大型バスの車窓からは穏やかで雄大な河口湖が見える。午後の日の光を照り返す水面は実に美しい。八幡は窓の枠に肘を置き、考え事にふけてため息を一つ空気中へ放出する。
鎌倉での旅行から二日ほど経っただろうか。既に結衣はいつもの予備校での生活に戻り、八幡はサークルの夏合宿に参加中である。別に何をするということもない。持ち込んだ小説をただ読み続ける五日間にするのもよし、ひたすら自らの創作活動に集中するのもよし。なんでもできる。それこそが大学生の醍醐味であり、八幡が居心地がいいと感じている点だ。それなのに、何だか最近は本当に自由だと感じることが少ない。
いつだって一人だった自分が、いつからこんなに人間関係でがんじがらめになっていったんだろうか。
それが専ら、最近の八幡の悩みだ。
「ハチくん、隣いいかな?」
「‥‥駄目って言ってもどうせ座るでしょうが。」
えへへ、と隣の席に座る琴美。片手にはポッキーを持ち、まるでリスのようにポリポリと食す姿は少しだけ幼く見える。
「いや〜楽しみだよね〜。バーベキューに花火大会、枕投げに恋バナ、怪談‥‥」
「ほとんど文芸サークルに不要なイベントだらけじゃないっすか‥」
「ハチくん分かってないな。楽しいイベントなら何でもやる。それがうちのモットーだよ?」
「そんなの初めて聞いたわ。あ、さっきから材木座の姿が見えないんですけど知ってます?」
琴美は後ろを振り向く。彼女が指をさした先にはバスの後部座席でエチケット袋に顔を埋める材木座がいた。
「あいつ、何やってんだか‥‥」
「まあ、しょうがないよ。体質とかあるからね。で、河口湖を眺めながらハチくんは次回作の構想でも練ってくれてるのかな。」
「書かないっすよ。この五日間、買い置きしてたラノベを読む漁るつもりなんで。」
座席の上に置かれた鞄にはたんまりと本が詰め込まれている。生活費を差し引いたバイト代でこつこつ買っていた本だ。
「キスまでしたのに効果なしか〜。残念だな。」
「ちょ、やめてください。まあまあ大きい声でそんなこと言うの。」
琴美がニヤニヤとこちらを見ているのは容易に想像できた。本当に厄介なやつだと心から思う。しかし、この人には敵わないのだ。どんな言葉を投げつけてものらりくらりとかわしてしまう。
「まあ、まだ時間はあるからね。気長に待つよ。」
その先には平穏があることを願いながらやがてバスは右折していく。
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「はい!第一回一番美味しい晩御飯選手権始まるよー!」
「着いて早々なに始めてんすか。」
皆荷物を置くと直ぐに始まってしまったこの大会。どうやら毎年恒例イベントのようで二人一組で晩御飯を作り皆で投票し、優勝が決まる。優勝チームには一人につき図書カード1万円分が送られるため、アホほどレベルの高い戦いになるそうだ。
「とりあえず組み分けね‥‥みんなくじ引いたね‥‥よし、私はハチくんとだ!」
「意図的な何かを感じるので変更を求めます。」
「じゃあ、ハチくん一人でやる?最下位には後片付けが待ってるけど。」
「ぜひ頑張りましょう。」
無駄な労力はできるだけ減らしたい八幡にとってこの手の話は弱い。できれば何事もなく過ぎ去って欲しいものだがきっとそう上手くはいかない。ならば、琴美に任せておくのが賢明だ。
「皆、チームは決まったね!じゃあ各自買い出しへlet's go!」
戦いの火蓋は切って落とされた。まるで野獣のように外の世界へ食材を求め飛び出して行く人々の中に二人の姿はあった。
「別に走らんでもいいだろうが‥‥食材が逃げるわけでもあるまいし‥‥」
そんな呟くはきっと皆には届いていないだろう。
地元のスーパーには既に部員が散らばる。唐揚げはどうだ、ステーキなら勝てるはず、一周回って菓子パンというのは‥‥‥様々な声が聞こえる中、既に琴美は決めているようで次々に食材を入れていく。
「なに作るつもりなんすか。一応、相方して聞いておきたいんすけど。」
「内緒。まあ、安心して。絶対に最下位にはならないから。」
「琴美さんもやっぱ最下位は嫌なんですね。」
「みんなトランプとか楽しんでる中、片付けなんて嫌でしょ。というか、私はなんだかんだで毎年優勝してるんだよ。期待しててね。あ、ハチくんそこのニンジン取って。」
八幡はすぐそこにあるニンジンをおもむろにカゴへ入れるがその手を琴美に止められる。
「ストップ。そのニンジン、ヒゲが多いし、切り口の直径が大きいから却下。別の‥‥その隣のやつにしよう。」
「どれも一緒じゃないんですか。」
「切り口の直径が小さいと芯が柔らかくて美味しいの。常識だよ。常識。」
鼻高々に豆知識を披露する琴美であったが彼からすれば意外だった。日々の生活を見てる限り、自炊が得意な素振りは全く見せなかったからだ。買い物カゴ片手に、まるで本当の主婦のように見定める姿はとても新鮮で目で追ってしまったのは必然だったのかもしれない。
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結果から言えば、琴美達の圧勝だった。
夕食。あらゆるチームがこしらえ、テーブルに並べられた料理の中でダントツの人気を誇ったカレーライス。なんということもない普通のカレーだ。強いて言えば隠し味にビターチョコを入れているくらいだろうか。しかし、たんまり煮込んだカレーは面白い程に無くなっていく。
気がつくと鍋は底が見え、炊いた米一つ残ってはいなかった。
「八幡〜、助けてくれ!我こんなに片付けられん!徹夜は嫌だ!」
「大体、お前のチームはなぜ菓子パンで勝てると思ったんだよ。サボった罰だ。まあ、頑張れ。応援はする。」
へなへなと倒れこむ材木座こそ、カレーライスを最もおかわりした張本人だ。
食事が済み、皆自由に活動する。本を読む者、パソコンを開き未だ掴めぬ作品のカケラを集める者、友との楽しき会話に花を咲かせる者。自由を愛し、自由に身を委ねる者達がそこにはいた。
八幡はスニーカーを履き、外へ出る。合宿所からの光がしばし辺りを照らしていたがほんの三分も歩けば真っ暗な世界が広がっていく。
ふと空を見上げると空には一面の星空とまではいかないがきっと東京では見ることができない六等星が見える。かの微かな光でも恐ろしい程の時をかけてここまで届いているのか、と思うと何だか自分の悩みがとてつもなく小さく感じて安心する。
「ハチくん、ここにいたんだ。」
後ろからの声に振り向きもしない。誰か見なくてもわかるからだ。
「なんですか。ストーカーですか。」
「おいおい、今日の功労者にそんな言い方ないでしょ。そんなハチくんには図書カードあげないよ〜」
琴美が八幡へ図書カードを渡す。その際、暗いながらも琴美の緩いTシャツから覗くブラが目に入ってくる。
「ちょっとハチくん、ほんとに要らないの?」
「‥‥いただきます。」
八幡は図書カードを受け取り乱暴にポケットに突っ込む。どうやら目線はバレていないらしい。
「どうして皆カレーに投票したんですかね。もっと良さげなのは沢山あったのに。」
「カレーが嫌いな人っていないでしょ‥‥じゃ屁理屈好きなハチくんは納得しないか。そうだね。一つ言えるのは〝人間は安心を求め続ける生き物だ〟ってことかな?」
「安心‥‥ですか。」
カレーと安心。どう結びつくか全く理解できていない八幡に彼女は優しく解説する。
「こんなイベントだから皆、気合入れて作っちゃうんだよね。今日も凄かったでしょ。パエリア、鴨のコンフィやスッポン料理作ったり、バラエティ豊かだよね。」
「まあ、確かに。実際俺はパエリアにしましたよ。」
「でも皆はカレーを選んだ。それは既に分かってる味だからだよ。知ってるから失敗はしないし、安心して食べられる。知らないことはとても怖いことだからね。」
知らないことはとても怖いこと。覚えのあるその言葉に少したじろぐ。
「まあ、理屈を無理やり押し込んだらこんな説明になるけど実際はそんなことはないでしょ。普通に私の料理が美味しかったからだと信じたい。」
そうケラケラ笑う琴美がなんだかとても眩しく感じる。
「どうしたの?急に黙っちゃって。」
「‥‥何でもないっすよ。」
「嘘が下手だね〜もしかして家庭的な私の一面を見ちゃってちょっと揺れてるの?」
見透かされるのは八幡が苦手とするところだ。何だか子供扱いされているようで気に触る。だから反論したくなる。
「‥‥別にそんなことは」
「うんうん。悩め、悩め。それは若者の特権なのだから。」
アンタのせいでこんなになってんだろうが。その思いをどうにか押し留める。その言葉を漏らしてもどうなるわけでもない。
「‥‥相談があるんすけど。」
切り出すタイミングを間違えたかもしれない。八幡は咄嗟にそう思ったがもはや口に出してしまった以上、後には引けない。
「いいよ。なんでもどうぞ。」
「人との繋がりをうっとうしいと感じる俺は間違ってるんすかね。別に他人と一緒じゃなくても生きていける自信はあるしこれまでもそうしてきたのに、最近は人と繋がらなくてはならないことが多い。自分が弱くなったような気がしてしまう。」
「ボッチがいい、ということかな。」
「端的に言えば、そうなります。」
何を言っているのだろう。人生相談なんて誰にもしたことはなかったのに。
それでも八幡が話してしまったのはやはり琴美の人柄にあるのだろう。優しく包み込むように、そして何でも答えてくれるような安定感があるのだ、彼女には。
「なるほどね、ハチくんの悩んでることは分かった。でも既に答えが出るけどね。君は本心ではボッチにはなりたくないはずだよ。いや断言できるね。君はボッチにはなりたくないんだ。」
「いや、どうしてそんな話になるんすか。俺が言っているのは‥‥」
「全ての証拠は君にある。本当にボッチになりたいならすぐに関係を断てばいい。そうしなかったのは心の奥底に〝人と繋がりたい〟という欲求があるから。君は誰かと結ばれたいんだ。思いを共有したい。」
彼女から放たれる言葉がチクリと胸を刺していく。まるで八幡の下意識の海をサルベージされているようだ。
「でも君は他人と繋がることができる確かなツールを持っている。小説だよ。君は自らの意識を切り取った作品を他人と共有することができるんだよ。その他人こそファンなんだ。これを見てごらん。」
背中から取り出し、八幡の顔に差し出されたタブレット端末にはサークルが運営する掲示板が表示されていた。
〝Q&Aの作者マジで天才!〟
〝こういうのが読みたかった。〟
〝次回作期待してます!〟
彼の作品に対する感想で埋め尽くされている。なぜだろうか。八幡は唐突に胸が熱く感じていた。
「君の意識を感じ取った君のファンだ。これを見てどう思う?」
「‥‥まあ、嬉しくないわけではないですかね。なんか、今まで誰かに認められるようなそんなことなかったから。」
それまで全く人から公の場で褒められることがなかった彼の中でその時、何かが変わったのかもしれない。その証拠に彼の目には液体を潤ませているようだった。
「どう?やっぱ書いてみない?もし君が書くなら私は全力で君を手伝うよ。君が売れようが売れまいが私が側にいてあげる。」
辺りに沈黙が生まれる。虫の音だけが聞こえてくる夏の夜。そして、彼は一歩を踏み出す。
「‥‥時間をください。整理する時間を。」
「やっぱりダメなんだ‥‥いいよ、私諦めないから。」
琴美の想定範囲。こんなことで難攻不落の城を攻略できるわけないと次の発言の直前までは考えていた。
「何言ってんすか。とりあえずプロットを作りますから。プロット見てつまらなかったら俺のこと諦めてくださいね。」
「え、ハ、ハチくん!も、もしかしてその気に‥‥」
「その気にはなってないっすけど、まあプロットぐらいは作れるかなとか思っただけです。」
琴美は胸が躍っていた。またあの興奮が蘇るのだと思うと、居ても立っても居られないのだ。そんな琴美と八幡は目を合わせずに口を動かす。
「もう一つ、相談というか質問、疑問があるんですけどいいですか。」
「勿論。今の私はなんでも答えちゃうよ!」
彼が話し始めるその話題を琴美には想定できただろうか。
「琴美さんは〝俺のファン〟だと言いました。でもあの時キスしましたよね。どうしてですか。俺に恋愛感情でも抱いているんですか。正直、俺にはわかりません。琴美さんの考えていることが。」
コミケの帰りでの出来事。八幡は未だに鮮明に記憶している。かの柔らかい唇もその匂いも全てだ。しかし、なぜキスしたのかは彼の中での最大の疑問だった。
先ほどまで雲隠れしていた月が光を届けてくれる。照らされた琴美は目をつぶり、何か心を整理しているようだった。そして目と口が同時に開かれる。
「それは‥‥」