比企谷八幡は東京の名門大学の一年生である。
東京、笹塚駅周辺のアパートの一室を自分の城のように住み着いてから二ヶ月が経ち、身の回りで起きていた環境がやっと落ち着いて余裕が少し出来ていたこの頃、八幡の姿はコンビニにあった。決してコンビニ弁当を買いに来ていたわけではない。バイトに勤しんでいるのだ。
彼自身働こうなどとは全くもって思っていないし、レジ打ちをしている今でも早く仕事から解放されたいと切に思っている。なんなら五兆くらい落ちてこないかな、と唐揚げを揚げながら妄想しているほどだ。
それでもバイトをしているのは思っているよりも大学生は金がかかると知ってからだった。親からは最低限の仕送りである家賃、光熱費、授業料以外の雑費は支給されず、すべて自分で稼がなければいけない。今までどれだけ恵まれた生活をしていたのか心の底から痛感した。食費、教科書代、散髪費、娯楽費……自分でも驚く程に金が飛んでいく。
「おーい。ハチくん。戻ってこーい。仕事中だぞ。客いないけど。」
肩を揺さぶられる。想定よりずっと強い揺れに意識は現実に戻される。
「ちょっと‥‥匝瑳先輩。俺の五兆円、返してください。」
「どんな妄想展開してたのよ‥‥。そんなことどうでもいいから品出ししてきなさい。お姉ちゃん怒るよ。」
「いつ俺があんたの弟になった。てか、今からシフトなんだから匝瑳先輩が品出ししてください。俺もう上がるんで。」
「それが大学の、しかもサークルの先輩に対しての言い草かね。もっと敬いたまえよ。」
「三回連続無断遅刻したアンタなんぞ先輩とは認めん。」
八幡から匝瑳先輩と言われたその人物は〝ハチくんのバーカ〟と品出しを嫌々始める。これが八幡の入ったサークルの代表というのだから驚きだ。
匝瑳琴美。八幡の所属する文芸サークルの代表者であり、現在大学四年生二回目に突入した変わり者である。整った容姿、サラサラのボブヘア、167cmのすらっとしたスタイルと大きな胸。外見はまるでお嬢様のように美しいのだが中身は全く別物。よく言っても変人、悪く言っても変人である。
先輩たちによる言い伝えによれば、ある時は文芸サークルが年に一度に発行される部誌「Light Ruler」をコミケや文化祭でその圧倒的なコミュ力を武器に売りまくり、一年間の学費程の利益を出したかと思えば、その利益を三日三晩の打ち上げで使い果たしてしまった。ある時はゲーム「メタルギアソリッド」にどハマりし、一時期道に生えている草や野生の動物をキャプチャーし食べるという謎のマイブームにのめりこみ、警察に連れていかれそうになったそうだ。恐らく後者は嘘だろうと八幡は思っているが。
そんな彼女が八幡を見つけたのは新歓期。ガイダンスに訪れていた八幡を気に入り、あれよあれよという間に部室まで連れ込み、懐柔。八幡にバイト先まで紹介するほど寵愛しているのだ。
そんな寵愛は正直言っていらないのだが、生活の様々な部分をサポートしてくれているのだから文句はいえない。
「時にハチくん。」
「あ、今九時半っす。」
「時に、という言葉は接続詞として会話において新しい話題に入るときに用いるのだよ。決して時刻を尋ねているわけではないぞ?で、だ。今日は飲みたい気分なのだがどうかね。」
「未成年を誘う癖なんとかならないんですかね。警察呼びますよ。」
「私が年下好きなのは周知の事実だぞ〜。まずは酔った子をホテルにだね‥‥」
アホか、と頭にチョップを食らわす。琴美にツッコむのはお気に入りの八幡くらいだ。他の人がツッコむと途端に不機嫌になり、ロクなことにならない。
「じゃあ、帰ります。引き継ぎお願いしますよ。」
「ほいさ〜お疲れさん。」
八幡が家に着いたのは十時を少し過ぎたあたりであった。バイトがあるとこの時間帯に帰ってきてしまうのが常だ。
少し遅めの晩御飯はコンビニからの廃棄を少しばかり頂いてきたやきそば。一人暮らしに廃棄品は中々助かる。
温めてる最中もベッドに倒れこみたい欲求に襲われる身体がしんどい。若いとはいえ、大学にサークル、バイトもやっていれば体にも心にも疲労も溜まる。すでに足はパンパンだ。
(そろそろ、時間か‥‥)
レンジで温めている最中、スマホが鳴る。ディスプレイには由比ヶ浜結衣の文字が。やはりな、と八幡はそっと電話を取る。
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一週間ぶりの電話タイム。自分のベッドに横たわり、スマホを耳に付ける。八幡のバイトの時間を考えていつも十時過ぎにかけるのが彼女なりの配慮だった。
「ヒッキー、今大丈夫?もしかして、またご飯食べてる最中だった?」
『いや、温めてるところだから気にすんな。』
「そっか‥‥ちゃんと食べてるの?」
『お前はオカンか。お前こそ大丈夫なのかよ。』
いつもこんなたわいのない話から始まる。結衣が聞くのは大抵、大学についてだ。八幡が今やっている勉強のこと。バイト先での様々なハプニング。サークルでのおもしろ話。どれも今の結衣にとっては魅力的で胸を高鳴らせる。
『で、匝瑳先輩なんだがな。街で嫌がる女性を無理やり連れて行こうとする男をボコボコにしたこともあるらしい。』
「なにそれ!凄い!大学にはそんな人がいるんだね!」
会話が弾む。二人とも奉仕部に出会っていた時よりも話をしているのかもしれない。それは結衣が普段誰とも話さなかった分反動でお喋りに熱が入っているのもあるし、八幡が忙しい日々で失われていくアイデンティティを結衣と話すことで取り戻せているように感じていたからだろうか。
『なあ、由比ヶ浜。』
「ん?」
『俺のことばっかり聞いていいのか。お前話したいこととかあるんじゃないか?』
「‥‥うん。大丈夫。私頑張ってるよ。毎日ちゃんと勉強してるし、最近は色々なことが分かってきたの。昔は分からなかったことも〝ああ、そういう意味だったんだ〟ってね。面白いよ。」
本当のことだ。知識を身につけ、少しずつ使い方を知り始めた結衣には色んなものに興味を持ち始めていた。それまでほんの少しの視野でしか見れていなかった世界が広がっていく。
『そうか‥‥ならいいんじゃないか。きっと、今は種を蒔く季節だ。適度に耕した土地に適切に種を撒き、水をやる。夏を超え、やがて芽が出て大きく育ち、実になる。』
「うん。分かる。ヒッキーの言いたいこと、分かるよ。だから、だからね、あの‥‥‥」
『花火大会、だろ。』
「覚えててくれたんだ。」
『あれだけ、ねだられたら覚えるわ。まあ、俺もバイトは休む。お互い、息抜きは必要だろうからな。』
約束、それは結衣がかねてから願っていた幕張ビーチ花火フェスタに二人で行きたいというものだ。三月、予備校が始まる前に雪乃と八幡からのスパルタ特訓を受けていた頃からねだっていた。
「ありがとう。ヒッキー。よーし!明日も勉強だ!」
『うるせえ、夜なんだからもっと静かに決意表明してくれよな‥‥』
「あ、ごめん‥‥じゃあ、おやすみ。ヒッキー。」
『おやすみ。』
通話中から切り替わり、ホーム画面に戻る。まるで魔法が解けてしまったかのように虚無感に襲われる。そして、いつも胸が苦しくなる。
話しているときは楽しい。いつだってあの頃、いやあの頃以上の近さで色んなことを話せるのだから。だが、同時に悲しくもなる。体温が感じられるほど、生身の彼に触れたい。そう願っても今の彼女には無理なのだ。鎖に繋がれた浪人という首輪が彼女の自由を奪う。
「ヒッキー‥‥会いたいな‥‥」
結衣は自分を慰めるように下半身へ手を伸ばしていくのを止めることができなかった。
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通話を切った八幡はスマホをベッドに放り投げ、横たわる。レンジの中の焼きそばは既に加熱が終わっていた。
「はぁ‥‥これで良かったのか‥‥?」
八幡も八幡で、電話が終わるといつも反省している。内容はもっぱら由比ヶ浜へと付き合い方だ。
そもそも結衣からの告白を八幡は断るつもりだった。誰のためでもない、ただ自分がそうしたかったからだ。雪乃や結衣と過ごす日々は八幡にとって確かに充実していた。その三人だけにしか分からない雰囲気は財産といっても良い。だが、恋人関係は話が別だ。八幡は誰かと共に添い切れるだけの自信がからっきしなかった。一人がいい。それが一番気楽だから。
それでも目の前で告白された時はそんな思考も停止してしまった。自分の気持ちを泣きそうになりながらも伝えようとする結衣をバッサリと振ることは出来なかった。だからこんな中途半端なことになっているのだ。告白の返答を一年もお預けされ、なおかつ結衣とまるで恋人のような関係になっている。こんな状態は本来間違っているのだ。
「ちょっと!居るんでしょ。」
乱暴に叩く玄関のドアに注目する。若い女性のようだ。
仕方なく体を起こし、玄関まで向かう。開けた先にはいつもポニーテールでなく、髪を下ろした隣の住人である川崎沙希であった。彼女もまた八幡と同じ大学へ進学しており、偶然にもお隣さんであった。
「アンタ、何回も私がピンポン鳴らしてるんだから出なさいよね。」
どうやら八幡が意識を飛ばして居る間、何度も呼ばれていたらしい。ごめんと謝罪し、目線を沙希の手元に移す。透明なタッパーには茶色の何かが詰め込まれている。
「これは‥‥」
「これ、作りすぎたから。おすそ分け。この前好きって言ってた里芋の煮っころがし。」
タッパーを開く。醤油とみりんのいい香りが広がる。
「アンタ、また廃棄食べてるんでしょ。そんなもんばっか食べてたら体壊すよ。」
「なんだ、デジャブか?」
「アンタ何言ってっかわかんないけど、私はこれで寝るから。じゃあ。」
「あ、ありがとうな。お休み。」
自分の部屋に戻ろうとする沙希にそう話す。すると沙希はクルリと振り返り、ドアを力ずく締めた。心なしか顔が赤くなっていたことを八幡は知らない。
「は?何だよ。訳わかんねぇ‥‥」
タッパー片手に立ち尽くす八幡であったが、少し開けた隙間から煮っころがしをひとつ摘み、口の中に放り込む。甘辛く味付けされた里芋のねっとりとした食感は見事に八幡の好みを打ち抜いていた。
「白米食いてぇ‥‥‥」