵へ。もっと、深く。奥の奥。
果たして“私”を見失う。
雪ノ下陽乃は“私”を封じ込めることに成功したのだ。
これでオールウェイズ陽乃ちゃん。
どこからどう見ても、……例え心の中を見透かされても……、完璧超人みんなのアイドル雪ノ下陽乃だった。
何十枚もの仮面を被ったお人形は、今日も明日も誰かのために踊るのだろう。雪ノ下陽乃という役を演じ終えるまで。
それは途方もない話に思えた。
……けれど、呆れるほどにあっさりと、雪ノ下陽乃の終わりは訪れる。
材木座の死因を調べたのは、単なる好奇心だった。
別に死に方が不自然だったからとか、八幡がどうだとか、そういうものではない。
ただ純粋に、知りたかった。
ジアースという異形な人形を。
もしかしたら、そこに陽乃は微かな希望を抱いていたのかもしれない。この圧倒的な力が、今度こそ“私”を見つけてくれるかもしれない。
だから死のルールを聞いた時、陽乃は開放的な気分になったのだ。雪ノ下陽乃を辞められる、母の呪縛から逃れられる、“私”を出すことができる。
越えられない壁を越えるどころか粉砕することができるかもしれない。操り人形の持ち主の喉元に、手が届くかもしれない。
「まあ、ホントはそんな簡単なことじゃなかったんだけどね」
以上の内容を掻い摘んで話した。
陽乃は一呼吸置いて、聞き手の様子うかがってみる。
コエムシは相変わらず無表情だが、時折頷いたり相槌を打ったりしていた。
どうやら陽乃の腹の中が聞けて満足している様子である。むしろ無言がもっと聞かせろと催促してきているようにすら陽乃は感じた。
同じように八幡も、少し困惑した様子を見せながらも、ほとんど表情を出さず、ただじっと淀んだ目で陽乃を見ている。
それはいつものように言葉の裏を探っているような、そんな素振りである。
……ちゃんと疑ってくれてるな、比企谷くんは。
陽乃には中身が無い。雪ノ下陽乃とただの人形だ。
八幡が表だと思う方も裏だと思う方も、どちらも雪ノ下陽乃の仮面なのだ。
そして皮肉なことに、それこそが、“私”の最大の誤算。
「ひたすら雪ノ下陽乃であることに必死だった陽乃は、自ら隠した意思を、“私”を、忘れてしまったわ」
本当の“私”は何処いるのか。
本当の“私”は何がしたいのか。
本当の“私”は何を望んでいたのか。
もう分からなくなってしまった。
それは雪ノ下陽乃の望みである、と否定することが出来なくなっていた。
ジアースのルールを持っても、雪ノ下陽乃の仮面は外れることは無かったのだ。
では陽乃はどうすれば雪ノ下陽乃を辞められるのか。
心当たりはふたつあった。そのひとつは、目の前に。
「……どう思う、比企谷くん?」
問われた八幡は困ったように頭をガシガシとかいた。
どんよりとした黒目を右上に向け、何か考えを巡らせている。
これだけ短い間に色々あったのだ、並の人間ならば脳の処理が追いつかず、現実逃避をするのがせいぜいだろう。
だが、彼は陽乃が見込んだ通りだった。
荒唐無稽なジアースのルールについても、理解したとまではいかないが少なくても上手く受け止めることが出来ている。
ココペリの死体を自ら確認し、冷静に事態の正誤を把握しようとしている。
その場の適応力はかなり高い。もし彼が就職して無能な上司の下に就いたらメキメキと頭角を表すだろう。彼は逆境や無茶ぶりこそ真の力を発揮すると、陽乃は睨んでいた。
将来の夢が専業主夫だなんて、勿体無い。家畜のように社会に貢献して欲しいものだ。もちろん褒めている。
さらに虐げられた経験による、確かな洞察力。悪意に敏感で陽乃の表の顔をすぐさま見破る優れた観察眼。濁った目は、それだけ肥えてるということだ。
加えてここ最近の出来事では、精神面でも非凡なものを持つことがわかった。
文化祭ではヒール役を買って出て、不貞腐れた実行委員長に仕事を完遂させた。材木座の死では、容疑者であるという負い目と親しい人間を亡くした悲しみを乗り越えた。
基本は高スペックだと自称するだけある。陽乃は比企谷八幡を、当初より大幅に高く評価していた。
腐っているから彼だからこそ、出来たことがある。
比企谷八幡は、陽乃の妹である雪ノ下雪乃を変えた。
比企谷八幡は、陽乃の幼馴染である葉山隼人を変えた。
どちらも雪ノ下陽乃という幻影を追っていた人物だ。
であるならば、雪ノ下陽乃という幻影に呑まれた“私”を、変えくれるのではないか。
彼は言うならば自意識の化け物だ。
自分の意思を過剰なほどにしっかりと持つ、陽乃とは対極の存在である比企谷八幡に。
きっと期待しているのだ。
柄にも無く自分を語ったのは、もう自分を騙りたくなかったからだ。
陽乃を、“私”を、見つけ出せるのは、もう彼しかいないのだ。
「あの、ひとつ確認にしても良いですか?」
人差し指を一本、前に出した。
焦らすのような仕草に、陽乃はもどかしさを覚える。
「なんでも聞いて」
食い気味に聞いた陽乃の声は、幾分弾んでいた。自分が思っている以上に、彼の答えが気になっている。
そのことに、もはや驚いていなかった。鼓動が早くなるのが分かる。わくわくと、夢を見る子供のように。
……だから。
「雪ノ下、あ、妹の方ですけど」
最初のそこだけで。
「本当は契約してないんじゃないですか?」
陽乃は理解してしまった。彼にとって、雪ノ下雪乃の姉、雪ノ下陽乃に過ぎなかったのだ。
妹というフィルターを通して陽乃を見てきたのならば、どうして彼は“私”を見破れるのだろうか。目が眩んでいた。考えれば分かることなのに。気がつかなかった。
陽乃の視界は心無しか一段と暗くなったように感じる。隣ではコエムシが声を押し殺して、でも確実に誰かを嗤っていた。
陽乃は行き場の無い感情を、ひとつのため息に詰めて吐き出した。
理解してくれるという幻想を、瞼の裏に閉じ込め、また仮面を被る。
「……どうしてそう思ったの?」
雪ノ下陽乃は思いのほかすんなり出てきた。
「俺は雪ノ下陽乃という人間はよく分かりません。でも雪ノ下雪乃の姉で、且つ重度のシスコンだということだけは確かだと思います」
彼の言葉とても的を得ていて。けれどそれは、とても残酷で。彼女は彼女で雪ノ下陽乃しか出てこなくて。
「ふふふ。そうね。雪乃ちゃん大好きだもの。あ、もちろん比企谷くんも大好きだけど」
雪ノ下陽乃はいつものように笑えているだろう。
「そう言うの良いですから……」
彼のあしらいもいつもと同じ。
「それでジアースは全部で10戦するんですよね。でも俺たちはあの場で13人、3人戦わなくて済む。助かるんです」
理路整然と推論を話す彼の目には、きっと陽乃は写っていない。
「そして雪ノ下陽乃という貴方の人物像。まるで死を恐れない言動の数々。ならば答えは……」
「全ては雪乃ちゃんのため。それが比企谷くんの考える、“私”の正体ってワケね」
陽乃は自ら先んじて彼の結論を口にした。
「そんな感じです。雪ノ下は契約者じゃなくて、陽乃さんは妹が生きる地球を守るため死を受け入れた、と」
雪ノ下陽乃は思わせぶりな笑みを仮面としてつけているだろう。その仮面の何十枚も下、奥底には彼に対する諦観が渦巻いていた。
こんな感覚はいつ以来だろうか。 肥大した期待を誰に押しつけ、勝手に失望したのは。
何かを落とすような、喪失感は。
過去に、もう自分を見つけてくれる人は居ないと、見切りをつけていたのに。死を前にして、やはり諦めきれないと、臆した彼女は過ちを繰り返す。
ぽしゃんと陽乃の心に呟きが落ちた。
ああ、そっかぁ。比企谷くんでも、“私”を見つけられないのか。
それはとても寂しくて。
とても辛くて。
苦しくて、虚しくて、凍えるようで、仮面をもっと重ねなければと、ひとり決意して終わる。
残された陽乃の手札には、もうひとつの心当たりだけ。
文字通りの切り札を出すしかないようだ。
身を切る、札を。
***
俺の推測は、今話した通りだった。
「…………」
陽乃さんは俺の答えを聞いた後、薄い笑みを見せ、しばらく顔を後ろに向けている。
それが正解か否かを示しているのかわからない。けれど、これが俺が出した解答だ。
陽乃さんは妹を守るため、死を甘んじて受け入れ戦うのだ、と。
陽乃さんの問いは、非常に答えにくいものであった。
理由は二つ。
今までの不可侵領域を超えた、雪ノ下家に関わるデリケートな問題だったということが一つ目。
もう一つは陽乃さんの狙いが不明瞭な点だったからだ。
そもそも雪ノ下陽乃という人物を正しく認識するはかなり難しい。
なんせ、あの陽乃さんだ。例え本人の口から腹の中を話したとしても、信憑性に疑問符がつく。
陽乃さんは語ってる時も、纏っている雰囲気を崩さなかった。あの晩の笑顔のようではなく、完全に仮面を被っていた。
ということは、純粋な相談事では無いのではないか? と邪推してしまう。
それで思いついたのが、ジアースのルールの件だ。
ココペリは10戦戦うのだと言った。俺たち12人の中で誰か2人生存できるということだ。陽乃さんがこれを見逃す訳がない。なんとしてでもその生存枠に入ろうとするだろう。
だが、それを実際に知ったのはパイロットの指名を受けた後だった。今までの話を聞いている以上では、抗いようの無い、死の宣告。
にも関わらず陽乃さんはそれを笑って受け入れたのだ。
ここまでの事情と俺から見た雪ノ下陽乃という人物像を照らし合わせる。
そうすると結びついてきたのはやはり妹の存在だった。
陽乃さんは妹の雪ノ下に歪ながらも確かな愛情を持っている。俺の小町への溺愛っぷりにも劣らないシスコンなのだ。
ならば雪ノ下雪乃は契約をしていないと考えるのが妥当である。方法は分からないが、とにかく溺愛する妹の雪ノ下は死ぬことはない。だから陽乃さんは平常心でいられるのだと。
やがて陽乃さんは向き直った。
「正解は……、ふふふ、保留」
陽乃さんはいつものように、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
その表情はあまりに完璧過ぎて、逆に違和感を感じたのは気のせいだろうか。
「……く、くくく」
そして、しばらくして、堪えきれなくなったとばかりに声をあげたのは、コエムシだった。
「くくく、お前たちは面白え、面白えわ! くくく、くくく」
コエムシは声を上げながら真っ黒なコックピット内をひゅんひゅんと笑い転げていた。
この場合、笑い飛び回る、と言ったところか。
しかしそれほど笑う要素があったのだろうか?
「……どこにツボったんでしょうね?」
この、なんで笑われてるか分からない感じ、ホント嫌だよな。
中学の頃、教室に入っただけで何故か笑の的にされたトラウマが蘇ってきた。
俺の背中に「人間失格」って紙を張った高橋、今でも絶対に許さない。
どんよりとした目線を陽乃さんに向けた。
「……ふふ」
俺はその顔に、ぞくりと戦慄した。まるで空間がぐにゃりと捻じ曲がったような錯覚に陥る。
笑み。
陽乃さんは笑っていた。けれど俺に見せていた余裕のあるそれではなくて。
「ふふふ」
「くくく」
笑いは元々動物が威嚇するときにみせる表情であるという話を聞いたことがある。
まさにこれだ。思わず後ずさってしまうほど、その笑みは獰猛に満ちていた。
一方コエムシはそれを感じ取っているのか、わざと焚きつけるように不快感のある高笑いを続ける。
「ふふふ、本当に可笑しいことね。ふふふ」
「くくく、そうだね、面白くてたまらないよ。くくく」
「ふふふ」
「くくく」
やべぇ……。なんだこの険悪な雰囲気は……。
じりじりと放たれる負のオーラに、俺の体は自然と距離を放とうとする。
「おわっ」
しかし後退しようとする足が何かにひっかかり、俺はバランスを崩して尻餅をついた。
陽乃さんとコエムシのオーラがつに具現化の域まで達し、俺の退路を塞いだのか!?
もちろんそんなことはなく、俺が躓いたのは、ココペリの亡骸だった。
あまりに綺麗すぎる亡骸は、やはり本物でないのでは、と疑ってしまう。
しかしあの雪ノ下陽乃が事実だと認識しているのだ。俺の推論とも辻褄があう。これ以上の説得力はなかった。
今度は陽乃さんがこうなるのか……?
コエムシとの何か言い合ってるあの陽乃さんが、殺しても死ななそうな陽乃さんが、本当に死んでしまうのか?
あ、やべ、目が合った。
……そうだ、ココペリの脈をもう一度取らなきゃ(現実逃避)
さっきは手のひらの下の部分に指を当てただけだった。
出会った時と同じジャケットとタートルネックを捲り上げると、白じろでゴツゴツとした右腕が姿を見せた。
そこで、俺は思わず声を上げてしまった。
「なんじゃこりゃあ……」
数え切れないほどの傷が右腕がにびっしり刻まれていた。
小さな切り傷はもちろん、ナイフで斬りつけられたかのような一閃が、銃創らしき凹みが、痛々しく残っていた。
唐突な右腕の惨劇に、俺はただただ呆然と口を覆っていた。
「奴も色々あったんだぜ。傷なんて俺がどうとでも出来るのに、それを拒むんだから、わかんねえよな。人間って」
ひゅんとコエムシが俺の脇に現れて言った。
「現実逃避をしようとココペリを調べたら、さらに惨い現実を突きつけられるなんて、残酷だよなあ?」
相変わらず軽い調子で言葉を並べるコエムシ。
俺が不快な時に出るヒクヒクとした口角の歪みを見て、楽しくてしょうがないとばかりにころころと笑った。
「……コエムシ」
陽乃さんの怒気のこもった呼びかけに、コエムシはへらへらと応じて、俺の側から離れていく。
口からは息が零れ、感情の高まりが少しだけ抜けた。
そして俺はとある事実に、