偶に、僕は意識をなくすことがある。
始めは自覚がなかった。本当に時々、激しく怒りを感じたと思ったら、まるで糸が切れたかのように僕は眠りに落ちていく。
目が覚めると、皆は心配そうに僕を見つめている。安心したような、疲れたような表情を浮かべていた。僕はそんなに皆に心配をかけているんだろうか。
それが、最近は頻発して起こっている気がした。
感情の大きな変化や、夜に少し眠っただけで意識がより遠くに飛んでいく。
この現象が起こる度、僕はある感覚を感じるようになった。
眠っているはずなのに、身体だけは何故か僕のコントロールを離れ、誰かが動かしている。
僕は一体どうなってしまったんだろうか。
内側に潜む得体のしれない何かに、怯えるようになって行った。
桜藤祭の終わり際。
僕は一度倒れ、保健室に運ばれたあとまた意識を失ってしまった。
天原先生が怪談話を始めたところまでは覚えてるんだけど……。
「ありがとう、2人共」
その後、今の僕と同じく東京に住んでいるみゆきとみなみが、家まで送り届けてくれた。
女の子2人に送られる男っていうのも情けない話ではあるんだけど。
「いえ、お家まで何事もなくよかったです」
お礼を言うと、みゆきは優しく微笑んでくれた。
幼馴染の温かい笑顔に、僕は昔から安心感を覚えていたっけ。
「みちるさん、平気……?」
「うん、もう大丈夫だよ」
みゆきの隣では、今年から陵桜に入り後輩となったもう1人の幼馴染、みなみが心配そうに声を掛けてくれる。
彼女も昔から無表情ではあったけど、心の中ではみゆきに負けないくらいの優しさを秘めている。
僕はなんて素敵な幼馴染を持ったんだろう。
「では、火曜に学校で」
「お大事に」
「うん。またね」
月曜日は、桜藤祭の振り替えでお休みだ。みゆきに言われなかったら、危うく学校に行ってたかも。
玄関で2人を見送って、僕は自室のベッドに横になった。
今、家には僕以外誰もいない。
父さんはいつも通り仕事だし、母さんも町内会に顔を出している。
いつもと変わらないはずなのに、何故か今日だけはやけに寂しく感じる。
「みゆき達と帰って来たからかな……?」
勿論、普段からみゆきやみなみとは一緒に帰っている。
けど、降りる駅が違うので、家までは必然的に1人になる。
それが今日は家まで送ってもらった。だから、少しだけ名残惜しいのかも。
「ダメだなぁ」
優しい2人の幼馴染が恋しくなり、それが情けなくて自己嫌悪に陥る。
親の出張に合わせて引越しを重ね、みゆき達と別れることになっても、恋しくなることはなかったはずなのに。
「……本当に?」
ふと思ったことが、心の何処かに引っかかる。
僕は、みゆき達を必要以上に求めたことがあった?
それは何時、何処で?
思い出してはいけないものに触れてしまった気がして、考えるのを止めようとした。
だけど、頭の中に色んな光景が次々に流れてくる。
僕は、僕は……。
『こんなはずじゃ、なかった?』
不意に、誰かの声が聞こえた。
頭の中に響く声は、まるで脳を撫で回されるような不快感を出しながら僕に語りかけてくる。
『自分は満たされた存在、なんだろ?』
声の主は、意識の中で僕を繋ぎ止めていた太い糸に触る。
僕は酷く痛む頭を抱えたまま、その場から動くことが出来ない。
「や、めて……!」
糸を切られれば、僕は二度とみゆきやみなみ、皆に会えない気がした。
必死に懇願するけど、どす黒い影に包まれた手が、僕の身体に結ばれた糸を強く引き千切った。
支えのなくなった僕はゆっくりと、暗い意識の闇に落ちていく。同時に、声の主を覆っていた影が消えていく。
少しだけ癖のあるクリーム色の短髪に、高校男子にしては低めの身長。中性的な顔立ちではあるが、吊り上った藍色の瞳と端正な口元を凶悪な笑みで歪める。
『お休み、みちる』
僕と同じ姿をした「彼」は、落ちていく僕を見ながら意識の外へ登って行った。
そうか、そうだった。
全てを思い出した頃にはもう遅く、僕は意識の底へ落ちて行く。
☆★☆
桜藤祭の次の日。
朝からのバイトを終えて家で一息吐いていると、携帯が鳴り出した。
最近はつかさとデートをすることもあり、携帯をよく使うようになった。電気代が余計に掛かるのは苦しいが、可愛い恋人の為なら惜しくなかった。
「はいはい……って、あきかよ」
着信メールがつかさであることを期待していた俺だが、受信先の相手を見て一気にテンションが下がった。
実は、今日はこれからいつもの面子でみちるの見舞いに行く予定になっていた。昨日、あんなことがあったばかりだしな。
今のメールも、きっと待ち合わせに関するものだろうと予想して開く。
「えーと……」
しかし、メールの内容を見た途端ふざけている場合ではないことに気付いた。
普段なら、あきのメールは一人一人文を変えて送ってくる。俺の場合は顔文字を使っていてウザく感じる文面だ。
だが、今回はチェーンメールで知り合い全員に送っている。
そして、書かれていた内容もあきらしからぬ真面目なものだった。
〔至急、駅前の広場に集まってくれ。みちるがヤバい〕
みちるの身体は何時、うつろと所有権を争うことになってもおかしくない危険な状態だ。
まさか、昨日の今日でもう限界が来るとは思っていなかったが。
駅前には既に柊姉妹とみゆき以外、全員が揃っていた。
みゆきは東京在住だし、仕方ないけどな。
「夏以来だね、はやと君」
いつものメンバーに加えて、クリーム色の短髪を持つ爽やかな印象の男性、檜山たけひこさんもその場にいた。
たけひこさんにはみちるの従兄で、夏休みの別荘旅行では運転手役で何度か世話になった。
「たけひこさんもみちるのことを聞いて?」
「うん。というよりも、俺があき君に頼んで皆を集めて貰ったんだ」
たけひこさんは、当たり前だが別荘の時では見られない深刻そうな表情で質問に答えた。
つーか、昨日といいあきは俺達の連絡係とでも思われてるんだろうか。
「遅れてごめーん!」
「お待たせー」
そこへ、つかさとかがみが遅れてやってくる。大方、つかさの奴が準備に遅れたんだろう な。
まぁ、丁度話を始めるところだからタイミングよかったんだけど。
「実は、昨夜からうつろが出て来っ放しなんだ」
たけひこさんのカミングアウトに、この場にいた全員が驚く。危惧していたことがいきなり起こったのだから、当然だろう。
出て来っ放しってことは、まさかみちるの奴がもう取り込まれたってことはないよな?
「あ、みちるはまだ消えてないって本人から言われたから、最悪の事態にはなってないよ。危険なことに変わりはないけど……」
悲壮感漂う俺達を察して、たけひこさんは追加の情報を教えてくれた。
とりあえず、みちるがまだ生きていることに一安心だ。
本人って、うつろからか。けど、何で奴はたけひこさんにそんな連絡を寄越したんだろうか。
「これからみちるの元に行く前に、皆に話しておかなきゃいけないことがあるんだ」
たけひこさんは更に暗い表情で、本題を打ち明け始めた。
話しておかなきゃいけないことって何だろうか。
勿論、みちるが関係することなんだろうけど。
「うつろが生まれた理由を。とりあえず、場所を移そうか」
話の内容は、予想以上に重要なことだった。
☆★☆
ドアチャイムが鳴り響く。
予想通りの来客なら、丁度良い時間のご到着だ。
ドアスコープを覗き、想像通りの相手が前に立っていることを確かめてから扉を開ける。
「こんにちは」
「やぁ、よく来たね」
俺様が呼んだ相手、高良みゆきはご丁寧にフルーツバスケットを用意して見舞いに来た。昔から几帳面で何をするにも真面目な女だ。
俺様はみちるの真似をして、みゆきを中に迎え入れた。
家には、今は俺様しかいない。父親は仕事で昨日から帰ってきてないし、母親は主婦同士での集まりに行っている。どちらも、息子の異変に全く気付かずに日常を過ごしている訳だ。
そもそも、俺様の存在すら知らないのだろう。みちるが教えるはずもないし、今日もみちるのフリをして母親を送り出したところだからな。
フルーツバスケットを部屋の机に置かせ、みゆきを椅子に座らせると、俺様はベッドに腰掛けた。
「それで、今日は何の御用ですか? うつろさん」
まるで俺様には何の用もない、と言いたそうに睨みつけるみゆき。
やっぱり、下手な物真似じゃ気付かれるか。以前バレてるし、別に驚きもしないが。
ただ、誰にでも物腰を低くするみゆきが睨んで来る光景は、何度見ても似合わなくて面白い。
「一応、見舞いなんだろ? あ、林檎くれよ」
不愉快そうな表情のみゆきから林檎を奪い取って喰う。ククッ、やっぱり他人の不幸は蜜の味ってなぁ。
ベッドに踏ん反り返って林檎を貪る俺様の姿は、みゆきにとってはみちるが行儀悪くしているだけにしか見えない。
みゆきの中のみちるはそんなことをしないだろうから、余計に俺様への苛立ちを募らせてるんだろうな。
「用がないのなら、みちるさんと替わってください。でなければ、帰ります」
「待てよ、そう慌てるな」
みゆきが立ち上がろうとするのを、俺様は制止する。
用があるから呼んだのに、俺様への怒りでせっかちになってるな。もっと賢い女だと思ってたが。
「みちるは昨日からおねんね中だから、替わるに替われないしな」
そんなみちる君大好きなみゆきに、俺様は真実を教えてやった。
すると、ムスッとしてた表情が忽ち悲劇を受けた顔に早代わりだ。
「ま、完璧に俺様が主導権を握ってる訳じゃないから、そこは安心しとけよ」
面白いものを見せてもらったので、補足情報も付け加えるとみゆきは若干落ち着きを取り戻した様子だった。
ハハッ、他人の不幸で林檎が美味いぜ。
「さて、俺様がお前を呼んだ理由はあることを教えてやろうと思ったからだ」
親切な俺様はみゆきにもう1つ、あることを教えてやろうと考えていた。
きっとこの話を聞けば、みゆきはみちるへの幼い愛を消すことになるからだ。
そうなれば、この身体は晴れて俺様のものとなる。檜山グループの次期総裁、檜山うつろの誕生だな。
「何を、ですか?」
落ち着きを取り戻したみゆきは、警戒を怠らずに俺様へ尋ねる。
話だけなんだから、そんなに警戒しなくても良いのにな。
「俺様が誕生した理由、そしてお前が知らないみちるの過去だよ」
俺が答えた内容に、みゆきはハッと気付いた。
そう、俺様はみちるがみゆき達と過ごした幼少期には存在しなかった。
俺様がみちるの裏人格として完成したのは、みゆき達と別れた後、中学生の時だ。
大事な幼馴染のみゆきは、みちるの全てを知った気でいたんだろうなぁ。容姿、性格、才能のどれもが完璧の超人で通してるのに、好きな男のこととなると自惚れを発動してんだから傑作だぜ。
「どうだ? 聞きたくないなら帰っても良いぜ?」
「……いえ、聞かせてください」
林檎の芯を捨てながら尋ねると、今にも帰りそうだったみゆきは椅子に座り直して俺様の話に耳を傾けた。
そうだ、それでいい。俺様はそう思いながら、みちる自身ですら忘れてしまった過去を手繰り寄せていった。
あれは、みちるがみゆき達の元から引っ越してから1年後のことだ。
引っ越した先で、みちるは中学に進学した。当然、引っ越したばかりで友人なんているはずもなく、始めの内は教室内で浮いていた。
無理もない。仲のよい友人がいないだけでなく、容姿端麗で文武両道、おまけに金持ちのお坊ちゃんとくれば、庶民共はどう対応をすれば良いものか分からなくなる。
それでも、みちるはめげなかった。2人の幼馴染が心の支えになっていたからだ。
「みゆき、みなみ。元気にしてるかな? 僕は今日も変わらない日々を送っているよ」
1人でいる寂しさは、家でみゆき達と写っている写真に話しかけることで紛らわせていた。
引っ越した先でも、みちるは幼馴染との関係を断ち切れず、ズルズルと引き摺っていたんだな。
だが、みちるは生来の性格の良さからすぐに友達を作ろうとした。
それが、浮いていた自分の首をますます絞めることになるとは気付かずに。
一月も経てば、みちるには話し相手のようなものが出来ていた。
一見、仲の良さそうな男子の集団。その中に、みちるが入れてもらったような形だ。
しかし、それも最初だけ。新しいみちるの友人は簡単な要求からみちるに押し付けていった。
「檜山、悪いけどジュース買って来てくんない?」
「檜山ン家、金持ちだよな? 悪いけど、今日は奢って」
どう考えてもパシられてるだけにしか見えないが、みちるは話し相手が出来た嬉しさと、甘すぎる性格から、男子達の言うことを素直に聞いていた。
気弱で金持ちなパシリは、次にどんな目にあったのか。
当然のように、いじめやサンドバッグだ。
みちるの容姿や性格は、この時から女子からの注目の的だった。鈍感すぎる本人は全く気付かなかったけど。
そこで気に喰わないのが、モテない男子連中だ。普段パシッてる奴が女子の人気を掻っ攫っている現実に腹を立てていた。
「ひーやーまー。ちょっといいか?」
「え? うん……」
男子達はみちるを校舎裏に呼び出す。
この時ばかりは不穏な空気を感じたが、友人と思っている連中の頼みをみちるは断れなかった。
「最近さぁ、お前調子乗ってるんじゃね?」
校舎裏に呼び出されたみちるは、気付けば男子連中に囲まれ、逃げ場をなくしていた。
ブーメラン発言みたいな絡まれ方に、みちるは困惑する。
「べ、別に調子に乗ってなんか」
「うっせぇよ!」
否定しようと口を開けば、主犯格に腹を殴られる。
次いで、取り囲んでいた奴等からも蹴りを受け、みちるはその場に倒れこむ。
綺麗な髪を土で汚しながら、苦痛と恐怖に顔を歪ませる。
「ご、ごめん……」
しかし、みちるは抵抗しなかった。抵抗して争えば、折角出来た友人が離れていくと考えたからだ。
そんな甘い考えのみちるが相手だからこそ、いじめは増徴していった。
2学期になる頃には、鞄持ちや宿題を押し付けるなんてしょぼいことから、カツアゲや理由のない集団暴行まで、いじめグループは幅広く手を出して来た。
みちるは決して抵抗をしないと分かると、遊び半分でいじめに加担するクラスメートは数を増やし、みちる自身の居場所は学校になくなっていた。
いじめに参加しない生徒も、関わりたくないからみちるの味方をすることもない。教師ですら、だんまりを決め込んで役に立たない。
「……ただいまっ」
「お帰りなさい、みちる」
だが、みちるの心は折れなかった。
家ではまるでいじめなんて有り得ないと言わんばかりに、今まで通り明るく振舞った。
仕事で忙しい父親や温和な母親を心配させたくない。自分の所為で学校やクラスに迷惑をかけたくない。その一心で、優しすぎたみちるは辛いことを1人で抱え込んでいた。
「ふぅ……」
自室に戻ると、漸く溜息を吐く。
自分の部屋がみちるに残された唯一の居場所だった。
鞄を下ろして椅子に腰掛ければ、飾ってある幼馴染との写真が主を出迎える。
辛いことなど何もなく、屈託のない笑顔を見せるあの頃の自分。そして、自分に優しくしてくれた幼馴染。
「みちる」という名前は、満ち足りた人生を歩めるようにという願いを込めて付けられたもの。
写真に写っている自分達こそ、名前に相応しく満ち足りた生活を送る者達だった。
「やぁ、みゆき、みなみ。今日は皆にパンを買って来いって言われてね……」
みちるは写真の中の幼馴染に今日の出来事を打ち明けた。
誰もいないここでなら、みちるは自分の辛さを吐き出すことが出来る。
何時の日か、またこんな楽しい日常を送れるようになる。
幼馴染との楽しい思い出が、みちるを決して諦めさせなかった。
「僕なら大丈夫。大丈夫だから……」
最も、それはあまりに脆くて儚すぎる希望だったが。
既に、純潔だったみちるの中には黒い感情が芽生え始めていた。
怒りや憎しみ、恨み、哀しみ。しかし、満ち足りた存在のみちるには無用のものだった。
だから、気付かなかった。行き場を失った黒い感情は、やがて別の人格を形成するほど捻じ曲がっていたことに。
事件が起きたのは12月。
いつも通り登校すれば、落書きされた机に画鋲を貼られた椅子。
こんなものは日常茶飯事だ。今更動じることはない。
「……おはよう」
みちるは挨拶し、画鋲を剥がしてから椅子に座る。
当然、周囲はみちるのことを気にしない。唯一寄って来るのは、いつものいじめグループ。
「よぉ、檜山。最近寒くなってきたよな」
「そうだね……」
連中はごく他愛のない言葉から始めてくる。まるで友達ごっこを楽しむかのように。
しかし、大抵の用件はパシリかカツアゲだ。奴等にとって、みちるは自動販売機やATMのようなものなのだろう。
「つー訳で、ホットコーヒー頼むわ」
「俺、微糖な」
「……はい」
次から次に要求が飛んできても、みちるはただ頷くだけ。
今日は使いっ走りなだけマシだ。コーヒーを買ってくれば、何もされないのだから。
財布を持ち、みちるは本物の自動販売機まで走って行った。すぐに戻ってこなければ、文句を言われて殴られる。
そんな満たされない日常にみちるは慣れてしまったが、代わりに黒い感情が内側に溜まっていき、限界に近くなっていた。
授業後の休み時間。
連中に絡まれる前に、みちるはトイレの個室に篭った。
でなければ、安心して写真を見ることが出来ないからだ。
みちるにとって希望の象徴である幼馴染の写真を学校に持ってくる程、みちるは疲弊していた。
「こんな場所でごめん……もっとしっかりしないと、だよね」
みちるは写真に微笑む。
変わらぬ笑顔を向ける幼馴染達に、みちるは会いたくて溜まらなくなっていた。
「みゆき……」
特に、ピンクの髪のおっとりした美少女をみちるは渇望していた。
みゆきは、みちるにとって幼馴染であると同時に、初恋の相手だったからだ。
容姿端麗で博学、性格もまるで姉のように頼り甲斐があって母のように安らぎを与えてくれる。
だが、みちるは幼馴染という近過ぎる距離と、自分への自信のなさから、想いを閉じ込めていた。
結局、恋心を告げることもなく引っ越してしまったが、離れてから想いは募る一方だった。
勿論、みゆきもみちるを恋い慕っていたことは全く気付いてなかったが。
「もっと強く」
みちるは写真を眺めるあまり、トイレに誰かが入ってきたことに気付かなかった。
次の瞬間、上からバケツ一杯分の水をぶっ掛けられるまでは。
水を掛けた人間はすぐに逃げた所為で、誰だったのかは分からない。
しかし、みちるにとって誰が犯人かはどうでも良かった。
頭から水を被り、全身びしょ濡れになったみちるは物言わぬまま動かなかった。
視線の先に映っていたのは、同じく水を掛けられて濡れた写真。
みちるのたった1つだけの希望すら、汚されてしまった。
どうして自分がこんな目に合わなければならないのか。
自分は満たされた存在になるんじゃなかったのか。
みちるは大粒の涙を流しながら、自問自答を繰り返す。
今、ここで惨めにずぶ濡れで座り込んでいるのは一体誰なのか?
満ち足りた自分ではない、別の存在。
そう、コレは「檜山みちる」ではない。
そこで、みちるの意識は暗転した。
ドス黒い感情が目を覚ます。
手に持った写真の水分をハンカチで拭き取ると、制服の内ポケットに仕舞う。
そして、ずぶ濡れの自分には手を付けぬまま教室に戻っていった。
「ぷっははは! 檜山、何だそりゃ!」
「だっさ!」
教室に入ると、ウザい連中が腹を抱えて笑い出す。
コイツ等の内、誰かがやったのは目に見えていた。だから証拠も要らない。
一言も答えぬまま、「俺様」は口元を大きく歪ませて笑った。
「オイ、何か言ぶっ!?」
数瞬後には、すぐ近くにいた奴の間抜けな顔面を殴り付けていた。
何か言おうとしていたが、聞く価値は皆無なので別にいい。
殴られた男子は鼻血を噴き出し、後ろの机をいくつも巻き込みながら吹っ飛んだ。
突然の出来事に対し、嘲笑に包まれていた教室は打って変わって静かになった。
グループ連中は始めこそ呆然としていたが、急に逆らいだしたパシリに激怒し出す。
「檜山! テメー!」
「あ?」
怒号を浴びせてくるリーダー格を、俺様は一睨みで黙らせた。
煩い犬ほどよく吠えるとはよく言うもんだ。
「お前、本当にあの檜山なのか……?」
リーダー格の後ろでは、小物共がバカみたいにビビっていた。
へぇ、一応物の分別は付くようだな。
俺様は高笑いしながら、傍にあった椅子を持ち上げて、そのまま隅で震えているクラスの連中に投げ付けてやった。
椅子が当たった不運な奴は苦痛に倒れ伏し、女子達の煩い悲鳴があがる。
「ご名答、みちるなら消えたよ」
騒動に慌てるクラスメートには目も暮れず、俺様はいじめグループに答えてやる。
遂に絶望に押し潰されそうになったみちるに代わり、新しく誕生した「負の感情の塊」が表に出て来たのだ。
満ち足りた存在のみちるには不要な、怒りも欲望も絶望も全てを引き継いだ「存在しない空虚の存在」。
「だから、今の俺様は「うつろ」だ」
この俺様、檜山うつろが生まれてしまった。
俺様は手始めに、不愉快なクラスメートを粛清することにした。
特に、目の前のゴミ共は俺様の新たな居場所に必要ない。
俺様は掃除用具の入ったロッカーから、柄の部分しかない箒を取り出す。
「檜山の癖に!」
「はぁ、何勘違いしてんだ? 文武両道のみちる君が、本来お前等のようなゴミに一歩でも劣る訳ねーだろ」
喧嘩が苦手なのは確かだが、元々争う気が更々なかったのだ。そんなみちるに調子扱いて、コイツ等は勝手に上に立った気分でいただけだ。
だが、俺様はみちるのように甘くはない。ゴミの掃除は徹底的にやらないとな。
「俺様直々の掃除だ。ありがたく思え」
俺様は箒の柄を両手で持つと、ビリヤードのように勢いよく、リーダー格の隣にいた男子の胸を突いた。
まるで心臓を槍で刺されるかのような衝撃に、突かれた男子は口から泡を吐いて崩れ落ちた。
既に2人があっという間にやられたことと、今まで気弱だったみちるの大きすぎる変貌に、いじめていた奴等はすっかり恐怖に震えていた。
まぁ、今更怯えてもゴミはゴミ。消すことに変わりはないけどな。
「ほれ」
俺様は箒の柄をリーダー格に投げ渡す。
俺様が攻撃を仕掛けたのと勘違いし、慌てて避ける。だっせー、ビビッてやんの。
そんな腰抜けを、俺様は隙だらけの内に横っ面を殴り付けた。
2発、3発と殴り続けると、男は吹っ飛び倒れ込む。
「終わり? つまんねぇなっ!」
これで終わりではないことぐらい、俺様も分かっていた。
奴は倒れこんだ隙に、俺様が投げ落とした箒の柄を掴もうとしたのだ。
そんな真似を俺様が許す訳もなく、横腹を蹴り飛ばした。
サッカーボールのように強く、何度も、何度も。男が血を吐き出しても、俺は辞めようととしなかった。
あまりの惨状に周囲は目を覆い、女子は泣き崩れる。
どうしてこうなったのか。それは、お前等が全て招いたことの結果だ。
「オイ、辞めろって……」
いじめグループの生き残りが小さく声を掛ける。
この状況で声を出すなんて、良い度胸をしているな。
が、俺様は別に辞める理由はない。下にいるコイツが死んでも、俺は気にしなかった。
「何で? 君達は「僕」が辞めてって言っても辞めてくれなかったよね。皆で「僕」を蹴って、笑ってたよね。だから、今「僕」が彼を蹴り続けてもいいよね?」
俺様はみちるの真似をしてソイツに答える。すると、急に罪悪感を感じ出したのか、周囲はまた黙り込んだ。
大体はそんなものだ。周りにいる人間は、空気に流されて自分がやっていることの意味を考えようともしない。
指摘されて、取り返しが付かなくなってから漸く気付く。
だから謝罪の言葉に意味なんてない。俺様は怒りと恨みの感情だけでコイツ等を痛め付ける。
「で、何? コレの次はお前が遊んでくれるの?」
俺様は虫の息になった男の頭を踏み付け、口答えした奴に笑顔で話しかける。
すると、ソイツの表情は俺様とは対照的に恐怖で引き攣っていた。あぁ、恐怖政治って最高だな。恐怖という強い感情で人を縛り、支配する。
勿論、恐怖政治には見せしめが必要だ。
「もうよせ、檜山……」
「みちるはいない。お前等が殺したんだろ?」
後悔なら地獄でたっぷりするんだな。
俺は怯えるチキン野郎の首根っこを掴んだ。
「……あ?」
その時、予想外のことが起こった。
首根っこを掴んだ俺様の右手首を、左手が痙攣しながら掴む。
まるで左手に意思が宿っているかのように。
「フン、終わりか」
俺様は左手を無理矢理どかし、首根っこを掴まれた奴を床に叩き伏せる。
顔面から行ったので、ボキッという音は鼻でも折れたのだろう。
そして、ややフラつきながら俺様はクラスの連中の元に向かった。
「お前等よかったな。みちるが戻ってくるぞ」
みちるが戻ってくる。それは悪夢の終わりを意味しており、クラスメート達は歓喜の笑みを取り戻していく。
全く、おめでたい奴等だ。
「だが、これで終わりじゃねぇぞ。俺様がまた出るかはお前等次第だ。俺様は何時でも、中からお前等を見ているぞ」
俺様の忠告通り、みちるへのいじめが続くようなら俺様は再び現れる。
クラスの連中は改めて惨状を眺める。荒れた教室内で、複数の男子生徒が血を流して倒れている。グループのリーダー格に至っては、吐血しながら気絶している。
もし、俺がもう一度ここに現れたら、次は誰が犠牲になるか。
「精々、みちるを怒らせないよう気を付け……るんだ……な……」
最後の忠告と共に俺様の身体は倒れ、意識は内側へと吸い込まれていった。
それから間もなく、再び身体は起き上がる。
周囲は一層警戒を強め、女子は悲鳴を上げる。
「……え? これは、どうしたの……?」
だが、身体の中身はみちるだった。
しかも、俺様が出ていた時の記憶全てと、今までの辛かったいじめの記憶を失くしていた。
結局、みちるには俺様のことは伏せられることになった。
仮に俺様のことを、気弱で優しすぎるみちるに教えれば、大きなショックを受けるだろう。それでまた俺様が出てくれば、本末転倒だ。その判断は正しかったな。
負傷した連中も、俺様がトラウマになった所為でみちるにも近付かないようになり、最終的に何人かが転校していった。
こうして、残りの中学校時代をみちるは有意義に過ごし、陵桜まで俺様が出て来ることはなかった。
「つまり、俺様はみちるに負の感情を押し付けられて生まれた存在って訳だ」
俺様の愉快な過去語りを聞いたみゆきは、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
俺様はみちるの影。だが、生み出した影が広がりすぎて、本物を食い尽くそうとしている。何とも皮肉な話だ。
「ま、それももうすぐ終わる。俺が新しい「みちる」になるからな」
もうすぐ、身体の所有権を争うことになる。
俺様という存在を盾に逃げ込んだ奴が、俺様に勝てる訳がない。
「分かったか? お前が慕っていたみちるは、辛いことを誰かに押し付ける卑怯で弱虫だってことがなぁ!」
恋心を抱いていた人物の醜態に絶望するみゆきの前で、俺は勝利を確信し高笑いした。
俺様が「みちる」になるまで、あと少し。
どうも、雲色の銀です。
第21話、ご覧頂きありがとうございました。
今回はうつろ誕生の瞬間でした。
なので、いつも以上にダークな内容になってます。
うつろみたいな鬼畜が、何故みちるの中にいたのか。それは、一度心を壊されていたからなんですね。
因みに、今回出て来たみちる達の写真は1st Seasonの第4話に出て来たものと同じものです。
次回は、みちるとうつろの決着です!