朝九時から始まる授業が終わりいざ昼食でも取ろうかとラウンジへ向かう途中、チューターに声を掛けられ、面談が始まる。もともと一緒に昼食を取るようなクラスメイトはいなかったし、時間の調整なんてどうにでもなる。それよりもいまだ暗いトンネルの中をこのままがむしゃらに走っていて果たして大丈夫なのか、客観的視点からのアドバイスを食事よりも欲していた。
結衣を担当するチューターの名前は田町という女性であった。見た目アラサーといった感じではあるが年相応なメイクは大人のフェロモンを醸し出している。
「なるほど。不安なのね。なら、今度のマーク模試を受けてはどうかしら。」
「マーク模試ですか。いや‥‥私にはまだ早いかなって‥‥」
「そんなことないわ、由比ヶ浜さん。寧ろ、受けるべきよ。自分の今の立ち位置を正しく知っておくということは今後の学習計画にとても重要なことなの。それに丁度七月末に行われるでしょ。大体三ヶ月目でようやく学習効果は数字に表れ始めると言われている。そのことを考えてもタイミングはバッチリよ。」
「でも、マーク模試って要はセンター形式ってことですよね。」
センター試験に対して結衣は深いトラウマがある。昨年度のセンター試験では英語、国語、世界史の三教科とも六割を超えていない。知識、時間、メンタル、その全てが足りていなかった。当時は笑って見てみぬふりをしていたが、それは間違いだったと今では断言できる。あの時、もっと危機感を持っていれば。後悔が重く、重くのし掛かってくるのだ。
「確かにセンターに準拠した問題形式ではあるわ。でも世界史なんかはまだ現役生も進んでない部分もあるから範囲が狭まってるし、そんなに構えなくても大丈夫。由比ヶ浜さんはよく先生へ質問しにきてくれるし、ちょくちょくやってる小テストも八割毎回越えてきてるんだからもう少し自信を持って!自信を持ちすぎるのはどうかとは思うけどなさ過ぎるのも問題よ。きっと成績は自然に上がってるわ。それにまだ模試まで一ヶ月ある。まずはそれに向けて計画を立ててみて。それからセンター対策をやってみようか。」
優しくほほえむ田町には経験則から導き出された確信があった。新学期が始まり、早二ヶ月。四月の段階では皆、浪人に対して危機感が持って勉学に励む。しかし、五月・六月になっていくと環境になれたり友達もでき始めたりと何かとだらけてしまうのだ。結衣が友達を意図的に作らず、この二ヶ月間全く動じることなく勉強に邁進し続けるのを見ている田町からすると結衣の成績が上がらないわけがない。
「……はい。なんとか考えてみます。あ、あと、生活面に関してなんですけど……」
「ん?なんでも相談して。」
「浪人生が花火大会に行くのはダメなことでしょうか…ネットを見ていたら色々な意見があって…」
「別にいいんじゃないかな?浪人は長期戦だよ。まだまだ先は長い。ほんの少しの息抜きなら神様も許してくれると思う。ただ、息抜きのしすぎは注意してね。勉強に戻れなくなるからね。他に何か質問は?ないならお開きにしましょうか‥‥」
面談も終わり、いつものラウンジの窓際でさっと買ってきたコンビニのサンドイッチを頬張りながら先ほど借りてきたセンター試験の過去問をペラペラと眺める。見覚えのある問題が並ぶ。昨年度の問題だ。あの頃は解けなかったが今はどうだろうか。先生のアドバイス通りに勉強しているし、最近は手応えを感じることが多くなってきた。
(だめ!まずは今日のテストの復習から!それに明日の予習と単語の確認もしないと‥‥。)
センター試験に対する邪念を振り払うように頭を激しく振る。そして残りのサンドイッチを頬張り、コーヒーで一気に流し込む。時刻は午後一時。長い自習時間が始まった。
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土下座とはプライドを捨ててでも誰かに物を頼む時に使われる最終奥義である。そんな高貴な技を惜しげもなく使い、頭を地面にこすりつけているのは自称八幡の相棒で同じ学部の材木座義輝であった。
「八幡、頼む!我の最高傑作を読んでくれ!これはいままでとは一線を画す新しい物語ができた。我が相棒にも是非見てもらいたいのだ。」
「断る。今ソードアートオンラインを読み直しているところだ。邪魔するな。」
「はちま~ん!頼む。校正ぐらい相棒ならやってくれよ~。」
「甘えてくるな。俺はお前の相棒になったつもりはなさらさら無い。てか、近い。もっと離れろ。」
ここは文芸サークルの部室。部屋の壁は本棚で埋め尽くされ、ライトノベルや同人誌でいっぱいだ。そもそも八幡がこのサークルに入った一番の要因はここにある。あらゆるライトノベルがそろったこの部室に入り浸りたかった。わざわざ金を賭けなくても新作は先輩が増やしてくれるし、隠れた名作があったりと読書好きの八幡にはにはたまらない。
「ハチくん、読んでやれば良いじゃないか。クリエイターが最高傑作とまで豪語するその作品には魂が籠もっているように私には思うよ。」
「アネキ……そうだぞ、八幡。我の魂の結晶を読まずして冒涜するか!」
そう話す匝瑳琴美は携帯型ゲームを片手にディスプレイから目を離すことはない。いつものことだ。文芸サークルに入っているのに全く文芸に興味がないのだ。あるの面白そうなことだけ。それが匝瑳琴美の本質だと八幡は分析していた。
「そうはいいますがね……その労力を考えて見てくださいよ。この量ですよ。」
八幡が持ち上げた義輝の小説の原稿用紙は五cmほどあるだろうか。もつだけでも重い。
「ハチくん。そういえば『Light Ruler』の原稿をいつ書くつもりなの。今年は夏コミケに参戦する予定だよ。新人も書いてもらうとずいぶん前に話したはずだけど…まさか忘れていたりしないよね。」
文芸サークルは小説を読むサークルではない。小説を生み出すサークルだ。だからメンバーは皆、何かしら部誌に掲載する義務を負っている。残念ながらその一員になってしまった八幡にも当然義務がのし掛かる。
「まあ、もしハチくんがその小説を校正したら共作として認めてあげるよ。いいよね、材木座くん。」
「も、もちろんですとも!さあ、我が相棒よ、この暗黒の魔導書にひざまずくがよい!」
「どうする?これから一から執筆するか、校正だけするか……どっちが楽だろうね……」
悪魔め……琴美はともかく調子に乗っている材木座を殴り飛ばしたいという欲求を理性で押さえ、乱暴に原稿用紙を机に置き赤ペンを持つ。
「覚悟しろよ、材木座。」
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その小説を読み終えたのは三時間後のことだ。
感想は至ってシンプル。つまらない。設定や風景描写に懲りすぎて肝心のストーリーの流れが掴みにくくなっている。それに序盤から大勢の登場人物が登場してしまうために個々のキャラクターの特徴が分かりにくい。そして、改行やカギ括弧の使い方など基本的な文章を作成できていない。正直、校正云々の話では無い。
しかし、八幡が致命傷だと思ったのは義輝の小説に対する姿勢であった。
「お前、これを自分で読んでどう思った?」
何を当たり前のことをと鼻で笑い、義輝は答える。
「面白いに決まってるではないか。自分で書いた世界だからな。」
「そうだな。お前は面白いと思ってるのは当たり前だ。確かに話の展開自体はさほど悪くはない。だが読者の持つ印象は違う。俺は少なくとも面白いとは思わない。これは小説として成り立ってねえからな。」
いつもなら面白くないとは言いながらもそこまで厳しいことは言わない八幡がここまでいうものだから義輝も思わず黙り込む。そこで琴美がすかさず口を開く。
「どう成り立ってないのか。ちゃんと説明しないとわからないんじゃない?ハチくん。」
「……ずばり言えば、全く読者を完全に無視しているということだ。読者がどう読むか、読者がストーリーについて行けず脱落しないようにするにはどうすればいいのか、とか。読者目線で書く。悪いが、これは小説なんかじゃない。ただの文字の羅列だ。自己満足のメモ書きだ。」
義輝は崩れ落ちるようにひざまずく。八幡からの手厳しい意見に精神的には既にぼろぼろだ。
「今日の八幡は一段と厳しいな……」
「厳しくなんかない。常日頃から思っていたことだ。今まではネットにも出さず自分の中だけで書いて満足してたから何にも言わなかった。だが、部誌への掲載なら話が別だ。その部誌を求め、買った読者がいる。大した金ではないかもしれない。それでも最低限小説として成り立つ文章であることは作家としてのマナーだろ。」
とどめを見事に刺される義輝は「ぐはっ!」とご丁寧に効果音付きで倒れ込む。呆れる八幡であったが、琴美は笑みを浮かべる。
「随分、大層なことを話していたけど肝心の君は書けるのかな?」
「いや、別に俺が書けるわけでは無いっすけど。一般論として話したまでです。」
「ふーん。で、どうするよ。君の話だとこの小説は小説の体を成していないんだよね。なら修正しないことにはこちらとしては受け取れないな。でも君の相棒は余りのショックで倒れ込んでるし、君は校正を引き受けたわけだ……」
悪魔のようににやにやと口角をあげる琴美の言いたいことはよく分かっていた。自分に書け、とそう言っているのだ。
「俺は書くつもりはないっすよ……」
「なら君は締め切りに間に合わなかった罪人だね。これまで私があんなにかわいがってきたのにな……残念だな。」
八幡を玩具のように扱うようなところ、かの魔王様にそっくりで八幡は身震いする。実際のところ、この人間のお陰でどうにか生活できていることをかんがえれば反論するような余地はない。
「……これを元に自分なりに修正して形にしてきます。それでいいでしょ。」
「うん!楽しみだな~ハチくんの書く小説。」
「悪魔め……覚えとけよ。」
八幡はそう言い残し、原稿用紙を詰め込むと部室を飛び出していく。
その姿を琴美は見送りながら次の展望を思い描いていた。
「八幡よ…我を置いていくとは……不覚……」