「ねえ、ママ。どっちがいい?一応、フォーマルな服の方がいいかな、でも固すぎるのはアレだよね‥‥」
結衣の部屋にはシワにならないようにきっちりと置かれた洋服があちらこちらに点在している。既に何着も鏡の前で悩み続けているのは今日の重要なイベント、それも自分のために開かれるイベントのためだ。主役が着飾って何が悪い。うんとオシャレをするのはむしろ義務である。全力で悩む彼女の顔には微笑みの影が見える。
「う〜ん。友達が開いてくれるような会ならフォーマルな服じゃなくても良いんじゃない?でも、あまりに子どもっぽいのもなんだかね。ということでママからのプレゼント。」
母から渡された紙袋にはキャメルのチェスターコートが入っている。前々から結衣が狙っていたものだ。
「え‥‥なんで、どうしたのこれ。」
「あんだけ、ファッション雑誌に付箋付けてれば分かるわよ。結衣が頑張ったから私たちからのプレゼント。本当ならもっと早く渡したかったけど全部終わってからにしろってパパがうるさくて。」
「‥‥そんなの、プレゼントしなきゃいけないのは私のほうなのに。これは受け取れないよ。」
「そんなの、気にしないの。いいから受け取りなさい。」
母から受け取った紙袋からチェスターコートを取り出し、しっかりとした生地から伝わるその暖かさを確かめたくって、抱きしめる。この暖かさはきっとコートだけじゃない。
母は結衣の肩にそっと手を置き、向かい合う。
「結衣。私もパパも一番欲しいプレゼントは結衣が楽しく、元気に過ごしてくれることなのよ。これからいっぱい結衣には楽しいことがあるはず。思いっきり楽しみなさい。人生は一度っきりなんだから。」
「‥‥うん。ありがとう、ママ。」
時間を見るとまだ集合まで二時間はある。
「じゃあ、ママは買い物してくるわ。あ、そこにある参考書の束、ちゃんとまとめておくの忘れずに。」
「うん。」
部屋の脇に置いてある膨大な参考書にプリントは全部ボロボロだ。特に英単語帳は表紙がどこかに飛んでいったのか剥き出しになっている。愛着のある戦友だ。雨の日も、暑い夏も、諦めたあの日も、彼から〝待ってるから〟と言われて舞い上がったあの日も、試験開始15分前も、いつだって眺めていた。だが、次の一歩を踏み出し、人生の階段を一段上がる彼女にはもう必要はない。
結衣はその参考書たちを一冊ずつ、大きさ別に分け、縛っていく。
ありがとう、の気持ちを挟み込みながら。
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三月と言っても夕方にもなればその寒さは二月と変わりはしない。街中にダウンジャケットを着た人がウジャウジャいる中、貰ったばかりのチェスターコートに身を包んだ結衣は待ち合わせのイタリアンレストランまで歩いていた。
息が白い。立ち登るその絹のような息はすぐに消えてしまうけれど、なんだか儚くて愛おしく感じる。
きっと彼は、
「息が白いのは空気中のチリやゴミを核に口から排出された水蒸気がくっついてできる現象だ。つまり、空気が汚れてるってことだろ。」
なんて夢のないことを言うかもしれないが。
「由比ヶ浜さん。こっちよ。」
凛とした声。大好きな声だ。
「おう。久しぶり。」
ボソボソと話す締まりのない声。大好きな声だ。
「久しぶり。ゆきのんもヒッキーも集まってくれてありがとう。」
八幡とは学園祭から連絡を取っていなかった。あえて、だ。彼のその言葉でどこまでも頑張れるような気がした。そして同時にもっと甘えてしまうかもしれない、とも感じたのだ。だから八幡とは連絡を取らずに彼の言葉を心で真空パックしておいた。時々確かめるために。
「あれ?平塚先生は?」
「ああ、あの人なら遅れてくるぞ。仕事を押し付けられたらしい。嫌なぐらい長いメールが来たから大分ストレス溜まっているんじゃないか。」
平塚先生も心配してくれた大切な人だ。相談のメールもしっかり返してくれたし、何より願書を分けてくれたのは本当に助かった。
「そっか‥‥まあ、後で来るならいっかな。じゃあ入ろっか。」
「待って。由比ヶ浜さん。ほら、比企谷くん。何か言うことあるんじゃない。」
雪乃に肘で突かれる八幡はどこか恥ずかしそうだ。
「その、だな。今日の服、似合ってると思う。ファッションセンス皆無の俺に言われても仕方ないとは思うが。」
「そんな‥‥ありがとう。嬉しい。」
「で、だ。これは俺からのプレゼントということだから。」
八幡から差し出された細長い箱。丁寧に包装されたそれはいかにも高級感がある。
「開けてもいい?」
「もちろん。」
包装から解き放たれた先にあったのは青い箱だった。綺麗に開ければハート型のシルバーに鏤められたクリスタルが薄暗くなってきた中でもキラリと輝く。
「ネックレス‥‥」
「頑張ったのは知ってるから。おめでとう。」
「一応、二人でお金を出し合って選んだの。」
こみ上げる何かを抑えるのに必死で声が出せない。幸せだと思う。家族からも友達からもこんなにも祝ってもらえるなんて。
「雪ノ下。もういい加減寒いから入ろうぜ。何が楽しくって寒空の下でくっちゃべってるんだか。」
「ふふ。あなた、今すごい顔が真っ赤だけれど果たして寒いからなのかしら。」
「‥‥うるせえ。」
カランとドアが開く。三人はその明るい店内へと同時に一歩踏み出す。
席に着いた雪乃は皆の意見を要領よく注文していく。一方の八幡はというとそのオシャレな空気が落ち着かないのか周りをキョロキョロと見回している。
「比企谷君。挙動不審よ。やめてちょうだい。」
「いや、イタリアンとかあんま行かねえからな。ソワソワするんだよ。」
「え、ヒッキーいつもサイゼ行ってるじゃん。」
「サイゼはサイゼ。ラーメン二郎を愛する奴らが〝二郎はラーメンではない、二郎は二郎だ。〟と言うのと同じ理論だ。」
「ごめんなさい。全くわからないのだけれど‥‥」
店員によってテーブルにはソフトドリンクが並べられる。
「それでは改めて。由比ヶ浜さん、大学合格おめでとう。乾杯。」
「乾杯!」
「うっす、乾杯。」
三人のグラスが近づき、音をたてる。歓喜の音に結衣には聞こえた。
「勉強頑張ってたのは知っていたけれど、まさか比企谷君と同じ大学の、それも比企谷君の文学部より偏差値の高い政治経済学部に受かるなんて私が教えた甲斐があったわ。」
「いやいや、そんな偏差値なんて誤差の範囲だよ‥‥それに文学部は落ちてるからね。」
センター試験を利用し、滑り止め校を見事抑えた結衣は少なくとも心持ちは去年と違った。言ってしまえば去年はラスボスに木の棒で挑んだようなものだったが武器も作戦もまるっきり変えたもんだから勝算はグンと上がっていったのは間違いない。
試験当日、不思議と焦りも何もない無我の境地だった。ただ目の前の問題を解いていられる。結衣の中ではきっとこれが一番の要因だと思っている。
「なんでいちいち俺を持ち出してくるんだよ。いや、もう結果として受かったから俺からは何も言えんが。」
「これもゆきのんとヒッキーのおかげだよ。目指したのも二人がいたから。私はこの一年ずっと二人を追い続けた。辛かったよ。諦めたくもなった。でもやっぱり二人に追いつきたくて、またこの三人でこうやって集まりたくって、あれ?話がまとまっていかないや‥‥」
伝えたいことが多すぎる。いつだって心で思っていることは言葉では半分も伝えられない。どんなにボキャブラリーが増えてもそれは変わらない。それでも、少しでも伝えたい。自分の思いを、感謝を。
「要するに!‥‥ありがとう。それから、これからもよろしく。」
「よろしくね、由比ヶ浜さん。」
「うっす‥‥」
テーブルの上に様々な料理が置かれる。幸せな湯気が立ちのぼる中、店の扉が勢いよく開いた。
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「いゃ〜めでたい!よし、鯛でも食べに行こう!あぁ‥‥眠い‥‥」
「先生、時間も遅いですから帰りましょう。タクシーでいいですよね。比企谷君、タクシー止めてくれるかしら。」
八幡は道路の奥からこちらへやってくるタクシーを見定め、手をあげる。見慣れた緑の車体のタクシーが八幡のすぐそばに止まり、後部座席のドアが開く。
もはや自力ではマトモには歩けない平塚先生を雪乃と結衣は肩を貸し、タクシーに押し込む。
「ありがとう、二人とも。」
「大丈夫?私もいこうか?」
「大丈夫よ。一人で行けるし、最悪私の実家に置いておくわ。それにあなたにはやることがあるでしょ。」
目が合う。そして何かを通じ合ったかのように結衣は首を縦に振る。
タクシーのドアが閉まると同時に雪乃はウィンドウを下げた。
「比企谷君。由比ヶ浜さんをよろしくね。」
「勿論ちゃんと送り届けるから安心しろ。」
「‥‥それだけでないけれど、ね。」
タクシーは動き出す。ほんの一分もすればその場には結衣と八幡の二人だけが残される。
「‥‥帰るか。」
「‥‥そうだね。」
既に暗くなった道を照らす蛍光灯の光の中を二人並んで歩いていく。
「まさか、途中参加の先生があんなに飲むなんてな。今日の主役ガン無視かよ‥‥」
「いやいやちゃんと言葉も貰ったし、私は来てくれて嬉しかったけどね。先生も色々大変だと思うし、多めに見てあげようよ。」
「まあ、主役が言うなら。」
何故だろうか。話が弾まない。本当なら早く本題に入りたいのに突破口が見つからないのだ。
思い切って立ち止まってみる。何か変わるかもしれないという一縷の望みをかけた。
「ん?どうした。」
少し先へいった八幡は心配して戻ってくる。
足が震えている。踏み込んでしまえば、元には戻れない。それでも待っていてくれた彼にきちんとケジメはつけなければならないのだ。
「ちゃんと言っとくべきだと思って。」
一呼吸置いて話し始めたのはあの時と全く同じ言葉だ。あの時と同じように強い眼で彼を見つめる。ただ彼は逃げようとはしなかった。同じように見つめ返してくる。
「私はヒッキーのことが好きです。私と付き合ってください。」
時が止まる。八幡も結衣も胸も鼓動の音だけが響き渡り、世界が二人っきりになる。
「俺は‥‥由比ヶ浜のこと、好きなんだと思う。」
口を開いた八幡は気持ちを包み隠すことはしない。そっと背負っていたバックパックから分厚い原稿を持ち出し、結衣へと手渡す。表紙には〝グッド!ローニング〟と書かれていた。
「この前、大手出版社主催の賞レースに出した俺の小説。恋する浪人女子が先に大学へ行ってしまった男を追っかけて大学合格を目指すって話だ。」
「それって‥‥」
「お前のことだよ。恋愛小説なんて俺、どうかしてるよな。で、この最後なんだけどな‥‥無事に大学に合格した主人公が男の元へ駆け寄り、告白する。男はそれを承諾して二人は恋人になる。そして数年後幸せな結婚生活を送るという王道だ。普段、恋愛小説とか読まねえからハッピーエンド以外書けなかったんだよ。多分、賞はダメだと思う。今度書くなら絶対ミステリーにする‥‥まあ、それは一旦話を置いとこう。」
恋愛小説は琴美からの要望だった。きっとこれから小説を書いていく上で糧になるからと丸め込まれて渋々書いたものだが、文字を紡げば紡ぐほど主人公の気持ちが、結衣の気持ちが痛いほどわかってきてしまう。
「こんな小説を書いたわけだが、実際にお前を幸せにできる自信がない。もしかしたらハッピーエンドにできないかもしれない。それでもいいなら‥‥」
結衣は原稿を八幡の手に握らせる。二人の距離がまた近づく。
「ハッピーエンドは二人で作ろうよ。ヒッキーだけに任せはしない。二人で歩いて行こうよ。」
「‥‥おう。」
「じゃあ、恋人成立だね。じゃあ、私の初めて、受け取ってくれる?」
八幡の懐に入る結衣。彼に考える隙を与えないまま、足を伸ばし少し背伸びをする。そして、彼の唇に自分の唇を重ねる。
八幡も逃げたりはしなかった。ただそれを受け止め、その手を彼女の背中に置く。
蛍光灯で照らされた道の真ん中で二人は芽生えた愛を確かめ合う。その愛が決して消えてしまわないように慎重に。そして、愛が長く続いていけることを願いながらそのキスは長く、長く続いていった。
完結です。
反省は活動報告に載っけましたのでよかったらどうぞ。