何はともあれ第二章、戦王の使者編、スタートです。
2‐0 序章 ―Intro―
「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……やってくれたな、人間ども!」
しゃがれた声で口汚く罵りながら、豹頭の男は深夜の街を疾走する。
彼は武器の闇取引を行うために密入国し、先刻
七人の仲間たちを盾に使って生き残り、自爆攻撃で敵を仕留めたはいいが、男のダメージも並ではない。
全身の銃痕、催涙ガスによる目や鼻の痛み、呪力弾の攻撃を受けたことで、せっかくの獣人の再生能力も阻害されてしまう。
「許さんぞ、やつら……必ず後悔させてやる」
炎に包まれる倉庫街を睨み、男は低く呟く。
月明かりに照らされた夜の街並みへと視線を移した男の手には、起爆装置となっているリモコンがあった。
東京都絃神市――太平洋上に浮かぶ巨大な人工島。人類と魔族が共存する、聖域条約の産物。〝魔族特区〟だ。
男の生まれは欧州、第一真祖の統べる〝
絃神島への恨みは特別ないが、〝戦王領域〟は別だ。
すでに動き出しているこの計画が成就すれば、あの忌まわしい戦王への反逆の狼煙となるだろう。
市民がいくら犠牲になろうが、結局全て消えてしまうのだ。どうなろうと結果は同じ。
近々訪れる滅びの瞬間も知らず、能天気に騒ぐ市民たちに憐れみすら覚えながら、男はリモコンのスイッチに手をかけ――
「同士の仇だ、思い知……――っ!?」
確かに触れたはずのスイッチからは、何の手応えも返ってこなかった。
そこにはリモコンなど影も形もなく、代わりというようにどこからともなく伸びた銀色の鎖が絡み付いている。
呆然と己の右手に目を向ける男の耳に飛び込んできたのは、どこか笑いを含んだ舌足らずな声だった。
「曲がりなりにも神々の鍛えた〝
「何っ!?」
声の主は若い女。男の立っていたビルの屋上。給水塔の上。
豪奢なドレスを身に纏った、幼女と見紛うばかりの小柄な女だ真夜中だというのに日傘を差し、あどけなくも整った顔立ちは恐怖すら感じさせる。
男は心の底から湧き上がってきた恐怖に、無我夢中で鎖を引き千切ろうとするが、逆に鎖に引きずられてしまう。
獣人の腕力を以てしてもびくともしない拘束に目を見開く男を嘲るように、女は殊更にゆっくりと手を上げた。
女の一挙手一投足から目を離せない。男が呆然と見つめる中、女は指を一つ鳴らした。
男の周囲の空間に、大きな波紋のように高密度の魔方陣が出現した。そこから吐き出された無数の銀鎖が男の全身に絡みつき、完全に捉える。
「馬鹿な! 空間制御の魔術を、たった一人で……そうか! お前、南宮那月か! 魔族殺しの、〝空隙の魔女〟……!」
「ふん……そういう貴様は、察するにクリストフ・ガルドシュの部下といったところか? 〝戦王領域〟のテロリストが、わざわざ海を渡ってご苦労なことだ」
日傘の女――南宮那月は、冷ややかに告げた。
自らの所属を言い当てられたことに硬直する男に、那月はもはや目を向けることもなく、背を向けて歩き出した。
「テロリストどもがこんな極東の〝魔族特区〟で何をするつもりだったのか興味はあるが、これ以上は教師の仕事ではないな」
肩を竦めて丸ごと放り投げるように投げやりに言って、那月はゆらり、と空間に波紋を残してその場から一瞬で転移してみせる。
彼女だからこそなせる超絶技巧。
それを目の当たりにして男は戦慄しながら、くつくつと嗤い出した。
何も変わってなどいない。今になって〝空隙の魔女〟が動き出そうとも、この島が迎える滅びの運命は何一つ変わっていないのだ。いずれにせよ、絃神島滅亡は時間の問題なのだ。
暗く嗤い続ける男を、真夏の月が、今も静かに照らしている。
§
夜明け前。東京の南方海上の三百三十キロ付近を、一隻の巨大で豪華な外洋クルーズ船が航行していた。
全長約四百フィート、豪華客船が霞んで見えるほど飾り立てられたその船の名は、〝オシアナス・グレイヴ〟。まさに洋上の宮殿とも呼ぶべき威容だ。
しかし信じられないことに、この船はあくまでも個人の所有物だった。
だがこの船のオーナーの名を聞けば、大いに納得すると同時に、こんな場所を悠々と航行していることに目を剥くことだろう。
〝戦王領域〟の貴族、アルデアル公ディミトリエ・ヴァトラー。この名を聞けば、誰しもが。
金髪碧眼の美しい青年の姿をした、吸血鬼の〝旧き世代〟の
そんな彼は、愛船の屋上デッキでカシス酒のグラスを傾けながら、ようやく見えてきた目的地を皮肉げな目で見つめていた。
「クズ鉄と魔術で生み出された紛い物の島か。……キミが居るには似合わない所だな、フラガ。いや、むしろお似合いというべきかな」
「こちらでしたか、閣下」
「ん?」
独り言のように呟く青年に、ほっそりとした人影が話しかけた。
年若い日本人の少女だ。すらりとした長身に優美な美貌、流れるような長い髪を後ろでポニーテールにした、美しい少女だ。
彼女が身に着けているのは、関西地区にある名門女子高の制服である。
そして彼女の右手には、キーボード用の黒い楽器ケースがあった。
「日本政府からの回答をお持ちしました」
「へえ? 聞こうじゃないか」
人懐っこく微笑む彼に、強力な吸血鬼特有の独特の威圧感はなく、皮肉げな色のみがあった。
「本日午前零時を以て、閣下の絃神島への訪問を承認。以降は閣下を聖域条約に基づく外交特使として扱い――つきましては、私が閣下の監視役を務めさせていただきます」
「ふぅん。まあ妥当な結論だけれど……キミって誰だっけ?」
見事な無関心さを見せつけたヴァトラーに、少女は眉を顰めて名乗ろうとするが、そのヴァトラー本人が腕を上げて遮った。
「あー、名乗らなくていいよ。可愛い男の子ならともかく、女の子の名前を覚えられる自信はないからネ」
軽薄に笑う青年。名乗りそびれた少女は不愉快げな視線を目の前の貴族に向けた。楽器ケースを握る手にぐっと力が込められる。
この楽器ケースには、彼女の所属である日本の特務機関、獅子王機関より授けられた武神具が収められている。
不老不死の吸血鬼すら完全に滅ぼしうる、彼女を青年の監視役として帯同させる理由となったものが。
にわかに気色ばむ少女を見て、ヴァトラーは愉快そうに笑った。
「ははは、いいね。このボクを相手になんともまあ。日本政府も粋なことをするものだ。……けれどね」
ひたすら痛快そうに笑っていたヴァトラーが、不意にスッと目を蛇のように細めた――瞬間、少女の肌がゾッと粟立った。
ヴァトラーの全身から発せられる、物理的な圧力にも似た呪力と、卓越した攻魔の技を持つ少女だからこそ感じ取れる、アメジストもかくやな鮮烈な紫色の
少女の反骨心を徹底的にへし折り、ヴァトラーは先程までは皆無だった威厳を滲ませて続ける。
「分を弁えろ、人間。このボクに剣を向けるのがどういうことか、ちゃんと考えてから行動しなよ」
それだけ言ってヴァトラーが視線を逸らすと、少女はその場に崩れ落ちてしまった。尋常ではないほどの脂汗が次から次へと溢れてくる。
ヴァトラーはもはや、そんな少女には一欠片の興味も向けていなかった。
洋上にポツリと浮かぶ、絶海の孤島。超大型浮体式構造物によって構成された
龍脈を制御するという目的のために造られ、今は魔族の生態や能力についての研究を行う学究都市。絃神島〝魔族特区〟。
それを見据えて、ヴァトラーは唇を吊り上げた。
「……そう。ボクを殺せるのは、キミだけだ。キミだけが、ボクの不死身を断ち切れる」
幾度も夢に出てくる、
地上の恒星が如き皓の
万物を断ち切り、この世の何よりも硬いと謳われた自分の鎧すら断ち切り、ついには世界を断ち切った
目を閉じれば、
そして、それを思い出すたびに、ヴァトラーの胸はどうしようもなく高鳴り、まるで熱に浮かされたように脳が痺れる。
「待っていてくれ、フラガ。もうすぐ、もうすぐだから……!」
少女とヴァトラーしかいない船の
洋上の棺桶の名を冠された船が、災厄を乗せて、少しずつ少しずつ、絃神島へと近付いて行く。
ではまた。