ラフエルの北、凍てつく海を渡るのは。
吹雪くことは想定していたはずなのに、僕は大した厚着もせずにここまで来てしまった。長い、長い旅だった。
もしも僕が空を飛んだり、風のように道を駆けるポケモンを連れていたなら苦労もなかったのだろうと思う。思えば手持ちを増やすことなんて簡単だった。妙なこだわりや制限さえ持たなければ、いつだって出来たことだろうに。
ざくざくと雪を踏みしめる音。風を通すほど薄くてボロいマフラーが風にさらわれかける。しっかりと抱えたヒトモシがぶるりと震えた。
「寒い? ああ、そこまででもないのか……人間と違うんだもんな」
もしもその気になれば、この不思議な生き物は僕を焼き殺せるんだろう。無力で、可愛らしい顔をしながら、いとも簡単にそうすることが出来る。
僕の胸の前で青い焔が揺れていた。ほのかに暖かいのに、僕は焼かれずに微かな暖をとっているのだ。
ヒトモシは小さくて、ちょっとした風にも攫われてしまいそうだった。本当の蝋燭ならばもう消えていてもおかしくないのだけれど、ポケモンは不思議だ。この生き物は寒さと、冷たい氷にも強い。
「……トモ」
「うん……そうだなあ、ちょっとつらいね。酷い吹雪だ」
一年を通して凍てつく北の大地だった。今は特に寒さが厳しい時期で、ネイヴュシティがある島へ、氷の海を歩いて行くことが出来る。フリーゼス・オーシャンと呼ばれる氷の海路だ。真っ白の大地を踏みしめて、足の下に死の海があるのを想像しながらゆく旅は心にも堪える。
僕はあまり海が好きじゃない。黒くて冷たくて、触れるだけで死を感じるものだからだ。
故に海を歩いて渡るなんて正気の沙汰じゃなかった。かと言って船を用意する金もなければ空を飛ぶことも出来ず、困り果てていた僕は、行き先を等しくする人に助けられた。彼の逞しいポケモンの背を借りて、海の中ほどまで進んだのだ。港を出て真っ直ぐ東へ駆けてゆき、あとは北へ少し行けば、もうネイヴュはすぐそばのはずだった。
ごうっと風が吹く。僕は震え上がってマフラーで口元を隠した。海の上ほどではないものの、やはり寒さはつらい。
「ヒトモシ、ここら辺に村があるはずなんだけど……覚えてる? 僕じゃ目がきかなくて」
あっち、と小さな手で僕の右を指さす。よく見れば白く凍てついた林の中に埋もれるようにして、薄らと道のようなものが見えた。
ネイヴュにほど近いところで、凍った海に大きな亀裂が入っているとの知らせが入った。旅人はとりあえず進むと言っていたけれど、あの後どうなったのだろう? 僕といえば怖気付いて、迷った末に借りていたポケモンの背から降りると、そのまま東へと海を歩いた。海路より時間はかかってしまうけれど、近くの港から島へ上陸して、陸路で北を目指すつもりだったのだ。急いでネイヴュに向かわなくてはならなかったけれど、その前に見ておきたい場所もあるから。
小さい頃、少しの間だけ世話になった村があるはずだからと頼るつもりでいた。
幹から葉の先まで白く凍った林を抜けて、村があったはずの場所へ向かう。
「……あれ?」
貧しい村とはいえ、人々が寄り添って生きていた。
でも、今僕の目の前にある景色は記憶と違っている。何軒かの家を残して、村はすっかり消えていたのだ。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
突然目の前が青く染まったかと思うと、ふわりと身体を暖かいものが包み込んだ。驚いた僕は固まって、恐る恐る腕の中を覗き込む。
「……ヒトモシさん?」
「トモ」
「いや……トモ、ではなくて」
ちろちろと揺れるだけの小さな炎が、今や恐ろしい勢いで手を伸ばして僕をすっぽりと覆っている。
とうとう殺されるのだろうか?
こんがり焼けてしまうのだろうか?
「僕、焦げ臭くない? というか知らないうちに丸焦げになってないか心配なんだけど……」
大丈夫大丈夫、とヒトモシが頷く。確かに寒さは大いに和らいでいるくせに、熱さは感じない。
確かにこの炎を、僕はずっと胸に抱いて歩いてきたのだった。戦闘ともなれば相手のポケモンに火傷を負わせる火だけれど、僕はやっぱり焼かれない。
「……ありがとう、助かった。でも長くやると疲れるだろうから、いつでもやめていいよ。とりあえず急いで家を回ろう」
ぽつぽつと残っている家に目を凝らし、真っ白いため息を吐いた。
残る家も廃墟と化して人の姿がない。青い視界でぼやけていたって、扉や窓の前に立てばすぐに分かった。どれだけ前から人が消えてしまったのだろう。そこまで思い出がある場所なんかじゃなかったはずなのに、アテが外れた寂しさが骨に染みる。
「ごめんね、もう人がいなくてもいいから家に入ろう……」
大きな炎を生んでいるヒトモシも、そう長くはもたない。次の家に入ろうと決意して、足を向けたその時だった。
窓に明かりが見える。雪が張り付いて見通せないせいで気付かなかったけれど、今確かに見えた気がしたのだ。
「ヒトモシ、見えた?」
相棒の返事を待たずに足を早めると、その家の前に立って扉を叩いた。
「ごめんください! どなたかいらっしゃいませんか」
人の気配がする、間違いない。
「すみません、どなたか……」
もう一度声を張り上げる前に、ゆっくりと扉が開いた。ぬうっと大きな影と、鋭い目をした生き物が出迎える。
リングマだ。
「おっと……」
まさかリングマの家ではないよなと焦る。バトルになったら勝てるだろうか? 僕の暖のために消耗しているヒトモシを戦わせるのは無理があるけれど、残念ながら手持ちは一匹だけだ。
一瞬のうちに様々な案を出しては却下してを繰り返していた僕に、リングマから……いや、正確にはリングマの背後から声がかけられた。
「どうだ、人間か。リングマ、どうだい? やっぱり幽霊? やっぱりかい?」
「……僕は人間です」
「ちょ、ちょっと下がってくれリングマ、ありがとう。ありがとうな本当に」
みっちりと扉の前に立って塞いでいたリングマを退かすと、女性が顔を覗かせた。思ったより若かった。燃えるような赤色の髪を乱雑に纏めて、まん丸の目を僕に向けている。手には湯気の立つカップを持ったままだ。
「幽霊みたいな子だ、燃えてる」
確かに青い炎に包まれたままじゃあ、気味が悪いかもしれない。
ヒトモシに礼を言って火を抑えて貰うと、遠ざけられてきた冷気が一気に襲いかかった。ぶるりと震えながら、僕は曖昧に微笑んでみせる。
「人間です。ちょっと、暖をとらせて貰いたいのですが」
「いいんだ人間なら、もう全然いいんだ。入って入って、あんたそんな軽装じゃ死んでるようなもんだ」
確かになと頷いて暖かい部屋に踏み込んだ。ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえる。悴んでいた指先から、痛いくらいの熱が染み渡る。
あんたどっから来たのさ、と女性は言う。
「ここはもう、随分前にすっからかんさ。空から冷たい風が落ちてくるデッドスポットにぶち当たってね、住んでるのは私だけだよ」
小さな暖炉に一番近いところに椅子を置いて、そこに座らせられた僕は次々と毛布をかけられた。押し潰されそうになりながら手を伸ばして、湯気がもうもうと立つ火傷するほど熱いカップを受け取った。ヒトモシはそんな僕の足元で、大人しく微睡んでいる。
「これでよし。あんたよくそんな格好でここまで来たもんだ、本当、死んでもおかしくなかったんだよ。どこから来たの」
「南……」
「ここより北なんてラフエルじゃあネイヴュシティくらいだよ! 本土のどこから来たんだい」
「ラジエスとか、ベガスからです」
「都会っ子じゃないか、どうりでそんな服装だ。全くなってない、なってないよ」
説教を受けて縮こまる。北の旅に向かない服なのは、金を持っていないからだ。こんな格好じゃあ下手すりゃ死んでしまうことくらい、僕はよく知っていた。
「こわい話だ、こわいことは苦手なんだよね。寒さ対策はやった方がいいし、幽霊みたく見えるのもやめた方がいい。本当にね、こわかったんだ」
「それは申し訳ないと……」
「あんなん見たことないよ、無茶をするもんだ。あんたもヒトモシも酷いもんだ」
足元ですやすやと眠っている相棒に、思わず目を落とす。確かに僕も驚いたし、酷い無茶だったと思う。この小さな生き物は時折そういう、恐ろしいことをする。
「まあなんだ、ああいう大胆なことが出来るってのも信頼のひとつだろうさ。信頼ってのはいい。人とポケモンが心を通じ合うことで特殊効果が生まれるってさ、そういう結果を示す論文も出ているじゃないか。知ってるかい? 有名な博士が出したんだけどねえ」
おぅいリングマ、あの論文の写しはどこだっけと声をかける。薄暗い部屋の隅に座ってぼりぼり腹を掻いていた彼は、立ち上がりもせずに周りを見回して、最終的に横になってしまった。
「なんだいやる気のないやつめ……まあいいさ、その手の話に手を伸ばすと私は収拾がつかないんだ。分かるだろ?」
「研究職か何かをなさってるんですか?」
「はは、分かるだろうな。そうだろうとも」
そういや自己紹介がまだだった、と笑う。後ろで纏めていた髪の毛が、また何束か滑り落ちて肩にかかる。
「ロジという名前だ。華のない名前だとも。生まれは本土でね、専門はポケモンによる気象変動とその影響について、と言えば分かりやすいだろうか。だからこんな辺鄙なところで暮らしているといえわけ。やっぱり専門がこの分野だとね、どうしてもネイヴュ付近に住まなきゃならないんだな。やな話さ」
あんたの名前は、と問われて背筋を伸ばす。僕は僕の名前が好きじゃなかったし、名乗ることが恥ずかしいような気さえしていた。とりわけ、真っ当に生きている人には。
「……カナト、です」
「そう、カナト。いい名前だ。まあ、私以外の人間の名前は大体華があっていいものさ。お茶を飲みなさい。さっきから口をつけていない」
促されてやっと、手にしていたカップの存在を思い出した。ロジと名乗る女性は、まん丸の目を僕に向けたまま、絶え間なく言葉を紡いでいた。
「やれやれ、しかしうちに人が来るとはね。びっくりしたよ! まあ幽霊みたいな姿だったからってのもあったけどさ、本当にここいらには人間がいない。たまに賊のようなものも出るけどねえ。ネイヴュの中は流石に治安も守られてるが、その周りってのは酷いもんさ」
そうだ、と手を打つ。ロジの指先は赤く霜焼けている。
「ここにあった村を知ってるのかい?」
「ええ、小さい頃、ちょっと」
結局長くは住まなかったけれど。
「ああ、そう。もしかしてカナトはネイヴュ辺りの生まれかな? ここいらを知ってる人なんて多くないからさ」
僕は頷いた。ネイヴュでの生活を思い出す。不思議と記憶は褪せることがなく、いつまでも灯る火のように、心でゆらゆら揺れている。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
父が捕まった時のことを、僕は覚えていない。
幼い時、家の窓からあの牢獄を見るのが日課だった。どうして自分の父があの中にいるのか、いつになったら会えるのかも分からなかった。
「トモ……」
僕の腕に潜り込むようにして、ヒトモシが擦り寄ってくる。とても小さな青い炎を灯したこの生き物を、僕は少し避けていた。父親が僕に残してくれた、唯一の忘れ形見なのに。
なんて、もう父が死んだようなことを考えもした。幼い僕は、母親と違って父を愛していなかったから。
牢獄を腹に抱えるこの街で、僕は母親と父の帰りを待っている。
罪の内容も、いつになったら出てくるのかも知らない。母は毎晩泣いていた。お父さんにはもう会えないのよ、とも言われた。そんなに恐ろしいことをしたのだろうか? 例えば、バラル団に加担したとか。
それなのに母はいつまでも待つつもりでいた。凍てつく街も大嫌いだったけれど、薄気味悪い蝋燭の形をしたポケモンを傍らに、僕は静かに窓の外を見たのだ。
そんな生活は、父親が死ぬまで続いた。そう長くはかからなかった。
その瞬間が来た時、ごうっと大きな音がして、午後の淡い陽に照らされて微睡んでいた僕は驚いて飛び上がった。見れば部屋の真ん中でヒトモシが巨大な炎を上げていた。真っ青な火が部屋いっぱいに広がって、恐ろしい怪物が暴れているようだった。
僕は壁に張り付くようにして怯えながら、部屋に飛び込んできた母親と目を合わせた。どうしてだろう、その時、僕達は父親を失ったことを知ったのだ。
ヒトモシの炎は命を燃やして灯る。元は父のものだったポケモンは、その時最も大きく、恐ろしく、美しい炎を燃やした。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「小さい頃、少しネイヴュに住んでいて……その後ここに来たんです。この村に、母方の親戚が住んでいたから」
「ああそう。カナトが幼い時なら、そうだね、確かにその時期ならまだこの村がある地点は大丈夫だったはずだ」
ロジは目を輝かせて言葉を繋ぐ。
「ネイヴュの近くにあるでっかい穴を知っているね? そう、アイスエイジ・ホールだ。私はあれを研究しているんだけど、延々と恐ろしいくらい凍える空気を吐き出してるもんだから、中に入るわけにもいかないだろう? そんで、こんな所で燻ってるのさ」
この島を丸ごと氷に閉じ込めているのは、あの穴から吹き出す冷気そのものだ。その時々によって呼吸のように強さも量も変わる死の吐息は、穴から吹き出して空を凍らせることで一帯を冬で包み込み、そして、この島のあらゆる地点に落ちていく。
「冷たい空気は重いけど、あの冷気の筋は生き物のようだよ。あの息吹は凄まじい。島に現れる、所謂落下地点はおよそ20。数年周期でランダムに変わるから困ったもんだ。この村のように……たまたま落下地点が重なればポケモンすら寄り付かなくなるわけで」
この村も数年前から人がいなくなっちまったよ、と微笑む。僕は大した心の動きもなく受け止めた。僕達がここへ越してきてすぐに母は自殺し、数年後には祖母も死んだ。
「あんたにとっては本当、残念なことだろうね。私にとっては天国だが。なんてったって観測仕放題だ! しがない個人活動の研究者じゃあ穴のヘリに陣取るなんて恐れ多いが、こうして離れたところでデータを取るのも堪らん」
そうですかと頷いて、僕は窓の外に目をやる。びっしりとこびりついた氷のせいで何も見えない。暖炉の爆ぜる音と、リングマの鼾が吹雪く風を遠ざける。
「長話が過ぎたね、まあ休んで行きなよ。カナトもヒトモシもお疲れだろう。ネイヴュに行くやつはみんな同じ顔をしてるからね、暗くて焦ったような顔を。あんな所に行くのはみんな理由を抱えてる」
詳しくは聞かないよと笑った。もし気晴らしが欲しいなら私の研究について聞いておくれと言われて、思わずカナトも笑った。
僕はまだ迷っている。迷っているのに進んでいる。何も決めないまま、分からないままカップのお茶を飲み干した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
小さな音で目を覚ました。ざく、ざくと雪を踏みしめる音がする。
外は真っ暗だった。ロジもリングマもすっかり眠っているが、しかし確かに、家の外に誰かがいるのだ。
僕はヒトモシを抱えて立ち上がった。身体を押しつぶすくらいの毛布は大半が床に落ちてしまっていて、暖炉の火も消えている。外は嵐のようだ。
立ち上がって荷物を持つ。テーブルの上に置かれていた菓子を幾つかポケットに突っ込んで、扉の近くに立つと数を数える。
1。足音が僅かに遠のいた。さっきまで家の壁を擦るくらい近くにいたのに。
2。僕は息を殺す。ヒトモシの炎も小さくなる。とうとう感じるのは風だけ。
3。布が擦れるような音がいくつもした気がする。気のせいかもしれない。
4。口笛のような音が短く、鋭く響いた。聞き間違えじゃない。
5。僕は勢いよく扉に体当りして、痛いくらいに吹雪く外に飛び出した。その瞬間、家を甲高い音と骨まで鳴るような振動が襲った。窓が内側に砕け散って、静かだった部屋の中に幾つもの影とともに降り注ぐのが見えた。暖炉の火が一瞬で消えて、影が唸り声をあげる。あれはマニューラだろうか? 鋭い爪が一瞬だけ見えた。
ウオオ、とリングマが叫ぶ。ぞっとした。
「どうした、なんだ。賊か。ああしまったな、随分気が立っているじゃないか……ああ、しまったな」
焦るロジの声も聞こえる。僕がいないことに気づいたのか、カナトと叫ぶ。
でも、それに構っている暇はなかった。前を向くと何人かの男が立っていて、ポケモンが目をぎらつかせている。バラル団だ。特徴的な服だから、吹雪の中でもすぐに分かる。
僕達が言葉を交わさなかったのは、決して仲間意識があった訳でも、まして攻撃されないと慢心していた訳でもない。ゆっくり、獣から逃げるように、じりじりと距離を開いて家から離れた。僕が明け渡した開きっぱなしの扉から、彼らは堂々と入っていく。
「ああカナトはどこだ、あの子は無事か!? しまったな。リングマ、油断するなよ。いいかい、あんた達にはなんだってくれてやるがね、研究に関するものに触れたらぶち殺す。八つ裂きだ、肝に刻め悪党が。いいね」
僕はロジを助けるべきだ。
恩がある。彼女はいい人だ。間違いない事実なのに。
ポケットの菓子を落とさないようにして走り出した。
僕は悪党か?
バラル団と戦うことは正しい。限りなく正義に近い行為だ。僕は助けてくれたロジに恩を返したいし、彼女が蹂躙されるのは考えるだけで恐ろしい。
それなのに逃げている僕は、一体何なんだろう。怖いから逃げる。戦うのは嫌だから逃げる。
何より、選ぶのが嫌だから逃げるんだ。
迷った末に走り出した僕は、ヒトモシを抱えたまま雪を蹴るようにして進んだ。その青い炎が身体を包んで、まだカナトを幽霊にする。
分からないまま曖昧なことばかり選んで、そして僕はきっと取り返しのつかないことをするだろう。それでも、ロジの安否が闇の中に隠されるように、後のことはより見えない方へ、真実と結果は有るべき方へ。
僕はより、深い方へ。
底に辿り着いたなら、その時は、戦うことすら怖くはないだろう。