今年の6月は空梅雨だが、その日はなかんずくよく晴れわたっていた。一点の雲もとどめぬ空に、朝の太陽は自らの輪郭をくっきりと浮かべている。レナの清しい気分とすっかり照応した、まばゆいばかりの白い朝。
レナはいつもの通学路、未舗装の砂利道を歩み、やがて圭一といつもの場所で落ち合い、とりとめのない会話をして、お互いに笑いあった。圭一にとってはたわいもない日常だが、レナにとってはずっと焦がれてきた時間だった。この倖せな、宝石のような時間がずっと続けばいいのに。昨日は梨花にたいして、あんな崇高なことを大上段に構えて言ってのけたが、人間の決意というものは脆いもので、楽なほう、楽なほうへと流れてゆく。だが、なけなしの理性で、その流れを堰き止めなければならない。戦わねばならない。レナが夢にまでみた雛見沢での日常を、他ならぬその日常を守るために手放し、強大な組織に立ち向かわねばならない。
先ほどまで喋り倒していたのに、急に黙りこんだレナを心配して、圭一が声をかけてきて、はっとしたレナはなんでもない、とうそぶいて、14歳のころの自分を演じきる。この時期は人前で楽天的な素振りをして、本心の暗鬱な部分を隠していた。他者にたいしてのみならず、自分自身にたいしても、幸せなのだと言い聞かせるための媚態。不幸な人生を送る少女の処世術。
しかし自分自身を偽り続けることで、その仮面は徐々にレナの顔と同化してゆく。永いあいだ被りつづけて、くっついて剥がせなくなった仮面。それはもはや仮面とは呼びえず、素顔と呼ぶべきかもしれない。
しばらくして魅音と落ち合い、お喋りに花を咲かせたが、興が乗りすぎて学校への歩みは遅々として進まない。時間に気づいた圭一の焦り声で、3人は駆け出し、辛くも遅刻は免れたのだった。
楽しい部活の時間はあっという間に過ぎ去って、学校からの帰り道、圭一たちと別れたレナは、家とは反対方向へ歩き出す。過去に戻ってきてからはまだ一度も行っていない場所、レナだけの秘密の隠れ家。梨花とは、雛見沢ダムの建設予定地を今後の情報交換の場と取り決めた。人目につかず、誰も訪れない。誰からも忘れられたあの場所ならば、万に一つも耳をそばだてられる心配もあるまい。どこに山狗たちが潜んでいるかはわからないため、慎重を期したのだ。
堆く積み上げられた塵山を慣れた足どりで登り、廃車へと向かうと、すでに梨花が待っていた。
「あ、遅くなっちゃったかな?」
「今きたところなのですよ」
「あ、中入って。見た目はちょっと汚い感じだけれど、中はレナが整理してあるはずだから」
「は、はい」
「助手席で靴だけ脱いでね」
梨花を車内へ招き入れる。考えてみれば、このレナだけの城に他人を入れたのは初めてだ。以前梨花がレナの元を訪い、注射器を示したときも、窓一枚を隔てていた。自分だけの秘密の場所が、自分だけの場所でなくなる感傷もあったが、秘密を共有できた喜びもまた同居した。
すでに外は火点し頃、塵山に囲まれているおかげで車内は薄暗く、レナは小型の電気スタンドの灯りをともした。この車には、棄てられていた何本かの延長コードを、工場跡の電源コンセントに繋いでいるため、電気が使えるのだ。梨花はやや落ち着かぬように目線をさまよわせている。
「驚いた?電気もつくんだよ。梨花ちゃんはここに入るのは初めて?」
「ボクも、レナがここを隠れ家にしていることは知っていましたが、実際に中に入るのは初めてなのです」
「あ、そのへんにある文庫本とかぬいぐるみとか、持っていってもいいよ。お菓子もあるけど食べる?」
「あ、お構いなく、なのです」
「梨花ちゃん、口調。戻してもいいよ」
「え?」
「あっちが素の梨花ちゃんなんでしょ?」
梨花はしばらく迷ったようだったが、やがて、
「そうね……いまさらあなたに猫被っても仕方ないわね。まず……何から話せばいいかしら」
レナは前日梨花から、東京や山犬のこと、症候群の話は聞いていたのだが。梨花は何度もループしたという、「平行世界」について詳しく語り出した。
「ある世界では、おかしくなってしまうのは圭一。レナや魅音が、圭一を心配させまいと怪死事件を隠したこと、それが小さな種火となって燻り、鬼を手繰り寄せようとする大石によって不信の根は育まれた。だんだん圭一は皆のことを信用できなくなって、あとはレナと同じ。最後にはレナと魅音を撲殺したの」
「またある世界では、詩音がおかしくなってしまう。圭一が何気なく言った一言に魅音が傷つく。魅音が圭一に恋しているのは、レナも知っているでしょ?そのことを詩音に相談してしまうの。詩音には、自分が恋した悟史はいないのに、魅音には圭一がいる。詩音の中に封じられていた鬼の血脈を呼び覚ましてしまう。魅音、沙都子を殺し、追い詰められた私は自害するの」
「この世界は本当に袋小路。沙都子の叔父が帰ってきてしまう。粗野な叔父の暴力になすがままの沙都子、それを見て義憤にかられて叔父を殺す圭一。ただ叔父が沙都子の元に戻ってくる確率は相当低い」
「そして、竜宮レナがおかしくなってしまうパターン。これは、説明はいらないでしょう」
「……うん」
「いくつか細かい点で異なることはあるけれど、大勢に影響はない。この4パターンが基本線」
「私たちが打ち破らねばならない錠前は3つ。一つは雛見沢症候群による惨劇、これを便宜上、ルールXと呼ぶわね」
「富竹、鷹野、私の3人は、何度繰り返しても死を回避できない。この絶対の意志……東京の計画。これをルールY」
「そしてこれらの惨劇を容認する風土、オヤシロ様の祟りの名の下に、綿流しのお祭りの日に人が死んでもだれも不思議には思わない、村の封建的な土壌……これをルールZ」
「この3つの錠前を、すべて開かなければ、惨劇は防げない……」
梨花はここまでまくし立てるように話し、レナを窺う。
「ここまで、何か質問はある?」
レナはやや思案しつつ、
「梨花ちゃんが何度も人生を繰り返しているっていうのは聞いたけど、その世界ごとにずいぶん違うんだね。私を救ってくれたあの圭一くんが加害者になるだなんて……」
「そのことなのだけど、前回の世界では、圭一は別の世界の記憶を思い出したのよ」
「え?」
「圭一はレナと魅音をささいなことで疑って、自分を見失いその手で殺めたことを思い出したの。それは、奇跡。賽の河原でただ石を積み上げるように、もはやただ精神の死を待つばかりだった私を、再び立ち上がらせてくれた。本当は、レナが発症した世界では、例外なく校舎の爆発でみんな死んでしまう。でも、圭一のレナを信じ抜き、救いたいと言う信念が、レナの迷妄を打破した。私はその甲斐なく殺され、またその後に雛見沢大災害でみんな死んでしまったわけだけど……大きな前進だった」
圭一はルールX、雛見沢症候群を打ち破ってみせた。結局梨花は命を落としたが、一つのルールを破ったならば、他の二つを破り、昭和58年7月へと至ることができるかもしれない。
「そっか……じゃあやっぱり、私が大災害後も生き延びたのも、何かの意味があったのかな。自分が罪を犯したばっかりに、私だけが生き延びてしまって、苦悩したものだけれど」
「レナ……」
「圭一くんが私を救ってくれたから、ずっと生き続けた。オヤシロさまに導かれて、いまここにいる。これも何かの使命なのかもしれないね」
圭一がレナの疑心暗鬼を啓いたことが、自分がいまここにいる緒となっている。そのことに、レナはどこか運命的なものを感じずにはいられない。
「それで、話を戻すよ。どうしてこんなにいろんなことが変わるの?」
「それは、人の意志の強さによるものよ。たとえば魅音は放課後部活がしたい。これは絶対だけれど、なんのゲームをするかはその場の気分によるものなの。あとは天気とか、気温とかでも変わってくる。外がすごく暑いとか、雨が降ってるときは屋外でのゲームはやらないわけ。私は同じ6月を繰り返してはいるけど、厳密には全く同じではないわけね」
天候や気温。こういう自然現象の類いは、多くの複雑な偶然の要素が絡み合っている。そして、ほんの僅かの間の小雨でも、人間の行動を左右しうる。それが巡り巡って、世界の様相をまったく変えてしまう。
「魅音の気まぐれによって部活の内容は決まる。でも部活をすることだけは絶対の意志を持っているから、どの世界でも変わらないのよ」
「なるほど。つまり梨花ちゃんがいろんなことに気づけたのは、毎回必ず起こることと、起きたり起きなかったりすることを見てきたからなんだね」
「そういうこと」
「じゃあまず、圭一くんや詩ぃちゃんが発症しないようにしなくちゃいけないね。そして万一発症してしまったら、早期に治療薬を打つ。小柄な梨花ちゃん一人なら厳しいけど、私もいればなんとかなりそうじゃない?」
「そうね……あとはレナのことだけれど。間宮リナがレナの家にくるようなら、鉄平もレナのところに来る。魅音に相談すれば、二人をなんとかしてくれるはず……」
「圭一くんは、仲間に相談しろって私に言った。考えてみれば、美人局をして生計をたててる連中なんて、園崎家にとってみたら小悪党みたいなものだもんね」
「ええ。でも問題は、北条鉄平が沙都子のもとに帰ってくるケース。滅多にないけれど、この場合児童相談所もすぐには動けないし、どうしようもない……」
「諦めちゃだめだよ、梨花ちゃん。何か打つ手は必ずあるはず。北条鉄平が沙都子ちゃんのもとに帰ってきたなら、すぐにみんなに相談しよう」
「……ええ」
梨花の返事は歯切れが悪かった。何度児童相談所に陳情に行っても、その度に体良くあしらわれてしまう。だが、現時点では低い確率だ。鉄平が沙都子のもとに帰ってこないことを祈るばかり。
「圭一くんが発症の気配を見せたら、連続怪死事件について包み隠さず話す。詩ぃちゃんのは、つまり圭一くんが魅ぃちゃんにお人形を渡せばいいわけでしょ?そうすれば詩ぃちゃんは傷つかない」
「そういうことになるわね……とにかく、ルールY打倒の前に、まずは誰かが発症して惨劇が起こるのを防ぎましょう」
残された時間は少ない。綿流しのお祭りまでもほとんど猶予はない。だが、レナも梨花も、まずは仲間内で疑心の芽をつむことを優先した。雛見沢大災害を信じてもらうためにも、まずは皆の結束が必要だと考えたからである。ふたりはもうしばらく意見を交わしてから、塵山を後にした。
梨花と別れた帰り道、すでにあたりは暗くなりつつあった。今朝はあんなに快晴だったのに、どんよりとした雲が棚引いている。もしかしたら一雨くるかもしれないと、レナはやや足どりを早めて帰路についた。薄闇の中、電灯のついたレナの家のまわりだけ、ぼんやりとした光が漏れている。その門口の脇には見慣れないバイクが一台とまっていた。ドアを開けると、玄関先には派手な赤いピンヒールが一足。そのすぐ横にある、レナの父の安物の地味な靴との対比が甚だしい。レナのただいま、への返事は、父のものではなく、間宮リナのものであった。
「あらー、礼奈ちゃんおかえりー。今日も遅かったけど、また宝探し?」
「あはは……。リナさん、いらしてたんですか」
その猫撫で声と笑顔にレナは虫唾が走り、表情に出さないようにするので精一杯だった。リナはそんなレナの心境に気付く様子もなく、明るく話しかけてきた。
「ねえ、今日ね、お父さんと一緒にお昼は穀倉まで行ってきたのよ。キーマカレーがとってもおいしいお店でね?今度また3人で行きたいなー、なんて」
「それは楽しみです。リナさん、ありがとうございます」
「それで、おみやげにレトルトを買ってきたから、あとで食べてみてね。おいしいよー。礼奈ちゃんはこのお店、知ってる?」
「いえ。それよりも、今日は父と少し、話したいことがあるので、お引き取り願えますか?」
レナの、自分でも驚くほど不躾な言葉にたいして、父がそれを見咎めた。しかしリナは気にした素振りもなく、
「……そうよね、たまには親子水入らずも大事よね。お邪魔虫は退散〜」
軽やかな足取りで帰っていった。彼女が去ってから、父はリナとの別れがよほど名残惜しいらしく、少し語気を強める。
「礼奈、どうしたんだ。おまえらしくないぞ。いつもはあんなに仲がいいじゃないか。今度リナさんには謝っておきなさい」
「うん……」
やはり、すでに父はリナに毒され、骨抜きにされている。覚悟はしていたレナにとっても、リナにおもねる父親の姿は見ていて辛かった。レナは決意を込めた表情で、父に対峙する。
「お父さん、お話があるの」
大災害の日付を間違える痛恨のミスを犯していた模様