私は戦っていました。
ここは国立のある大学のその近く、徒歩数分程の場所に位置する築37年のアパート、『聡明荘』。その203号室、つまりは私の部屋というわけです。
六畳一間の狭い室内、その中で異質な空気を放つ私は、足元をただじぃっと見つめていました。
私は蓼 舟瑛。近くのアルバイトをしながら大学に通うどこにでもいる一般人です。普通では無いのは、この恥ずかしい名前だけです。おのれ父さん。なんだか思い出しているとあの間抜け面を粉砕したくなってきましたね。今度実家に帰省するときは思いきってレンチをお土産にしましょうか。冥土の。
おや、こんな事を考えている場合ではありません。私は今、苛烈な心理戦を繰り広げているのです。そこに第三者の介入する余地は無いのです。
私の目線から見て1メートル程の位置に、奴はその凶悪な風貌、かつて数えきれぬ程の人々を恐怖させた、台所の黒きハンター。
そう、それは
『G』
カサカサカサカサカサカサッ
「………っ!?」
奴等がもっとも得意とする沈黙からの飛翔攻撃。私が少しでも気を抜いていたら、恐らく一撃で勝負はついていた。そう思わせる程のスピードで奴は私の頬を掠めていきました。
「…………なっ」
素早く目だけを動かした私は、凄まじい反射神経で流し台の方に前方回転で回避行動をとります。
目視は出来ませんが、恐らく私が今まで立っていた場所には今、奴が佇んでいるはずです。真に恐ろしきは全昆虫中最速と言われるそのスピードでしょう。しかし、私とてただ逃げているわけではありません。
台所、とは言っても古ぼけた流しと棚しかありませんが、そこに逃げたのは、2つの理由があります。
まず、ただ単に逃げやすかったということ。そしてもうひとつ。
ここ、台所にはアレが常備されているのです。そう、『瞬間抹殺ゴキコロリンEX・ロングレンジモデル ※犬も殺せるハイジェットver.』が。
「………ふっ」
飛翔体制に入る奴を見、私はほくそ笑みます。馬鹿め。すぐに塵芥と化すというのに。
かつて数々の主婦の心に深い傷を刻んできたとはいえ、所詮は虫。至近距離であれば犬の頭蓋をも吹き飛ばす威力の風圧でその身吹き飛ばして差し上げましょう!
「…………?」
両手に最強の兵器を構えた私は首をかしげました。奴は先程までの直線最短飛行ではなく、床付近を滑空し、斜め下から突っ込んで来ました。
「さらばです!」
そう告げ、勢いよくその凶悪なる粉末を高速で解き放ちます。
目の前に現れた、黒い影に。
次の瞬間、私は何があったのか理解できませんでした。
手の内から消え失せた二本の兵器が畳へと到達した音で全てを理解しました。
目の前で四散するのは、黒いビニール。そう、奴はフェイクを使ったのです。仕留めたと思い手の緩んだ一瞬、その一瞬の間に、私の手から奪い取ったのです。自らを仕留められる唯一の武器を。
「………!」
それを取ろうと手を延ばした瞬間、脇腹に鈍い衝撃が走りました。
そんな。まさか。
奴のトップスピードのタックルがめり込み、想像を絶する痛みと衝撃でそのまま地面に倒れてしまった私を見、歓喜するように走り回るG。
八方塞がりです。奴を倒せる唯一の武器は奴の向こう側。それに痛みで立てそうにもありません。
もう、どうしたら…………
「おーいシュウ、遊びに来てやったぞー」
ぷち
「………………………………………」
「あ? どうかしたか?」
絶句。言葉にならないとはまさにこの事でしょう。私は意外な決着に目を見開きました。
玄関にて奴にトドメをさした勇気あるヒーローは、私の高校生の頃からの親友。同級生の鳩場 誠一郎その人でした。
「鳩場君、君は何て勇気ある人物なんだ」
「だから何の話だよ」
知らぬが仏、気づいていないようなので、結局何も見なかった事にしました。