共生〜罪滅ぼし零れ話〜   作:たかお

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 レナの脳裏には昔、まだ竜宮家が円満だったころの記憶が走馬灯のように蘇っていた。分校で小さいけれど運動会があって、校庭には心配そうな表情をした両親がレナを見つめている。位置について、用意の掛け声とともに訪れる、須臾のあいだの静寂。それを切り裂く合図とともに脇目も振らずに走り出す。しばらく走ると、風景は目まぐるしく移り変わっていってレナは驚きに眼を瞠るけれど、共に競い走る仲間たちは変わらなかったから、幾分不安は和らいだ。目線を前に戻して、ひたすら走る。

 ゴールテープはまだ見えない。時間の感覚もわからず、一瞬とも永遠ともつかないが、走り疲れて、足が悲鳴をあげているのはわかる。そろそろ限界が近づいていた。息を切らして走るレナの脳内には酸素が十分に行き渡らないためか、思考はだんだんと単純化されていく。同じ問いがレナの頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。なぜ自分は走っているのか?ゴールには何が待っているというのか?と……

 

 前方に長い髪をした少女の姿が見えた。小さな背中は何かに怯えるように震えていて、そんな梨花を守らなければと思い、もう一度気合いを入れ直して身体いっぱいに力を込める。するとさっきまでと一変して、鉛のように重かったはずの身体が不思議と軽くなった。重力を感じず、自由な風に身を預けたようで、まるで鳥になった気分だった。

 やがて梨花に追い付き、そっと手を取ると、驚いたように見上げてくる。梨花の驚きを怪訝に眺めやりながらも、レナはその万能感に半ば陶酔していた。今ならどんなことだってできる気がする。だがふいに視線を下げると、どこか違和感があった。自分は土のグラウンド上を疾駆していたのではなかったか。これではまるで……

 

 その時、再びあの音が聞こえると、すべての陶酔は冷めやり、レナは背中の翼を血で赤く染めながら地上へ真っ逆さまに堕ちていくのを感じた。落下しながらも振り向いて後ろを見ると、翼は銃弾の勢いに負けて折れかけていた。このままでは無事には済まないかもしれない。それでも梨花だけは救おうと、血が付着せずに、白いまま無事でいられた羽根を何本か毟って、梨花の手に差し出した。血で滲んではいないから、羽根の効力は失われずに済んだだろう。

 羽根は梨花の両手に包まれると質量を増して、まるで綿のように膨らんだ。指のあいだから細くて白い羽毛がするりと抜け出して、宙で煌めくそれらは割れたガラスの欠片みたいで、そんな神秘の光景を目の当たりにしたレナは、薄れゆく意識の中、梨花の背中に小さくとも確かな、白い翼が生えるのを見た。

 

 この継承を最期に、レナは死んだ。

 その銃声が人間1人の生命活動の機能を永久に失わせる割には、そうした重みに似つかわしくないほど軽いものだったため、梨花は目の前であまりにあっけなく命が奪われたそのさまを、現実のものとして認識するのに困難を要したが、それを認識すると同時に、死の本当の意味を百年の時を経てようやく理解できた気がした。

 梨花はこれまで、死んでは過去に戻るを繰り返してきたが、今際の記憶を忘却の彼方へ置き去りにしてきた。そのため、次の世界の梨花は死することの本然を会得してはいなかったのだった。死ぬということが、終わることと同義だという本然を……

 

 頭部に銃弾を浴びて即死したはずのレナは、しかしすぐには倒れずに、しばらく梨花を庇うように鷹野の前に立ち塞がった。梨花はレナの髪に顔を埋めて呆然としている。鷹野もまたその様子を信じられないものを見たような目をして見つめている。鉄のような血の匂いは、今しがたまで降っていた雨の匂いと混じり合って鼻腔を強く搏つ。夥しいまでの血の海が銃槍から迸り、梨花の視界が赤く染まった。赤は梨花の眼に強く鮮明に焼きついた。

 時間遡行を繰り返す梨花は、死の直前の記憶はいつも曖昧になるが、この激烈な真紅のイメージは脳裡に直接流れこんだかのようにも感じられて、次の世界で最初に目を開いたときにも、同じように世界は赤く染まっているに相違ないと思われた。

 一刹那後に、レナは抱いた梨花もろとも倒れ伏し、もはやさっきまでの神秘性、生と死の狭間で揺曳する神々しさを失い、ただ死した肉の塊としての存在と成り果てた。それを見てようやく我を取り戻した鷹野は、梨花を眠らせようと近づく。すると梨花は決意を込めて、鷹野に語りかけた。

 

「私を殺すのね」

「……ええ、殺すわ」

「そう」

「怖くないの?死ぬことが」

「怖いわ、今も身体が震えてる」

「ならどうして……」

「鷹野、私を殺しなさい」

「だから殺すって」

「今ここで、殺しなさい」

「……」

 

 古手梨花を殺害することは、鷹野にとっての最低条件にすぎない。彼女が神の領域に辿り着くためには、梨花にはより残酷に、宗教的意義をもった死に方をしてもらわなければならない。これは特段東京の思惑にはなく、ほとんど鷹野のある種の信仰心からによるものであり、彼女の人生に物語性を付与するための儀式の色合いを帯びていた。

 だが梨花は、それを否定する。

 

「ここで殺すの。その拳銃で」

「……」

「鷹野、あなたは私を殺すことに意味を持たせたがっているようだけど、お生憎様。あなたの言う通りには死んでやらないわ」

 

 これは、梨花のせいいっぱいの抵抗だった。レナは梨花に、生きろと言った。生きて記憶を繋ぎとめろと言った。でも、この状態では少なくとも生き延びることはできそうにない。だが何か一つだけでも鷹野の思惑通りにさせないことが必要だった。それだけでも、きっとこの敗北は徒じゃない。皆の死は、自分の死は徒じゃない。仮に記憶を継承できなくとも、きっといつの日かどこかの世界で、この一欠片が紡がれる時が来ることを信じて……

 

 鷹野は、嬰児を抱く母のように梨花を守りながら伏すレナの身体を、どうにか退かそうと試みた。しかし、身体は不思議に離れない。確かに人間1人の体重を動かすのは女性の力では難しいが、何も持ち上げようというのではない。少しだけ退かせば十分なのに。苛立ち、めいいっぱい力を込める。けれどもレナの身体は微動だにしない。梨花の表情を窺うと、そこにはもはや怯えの色はまったくなかった。それどころか、梨花はこの状況にはおよそ似つかわしくない自然な笑みを浮かべていた……

 その笑みの比類なき美しさに、鷹野は目が離せなくなる。生きることを放擲した投げやりさとは似て非なる、穏やかな表情。少女は死を受け容れたものにしか見られぬであろう、ある種の絶対的な気高さを会得していた。奇しくもそれは、先ほどの別れの際に圭一たちが浮かべたものと同じだった。

 

 高野一二三は生前、死ぬことではなくて、忘れられることを恐れていた。その点で言うと、梨花やレナの死は見た者の瞼に焼きついて、永久に記憶にとどまり続けるのだろう。そしてそういう存在を、祖父は神と呼んだのではなかったか。もしそうなら、他ならぬ鷹野自身が2人を神の次元へと引き上げたのではないか。

 いまや梨花とレナは同化していた。継承の儀式を経て魂の縫合手術は成功し、2人は生死をも超克した存在に昇華した。

 鷹野はそれが許せなくて、認められなくて、ほとんど悲鳴と区別がつかぬ絶叫を上げながら引鉄に力を込めて……

 半狂乱となって梨花の眉間に銃弾を撃ち込むと、それきり梨花の瞳から生気は失われ、あとには鷹野の荒い息づかいだけが残った。

 

「あははは……」

 

 鷹野は乾いた声で、嗤う。

 嗤い声は絶叫に変わる。

 その悲劇的なまでの声色は、帰る場所を失った者特有の悲嘆を備えていた。

 なんという皮肉だろうか。神の座を目指し、立ちはだかるものすべてを打ち破り、今まさに座らんとするすんでのところで、その椅子には既に先約がいたことに気づいてしまったのだから。やはり自分は、いつからか過ちを犯していた。そんなことはとっくに分かっていたはずなのに……

 両親、祖父、小泉が死んだ。富竹を殺した。雛見沢はもうすぐ滅ぶ。まもなく、鷹野三四という人間を形成したものはこの地上からすべて滅ぶ。あとには何も残らない。

 ならばせめて、最後まで。

 この手で滅ぼさねばならなかった。

 

 

 

 それからおよそ2時間ほどして、村は滅した。それと平行して、山狗たちは災害派遣されてくる自衛隊への引き継ぎの準備に追われている。予てからの計画通りに、火山性ガスの噴出に偽装するため、村一帯に少量の硫化水素を放射すると、鳴いていたひぐらしの声も聞こえなくなる。雛見沢の土の中で産まれ育った蝉たちも、雛見沢の命である。長い時を経てようやく外に出られたのに、崩壊した世界で人工的に命を刈られていくよりかは、地上の悲劇を何も知らぬまま、その命脈尽きるまで地中に閉じこもっていたほうが彼らにとって幾分幸せなのだろうか。それともたとえ一声でも、自らの存在を主張するように集く方が、彼らにとって幸せなのだろうか……

 

 梨花とレナの遺体は死後山狗の隊員らによって運ばれ、レナは他の射殺された犠牲者同様に行方不明者扱いとなったが、梨花に関しては他の射殺体と同じように行方不明扱いにはできない。梨花だけは、遺体が保存されている必要があるからだ。だが射殺体では実力装置の山狗に疑惑の目が向けられる恐れがあった。

 しかしここで園崎家の存在が幸いする。生粋のやくざであり、過去の経歴から園崎家であれば実弾を保持していても不思議ではなく、なんらかの権力争いに絡めて古手梨花を射殺したのだと説明つけることは不可能ではない。村が滅びたこの期に及んでも、村を支配する暗黙のルールだけが生き続けるのは不思議だった。

 こうして、山狗部隊はすべての作業を終えて通常部隊へと引継ぎ、数年にわたった雛見沢村への潜入工作は、村の抹殺という形で終わりを告げた。鷹野も入江機関の消滅に伴い三等陸佐の階級を失う。最後の訓戒を形式的にこなすと、つい今まで味方だったはずの山狗は鷹野の外側になり、小此木二等陸尉以下山狗部隊はもう彼女を伺うことはしない。鷹野はひどい孤独を感じた。もっとも、神という存在はいつだって孤独なものである。

 

 

 

 

 

 梨花とレナが命を落とした森の中で、二対の木立から伸びゆく影が闇の中でも地面にくっきりと刻まれていた。今は亡き、かの二人の生と死を讃えるようにただそこに佇んでいる。さわやかな夜風が木立を吹きすさび、木の葉を揺らし、葉擦れとともに葉脈についた水滴が滴り落ちていった。そこでは生命が揺れていた。万物は生と死の狭間で絶えず揺れ動く、儚きものに違いない。

 死した村は自然に満ちている。人間社会という軛から免れ、この肥沃の土地には絶対的な自然が蘇る。あたかもかつて自然が、人間たちが自然と呼ぶその諸生命が、地上を支配していた時代に戻っていくようだった。

 

 沈黙した村は時が止まっているかあるいは遡っているように見えたが、実際はもう朝が迫っていた。雨は止んでからというもの、降る気配はさらさらない。雲間からは絶えず微光がわなないている。空を覆う闇が遠近法を失わせているため、その光の位置は判断しかねたが、無垢で清浄なその光はあたりに遍満して、たちどころに闇を漂白していく。光はやがて2人の血が染み込んだ地上に優しく降り注ぐ。朱色は鮮やかに照らされると黄金色をも帯びた。夜明けはもうすぐそこだった。

 




もうちっとだけ続くんじゃ

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