上を向いて歩こう   作:バレンシア

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第七話

「ーーーあれ?ここは一体・・・?」

 

和也が目を覚ますと、そこには見慣れぬ光景が広がっていた。

僅かに痛みの残る顎を擦りながら身を起こして周囲を確認してみると、モノトーンを基調としたシンプルな家具がいくつか目に写る。よく見てみれば、そこは明らかに誰かの家の寝室のようだった。

 

「確かついさっきまで学園長室にいたような・・・?」

 

少なくともこんな誰の部屋とも知らない所に来た記憶はない。

ベッドから立ち上がり、和也はカーテンを開けた。既に窓の外は夕暮れだった。放課後になってからそんなに時間は経っていないようだった。

取り敢えず帰らなければと和也は部屋を振り返った。そして、扉を開けた和也の前には居間と台所が一つになった部屋が姿を現した。

 

「おや、もう起きたんだね」

「・・・デスメガネ」

 

ソファーに座って優雅に本を読んでいたのは高畑だった。思わぬ天敵を前に、和也は少しだけ身構えた。遅刻癖のある和也にとって、高畑は広域指導員のまとめ役としての側面が強かった。

高畑は本をテーブルに置くと、和也に向かって笑いかけた。

 

「コーヒーは飲めるかな?」

「・・・はい」

 

促されるままに和也はソファーに座った。気分はひどく落ち着かない。意味もなく周囲を窺ってしまう。

部屋の中には無駄なものがあまりなかった。台所はシンプルで清潔感がある。その手前には木製のテーブルがあった。椅子は二つ。そこには二枚の写真が飾ってあった。

一枚は、まだ若い高畑と無愛想な少女が写っていた。嬉しそうに笑う高畑とは対照的に、少女はまるで人形のようだ。

そしてもう一枚には、亜子たちと同い年ぐらいの高畑と、その友人らしい人物たちが写っていた。巨大な剣を持った褐色の男に白い外套を羽織った優男、日本刀を携えた不健康そうな男や煙草を咥えたおっさんがいるかと思えば、銀髪のまだ小学生程度のガキもいる。そして、写真の正面には生意気そうな面をしたガキが写っていた。

 

「それ、先生の姪っ子っすか?」

 

まだ幼く、あまり表情のない少女と共に写っている写真を指差しながら訊ねる。

 

「ん?ーーーああ、その写真か」

 

和也の指の先を確認すると、高畑は笑みを深めた。幸せそうで、嬉しそうで、そして、どこか寂しそうな笑顔だった。高畑の目は写真を見つめているようで、どこか遠くを眺めているようだった。

 

「その子は僕が昔、世話になった人たちから預かった子でね。今は麻帆良学園の女子中等部に通っているよ」

「ふーん。無愛想なガキっすね」

「ははは。今は人一倍元気で、表情も豊かな子になったよ」

「ならそれは友人に恵まれたんすね」

「ーーーうん、そうだね。僕もそう思うよ」

 

嬉しそうに高畑は頷いた。そこには先程まで垣間見えていたはずの寂しさはなかった。本当に、心の底から彼女の今の姿を喜んでいるようだった。

その表情は、まるで本当の親のようだ。

 

「名前はなんて言うんですか?」

「明日菜。神楽坂明日菜っていうんだ。もし君が彼女と出会うことがあれば、親しくしてくれると僕は嬉しいよ」

「・・・考えときます」

「ちなみになんの因果か、君の妹の亜子君と同じクラスだけどね」

「へ、へぇー、そうっすか・・・」

 

よろしくね、と高畑は照れくさそうに言った。

ーーー神楽坂明日菜。明日菜。アスナ。よく思い出してみれば聞いたことのある名前だった。亜子の話にたまに出てくる子だ。凄く元気な印象があったので思い出せなかったが、確かに聞き覚えはあった。

 

「ま、男子高等部の俺と個人的な関わりが出来ることはないと思いますけどね」

 

亜子の友人でも、会ったことのある子は少ない。裕奈、まき絵、アキラの三人に、先日世話になったばかりのあやか。知人と呼べるのはその程度だった。

同じクラスであるからといって、亜子がわざわざ紹介する理由はない。裕奈やまき絵、アキラの三人と同じ程度に仲の良い友人になるとも思えない。所詮、その程度だ。

 

「機会があれば、だよ」

 

高畑が笑みを深めながら言う。

 

「機会があれば、すね」

 

和也は話はそれまでとばかりに会話を打ち切った。

理由はない。なんとなく、この会話を続けていると本当に出会いそうな気がしただけだ。これ以上、教師のプライベートに関わるなんて万が一にもお断りだった。

 

「それよりも、なんで俺がここにいるのか聞いてもいいっすか?」

 

どうぞ、と差し出されたコーヒーに口をつけながら和也が訊ねた。

 

「あれ?()()()()()()()()()()()()()()()?」

「学園長室の中に入って、なんか学園長とよく分からない話をしてたところまでっすけどね」

 

あの後、何かよく分からないままに脳が揺れて倒れたことも覚えてはいた。それが果たして誰が、何のために、どうやって行ったのかは和也にも不明だった。

 

「なるほどね」

 

高畑は一人で納得したように頷いた。

恨みがましく視線を飛ばしてやれば、ごめんごめんと謝りながら高畑は笑った。

 

「えっと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ーーーほう」

 

なかなか面白い冗談を言うようになったものだ。デスメガネの癖に。そんな思考が頭に浮かぶ。

ハッキリ言ってしまえば、和也の中で高畑は限りなく黒だった。

これまでの和也の人生において、確かに()()()()()()()()()()()()()()。それは間違いのない事実だ。実際、先週は何が起きたのかよく分からないけれども倒れてしまった。

しかし、今回の事は明らかな人為的行為であったと和也は把握している。そんなに都合よく人は倒れたりしないのだ。

 

「そうっすか。それはなんというか、()()()()()()()()()()()()()()ありがとうございました」

 

悩んだ末に、和也は取り敢えず礼を言うことにした。

 

「いやいや、気にしないでくれ。僕たちも急なことだったから驚いたけどね」

「すみませんでした。ホント、先生たちのお陰で助かりました」

「危ないから寝不足もほどほどにね」

「はい。反省してます」

 

なんというか、完全に嘘にまみれた話の応酬だった。少なくとも和也は感謝してはいないし、当たり前だが反省もしていない。なにせ、自分は学園長たちによって気絶させられたのだから。

せめて、刀子と神多羅木の二人は自分の側に立っていてほしいと願うばかりだ。

こんな会話に果たして意味があるのかどうかは分からない。しかし、どうやら自分が非常に危ない領域に足を踏み入れているのは分かった。そんな場所は本心から御免こうむりたい。

 

「じゃあ俺、そろそろ帰ってもいいっすか?」

 

とにもかくにもまずは逃げ出すことが第一だった。都合の良いことに、既に時計の針は午後五時を回っていた。

金曜日の夜は、次の日が休みということもあり、頑張る日と決めていた。即ち、放課後にはバスケ部での活動があり、同時に沙織の所でのアルバイトが予定には入っていた。

 

「今週はちょっと入院してて迷惑を掛けたんで、部活の顔出しとアルバイトには行きたいんすけど?」

 

そう言って和也は高畑の顔色を窺った。

高畑は僅かに考えた後、すぐに結論を出した。

 

「そうだね、構わないよ。元々、君の意識が戻れば帰すように学園長から言伝をもらっていたからね」

 

意外なほどにあっさりと許可は出た。

和也は頭の中で今後の予定を考えた。今からならまだ部活に顔を出すことは出来るが、恐らく活動自体は無理だろう。だからそのままアルバイトに行こう。途中で沙織に電話しておけば、少しばかり遅れてしまっても許してくれるだろう。

 

「それじゃあ学校まで送っていくよ」

 

高畑がそう告げると、和也は首を傾げた。

 

「一人で行けますけど?」

 

和也の言葉に高畑は苦笑した。

 

「君はさっきまで気絶していたんだから、大事をとって一応ね」

「・・・わかりました」

 

有無を言わさぬ威圧感があった。

学園長といい、高畑といい、神多羅木といい、麻帆良の教師は妙なオーラ的な威圧感を出す奴ばかりのような気がする。

特に生徒指導を担当している教師は正に化け物ばかりだ、と教師の事を考えていた和也の頭に一人の人物が浮かぶ。

 

「そういえば、刀子先生はどうしたんすか?」

 

現在、麻帆良の中で和也が最も信頼している教師は彼女だった。それほどまでに二年間の付き合いは濃いものがあった。

和也の問い掛けに、高畑は苦笑いを浮かべて答えた。

 

「彼女なら、剣道部に行ってるはずだよ」

 

今日の予定に更なる一つの目的地が追加された瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー静謐とした空間だった。

 

痛いほどに張り詰めた空気が場を満たし、窓から刺し込む太陽の光が燦々と道場の中を照らしていた。

誰もが息を呑む中で、二人の男女が向かい合い、竹刀の鍔を鳴らす。あまりに静かな空間に、足で床を擦る音すらも聞こえてくる。

 

「ーーーーー」

「ーーーーー」

 

二人の集中力が限界に達しようとしていた。

お互いに呼吸の調子を整える。いつだって決着は一瞬だ。少しでも気を抜けば、その隙に勝負の行方はついてしまう。

 

「ーーーーー」

 

一度、男は大きく呼吸を整えた。

防具越しに彼女の表情を垣間見る。生真面目な彼女らしい真剣な目が男を捉えた。背筋に冷たい汗が流れる。危なかった。あと一秒でも彼女を見ていれば、恐らく勝負はついてしまっていただろう。

 

「ーーーーー」

 

再度、男は大きく呼吸を整えた。

彼女を相手に隙なんて見つかるはずもない。ならば狙いは一つ。強行突破。このまま向き合ったところで、彼女は一時間でも二時間でも向き合っていられる。

男から、動かなければならなかった。

 

「ーーーシッ!!」

 

これまでを遥かに超える速度で一歩を踏み出す。振りは小さく、されど確かな威力をもって竹刀を振り下ろす。狙うは彼女の右手。小手に向かって最速の一撃を放つ。

 

「ーーー甘いっ!!」

 

右足が僅かに後ろへ下げられる。半身になり、小手が避けられる。しかし、竹刀の高さは変わらない。マズイ、と思った時には()()()()彼女の竹刀が目の前に迫る。

 

「ーーーフンッ!!」

 

首を横に傾け、突きを避ける。

彼女の顔が驚いたように見えた。だが、それも一瞬のこと。すぐに彼女の顔つきは鋭いものへと変わる。

 

「これでっ、どうだっ!!」

 

思わず声が出る。竹刀を横向きに構え直し、微かに空いた彼女の胴を狙う。我ながら鋭さを持った一撃だ。手首が軋む。無茶な動きに体が悲鳴をあげる。

竹刀の動きがスローモーションのように感じる。ゆっくり、ゆっくりと竹刀が動いていく。そして丁度、彼女の肘の下を竹刀が通った。勝った。初めて彼女に一本をいれた。そう、()()()()()()()

 

「ーーーッ!!」

 

彼女が思い切り歯を食いしばる。同時に、防具の先にある端正な彼女の顔が更に目の前へと迫ってくる。お互いの防具が鈍い音と共にぶつかり合った。

 

「ぐっ!?」

 

正面からの激突に思わず一歩だけ後ろへ仰け反った。しかし、すぐさま体勢を整える。僅かに下がった視線を上げた時、目の前には彼女の竹刀の切っ先が突き付けられていた。

 

「勝負あり、ですね」

 

無情にも、彼女は透き通るような綺麗な声でそう告げた。通算、三百七十九回目の敗北だった。

悔しいが、やはりまだまだ彼女には届かないらしい。三つも下の女の子に負けるなんて、男としては忸怩たるものがある。これで彼女が手を抜くようならまだ追い付けもするのだろうが、生憎と彼女はとても生真面目だ。日々、開いていく実力の差にため息が出た。 

 

「そうだね。俺の敗けだよ」

 

敗北は、甘んじて受け入れる。自分が彼女に比べて弱いなんてことは分かりきっていた。また、ここから頑張るしかない。凡人が努力する天才に勝つにはサボってなんていられない。

 

「随分、強くなりましたね」

 

お互いに距離を取って一礼したあと、彼女と並んで防具を外す。

背後から男に声をかけてきたのは剣道部顧問の葛葉刀子だった。

 

「まだまだですよ。彼女に追い付くには全然足りません。ひとまず、走り込みと素振りの回数を更に増やしますよ」

 

同じ様に防具を外しながら答える。

面を外してタオルの上に置くと、気持ちいい風が髪を撫でた。酸素の美味しさが身に染みる。

 

「そんなに悲観しなくても、確かに安達君の実力は上がっていますよ」

「・・・ありがとうございます」

 

決して嘘をつくことのない刀子の言葉が、敗北した今の翔には重かった。

自分が強くなっている実感は確かにある。それは刀子以上に自分自身が一番よく分かっていた。

しかし彼女との距離感を考えてみると、自分の力量の向上なんて些細なことのように思えた。

 

「桜咲もありがとう。いつもこうして打ち合ってくれて、本当に感謝してるよ」

 

防具をすべて外し終えた翔は、隣で静かに刀子とのやり取りを聞いていた少女ーーーーー桜咲刹那へと礼を言った。

 

「いえ。私も安達先輩との打ち合いは勉強になりますから」

 

頬から輪郭に沿って顎へと流れる汗をタオルで拭いながら刹那は答えた。

 

「そう言ってくれると助かるよ」

 

再度、礼を言う。

彼女との打ち合いはこれで通算三百七十九回目を数える。どうして始まったのかはもう覚えてはいない。ただ、圧倒的なまでの強さを誇る彼女に強い憧憬と焦燥の念を感じたことは覚えている。そして自分の人生においてあんなにも必死に頭を下げて何かを頼んだことは他になかった。

結果として、今では剣道部での練習時間の最後に必ず行う恒例行事のようになっていた。

 

「でも、また勝てなかったかぁー」

「そうですね。ですが、先程の動きは少し驚きました」

「頑張って考えたんだけどね」

 

まっすぐに向けられる桜咲の目線を受け止めながら苦笑する。

自分の中の限界を超えたつもりでただひたすらに集中力を研ぎ澄まし、それでも尚、見果てぬ高さの壁だ。今はまだ、目標としている壁の高さすら分からない。

 

「ホント、簡単にいなしてくれちゃうよね、桜咲は」

 

はぁ、と大きくため息をつけば、桜咲は僅かに目を見開いた。

 

「ーーー先輩は御自身を低く見すぎです」

 

真剣味を増した瞳が向けられる。

 

「そうかな?」

「はい。あの動きは本当に速かった。相手が私以外でしたら、確実に一本を取れていたと思います」

 

大したものです、と桜咲は頷いた。

三つも年下の後輩に誉められるなんて、端から見れば微妙な顔をされそうな光景だった。しかし、剣道部であるならば誰もが彼女の強さを知っている。そんな彼女の言葉は、翔を喜ばせるに十分だった。

 

「桜咲から一本取れなきゃ意味がないんだけどね」

「それは・・・、まだもう少し努力が必要ですね」

「あはは。これからも精進するよ」

「はい。そうしてください」

 

彼女の生真面目な性格をそのまま表したような鋭い目が、僅かに緩んだ気がした。

本心では翔も両手でガッツポーズをとりたいほどに嬉しかった。だが、自身の持てる精神力を総動員してなんとかしてその喜びは隠すことにした。少しだけいい感じになった彼女の魔を指すわけにはいかなかった。あとはいわゆる、先輩としての意地だった。

 

「かっ、翔先輩!」

 

桜咲と別れ、後片づけをしていた翔に背後から声が掛けられた。相手は後輩の一人だった。

 

若菜(わかな)、どうかした?」

 

後輩の少女ーーー牧野若菜(まきのわかな)が翔に走り寄る。

 

「あ、あの!和泉和也って人が道場の入り口で呼んでます!!」

「和也?」

「は、はい!」

 

若菜は少し緊張した面持ちで答えた。

 

「分かった、ありがとう。すぐに行くよ」

「はい!し、失礼しました!!」

「うん、お疲れ様」

 

ポニーテールを揺らして走り去る若菜は、まだ中学二年生だった。つまり、さっきまで話をしていた桜咲と同い年ということになる。同じ中学二年生でも、二人はまるで違うタイプだった。

遠くで友人たちに絡まれている若菜の微笑ましい姿が目に写る。それはなんとも微笑ましい光景だった。

 

「よし。帰るか」

 

そして翔は道場の入り口に向かう。そこには若菜の予告通り和也がいた。そう。確かに和也は道場の入り口にいた。それ自体は一向に構わない。和也は自分を待っていたのだから、そこにいてもおかしな所は何もない。

ただ、一つだけどうしても無視できない事があるので心の底から問うてみたい。

 

ーーー桜咲よ、どうして君は竹刀を和也に向けている?

 

意味が分からない光景を前に、取り敢えず翔は二人の下へと走ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーーどうしてこうなった」

 

目の前で竹刀を握りしめ、親の仇でも見るかのように睨み付けてくる少女を前に、和也は心の中で一人、目の前の不運を呪った。

事の発端は、バスケ部への顔だしを終えた和也が刀子を探しに剣道場へ来たことにあった。

高畑と別れ、剣道場の前に辿り着いた和也はその神妙な雰囲気に中に入るのを躊躇った。

すると祈ってもいない祈りが通じたのか、剣道場から刀子が顔を出した。

そこから約数分程度、和也が刀子と話をしていると、一人の少女が剣道場から出てきた。腰まで届きそうな髪をポニーテールにまとめた小柄な少女だった。

刀子が去ったあと、少女に翔を呼んでくれるよう頼むと快諾してくれた。そして大人しく彼女の帰りを待っていた時だった。目の前の少女が出てきたのは。

 

「あー・・・、俺、君に何かしたか?」

 

和也は両手を上げ、顔の横に並べた。敵意がないことを示したつもりだが、むしろ彼女からの視線は更に厳しいものになってしまっていた。

意味も分からず恨まれる記憶はない。むしろ今日という範囲なら、自分の方が色々と恨みを抱いても許される立場なはずだ。

 

「貴方はお嬢様ーーー近衛木乃香という少女を知っていますね?」

 

質問ではなく確認だった。

少女が竹刀を持つ手に力を込めたのが分かった。まだ中学生ぐらいにしか見えない少女に負けるつもりはないが、流石に竹刀を持っているなら力加減は難しい。

和也は自らの後頭部に両手を重ねた。

 

「近衛木乃香っていえば、学園長の孫だろ?会ったことはないが、名前ぐらいは知ってるよ」

 

更に抵抗の意思がないことを伝えたつもりだが、残念ながら少女には伝わらなかったようだった。

 

「貴方が断りさえすればお嬢様はーーーっ!!」

 

竹刀を握る彼女の手は、力を込めすぎてもはや白くなっていた。

何をそんなに思い詰めているのかは知らないが、単に友人に会いに来ただけの人間にこの反応は些か厳しすぎやしないかと話し合いたいぐらいだ。

和也は敢えて彼女を刺激するように大きくため息をついた。

 

「なんでいきなり喧嘩腰なのかは知らないが、一応、予め言っとくぞ。俺は、売られた喧嘩は買う派だからな」

 

軽く、拳を握る。体調は何故か万全だった。痛みもなければダルさもない。今なら()()()()()()()()()()ですら防げそうな気がする。

 

「貴方のせいでお嬢様はっ!?」

「いやいや、そんなに恨まれるほど学園長の孫の女の子なんざ知らねーよ」

 

二人はお互いに準備万端だった。来るなら来い、と雰囲気が告げていた。

少女の竹刀が僅かに右へと傾く。その動きに合わせて和也も左手を動かそうとしてーーーーー止まる。

そして少女が戸惑う様子を見ながら両手を下ろした。

 

「ストップ!桜咲っ!!止まれ!」

 

少女の背後から和也もよく知る男が走って近付いてきていた。

 

「あ、安達先輩!?」

「あーもう、なにしてんのさ、桜咲」

「っ!?こ、これは・・・っ?」

 

翔が到着すると、刹那は慌てたように竹刀を背後に隠した。ただ、残念ながら刹那の小柄な体格では隠そうと思っても隠れていない。見事に肩の辺りから竹刀の切っ先が覗いていた。

 

「はい、その竹刀は没収だからね」

「そ、そんなっ!?」

「ダメだよ、竹刀を人に向けたりしたら危ないんだから、ちゃんと直しておかないと」

 

有無を言わさず翔が少女から竹刀を取り上げた。先程までの威圧感が嘘のようだった。二十センチは差があるだろう翔が持つ竹刀に向かって手を伸ばした少女の姿はとても愛らしかった。

 

「はい。じゃあ桜咲はもう先に帰りな」

「ですがっ!」

「ダーメ。これ以上我が儘を言うなら刀子先生に言い付けるよ」

「そ、それは・・・っ!?」

「お疲れ様。また明日ね」

「・・・はい、お疲れ様でした」

 

翔に説得された少女は、少し気落ちした様子で二人に背を向けた。そしてゆっくりと、明らかに未練を残して去っていく。

 

「ゴメンね、和也。ウチの部員が迷惑を掛けたみたいだね」

「いや、構わねーよ。中学生の啖呵ぐらいは笑って許してやるのが大人ってもんだろ」

「あはは、助かるよ」

 

少女が反省した様子で剣道場から去っていく後ろ姿を二人で見送りながら話を続ける。

 

「あの子、名前は?」

「桜咲刹那。剣の腕はたぶん剣道部で一番だと思うけど、少し生真面目で一生懸命過ぎるところがあるんだよね」

「ふーん」

 

彼女ーーー桜咲刹那の背中を見る翔の顔は、正に先輩としてのそれだった。

 

「じゃあその桜咲の言ってた『お嬢様』ってのは、近衛木乃香って子で合ってるんだよな?」

「うん、たぶん合ってるとおもうよ。近衛さんはたまに剣道部にも顔を出しに来るしね」

 

何故かその時に限って必ず桜咲はいないけど、と翔は苦笑した。

なにか桜咲と近衛の二人の間に事情があることは分かった。しかし、やはり何度考えてみても自分とは関係ないだろうと思う。

 

「で?なんで俺はあんなにも凄まれたのか、翔は分かるか?」

「いや、それは僕も分からないなぁ。あんなにも感情豊かな桜咲を見たのは初めてだよ」

「そっか。じゃあいいわ」

「うん」

 

少女の背中が見えなくなると、改めて二人は向かい合った。

 

「それよりどうしたの?和也が剣道場まで来るなんて珍しいんじゃない?」

 

翔が問い掛ける。

 

「まぁ、そんな特別な用事じゃないんだけどな」

 

と、一置きしてから和也は話を続ける。

 

「今日は沙織のところでバイトがあるから晩飯はいらない」

「それだけ?」

「あと、一週間も休んでたから明日からしばらく朝は早くなると思う」

「朝練?」

「おー」

「・・・メールでよくない?」

「刀子先生に会う予定があったから、そのついでなだけだよ」

 

ただ、それだけの話をするだけでどうしてあんな事になったのか、果たして全くの謎だった。

 

「じゃあ俺、アルバイトに行ってくるわ」

「うん、頑張ってね」

「サンキュー」

 

そう言ってお互いに手を上げ、別れようとした時だった。

不意に、背中から呼び止める声が掛けられる。

今、思い出したとばかりに翔が口を開いていた。

 

「そういえば、これ、剣道部の子が言ってたんだけどさ」

 

いつもの翔とは違う、どこか言いづらそうな声だった。

 

「亜子ちゃんのクラス、担任が代わったそうだよ」

 

初耳だった。今日はあまりにも色々ありすぎて、頭の中は限界に達しようとしていた。

 

「なんでも、九歳で大学を飛び級卒業した天才児だってさ」

 

最後にとんでもない爆弾が放り込まれた気分だった。


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