蝉の鳴き声がやかましいくらい鳴り止まない八月。各地では猛暑日が続いていて、あまりの暑さに外出するのが億劫になるほどだ。
「暑い‥‥クーラーの部屋で何も考えずただアニメだけを見続けたい‥‥」
そんな暑い夏空の下、ブツブツと呟きながら自転車でどこかへと向かう八幡がいた。背中にはパンパンに詰め込まれたリュックサックに自転車のカゴには何やら紙袋が入っている。
自転車を漕ぐ足は重い。昨日の夜、彼女との間に起きた一件がそうさせているのだ。彼は去って行く結衣の後ろを付いていき自宅マンションへ入って行くところまで付いて行った。人混みも多く、そこらの女を引っ掛けようとする輩は今の精神状態の結衣にとって危険だと考えたからである。
だが、決して声をかけるようなことはしなかった。いや、できなかったのだ。
八幡はあるマンションに到着した。近くの空いたスペースに自転車を止め、多くの荷物を抱えて歩きながらふと見上げる。高い建物の中間にある部屋が彼の最終目的地だ。おそらく長い闘いになるような予感がしてほんの一瞬「帰宅」の文字が浮かんだが、こうなったのは自分にも原因がある。八幡はエントランスへ足を入れる。
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「いらっしゃい。ヒッキー君。暑かったでしょう?ごめんね、こんなものしか出せなくて。」
「あ、お構いなく。ありがとうございます。」
由比ヶ浜母はリビングの机に座らせた八幡の目の前に麦茶と茶菓子をそっと置く。この猛暑で喉の渇きが収まらなかった八幡は結露で水滴がついたコップを持ち、麦茶を流し込む。冷えた麦茶は一瞬で身体中に染み渡り、心地よい。
「すいません。突然押し掛けてしまって。」
「いいのよ。それに嬉しいの。結衣を心配してこうして見にきてくれたんでしょう?」
「まあ、昨日俺のせいで色々ありまして。」
「やっぱりね‥‥」
母は結衣が驚くような速さで花火大会から帰ってきた時のことを思い出していた。帰りの挨拶すらせず、ただ自分の部屋に閉じこもった結衣にドアの前でどんなに話しかけても答えることはなく、ドアに耳を当てれば鼻を啜る音だけが聞こえていた。
「で、ヒッキー君はどうしたいの?」
「こうなったのは俺のせいでもあるんです。もう少し言葉を選ぶべきでした。だから、彼女と話をつけたいんです。」
「そっか、分かった。まずは結衣を部屋から引きずりださないとだね。それからさ、ヒッキー君。結衣がこうなったのは決してヒッキー君のせいではないからね。あの子が勝手に失敗して八つ当たりしただけ。それについてあなたが責任を感じる必要はないんだから。」
優しく微笑む由比ヶ浜母はじゃあ、行こうか。と廊下へ八幡を案内する。八幡はそれに従い、開かずのドアの前へ向かう。
〝Yui 〟と書かれた名札がドアにつけられたその部屋は鍵が掛けられ、当然こちら側からでは開けることはできなかった。
「結衣。ヒッキー君が来てくれたわよ。」
そう母が呼びかけても返事がない。ドアは依然閉ざされたままだ。
「起きてるとは思うんだけど‥‥ヒッキー君からも呼びかけてみてくれない?」
八幡がドアの前に立ち、結衣へ語りかける。
「‥‥比企谷だ。まあ、なんだ。とりあえず出てきてくれないか。話がしたい。」
ドアの奥からゴトっと何か音がしたが、その後はいつもの沈黙へ戻ってしまった。だめか、と由比ヶ浜母を見ると任せてとばかり微笑みながら唇に人差し指を当てている。何を考えているのだろうかと思えば、その後に出てきた言葉に八幡は思わず素っ頓狂な声をあげることになる。
「ねえ、ヒッキー君ってなかなか可愛い顔してるよね。本当、食べちゃいたいくらい‥‥‥」
「へ?」
由比ヶ浜母は八幡の頬に手をつけ、八幡の目線が他へ向かないように固定した。八幡は身体中が暑くなるのを感じる。相手は人妻だとはわかっている。だが、見つめてくる由比ヶ浜母の瞳に吸い込まれそうになる自分がいた。
「あ‥‥」
「顔真っ赤だよ。それもかわいいけど‥‥」
やがて二人の顔の距離は縮まってゆく。あと数秒で唇まで到達する。そんな時だった。
「ダ、ダメ!ちょっとママ何やってるの!」
勢いよく開けられたドアから出てきた部屋着姿の結衣は凄い剣幕であったが八幡と目を合わせると気まずそうに下を俯く。
「ほら、出てきたでしょ。じゃあ、あとはよろしくね。」
ニコニコとウインクしてくる由比ヶ浜母を見て、八幡は最も厄介な人物はあの魔王ではなく、この人なのではないかと八幡はこの時本気でそう思った。
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部屋に入るのはほんの少し待って欲しいと結衣から言われ、待つこと十分。掃除と着替えを終え、招き入れられた八幡は女の子の部屋特有の甘い香りに少し頭がクラクラする。
この部屋に彼がくるのは二度目になる。確かあの時は雪乃もいたが今は一つの空間に男女が二人っきり。なんとも言い難い緊張感が部屋にピンと張り続ける。
先に口を開いたのは八幡だった。
「由比ヶ浜、時間がないから単刀直入に言うぞ。俺が家庭教師になってやる。だから受験勉強再開しよう。」
部屋の折りたたみ式のテーブルには八幡が持ってきた大量の参考書や過去問が綺麗に陳列されている。だが、結衣の表情はあまり晴れていない。
「‥‥嫌。今はちょっと、したくない。」
八幡が想定していた回答だ。だが、怯みはしない。引いてしまえば間違いなく結衣が再起できない、そんな気がしていたからだ。
「まあそれでもいい。でもな、由比ヶ浜。人間は選択する生き物だ。大なり小なり皆毎日〝選択〟して生きてる。今日の晩御飯はどうするのか、何処に出かけるか、誰と行くか‥‥大抵は無意識に任せてしまう。それが楽だからだ。でも偶にとんでもないデカイ選択を迫られることがある。お前にとってそれが今だ。間違った選択をするな、とは言わん。だが、後悔が残る選択はするな。一時的な感情に流された選択は往々にして後悔を残しやすい。」
人一倍誤った選択をしてきた八幡がその短い人生の中で自分なりにたどり着いた哲学の一つだ。後悔は実に難しい感情、諸刃の剣だ。後悔に打ち勝てればより意識を高く高められる。だが、飲み込まれれば二度とは戻ってはこれない。とすればたかが一時的な感情に身を委ねるのは余りにもリスキーだ。ならば最初から後悔が生まれない選択をすべきでない、というのが彼の考えだった。
「でも‥‥模試も散々だったし。ヒッキーの大学、偏差値も高いから今のままじゃ間違いなく落ちるよ。」
「はぁ、とりあえず模試の結果を見せろ。話はそれからだ。」
模試結果を要求され、一瞬戸惑う結衣であったが八幡の真剣な目に根負けして勉強机に掛かったシーツを取り除き、問題を八幡へと渡す。八幡は一通り流し見をして口を開く。
「なんだ。俺の予想より出来てんじゃねえか。」
「どこができてるの。国語も英語もボロボロじゃん。」
よく出来ている要素がない、と反論する結衣をまあ聞け、と八幡はなだめる。
「まあ、普通の受験生ならこの点数ならマジで失敗ものだな。だが、お前は違うだろ。三月の時点で英語の基本五文型すら理解してなかったお前は普通の受験生よりマイナスからのスタートな訳だ。そう考えれば、ここまで引き上げたのは賞賛に値すると思うぞ。」
バカにされているのか、それとも褒められているのか、結衣はよく分からなかったがやる気は起きない。だが、八幡の次の一言はズシンと結衣に強烈な一撃を与える。
「さっきも言ったが、俺としてはお前がどうなろうとなんでもいい。もしお前が大学を諦めるならあの約束は破棄したと見なしていいよな。俺が待つ理由も特にないし。」
結衣はTシャツの裾を強く握る。
そうだった。自分がやらなきゃこの恋は間違いなく叶なうチャンスすらなくなってしまう。そう思うとそれまでウジウジと考え続けた自分が許せなくなってきた。
しばしの沈黙の後、結衣はおもむろにに立ち上がり勉強机へと向かう。筆箱とノートを手に取りと八幡の方をくるりと振り返った。
「ヒッキー。私、大学に行きたい。やっぱりこんな中途半端で投げ出すのはなんかダメな気がする。」
「……辛い夏になるぞ。」
「うん。でも二人に追い付きたい。ヒッキーやゆきのんが見てる世界を見たいんだ。」
「なら、早速始めましょう。時間がないもの。」
不意に凜と澄み切った声が聞こえたので二人が振り返るとそこには麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを着た雪乃が経っていた。
「遅くなってしまってごめんなさい。比企谷くんに二人っきりで卑猥なことをされなかったかしら。されたのなら今すぐ警察へ連絡するけれど。」
「正当な理由で家に上げてもらったのだけど。人を変態扱いするのも大概にしてもらいたいものだわ。あ、すいません。もう真似しないからそんな人をノミみたいに見るのは止めて!」
それでもなお、雪乃は目線を八幡に浴びせながら結衣の隣に座る。
「なんでゆきのんまで……」
「この男に呼ばれたのよ。由比ヶ浜さんの勉強一緒に見て欲しいって泣いて頼まれたから来ないわけにはいかないじゃない。それに…由比ヶ浜さんのことを助けたかったから…」
「だれが泣いて頼んだって?大体お前がな……」
「ゆきの~ん!ありがと!」
雪乃に抱きつく結衣の姿はなんとなくあの頃の部室での日々を思い起こさせる。
お陰で喉で出掛かっていた雪乃の発言に対する反論が引っ込んでしまった。
そもそもこの提案を初めにしたのは雪乃からだった。花火大会の後雪乃から電話があり、八幡は洗いざらい話した。そこで二人で結衣の家庭教師をらやないか、という話になったのだ。
まあ、経緯はどうでもいい。そう自分を納得させて八幡は模試を取り出す。
「まあ、ともかく、模試の直しから始めるか。」
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それから数日、結衣は八幡と雪乃のスパルタレッスンが続いた。基本的には英語は雪乃が、国語は八幡が担当している。
二人が結衣を挟む形で座る。雪乃は紅茶を片手に読書を、八幡はノートパソコンの画面と格闘し締め切り近い小説執筆に精を出す。
結衣はより強くシャープペンシルを握る。目の前のある問題が、あんなに難しいと感じていた設問が、幾つでも解けるような気がした。
「で、貴方はずっと何を書き続けているのかしら。反省文?」
「俺は大学で目をつけられるような問題行動はしてないつもりなんだが。まあ、一言でいえば執筆活動だな。イヤイヤだけど。」
雪乃が八幡へ話を振る時は大抵、休憩時間への合図だ。雪乃は結衣の分の紅茶をカップに注ぎ、目の前に差し出す。結衣はペンを置き、ひとまず雑談に加わった。
「それって、ヒッキーの入ってる文芸サークルの?」
「ああ。ラノベが読み放題だから入ったのに小説書けとか鬼畜の所業としか思えん。」
「普通、文芸サークルって執筆活動がメインだと思うのだけれど。それで、小説は書けたのかしら。」
「ああ。書き終えて今は校正中だ。」
そう八幡がノートパソコンを二人へ見せる。題名に「Q&A」と書かれたそれはかなりの枚数書かれているようだった。
「貴方が書いた小説のジャンルはなんなのかしら。」
雪乃がクッキーを口に放り投げ、紅茶を啜る。
「一応、推理にした。ファンタジー物も恋愛物も書ける気がしなかったからな。無難だろ。」
「へ〜どんな話なの?」
「言ったらネタバレになるだろうが。どうしても見たかったら買ってくれ。」
「そんなの読んじゃダメよ。きっと悪影響をもたらすわ。」
「勝手に有害図書認定するのやめてよね。一応、さっきウチのサークル代表からはお墨付きを貰ってるんだから読めはするんじゃないか。面白いかどうかは別として。」
既に書き終えた原稿データは琴美へ送っている。LINEで感想を要求したらイイね、という捻りのないスタンプが帰ってきただけだったが、所詮惰性で書いた小説だ。あまり興味はない。
「そろそろまた勉強を始めましょう、由比ヶ浜さん。次は英語だから私が解説するわ。」
そう話し、結衣に懇切丁寧にしかも明快に長文読解を解説する雪乃に感心する。多分そこらの予備校教師より断然教え方はうまいだろう。
スマホが鳴り、八幡はLINEを確認する。匝瑳琴美からだ。おそらくコミケ出店に関しての説明だろう。既読無視すれば、きっとややこしいことをしてくるに違いない。八幡は仕方なしにゲンナリする程にずらずらと長ったらしく書かれているであろうその通知をタップした。