Peace Maker   作:柴猫侍

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№37 叫ばずにいられるだろうか? いや、できない

「はわわわ……麗日さんがゾゾゾ、ゾンビにぃ~……!?」

「緑谷くん!?」

 

 普段であれば戯言と受け取るであろう内容も、実際に雰囲気が変わった麗日の姿を見れば、それが限りなく事実に近い事象であると理解するには、さほど時間を要しなかった。

 映画やゲームで共通していそうなポイント―――肌の色や挙動など、緑谷に掴みかかる麗日の姿はまさにソレだ。

 

 手錠に確保テープと、絶賛拘束中の緑谷は大慌てで退こうとするものの、中々うまいように下がることはできない。友人の窮地に、敵ながらも飯田は切迫した声を上げる。

 そして反射的に彼は駆け出し、緑谷を押しのけた。

 

「飯田くん!?」

「ぐわああ!!」

 

 カプリ、と麗日に腕をかまれる飯田は、大仰な叫び声を上げた後、ピクリとも動かなくなる。

 しかし、数秒後には肌の色を蒼白に変色させ、麗日同様にゾンビ然とした姿になってしまった。

 

「そんな……僕を庇ってゾンビに……!」

「フハハハハ!」

「ッ、この声は!?」

 

 突如、森に響き渡る得意げな笑い声。

 恐らくは、この状況の元凶となったであろう人物へ、ゾンビ化していない者全員の視線が一人の男に注がれる。

 

「どうだ、俺の“個性”は!? 雄英なんぞ、俺に手にかかれば楽勝なんだよ!」

「勇学園の!」

 

 姿を現したのは、勇学園の生徒の一人である藤見であった。

 彼の言い草から、麗日をゾンビに―――そして飯田も感染させる形でゾンビとしたのは、彼の犯行とみて間違いはない。

 己の所為で友人がゾンビになったことへの悔恨と、得体も知れない“個性”の全容への恐怖に身を震わせる緑谷たち。

 

 すると、藤見の背後からはノソノソと新たな人影が現れる。

 

「ッ……羽生子ちゃん!」

「Hey, Hey……味方もかっ」

 

 現れたのはFチームである藤見以外の勇学園生徒三人と、麗日と同じチームであった砂藤と芦戸だ。

 誰もが最初に現れた麗日のように、生気を失った顔を浮かべている。

 

 友の悲惨な姿に、普段は冷静な蛙吹も思わず声を上げる一方で、熾念は味方諸共ゾンビへと変えた疑惑がある藤見へ、面白くなさそうに唇を尖らせながらジト目を向けた。

 

 しかし、ここで一瞬緑谷が違和感を覚え、自然と思慮を巡らす。

 

「あれ、かっちゃんは……?」

「ガブッ」

「ぎゃああああ!!」

 

 ヌルリと姿を現したゾンビ化した爆豪が、腕を組んで笑っていた藤見の方にかぶりつく。

 流石の執念深さに、皆は苦笑を浮かべるしかない。

 数拍置けば、元凶である藤見さえもゾンビの一人となり、意味を持たない声を発して生者を求めるだけの物の怪に早変わりだ。

 

「……Wait! これじゃあ、ゾンビ化の解除方法がわからないじゃないか!」

「は! そうだ!!」

 

 自業自得だ、と遠い目を浮かべていた熾念がハッと気づいて上げた言葉に、これまた皆が血相を変えて身構える。

 

「映画と同じだ。噛まれたら人もゾンビになっちゃう……!」

「なら俺がやるさっ。触れずに止めるのは十八番―――」

「待て、波動」

 

 誰もが狼狽する中、率先してゾンビの侵軍を押さえる役を担うと口走った熾念であったが、一歩踏み出した彼の前に常闇が割り込む。

 何事かと、全員の視線が常闇へ集まる。

 

「……A組の中で、誰が一番範囲制圧できるかと問われれば、大半はお前か轟と言うだろう。この異変……聡明な轟たちであれば、煙の届かない高台へと登っている筈だ。だが、今この場に居る中で、これだけの人数を一斉に高台へ避難させる力を持っているのは波動……お前しかいない」

「踏陰……お前、まさか」

「殿は必要だろう」

 

 得も言えぬ威圧感を放ち、ゾンビたちの前に立ちはだかる常闇。

 次の瞬間、彼は迫真の表情と声で、こう叫んだ。

 

「―――ここは俺が食い止める!! お前たちは先に行けェ!!!」

「それ言いたかっただけじゃないよね、常闇くん!?」

 

 余りにもフラグ過ぎる一言に、思わず緑谷が突っ込んだ。

 常闇がそちらの方面に患っていることは、A組内では周知の事実である。だからこそ、一度は言ってみたいが恐らくは人生で一度も言わないであろうセリフを、この絶好の場面で言い放ったのには、明らかに憧れやらノリやらが起因していると思い至ることができた。

 

「ちょ、常闇くん! いくら君の“個性”でも、この人数は……!」

「心配するな。必ず追いつく」

「いや、だから!」

 

 バンバンフラグを乱立させていく常闇に、一種のコメディな雰囲気が場に流れ始めるが、当の本人はいたって真面目だ。

 憧れと現実が一体化しているのが原因だろう。

 

「オイオイ、水臭ぇんじゃねえか?」

 

 そんな常闇の横へ、更に一人が並び立つ。

 

「常闇……波動とか上鳴との戦い見る限り、おめェの“個性”は光に弱いんじゃねえか? だったら、爆豪相手にする奴も必要だろうが」

「切島?」

「ダチを一人で残すなんて選択肢、俺にはねえぜ?」

「……フッ、勝手にしろ」

 

 腕をガチガチに硬化させながら立ち並んだ切島が、常闇の肩を軽く叩いて、好戦的な笑みを浮かべた。

 対して常闇もまた、呆れたかのように……そして若干の喜色の混じった笑みを浮かべた。

 

「つーわけだ! 今は敵味方関係ねえ! 生き残る為に協力するぞ! だからさ……振り返ってくれるなよな!」

「前だけ見てろ! 走れェ!!」

 

(えぇ~~……!?)

 

 熱い展開。

 ベタベタにベッタベタ過ぎて、緑谷の顔から困惑は絶えない。否、他の者達の表情からも困惑や呆れは消えない。消えるはずもない。

 だが、

 

「くっ……出久! 皆! 行くぞ!」

「え、ちょ、波動くん?」

「今は焦凍たちと合流することだけを考えるんだっ!」

「いや、だから……」

 

 熾念に念動力で引きずられていく緑谷。

 彼ら二人の姿に、他の者達も何となくノリで常闇と切島の二人に殿を任せ、この場から離れていく。

 次第に小さくなっていく二人の姿。

 襲い掛かるゾンビたちに奮戦する姿は、涙ぐましささえ覚えるものはある。

 

「今はそういう問題じゃないからァ―――っ!!」

 

 今日の教訓の一つは、『ノリは怖い』だ。

 

 

 

 ☮

 

 

 

 三分後。

 

「回収が早いんだよォ!」

「「あぁあぁああ~……!」」

 

 上鳴の悲痛なツッコミが木霊する森の中、新たに加わった二名と共に逃げる生存者を追走するゾンビ軍団。

 

「あんだけ威勢張ってた癖に……!」

「今はとやかく言っている場合じゃありませんわ、耳郎さん!」

 

 クラスの中でも上位に位置する戦力が無くなったことに文句を垂れる耳郎に、八百万は窘めるように声を上げた。

 しかし、状況が芳しくないのは正しい。

 緑谷曰く、『映画と同じで筋力が上がってる』とのことらしく、ゾンビになったクラスメイトの筋力は軒並み上昇している。

 峰田の『もぎもぎ』によるトラップですら、すぐさま引きはがされて追いかけられる始末だ。

 

「あぁー、クッソー! なんでサバイバル訓練でゾンビに追われなきゃなんねえんだよぉ~~!」

「あぁ~……!」

「ぎゃああ!?」

 

 パニックに陥って泣きわめく峰田。そんな彼の眼前に降り注いだのは、太い木の幹を一瞬で溶かしつくす溶解度を持つ、芦戸の『酸』であった。

 人に使う際は大抵対人用に溶解度を下げているのだが、ゾンビ化している今は思考が止まっており、相手に配慮するという意識が皆無の状態だ。故に、人に当たれば『ジュワッ』となってしまうような溶解度の酸を、躊躇いなくまき散らすことができていた。

 

「一人シャレになってない!! 芦戸はシャレになってない!!」

「流石、ヒーローネーム初期案が『エイリアンクイーン』なだけはありますわね……」

「言ってる場合じゃないから、ヤオモモ!」

 

 再び上鳴が叫べば、今度は八百万が天然な発言をかましてみせたため、耳郎が窘める流れとなった。

 ゾンビが酸を放つ―――実に、某有名なサバイバルホラーに出てくる敵の攻撃方法を彷彿とさせ、似合いすぎていて困る。

 

「くッ……ゾンビ化の“個性”を持つ彼自身がゾンビになった以上、考えられる解除方法は相澤先生に『抹消』してもらうか、時間切れを待つかだ。時間切れはあくまで可能性だけど、長時間撤退の一手じゃ無事でいられることの現実味が薄れてくる……どうすればいいんだ」

 

 緊急事態もあって、既にテープと手錠による拘束から解放されている緑谷は、このゾンビパニックを打開するための策を思い浮かべるべく、脳みそに蓄えられている知識を次々に引っ張り出しては、使えるかどうか判断するという取捨選択を繰り返す。

 

「出久。お困りのようだなっ」

「波動くん……なにか、良い案は浮かんだ?」

「HAHA! こちとら、外国のゾンビ映画はたくさん観てきてるぜ!」

「そうなの!? じゃあ、こんな時どうすればいいのか分かる?」

「Hmmm……」

 

 期待の籠った瞳で凝視してくる緑谷の問いに答えるべく、熾念は暫し顎に手を当てて考え込む。

 

「ゾンビ化するウイルスを焼く!」

「もう皆ゾンビ化しちゃってるのに?」

「特効薬を打ち込む!」

「どうやって今から作るの?」

「ミサイルで減菌!!」

「みんな死んじゃうよ!?」

「……ご愁傷様です」

「波動くん!?」

 

―――こやつ、役に立たない。

 

 緑谷はこの時ほど、熾念のことを無能だと思ったことはなかった。それほどまでに、現状を打破する手段が乏しいということはお分かりいただけるであろう。

 

「緑谷さん、抗生剤なら創れると思いますが、それで代用はできないでしょうか……?」

「ヤオモモ! たぶんできないから、今は足動かすことに集中して!」

 

 再び発動される副委員長の天然に、耳郎の鋭いツッコミが森に響き渡る。

 すると突如耳郎がガクンと脱力し、そのまま華奢な体を地面に滑らせる形で地面に倒れ込んだ。

 その姿に、流石の八百万も焦燥の籠った声を上げる。

 

「耳郎さん!?」

「な……からだ、動かな……」

「ケロッ、これは羽生子ちゃんの“個性”!」

 

 誰もが全力疾走している中でコケてしまった耳郎は、先頭の集団から数メートルも離れてしまい、もはやゾンビ化したクラスメイトに近い場所に居た。

 しかし、彼女の身体の異常について心当たりがあったことにより反応が早かった蛙吹が、翻るように飛び跳ね、自身が集団から離れる代わりに舌で捕まえた耳郎を、先頭集団目がけて放り投げる。

 

「梅雨ちゃ……!」

「先行ってて、耳郎ちゃん」

 

 耳郎が熾念の念動力で受け止められているのを確認した蛙吹は、ホッと安堵したような息を吐いて着地する。

 だが、眼前には中学校の親友である万偶数が、ゾンビとして立ちはだかっていた。

 

 昔から知っている鋭い瞳は、そこにはない。

 ただ、目の前の生者を求めるだけの虚ろな瞳が、眼孔に収まっているだけであった。

 

「羽生子ちゃん……」

「あぁああぁあ~……」

「羽生子ちゃん」

「あぁ~……」

 

 しかし、万偶数は一向に蛙吹へ襲い掛かる様子を見せない。

 まるで、自分の存在がゾンビになった万偶数の中にも残っていることに、蛙吹は感動して彼女の手を取った。

 

「羽生子ちゃん……私たち、ゾンビになってもお友達なのね」

「あぁあぁ~」

「ガブッ」

「あ」

『あ』

 

 思考を失った親友との間に再確認する友情―――そんな感動の場面を引き裂いたのは、ちょうど近くに居た麗日であった。

 感染拡大。

 意識がある全員が見事にハモって呆気に取られている間にも、ゾンビ化した人間がまた一人増えてしまった。

 

「「あぁ~……」」

「梅雨ちゃんまで……!」

 

 持ち前の冷静さ故、人の精神的支柱になり得る蛙吹の喪失に、生存者の中に動揺が走る。

 それでも彼らは前へ足を踏み出す。

 

 そのまま、ちょうど目の前にあった青々とした茂みを飛び越えた時だった。

 

 やや集団の後ろに付いていた峰田の脚に、何やら舌のような長い物体が巻き付いてくるではないか。何度も見たことのあるその物体―――蛙吹の長い舌だ。

 絡みついた舌は、峰田がハッとして拘束を外そうとした瞬間に彼を体ごと茂みへ引きずり込んでいく。

 

「ああああああああああ!!?」

「峰田くぅぅううん!!?」

「し、死ぬ前におっぱいを……女体を……ぎゃあああ!!?」

 

 茂みに隠れて見えないが、鬱蒼とした森の陰から響き渡ってくる断末魔に、誰もが背筋を凍らせるような感覚を覚える。

 しかし、戦慄もつかの間、再び伸びてきた舌が今度は耳郎の脚に絡みつく。

 

「へ? きゃああああ!!」

 

 甲高い悲鳴を上げる耳郎は、先程の峰田を彷彿とさせる恰好で茂みへ引きずり込まれていく。

 

「おい、耳郎! イヤホンで俺の腕掴め!」

「上鳴……お前!」

 

 だが、咄嗟に上鳴が腕を差し伸ばした為、耳郎は地獄へ引き込まれる一歩手前で、彼の腕に自身の耳たぶを絡ませ、なんとか踏みとどまることができた。

 入学してから初めて見る上鳴の男前な姿に、一瞬耳郎は乙女の顔になるが、ズリズリと上鳴の体ごと茂みに引きずられていることを察し、血相を変えて吼える。

 

「道連れだあああ!!」

「えええええ!? ちょ、ざけんな耳郎! だったら放せ!」

「ウチ一人で逝ってたまるかぁ! 一生に一度のお願い、今ここで使うから一緒に逝こう! つーか来い!」

「嫌に決まってんだろ!? 人間一回しか死ねねえから!」

「何をしているんですか、お二方! ……蛙吹さん、すみません!」

 

 夫婦漫才のようなキレを発揮する二人であったが、その横でせっせとスタンガンを作っていた八百万が、蛙吹に舌に電撃を喰らわせて拘束を緩めることで、耳郎の救出に成功した。

 絶望の淵からの帰還。

 ぐしゃぐしゃに涙で濡れている耳郎の顔を、八百万はその豊かな胸の谷間に埋める。

 

「大丈夫ですよ、耳郎さん。私たちは必ず生きて帰れます」

「ヤオモモぉ……! 今はこのヤオヨロッパイが恋しいよぉ……!」

「少し落ち着きましたか? さ、ここで立ち止まってる訳にはいきませんわ!」

 

 フロッピーがリ〇カーになった今、離れているからと油断はできなくなったため、同じ場所に延々と居座ることは得策ではない。

 依然、涙が収まらない耳郎の手を引き、八百万は前へ前へと走っていく。

 

 そんな女子二人が先に行くのを見計らってから、残存戦力の一人である熾念はこう叫ぶ。

 

「Shit! 一人……また一人って減っていく! まるでゾンビ映画だっ!」

「今更それ言うの!?」

 

 長く走ったことで、緑谷のツッコミも段々温まってきている。

 

「くぅっ……一体どうすれば……!」

「Run away」

「それはそうだけど……! あ」

「緑谷! どうした!?」

 

 どうしようもない状況に打開策も浮かばぬまま崖下にたどり着けば、まるで打ち合わせたかのようなタイミングでやって来た轟たちが、自分らの位置を知らすべく声を上げた。

 絶体絶命の恐怖体験真っ最中の緑谷たちからすれば、そのツートーンのサラサラヘアーを有した男子が、天使のように見えたのは、また別の話として……。

 

「轟くん! 勇学園の人の“個性”で、クラスの人がゾンビになっちゃったんだ! それで僕たち追われてて……!」

「その焦りようはそういう訳か……。だったら、さっさと上に登って来い! 波動、出来んだろ?!」

「Of course! 皆、固まってくれ!」

 

 森の中から姿を現したゾンビを視界の端に映した轟は、かなり切迫した状況であることを理解し、下に居る者達へ早急に登るよう伝えつつ、右手のガントレットからワイヤーを伸ばす。

 細いワイヤーは、崖の上から下まで届くような長さではない。だが、ワイヤーを伝っていく氷結が、次々に氷を重ねるように長さを伸ばしていき、あっという間に延長された氷が崖下に到着し、そのまま逃げてきた者達とゾンビ化した者達を分断するように、氷壁を生み出した。

 

「こんなモンか……ちっとは時間稼ぎになるはずだ。急げ!」

「All right! いっせーの、っと!」

 

 轟が氷壁で時間稼ぎをしてくれている間に熾念は、輪になるように並んで一塊になったクラスメイトを己ごと一斉に浮かし、崖の上へ―――安息の場所を目指して飛び上がる。

 わずかながら安堵を覚える緑谷は、自分を包み込む浮遊感に身を委ね、ホッと息を吐いた。

 

 ……が、その浮遊感もすぐさま終わる。

 

「あ……れ?」

 

 他の者達が着々と浮かび上がっていくのに対し、緑谷だけが一定の場所から全く浮かび上がらない。

 心なしか、右足が何か縄状の物で縛られているような感覚もある。

 恐る恐る下に目を遣ってみれば、そこには依然真っ青な顔をしたゾンビが―――爆豪が開けた氷壁の穴から、蛙吹が舌を伸ばして緑谷を捕らえるに至っていたのだ。

 

「ぁぁああっ!? ふぁ、波動く―――ンっ!」

「Wait。ちょ、色々起こると念乱れるから。全員落下するから。一先ずこっちに集中させてくれっ」

「お願い、見捨てないでぇぇっ!」

 

 念という“個性”の性質上、思考が乱れると極端に不安定になってしまう。

 緑谷と、それ以外の者達全員を秤にかけた場合、よっぽどの事情がなければ普通は後者を選ぶものだろう。

 熾念も例外ではなく、とりあえず人数が多い方を崖上に避難させてから、緑谷へ意識を向けようと考えていた。ゾンビに捕らえかけられている彼には気の毒だが。

 

 そして数秒後、緑谷以外の者達を崖上へ避難させた熾念は、リ〇カーよろしく長い舌で引き摺り下ろそうとしている蛙吹から緑谷を救うべく、勢いよく振り返った。

 

「よしっ! 今救け……ふぅん……」

「え、嘘?」

 

 しかし、ちょうどよく穴から顔を覗かせた万偶数が“個性”を発動させたことにより、彼女の視界に入っていた熾念は体が弛緩してしまい、その場に崩れ落ちてしまう。

 同時に念動力の力も弱まってしまい、蛙吹に地面へ引きずられる速さも次第に早くなっていく。

 

「待っ……!」

 

 絶望の淵に立たされた緑谷が真下に目を遣れば、心なしか恨めしそうな表情で手を伸ばすゾンビたちが、自分を掴もうとしているではないか。

 まだかまだかと崖上へ目を遣っても、熾念の復帰は望めない。

 ちょうど崖が死角となることによって視界が塞がれているので、緑谷がどこに居るかも捉えられず、“個性”を用いようにも用いることができないのだろう。

 

 そのことを悟った緑谷は、この世の終わりであるかのような顔を浮かべ、無事に避難した者達へ手を伸ばす。

 

「い、いやあああああああっ!!!」

 

 しかし、手は届かず……

 

 

 

 ☮

 

 

 

「そこで気を失ったよ」

 

 緑谷が再び意識を取り戻した時、それは保健室であった。

 遠い目で空を眺める彼の背中は、形容しがたい哀愁が漂っている。

 

「Sorry……出久」

「悪ィな、緑谷。もうちょっと早く救けられたらよかったんだが」

 

 見舞いに来たのは熾念と轟だった。

 彼ら曰く、あの後も暫くゾンビとの鬼ごっこが続いた後、時間制限でゾンビ化した者達が元に戻ったのだが、一部の者達はゾンビになる前の恐怖が鮮烈過ぎて、解除されても意識が戻らなかったのだと言う。

 緑谷は、そのうちの一人だという事だ。

 

「怖かった……ホントに怖かった……あんまり覚えてないけど、本当に……うっ、うっ……!」

「「……」」

 

 両手で顔を覆いながら嗚咽を上げる男子高校生。

 余りにも痛ましすぎる姿に、流石の二人も同情を感じざるを得ない。記憶を消去せねばならぬほどの恐怖体験など、長い人生の中で一度たりとも体験したくはないものだ。

 

「今度、ジュース奢ってやるからさ。なっ? 元気出していこうぜ」

「……明日の昼に蕎麦奢る。旨いモン食ったら、少しは早く立ち直れんだろ」

「ありがとう、二人とも……!」

 

 友人二人の慰めに身を震わせながら涙を流す緑谷。

 次の瞬間、保健室の扉が勢いよく開き、無数の人影が現れる。

 

「デクくん、大丈夫!?」

「緑谷くん! 目が覚めたんだな!?」

「ごめんなさい、緑谷ちゃん。怖い思いさせたみたいね……」

 

 勇学園の見送りに行っていた面々が、風の噂で緑谷が意識を取り戻したことを聞き、すぐさま駆けつけてくれたようだ。

 麗日、飯田、蛙吹と、誰もが心配そうな表情で緑谷を見つめる。

 

 だが、そんな温かい友人の顔が一瞬、ゾンビ化した際の生気を失った顔と重なってしまい、緑谷は瞬く間にとんでもない冷や汗を流し始めた。

 

「う……うわぁぁあああ!!?」

「静かにしなさいな。ここは保健室だよ!」

 

 悲鳴を上げる緑谷を窘めるリカバリーガールであったが、流石の彼女でも精神的なダメージはすぐに治すこともできず、緑谷はここから一週間ほど、夜のトイレが途轍もなく恐ろしかったと、後に述べるのであった。

 

 

 


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