共生〜罪滅ぼし零れ話〜   作:たかお

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贖罪

 人口2万人余りの廃れた地方都市である鹿骨市は、岐阜県北部、律令制下では旧飛騨国に属した高原都市である。日本海側気候のため冬には豪雪地帯となるこの地方も、この6月は気温も高くなり、今年は全国的に空梅雨で湿気も少ないためか、夏の到来と早合点した蜩蝉が一足早く鳴きはじめ、向日葵たちもはなさいでいる。

 当市に属する雛見沢村は、もとは鬼が淵村と言い、伝承によるならば、この村にある鬼が淵沼から人喰い鬼たちがあらわれて村人を襲ったが、「オヤシロさま」と呼ばれる神が顕現し、鬼たちと村人との調停役となったという。

 明治維新以後、新政府がこうした鄙びた寒村に残る酸鼻な因習を嫌ってか、改名の命が下り雛見沢村となった。名前は変わっても周囲の部落も雛見沢を敬遠したためか、あるいは村自体が封建的でまわりとの交流を嫌ったためか、なんにせよ永らく独立した自治体だったが、1950年代の昭和の大合併によって鹿骨市に吸収合併されることになった。件の大災害の際は、全国的には鹿骨市の名前がニュースに踊り、大きな風評被害を受けたそうだ。近隣地域にも避難命令があったために、いっとき差別の対象になったという。

 そんな鹿骨市も、大災害自体が風化したいま、都会の喧騒から遠く離れた駅前の低層ビルや商店街の下を歩く疎らな人影に、閑静な住宅街が連なり、学校や小病院をこえると、見渡す限りの田園風景が広がる、日本中にどこでもある無個性な田舎街と変わりなかった。

 市街地をこえた先の坂を登ると旧雛見沢村に至る。まだかつての「ダム戦争」を思わせる立て札が僅かに残っていた。雛見沢村へと繋ぐこの急坂は、黄泉の国と現世を隔つ三途の川のように、異空へ続く道に思われた。鬼の出でし沼より這い出た瘴気が、この先には渦巻いている。

 

 

 

 

 エンジンを切り、カーラジオから一方的に語りかけてきた声が途切れると、静寂にまぎれて窓越しにも蜩の合唱が聞こえてくる。夜の森閑とした廃車の中で、世界から切り離されて、ひとりで震えていた少女と、今の自分。礼奈には少しも変わっていないように思われた。堆い塵山に埋もれ、「竜宮レナ」はあの日死んだのだ。竜宮礼奈はその残骸である。

 いっとき茨城県に住んでいた彼女は、両親の離婚によって父と共に故郷の雛見沢村に戻って以来、「い」やなことを忘れようと、「レナ」と名乗っていたが、大災害のあと、ふたたび本名である礼奈と名乗るようになった。あの災害を忘れようとすることは、死んでいった皆に対する裏切りに思えた。

 澱んだ空気に耐えられなくなって、車窓を開けると、初夏の熱気を帯びて吹きつける薫風が、小豆色の髪を撫ぜた。

 竜宮礼奈は今年で37歳になる。雛見沢に住んでいたのはもう22年も前のこと。あの頃と比べると、瑞々しかったかんばせには、薄化粧では隠しきれない皺が刻まれていた。あの日以来笑顔を見せなくなった礼奈の表情は、均整のとれた顔だちを年齢以上のものに見せている。快活ささえ取り戻せば、10は若く見られる美貌を備えているにもかかわらず。

 バックミラー越しにくたびれたその面差しを見つめると、礼奈はひとつ溜息をついてからシートベルトを外し、躊躇いがちに車外へ出た。

 

 

 

 

 二十年ぶりの雛見沢は、礼奈の記憶の中と変わらず、まるでタイムスリップしてきたようだった。清流は淙淙とせせらぎ、茫漠とした空はどこまでも青く澄み渡っていた。惜しみなく照りつけてくる陽光が、夏花の新芽で緑滴る山々に漉されながら、あたたかく降り注いでいる。硫化水素のガスが蔓延したと思えないほど空気も澄んでいて、爽風は山の香を孕み、草花をさやらせ、一歩進むたびに感じる、草いきれの蒸れた温気との対比を生み出していた。

 歩きだしてしばらくして、目的地である建物が目に入った。くたびれた木造の二階建ての校舎に、雑草がところせましと生い茂る、でこぼこ土のグラウンド。この興宮小学校の雛見沢分校は、雛見沢営林署の建物を間借りしていた。意外にもまだ学校の間取りを覚えていて、古い木造校舎の床をギシギシと音を立てながらも、待ち合わせ場所の教室へは迷うことはない。

 教室の扉を前にして、礼奈はふと上を見上げた。いつも扉に何かトラップを仕掛けていた北条沙都子の顔が過ぎったのだ。戸を開けて室内を見渡すと当時のまま机が並んでいた。レナの席。両隣に前原圭一と園崎魅音。沙都子の隣の席が古手梨花。5人は特に仲がよく、放課後は決まって「部活」の名目でボードゲームに興じていた。

 普段より早く登校した時のように、誰もいない静かな教室。礼奈は、窓を見つめながらぽつねんと佇んでいた。もうすぐみんなが登校してくる時間で、全てが妄想だったように思えてくる。

 そんなふうにしばらく現実から逃避している彼女の耳に、やがて複数の足音が聞こえてきたが、それは明らかに成人男性のものだった。

 

「竜宮さん」

 

 粘性を含んだ声を聞いて振り返った先には、きれいに梳られた白髪に深い皺を刻んだ老人がいた。この老人、大石蔵人はかつて、鹿骨市は興宮警察署に勤務していた刑事で、雛見沢村での一連の事件を追っていた。今回雛見沢村の封鎖が解除されたとあって、検査入院の予定を先延ばしにしてまで来訪したが、矍鑠たる立ち居からはそれを窺い知ることはできない。

 彼の後ろには二人の男性がいる。そのうちの一人、精悍な容貌と鍛え抜かれたであろう体躯の中年男性は、最近大石と連名で、雛見沢村の事件、災害をまとめた本を上梓した赤坂衛である。赤坂は警視庁の公安部で長年最前線で駆け続けたために会得した、鷹のように鋭い眼光を礼奈に向け続けている。

 もう一方の男性は、赤坂の大学時代の後輩で、自衛隊に所属している。彼だけは雛見沢と関わりがないため、礼奈の知らぬ顔であった。しばらくの間沈黙が続いたが、やがて大石が機先を制して、相好を崩しつつ口を開く。

 

「どおもぉー、竜宮レナさん。お待ちになりましたか?」

「いえ……先程来たばかりです」

「そりゃあよかった。いやぁねぇ。どうしてもあの時のお話が聞きたくて」

 

 レナはあの時、鷹野三四という女性からスクラップ帳を渡された。鷹野は雛見沢に唯一の医療機関たる入江診療所の看護婦で、猟奇趣味、民族学的趣味から一連の事件を推理していたが、寄生虫説やら、宇宙人説やら突拍子ない考察を、スクラップ帳に書き込んでは地元の子どもたちに吹き込んでいた。そんな眉唾話を信じ込み、学校を占拠して爆破未遂事件をおこした「少女A」こそが、竜宮礼奈である。

 

「どうしてそんな馬鹿な話を信じて、あんな大それたことをしたのか、自分でもわからないんです。当時は、家でいろいろあって、精神的に疲れていたのだと思います」

 

 家でのこと。礼奈の父を美人局のターゲットにし、食い物にしていた間宮リナと北条鉄平を、その手で命を殺め、あまつさえバラバラにして埋めた。その罪は、あの大災害で有耶無耶になり、一生糾弾されることはないかもしれない。

 だが礼奈は、今もあの鉄パイプで殴打した時の、頭蓋が砕けてひしゃげた音だけは、今でも克明に覚えている。

 

「それを圭一くんに諭され、悪い夢から醒めて、全てが終わりました」

「私にはねえ、全てがあなたの悪い夢や妄想だったとは思えないんですよ。あの日の夜に入江先生が服毒自殺、古手梨花さんは他殺体で発見され、その未明に唐突なガス災害で村が全滅。これほどの事件が立て続けに起こるなんて、どう考えても偶然とは思えないんですよ、私にはね」

「竜宮さん、あなたあの事件の後、長い間病院に入られてましたよね。大丈夫、ここは病院じゃあない。私たちに、あなたの知っていること、思っていることを教えてくれませんか」

 

 礼奈は目を見開き、前歯を噛み締める。

 

「竜宮さん!それがあの大災害で死んでしまった前原さんや園崎さん、北条さんや古手さんの無念を晴らすことになるんですよ!」

「知らない……知らない、私には、何もわからない!わからない!」

 

 数十秒ほど。荒い呼吸を整え、ようやく落ち着いてきた礼奈は、絞りだすように、

 

「ただ……ただ私は、梨花ちゃんに大きな秘密があったように思う時があります。魅ぃちゃんは御三家ではあったけど、宇宙人や細菌と関係があるとは思えなかった」

「……」

「でも、梨花ちゃんは明らかに関わりがあった。何かを知っていました……」

 

 

 

 

 雀色に染まる夕暮れの下、4人は雛見沢ダムの工事現場跡地に来ていた。かつてこの村には、ダムを誘致する計画があった。昭和50年10月に内閣府により告示された、「雛見沢発電所電源開発基本計画」は、列島改造論が日本中を包んだ当時の流れに沿るものだったが、役人側の説明不足が住民の反発を招き、雛見沢村で権勢を振るっていた御三家、とくに園崎家が陣頭に立って抵抗運動をおこしていた。

 閉鎖的な村にみられる強固な結束により、一部の村人によるゲリラ行為が起きるなど、激化する反対運動もあって計画は中止、その後の大災害によって事実上頓挫することになった。その間、当時の犬飼建設相の孫の誘拐事件があったが、これが警視庁公安部の赤坂と大石の邂逅で、後に共闘関係を結ぶに至った端緒であった。

 そんなダム工事現場の跡地には、不法投棄された粗大ゴミが、山のように積み上げられていて、さらに奥には廃車が置き去りにされていた。家に帰りたくないとき、この車は雨露をしのぐ絶好の場所であり、ここを見つけてからレナにとって秘密の隠れ家となった。

 レナは学校帰り、いつもまっすぐ家には帰らなかった。間宮リナが家に出入りしてから、レナの居場所はなくなった。だからこのゴミ山の秘密基地に来て、誰からも必要とされなくなった塵芥に囲まれて、なんだか心が安らいでいたのだ。

 

「ここで梨花ちゃんは私に言ったんです」

 

 怖がらないで。私はあなたを助けに来たんだから。おもむろに注射器を取り出して、あなたを楽にしてくれる注射だ、とレナに言う梨花。そして……どうせもうすぐ滅ぶ世界だ、と……。

 

「滅ぶ?」

「そこにいたのは、私の知っている梨花ちゃんじゃなかった。別の古手梨花。いつもの梨花ちゃんじゃない梨花ちゃんが、時々私たちの前にいた……」

 

 村の高台に鎮座する古手神社は、信仰する村人を失っても、荘厳さをたたえている。4人は苔むした石段を上って神明造りの鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立った。

 

「ここなんですね。梨花ちゃんが殺された場所……」

 

 礼奈にとって、梨花が殺されたことは信じられなかった。当初、豹変した彼女への恐怖から、犯人達の一味だと確信していた。しかしその梨花は腸を裂かれ、夥しい鴉の群れに集られて死んでいるところを発見されたのだという。

 古手神社の高台からは、村の全景を見渡せる。村から人がいなくなっても、自然の美しさだけは変わらない。礼奈は欄干に両手をさしのべて、小さく呟いた。

 

「できるなら……あの輝いていた雛見沢に、戻りたい……」

 

 そう、雛見沢は輝いていた。この景色のように……

 

 

 

 

 

 雛見沢大災害。昭和58年6月26日深夜から27日早朝にかけて、鹿骨市の雛見沢地区にある鬼ヶ淵沼より、硫化水素等猛毒の火山性ガスが発生。数時間かけて雛見沢地区全体に蔓延し、村民2000名余りが死亡、近隣地区60万人が避難するという未曾有の大災害であった。今年、平成17年に解除されるまで22年にわたり立入規制が敷かれていた……

 これを人為的に起こすことは不可能に思われる。だが梨花は、滅ぶ世界と口にしており、大災害が起きることを知っていたようだった。何者かによる計画的犯行だった可能性もある。だとしたら、梨花は何故逃げなかったのか、という疑問が生じる。あの時梨花は、礼奈を助けに来た、と言った。それがもし本当だとしたら……

 大災害は礼奈から全てを奪っていった。ふるさと、父、そしてかけがえのない仲間たち。みんな死んでしまった。

 

(魅ぃちゃん、あんなに殴って、痛かったはずなのに、一言も反論せず、耐えていたんだよね。あなたに謝りたいのに、もうそれができない……)

(沙都子ちゃん、悟史くんがいなくなってから、強くなろうとあんなに努力していて、いつか悟史くんと会えるはずだったのに……)

(梨花ちゃん、しっかり者で、半ば村八分にされた沙都子ちゃんをいつも庇っていた。みんなから崇拝されても、それを鼻にかけたことは一度だってなかった……)

(そして……圭一くん。ちょっぴりデリカシーが足りないけれど、時に優しい、まっすぐなあなたのことが好きだった……)

 

 少女の頬にさした淡い薄紅色は、地獄の沼から湧き出た瘴気の漆黒に塗り潰された。

 みんな死んでいったのに、なぜ自分だけが生きているのだろうかと、礼奈はいつも悔恨の念にかられる。礼奈があの日雛見沢にいなかったのは、あんなことをして警察に連行されたからなのだ。罪を犯し、皆を傷つけたのに、そんな自分だけが何故生き残ったのか。

 罪悪感で押しつぶされそうになるとき、ほんのわずかの間、どす黒い感情が礼奈を支配する。自分ひとりを残して、先に死んだみんなが憎い。みんなと一緒に死にたかった。罪を償う相手もいないのに、どうやって罪滅ぼしすればいいのか。これから死ぬまで苦悩し続けなければならないのだろうか……

 

(私の罪は、償うことすら許されないほど深いのか!)

(ああオヤシロさま、もし大災害があなたの祟りならば、なぜ罪深きこの身ではなくて、みんなを祟ったりしたのでしょうか。祟られるべきは私なのに! )

 

 ペタペタ、ペタペタ。

 そのとき、ふいに足音が聞こえてきた。

 ペタペタ、ペタペタ。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 誰かの謝る声が聞こえた気がしたのと同時、礼奈の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 見渡す限り遥か彼方までへと続く空間。そこに割れたビー玉の破片のような、きらきらとした欠片が無数にただよい、それらが万華鏡のように乱反射している。その幻想的な光景は、ここがあの世だと言われても論駁できないだろう。礼奈には、自分がいつからここにいたのかは分からない。ただふわふわとした、宙に浮かぶ感じが心地いい。

 ふいに、何かが目の前に姿を現し、森厳な口調で語りかけてきた。

 

「竜宮レナ」

 

 目の前の存在こそが、オヤシロさまなんだと、礼奈にはなんとなく分かった。

 

「戻りたいですか?」

(どこに?)

「輝いていた日々に」

(戻りたい。またみんなと会いたい、部活がしたい、恋をしたい……)

「人の子よ、あなたも梨花と同じく、永劫に続く茨の道を歩むかもしれない。その覚悟はあるか?」

(なんでもいい、私はただ、みんなにもう一度会いたい……謝りたい……)

 

 瞬間、眩い光が視界を襲った。そこで礼奈は目を覚ました。




ニコ生は見てないです

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