「えー、中等部はっと……」
那月主導の地獄のような補習を乗り越えた古城は、その足で一人彩海学園中等部に向かっていた。
うだるような暑さの中を、パーカーのフードをかぶって、若干ふらつきながら歩く。
彩海学園は中高一貫教育の共学校だ。生徒数は全部で千二百人弱といったところ。都市の性質上若い世代の多い絃神島では、ありふれた規模の学校と言える。
しかしここは所詮は人工島。慢性的な土地不足に悩まされている。従って、学校の敷地もそれほど広いとは言い難い。
体育館やプール、学食などの多くの施設は中等部と高等部の共用だ。
そのため、高等部の敷地内で中等部の生徒を見かけることはざらにあるが、逆に高等部の生徒を中等部の敷地内で見かけることはあまりない。
おかげで古城は、少し居心地の悪い思いを抱いていた。まだ向かっている最中なのだが。この辺り、実に小心者である。
そんな思いを抱きつつも古城が中等部に向かっているのは、ひとえに昨日ショッピングモール前で拾った白い財布を届けるためだった。
件の中学生、姫柊雪菜の落とし物だ。
中に入っていた学生証と、彼女が身に着けていた制服のお陰で、彼女が彩海学園の生徒であることは分かっている。
学生証に記載されていた彼女のクラスは、いみじくも古城の妹、暁凪沙と同じものだった。
「痛ってぇな、あの暴力教師……」
ズキズキと鈍痛が支配する額を抑え、古城は深く溜め息を吐いた。
凪沙の担任である
古城が彼女が出勤しているかを尋ねてみたところ、問答無用に殴られたのだった。それはもう、
……その背景には、古城が那月のことを那月〝ちゃん〟と呼び、笹崎岬を笹崎〝先生〟と呼んだという一件もあるのだが、頭を強く殴られたせいで、その辺りの記憶がすっぽり抜け落ちたらしい。
はあ、ともう一度溜め息を吐いて歩き出したところで、不意に溌剌そうな声に呼び止められた。
「おーい、古城ー!」
古城に声をかけてきたのは、肩口で切り揃えた茶髪ショートカットの活発そうな女子生徒だった。女子バスケ部の練習着を着て、手にはバスケットボールが。
背が低く体の凹凸も少ないため、よく中等部の生徒と間違われるが、実は古城よりも一つ上、彩海学園の高等部二年生の先輩である。
「ども、モモ先輩」
「おーっす、久しぶりじゃん古城!」
彼女――
予想外の衝撃につんのめる古城だったが、さほど迷惑には感じていなかった。
この先輩とは、古城自身が中等部の頃はバスケ部であったため、前から親交があった。
ついでに、
「お前、また那月先生のトコで補習かよ? マジメにやれよなー」
こういう、あまり女らしさを感じさせないさばさばした雰囲気は、中学時代から男に囲まれていた古城にとって、気苦労を感じないという意味で心地よかったのだ。
実際、春鹿はとてもボーイッシュな雰囲気の持ち主である。本人に言ったら拗ねてしまうかもしれないが。
「いやまあ、俺としてもそうしたんですけどね。ちょっと事情が……」
「ん? 事情? お前なんか体悪か――あ、悪い、無神経だったか?」
「あ、いや、そういうんじゃなくて、ホント大丈夫っすから!」
気まずそうな表情を見せる春鹿に、古城は慌てて首を振った。
春鹿は古城がバスケを辞めた理由を知っている。さすがに第四真祖などという馬鹿げた体質を受け継いだことは知らないが。
それだけに深読みしてしまったようだ。
実際は、妙な事件に巻き込まれて第四真祖などというふざけた存在になってしまったり、その弊害で昼に極端に弱くなってしまったという、それだけなのだが。
これ以上この話題を続けるのは互いのためにならないと思い、古城はいささか強引に話を変えようとする。
「そ、そういや、女バスの方はどうなんすか?」
「ん? いい感じだよ。中等部から上がってきた子もすごい逸材ばっかでさ。アタシら、谷間の世代なのかなーって。正直、ちょっと自信なくしそう……」
「大丈夫っすよ、モモ先輩なら」
古城は春鹿がどれだけ真摯にバスケに打ち込んできたかを知っている。才能はそれほどでなくとも、彼女には辛い練習でも手を抜かない心の強さがあった。
だから古城は、慰めでなくそう言った。
「自身持ってくださいよ、次期部長さん」
「言うなよそれー! あーもう緊張してきたー! センパイもさー、なんでアタシなんかを推したりするかなー」
「モモ先輩は努力家ですからね。そういうとこ、先輩もちゃんと分かってるんじゃないっすか?」
「そうかなー」
「そうっすよ」
「そっか。……うっし、やる気出てきた! 頑張るぞー!」
意気込んで去っていく春鹿の背中を見送りながら、古城は一抹の寂しさと羨望を感じていた。
吸血鬼の身体能力は他の魔族と比べれば脆弱とはいえ、普通の人間のそれより遙かに高い。
そんな古城が普通の高校生に交じってバスケをプレーするなど、アンフェアにもほどがある。スポーツマンシップに反するし、古城自身そういうことはしたくない。
とはいえ、そんな理屈で古城がすっぱりと諦められるかと言えば、それはまた別の話。理性と感情は別物だ。
夏休みには大きな大会もあった。部員たちがそれに向けて必死に練習する姿を、何度か古城も目にしていた。
その度に古城は、寂寥感と羨望の念を抱いてきたのだ。
「……ったく、今更何言ってんだか俺は」
頭をガリガリと強めに掻いて、古城は再び中等部の校舎に向けて歩き出した。
§
「すまんな、暁。笹崎先生は今日は来てないそうだ」
「あ、そっすか……。ありがとうございました」
顔見知りの老教師にそう言われて、古城の計画はいきなり頓挫した。
老教師に礼を言い、職員室を後にする。
しばしぼーっとしたまま歩くこと数分。古城は渡り廊下の柱にもたれて、ぼんやりと校庭を眺めていた。
面倒なことになった、と古城は思う。
出来ることなら、この財布はさっさと持ち主に返してしまいたかった。短気な中学生に誤解を受けて、変な槍で突き殺されたくはないし、現金が入った財布なんていつまでも持ち歩いていたくはない。
「せめて連絡先が分かるものでも入ってればな……」
呟き、古城は拾った財布を開いてみる。高級品という訳でもないが、少なくともその中身は確実に古城の財布より多かった。古城の財布に諭吉さんはいない。
中学生より小遣いの少ない
ありふれた既成品からこのような匂いがするということは、これは持ち主の残り香なのだろう。香水のようなものではなく、柔らかく心地いい香りだった。
まあ要するに、女の子の匂い、ということなのだろうが――
無意識にそんなことを思った瞬間、古城は激しい喉の渇きを覚えた。非常によくない兆候だ。
「……っ」
微かに呻き、思考を切り替えるために校庭に視線を移し、そこには自主練習中の運動部員たちの姿があった。
校舎の影ではチア部のチアリーダーたちが、テニスコートでは女子テニス部が部内で練習試合をしているらしい。ひらひらと揺れる丈の短いスコートを見て、ついつい昨日の姫柊雪菜のことを思い出してしまった。
ワゴン車の上に立った彼女を襲った突然の島風。それによって露出した彼女の綺麗でしなやかな筋肉の付いた脚と、その付け根のパステルカラーのパンツ。
そして、スカートを押さえて顔を真っ赤にしていた姿。色々と得体の知れない部分もあったが、実際綺麗な娘ではあった――
「う……」
不用意にそんなことを考えてしまい、今度こそ致命的な渇きが古城の全身を襲った。
まずい、と、古城は自分の口元を覆った。
耐えがたいほどの飢餓感が全身を支配し、犬歯が熱く疼く。
傍目には古城が吐き気を堪えているように見えただろうが、古城を苦しめていたのは単なる生理現象。ただし吸血鬼特有のそれ、吸血衝動だった。
吸血鬼と呼ばれる種族は、なにも血を吸わなければ飢えを満たせないわけではない。生命維持だけなら飲食だけで十分に賄える。
確かに血を吸うことで魔力の補充はできるし、血を触媒にした魔術も使えるが、それはあくまで副産物。
吸血鬼が吸血衝動を引き起こす要因は、至って単純。性的興奮。つまりは性欲だ。
「くっそ、勘弁してくれ……」
忌々しげに呟くと同時に、鼻の奥から熱い液体が流れ出してくる。
鼻血だ。そしてそれは、古城の吸血衝動を追い払うきっかけとなり得る。
要するに血の味が恋しくなるだけなのだから、自分の血でもいい訳だ。
古城の昔からの変な体質――興奮すると鼻血が出るという者のおかげで、古城は正気に戻れていた。
しかし、この体質はありがたいが、格好悪いことこの上ないな――そう思い、古城は深々と嘆息する。
女子の財布の匂いを嗅いで、いきなり鼻血を吹きだした男子。ほとんど変態だが、それが今の古城である。
と、そこで古城は、新たな人の気配を感じた。
今の姿を見られたくはないな、と少しばかり焦っていた古城は、近付いてきた女子生徒の顔を見て、思わず呆けた表情を晒してしまった。
「女子のお財布の匂いを嗅いで興奮するなんて、あなたはやはり危険な人ですね」
「姫柊、雪菜?」
§
「はい。なんですか?」
古城の背後に立っていたのは、ギターケースを背負った制服姿の少女だった。少し大人びた顔立ちの女子中学生が、蔑むような目つきで古城を見下している。
「…………」
いつの間にか、吸血衝動はきれいさっぱり消え去っていた。
鼻血もどうにか収まっている。犬歯が元の長さに縮んだのを確認し、古城は口元を覆っていた手をどけた。
「どうしてここに?」
「それはわたしのセリフだと思いますけど。暁
「ぐおっ……。いや、俺はだな、お前にこの財布を返そうと思って」
年下の女の子に冷静に指摘されると、結構心にくるものがある。
何とか持ち直し、手に持っていた財布を少女に差し出す。
少女は、はあ、と呆れたような溜め息を吐いた。
「それで匂いを嗅いで、鼻血を出すほど興奮したんですか?」
「ちげえよ。そうじゃなくて、昨日の姫柊のことを思い出してだな……」
雪菜が差し出してきたポケットティッシュをありがたく受け取り、口元を拭く。意外と律儀な性格のようだ。もしくは親切な。
そうしながら何気なく発した古城の言葉に、雪菜は、え、と戸惑うような声を出す。彼女は一瞬、精巧な人形のように硬直し、
「…………っ!?」
爆発的に顔を赤く染め、無意識にスカートの裾を押さえて後退った。
昨日、古城と遭遇した際に起きた一連の悲劇を思い出したのだろう。彼女自身が起こした、古城が性的興奮を覚えるであろう出来事を。
古城に、初対面の男子に、二度もパンツを見られたことを。
「き、昨日のことは忘れてください」
「いや、忘れろと言われても……」
「忘れてください」
「……分かった。分かったから、ギターケースに手をかけるのはやめろ。そのケース、なんかあの変な槍が入ってるんだろ?」
自分を睨んで背中に手を回す雪菜に、古城は気だるく息を吐いて見返した。
そして、付け加える。
「それに、その槍があったとしても、お前じゃ俺に勝てないよ。絶対に」
「…………っ!」
たちまちのうちに、雪菜は柳眉を逆立てた。そして今度こそギターケースから槍を抜き放ち、主刃と副刃を展開させて古城に向かって真っすぐに突き出す。
対する古城はあくまで自然体。
心臓の辺りに突き込まれる銀色の槍の穂先を冷静に見つめ、右手のみ
特に光技は使っていない。
雪菜の攻撃はまっすぐで迷いがなく、また鋭く速いものだった。
それ故に、その軌跡は予測しやすい。まだまだ甘い。
とりあえず前みたいに武器を奪おう、と思って手を伸ばしたところで、雪菜の思ってもみなかった次の動作に、古城は思わず目を見張った。
「ふっ!」
短く呼気を吐き出した雪菜が、払いのけられた槍を両手で手繰り、右から左へ流れる横薙ぎへと繋いでみせたのだ。
まるで、古城に払いのけられることを予め予測していたかのように。
だが、それすらも読んでいたかのように、空振った槍を再び、今度は足に向かって突き出してくる。
(どうなってんだ、この娘は? 未来でも見てるのか?)
さしもの古城もこれには怪訝な表情を見せた。
前世の自分、剣聖フラガは0,4秒先の未来を見る敵と戦ったことがある――気がするのだが、この少女からも同じような雰囲気を感じる。
そしてその予想は、実は的を射ていた。
剣巫特有の技術、霊視による未来予測が可能とする動きだった。
しかしそれでも、古城を捉えることはできない。
雪菜の放つ攻撃は、その全てが古城の右腕一本に尽く防がれ、かわされ、あるいはいなされていく。
「くっ――」
微かに呻く雪菜。
古城はその隙に、開いた左手で虚空に一行の魔法文字を書き綴った。
綴られた文字は、こうだ。
『そは形なき刃 そは不可視の銘刀 引き裂く者よ、出でい』
第一階梯闇術、《
古城が綴られた文字列を指先で、トン、と叩いた瞬間、威力の低い、しかし人一人を飛ばすには十分な突風が放たれた。
突如吹き荒れた突風に対し、咄嗟に槍を掲げて防御態勢を取ったのはさすがといえよう。
だが、それまでだ。いくら防いだとしても、風を完全に消し去ることはできない。
そう高を括っていた古城だったが、その予想はまたしても裏切られた。
古城が放った突風は、雪菜の持つ槍に触れた片端から、空気に溶けるように霧散していったのだ。
(おいおい、マジであの槍なんなんだ!? 昨日は吸血鬼の眷獣斬ってたし、ホントに槍かあれ?)
もしや、古城の持つサラティガ並の、銘槍だったりするのだろうか。
動揺しながらも、古城の手に迷いはない。
右手の
それで、終。
拳風に乗せて放たれた
「きゃっ!?」
意外と可愛らしい声を上げた雪菜は、暴風の煽りを受け、他愛無く渡り廊下にペタンと尻餅をついた。槍も手放され、傍に転がっている。
これで終わりか、と大きく息を吐き、古城は座り込む雪菜を見下ろす。
「もういいだろ、姫柊? 俺はお前より強い。いい加減それを認め――っ! ちょっ、姫柊!」
「……はい? どうかしましたか?」
悔しそうに唇を噛んでいた雪菜だったが、急に慌て出した古城の態度を訝かしんで訊いた。
だが古城は、まるで何か見てはいけないものを見てしまったかのように、気まずげに顔を逸らしたままだった。
首を傾げる雪菜。古城は、必死の形相で右手の人差し指を雪菜に、もっと言えば座り込む雪菜の腰の辺りを指した。
「…………?」
古城の指の向きを追って視線を降ろしていった雪菜は、そこでとても大事なことに気が付いた。
雪菜は、古城の起こした暴風にバランスを崩されて、古城に体を向けて渡り廊下の冷たい床に尻餅をついた状態だった。
女の子らしく内股になって、両手を体の後ろについて、滑らかな足を古城に突き出すような形で。
まあ、何が言いたいかというと。
要するに、丸見えなのだ。足の付け根を覆う、一枚の布が。
「……~~~~!」
言葉にならない声を上げて、先程の繰り返しのように顔を赤くしてスカートの裾を押さえる雪菜。しかし、遅きに失した。
そもそもそれを指摘したのは古城なのだ。なのに、古城に見られていないと思うのは楽観的にもほどがあるだろう。
それでも、問わずにはいられなかった。
「……先輩。見ましたか?」
「不可抗力だろ、今のは!」
「見ましたか?」
「ぐっ」
「見ましたか?」
「……はい。見ました」
気圧された、というよりは、涙目になった雪菜に脅し掛けられるような形で、古城は正直に言った。
すると雪菜は、元から赤くなっていた顔をさらに赤く染めて、
「……何か、言うことはありませんか……?」
古城は、口にすべきことを迷いに迷って、
「……今日は、昨日履いてたヤツとは、違うパンツなんだな。その、青と白のストライプも可愛いとおも――」
「――若雷!」
「ぐほおっ!?」
腹部を襲う強烈な衝撃と激痛。喉の辺りまでせり上がってきた朝食を何とか押し戻し、古城は床にもんどりうって寝転がった。
ゲホゲホと咳きこみながら、古城は今しがた見た光景を反芻する。
しましまだった。青と白の、しましまだった。
(丁度制服と同じ色なんだよな。可愛いな……)
そう思い浮かべた瞬間、鼻の奥に疼きを覚えた。
予想通り、鼻腔を伝う赤い液体と、口の中に広がる甘く金臭い味わい。
蹲って鼻血をだらだらと流す古城を、雪菜は醒めた目で見下していた。
その理不尽を呪いつつ、古城は差し込んでくる日差しに顔を顰め、仰向けになった。
「……勘弁してくれ」
唇を歪め、古城はそう口にした。
§
「獅子王機関、って何だ……?」
「知らないんですか?」
それから数時間後。市内のとあるファストフード店にて。
古城と雪菜は場所を移して話を再開したのだった。
ハンバーガーを両手で持って、小さな口で啄むように口に運ぶ雪菜の食べ方は、見ていて和む。
しかし、彼女がこういう風にファストフード店への来店に慣れているというのは、少し意外だった。どことなく、いいとこのお嬢様っぽい雰囲気がある。
聞けば、彼女は獅子王機関とやらの攻魔師育成機関、高神の森とかいうところで修業を積んできたらしい。
そんなことを教えられても、そもそも獅子王機関のことを古城は知らなかった。
「獅子王機関とは、日本国の内務省、国家公安委員会に設置された特務機関で、大規模な魔導災害やテロを防ぐのが主な役割です」
「ほーん」
「もともとの
「ふーん」
「そこで、獅子王機関に属する剣巫であるわたしが、あなたの監視任務についたということです」
「いや待てそこがおかしい」
小難しい説明は聞き流していた古城だったが、さすがにそれは看過できなかった。
獅子王機関とやらが大規模魔導災害やテロを防ぐのが主な役割なのであれば、何故自分などという人畜無害な一般人に監視役を付けたりなどするのか。
まあ確かに、世界最強の吸血鬼・第四真祖などという馬鹿げた体質を受け継いだりもしたが、今の古城はそれを振るうことなどしていないし、する気もない。
そんな自分に、物騒な槍を持った監視役を送るなど、あれか。嫌がらせか。
いっそのこと、何か本当に起こしてやろうか……。
八つ当たり気味にそんなことを考えていると、ふと雪菜が、何か警戒するような視線を向けていることに気が付いた。
「なんだよ?」
「いえ、何か今、先輩が良からぬことを考えているような気がして……」
「お前はエスパーかなんかか!?」
本気ではなかったとはいえ、あまりにモラルに欠けることを考えていたのは事実だった。
焦りを露わにする古城に、雪菜は今日何度目かの溜め息を漏らして、
「わたしたち剣巫は霊視という力で対象の思考を一部読んだりできるのですが……先輩の場合は、分かりやすいだけだと思います」
「ぬぐ……」
要するに、単純、と言われた訳だった。
年下の、それも可愛い女子に言われると、そこそこ凹む。
苛立ちを言葉にして吐き出すように、古城は舌打ち混じりに愚痴った。
「ったく、なんで俺なんかに監視が付いたりすんだよ……。無害な一般人だろうが」
「無害、という所は分かりませんが……少なくとも、一般人ではないと思います」
「その根拠は?」
「わたしの攻撃を軽々と捌くような人が、ただの一般人であるわけがありませんっ!」
どこか拗ねたような表情と口調で言う雪菜。
その子供っぽい様子に、思わず少し微笑ましい気分になる。
それはともかく、と古城は憤慨して、
「つうか、俺が何かした訳でも、しようとした訳でもないだろ。いくら第四真祖だからって過剰じゃないか?」
「え、先輩……知らないんですか?」
「は? 今度はなんだよ?」
「吸血鬼の真祖は、その存在自体が一国の軍隊と同じ扱いなんです」
「は?」
何だと? 信じ難い情報に、思わず目を瞬く古城。
どういうことだ。自分たちは、というより他の真祖たちは、一体どういう滅茶苦茶な連中なのか。
だが、若い世代の吸血鬼の眷獣でさえ、そこらの戦闘機では足元にも及ばないのだ。〝旧き世代〟の眷獣であれば、空母をまともに相手取っても勝利は揺るがない。
確かに、真祖たちの強大な魔力と眷獣があれば、多国籍艦隊の一つや二つ簡単に潰せるだろう。
そういった意味では、世界にとって脅威の存在であることは間違いない。
まだ見ぬご同輩たちに思いを馳せ、また同時に、俺を巻き込むな、という苦情も含めて色々と言いたいことがある。
「俺は他の真祖どもとは違う。別に殺戮とか戦争を望んじゃいないし」
「そうですか……ですが、それでも先輩が強力な力を持っていることに変わりはありません」
「ぅ、そう、だな……」
古城は、力なく眼を逸らした。なんとなく視線を合わせづらい。
だが雪菜は、そんな古城を笑うこともなく、
「それに、今は考えていなかったとしても、これからどうなるかは分かりませんし」
「おい! 信用ないな、俺!」
思わず叫ぶ古城。その言われ様は心外だった。
ちっ、と、舌打ちをしつつ、古城は雪菜を見て、ふと気になったことを口にしてみる。
「……しかし、獅子王機関ってのは随分と情報が早いな。俺が第四真祖になってまだ三ヶ月程度しか経ってないってのに」
「はい? 第四真祖に、
「ん? ああ、そうだ」
何故か意外そうな顔をされた。
獅子王機関が古城のことを知っているのであれば、そのことも知られていると思ったのだが。雪菜に伝えられていないだけか。
と思ったが、違うようだ。何やら雪菜は混乱したような表情で、
「あ、あの、先輩? その言い方ではまるで、先輩は元は人間だったという風に聞こえるのですけど……」
「聞こえるも何も、実際にそうなんだよ。俺は三ヶ月前、四月まではただの――と言えるかはちょいと怪しいが、普通の人間だった」
「え、え? でも先輩は、真祖なんですよね?」
「一応、そうだな」
「それは、あり得ません」
「は、なんでだ?」
混乱した様子から一転、急に断言した雪菜に戸惑いを見せる古城。
そんな古城に、雪菜はまるで聞き分けない子供に言い聞かせるような口調で、
「いいですか、先輩? 真祖とは、遥かな太古に神々から不老不死の呪いを受け、その代わりに強大な魔力と強大な眷獣を授かった方々を指します」
「それぐらいは俺も知ってるよ」
年下の少女に諭されるように言われて、古城は唇を歪めた。馬鹿にすんな、と言いたげだ。
けれど雪菜は言葉を止めることはしなかった。
「人間が真祖になるには、神々から直接呪いを受けるしかありません。先輩、あなたに神々の知り合いがいるとでも?」
「いや、さすがに神様の知り合いはいねえよ。んな、コネもないしな」
「なら、どうやって第四真祖になったっていうんですか? 他に、人間が真祖の力を手に入れる方法なんて……」
そこまで言って、雪菜は青褪めて言葉を切った。そして、恐怖を宿した目で古城を見てくる。
思い至ったのだろう。呪いを受ける以外に、人間が真祖に変異する唯一の方法に。
「同族喰らい……。先輩、あなたはまさか、
「喰ったって……人をそんなゲテモノ喰らいみてーに言うなよ」
フン、と、面白くなさそうに鼻を鳴らし、
「俺は押し付けられただけだ。この体質も、眷獣もな」
「押し付けられた? 一体誰に?」
「アイツ――先代の〝
「先代の、〝
雪菜は驚愕し、切れ長の猫のような目を見開いた。
そして、怒涛の勢いでまくしたてようとする。
「何故、先代の第四真祖が、先輩を後継者に選ぶんですか!? 先輩は先代の第四真祖とどういった関係で!? そもそも、どういった経緯で知り合ったんですか――!?」
「いや、それは――」
向かい合って座っていたテーブルに身を乗り出して迫ってくる雪菜を押し返そうとした古城を、唐突に、激しい頭痛が襲った。
コーヒーカップを手に保持していることすらままならない激痛だ。万力で締め付けられているような錯覚を覚える。目の端には涙すら浮かんでいる。
古城は思わずテーブルの上で頭を押さえて蹲ってしまった。ぎりっ、と奥歯を噛み締める。
「せ、先輩?」
いきなり黙りこくってしまった古城に、ただならぬ事情を察知した雪菜は心配そうに声をかけた。
激痛に喘ぎつつも、古城は何とか言葉を返す。
「悪い、姫柊……。俺、には、その時の記憶が、綺麗さっぱりないんだ……。無理に思いだそうとすれば、このザマだ……ぐっ」
「そう、なんですか? 分かりました、なら仕方ありませんね」
納得したように引き下がる雪菜を、古城は驚いたように見返した。
「信じて、くれるのか……?」
「先輩からは、嘘をついているような感じがしませんでしたし、それに――」
「それに?」
「なんとなく、思ったんです。暁先輩は、そんな嘘をつく
そう言って、雪菜は淡く微笑んだ。
まるで蕾が花開いたような微笑に、古城もつられて微笑んだ。
§
「おかえり、古城君!」
「おう。ただいま、
市内のとある高層マンションの一室。そこが、古城の自宅だった。
玄関で靴を脱いでいた古城を出迎えたのは、幼さを残した元気な少女の声だった。
古城が視線を向けた先には、笑顔で手を振る活発で可愛らしい少女の姿が。
彼女の名は、
大きな瞳が印象的な、表情の豊かな少女である。
結い上げてピンでとめた長い髪は、一見ショートカット風にも見える。
顔立ちや体つきは、まだ少し幼い印象があるが、中学生の平均からはそう大きく外れてもいないだろう。
今の凪沙の格好は、ショートパンツにタンクトップ一枚というあられもない服装であった。後ろで一本に束ねられた黒髪が、今日も元気に揺れている。
手にはお玉が握られている。時刻は午後6時ごろ。どうやら、晩御飯の支度をしていたようだった。
「遅かったね、古城君。今、ご飯の支度してるから、ちょっと待っててねー!」
「分かった。サンキューな」
パタパタとスリッパの音を響かせて台所に引っこんでいく凪沙を見送り、古城も部屋の中に入る。
現在の暁家は、両親が離婚し母・深森と古城・凪沙兄妹の三人暮らし。しかし母は研究職で、ほとんど職場から帰ってこないため、実質は兄妹の二人暮らしである。
また、古城はそこまで家事ができない。そのため、炊事や洗濯などのほとんどは凪沙が一人で担っている。
大して物のない自室に入り、大きく息を吐き出す。
そして、今日起こった出来事を反芻した。
獅子王機関とやらから派遣されてきた、監視役を名乗る少女、姫柊雪菜のことを。
古城の熱望してやまない、平穏な生活。どうやらその未来図に、少しだけ暗雲が立ち込めてきたようだ。
はあ、と、溜め息を吐いて台所の方に向かう。
そこでは、凪沙が鼻歌を歌いながら、料理の途中だった。もういい匂いが漂ってきている。
楽しそうに鍋をかき混ぜていた凪沙は古城が来たことに気付き、パッと振り返った。
「あ、古城君。もう待ちきれなくなっちゃった? ちょっと待ってね、もうすぐできるから。あ、そうだ、手を洗ったらお皿出しててもらってもいい? 大きいの二つと小さいの四つね。洗濯物も中に入れといてくれるかな。後から洗濯もするから、古城君も洗濯するものがあったら、今の内に出しといて。それと――」
「待て待て、凪沙。一度に言うな。一つずつ言っていけよ」
この口数の多さが、優秀な妹、暁凪沙の唯一ともいえる欠点だった。
だが基本的に、それ以外はできないことはない。家事はもちろん万能、勉強の方も成績優秀、部活も頑張っている。
愚鈍な兄とは違って、聡明でもある。
妹から下された司令を、一つずつ処理していた古城に、ふと凪沙が話しかけてきた。
「そう言えば古城君。今度、うちのクラスに転校生が来るんだってー」
「……へ、へぇ」
あまりにジャストタイミングな発言に、古城は一瞬固まった。
「凪沙も職員室で紹介されたんだけどさ、すっごく綺麗な娘だったよ! 睫毛も長くて髪もサラッサラで、背筋もぴしっとしてて声も綺麗で――」
「そ、そうか」
「でさ、古城君。古城君、あの娘と知り合いなの?」
「うぇ!?」
「あの娘と会ったときさ、古城君のことを聞かれたんだー。『暁先輩の妹さんですよね』って。それで、今日来たはずの転校生ちゃんとどういう関係なのか、凪沙気になるなー」
凪沙の言葉を無視し、古城は腕を組んで考え込んだ。漠然と嫌な予感がする。
「で、お前はなんて答えたんだよ?」
「一応ちゃんと説明しておいたけど。あることないこと」
「なにぃ?」
「ウソウソ、本当のことしか話してないから。前に住んでた街のこととか、成績とか、好きな食べ物とか、好きなグラビアアイドルとか、あとは矢瀬っちとか浅葱ちゃんのこととか」
淀みなく答える凪沙。古城は頭を抱えた。
「お前な……なんでそんなことを初対面の相手に話すんだよ?」
「だって可愛い子だったし?」
悪びれない。予想された答えではあった。
ただでさえ誰かと喋りたくて堪らない性格のこの妹に、秘密を守らせるのは至難の業なのだ。そのくせ本当に言いたいことは決して口にしようとはしないのだが。
「それよりも古城君! 結局、あの娘と古城君はどういう関係なの!? いつ会ったの? どこで会ったの? なんで知り合ったの? また会うの? 二人はどこまでいったの――!?」
「だー、うるせぇな! 何にもねぇよ!」
興味津々と言った体で瞳を輝かせて質問攻めにしてくる妹をあしらいながら、古城は明日からの日常に思いを馳せ、深々と溜め息を吐いた。
「勘弁してくれ……」
ようやくのモモ先輩です。古城の先輩です。
凪沙ちゃんです。こんな妹ほしいです。
書いてる途中で一巻が紛失し、途中から雑になっているかもしれません。温かく見守っていただけると幸いです。