家庭を持つ、ということは、子供の頃に思っていた以上に大変で複雑なことが多い。
家の事。俺がやる必要があったし、まぁそれは全然、問題ないんだけど、残業とかはしばらくダメだ。肩書きは事務員な事もあったり、ありすが文香と仲良いのもあって定時では帰れたけど、それでも容赦ないくらい忙しかったのよ。
それは、生まれてからも同じだ。職場にいる時間は短いのに疲労度は溜まる一方で、それはもう大変……ではあるのだが、やはりそれでも幸福を感じるのは、大人になったから、とかではなく、家族だからなのだろう。
子供のためなら、文香のためなら、多少きつくても……いや、多少でなくても頑張れる。多分、それは文香も同じ事だろう。
それは、今後も変わる事はないと断言出来る。
「香奈美、ゲームやろうか!」
「やだ」
「……」
例え、本に夢中で冷たくあしらわれたとしても。
文香の本好きは娘にも遺伝し、家でガッツリ読み耽っていた。……まぁ、その本もラノベなわけだが。
しかし、保育園生がラノベってどうなのだろうか。
最初は絵本だったんだよ。俺も文香も買ってあげたり、或いは自分達のお古をあげたりして、俺と文香のどちらかが読み聞かせていた。
が、それがいつの間にか一人で読むようになり、絵本から漫画に手を伸ばすまで一年、そして漫画からラノベに行くまで半年だった。
「ママ、これ3巻は?」
「……どうぞ?」
「ありがと」
「……」
良くない、これは非常に良くない。別に本好きが悪いとか、ラノベが悪いとかそんなんじゃない。……いや、ラノベも保育園生が読むには教育に悪いが、それ以上に全く外へ出ないのが良くない。
ここは一つ、文香と相談して、休日の過ごし方を変えた方が良い。
「……」
ちょいちょい、と文香に手招きする……が、あのバカ娘と一緒で本に夢中で気づかない。お前も少しは大人になりなさいよ。
「文香、文香ー」
「……」
「文香さーん、文香お母さーん?」
「……」
「ママー?」
「……」
「ママ、この漢字なんてよむの?」
「ん? 爆殺」
「ばくさつ……どういう意味?」
「爆発で殺すという意味よ……。お外では使わないようにね?」
「うん!」
「ふふ……良い子ですね?」
「……」
テメェも半分くらい悪影響になってんのかよ……。少しイラっとした。
慎重にソファーの後ろから接近し、両手を程よい幅に広げ、完璧に背後を取ると、一気にグワシっと強襲した。
「文香ー!」
「きゃあああああああああッッ⁉︎」
揉んずっとおっぱいを両手で覆い、悲鳴を上げながらビンタを受けた。後ろにひっくり返る俺に、立ち上がった文香は真っ赤にしたまま両手で自分の胸を庇いつつ怒鳴る。
「なっ、なっ……い、いきなり何するの⁉︎ 子供の前でそう言うのはやめてください!」
「子供の前じゃなきゃ良いの?」
「そ、そういう意味ではないよ! ……い、良いですけど……」
相変わらずのどすけべだなぁ。性欲のレベル的には俺より文香の方が高いし、俺が大学生になってからはそれを隠さなくなった。
一方で、今の騒ぎがあっても香奈美は顔を上げない。ただただ本に夢中だ。尚更、俺の中で危機感が高まる。
「それより文香」
「そ、それよりとは何! それよりとは……!」
「少し相談。来てこっち」
「……は、はぁ……」
そのまま二人で寝室に入る。こういう時、香奈美の読書好きは助かる。
「それで、何の話なの? 人の胸を子供の前で揉んでまでする話って……」
「香奈美の事だよ。あの読書好き、少し行き過ぎじゃないかなって」
「……そうですか? 私も子供の時はあれくらい……」
「文香は小学生や中学生……いや、なんなら高校生の時に友達いたか?」
「えっ?」
どきっとしたのか、文香は冷や汗を流しながら少し頬を赤らめる。
「……い、いませんでしたが……」
「それに、香奈美を保育園に迎えに行った時、いつも『どうだった?』って聞いても『楽しかった』しか答えないだろ? あれ、多分本ばかり読んで友達出来てなかったんだよ。……文香と一緒で」
「……あー」
別に読書が悪いとは言わない。むしろ子供の頃からある程度読んでおけば、タメになることは多いだろう。頭も良くなるし、周りが知らないことも学べるし、文才も身につくかもしれない。
でも、それ以上に必要なのは、やはりコミュニケーション能力だろう。それが無いと、俺や文香みたいに友達がいない学生生活を送ることになる。
そして、コミュニケーションから学べることも、読書と同じくらい多い。それが人間社会で生きていく上で、一番大切なスキルになるのだから。
「それに、友達が出来る出来ない以前に、身体をずっと動かさないと身体にも悪い。子供のうちの生活が一番大切なのに……」
「そ、そうね……」
「少し出掛けよう。本以外にも世界を広げてやらないと。『楽しい』『これが好き』だけじゃダメだから」
そうと決まれば、早速外出だ。俺と文香は向かい合って頷くと、寝室から改めて出て行った。
「香奈美ー! 今日は外出だ! 外行かない?」
「ママとパパが好きな所、連れて行ってあげるよー?」
「ママ、これなんてよむの?」
「え? 鏖殺だよ」
「ありがと」
「……」
「……」
今更になって、文香は問題の大きさが分かってきたようだ。顔が少しずつ青ざめる。つーかお前、それなんの本読んでんの?
あれだけ両親がハイテンションで声をかけたのに、むしろ知的好奇心を求めてくる辺り、この子普通じゃない。
……というか、基本的に普段から「歩く時には本は読むな」と教えているが、もしそれを破るような事があった場合、事故や事件に巻き込まれかねないんじゃ……。
「か、カナちゃん? 本ばかり読んでいないで、たまにはお出かけしましょう? ね?」
「ママ、この漢字はなんてよむの?」
「え? 血流操作……じゃなくて。漢字は良いからお外に出掛けましょう?」
「え……いえに本があるのに?」
「……」
スゲェ価値観になっちまってるな……。いや、まだ間に合う。まだ保育園生なんだから。外にも楽しいことがたくさんあると教えなければ。
そう決めると、今度は俺が提案してみた。
「香奈美、そろそろ新しい本欲しくないか?」
「ほしい!」
「っ、ち、ちょっとあなた……!」
あなたって言われるのいまだに嬉しいふぉぉうっ。いや、文香の言わんとすることは分かる。結局、本買っちゃ意味ないってんだろ? でもな?
「……まずは出掛けさせる所だろ。安心しろ、人を騙すことに関しては、俺は文香より上だ」
「後でバレてるでしょあなたの場合。特に、カナちゃんを騙すつもりですか?」
「本を買う(今すぐ買うとは言ってない)だ。出掛けて連れ回して、帰りに本屋に寄って買ってやれば、騙したとは言えないだろ」
「……な、なるほど……性格悪い……」
うるせぇ。それと結婚してるのは誰だ。
「よし、行こうか」
「……でも、具体的には何処へ?」
「本に載ってるもんを見るのと、それを実際に見るのじゃ天と地ほどの差があることを教えてやれば、外出したくもなる。文香、好みの本を把握してるのは俺よりお前だ」
「あっ……分かった。任せて」
そう言って、家を出た。
×××
家を午前中の間に出られたのは幸いだった。休みの日でも朝7時に起きるようにしているのが活きたな。
車を運転している俺に、香奈美が可愛い声で尋ねる。
「パパ。本屋さん、もう三つとおりすぎたよ?」
「良いか? 香奈美。人生は通り過ぎた道の中で、出会ったものをどのように感じるかが大切だ。その上で、経験として学習・記憶しても未練がましく振り返らない。そのメリハリが……」
「パパのおはなし、ながい」
「……」
「千秋くんが誤魔化す時は話が長くなるの、もうバレてるよ」
娘にまでバレるとか俺ってそんなにわかりやすいですかね……。
「香奈美、さっき読んでた本には何が出てきた?」
「なにって……ひと?」
「カナちゃん、例えばね……物とか、動物とか、場所とかそういうの」
「えーっと、おっきなこーえん! 自動販売機からね、ければジュースがでるの!」
「どんな感じの公園?」
「えーっと……ひろくて、街灯があって、見通しがよくて、ベンチと自動販売機があって……」
「うんうん。滑り台とか、ジャングルジムはなかった?」
「……わからない?」
だろうな。最低限の描写が伝われば、他の設定まで言う必要ないからな、ラノベは。
そうこうしている間に、目的地に到着した。香奈美は気付かないまま文香と会話を続けている為、しれっと駐車場に止める。
「降りるよ、香奈美。文香」
「はーい」
「? ここどこ?」
「カナちゃん、それで続きは?」
「あ、うん。あとければジュースが出てくる自動販売機があって……」
などと話している間に、俺はトランクから携帯用の椅子を二つ取り出し、それと子供ができた時用に買っておいた遊び道具バッグも背負う。
歩き始めると、二人はお話しながらついてきた。
「あと、あとは……うう〜……」
「ふふ、ひょっとして……こんな感じの景色?」
「え?」
到着した先は、昭和記○公園。そしてここは……御坂美琴の廻し蹴りポイントだ。自販機の中には、コラボ商品であるヤシの実サイダーとブラックコーヒーもしっかり入っている。
ただの聖地巡礼じゃん、と言えばそれまでだが、本以外の世界に興味を抱くには持ってこいだ。
「ここが……あのばしょ?」
文字だけでは絶対に把握しきれない景色。草原が風に揺られて波のようにうねり、奥には木々が生い茂る。
香奈美は頬を赤く染め、辺りを見回した。
「わっ……綺麗……」
「走り回りたかったら走っておいで」
「う、うん……!」
素直に返事をした香奈美はその場から走り出し、後ろから文香がついていく。その背中を眺めながら、俺は椅子の準備をした。
文香がついていればとりあえず平気だろう。一応、昔から小学生のありすを面倒見ていたしね。
椅子の領域展開を終えたあと、自販機でヤシの実サイダーを2本とブラックコーヒーを1本、購入し、椅子の上で待機。もう見えなくなるまで言っちゃったけど、俺は匂いで二人の跡を追えるから問題ない。
しばらくすると、ようやく戻って来た。……文香が虫の息になって。
「ただいま、パパ!」
「おう、おかえり。……ほれ、ジュース」
「わっ……これ、ヤシのみサイダー⁉︎」
「そう。ほれ、隣座れ」
「うん!」
「文香も。お疲れさん」
「あ……ありがと……」
子供の無限体力を思い知った文香が、ヨタヨタと歩きながら椅子に座ったので、コーヒーを渡した。
「たまには外も良いでしょ」
「う、うん……! あるいてただけなのに、たのしかった! ちょうちょとか、いっぱいいて……!」
「へぇ、どんな蝶?」
「アゲハちょう! 本でよんだ……えっと、ツツジのお花でミツすってて……せんたんの口がちゅるって伸びてて、本でよんだとおりだったの!」
歩いているだけで楽しめる、というのは、やはり文香の血を引いているんだろうなぁ。のんびりした空気を心地良く感じれるのだろう。
なんであれ、虫であろうと花であろうと何にでも興味を示し、本を読んだ知識を活かせるのが嬉しいのだろう。
ふぅ……これで、少しは本以外にも興味を示せたかな? さて、午後も色んなところに連れ回してやるか……。
「ここで本をよんだら、はかどるだろうなぁ……。本、車からもってくればよかった……」
「……」
……中々、手強いな……。まだまだ気は抜けなさそうだ。