「ただいまー」
「おかえりなさい、志乃」
娘が帰ってくる気配を察していたのか、松陽が玄関先で待ち構えていた。そして予想通り、キツく抱きしめられる。
「……?」
しかし、彼女を抱きしめた松陽は、その着流しに妙な匂いがするのに気がついた。あの愛しい匂いに加えて、異質な匂い。
何かあったのか。松陽は志乃の目の前にしゃがんだ。
「志乃、何かあったのですか?」
「え……」
突然問われ、志乃はポカンと父を見つめる。
どうしてわかるのか。父には浮世離れした何かを感じていた志乃だが、驚きのあまり、何も言えなかった。
彼女の様子を見て、松陽は溜息を吐く。
「……やはりそうですか。詳しく話しなさい」
真っ直ぐ見上げてくる父の目は、今まで見たことのない色をしていた。志乃はただ、頷くことしかできなかった。
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「天人が?」
「うん。弱かったから、私が全員倒したけど」
「……………………そうですか」
事情を聞いた松陽は、俯いて黙り込む。どうしたのか、と首を傾げた志乃は父の顔を覗こうとしたが、次にはいつもの笑顔を向けられた。
「…………怪我はありませんか?」
「平気。大丈夫」
「なら、良かった」
優しく微笑み、頭を撫でられる。
松陽が口を閉ざした理由。それを知る術を、志乃は持たなかった。
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それから数日。特に変わった事もなく、毎日が過ぎていった。
ところがある日突然、松陽が志乃を呼び出し、衝撃の決断を告げた。
「松下村塾を閉校する!?本気なの父さん!?」
「ええ。江戸へ上京して、そこで暮らそうかと。もう明日には出発する予定です」
あまりにも唐突すぎて、志乃は開いた口が塞がらない。
ちょっと待て、いくらなんでも急すぎやしないか。志乃は反論を試みようとしたが、父のことだから、自分の意見を丸め込む正論が返ってくるに違いない。
松陽はにこ、と微笑んで、さらに言う。
「荷物も最小限に留めてくださいね。もうここへは当分戻らないと思いますが……」
「……どうしたの?父さん」
「?」
どうも、怪しくてならなかった。最近の父も、今こんなことを言う父も。
もちろん、誰かが吉田松陽に変装しているわけではない。目の前にいるのは正真正銘、吉田松陽本人だ。
だからこそ、不審に思える。何かを隠していると。
その聡明とも言える察知能力は銀狼の血より来るものだと、志乃は知らない。
「最近……というか、私が天人を倒したってとこら辺からおかしいよ。私に何か隠してるの?……や、父さんのことだから、大丈夫だとは思うけど……」
「……志乃」
「でも、やっぱりおかしいよ。ねえ、教えて?」
念を押して、松陽を真っ直ぐ見つめ返す。松陽もしばらく黙って娘を見ていたが、嘆息して微笑んだ。
「やれやれ。貴女
「達?」
「貴女と、私の妻のことです」
「……私と、母さん?」
「ええ」と、松陽は頷く。父から秘密を聞き出そうとしたはずが、話をすり替えられているような気がする。少しムッとして、松陽に詰め寄る。
「それが今何の関係が……」
「ありますよ。貴女にとって、とても大切な事です。……本当は、こんな日が来てほしくないと願っていたのですが」
「……え?」
いきなり何を言っているのだ。わけがわからなくて、少し怖くなる。
松陽は動揺する志乃の心中を察しつつ、口を開いた。
「……貴女の母、吉田澪は元々、とある戦闘集団の一員でした。彼女は代々、人を殺すことを生業としてきた……銀狼の一族なのです」
「……銀狼……?」
「ええ。ですから貴女にも、少なからず人斬りの血が流れている。……澪はずっと心配していました。自身の血のせいで、貴女に悲しい生き方をさせることになるのではと……」
父から初めて聞いた、母の話。それよりも、自分の母が人殺しだったということに驚いた。
「それに加え、私の血も受け継ぐ貴女です。……銀時達にも話していなかったのですが、貴女だけには真実を話しましょう」
貴女に残酷な運命を背負わせてしまう無力な父を、どうか許してくださいね。
松陽はポツリと呟いて、いつになく真剣な目で娘を見つめた。
「私はかつて、暗殺組織天照院奈落の頭領を務めていました。吉田松陽は仮の名で、私の本当の名は虚というのです」
「……………………!?」
「……端的に言ってしまえば、貴女は人殺し夫婦の間に生まれた娘なのです」
「…………えっ?」
衝撃が強過ぎて、言葉が出ない。
私は、人殺しの子供。いつも穏やかで笑顔の優しい父が、娘である自分を溺愛して止まない父が、人殺しだったなんて。
「私達は自身の運命に抗おうと、共に自分自身と戦ってきました。そしてこの松下村塾を開いた……奪うことしかしてこなかったこの手で、何かを与えたかったのです。そして生まれてきた貴女に、深い愛を与えたかった……」
目を見開いて真っ直ぐ見つめてくる娘に、松陽は悲しげに微笑む。
「ですが私は、結局貴女にこんな業を背負わせることしかできませんでした……」
「……父、さん……」
「私は父親失格ですね……与えるものは幸せでも何でもない。貴女を苦しめる真実しか与えられませんでした……」
「………………」
黙って俯きがちになる松陽。こんな父を見るのは初めてで、どう声をかけていいのかわからなかった。
でも……それでも……。
「……やめてよ」
「………………志乃……」
「そんな事、言わないでよ……!両親の正体が何だろうがあんたが勝手に責任を感じてようが、そんなのどうだっていい!私の父親は吉田松陽ただ一人だ!!今目の前にいる、アンタしかいないんだよ!!」
「!!」
松陽は、立ち上がって大声で叫ぶ娘を見上げる。その目には涙が溜まっていて、キッと鋭くさせていた。
しかし次には、目をふにゃっと緩めて松陽の胸に飛び込んだ。
「ぅうっ……ぐすっ、う、ぅっ……」
「……志乃」
「父さんッ……父、さん……!」
泣きつく娘の背中を摩り、落ち着かせようと試みる。
娘を悲しませてしまうなど、本当に自分はダメな父親だ。しかしまたそう言えば、きっと彼女は怒るだろう。自分は娘を愛していて、娘もまた自分を愛してくれているのだ。
「……志乃……私は、貴女を愛していますよ」
「……私、もっ……父さんのこと、大好き……愛してる……!」
更けた夜の空の下、親娘の愛しを囁く声が、静かに響いていた。
親バカの娘はファザコン。
自分と妻の業を知っていたからこそ、娘にまでそれを背負わせたくないと考えてしまう。それで阻害されたように感じた娘は、父と母二人の業を一緒くたに背負おうとする。
親の心子知らず、逆もまた然り。ということですね。