上を向いて歩こう   作:バレンシア

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第二章
第八話


暦は既に弥生を数え、僅かながらも桜の蕾が咲いていた。雪は水となって川に流れ、昨晩の雨が嘘のように青々とした空には綺麗な虹が掛かっていた。

きっと今日みたいな日は外でサッカーでも出来れば気持ちがいいのだろうが、麻帆良学園に通う学生たちにはそうもいかない理由があった。

来るべきは三月八日。学年の最後には忌むべき学年末テストがあった。

麻帆良学園の高等部男子寮において、和也もまた多くの学生たちと同じように勉学に励んでいた。

 

ーーーそう。一本の電話が掛かってくるまでは。

 

 

 

 

 

「それで、なんだって?」

 

電話口の向こうから聞こえてきた声に、和也は僅かばかりの諦めの念を込めて問い返した。

 

『せやから、もうじき学年末テストがあるから勉強教えてって言うてんの!』

 

電話の主は妹である亜子だった。

曰く、今回のテストは本気でやらんとアカン理由があるから勉強教えてください。

曰く、自分一人だけじゃなくて、出来れば裕奈やまき絵、アキラも一緒にお願いします。

曰く、良ければ男子寮のお兄ちゃんの部屋までみんなで行ってみたい。

亜子の言葉を要約するとこんな事だった。

 

「何度も言うが、男子寮に来るのはダメだ。基本的に女子の入室は厳禁なんだよ」

『お兄ちゃんのけちーーーっ!!』

「ルールだからな。俺に言われてもダメなもんはダメなんだ」

 

電話口から聞こえてくる大きな声に、和也は耳を離すことで対応した。

いつも亜子とのやり取りはこんな感じだった。何かにつけて男子寮に入りたがる。年頃の女の子になった妹が、最も身近な異性である兄の部屋に入ってみたいという好奇心は理解できる。しかし、流石に()()()()()()()()()()()見せられない物も当然部屋の中にはあった。

なにせこっちも年頃の男の子なのだ。お互いに知らないからこそ良いこともある。

 

「でも勉強ならちゃんと教えてやるから、いつも通り沙織の喫茶店まで来い」

『うぅー・・・分かった』

「一応、もう一度確認するが、一緒に来るのは裕奈ちゃんとまき絵ちゃん、それにアキラちゃんの三人なんだな?」

『うん』

「じゃあ一時間後でいいか?」

『分かった。みんなに言うて、準備するわ』

「オッケー、また後でな」

『はーい』

 

そんな会話の末に和也は携帯の通話を切った。

そして、机の上に置いてあった珈琲を一気に飲み干した。

 

「ーーーと、いうわけでちょっと行ってくる」

「忙しいね、お兄ちゃん」

「やめろ。お前に言われるとゾッとする」

「あはは」

 

机の向かい側に座っていた翔とお互いに軽口をたたきながら笑い合う。

 

「なんていうか、亜子ちゃんたちが女子中等部に入学してから毎回の恒例行事だね」

「そうだな。まぁ、それで勉強する気になるならいいんだけどな」

 

取り敢えず、必要な荷物を鞄の中に入れていく。

筆箱にノート、あとは教科書と財布、それに携帯があればそれでいい。亜子たちに勉強は教えるのは構わないが、自分の勉強を疎かにすることも出来ない。なにせこちらは奨学金で麻帆良に通っているのだから。

 

「亜子とアキラちゃんは別に成績も悪くないし、つーか、むしろ良い方だからいいんだよ」

 

普段から真面目な二人に心配はない。特に四人の中で最も点数が高いアキラには、改めて和也が教えることはほとんどない。授業を真面目に受け、宿題もしっかりこなしている。これでテストの点数が悪いなら、それは教師のやり方が間違っている。本来テストとは、授業内容が把握できているのかを確認するためのものなのだから。

そしてそれは亜子も同じようなものだった。二人は学年の中でも上位二十五%には必ず入っていた。基本的に真面目な二人組はあまり手が掛からない。

しかし、問題は残りの二人ーーーーーすなわち裕奈とまき絵にあった。

 

「裕奈ちゃんは、まぁ、悪くはない。良くもないが、悪くもない。可もなく不可もない。普通にやれば平均で六十点ぐらいだろうな」

「へー」

「ただまぁ、油断すればすぐに四十点台に落ちるぐらいの危険性はある」

 

勉強はあまり好きではないらしい。そもそも、裕奈に限らず勉強が苦手、或いは嫌いだという学生の方が大多数を占めるだろう。それでも父親である大学部の明石教授の影響なのか、妙に数学と理科は理解力が高かった。問題は暗記事項の多い社会や単純に反復の必要な英語だった。

 

「一番の問題はまき絵ちゃんだろうな」

 

彼女の成績は、ちょっとしたものだった。ともすれば、全教科、小学校からやり直す必要があるぐらいだった。こんなになるまで小学校で放置するなと声を大にして言いたい。きっと、本気で叱ってくれる人もいなかったのだろう。天然培養はかくも恐ろしい。

 

「それでもマシになってきたんだよな。一年生の時はマジで一桁とか取ってたからな」

「今はどんな感じなの?」

「ようやく三十点ってところだな」

「へー。それは凄いね」

 

今まで達也に達也、それに達也とそれから達也にも勉強を教えてきたが、和也もこれほど苦労したことはなかった。まき絵に教えるために何度も中学校の復習をした結果、彼女の成績に比例して自分の成績も上がったような気がした。

 

「あの子は確かに勉強はダメだが、半分以上泣きそうになりながらも諦めずに勉強するから応援したくなるんだよな」

 

毎度、テスト勉強中に泣きながら教えてくださいと頼む彼女の姿は沙織の喫茶店ではよく知られたものだった。

それこそ、彼女の姿を見ていた常連客のお婆さんからこれでも食べて頑張ってねと飴を貰うほど人気者だった。

 

「取り敢えず、少し早めに行って手伝いでもしてくる。迷惑を掛ける以上、ちょっとは恩返ししておかないとな」

「沙織さんなら気にしないと思うけど」

「こっちが気にするっつの」

 

確かに沙織なら別に構わないと言ってくれるだろうが、要するに良心の問題だった。

 

「それじゃ、行ってくるわ」

「うん。いってらっしゃい」

 

和也はそう言うと、携帯電話を取り出した。そして電話帳を開くと連絡先を確認する。相手は沙織の営む喫茶店。ひとまず勉強会の連絡を入れることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午前十一時二十四分。

沙織の営む喫茶店の一角では、テスト前の学生たちが勉学に励んでいた。

 

「和也さん、ここはどうやって解くの?」

「ああ、そこはこの公式を使ってーーーーー」

 

「ここ!ここの英語はどうやって訳せばいいんですか!!」

「それは助動詞のcanをーーーーー」

 

「これはどうやろ?」

「前置詞に注目して考えれば文章の意味がーーーーー」

 

「あ、あの、これで合ってますか?」

「オッケー。ちゃんと合ってるよ」

 

 

四人の相手を一人でするのはいささか大変な作業だが、もはやそれももう慣れたものだった。

最初は亜子一人だったが、それから亜子の交遊関係の広がりと共にまき絵、裕奈、そしてアキラと人数は増えていった。

亜子たちは、今、各々が苦手教科や不十分な教科を勉強していた。このやり方も回数を重ねる内に自然とそうなっていった。そもそも四人の学力は当たり前だがバラバラなので、同じ教科をみんなで勉強しても上手くはいかなかった。

結果、三度目の勉強会からはずっとこの方法で行われていた。

そして同時に、空いた時間を利用して和也も彼女たちの隣の机で自身のテスト勉強に当てていた。

 

「ーーーーー」

 

カリカリ、と鉛筆がノートの上を走る。

天才ではない和也にとって、勉強とは要するに復習練習の繰り返しだった。一度聞いても分からない。二度や三度、繰り返して学んでみて初めて理解できる。男子高等部の主席に座ってはいるものの、和也の勉強法は他の多くの学生たちと何一つ変わらなかった。噂に聞く麻帆良女子中等部の天才たちのように、一を聞いて十を知るなんて事は遠い話だった。

そして丁度、和也が一つの問題を解き終えた時、隣の机から大きな声が聞こえた。

 

「もう疲れたよーーーっ!」

 

振り返ってみれば、まき絵が体を机の上に投げ出していた。ついにギブアップだった。

 

「ちょっと、まき絵!ここ、寮の部屋やなくて沙織さんの喫茶店やから!」

「そうだよ。あんまり大きな声を出しちゃダメ」

 

亜子とアキラがすぐにまき絵をたしなめる。店内には彼女たち以外にも、まだ二組ほどの客が残っていた。

 

「あっ、そうだった!?」

 

まき絵もすぐに自分の口を両手で塞いで、他のお客さんの方向を窺った。優しそうなお婆さんと目があった。孫でも見るかのような笑顔を浮かべていた。どうやら手遅れだったらしい。お婆さんは頑張ってと両手を胸の前で握った。取り敢えず、まき絵も照れくさそうに笑いながら同じように胸の前で手を握った。暖かい気持ちになった。

 

「もう二時間ぶっ続けだったからな。まき絵ちゃんにしては凄く頑張ったんじゃないか?」

 

腕時計で時間を確認した和也がそう言うと、まき絵は表情を輝かせた。

 

「じゃあもうお昼の時間だよね!!」

「まぁ、そうだな」

 

さっきまで倒れていたまき絵が、身を乗り出して和也に迫った。思わず和也も一歩、後ろに下がった。

 

「私!和也さんのオムライスが食べたい!!」

 

そして百点満点の笑顔でそう告げた。

和也は目を丸くする。確かに前回の勉強会の時、何が原因だったかは覚えていないが、オムライスを振る舞ったことはあった。しかし、こんなに身を乗り出してまで主張することだろうか。

 

「俺は別に構わないけどーーー?」

 

沙織の方を振り向けば、指で自分の方を何度も忙しく指していた。自分の分も作れということらしい。私も!私も!という声が聞こえてきそうだった。

次いで、残る三人の方を見る。まき絵に負けず劣らず輝くような笑顔で親指を立てていた。自分たちの分も作れということらしい。私も!私も!という声が聞こえてきそうだった。

 

「・・・分かった、分かりましたよ」

 

俺の敗けだ、と和也は席を立った。そしてため息をつきながらキッチンへと向かう。途中で黒いエプロンを沙織から受け取った。和也が普段からアルバイトの時に使用しているものだった。

 

「準備が良いな?」

「だって、久し振りだからね」

「・・・はいはい」

 

なんとなく、慣例になりそうな気がした。

 

「じゃあ全員分作るから、ちょっとだけ時間を貰うぞ」

『はーい!!』

 

和也の言葉に、元気な声が返ってきた。

 

「よし!じゃあ私、もうちょっとだけ頑張っちゃうよーっ!!」

「おっ、そのやる気に私も乗ったーっ!美味しいご飯まで頑張るよーっ!!」

「ほな、私ももうちょっとだけ頑張ろかな」

「私も頑張る」

 

俄然やる気を取り戻した四人を見て、現金な子たちだと思う一方で、それだけ頑張れるなら作り甲斐もあるなと思う。

再び集中した様子で勉強に取り組む四人は正しく学生のあるべき姿だった。

 

「しゃーねーな」

 

米は十分にあった。あとは味付けと卵の用意、そして特製ソースと付け合わせのサラダ、それにスープが必要だった。

 

「サラダとスープは私がやるよ」

 

気付けば隣に沙織が立っていた。

 

「じゃあ任せた」

「うん」

 

二人並んでキッチンに立つと、沙織の表情が嬉しそうに緩んだように見えた。

基本的にホールに出ることの多い和也がこうして沙織と一緒に並ぶのは珍しいことだった。少なくとも、ここ最近ではあまり見かけなかった光景だった。

 

「こうして二人で料理するなんて、なんだか懐かしいね」

 

どうやら、沙織もまた同じことを考えていたらしい。頭一つ分ほど低い位置にある沙織の顔を見れば、見事に視線がぶつかった。綺麗な翡翠を思わせる瞳がまっすぐに和也を見つめていた。

 

「そうだな。この店の人気が出てからはお互いに随分と忙しかったからな」

 

視線を逸らし、冷蔵庫から卵のパックを取り出しながら和也が答える。

 

「お店をはじめた時は、長い間、閑古鳥が鳴いてたのにね」

 

亜子たち四人を見つめているようで、沙織の瞳はどこか遠くを見つめていた。

 

「今や知る人ぞ知る人気店だからな」

「本当に嬉しい限りだね」

 

デミグラス風味の特製ソースを五人分用意しながら和也が答える。

 

「この間、新聞部が発行してる『麻帆良ニュース』に載ってたみたいだしな」

「うん。ちょっと元気な中学生の女の子にインタビューをお願いをされちゃって、どうしても断れなくてね」

「結構『麻帆良ニュース』の読者は多いらしいな」

「売り上げが倍になっちゃったよ」

 

嬉しそうに沙織は答えた。

野菜を切る手つきは慣れたものだった。何年もこの仕事を続けてきたプロの手つきだった。速いし、なによりも綺麗だった。そして同時に丁寧さも兼ね備えていた。

 

「俺ももう少し来れればいいんだけどな」

 

米を五人分取り出しながら和也が呟くと、沙織は柔和な笑みを浮かべながら答えた。

 

「それはダーメ。アルバイトよりも部活優先だよ。今、一生懸命出来ることに全力を尽くさないとダメだからね」

 

そんなことはお姉さんが許しません、と沙織は笑った。

和也は誤魔化すようにフライパンに火をつけた。

いつもなら平然と見られる沙織の顔が、何故か今は見ることができなかった。

 

「店長に言われたら仕方がないな」

「そうだね。店長に言われたら仕方がないよ」

 

お互いに顔は合わせない。妙に照れくさかった。

和也は味付けを終えた米を皿に盛っていく。机の上には六枚の皿が既に用意されていた。さすが沙織。仕事が早い。

 

「おーい。そろそろ出来るぞー」

 

和也が勉強中の四人に声を掛ける。

 

『はーい!』

 

元気な声が四人四色に聞こえてきた。

バタバタと自分たちの机の上を片付ける四人の様子を窺いつつ、和也は卵をまとめた米の上に乗せていく。

 

「切るのは任せてもいいか?」

「うん。そうだと思ったから用意しておいたよ」

 

見れば、沙織の手にはすでに包丁が握られていた。

和也は次々と米の上に卵を乗せていく。そしてすぐさま沙織が卵を切り開いていく。半熟の卵がケチャップで味付けをした米の上を流れていく。最後にデミグラス風味のソースをかけ、沙織の用意したサラダとコーンスープを添えれば完成だった。

 

「運びます」

 

沙織の前にはアキラがいた。何故だか少し息づかいが荒い。どうやら慌てて片付けたらしい。亜子たちはまだ机の上の荷物をまとめていた。

 

「頼むわ」

「はい」

 

沙織から料理の盛り付けられた皿を受けたアキラが机に運ぶとテンションの上がった声が聞こえてくる。まき絵や裕奈だけではなく、慣れているはずの亜子までが声を大きくしていた。

周囲を見回してみれば、先程までいた二組の客も既に店を去っていた。どうやら亜子が会計をしてくれたらしい。

それならば構わないと和哉も叱る事を止める。誰の迷惑にもならないのであれば少しばかり騒いでも許してあげよう。それになにより、そんなにも喜んでくれるのなら作った人間としても妙に嬉しい気分になる。

和也も六人目、即ち自分の分を最後に用意すると、沙織と一緒にカウンターへと座った。

 

「それじゃあ、まぁ、なんだ。たくさん食え」

 

『いただきまーす!!』

 

元気な掛け声と同時に和哉もスプーンを進める。

我ながら美味しく作れたようだった。横を見ると、頬に手を当てながらスプーンを口に運ぶ沙織がいた。どうやら満足しているようだった。

 

「どうだ、君らは舌に合ったか?」

 

和也が改めて四人に訊ねると、答えはすぐに返ってきた。

 

「すっっっっっごく美味しいよ!!」

「もうこれお店で出しましょうよ!和也先輩!!」

 

目を輝かせてまき絵と裕奈が褒めちぎる。

 

「亜子はどうだ?久し振りだっただろ?」

 

と、妹に訊ねてみれば。

 

「むー。美味しいんやけど、妹としてはなんや負けた気がして凄くビミョーな感じやわー・・・美味しいけど」

 

亜子は一人、なにか難しい表情をしながらもスプーンを動かし続けていた。

ハイテンションな二人とローテンションな妹からの言葉に和也も頬を緩める。若干、素直じゃない奴も混ざってはいるが喜んでくれるならそれでよし。

そして、これまで静かに食事をしていた最後の一人にも声を掛ける。

 

「アキラちゃんはどう?好みに合った味だったか?」

「は、はい!凄く美味しいです!!」

「俺、アキラちゃんにはあんまり教えることがないからな。せめてみんなよりたくさん食べてくれていいからな」

 

申し訳なさそうに和也が答えると、アキラはスプーンを持ちながら大きく手を振った。

 

「い、いえ!私も一人じゃ分からないところは和也さんに聞けるので、その、た、助かってます!」

 

力強く両手を握りしめたアキラの姿に和也は苦笑した。

最近気付いたことだが、どうやら自分はアキラに距離を置かれているわけではないらしい。裕奈やまき絵よりも確かに距離は感じるが、それは彼女が二人よりも男性というものに慣れていないが故のことだった。あくまでも亜子の話では、ということだが。

なんとなく恥らうアキラが愛らしく、その姿をぼんやりと眺めていると、急に亜子が立ち上がって和也の横のカウンターに座った。

 

「そういえば、お兄ちゃんは頭が良くなる魔法の本とかあったら欲しいと思う?」

 

そしてそんなファンタジー溢れる言葉を発した。

 

「魔法の本?」

「なんか夕映が学校で、麻帆良学園の図書館島には読むだけで頭が良くなる本があるって言うとってん」

「読むだけでか?」

「うん。読むだけでやで」

「それはなんというか、便利だな」

 

和也は腕を組んで頷く。

もし本当にそんな便利なものが存在するのなら読んでみたい気もする。

 

「頭が良くなるっていっても、その中身がちょっとよく分からないな。単純に記憶力が上がるという意味なのか、それとも思考力や判断力みたいなものまで上がるのか」

「んー、そこまで考えとらんかったけど、学生としてはテストの点数が上がればええんちゃうかな」

「まぁ、確かに大切なのはそこだよな」

「うん」

 

返事をして、和也は改めて真剣に考えてみた。

読むだけで頭が良くなるという本がある。もし仮にそれが真実だとすれば、世界中の人間がそれを求めるだろう。ニュートンやアインシュタイン、ノイマン辺りが読んだら世界の常識が変わるのではないか。羨ましくもあり、恐ろしくもある。

しかし考える時間は三分もあれば十分だった。自分で思っていた以上にあっさりと結論は出た。

 

「もし仮にそんな本があるなら、俺はたぶん読むと思う」

 

和也が答えると、亜子の表情は少しだけ険しくなった。

亜子は頑張っている人間を応援することを良しとしている。それは要するに、頑張って努力する人間が好きということだ。努力を無とする魔法の本なんて好きであるはずもない。

 

「・・・なんでなん?」

 

亜子の言葉には僅かばかりの怒気が混ざっていた。

 

「俺は自分なりの目的があって麻帆良に来た。勉強を頑張っているのは奨学金のためだが、それは同時に、目的に一歩でも近付くためでもある。そして、そのために今は少しでも時間が惜しい」

 

だからこそ、読むだけで頭が良くなる本なんて便利なものがあれば恐らく読むだろう。そして余裕の出来た時間を利用して、また、別のことをする。勉強することは手段にすぎず、結果ではない。

そもそも、()()()()()さえなければ和也は麻帆良には来ていなかった。恐らくもっと違った人生を歩んでいただろう。

 

「和也さんが麻帆良に来た理由ってなんなんですか?」

 

これまで二人の話を聞いていた裕奈が訊ねる。

裕奈だけではなく、亜子が、アキラが、まき絵が、沙織までもが和也を見ていた。

そんなに気になるようなことだろうかとも思うが、少なくとも和也にとっては自分の人生を大きく変えた出来事だった。

思い出されるのは「あの雨の日」のこと。決して涸れることのない涙のように降り注ぐ雨の中、無力な自分を呪いながら和也は立ち呆けていた。何も出来ずにただ傍らでその様子を見ているだけだった。

あれから約九年。どれほど勉強や部活を頑張ろうとも、いまだに和也は無力だった。

 

「そんなもん、秘密に決まってるだろ」

 

珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべた和也は、自分のオムライスを口にしながら答えた。

正直に自分の心の内を語るには、些かばかり集った面子が悪かった。少なくとも、今はまだ彼女たちの前でそんな重たくて真剣な話をすることはないだろう。

 

「えーっ!?ここまで引っ張ってそれはズルいよ!!」

「そうだそうだ!気になるじゃんかーっ!!」

 

一際大きな声をあげたのは裕奈とまき絵だった。

 

「そういえば、ウチもお兄ちゃんが麻帆良に来た理由なんてちゃんと聞いたことなかったなぁ」

 

隣の席では亜子が呟く。

 

「わ、私も聞いてみたい・・・っ!!」

 

アキラも力強く声をあげた。

 

「ダメだ、これ以上は言わない」

 

しかし、返ってくるのは強い否定の言葉だけだった。

まっすぐに向けられた和也の目に、裕奈やまき絵、アキラたちは口をつぐんだ。そしてそれは隣に座っていた妹の亜子もまた同様だった。

 

「こんだけみんなでお願いしても答えてくれへんの?」

「それだけ大切なことなんだよ」

 

そう言って和也は亜子の髪を出来るだけ優しく撫でた。

二つほどの方角からどうも羨ましそうな目線が伝わってくるが、そこにはあえて触れないことにする。これはあくまでも兄妹としてのスキンシップに過ぎない。年上の知人や妹の友人相手にするにはあまりにもハードルが高かった。

 

「ま、俺は麻帆良学園の大学部まで通うつもりだし、その内、それ相応の時期が来れば教えてやるよ」

 

それよりもオムライス冷えるぞ、と和也が促す。

亜子たちは揃ってスプーンを口に運んだ。さっきよりも僅かに冷めたオムライスの味が口の中に広がった。それでも十分に美味しかったが、残念ながら亜子たちの心を満たすことはなかった。

 

「話を戻すが」

 

再度、亜子たちは顔を上げた。

 

「今の話はあくまでも「長い目で見た時」ってのが前提だからな」

「どういうこと?」

「今回のテストのためにわざわざ探しに行くって選択肢は最初からはなしだってことだ」

 

その目はまき絵を見ていた。

 

「わ、わたしっ!?」

 

自分を指差しながらまき絵が驚く。

 

「折角ここまで自分の力で頑張ってきたんだから、最後にそんな意味の分からん力に頼っちゃダメだろ」

「分かってるよっ!?」

 

和也の指摘に心外だとまき絵は声を張り上げる。

 

「いや、なんかまき絵ちゃんなら友達と一緒に夜遅くにでも探しに行きそうだからな」

「これだけ和也さんに教わってるんだから大丈夫だよっ!?もうすぐバカレンジャーだって卒業するんだからっ!!」

「・・・そうなのか?」

「うん。まき絵、最近はホンマに頑張ってるで。ネギ君の英語の小テストも、再テストやったけど一発でクリアしたみたいやし」

「マジか・・・っ!?」

「わーんっ!アキラぁーっ!和也さんがいじめるよーっ!!?」

「よしよし、まき絵は頑張ってるよ」

 

泣きつくまき絵をアキラは優しく頭を撫でてあやす。

まるで姉妹のような光景に少しだけ心が暖かくなった。これなら彼女が間違いを犯すこともないだろう。今日はもう既にテスト四日前だ。一分一秒が惜しかった。

 

「うっし。あともう少しだけ頑張るか」

 

和也は改めて気合いを入れ直した。そんなにも頑張っているのであれば、食事が終わった後の時間も一生懸命に勉強を教えよう。

もし彼女の成績が良くなり、将来の選択肢の幅が増える一助となるのなら教え甲斐もあるというものだ。

 

「じゃあ飯食ったらあと二時間ぐらい頑張るからなー」

「えぇーっ!?」

「目指せバカレンジャー卒業、ファイトだな」

「・・・はぁーい」

 

力なく頷いたまき絵の様子に苦笑しつつ、和也はこのあとの教え方を頭の中で考えるのだった。

 

 


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