「ありがとう!」
差し出したクッキーを一つ摘み、小さい口の中へと放り込む。
美味しそうにモグモグと目尻を緩めている。
一瞬驚いて変な表情を晒してしまったと後悔しながら、まぁいいかと箱をテーブルに戻す。
横から視線を感じて振り向くと彼女が此方をじっと見ていた。
「……えぇと、つきしま、さんだよね?『如月千早』役の」
「ええ」
たどたどしく本人かどうか聞いてきた彼女は私本人に確認して分かるとニッコリと笑う。
「柊春香です。よろしくね」
笑顔で右手を小さく差し出しながら、そう自己紹介してくる彼女。
その太陽の様に微笑む姿は私が幼い時に視ていた憧れの姿によく似ている。『天海春香』が『太陽のアイドル』と呼ばれている理由の一つだ。
私は左手で握手を返しながら彼女に答えた。
「月島薫です。此方こそ宜しくお願いします」
天然の好意を表す笑顔の彼女。
これが柊春香と月島薫のファーストコンタクトだった。
■
「でね! 学校の調理室でクッキー作ってたんだけど、佐藤君が塩と砂糖を間違えて投入しちゃって」
「あはは。大変だったのね……」
どうしてこうなった。
お互いに自己紹介したあの後、あまり彼女と一緒に居たくなかった私は迎えが待っている事を伝えて此処から退散しようとしていたら急に柊さんが
「少しお話していこうよ!お互いがお互いを少しでも知っていれば現場に入った時にやりやすいし」
という言葉を切り出した。
その言葉に思わずそうだなと納得してしまった私は、まんまと彼女の思惑に乗せられて会話を続けている。
常に私が受身で一方的な会話の為に彼女の事ばかり知ってしまう始末。
どうやら彼女は現在16歳で同い年。料理が好きで毎日何かしら作っているらしい。
「ねぇ、月島さん」
「何かしら?」
聞き手に回り愛想笑いを続けていた私に急に声のトーンを下げて彼女は問いかける。
「私ね。あなたと―――」
先程までとは全然違う真剣な顔をして真っ直ぐに此方を見てくる彼女。
何か私に伝えたい大事な事があるのではないかと感じ、私も真剣な表情を作る。
《ピッルルル~♪ ピッルルルル~♪》
聞き慣れた呼び出し音が鳴る。
伊嶋Pがホテルへと到着したようだ。
一旦、ジャケットのポケットへ無造作に仕舞いこんでいた携帯を取り出し、コールを切ってから彼女に再度向かい合う。
しかし、彼女は首を横に振って答えた。
「やっぱりいい。ゴメンね? 今、言った事は忘れて」
そうやって言葉を途中で切られると余計気になってしまうのだけど、使用が無い。
Pを待たせるのも悪いから此処は大人しく退散しておこう。
何だか話をしている内に謎の負を宿した感情は何処かへと消え去ってしまったな。
毒気を抜かれるとはこういう事を言うのかもしれない。
「それでは。また合宿で」
「うん、引き止めちゃてゴメンね?それじゃあね」
次に会う時はアイドル力を身に付ける合宿のはずだからそう言ったのだが分かっていない顔で挨拶された。
ホール内で連絡された事を忘れているのだろうか。
まぁ私が口を出さなくても後で手続きの書類とかが送られてくるから大丈夫だろう。
ソファから離れるとこれ以上、伊嶋Pを待たせるわけにはいかないので早々にホテルから出よう。 入って来た時とは違うドアマンが入り口を開けてくれたので軽く会釈してから足を進める。
後ろから
「ご利用有難う御座いました。またのお越しをお持ちしております」
という声。
底辺アイドルの私が高級ホテルを利用するのは何十年後になるやら分からないが、此処のホテルに相応しい客になって又来てみたいものだと思った。
■
「月島亭へ、とうちゃ~く!」
気の抜けた声が車内に響く。
伊嶋Pの車で頭に張り付いて離れない柊春香の事を考えていると気が付けば自分が住んでいるアパートへ着いていた。
「すいません。P、今日は有難う御座いました」
自分でもこれは無いと思ったが、早く一人になってモヤモヤとした感情を忘れたかった私は伊嶋Pに謝罪とお礼の言葉を伝えるとドアを開けて出ようとする。
「ちょっと待って、薫ちゃん」
ドアのロックを外そうと手を伸ばした所で呼び止められた。
「なんでしょうか?」
きっと今の私は不機嫌全開の表情をしているに違いない。
仮にも役者をしていたのだから、こういう時にも偽りの仮面を付ければいいのに現実では酷く不器用でしかないので如何してもそういう顔になってしまった。
そんな醜態を晒した私に対して伊嶋Pは呆れる事無く、微笑を浮かべる。
「お疲れ様。また何かあったら遠慮無く頼ってよ。プロデューサーっていう仕事はその為にあるんだからさ」
「……はい、それでは」
「うん、また事務所で」
互いに別れの挨拶を述べてからドアを開け、外へ出た。
遠ざかっていく車の後ろ姿を見送りながら私は一人ごちる。
「また気を使わせてしまったな」
これ以上、気が重くなる前にと私はアパートへと進んだ。
■
気が付くと目覚まし代わりにしている携帯のアラームではなくパッチリと目が突然覚めた。
重い瞼をゆっくりと開いたが、まだ室内は暗く、深夜に近い時間のようだ。
枕元に置いてある携帯を取り時刻を調べると、案の定午前二時を回ったところ。
嫌な時間に目が冴えてしまったものだ。
何時もは一度眠ると携帯に指定した時間のアラームが鳴る五分前に起きるというのに、どうやら今日の出来事が私の日常生活のリズムを崩しているらしい。
感じてしまった夜の闇が少しばかり嫌な気持ちが胸を騒がす。
私は夜が好きではなかった。
暗いのは不安になる。
それを解決しようと明かりを煌々と点けたりTVを点けっぱにして眠ると電気代が恐ろしい事になるから出来ないし、何より一人暮らしで頼れる安心出来る誰かがいないから。
結局、朝明るくなるまで眠りの中へと落ちているのが理想的だ。
一度寝てしまえば、夜の闇に不安になって余計な考え事をする必要も無い。
前日に嫌な事があっても感情が薄れて目が覚める頃には嫌な事を忘れさせてくれる。
言ってしまえば現実からの逃避だけれども、一個人の精神を安定させてくれる最高の安定剤が安眠なのだ。
覚めてしまったものは使用が無いので、ベッドから立ち上がり、台所へと向かう。
ガチャと冷蔵庫のドアを開き、喉が渇いていたので既に開封してある呑みかけの500ml牛乳を腰に手を当てて一気に飲み干す。
「ぷっはっ!」
その姿は傍から見れば風呂上りの親父みたいに見えただろう。
花の女子高生が到底やるポーズでない。
淑女は何時でも優雅で落ち着きを持たなければならないのに。
自分でやってみたのにどうかと思った。
何気なくリビングを見回すとテレビが置いてある棚の上に目がいく。
写真立てが一つ。
横長の長方形に切り取られた風景の中には一つの家族の姿があった。
父親と母親が並び、その真ん中に幼き日の自分が立っている。
両親の手が肩に添えられて嬉しそうに微笑む姿。
別段、両親は既に他界していて感傷に浸る物でも過去を懐かしむ為に置かれている物ではない。
私の両親は埼玉県に今も元気で暮らしている事は日常生活の報告と共に数日前にTV電話で確認を済ませてある。
あれは過去の自分を確認する為に置いてある物だ。
演技者とは舞台や人前に立つとスイッチを切り替えて普段の自分とは違う自分を存在させなければならない。
演技とは騙すという事。
それは自分すらも騙し、自分の中に新たな自分を構築する事。
よく知る自分の中に見知らぬ他人を迎え入れるという事。
その時に演技の深淵と言うべきか深みに嵌ると人格が切り替わらずに戻らなくなる人がいる。
現に劇団時代の先輩に演技の天才と呼ばれた人がいたが、あまりのも役に入り込み過ぎてしまい、日常生活に支障をきたして精神病院へと通院するようになってしまったのを見た事があった。
想像してみて欲しい。
台本に書かれ創られた人格が自分を支配し、普段取らない行動でも容赦なく取ってしまう自分の姿を。
考えただけでも恐ろしいと思う。
では、演技者はどうやって創られた人格と本来の人格をうまく切り替えたいるのか。
それは人それぞれ何らかしら方法があるとしか言えないけど、私の場合がその写真だった。
遠い日。
まだ、女優になると決めてすらいなかった頃の私を見て、私はこの純粋に微笑む少女の未来を思い返し、役と自分を乖離させている。
思い描いた最高の私が今そこにあって。
この頃と変わらずに笑顔を振り撒く人間である。
胸を張って貴方の想いに報えた将来が此処にあると自分を呼び覚ます。
写真の現物は家にしか置いてないが、無くても私は何時も頭に焼き付けたこの写真の姿を微細に思い返す事が出来る。
きっと今度の役もそうやって自分と役の折り合いをつけていくのだろう。
そうか。
そういう事か。
今やっと柊春香が『天海春香』としての演技者として足り得ない何かの正体が掴めた。
彼女は役とあまりにも似過ぎているのだ。
役と自分との境が無く、そのままで通用してしまう。
このまま彼女が役を全うするのは素のままにやっていく事が最善。
言ってしまえば演技する必要が無い。
嫉妬する筈だ。
気に食わない筈だ。
だって、私は演技者として彼女にオーディションに負けて役を盗られたのではなく、演技のえの字も知らないズブの素人に盗られてしまったのだから。
気が付いてしまえば私は勝手に納得して胸に痞えていたものがとれてしまい、ベットに潜り込むと簡単に眠りへと堕ちた。
■
数日後。
あれから何にも無い。
学校に出席してから事務所に寄り、レッスンかオーディションを受けて仕事をとって日々を過している。
今日も何時もと何ら変わらない日だった。
学校が終わり、事務所へと顔を出すと玄関口に伊嶋Pが立っていた。
「お早う御座います。伊嶋P」
「うん。おはよう! 薫ちゃん」
業界特有の挨拶が終わると小脇に抱えていた茶色く分厚い封筒を私に差し出した。
「これ。例のやつ」
例のやつ?
あっ! 特訓の。
「有難う御座います」
「確認したけど封は切られてなかったから誰も中は見ていないからね。社長や竹之内君にも釘を刺しといたし」
私は再度礼を言うと伊嶋Pは笑顔で答え
「急ぎの所用があるから」
と小走りで去っていった。
もしかしたら、ギリギリまで何時来るか分からない私を待っていてくれたのかもしれないな。
折角、内密にしてくれた恩を潰す訳にいかないので事務所に顔を出さずに普段私以外利用しない屋上へこそこそと移動する。
やはり誰もいなかった屋上の真ん中で紐で封された封筒を開けると書類を取り出して中身を確認。
ふむ、どうやら今週の土曜からスタジオにある訓練所のスペースを一つ貸切にして行うらしい。
スタジオは此処から近い。
有名な所でよく大御所のアイドルが好んで使っている場所だ。
弱小事務所がこんなスタジオを借りられる事なんて無いから近くとも使った事なんて一度も無いけどね。
あとは細かな契約の書類と誓約書が殆どだな。
誓約書の方に目を通すと本当に細やかに事項がビッシリと記載されていて、やれ秘密は守れとか、ビジュアルを勝手に変えるなとか書いてある。
こういったものは伊嶋Pに聞いて書いた方がいいな。
以前は大手の事務所にも居た事があるらしいからよく知るものだろう。
ふふふっ。
そうと決まれば此処にいる価値は無し。
顔だけ出して直に帰ろう。
書類を封筒へ戻すと屋上を後にした。
■
「いや~、いや~ひさしぶりですなぁ。いいんちょう!」
「そうね。委員長ちゃん」
「ハロハロ。委員長」
どうしてこうなった!
私は現在事務所の中で三人に囲まれて只管弄られている。
勿論、三人組とは我が事務所が誇る少数精鋭アイドルの三人だ。
屋上から降りて来たら事務所の入り口に屯していた。
引きずられる様に事務所に入った後にこういう状態に陥っていた。
嫌な顔をする私を嬉々として弄ろうとしてくる三人に怒りを堪えて渋い顔をしながら顔を睨み付ける。
「お・ひ・さ・し・ぶ・り・で・す・ね。ススキちゃん! 笹森さん! 篠原! あと委員長言うな! 」
「えー! いいじゃん! 本当にいいんちょうなんだから」
「トレイトコースを取っているのに毎日来るから委員長に任命されたんだってね」
「フフフ。意味無し」
こぉの……!。
確かに暇だから皆勤賞取れる程に真面目に毎日通ってるから先生に直で任命されたけど!
というか、どうして知っているのだコイツラ!?
「おんやぁ? どうして知っているのか、と思っているねぇ~。どうしてか、おしえてあげようか? 」
怒りで俯く私の顔を覗き込むススキちゃん。
悪魔の様に口を三日月型に歪めると本職に負けない意地の悪そうな声で囁いてくる。
「ひとにおねがいするときは、どうするの?」
「っく! おね……がいし……ます」
小さい子に馬鹿にされている屈辱で沸騰しかけている頭を冷やす。
満足そうな表情を浮かべるとススキちゃんは篠原を指差した。
「フフン。仕事で知り合った月島のクラスメイトに聞いた」
コイツか!
よく考えたら内のクラスに在籍している芸能人に知り合えるといったらアイドルランク的に篠原しかいないじゃないか。
殺すしかない!
「薫ちゃん。いいじゃない。委員長なんて頭良さそうで優しそうなあだ名。何がいけないというの? 」
「笹森さん。トレイトコースの皆勤委員長なんて芸能人として屈辱でしかない称号を私が本当に喜ぶと分かった上での発言ですか?そりゃ、一般人ならイメージの良い普通のあだ名でしょうよ!
でも、私のような芸能人には侮蔑の言葉に聞こえます」
「ぷぷっ。本当は嬉しいくせに無理しちゃって」
「抑揚の無い無感情な言葉を発しないでくれるかな? 篠原ロボ里! 」
「ウィーン。イヤダ、ロボ」
本当にムカつく!
篠原杏里、後で覚えてろよ。夜道とかな。
ここは戦略的撤退をするがな。
「兎に角。私を委員長と呼ぶのは辞めて下さい!それでは社長に挨拶があるので」
「「「えー」」」
私は勢いを付けて怒っているんですよアピールをしなが動きを大げさにして歩く。
だがしかし、それがいけなかった。
手元から封筒が飛び出し、三人組の足元に落ちる。しまった。
「なにこれ?おとしたよカオるん」
一番封筒から近かったススキちゃんが拾い上げて渡そうとしたが、一瞬ばかり私が焦った顔を見せたのがいけなかった。
ススキちゃんは天使の様な顔から一転して悪魔の微笑を浮かべて封筒を引き戻し、篠原に投げ渡す。
封筒の文字は漢字が多くススキちゃんには読めなかったからだろう。
さらに焦り、私は篠原にへと視線を移動させると、その顔は何時もの無表情とは違い驚いた表情を見せていた。
「……アイドルマスター2、出演者各位へって――月島なにこれ?」
見回すと三人と社長室から都合よく偶々出てきた社長が驚いた顔をしていた。
バレてもうた。
御免なさい。伊嶋P。
貴方の気遣いを無駄にしてしまった。