「署長、なっとうに襲われた被害者がどうしても会ってお話したいとのことなのですが」
「被害者が私に何の用だね」
長野が沈鬱な表情で応じた。任務を全うするつもりがことごとく裏目に出てしまったことで、個人の進退問題を越えた事件の責任が、彼の肩に重くのし掛かっていたからである。いつもなら、時には傲慢とも思える長野の態度の変容には、伝えに来た署員も戸惑うほどであった。
「はい。なっとう撃退に関する手段についての提案がある、と言っているのです」
全員が振り向いた。
「撃退、あのなっとうをか」
「ええ、6号線でトレーラーを運転中、なっとうの群体に突っ込んだのですが、奇跡的に消化されず生き残った方なのです」
自衛隊が出動した以上、事態は既に警察の手を離れてはいる。だが自らが事件を拡大させてしまったため、どの様な些細な情報でも入手しておきたかった。長野は会見を承諾し、対策本部の一室にその被害者を通すように命じた。
片腕を包帯で吊った館城進が、応接室に通された。
「一刻の猶予もありません。単刀直入にお聞きします。あなたの言うなっとうを撃退する方法とは、いったい何ですか」
長野は話を切り出した。
「じゃあ、手っ取り早く言いますが、藁を使えばいいんじゃないでしょうか」
「わら?」
「はい、藁です。というのも、自分はあのなっとうに突っ込んだ時、たまたま里の母親が作った自家製のなっとう――もちろん普通のなっとうですが――を持っていたのです。市販の物と違って、藁に包んで発酵させた、正真正銘の『おふくろの味』ってやつです。なっとうの中――あの肉食なっとうのことです――に突っ込んだ時、自分はこれまでの親不孝を今更ながらに思い出しました。すると、よくテレビで走馬燈のように、って言いますが、丁度そんな感じで、ガキの頃悪さをして親を困らせた事が次々と思い出されてきたのです。いや、自分は本当に親不孝で、近所の女の子や小さい子を泣かしては親が詫びに行って……」
「あの、手短にお願いします」
「は、失礼しました。で、『かあちゃん、ごめん』ってつもりで母親が持たせてくれたなっとうの包みを握り締めたんです。すると、空気取り入れ口から侵入をし始めていたなっとうが、いきなり動きを止めて引っ込んでいったんです。
なっとうはもともと藁に包まれていたものでしょ、だから藁でバリケードを作れば、なっとうは動きを止めるんじゃないかと思いまして」
アドバイザーとして同席していた波崎は身を乗り出す。
「藁を差し出しただけでなっとうが停止したのですか」
「ええ、だからこうして自分は生きているんです。本当に、かあちゃんには助けられました。これからはもっと親孝行したいと思います。『親孝行、したいときには親はなし』と言いますし、自分は……」
「波崎さん、どうですか。あり得ることなんでしょうか」
「わかりません。しかしあれがなっとうの変異体だとすれば、細胞の遺伝子レベルの記憶に藁に対する何らかの反応が残っているかもしれません。なっとうにとって、藁は胎盤に等しいものですし。
署長さん、至急藁の収集を手配しましょう。とにかく行動してみるべきです」
館城の取り留めの無い話を遮り、本部室に急ぎ足で戻ると、先に戻った長野が大声を上げて飛び出した。
「波崎さん、自衛隊がなっとうをやっつけました。教授が仰った通り、冷凍爆弾を使用したのです」
「本当ですか!」
ブラウン管に臨時ニュースが流れる。旋回する自衛隊のV-107の更に上空を飛ぶ報道ヘリからの俯瞰映像が映る。周囲を含め、白く凍結したなっとうの群れが広がっていた。
室内一斉に安堵の声が漏れる。
「やりましたね。これで市街に被害が及ぶ事態は避けられました。藁の必要な無くなりましたね」
「はあ……」
波崎は映像を見て不安を感じていた。自衛隊のヘリは超低空で舞っている。白く凍り付いたなっとうは活動を停止しているが、中央部に盛り上がった部分が残っていたからだ。
「教授が冷凍爆弾を提案したのは、まだなっとうの体積が数㎥程の段階でした。ここまでの体積に増殖してしまったのでは、充分な有効性は発揮できないと思います。
多少の足止めにはなるでしょうが、あれでは表面のなっとうを凍り付かせ動かなくしただけに過ぎません。液体窒素の気化が始まっています。じきに活動を再開させると思います。警戒しないと、自衛隊のヘリが巻き込まれるかも」
彼の言葉に、再び映像に目を向けた。なっとうに動く気配はない。
「波崎さんの考え方は悲観的過ぎるのではないですか。とても動き出すようには見えませんが」
「できれば僕もそう思いたいです。しかし……ほら、あれを!」
群体の盛り上がった中央部に亀裂が奔った。瞬く間に広がると、次の瞬間、溶岩流の如きなっとうの柱が空中に舞った。
「あっ」
山川二尉の登場したV-107は、なっとうの柱に捕らえられ、たちまち地上に叩き付けられた。機体の落下によって凍結していた表面が割れ、既に死んでしまったなっとうの個体が次々と内側に沈んでいく。代わって凍り付いていない組織が湧水の如く盛り上がる。低空からの墜落で、機体の原型を留めていたV-107であったが、見る間に湧き上がるなっとうの波に呑まれていった。
映像を見守っていた全員が、一斉に深い溜め息をついた。
「凍結させるには群体の体積が増えすぎたのです。もはや液体窒素では完全に奴らの組織を破壊させるのは出来ないのです。一刻も早く、僕たちは藁を集めましょう」
重苦しい空気の中、室内にいる者は無言で頷いた。
個人研究室に閉じこもった安井も、スペクトルG線の扱いに頭を痛めていた。
封印されていたスペクトルG線のテクノロジーは、20年という間の驚異的な科学技術の進歩により、容易に高性能の発生装置が量産できることは判った。問題はこの光線の性質自体にあったのだ。
スペクトルG線は、特殊な放射性光子の流れによって原子分子の活動を停止させ、素粒子レベルまでに物質を凍結破壊させるものである。しかし
条件を算出したマイコンの前で、安井はがっくりと肩を落とした。
「だめだ。直径4mのレンズなど、世界中探してもすぐに手に入る代物ではない」
安井は己と人間の非力さに打ちのめされた。既に日は傾き、西日が机に照り返していた。向かいの研究棟の屋根に置かれた太陽電池板が反射しているのだ。安井はぼんやりと太陽電池板を見つめていた。
「眩しいな、あの鏡は――鏡――かがみ……」
安井は立ち上がった。
「凹面鏡だ。それならレンズ替わりに簡単に作れる。内側に金属箔を貼り付けて……」
だが、また彼は座り込んでしまった。
「直径4mの凹面鏡を、いったいどこで、誰が量産するというのだ。完成までに、水戸はみとなっとうに食い尽くされてしまう」
彼は視線を落とした。部屋の隅に、波崎が忘れていった傘が無造作に立て掛けられていた。
「傘も、一種の凹面鏡だ。巨大な傘が数百数千あれば、なっとうを倒せるのだが。
巨大な傘……巨大な、傘。巨大な傘!」
椅子を撥ね飛ばし、安井は再度立ち上がった。
「クリスト・アンブレラ・プロジェクトだ!」