私には兄がいた。
優しい兄だったと思う。
一回りも歳が離れていた妹に、意地悪をしたりだとか、殴ったりだとか、そういうことは一切しなかったから、多分優しい兄だったのだと思う。
兄について語るには、私はあまりにも兄のことを知らなかった。私はまだ小さかったし、ある時を境にほとんど家に寄り付かなくなった兄が、両親に疎まれている兄が、どんな人なのか、なぜ疎まれているのか、全くと言っていいほど知らなかったのだ。
ただ不器用な手つきで頭をなでてくれた、優しい手の感触は今でも忘れられない。
家を出たのは6歳のときで、私はまだ小さな子どもだった。悲鳴と金属音が響く中、乳母らしき女性に促されるまま、土壁の崩れているところから家の外に出た。
逃げろ、という声がした。私は一瞬振り向いて、それから転げるように駆け出した。逃げなきゃ。どこか遠くまで。
そんな義務感に突き動かされて、子どもの足でへとへとになるまで歩いた。
気づいたときには全く知らない場所にいて、振り返って来た道を戻ろうとしたけれど、夢中だったからどこをどう歩いてきたのか全くわからなかった。長いこと歩いた足はしくしくと痛んだし、耐えられないほどの空腹感は、まだ子どもだった私を追い詰めるには十分だった。
もうこれ以上一歩も歩けない、と道端にしゃがみ込むと、お腹がぐうぐうと鳴った。不安で仕方なくて、べそをかいていた私に救いの手を差し伸べてくれたのは、道向かいにあった茶屋を営む夫婦だった。
夫婦は親切にも私に食べるものを与え、汚れた体を拭いて、瓦版で迷子の知らせをしてくれた。
しかし、残念なことに、私の親だと名乗りを上げる人はいなかった。悲しくて少しだけ泣いた。両親が迎えに来てくれないことよりも、兄が探しに来てくれなかったことが悲しかった。私はどこかで、兄が迎えに来てくれることを期待していたのだと思う。
冷たい両親よりも、どこか温かみのある兄が、私は好きだった。兄にとって私が生きていようが死んでいようが関係ないような存在だったとしても、私は兄が好きだった。
それから私は茶屋「藤袴」の夫婦の養子となった。
夫婦は養子である私を、本当の子どものように可愛がり、ときには怒り、一緒に笑い合いながら、育ててくれた。二人には感謝してもしきれない。幸せを噛み締めながらも、兄のことを思い出すことが多々あった。兄は今どうしているだろう。どんなに幸せでも、私はどうしても兄のことが忘れられなかったのだ。