鶏鳴も聞こえぬ朝まだき、枕元に立つあえかな気配に、古手梨花は微睡んでいた瞳を薄く見開くと、隣で静かに寝息を立てる北条沙都子を起こさぬようにと、やおら布団から起き上がった。梨花の目にやどる深い知性を湛えた怜悧な瞳は、小動物のような緩慢な所作に似合わないが、しかし稚き少女にいっそうのアンバランスな魅力を漂わせていた。
いましがた感じた気配は、梨花にとってよく知るものであり、それはこの村において「オヤシロさま」と呼ばれて崇敬を集むる存在であった。少女は努めて平坦な口調で、
「羽入……なにかあったの?まだ明け方じゃない?」
と呟くと、羽入と呼ばれた存在は、梨花とは対照的にいとけない口調で、
「あうあう……梨花……起こしてしまってすみませんです」
と答えた。桔梗色のつややかな髪には左右に2本の突起物がある。それは鬼の角を思わせるが、まだあどけない少女のような顔立ちからは、とてもおどろおどろしさを感じることはできない。声色も少女のそれであり、オヤシロさまとして信仰されるイメージの峻厳さは微塵もない。だが、矮躯に纏った緋袴と小袖に、玲瓏さをたたえた瞳の光輝はまさしく神性を帯びており、羽入と呼ばれた少女が人ならざる者であることを証しているようである。
空を見ようと、梨花は窓へと向かった。繰り返す時間の中で、天気だけは、気まぐれで予定調和を裏切ってくれるから、少女は空を眺めるのが好きだった。窓を開けて空を見上げると、その中天いっぱいに、明明とした朝焼けが広がっている。朝焼けや夕焼けの、朱に染まる空を見上げている時、梨花はいつもえもいわれぬ感慨が浮かぶ。この百年のあいだ、何度も血にまみれ、朱色を飽きるほどみてきたはずなのに、この空に胸が締め付けられるのは、永劫回帰する人生を送る梨花にとって、始まりと終わりを象徴する自然法則にたいする憧れがあったからだろうか。
そんな感傷に浸る梨花は、もはや人生そのものに飽いていた。肉体は抜け殻であり、何度繰り返しても昭和58年の6月を越えることはできず、いまでは過去へ遡れる時間は徐々に短くなっている。精神の死を迎えるのは時間の問題に思われた。
しかし、奇跡はおこった。
圭一が、別の世界の記憶をもとに、暴走するレナを止めた。その後梨花はたしかに命を落としたが、ここ数十年はなかった希望の焔が、梨花の目に灯った。そして今回。どこがとは言えないものの、レナの行動や態度がいつもと違うように感じられた。
押入れの奥から取り出したベルンカステル・ドクトールを、製氷室の氷を入れたお気に入りのグラスにゆっくりと注ぐ。無言でそのさまを見咎める羽入に、梨花はグラスを傾げつつ、
「ねえ、レナの様子、おかしいと思わない?」
「なにがいいたいのですか?」
「レナも……圭一みたくあの時のことを覚えているんじゃないかってこと。はっきりと覚えていなくとも、ぼんやりと記憶に残っているのかもしれない」
羽入は押し黙る。沈黙のあいだ、梨花はかすかに俯き、赤紫色をしたワインの表面の揺らめく波紋を見つめている。やがて羽入はぽつりと口を開き、
「どうせ今回も……だめなのです。大きすぎる期待が成就しなかったとき、梨花の落胆は如何程か。僕にはそんなあなたを見るのが辛いのです」
「じゃああなたは、期待してないっていうの?」
「……」
「あなたも私も、諦念に侵されてはいるけれど。本心の部分では、まだ僅かに期待しているの。この永劫回帰を打ち破る何かが、いつの日か現れることを。3.5の期待値しかない賽の目でも、6の目が出続けるような奇跡を」
「梨花……」
「それくらいの奇跡がなければ、私たちは報われない。だってこの百年のあいだ、ずっと1の目ばかりを見続けてきたんだから」
まだ羽入は悄然とした表情を浮かべていたが。会話を打ち切り、ちびちびと口つけていた赤ワインを一気に飲み干すと、梨花の双頬に仄かな赤みがさした。ほろ酔いをさまそうと、もう一眠りするため床へ向かう。すると、気配に気づいたのか、沙都子がぼんやりと眠気まなこをこすっていた。
「梨花ぁ、もう起きたんですの?まだ明け方でしてよ」
「沙都子、起こしてしまってごめんなさいです。今日はお休みの日だから、もう少し寝ていていいのですよ」
季節の変わり目の6月。梅の子黄ばむ芒種では、気温の上昇とともに、日の入りはだんだんと早まっていく。空は色彩を変え、薄黄色の光芒が射していき、やがて白みを帯びはじめた。羽入の気配は、いつのまにか消えていた。