ソロモンが目を覚ましてから数日、相変わらずジェイルの許で暇を潰していた。膨大な魔力と魔眼によるソロモンの知覚範囲はほぼ無限に近い。あるのならば、ソロモン王は総てを見渡す事ができる。どこであろうと、ソロモンにとっては関係ないのだから。
「それにしても、現代も中々物騒な輩の多い事だ。戦人は消え、無法者が増えた。些末な事ではあるがな」
ソロモンは自室で外の世界の様子を見ていた。そして目の前にあるパンを口にしながらため息を吐く。遥か昔を知っている身としては、今の世界はあまりにも酷すぎた。食事を持ってきたウーノはそんなソロモンの様子を見ながら、声をかけた。
「ソロモン王のお気には召しませんでしたか?」
「そんな事はないとも。我が……いや、帝国の臣民たちは変わらず穏やかな毎日を過ごしている。俺のなし得なかった事を、我が後継たちが果たしたと言うのなら否やはないさ。そうでなくとも、俺には関わりのない場所で起こっている事に一々怒るほど俺は正義漢ではない」
「王は……今生で何かしたい事でもあられるのですか?」
「うん?」
「絶対にして無双なる王。世界の果てを見た王。この世の総てを知り尽くした賢者と称されるあなたは、この世界に何を求められるのですか?」
「……初めて見た時はそうでもないと思ったが、どうも俺の眼は節穴だったらしいな。確かに、貴様はジェイルの血縁だ。そんな事を態々訊いて、俺の怒りを買う事になるとは思わなかったのか?」
「思いません。少なくとも賢者とまで呼ばれるほど聡明な方が、この程度の質問でお怒りになられるとは思いませんから」
「賢者と暴君は別物ではない。総てを知る者が暴君にならない訳ではない。総てを知るという事は、貴様が思っているよりもずっと持ち主を荒れさせる。何せそれ以上、賢者が知る事のできる事はなくなってしまうのだからな。しかし、俺のやりたい事か……少なくとも今はないな」
ソロモンにとって、現代は楽しい物ではあるが興味をそそられる訳ではない。娯楽は昔よりもずっと増えた。文化が発展した事でより良い生活を人々に提供できるようになった。恩恵は多く、今を生きる人々を幸せにした。だが、その為に生まれてしまった堕落がソロモンにとっては度し難い。
その昔、ソロモンが王と呼ばれていた事は足りない物があまりにも多かった。誰しもが各々の役割を担い、不要な人間という存在はいなかった。分かりやすく言えば、持て余している人間などいなかったのだ。誰しもが何かしらの形で国に貢献してきたのだ。何かしらの形で貢献する事ができたのだ。
「俺は最早王ではない。誰かを導く必要などどこにもない。そんな俺がしたい事など何もないさ。逆に訊くが、お前は何かしたい事でもあるのか?」
「……いいえ、私には特に。ただ、妹たちが幸せであれば良いと私は思います」
「自身の幸せよりも他者の幸せを願う、か……今の時代では珍しい考え方なのかもしれんな。しかし、それで良いんだろう。多くの人間がいるのだ。そういう人間がいても良いだろう」
「……王はご自分の子孫に会いたいとは思われないのですか?」
「うん?」
「御身は古代ベルカにおいて最強と謳われた王です。敬い掲げるべき王でございます。そして今、御身の子孫たちがこの世にはございます。その者たちに会いたいとは思われないのですか?」
「ないな」
「それは何故?」
「今代のデストラクターにも言ったがな。俺はソロモンであって、ソロモン・アクィナスではない。ならば、あの者たちと俺は無関係だ。俺が残した血統、その末裔たち。だが、そんな肩書に何の意味がある?富も名誉も栄光も俺には不要な物だ。今の俺が欲している物があるとすれば、それは自由だろうさ」
「自由、ですか?」
「そうだ。人は何かに縛られる生き物だ。組織に、家族に、友に、仲間に、女に、子供に……何かの縁がなければ人は生きていけない。だが、既に死人である俺にはそんな物はない。精々、流れるまま気の向くままに進んでいくだけの事さ」
「……羨ましい事ですね」
「羨ましい?俺がか?」
「ええ。あなたは凡そ、この世界に生きる総ての人間が求める物を持っておられる。魔王としての名声、帝国の初代王故の富、そして選定者に選ばれたが故の力……生きていれば欲しいと思えるだけの物を持っているし、用意する事ができる。そんなあなたが、何もいらないと仰る。その事が羨ましいのです」
「違うな。お前はそんな物が羨ましいと思っているのではない」
「何を……!?」
ソロモンは顔を後ろにいるウーノに向けた。その瞳は燦爛と輝く水面の色をしており、その神秘さにウーノは言葉を失った。ソロモン王という存在が文献では測れない存在であるという事も理解できなかった。だが、ソロモンの言う事を理解はしきれていなかった。
「お前は富や名声が欲しい訳じゃない。ただ、管理局に縛られる現状が嫌なだけだろう?まぁ、あの連中がやっている事のせいで自分も妹も犯罪者にされてしまっている訳だからな。自作自演にも程があるだろうが、連中はこれで正義を保てていると思っているのだから笑えてくる」
「では、どうすれば良いのですか?」
「さあな。俺に頼れば極点攻撃で連中を抹殺する事など容易い。だが、それが正しい事なのかどうかは今の俺には分からん。昔であれば、王である俺のする事なのだからそれが正義だ、と言い張れたんだがな。今の俺は王ではない。そんな事を堂々と宣う事はできんよ」
国にとって、王という存在こそが絶対の正義だ。特にソロモン王は周辺国を併合した上で世界の覇権にその身を投じて勝利してきた王だ。戦乱の世において、基本的に勝者の行う事は正義である。だからこそ、ソロモンも自分の政策に対して一々悩むような事はしなかった。臣下たちもソロモン王の行う事に間違いはないと信じきっていた。正義とか悪とか、そういう次元の話ではなくなっていたのだ。
「正義と勝利は不可分な物だ。分かるか?勝利するからこそ正義なのだ。正義を謳うなら勝たなければならない。勝てなければそれはただの戯言だ。たとえそれがどれだけ人の倫理や道徳から外れていようと、勝てなければ何の意味もない。何の価値もない。敗者の言葉には善悪を語る価値すらないのだ」
勝者こそが絶対。正義か悪かを語れるのは戦う前か、勝者にのみ許される。敗者の言葉など、誰の心にも響きはしない。強者でもなく、弱者でもなく、勝者にのみ許された特権なのだ。正義という言葉は。だからこそ、その言葉には価値があり、その大義には人の心が揺り動かされるのだ。
「では、私たちはどうすれば良いと言うのですか!勝つ事など望むべくもない我々は、一体どうすれば……」
「単純だ。勝てるようにすれば良い。戦力を集め、管理局どもをひねり潰すほどの力を求めれば良い。その為なら何をしても構わんのだ。勝てば官軍負ければ賊軍なる言葉があるそうだが、まさしくそれだ。勝利するための行動ならば、いかなる事をしても許される。実際、連中はそうしているだろう?」
ソロモンにも使用された技術を用い、クローン体を生み出した上で局員に救助させる事で戦力としている。犯罪者を捕らえ、贖罪と称して戦力としている。どちらも違いはあれど、結局は誰かを自分たちの戦力としている事には変わりがない。他人から見れば、正義などどこにもない。それどころか、下種の極みとすら言えるだろう。
しかし、彼らからすればそれが正義なのだ。そしてそれをソロモンは否定しない。何故なら、彼らは勝者だから。世界に自分の正義を唱える資格があるのだから。そんな相手を態々否定しようと思うほど、ソロモンは酔狂ではない。
「裏切りは不名誉な事だが、調略は立派な作戦だ。この二つの違いが分かるか?勝ったか、そうでないかだ。やっている事はどちらも同じだ。正攻法どころか汚い手を使っている。だが、勝てばそれが正義なのだ。聖王のゆりかごとて同じ事だ。勝てば、それが正義となるのだ。まぁ、俺には勝てなかったがな!」
ソロモンだけはこの世で唯一、絶対の正義として君臨できる。何故なら、彼は負けなかったのだ。その生涯の中で、彼はいかなる存在にも敗れる事はなかった。使えば世界を一つ壊す事ができるという
勝者こそが絶対という理念に従えば、ソロモンこそが絶対の存在だ。事実、帝国においてはソロモンという存在は絶対の存在として扱われている。彼らはソロモンが一声かければ、ソロモンの戦力となるために馳せ参じるだろう。それは今ソロモンたちの許に集っている天剣保持者や魔導騎士を見ればよく分かる。
「俺は確かに世界から見れば絶対の勝者だ。
勝者として、ソロモンは己の正義を行使しない道を選んだ。王であったソロモン・アクィナスではなく、ただの一個人であるソロモンとして生きていく。それこそが、ソロモンの選んだ決断である。その道を阻む事はどこの誰であろうとも許されない。
「殿下……」
「勝つ事を願うのなら、躊躇ってはいけない。迷ってはいけない。自らの自由を謳いたいのなら、まずはその籠から出なければ話にならん。抗い、拒み、打ち克て。さすれば、道はおのずと開かれるであろうよ」
そう言うと、ソロモンは立ち上がった。食事は綺麗に片付けられており、ウーノは何時のまにと思った。実際、いつ食事を終えたのかウーノには分からなかった。実際は音もたてずにソロモンが一切会話の邪魔とならないように食べていただけなのだが。
「悩めよ、若人。家族のために抗おうとするお前は正しい。だが、その為に必要な力がお前にはない。であれば、どうするべきか……家族と相談しながら探していくが良い。お前の時間はまだまだあるのだからな」
「……はい。ありがとうございます、殿下」
「ハハハッ、止せ止せ。年寄りのお節介という奴だからな。礼など不要だ。お前が自分の望む道を進めるように願っているよ」
そう告げると、ソロモンは傍に置いてあった通帳とカードを取り出した。それは限度無制限のブラックカードであり、その昔ジェイルが思いつきで作り上げた物である。他にも似たようなカードが何枚もあり、その内の一枚をソロモンは保有していた。しかし、この基地にいる間はほぼ無用の長物だった。
「それではちょっと出かけてくるから、騎士どもとジェイルにうまい言い訳を考えておいてくれ」
「なっ、ちょっと殿下!?」
「任せたぞー」
そんな間の抜けた声と共に、ソロモンの姿が消えた。人間とは常軌を逸するほどの魔力量を保有するソロモンだが、その技量は決して並の術者とは隔絶した領域に立っている。まるでその存在が夢か幻であったかのようにソロモンの姿は消えていた。一切の魔力残滓を残さず、魔法に使う魔力を制御してみせたのだ。
「……殿下、恨みますからね」
しかし、ウーノにとってそんな事はどうでもよく。外から聞こえてくる足音に対してどう言い訳をしたら良い物か考え込むのだった。