共生〜罪滅ぼし零れ話〜   作:たかお

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 運命に泣かず、挫けることを知らない。
 そんな彼女は美しかった。

 誰にも媚びず、最後まで1人で戦った。
 そんな彼女は気高かった。
 
 彼女は眩しくて、ただただ神々しくて。
 私には、そんな彼女が必要だった。



空夢(終)

「……さん、竜宮さん!」

「……え」

「どうなさいました?」

 

 大石は何度か礼奈を呼びかけたが返事がなかったため、ようやく反応を見せた礼奈に怪訝な表情を向けた。

 

「あ、いえ。すみません、少しぼーっしていたみたいで」

「ずっと反応がなかったからどうしたのかと思いましたよ」

 

 西日が強く射し込んでいるせいで村の輪郭は朧げに見える。カナカナ、とひぐらしが時折鳴き声を上げている。

 まだ夢見心地な礼奈は、現実に立ち返ると自分が古手神社の高台にいることを思い出した。大石らに請われて、封鎖解除された村を訪れていたのだ。彼らの様子から、かなり長い間礼奈が無反応だったと分かる。だが、この場所に見るべきものは何もなかった。

 

「戻りましょうか」

「……ええ」

 

 

 

「送らなくて大丈夫ですか?」

「ええ、車で来ましたから。私は1人で帰れます」

「わかりました。今回はわざわざありがとうございました」

「いえ」

「暗くならないうちに帰られた方がいいでしょうなぁ、電気も通っていないから何も見えなくなりますよ。このあたりでは幽霊話までありますし」

「……幽霊、ですか?」

「ただの噂なんですがね。自分が死んだことを知らない村人たちが、夜は今も村で生活をしている、とかなんとか。怪談話に尾ひれがついています。もっとも彼らの霊は、成仏できていないのかもしれませんがね」

「……」

 

 幽霊でもなんでもいいから、みんなに一眼会いたいと一瞬思ってしまったのは無理からぬことだ。だが一方で、その話を聞いた礼奈にはこんな思いが渦巻き始めた……

 

(もしかしたらみんなは、あれからずっと成仏できていないのかもしれない)

 

 先に死んでいった皆を理不尽に責めたこともあった。生きている方が辛いとも思った。だがやはり、死ぬ方が辛いのかもしれなかった。

 

 そうして大石達が去っていき、村には礼奈一人が残された。蝉の声はもう聞こえない。大石の言う通り、そろそろ日が暮れるのだろう。湿気を帯びて生暖かかった南風が少し冷たくなってきた。

 礼奈は村に来たら一度だけ寄りたかった場所があった。それは大石や赤坂が一緒に居たのでは寄り得ぬ場所。なぜならそこは自分だけの秘密基地だから。どうしてか、帰る前に一度寄って行こうと思った。

 

 塵山に着く頃には、もう陽は沈んでいた。入れ替わるように空には月が浮かび上がっている。今宵は満月だった。

 暗くなったため、塵をかき分けて進むのにも多少の注意を払う。あの頃は、昼でも夜でもここはレナの支配下にあって、廃車までの道を自在に進めたが、礼奈の記憶は薄れてきていたから、辿り着くのも一苦労である。

 幸い、廃車はそのままだった。行方不明者の捜索などで自衛隊がここを見つけていたとしたら、片付けられていたかもしれない。

 当然だが電気は流石に通らなかった。ドアを開けると礼奈は少しむせた。車内にはとうに朽ち果てただろうお菓子やら、よれよれの文庫本やらが埃を被ったまま放置されている。被った埃の分だけ年月を偲ばせた。

 やがて夜が訪れ、塵に囲まれているせいでここには一片の光も差し込まず、車内は酷く暗い。携帯電話の明かりを頼りにして、ようやく後部座席に座った。座ると一日の疲労がどっと押し寄せてきた。肉体よりも、精神の疲労だろう。それにしても、なぜ自分はこんな狭く暗いところにいるのだろうか?かつてはここが自分の居場所だと思ったこともあったのに。大人になって、身体が大きくなって、この狭い城では満たされなくなったのか。

 ……考えるのをやめ、暗闇に身をあずけてまどろみを深くしていく。深く、どこまでも深く……

 

 

 

 いろいろあったものだから、高校、大学に進学することは叶わず、生活の為、夜の仕事にその身をやつすことも厭わない気持ちでいた礼奈だが、いざ面接に赴こうとすれば心のどこか芯の部分、奥底の部分が悲鳴をあげて結局断念し、定職につかずに無目的に生きる日々が続いた。礼奈の二十代前半、女性としてもっとも美しくあるその時期を無為に過ごしたこともあり、現在に至るまで彼女には交際経験がない。言い寄ってくる男性もいないではなかったが、彼らの瞳に広がる言いしれぬ虚無と、前原圭一が最期に見せたあの瞳の輝きを比較してしまい、どうしても拒絶してしまうのだった。無意識のうちに圭一に操を立てているのかは、彼女自身にもあずかり知らぬことである。

 その後、知人の伝手で今の会社に就職して一先ずの安定は得られた。生命保険の会社の事務屋だったが、あまり評判は芳しくない会社だった。礼奈はそこで様々な人を目にしてきたが、世の中には悪人という人種が、自分が思っていたよりも跋扈していたことに驚かされた。間宮リナのように、平気な顔をして他人を騙せる者も多くみてきた。自分の仕事が彼ら彼女らに加担しているのではないかと煩悶する日もあったが、まっとうな仕事をして給金を得る資格を、もはや自分は持っていないようにも感じていた。のうのうと生きることが許されないように感じていた。礼奈は、自分の魂を汚すことこそが、友人たちにできる唯一の餞になると信じた。もっとも、その身を汚す職に就かなかったこととの矛盾には気づかぬまま……

 それから月日が流れ、村の封鎖解除をニュースで知った。にわかに事件が蒸し返されて、礼奈は顔を顰める。テレビの向こうで訳知り顔で事件を解説するコメンテーターたち、大仰に相槌を打ちながら、好奇心に溢れた善良な視聴者の求める、通り一遍の意見を述べる薄っぺらなタレントたち……彼らはみな、村とは無関係なのだ。無関係だから無責任なのだ。見るに耐えなくなってテレビを消す。消すと同時に礼奈は悟った。村に関係ある者は、いまや全世界で竜宮礼奈だけなのだと。無性に悲しくなって、泣きたくなって、だが泣くことさえ叶わなかった。礼奈の涙腺は機能を停止して久しく、20年ぶりの感情の奔流に呼応することはできなかった。死した者のために涙を流せない自分を余計に恨めしく思った。

 大石から連絡があったのはその日の夜だった。礼奈はなぜだか彼に協力することが自然に思えた。滅ぶ前の雛見沢を知る人間はこの世界にあと何人残されていようか……そして礼奈はこうして雛見沢にいる。ひとりぼっちで。

 

 

 

 

 

 今、夢を見ている。それは不思議な夢だった。

 過去へ戻り、大災害を防ごうとする。そこで礼奈は、古手梨花が何度も人生を繰り返して、もう百年もの間袋小路を彷徨っているのだと知った。少女が時折見せる未来予知や、諦念に満ちた表情、夜の廃車で注射器を受け取らなかったレナを見限ったときの残酷なまでの哄笑、それら全てに合点がいった。オヤシロ様の力は、幼い少女には呪いだったのだ。決して死ねない呪いである。

 しかしレナと仲間たちに、再び死が訪れる。死の間際、反射的に梨花を庇うため、目前の銃弾を受け容れた。

 ……所詮は空夢である。自分の罪の意識を少しでも減らすために作り出した都合のいい妄想だ。あの年の6月は空梅雨で、綿流しのお祭りから数日の天候は晴れわたっていたはずなのだから。目が覚めればおそらく、この夢の記憶は失われるだろう。ただ、どこかからその光景を俯瞰していた礼奈は。小さな背中に生えた白い翼から目をそらすことができないでいた。

 そのうち、自分も翼を広げて宙に浮かんでいることに気付く。いつのまにやら、皆も同じように翼を広げてその光景を見つめていた。梨花は最後に鷹野へ何やら言葉を紡ぐと、至近から銃弾を浴びて死んでいった。すると梨花もまた、いつのまにか仲間の輪の内に加わっている。誰も何も言えないでいたが、こういう時のいつものように圭一が静寂を破った。

 

「俺たち、死んじまったんだな」

 

 ぽつり、とこぼされたその一言にどんな意味が込められていたのか。しかしそれほど無念さを感じさせないのが不思議だった。

 

「まあ、ちょい時間がなかったかもねー。もう少しあったら、おじさんならあんな連中一捻りだったんだけど」

「そうですわ! トラップも不本意な出来でしたし。次は負けませんわ」

「みー、沙都子の被害に遭う山狗はかわいそ、なのです」

 

 なぜ彼らがこれほど軽い調子でいられるのか、礼奈には想像がつかなかった。

 

「みんな……ごめんなさい」

「どうしたんだよ、レナ」

 

 礼奈は今自分が彼らと同じ年齢の姿をしていないことに気づいていた。にもかかわらず、礼奈をレナだと分かってくれた。それが少し嬉しかったが、同時に悲しかった。謝罪の言葉は、意図せず口をついて出た。

 

「……あの時、私があんな馬鹿なことをしでかして、私だけ捕まって、そのせいで生き残って……」

 

 喋っているうちに、だんだん語気は強くなっていったが、感情を制御できない。

 

「圭一くんにあんなに酷いことを言って、魅ぃちゃんにあんなに痛い思いをさせて、沙都子ちゃんにも梨花ちゃんにも酷いことばっかり言って……罪を犯した私だけのうのうと生き延びて。自殺しようって何度も考えたのに、そうする勇気もなくて……あまつさえ、封鎖が解除されたことを知るまで、私は心のどこかで、村のことを、みんなのことを忘れようとしてたんだ!」

 

 竜宮レナが、再び竜宮礼奈に戻った日。いやなことを忘れるために礼奈の「い」を抜いて名乗りだした名前だったが、いつしか「レナ」のいやなことの方が比重が大きくなっていった。礼奈と名乗ることで、なんだかんだと言い訳をつけて、その実心の奥では「レナ」だったことを消し去ろうとしていた! なんて醜い欺瞞だろう、なんて醜い保身だろう!

 

 竜宮礼奈の、竜宮レナの、張り裂けるような心の叫び。半ば狂ったように、謝罪の言葉を続けた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 

(ああ、また首が痒い! 腕が、脹脛が、身体中が痒い!)

(痒い、痒い、痒い、痒い、痒い、痒い!)

 

 一時は収まっていたはずの痒みが再燃して、衝動に任せ、爪を立てて首を掻きむしろうとしたその時。礼奈の、レナの細い手首が、掴まれた。

 

「……!」

 

 はたしてそれは、圭一だった。彼は何も言わず、レナも何も言わない。睨み合いが続いた。

 

「……放して」

「駄目だな」

「放して!」

 

 そうして必死に振り切ろうとするレナを、圭一もまた必死になって掴みかかった。二人は宙に浮かびながら、器用に倒れこんで争った。

 

「どうして掻かせてくれないの! 痒いのに! 痒くて痒くて堪らないのに! こんな気持ち、圭一くんには分からない!」

「分かる! 俺にも分かる! 俺も同じだった! 無抵抗のレナと魅音を殴り倒して、馬鹿みたいに見えない何かに怯えながら、首筋を掻きまくって、そうして死んだんだ!でもレナは違う! 違うだろ?」

「はぁ? 何言ってるの圭一くん、レナがいつ圭一くんに殴られたの!? 魅ぃちゃんを殴ったのは私だよ? この私! だいたい圭一くんに黙って殴られるほど私は馬鹿でもお人好しでもないよ!」

「確かにレナは魅音を殴ったさ、俺も殴られたさ! でもレナは違う! 正気に戻ったんだ! みんなに謝れたんだ! ちゃんと警察に捕まって、罪を償ったんだ! それすらできずに死んだ馬鹿とは違うんだ!」

「あぁもう! 何なの? 何で圭一くんはいつも私の邪魔するのかなぁ? もう放っといてよ!」

「放っておけるかよ! 俺たち仲間だろ? 仲間が泣いているのに放っておけるかよ!」

「レナは泣いてなんてっ……え?」

 

 気付けばレナは泣いていた。大災害以来流せなくなっていた涙。圭一は赤いハンカチを取り出すと、レナにそっと差し出した。

 

「ほら、涙拭けよ」

「……そこは、圭一くんが拭いてくれるところじゃないかな? かな?」

「いや、それはさ……」

「圭ちゃんはヘタレだからしょうがないよ」

「魅音ー、お前に言われたくねえ! てかお前ら見てないでレナを止めるの手伝えよ」

「レナを止めることができたのは後にも先にも圭一だけなのです。だから圭一を信じていたのです」

「夫婦喧嘩は見てる分にはおもしろかったですわ」

 

 沙都子が茶化すと、圭一がそれに噛み付いた。すっかり雰囲気はいつも通りだった。

 

「なあレナ。まだ痒いか?」

「ううん」

「じゃあもう掻くなよ」

「うん」

「おう」

「あのね、圭一くん」

「ん?」

「このハンカチ、貰ってもいいかな? かな?」

「別にいいけど、こんなのでいいのか?」

「うん」

 

 レナは涙で染み込んで濡れたハンカチを大事にポケットにしまった。圭一はまた皆から茶化されていた。すると梨花は輪から離れてレナの元へ寄ってきた。

 

「レナ」

「梨花ちゃん……」

「ありがとう」

「え?」

「あなたのおかげで、私は諦めないと誓った。あなたは最後に私に、生きて記憶を繋げって言った。結局すぐ死んじゃったから、次の世界の私は黒幕が鷹野だってこと、忘れちゃうでしょうけども。このレナのことも忘れちゃうかもしれないけども」

 

 梨花は視線を外さない。

 

「それでも私は、いつの日かこの惨劇を乗り越えてみせる。この世界を絶対に無駄にしない。簡単なことだったんだ」

「梨花ちゃん……」

「私は、どんなに絶望的な状況でも、その世界を見捨てない。この決意だけは、忘れないようにするわ」

「……うん」

「あ、もう時間ね」

「時間?」

「ええ、だってこれはあなたの夢だもの。朝が来たのよ」

 

 そう言うと梨花の身体は薄く透明になっていく。圭一も、魅音も、沙都子も、そして他ならぬレナ自身もそうだった。明けない夜は決してない。曙光は平等に世界を照らす。

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 まどろみから醒めて、真っ先に思ったのは、身体の節々が痛んだことだ。痛みを和らげるためゆっくり身体を起こす。車の中にいた。

 

(ここは……)

 

 車のドアを開いて外に出ると、視界には見渡す限り塵が溢れていた。そこでようやく、礼奈は自分がどこにいるのかを悟った。

 

(そっか、秘密基地。私寝ちゃったんだ)

 

 遠路はるばる雛見沢まで来て、肉体も精神も疲労のピークにあったのだろう。そう結論づけた。それにしても、暑い。

 携帯電話の天気予報を見ると、温度はそれほどではないが湿度が高い。ましてこの不衛生な塵に囲まれて、余計に蒸し暑く感じるのかもしれない。来た道を通って塵山を抜け出すと、太陽は燦燦と白い輝きを放っていた。額から滴る汗を拭おうとハンカチを取り出す。すると、それは見覚えのない、赤いハンカチだった。自分のものとは色が異なるのだ。

 

(……あれ?)

 

 大石たちの私物だろうか?それにしてもなんだか随分古いもののようだ。

 裏返して見ていると、礼奈はぎょっとした。名前には「前原圭一」と書かれていた。鼓動が早鐘のように打つ。だが礼奈は、なぜだかこれが圭一の物だという確信があった。大石や赤坂が悪戯でこんなことをするとは思えないが、何より前日聞いた幽霊話が礼奈の頭に残っていたからだ。

 圭一がなぜこれを自分に渡したのかは分からないが、なんだか礼奈はすこぶる明るい気分になった。久しくない感情だった。

 その時、足音が聞こえた。かつて聞いた時はそれが随分恐ろしいもののように感じたけれども、今の礼奈には恐れはなく、むしろ微笑さえ湛えていた。

 

 かくして雛見沢村の幽霊話は礼奈にとって確信になった。そして皆の迷える魂を、天に導く役目を与えられたと諒解し、そのためにお墓を作らなければならないと思った。封鎖が解かれてからも、この忌まわしい土地に進んで関わりたがる物好きはいない。当時の死者は簡素な共同墓地に埋葬され、ろくに親族もいないため大半は無縁仏となってしまっている。

 しかし、村人の多くは先祖伝来の土地を矜りに、それを守るために闘ってきたのだ。彼らを村で弔う。そうすることで、初めて彼らは死ぬことができるだろう。同時に、礼奈も罪に引き摺られるのではなく、苦い記憶と共に生きてゆく権利を与えられる気がする。

 

 こうした唐突な使命感が、まるで水のようにひび割れた心に沁みわたり涵養されていったが、なぜそう考えたのかも自分ではわからない。先ほどの有りうべからざる2つの現象が複合して、天啓のようにも、あるいは放置していた夏休みの自由研究を思い出すかのようにも、ともあれ礼奈の中で成し遂げなければならない何事かとして、眼前に立ちはだかったというべきである。

 とはいえ一民間人でしかない礼奈はその手段が浮かばない。大石たちに相談しようと、携帯電話で連絡を取る。おそらく一泊しただろうから、まだ彼らは興宮に滞在していると思われた。直接会って話したい、と言うと、大石からの快諾を得られた。礼奈はさっそく興宮へ向けて車を走らせた。

 

 

 

「ああ、竜宮さん。こちらです」

 

 待ち合わせた店内からは落ち着いた音楽が流れていたが、それには似つかわしくない際どい衣装を着たウェイトレスが接客を行なっている。礼奈はこの店を昔から知っていた。

 エンジェルモート。

 かつての園崎組の系列店で、園崎詩音が勤務していた店だ。大災害を免れた数少ない人物の一人である詩音は今も興宮方面で健在で、葛西とともに散り散りになった園崎組の再建を果たしたらしい。規模は随分小さくなったが、それでも興宮周辺を縄張りとする程度の力は保てた。とはいえ近年の暴力団排除の時代の煽りを受けて、年々勢力を弱めているのだという。大石からそんなことを聞かされて礼奈は初めて詩音が生き延びていることを知った。

 園崎詩音。

 魅音の双子の妹だが、その生い立ち、境遇故に雛見沢へ足を踏み入れることが制限され、それによって辛くも大災害を免れた。そのためレナとはあまり関わりらしいものはなかった。しかし間宮リナの本性を目の当たりにした際、助力を得るため詩音と少しだけ話をした。魅音と対象的ながら、本質の部分では同じだった。そんな彼女もまた、この街に生きているという……

 卓には大石、赤坂、礼奈の他にもう一人見知らぬ男性が座っていた。前日赤坂の案内役を買って出た彼の後輩とはまた別である。赤坂の紹介によれば、金田というその男は鹿骨市の議員なのだという。議員という響きに俗世の汚濁を感じとり、礼奈は警戒を強めた。しかし赤坂によるならば、彼は興宮署で長らく大石の旗下として働き、雛見沢とはダム戦争以来の因縁があるのだという。大石がその死の無念を晴らそうと、連続怪死事件の究明に乗り出す端緒となった、あのダム現場監督とも知己にあったそうな。籠城事件当時も現場におり、実際自首したレナをパトカーで護送したのは彼だという。当然礼奈の方に覚えはないが、多少の縁を感じる。

 さっそく礼奈は今朝思いついた内容を彼らに話す。すると例の議員が人好きのする表情を礼奈に向けて言う。

 

「そういうことなら協力できますよ」

「本当ですか?」

「ええ、市議会の方でも、せっかくお国から返還された土地をあのままにしておいてももったいないという話はあります。誰も住んでいなくても、市は雛見沢を管理する義務を負っていますから」

「……」

「大災害を供養する石碑を建立し、将来的に村を再生開発する計画も持ち上がっているんです」

「村を、再生……」

「偉い学者さん達によれば、あの土地で有毒ガスが発生したのは天文学的な確率であって、再び起こることはまずありえないのだとか。でしたら災害記念館のようなものを建てて、観光資源にでもしたらどうかと」

 

 話がなんだか俗っぽく傾いてきた。礼奈は静かに反感を示した。

 

「私は、雛見沢には静かに眠っていて欲しいんです」

「……確かに、怖いもの見たさで来る輩もいるでしょう。しかし今のままでは雛見沢は無法地帯です。オカルト好きの連中が好き勝手にやってきては、有る事無い事インターネットに書いています。慰霊碑を建てることによって、そんな人々の意識も少しは変わるかもしれませんよ」

「なるほど……」

「別にいいんじゃないかい?」

「え?」

「あなたは……」

 

 突然話に割り込んできた女性の方を振り向くと、礼奈は息を呑んだ。それは、もし魅音が成長して自分と同じくらいの年齢になったならば、こういう顔立ちをしているだろうと想像していた姿にあまりに酷似していたから。彼女が魅音ではないことは明白だから、おのずとその正体は絞られる。

 

「詩ぃ……ちゃん?」

「……はい、レナさん。お久しぶりですね」

 

 

 

 

 

 平成22年の立秋である。暦の上では過ぎ去ったはずの夏の、蒸した空気、太陽の灼熱はいまだ健在であったが、炎天下の中で鬱陶しいほどに眩しかった木漏れ日が、あとからあとから降らせてくる光は徐々に柔らかさを帯びてきて、たしかに秋の到来を予感させた。

 5年ぶりに訪れた興宮駅は土曜日にもかかわらず閑散としている。二十四節気では、立秋の次候は「寒蟬鳴く」とあるが、蝉たちの鳴き声はもう聞こえなくなっていたから、静寂が余計に際立っている。この地方では例年蜩は早くから鳴き始めるからか、鳴き終わるのも早い。雛見沢を思い起こすときはいつも、判で押したように夕間暮れに響く蜩の合唱が浮かんでいたから、礼奈は少しだけ寂しさを覚えた。

 改札口を出て時計を見ると、待ち時間にはまだ30分近くあった。駅構内の小さな土産物店の前にある休憩スペースに腰掛けて時間が経つのを待っている。

 しばらくして声をかけられた。

 

「お忙しい中わざわざすみません」

「いえ」

 

 赤坂とはあれ以来、5年ぶりの再会だった。

 

「あとは園崎さんですね」

「ああ、詩ぃちゃんは先に向かうって連絡がありました」

「そうでしたか」

 

 2人はレンタカーを借りて雛見沢方面へ向かった。赤坂が運転し、礼奈は助手席で俯き加減に座っている。道中、車内には沈黙が漂っていた。この2人に特段の話題がないということもあったが、それにしてもこの重い雰囲気はどこか沈痛の響きがあった。それを察してか、礼奈が沈黙を破って口を開く。

 

「あの、大石さんは……」

「大石さんは……以前お会いしてしばらくしてから容体が急変したそうで……去年の暮れ頃でした」

「やはりそうでしたか……今回お誘い頂いたメールの差出人に、赤坂さんのお名前しかなかったもので、薄々そうなんじゃないかとは思っていました」

「大石さんは私に事件のことを託すと言いました。身体のことは自分が一番よく分かっていたのでしょう、らしくもない弱音も吐いていましたから」

「大石さんが、ですか……」

 

 5年前、いまだ事件の真相究明を諦めず、礼奈に対しても声を荒げながら質してきたあの老人はもうこの世にはいない。不思議な感覚だった。

 赤坂は強い表情をしている。さながらかつての大石の面影が見出された。

 

「大石さんは、さぞ無念だったでしょう」

「……」

「今回、本の改定をすることになったのも、大石さんの意志を継ぐためです。事件は私などがどうこうしたところで真相が明らかになることはないのかもしれない。いえ、おそらくそうでしょう。しかし、大事なのは真相を追求するという、行為自体にあるのかもしれません。最近はそう考えるようになったんです」

「……お強いんですね」

「いえ……そんなことはないです」

 

 赤坂とて、何度諦めようと思ったことか。封鎖解除後に手がかりを得られなかった落胆は甚だしく、大石の死さえなかったら、雛見沢から手を引いていたのかもしれない。幸絵のことさえ忘れて再婚でもして、穏やかに余生を過ごす。自分はもう十分罪を禊いできたのだから、それを忘れるのも一つの選択だったはずだ。

 そんな心境を知ってか知らずか、礼奈は赤坂に聞こえないほどかすれた声量で、独り言のように小さく呟く。

 

「私は、弱いから」

 

 その時、ガタンと大きな音がしてその声をかき消し、車内が揺れた。舗装道路から砂利道に変わった時の段差である。かつて園崎が健在だった頃は、その筋の議員が議会に働きかけて、この道を舗装させる計画があったようだが、例の大災害でひと気がなくなってからというもの立ち消えになったらしい。封鎖解除された後も市は雛見沢地区をないものとして扱っているため放置されたままである。税金を払う住民がいないのではそれもやむなしだった。もっともそのおかげで、村と街を分かつ明確な境界が示されているが、道路の利用者からは不便を訴える陳情がある。以前とは状況が変わってきているのだ。雛見沢の道路が舗装され、街との境目がなくなる時こそ、興宮と雛見沢を隔てていた見えない段差、言うなれば人と鬼の差別も取り払われると思われる。

 

「ここを訪れる人も増えましたね」

「……ええ」

 

 無論、有名な観光地に比べればまだまだ交通量も少ない。とはいえ以前来た時には他に車は走っていなかった。今では県外からもたまに車が訪れる。

 

 雛見沢についた2人はさっそく詩音と合流を果たし、目的地へと向かった。今年の6月に落成したばかりの慰霊碑はまだ真新しく、古い家々と対比された。併設された案内板の揮毫は鹿骨市長が入れたのだといい、随分堂に入っている。

 大災害直後は雛見沢出身者たちの奇行が盛んに報じられ、メディアはそれを雛見沢症候群などと命名して差別を煽ったが、沈静化した今では、市民らも村への差別意識よりかは災害の悲劇を鎮魂する想いが強く、反対する者は少なかった。市民の災害への意識が強まっていたことも追い風となった。何にせよ時代が進んでいく中で、封建的な思想は徐々に薄れていったのである。オヤシロ様は人と鬼との融和を祈ったそうだが、ついにそれが叶ったというべきか。

 案内板にはしめやかにこう刻まれている。

 

 雛見沢大災害供養慰霊石碑

 昭和五十六年六月二六日未明より火山性有毒ガスが雛見沢村全域に噴流、ほぼ全村民が罹災し死者行方不明者は二千人余を数える。

 災害対策基本法に基づく雛見沢地区の警戒区域の解除を記念し、この悲劇の記憶を後世に留めんとここに記す。

 

 雛見沢大災害慰霊碑設置事業

 代表 鹿骨市長 〇〇 〇〇

 市議会議員 金田 〇〇

 鹿骨市商工会長 〇〇 〇〇

 npo法人 〇〇 代表 竜宮礼奈

 

 あの後礼奈は自分が大災害の唯一の生存者であることを公表した。それは同時に、学校籠城事件を引き起こした「少女A」であることの、過去の罪の公表でもある。そして雛見沢を後世に引き継ぐべく、仕事を辞めて赤坂や詩音らの助力を得つつ慰霊碑の維持管理と、大災害を後世に伝える活動を行う非営利法人を設立した。このため、大石と赤坂の共著本の改定作業には礼奈も加わった。

 「少女A」が学校を占拠して寄生虫や宇宙人の陰謀論を述べ立てたことは一部で知られていることだ。自らを公表したことで時に好奇の視線に曝されることもあったが、礼奈は動じることはなかった。この頃多くの取材を受け、時に礼奈1人が生き残ったことを批難する低劣な記者にも遭遇した。それでも、時間を割いてあらゆる取材に応じた。

 これらはすべて、大災害を人々の記憶に残すためである。

 

 慰霊碑は、数え切れぬほどの名前で埋め尽くされていた。犠牲者の名簿である。ここにある名前はもはや意味を失った文字の羅列にすぎない。大勢の死は、悲しみの総量と比例せずいつも無機質だ。

 礼奈が雛見沢に住んでいたのは茨城に転校する前、まだ小さかった頃と、最後の2年だけである。四半世紀前の話であり、犠牲者名簿を見ても顔と名前が一致する者は少なかったが、仲間たちの名前にはやはり目が止まった。

 

「園崎 魅音」

「古手 梨花」

「北条 沙都子」

「前原 圭一」

 

 ……目をそらすまい。

 礼奈は彼らの死から目をそらすまい。

 生は一度しかないから輝きを増す。死は誰にも平等に訪れる。ごく当たり前のことだった。

 磔刑に処せられて生きてきた。脱け出すことはかなわないと思い込んできた。しかし、手脚の緊縛はとうに仲間たちが解いてくれていた。俯いていたから気づかなかっただけだ。

 永遠に許されぬ罪はあろうか。永遠に滅ぼせぬ罪はあろうか。

 

 墓銘は陽光を反射して輝きをはなっていた。大災害で亡くなった、二千名の犠牲者の名前。その記念碑からは無数の鬼哭が聞こえてくる、そのひとつひとつに耳を傾け、ひとりひとりの無念を癒す。この記念碑が、一人でも多くの人の記憶に刻まれますように……

 いつのまにかひぐらしたちが鳴いていた。やや季節外れのこの虫たちのすだきが、人々への鎮魂の歌のように聞こえたから、礼奈は目を閉じて祈りを捧げた。

 

 

 興宮駅は地方のローカル駅のため、快速も止まらず、電車は一時間に一本あればいい方だ。赤坂は一泊してから帰るそうだが、礼奈は翌朝には東京についていなければならない。翌日は講演の予定があるからだ。今、竜宮礼奈は東京のみならず忙しなく全国を巡っている。多くの人と出会い、人々の哀しみに触れた。彼らと接すると、いつまでも自分だけが悲劇のヒロインでいることが恥ずかしくなる。悲劇を乗り越えるのではない、悲劇を携えながら生きていく。大なり小なり、誰でも同じだった。

 電車が来た。礼奈はポケットに忍ばせたハンカチをそっと握った。大丈夫、私は生きている。

 座席に座ったら、うんと眠ろう。幸い乗り換えは終点だから、乗り過ごす心配もない。ここ数日は睡眠を疎かにしがちだが、健康によくない。肌にもよくない。最近は悪夢に苛まれることもなくなったから、きっとよく眠れることだろう。

 やがて電車は発車し、興宮から遠ざかっていって、ついに街は視界から消えたが、礼奈はもう振り返ることはしなかった。

 ――終点が来たら、また歩き出さなければならない。

 




 活動報告の方に長いあとがきを掲載しましたので良ければどうぞ。
 耳目を集める内容ではないのに、当初の想定を上回る過分なご評価を頂きました。偏に原作人気ゆえですね。
 最後駆け足になってすみません。

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