人類史上、最も古くからあるトイレとは、大地である。それは、当たり前のことだ。穴を掘ってそこにするなり、森の中で木にかけるなり、川の中で流しながら用を足したりとこなされてきた。
それが、徐々にトイレは進化を遂げていく。便が肥料になることを覚えた人類は、やがて人の身体から出る最も汚いものを溜め込むようになった。それを使う事で、食べ物の成長に関わりがある以上、無駄に捨てることはしなくなったのだ。
しかし、人類の科学力が進化した事により、わざわざ臭いものを確保しておくようなことは、再びなくなった。
植物に肥料として使う場合は、わざわざ便を用いなくとも、さらに育つ上にそこまで臭くもない化学肥料を開発し、それらを使い、さらにトイレにも匂いが残らないよう、水洗トイレと消臭アイテムが開発された。
それと同時に、便を排出する行為そのものを、他人に見られなくなるよう、配慮までされるようになった。
よって、羞恥心も育まれ、品性というものを確立し、それらが文化を組み上げたことに大きな役割を買ったといっても否めないだろう。
だが、その新型トイレも唯一、初代トイレに負ける面があった。「トイレをする所」を確立し、羞恥心を生み出し、大便や小便に「下品」の烙印を押したことによる最後の弊害……そう、どこでも出来る、という利便性である(便だけに)。
「文香、落ち着け、大丈夫。お前にそんなハイレベルなプレイはさせない。とりあえず、膀胱をキュッと閉めておけ。良い?」
「……ペットボトルの準備はできましたか?」
「だから落ち着けええええ!」
ダメだ、この子パニックだ! いや、そもそも運転しながら小便って、どうやるつもりだよ⁉︎ ペットボトルあっても厳しいだろ! 男なら、ペットボトルの飲み口に入れて出せば何とかなるが……いや、女の場合も口を穴に捩じ込んでやれば……いやいやいや、そんな状態で運転できるわけがねえ! 最悪、このまま渋滞車6台玉付きエアバッグ事件のマブっちゃんだ!
正直、俺は例え隣で文香がおしっこを漏らすハメになっても何とも思わんし、いやある種では興奮するが、今後それに関していじるつもりもない。
だが、本人はやはり気にするものだろう。こちらが何も言わなくても気を遣われてると思うだろし、逆にこっちが言えば多分、自殺したくなる。
よって、ここは俺が何とかするしかない……!
「文香、長く見積もってどれくらい保ちそう?」
「……黒部ダム……」
文香は、基本的にメンタルが弱い。特に、咄嗟の時とかはいつもやる気遣いとか一才、できなくなってしまう。
現在の文香は、ピンチのあまり、頭の中を銀河の彼方に置いてきてしまった。故に、豊富な語彙力から適当な言葉を漏らしてしまう。
が、これでも会話ができないわけではない。その言葉には、必ず文香が言いたいことが隠れているはず……。
黒部ダム……史実では、多くの方々が犠牲になりながらも完成した大きなダムだが、その人数を意味するような言葉にはしないはず……つまり、意図は別の所にある。
一番に浮かんだのは、ナックル星人。帰ってきたウルトラマンに登場した宇宙人で、パンチ一発で黒部ダムに穴を開けられるというが、あの宇宙人はメインで登場したわけではない。あの話で手強かったのは、どちらかというとブラックキングだ。
であれば、他の作品……コナンとか? 若い童顔なイケメンで誠実な人が大好物の文香は勿論、コナンも大好きだ。
だが、大好きと言っても単行本読破しているほどではない。精々、映画を全部見たくらいだ。そんな中、黒部ダムが出てきたコナンの映画は一つだけだ。
「15分……!」
15分以内にこの渋滞がどのくらい動くか……? いや、でもさっき確か……振り返って窓の外から通り過ぎた看板を見る。やはり、近くにPAがある!
「文香、近くにPAがある、踏ん張れ! ……あ、いや踏ん張ったら出ちゃうか」
「……生存フラグ……」
は? ……ああ、お前を殺す、か……。そう怒らないで……真面目にやってないわけじゃないんだから……。
さて、これからどうするか、だが……なるべく、文香の負担にならないようにしないといけない。思い浮かぶのは、やはり会話だ。
俺も電車の中の腹痛は経験ある。そういう時に限って快速なり急行なりに乗っているわけだが、そういう時は手を動かさず、なるべくお腹の痛みについて考えないことがベストだった。腹の痛みに堪えるのではなく、体感時間を早まらせるのだ。
これは、おしっこにも有効なはずだ……!
「文香、面白い事教えてあげよう」
「……que?」
それ何語? と聞きたいところだが、言わんとすることはわかる。「なんですか?」だろう。
あとは、俺のトーク術次第だ……!
「恐竜いるじゃん、恐竜。恐竜の名前の意味するところは実は色々あって、例えばトリケラトプスは3本角がある顔、って意味なんだ」
「Fort○iteにハマった雷の神」
「それで面白いのは、ティラノサウルス。暴君トカゲって意味で、アンキロサウルスは連結したトカゲの意味。つまり、サウルスってのはトカゲって意味なんだ」
「……ホワイトテイル……」
よし、この調子で気を逸らす……!
「つまり、外見的にせよ中身にせよ、特徴が名前になってんだよ。パスカルだのニュートンだのとは違うよね。何であいつら自分の名前つけてんだかっての。だから、勉強する側も覚えにくいんだよね」
「……天津飯R?」
「言い訳くらいさせてよ。勉強苦手なんだから」
やりづらかった会話も慣れてきた。頭を働かせれば、文香が何を言いたいのかも分かる。
そのまま、しばらく会話を続け、渋滞と尿意のストレスを緩和した。
×××
残り10分……そろそろPAか……? 看板も見えてきたし、文香の表情も柔らかくなってきた。ホント、免許持ってなくてごめんね……。大学決まったら、まず免許取るわ。
さて、もうすぐPAに入る道が……という所で再度、絶望が見えた。
「っ、え……?」
「こ、これは……!」
何と、行列が出来ていた。車の。PAにも車が多く止まっている理由なんて一つしかない。トイレの列だ。
幸い、俺達の車はPAに差し掛かる列の方へは向かっていない。まだ方向は変えられるが……変えたからといって何になるかと言われると……。
「ち、千秋くん……ペットボトルを……!」
「ま、待て文香! ヤケになるのはまだ……!」
「もう……無理です……おしっこを我慢している、という現状だけでも恥ずかしいのに……その上、こんな醜態……」
「恥ずかしくなんかないから! 俺しか知らないし、俺も逆の立場なら股間にペットボトル当ててるから!」
「そうだ……! 千秋くんに飲んでもらえれば、プレイの一環であってお漏らしでは……!」
「落ち着けえええええッ!」
クッ、な、何か……! 何か手は……!
慌ててスマホを手元で走らせていると、良い情報が目に入った。
「文香、ここから数メートル先で高速降りられる! 降りてからなら、コンビニでも何でも借りられる!」
「!」
「変えられそうな時、車線変えて! 煽り運転と間違えられたら、俺が何とかするから!」
「は、はい……!」
言われて、文香は涙目になりながら頷く。この涙、これ以上は流させない……!
「文香、実は俺、この前橘さんと会ったよ」
とりあえず、さっきの作戦続行だ!
「相変わらず、あの子背伸びしてるな。大人になりたいとか言って、公園で体力作りしてたよ。子供のうちに筋トレすると、むしろ身長は伸びなくなるんだけどな」
「……無限に広がる大宇宙……」
あ、だめだ。その答えは全く俺のセリフにリンクしない……つまり、会話も難しくなってきているということだ。
本当に限界だ。何せ、高速を降りた頃には15分なんて、とうに過ぎていそうなものなのだから。
「頑張れ、文香……!」
「アバダケダブラ」
……意味無いんだよね……? そのセリフ……。
その後は、涙目の文香の横で、俺はできる限りのことをした。車の中の音楽は俺のスマホでBluetoothを繋げてクラシックを流したりだとか、空調を寒すぎないよう調節したりだとか、思いつく限りのことはやった。まぁ、どれも効果があるのかは知らないが。
そして、ようやく俺達は高速の降り口にまで来れた。
「すいてる! 行けるぞ!」
「は、はひ……!」
「が、がんばれ!」
「ふぁい……!」
ようやく車は人より速いスピードで動き出し、高速を降りる。料金は霞むが、ダム決壊を前にしては、背に腹はかえられない……と、思ったのだが……ちょっと、スピード出し過ぎじゃない? てか、車傾いてない?
「ふ、文香ー! ブレーキ! 焦りは分かるけど、ブレーキ!」
「ぶれーき……?」
「ブレーキって単語を初めて聞いたみたいな反応はやめて! あなた免許持ってる人だよね⁉︎ ……って落とし過ぎ落とし過ぎ! 後ろに車来てなくてよかったな!」
「あ、あわわわっ……!」
っ、や、ヤバい……! 文香を何とか落ち着けないと……!
「文香、安全運転してくれたら、後で文香が言って欲しいセリフなんでも言ってやる!」
「! ……そ、それって……」
「実は文香が密かに書いてるキリト×俺の夢小説のセリフを読んでやるって言ってんだああああああ!」
「……!」
そこから先は早かった。驚く程……それこそハイブリッドカーのように静かな運転で、文香は高速を出て行った。
そのまましばらく街の中を運転するが……近くに用を足せそうな場所はない。
「ち、千秋くん……!」
「今探してる!」
慌ててマップを見ているが、ダメだ。どこもかしこも駐車場付きのコンビニなんて……あるのは、ラブホ。ダメだ、リスクがでかい。デパート。駐車場からトイレまで距離がありすぎる。駅。埋まってる可能性が高い。あとは……!
「……あ」
「っ、な、なんですか……?」
「行く?」
「い、行きます! 何処へでも……!」
「じゃあ、うん。そこ左曲がって」
「は、はい……!」
まぁ……ここに入ったら一泊するしかないわけなんだが……仕方ないよね。
そのまま俺の案内の下、トイレのありそうな場所に向かった。その場所とは……大型銭湯である。
「着いたよ」
「は、はい……!」
気にしている余裕がない文香は、車を止めてシートベルトを外し、走って出入り口に向かう。
が、慌てている時というのは碌な結果にならないものだ。自分のつま先で自分の踵を打って、文香は前に転んでしまう。
「きゃっ……!」
「ふみっ……!」
「あっ、ああ……」
……あれ? その反応……!
「ちょっと、出……!」
「一瞬、一瞬堪えろ! 尿道をキュッと閉めろ!」
「は、はひぃ……」
涙目で答える文香の腕を引き上げ、背中に乗せ、ポケットからスマホを取り出した。よーく見ると、ここの自動ドアは押さないと開かない手動式自動ドア。
そこに向かって、スマホをぶん投げた。見事に扉が開き、滑り込んで店内に入る。
「いらっしゃいま……お客様⁉︎ 靴をお脱ぎくださいま!」
「温泉入って行くからトイレ貸して!」
「ふぁっ⁉︎ は、はい! 右手の奥です!」
ジャンプしている間に踵とつま先を使って靴を脱ぎ捨て、着地をしながらスライディングしつつ、立ち上がって右手の奥に走った。
トイレの扉を開ける。男子トイレか女子トイレか? 否、多目的トイレが適切だ。
「文香ああああ! パンツ……!」
「もう脱いでます!」
「よし、思い切って……やっちまえええええッッ‼︎」
そのままの勢いでトイレの上に置いた。スカートをたくし上げ、そのまま便器にまたがり、用を出す。その時の文香の顔は……それはもう、一面にチューリップ畑が咲き誇りそうな程、満面な笑みを浮かべていた。彼氏の前で、おしっこをしているにも関わらず。
「は、はふぅ〜……ま、間に合ったぁ〜……」
……ふぅ、良かっ……と、トイレの鍵閉めないと。あと、なるべく見ないようにしないと。
外からは鍵を閉めらんないから、俺も中にいるしかないし。
しばらく待機すると、用を出し終えたのか、バシャアアアアッと流す音が聞こえた。
「ふぅ……ようやく、ホッとしました……」
「良かったよ、間に合って。……パンツは平気? さっき少し出たとか何とか……」
「……帰り、買って帰ってもよろしいですか……?」
おんぶされている間に脱いでいたパンツは、割と湿っているようだ。
「良いよ。……あ、それとさ、ついさっきここで風呂入っていくって言っちゃったんだけど……」
「ふふ、勿論、大丈夫ですよ? ……というか、このままではドライブの思い出が我慢だけで終わってしまいそうでしたし、助かります……」
「……それもそうだな」
とりあえず、何とか事なきを得た。
ここの結婚後の話もやろうかな。