上を向いて歩こう   作:バレンシア

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プロローグ
第一話


客は既に去っていた。時計の針は午後八時を指し、窓の外を見てみれば、仄かに黒い帳が降りていた。

 

「お疲れ」

 

ガランとした店内には、和泉和也と国見沙織の姿だけがあった。芳醇な珈琲の香りに包まれた喫茶店の中、フロアーの掃除を終えた和也が声を掛けた。

 

「お疲れ様。今日もありがとう。助かっちゃった」

 

返ってきた声は軽やかだった。沙織は丁度、キッチンの中にあった器具を直し終えたところだった。和也の方を振り向き、微笑む姿は彼女の年齢よりも幼く見えた。そういえば、と和也は思い出す。かつて沙織は実年齢通りに見られないことで悩んでいた時期もあった気がする。

 

「いいよ、いまさら礼なんて。こっちはバイト代だってちゃんと貰ってるんだから、文句はないよ」

「そういえばそうだったね。元々お手伝いしてくれてたから、なんかこう、つい、ね」

 

あはは、と沙織は笑った。

 

「よし。こっちも終わったから、ちょっと着替えてくるね」

「ああ。俺も荷物とってくる」

「じゃあ十分後に集合ね」

「分かった。急がなくてもいいからな」

「うん。分かってる」

 

更衣室へと戻る沙織を見送ると、和也は腕時計を見た。シンプルなデザインの時計だった。無駄な飾り気のない一品は、かつて妹から誕生日に送られたものだった。

 

「まだ八時か・・・」

 

それほど遅い時間ではなかった。いつも店を閉める時間よりも三十分は早い。これならまだ余裕があるな、と和也は今後の予定を考える。

和泉和也はまだ高校生であった。中学受験で入った学校の都合上、親元を離れて独り暮らしをしていた。この喫茶店からなら、歩いて三十分ほどで着く距離に彼の暮らす男子寮はあった。

このまま沙織を家まで送っても、まだ相棒がアルバイトから帰宅するまでには余裕がある。確か今日は卵が安かったはずだ。夕食はオムライスにでもしてやろう。二人で決めた当番制では、今日の夕食の準備は和也の仕事だった。

 

「お待たせ」

 

沙織が更衣室から出てきたのは、和也が帰る支度を終えてから二・三分してからだった。秋らしく、カーキ色のロングスカートに白いシャツ、鮮やかな水色のカーディガンを羽織っていた。

 

「戸締まりはしておいたし、じゃあ帰るか」

「うん」

 

椅子から立ち上がった和也の隣に沙織が並んだ。仄かに柑橘系の甘い香りがした。

 

「鍵は?忘れてないか?」

「大丈夫だよ。ちゃんと持ってるよ」

「そうか」

 

こうして並んでみれば、和也の方が頭一つ分ほど身長が高かった。沙織も決して身長が低い訳ではない。むしろ平均に比べれば高い方だろう。しかし、それ以上に和也の身長が高かった。

扉を開けて外に出ると、少し肌寒さを感じるようになっていた。暦の上では既に十月。残暑が厳しい年だったが、どうやらそれも限界に来ているらしい。

 

「大丈夫か?」

「うん。寒いかもと思って、ストール持ってきたから大丈夫だよ」

 

沙織の家は、ここから十五分も歩けば見えてくるマンションの一室だった。以前、妹と一緒に訪れた時には、初めて入った年上の女性の部屋に、柄にもなく緊張したことを覚えている。

二人で並んで桜通りを歩いていく。今はまだ咲いていないが、この道には春になれば美しい桜が咲き誇る。二人は共に多弁ではなかった。会話が嫌いだというわけではない。静謐とした空気が好きだった。会話はない。しかし苦痛もない。もちろん居たたまれなさなど感じるわけもない。独特な雰囲気が良いのだ。

 

ーーー不意に、和也のカバンから機械音が鳴った。少し前に流行った静かな曲だった。

 

「もしもし」

『あ、お兄ちゃん』

 

沙織に断りを入れてから電話に出ると、相手は件の妹からだった。

 

「どうした?」

『いや、その、別にどうかしたって訳やないんやけどーーー』

 

用件は、久し振りに一緒に夕食を食べないかというものだった。相変わらず間の悪いことだ。和也は折り返し電話すると答えて電話を切ると、相棒へと電話を掛ける。奴はすぐに出た。相変わらずワンコールだった。

結果として、相棒は外で夕食を食べるから構わないという返答だった。相変わらず察しのいい奴だ。今度、何か奢ってやろう。

和也が折り返し電話を掛ける。妹もすぐに出た。ワンコールだった。構わないと伝えると、三十分ほどで支度をするとのことだった。食事をする場所は決まっている。いつもと同じファミレスだった。

 

「もういいの?」

「ああ。今晩一緒に食事でも、だってよ」

 

肩をすくめて言うと、沙織は嬉しそうに微笑んだ。

和也だけではなく、妹のこともよく知る沙織にとって、彼女は同じく妹のような存在となっていた。

 

「相変わらずお兄ちゃんっ子だね」

「違う違う。単に夕食代を浮かせたいだけだ」

「そんなことないと思うけどなー」

「兄妹なんてそんなもんだよ」

 

そんな取り纏めのない話をしていると、目の前に沙織の住むマンションが現れた。

 

「いつも送ってもらっちゃって、ごめんね」

「気にしなくていい。俺も心配だからやってるだけだしな」

 

嬉しそうに微笑んだ沙織は、ありがとうと一言告げるとセキュリティを解除してマンションの中に入っていった。

 

「さて、それじゃあ俺もファミレスに向かうとするか」

 

沙織がマンションの中に入っていくのを確認すると、

和也は足早にその場から遠ざかっていく。時間は既に八時二十分。少しばかり走らなければ間に合わない。特に時間にうるさいという訳ではないが、食事をする時ばかりは小言も勘弁してもらいたい。美味しい食事と珈琲は命の潤滑油なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ!お兄ちゃん!」

「すまん。少し遅れたな」

 

いつものファミレスに行くと、席から立ち上がり元気よく手を振る妹の姿があった。

 

「もうなにか注文したのか?」

「ううん、まだやで。お兄ちゃん来てから頼もかなと思ててん」

「そうか」

 

店内の客の姿は疎らだった。家族連れが数名いるのみで、あとは()()()()()()()()()()()()()()()()()

妹の座る席まで行くと、机の上にはプリントやノート、そして筆箱があった。どうやら宿題でもしようとしていたらしい。プリントの中身を見る。図形の証明問題だった。なかなか手こずっているらしい。

 

「最近はどうだ?なにか変わったことでもあったか?」

「んー。別にそんな変わったことはないかな」

「部活の方はどうだ?マネージャー、大変じゃないか?」

「そら大変なんは大変やけど、頑張ってる人たちを応援すんのは楽しいし、平気やで」

「勉強はーーーまぁ、頑張れ」

「学年首席のお兄ちゃんに言わると、なんやプレッシャーが凄いわ」

「俺は奨学金狙いだから仕方ないだろ。お前は適度に頑張りゃそれでいいんだよ。ま、無理はすんな」

「うん。分かってるー」

 

机の上にあった荷物を直す妹の姿を見守りながら水を飲む。走った後には水が美味い。汗をかくほどではないが、やはり時間通りには着かなかった。

 

「今日はまき絵ちゃんは良かったのか?」

「うん。まき絵は裕奈とアキラと一緒に晩御飯食べるって言うてたよ」

「相変わらず仲が良いんだな」

「そうかな?普通やと思うよ。それに裕奈はお兄ちゃんも部活で会うやん」

「まぁ、バスケ部は男女共に中学と高校は合同みたいなもんだからな」

「どう、裕奈。レギュラー取れそう?」

「このまま怪我さえしなければいけるんじゃないか?」

 

そんなとりとめのない話をしながらお互いにメニューを決めて注文をする。注文したのはオムライスだった。沙織と歩いてた時から口の中は既にオムライスになっていた。

 

「こうやって一緒に晩飯を食べるのも久しぶりだな」

「なんやかんやでお互いに忙しいもん。特にお兄ちゃんは部活もアルバイトもやってるから余計に会う機会もないし」

「悪い悪い」

 

頬をかきながら和也は答える。この手の話題になったときの和也の立場は常に弱者の側にあった。親元を離れてから妹が入学してくるまでの三年間。寂しい思いをさせてしまった負い目が和也にはあった。

 

「お兄ちゃんこそ体は大丈夫なん?忙しいみたいやし、寝不足になったりしてへん?」

「大丈夫だって。俺はまぁ、頑丈なだけが取り柄みたいなもんだからな」

「またそんなこと言うて。裕奈も心配しとったで。「和也さん、部活でもキャプテンやし大変そう」って聞いとるで」

「はいはい」

 

結局、妹と一緒に食事をすると毎度のことながら小言を言われることになるらしい。心配性な妹は、まるで母親の代わりは自分であると言わんばかりだった。

 

「お兄ちゃん!ちゃんと聞いとんの!」

「聞いてる聞いてる」

「ーーーもう!!」

 

妹は、少し不機嫌そうに頬を膨らませながら食事を続ける。まだブツブツと文句をいいながらスプーンを動かす妹を見て、コイツは麻帆良学園に来て本当に変わったと思う。元来は血が苦手で気弱な子だった。思っていることはあったとしても、ここまで自己主張するような子ではなかった。友人に恵まれた。特に同室の佐々木まき絵、仲良しの明石裕奈、大河内アキラの三人との輪はコイツを一回りも二回りも大きく成長させてくれた。感謝してもしきれない。

 

「ーーー亜子」

「ん?なに?」

「今度、まき絵ちゃんたちも連れて飯食いに行こう」

「・・・どうしたん、いきなり?」

「いや、ちょっと三人に飯でも奢りたい気分になっただけだ」

「ふーん。またみんなに予定聞いとくわ」

「ああ。そうしてくれ」

 

どこか訝しげな視線を寄越しながら妹ーーー亜子は頷いた。

それから暫くとりとめのない話が続いた。麻帆良学園で二人が暮らすようになってから、こうやって食事を共にする時には近況報告を兼ねることが二人の約束だった。

時計の針は九時を指していた。食事を終えた二人は珈琲を飲みながらのんびりとした時間を過ごしていた。

 

「そういえば、お兄ちゃん」

「うん?」

 

妙にコーヒーカップを持つ手に力が入っていた。緊張した面持ちを和也から逸らしながら亜子が口を開いた。

 

「この間の日曜日、女の人と歩いてへんかった?」

 

本人は自然を装っているのだろうが、完全に目は泳いでいた。どうやら今日、和也か呼び出され理由はこの件があるからのようだ。一向に視線を会わせようとせず、亜子は机の上に置いたコーヒーカップを見つめていた。

 

「ああ。アイツか」

 

見に覚えはもちろんあった。別に隠すような関係でもない。何故か息を呑む気配を目の前の亜子から感じながら和也が答える。

 

「彼女だよ」

「ーーー!?」

 

それは声にならない声だった。もし今、亜子がコーヒーを飲んでいたら思わず吹き出していただろう。分かりやすいぐらいに目を剥いて驚愕を表す亜子に、和也は更に衝撃的な言葉を続ける。

 

「もう別れたけどな」

「ーーー!?!?」

 

亜子は思わず手に持っていたコーヒーカップを落とした。和也は固まっている亜子を放ったまま店員を呼ぶと、謝罪した後に新しい珈琲を注文する。気のいい店員は笑顔で机の上を拭くと、すぐに去っていった。接客業に携わる者である以上、何時も笑顔を忘れてはいけない。素晴らしい接客魂に頷く和也は、ようやく再起動した亜子に視線を向けた。

 

「う、うち、そんなん、知らんっ・・・!?」

「そりゃ言わんだろ。わざわざ妹に。彼女が出来たなんて報告はしない」

「そ、そらそうかもしれんけどっ・・・!?」

 

分かりやすく口元に手を当てて驚きを表現する亜子は、本当に正直というか素直な子だった。

 

「まぁいいだろ、その話は。どうせ終わった話だしな」

「・・・なんかお兄ちゃんが遠くにいったような気がする」

「アホか」

 

和也は大きくため息をつく。そんなに驚くことだろうか。中学生にもなれば、そんな浮いた話の一つや二つぐらい出るだろう。ましてや和也は高校生だ。仲の良い女子ぐらいはいる。話をしていて、そういうことになることだってあるだろう。

 

「な、なんで付き合ったんっ?」

「・・・この話、膨らませるのか?」

「当たり前やんっ!」

「・・・そうか」

 

額に手を当てながら和也は再び大きくため息をはいた。まぁ、亜子ももう中学生だ。こういうことに興味のある年頃ということだろうか。

 

「体育祭の時に向こうから告白されてな」

「お、おおー!」

「・・・なんだそのリアクション」

 

大袈裟なまでに盛り上がっている亜子を見ながら和也は呟く。

 

「それでそれで!?」

「・・・断る理由も特にないし、それで付き合っただけだ」

「おおー!!」

「・・・だからなんなんだ、そのリアクションは」

 

再度、和也は大きくため息をはく。

 

「お兄ちゃんもその人のこと好きやったん!?」

「いや、別に」

「でも付き合ったんやろ?」

「ああ」

「好きでもないのに付き合ったん?」

「断る理由がないから付き合ったんだ」

「・・・お兄ちゃん、サイテーや」

「おい」

 

一気に不機嫌になった妹に、和也は頭にズキズキとした痛みを感じながら答える。

 

「お兄ちゃんは好きでもない人と付き合うんや」

「付き合ってから好きになるかもしれないだろ」

「それはそうかもしれへんけど・・・」

「まぁ、人の色恋ごとには色々とあるってことだよ」

「むぅー・・・」

 

なにやら亜子は難しい顔をしながら悩んでいる。兄の色恋に首を突っ込んでも良いことはないだろう。しかもこの話は既に終わった話だ。なにをそんなに悩むことがあるだろうか。

既に和也をそっちのけで頭を悩ましている亜子から視線を外した和也は、本日何度目かになるかもわからないため息をはく。

そして、そろそろいいだろうと席を立つ。そこから身を乗り出しながら背後のテーブル席を振り返った。

 

「で。そろそろ俺は君たちに話し掛けてもいいんだろうか?その辺どう思う。まき絵ちゃん、裕奈ちゃん、アキラちゃん?」

 

「「「ーーーえ???」」」

 

案の定、和也が座った席の背後には、妹である亜子の友人たちが揃っていた。三人は亜子とは違う意味で虚を突かれた顔で和也を見ていた。

年頃の女の子が四人もいれば、色恋沙汰に興味を持つなという方が無理であった。なるほど。誰が仕掛人かは分からないが、とにかく彼女たちが今日の目的を達したことだけは理解した。要するに、面白い話のネタができたということだった。

 

「それにしても、性格的に裕奈ちゃんやまき絵ちゃんはわからなくもないけど、まさかアキラちゃんまでいるとは」

 

本人たちに聞こえないように和也は呟く。向こうの机の上には各々が注文したであろう商品が並んでいた。和也は頭の中で財布の中身を計算した。一人あたり千円として、それが五人。和也は心の中で静かに明治の偉大な文豪に別れを告げた。

 

 

ーーー恋とは尊くあさましく無残なもの也。

 

 


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